その5
「春ちゃんならさっき用事があるってどっか行ったぞ?」
図書室を出て一路武道場へ足を運んだ僕とクロは、柔道着姿でタオルを首から引っ掛けたまま出迎えてくれた宗也から春霞先生が不在である事を告げられた。
「そっか。うーん、タイミングはずしたな」
「ま、しゃーねーだろ。ところで、ちっとは進展してんのか?」
ゴシゴシと顔の汗を拭きながら宗也が尋ねてくる。むっと汗の臭いが広がり、隣にいたクロがささっと僕の陰に隠れた。
「まあね。ちょっと前情報と違う部分も出てきたから、整理しないといけないけど」
「ほう? じゃ、ちょうどいいじゃねーか。整理しながら俺に聞かせろよ」
「あー……まあ、いいか」
宗也の弁では春霞先生もいずれ戻ってくるという事なので、暇潰しもかねて今日一日の事を宗也に話す事にした。
事実確認と新たに生じた疑問点。各々に何かしら裏がありそうな言動。そして奥山宏美に対する態度等。
「――とまあ、こんな感じだな」
一通り説明すると、宗也は片手で顎の辺りをさすりながら、
「んー。聞いた感じだと、金井昌子が一番怪しそうってとこか?」
「ま、そう考えるよね。結構女優みたいだし。けど、なんか金井昌子じゃないような気がするんだよね」
「そうは言うが、事件の日の早朝に普段とは違う行動を取ってるんだろ? 偶然っていやあそれまでだろうけどよ」
事件当日に限って朝早くに家を出た事を言っているようだ。確かに、朝の五時に金井昌子の家を出れば、犯行時刻よりずっと前に現場へ行く事が出来る。
「確かに早朝の行動は気になるよ。突っ込み入れた時にそれなりの反応もあったし。けど、彼女は別の事にも反応してたんだよね」
「ああ、黒猫ちゃんが言ったことだろ?」
「に?」
宗也に視線を向けられ、クロがピクンと反応を示す。そっと宗也がクロへ向けて手を伸ばしたが、クロはささっとその手の届かない範囲へ逃げてしまった。
彼女は男の汗の臭いが好きではないので、シャワーでも浴びない限りは触らせてもらえないだろう。
「黒猫ちゃんにはまだ聞いてないのか?」
そうとは知らずにちょっと傷付いた表情を浮かべながら、宗也が質問してきた。
「うん。出来れば新聞部の部室で聞こうと思ってるんだ。人目を避けておきたいし、クロもその件については聞かれるまで答えるつもりがないみたいだから」
「そうか。ならそうした方がいいだろうな」
「うん。……で、逆に一番候補から外せるのが向坂絵梨だと思う」
彼女と話をした限り、僕は奥山宏美の件に関しては無関係の可能性が高いと踏んでいる。
「ま、本心かどうかは別として『手間が省けた』なんて台詞は自分ではない誰かのおかげって言ってるようなもんだしな。それが計算の上でってんなら話は別だが、違うんだろ?」
「感覚的なものでしかないけど、あれは思わずの言葉だと思うから、自分で自分に暗示をかける勢いでなければあそこまで自然には出てこないと思うよ。それはそれで問題だとは思うけど」
「いずれは何かするつもりだったって事だもんな。しっかしまあ、ずいぶんと恨み買ってんだな今回死んだ人」
がしがしと頭をかきながら、宗也が溜息混じりに言う
「会う人会う人に嫌悪感を示される人も珍しいね」
それに関しては僕も全面的に同意せざるを得ない。話を聞けば聞くほど、奥山博美はおかしな人物だ。
何が彼女をそこまでの存在にしたのか。今となっては分からない。死者は語る口を持たない。語る事が出来るのは生者だが、生者は他者の本質を語れない。
主観と感情に塗れたものでは、本質を探る事など出来はしない。
「そんな彼女が執心していたのが天夜先生なわけだけど、はてさてどういう経緯でそういう関係になったのか」
「普通に声かけたんじゃねーの? なんか黙ってれば結構イイ女だったらしいぜ。胸も大きかったって話しだしな」
「ん? 宗也それって、奥山宏美もグラマラスだったって事?」
「ああ。二年の先輩が惜しい身体を亡くしたとか言ってたぞ? ってか、奥山宏美『も』ってなんだよ『も』って」
「いや、飯島詩織も向坂絵梨も金井昌子も、そういった意味ではすごく女性的な体付きしてる……んだけど……?」
自分で言って、はたと気が付いた。天夜先生が関係を持ったといわれている人物は、その全てがグラマラスな体をしている。考えてみれば、キーホルダーを渡された静先輩だってそうだ。
つまりは――
「天夜先生は巨乳フェチって事だな」
「……なあ宗也。教育委員会の電話番号って何番だっけ?」
「いやそんなもん知らねえ――」
「×××-△△△△よ」
「「うおあ!」」
突然会話に乱入してきた声に、僕と宗也は文字通り飛び上がる。すぐさま弾かれたバネの勢いで振り返ると、
「に」
「やあやあクロちゃんじゃないか。久しぶりだね」
ただ一人、クロだけが何事もなかったかのように手を挙げて乱入者を迎えて頭をナデナデされていた。
クロの頭を撫でているのは、小柄な彼女よりもさらに小柄な、
「は、春霞先生いつからそこに?」
学校指定のジャージを着込んだ、小学生と言われても信じれるほどの容姿をした体育教師。春霞八重先生がいた。
「いつからって、まさに今よ? 何かシロっちと宗やんがヒソヒソと怪しかったから、気配消して近づいてみました」
くっくっくと喉の奥で笑うような声を出して、春霞先生が歯を見せて笑う。その名前を表すように尖った八重歯がキラリと光り、僕は意味も無く寒気を覚えた。
「学校の中で気配消して行動しないで下さい。心臓に悪いですよ」
「あら、クロちゃんはすぐに気が付いてたわよ?」
言って、春霞先生が子供がそうするように『ねー』と同意を求めると、クロもまた『にー』と調子を合わせていた。
クロを基準にしないで欲しい。
「まあそれはそれとして、本当に何をヒソヒソと話していたのかしら?」
「え? あ、えっと、ちょっと昨日の事件に関して調査を。新聞部として」
「……そう」
それまでのニコニコした表情が一転、辛さを噛み締める様に沈んだ表情となる。
「春霞先生。先生は昨日、事件があったときグラウンドで平野と話してたんですよね?」
「え? ああ、うん。一生懸命練習してたからさ。競技は違うんだけど昔の自分を思い出しちゃって」
どこか遠くを見るように、春霞先生の視線が僕から外れ、すぐに戻って来た。
「ほら、平野って私ほどじゃないけど背が低いほうでしょ? けど競技は走り高飛びだから、どうしても身長差っていう壁があるのよ」
確かに、平野明海の身長は高くない。そういえば、走り高跳びは身長が高い方が有利なんだと聞いた事がある。高いものを飛び越えるのだから当然といえば当然だ。
「でも、そんな事に限界を感じちゃったら跳べないのよ。だから――」
すっと、春霞先生は人差し指を立てて頭上へ伸ばした。釣られて、僕も宗也も上を見上げ、武道場の天井眺める。
「ここじゃ見えないけど、空へ飛び込む気持ちで跳んで見ればって言ったわけ。……どう? いい話じゃない?」
にひひと悪戯少女のように春霞先生が笑う。
そういう事は自分で言っちゃ駄目だと思うんですけどね。
「なによー。ぶーぶー」
ぷくっと頬を膨らませるさまは、思わず頭を撫でたくなる。けれど僕はそんな愚行は犯さない。そんな事をしたやつがどうなったのか、嫌というほど見ているのだ。
「ま、でもそんな時だったのよね。平野が上を向いて、おや? って顔したかと思ったら、急に息を呑んでさ。次の言葉が『落ちた』だったんだよね」
何処かばつが悪そうに、春霞先生は再び僕から視線を逸らした。
「最初全く分からなかったんだけど、平野が屋上見てるのが分かってピンときたわけ」
視線を逸らしたまま、春霞先生は話を進めていく。
「あの場所ってグラウンドからだと植木のせいで死角だし、校舎の向こうの端からじゃないと回って来れないへんてこな植え方されてるじゃん? だから全速力で回り込んだんだけど、ちょっと驚いてる間にこっち来ちゃった生徒も見ちゃったんだよね、死体」
失敗失敗と、春霞先生はちょっとドジってしまいましたという感じで、ペロリと舌を見せた。
「いやー、それ以上目に入んないように視界塞いだんだけど、腰抜かしてくれてなかったら頭抱えてやる事なんて出来なかったわ。うん。なだめるのすっげ大変だった」
腕を組みながらしみじみとうんうん頷く先生のそういう仕草は、とても可愛らしい。そう、こんな話をしている最中でも。
「死体の方は確認しなかったんですか?」
「何を?」
何の事を言っているのか分からない。首を傾げる春霞先生の表情は、それを雄弁に語っている。
「いや、まだ生きてるかどうかとか」
「生きてたら死体って言わなくない?」
「……そうですね。僕が言い方を間違えました。じゃあ、改めて。屋上から落ちた奥山先輩の生死を確認しなかったんですか?」
「ああ。うーん、パッと見ピクリとも動かないし頭かち割れて中身出かかってたし、即死だと思ったんだよね。だから生徒のケアを優先しちゃったわ」
結果的にも間違ってなかったから問題はないでしょという春霞先生の言葉に、僕は答えを返さなかった。
「奥山先輩は学校の合鍵を持っていました。それは知ってますか?」
「うん? なんでシロっちそんな事知ってるん? ……ま、いいか。そうそう、それが昨日からの会議で大問題になってる。だってあれ、生徒が単独でどうにか出来るもんじゃないからね」
単独でどうにかした人を知っている僕はちょっと口元が引きつる。が、何とかばれずに頷く事が出来た。
「普通に考えれば、教師の誰かが複製して渡したって見るべきですよね?」
「そそ。んーでそれがいったい誰なのかって話なわけ。そんなもんが会議で分かりゃ苦労しないっての。だって、ばれたらこれよこれ」
トントンと春霞先生がその小さくて細い首を手刀で切る仕草をしている。
確かに、学校の鍵を無断で複製して、しかも生徒に渡したとなれば懲戒免職になるのは必至だ。犯人が自分から名乗り出るはずが無い。
加えて今回はそのせいで早朝の学校で事件が起きてしまったのだからなおさらだ。
学校側としてはどういう事情があるにせよ早急に犯人を見つけ出したいところだろうが、春霞先生の言うようにそう簡単には見つからないだろう。
「何だかんだで大学時代にとった教員免許が生きたかと思えば、初めての学校でこんな事件が起こるなんてね。不謹慎だとは思うけど、ついてないよ」
やれやれといった感じで、頭を振りながら春霞先生が溜息を吐く。
「五輪で金を取って以降、なーんか不運続きなのよね。あれで運を使い切ったとでも言うのかしら?」
「ああ、そういや春ちゃん先生、うちの学校に来たのって事故で怪我したせいだったも――ぐふっ」
僕はデリカシーのない宗也の言葉を肘打ちで強制的に止めた。非難の目で宗也を見ると、彼はしまったというように顔をしかめている。
「ああ、別にいいよ。一生柔道が出来なくなったわけでもないし、金メダリストとは言っても次の大会では三十こえちゃうからねー。そろそろ結婚でもして落ち着くのも悪くないかなって思うわけ」
ケラケラと屈託なく春霞先生が笑う。その様子に、暗いところは見られない。
結婚というキーワードが出たところで、僕は思い切って一つの質問をしてみることにした。すなわち、春霞先生の婚約者だという天夜先生の事である。
「天夜先生? ……へえ、シロっち知ってるんだ」
すっと、春霞先生が目を細めた。何かを探るような感じで、僕の事を見つめてくる。
「……あ、よく考えればシロっちの新聞部の部長は朝霧さんだったっけ。それじゃあ知っててもおかしくないか」
静先輩の名前を口にするのと同時に、春霞先生は突然表情を明るくし、どこか安堵したような溜息を吐き出した。それはごく小さいもので、気のせいと言われればそれまでのような、そんな感じだった。
「うん。あたしと天夜先生はいずれ結婚する仲だよ。具体的な日取りとかは決まってないけど、そうね、再来年までには子ども作らないといけないから、その前までには」
とても軽い感じで春霞先生はしゃべっている。結婚に関する考え方は人それぞれだとは思うが、そこに嬉しいといった感情も不安という感情も存在していない。
無色透明。日常の中の些事。そんな印象を受けて、僕はどこか居心地の悪さを覚えた。
そしてもう一つ気になる点がある。子どもを作らなければならないというのは、どういう事なのだろうか。
「うっわ。シロっちえぐいねー。普通気になっても空気読んで聞かないよそんな事。宗やんだっておいおいって顔してるじゃん」
先生が身体ごと引く演技を見せ、まるで僕の事を痴漢か何かでも見るような目で見てきた。
ひどい。今までにないパターンで変態として見られている気がする。
あと宗也が春霞先生の真似をして大きな身体を引きつつ同じような目をしているのが気に入らない。変態度で言えば断然宗也の方が上だというのに。
「おいおいそう睨むなよ。冗談だよ冗談」
僕の睨みで変な演技を止めた宗也がバシバシと背中を叩いてくる。結構痛い。加減しろ馬鹿。
そして春霞先生はいつまでそうしてるんですかね。
「ん? 男って蔑まれると喜ぶんじゃないの?」
「それは特殊な人だけです」
「ふーん? そうなんだ。まいいや。話戻すけど、子ども云々はなんてーか、いわゆる御家関係ってやつよ」
ひらひらと片手を振りながら、先生はとても面倒臭そうな顔をしていた。
確かに、言葉を聞くだに面倒臭さ全開な感じだ。
「春霞家と天夜家はちょっとした家の分家筋でね。本家の方で跡取りが絶えちゃうと、この両家の男女間で子どもを成して跡取りに据えるのよ。何でかは知らない。ずっとそうやってきたんだってさ」
家系における分家の役割としてはままありそうな話だが、分家同士の子どもを求めるというのはいささか珍しいかもしれない。
分家筋の有能者を後継に据える辺りが、本来の主流ではなかろうか。
「そういうわけで、春霞家からはあたしが。天夜家からは天夜先生が選出されたってわけ。ぶっちゃけあたしがこの学校に来たのもそういった理由からなんだよね」
婚約者同士を同じ職場において、あわよくばさっさと子どもを成せという事なのかもしれない。
しかし、当の二人の片割れが非常にやましいことをしているのだが、それを家の人間は知っているのだろうか。そして、相方の春霞先生も。
この辺りは肝の部分なので、ぼかしつつでも話を聞かなければならない。
「えっと、ちょっと聞きにくいんですけど――」
「天夜先生が生徒とエッチしてる事?」
「え……?」
まだ何も言ってない状態で質問を看破された。しかもド直球の返し付きだ。
僕は思わず半分口を開けてぽかーんとしてしまい、隣で話を聞いていた宗也も同じような顔をしていた。
「んなもんこの学校に来たときから知ってるわよ。隠されもしなかったしね。つーか初顔合わせで『君とは家の都合で結婚するだけだ』って言われた。ま、あたしも子ども作ったら即離婚してやるつもりだったからどーでもいいんだけどさ」
春霞先生はむうと頬を膨らませながら唇を尖らせている。
実に可愛い。年上で先生だけど可愛い。撫でたい。
しかし僕はその欲望をすんでで押し留め、
「に?」
近くにいたクロの頭を撫でる事で欲望を発散させた。何故撫でられるのか理解出来ていないクロの表情がまた可愛い。
「け、けど春ちゃん先生、それって何かおかしくない……ですか?」
欲望の発散に忙しい僕の代わりに、呆然から立ち直った宗也が僕と同じ考えの疑問をぶつける。
そう。例え家の都合なのだとしても、僕らの考える結婚というのはそんなものではない。
そんな仕方なくだとか、作業みたいな行為ではないはずだった。
「そんなもんよ。君たちはまだ学生で子どもだから純粋なところも多いんだろうけど、大人になれば嫌でも分かるって」
だからあたしはずっと柔道に打ち込んできたのかもしれないけど、と続けた春霞先生はどこか冷めて、諦めているような感じがした。
いつも明るい先生からは想像出来ない、闇のようなものを垣間見てしまった気がする。
「ま、そんなわけで奥山も天夜先生と関係があったみたいだけど、あいつは特別な誰かって相手を作らない遊び人だから、わざわざ鍵を複製して渡すような真似はしないと思うんだよね。というか、そもそも学校の鍵を渡しておく事にメリットってなくない?」
鍵を渡すことのメリット。言われてみれば、確かになんなのだろうか。
密会をし易くするためだろうか。いや、学校に自由に出入りができる様になる利点は、施錠されて以後の話になる。すなわち夜か早朝の時間帯だ。
人目を忍ぶにはいいだろうが、わざわざ学校を指定する意味が無い。人目を忍ぶのに適した場所は他にいくらでもあるのだから、学校でなければならない理由が見当たらない。
では、何故奥山宏美は鍵を所持していたのか。誰が、何の目的で彼女に鍵を渡したのだろうか。
「あるいは、今回の件とはまったく別のところで手に入れたのか、かしらね」
春霞先生が難しい顔で思案している。
確かに、そういう事も考えられるだろう。静先輩にしても自分のために鍵を所持していることだし。
奥山宏美も、何かの目的があって鍵を所持していたとすれば、鍵を所持していた事と事件とは全く関連が無いことになる。
いや、ちょっと待て。確か静先輩に見せてもらった写真には、もう一つの物が写っていた。
「猫のキーホルダー……」
「え?」
ポツリとした僕の言葉に、春霞先生が首を傾げる。
奥山宏美は鍵にキーホルダーをつけていた。天夜先生にもらったという、猫のキーホルダーを。
思いを寄せている相手からもらった物を、相手と関連のない物に付けたりするだろうか。鍵に取り付けたという事には、多分何かしら意味があるはずだ。
「でも、それだと天夜先生が渡したって可能性が高くなるわけよね?」
「なんですよね。さっきの考えと矛盾してしまうわけなんですが……」
状況的には天夜先生が渡したものと見るのがしっくり来るような状況だ。
けれど、その意味が推測出来ない。女子生徒との遊びを目的としている天夜先生が、その内の一人に過ぎない奥山宏美に鍵を渡す必要性が無い。
もし何かしらの意図で渡しているのなら、他の生徒が所持していてもおかしくはない事になる。
だが、そこまで大量に複製品を渡していれば事が露呈する危険性が鰻登りになってしまう。さすがにそれはありえないだろう。
今これ以上考えてもこんがらがりそうだ。後で整理する時にもう一度考えよう。
「あ、そういえば聞き忘れてたんですけど、春霞先生この一週間の内に奥山宏美が来て何か聞かれませんでした?」
「え? あ、うん。来たよ。あたしと天夜先生の関係を聞かれたから、正直に婚約者だって答えた」
「どう、なりました?」
「うーん……、何かこれといってあったわけじゃなかったしなぁ。ちょっと驚いた感じだったけど、それだけですぐどっか行っちゃったからね」
人差し指をあごに当て、春霞先生は視線を斜め上に向けてその時の事を思い出しているようだった。
「他に何か、気にあるような事とか言ってませんでした?」
「なーんにも。あたしとしても何を言ってくるかと思ったんだけどね。拍子抜け――お?」
突然着メロが鳴り始め、肩をすくめようとしていた春霞先生が動きを止め、次いでごそごそとポケットを漁り始めた。
流れている着メロはなんとも特徴の無い音楽で、まるで聞き覚えがない上に頭に入って来ない不思議な音楽だった。
「ごめんちょっち待って」
片手を縦にして軽く頭を下げてきた春霞先生が、通話ボタンを押しながら僕らから少し離れた位置に移動する。
「あ、うん。そうそう。それで――んだけど、……え? いや――ど今、そうそう。あー、――ほどね。分かった。それじゃあ次の――は――って事?」
そんなに離れてもいないのだが、ところどころ先生の声が小さくなるせいで会話の内容はほとんど分からない。感じからして何かの予定を話し合っているようだが、知り合いだろうか。
「オッケー。それじゃそういう事で」
通話を終え、携帯をポケットにしまった春霞先生が戻ってきた。
「やあやあごめんごめん。それで、奥山が何かいってなかったかって話だっけ? まあさっきも言いかけたけど拍子抜けするほどなんもなかったんだよね。身構えてたあたし馬鹿見たいじゃん? 的なくらい」
その言い方からして、奥山宏美が天夜先生と関係のある生徒という事は知っていたのだろう。
おそらくは春霞先生と天夜先生の関係を知らなかった奥山宏美は、その事を知ってどんな行動に出たのだろうか。
「先生、奥山宏美が先生のところに来たのって、いつですか?」
「えーっと、ひいふう……三日前かな。だから昨日を基準にすれば二日前だね」
春霞先生と天夜先生との関係を奥山宏美が知ったのが事件の二日前。
天夜先生と関係のありそうな生徒と接触し始めたのが事件の一週間前。
それまでの彼女は、あまり周りと関係を持とうとしない生徒だった。
何が彼女を変えたのか? 一つ考えられるのは――
静先輩に確認してみよう。
僕は思いついた事を口にはせず、胸の内に留める。
ふと時計を確認すると、もうそろそろ五時を回りそうな時間だった。今日中に行っておきたい場所へ行かなければならない時間である。
「どしたシロっち?」
急に黙り込んだ僕が気になったのか、春霞先生がひらひらと僕の前で手を振る。
「あ、いえ。お話ありがとうございました。ちょっと行かなきゃならないところがあるので、僕はこれで。……クロ、行くよ」
「に」
いつの間にか離れたところで掲示板を眺めていたクロは、僕の呼びかけに反応して素早く近寄ってくる。
「それじゃあ、失礼します。宗也、大会近いんだから、みっちり春霞先生に鍛えてもらえよ」
「おう。高校でも表彰台は頂くぜ」
「中学と高校じゃレベルが違うわよ? ま、あたしが教えるんだからまかり間違っても一回戦敗退はないわね。もし負けたら――」
コキッ、と春霞先生が手の関節を鳴らす。瞬間、僕の、そしておそらく宗也の脳裏にもある光景がフラッシュバックした。
百五十センチの春霞先生が百八十を超える長身の男子生徒を力づくで跪かせ、泣いて許しを請うその顔面に強烈なアイアンクローを見舞う、悪夢のような光景だ。
ちょっと問題になりかけたが、男子生徒がほとんどの記憶を消去して無かった事にしたため、うやむやになっている。
その時も、春霞先生は今のように手を鳴らしていた。
「――分かってるよね、宗やん?」
「イエス・マム!」
宗也が神速の反応で敬礼した。お前は何処の兵隊だ。
とはいえ気持ちは分かるので突っ込みはしない。
僕はクロを連れ、そそくさとその場を後にした。