禍根 7
7
錆び付いた鍵穴が音をたて、重い扉が開かれる。
流れ込む刺すような冷気が肌に触れ、かつての監察部隊の一人、セレス・サガンは目を覚ました。
「なんだ、たたき起こしてやろうと思ったのに」
大人びた表情の少女が、格子の奥から顔を見せ、セレスを見下ろしながら口角を上げる。
セレスは痩せた体を右手で支え、
「おはよう……レイネ……」
たどたどしく朝の挨拶をした。
言わなければ朝食を貰えず、強制されているうち、いつのまにかこのやり取りが習慣になっていた。
レイネはうんうんと頷き、
「よしよし」
食事を載せた盆を手に、扉を開けてセレスの目の前に置く。
セレスは彼女に甲斐甲斐しく世話をされていた。
固くて小さいパンと、湯気の立つ汁物を前に、口の中に唾液が溢れる。
以前であれば、下街の残飯にしか見えなかったようなこの食事も、今では日々の楽しみとなっていた。
レイネは部屋の隅に置いてあった椅子を取り、背もたれを前にして座った。その体勢で、まるでそれを楽しんでいるかのように、セレスが食事にありつく様を見ようとする。
じっと見られている事には慣れず、セレスは俯いて顔を隠しながら食事にかじりついた。
パンを食らい、汁物に手を伸ばした時、
「痛ッ――」
右手の指先に刺されたような痛みを感じ、手を引いた。
レイネは椅子から立ってセレスの手を取り、
「痛むんだね、だから爪はやめとけって言ったのに……」
レイネの父であるヴィシャと、その手下達から手ひどい拷問を受け、右手の五本の指すべての爪が剥がれ落ちている。
顔や体は治りかけの痣だらけ、左手は感覚を忘れるほど強く、晶気を封じる拘束具つきの分厚い手袋がはめられていた。
「……起きたばかりだから、動かしていればすぐに感じなくなるよ」
「薬師に聞いて塗り薬を用意したんだ。あんまり良い材料がなかったから、ないよりはって感じのだけど。仕事だってあるんだ、少しでも早く治したほうがいいんだからね」
レイネはセレスの手にまかれた布を剥がし、痛々しい指先に薬を塗っていく。
冷たさと、むしろ痛みを助長するような刺激に、セレスは手をとられたまま首を振って悶絶した。
「くぅ……」
「これでよし」
薬を塗りおえて、再び布をまき直す。
油分を含んだような塗り薬が、傷口が擦れる痛みを和らげていた。
セレスはちらりと視線を上げてレイネを見てすぐに視線をはずし、
「ありがとう、楽になったよ」
感謝の言葉を伝えた。
食事を再開し、ほとんど具のない汁物を匙で少しずつすくって飲む。レイネは上品ぶっていると笑うが、そうしなければ瞬きをしている間に食事が終わってしまうのだ。
できるだけ時間をかけて食事を味わっていると、
「ところでさ、びっくりするような話があるんだよ」
言ったレイネの声は弾んでいた。
普段とは違う様子を感じ、セレスは食欲を抑え、目線を上げてレイネを見た。
「どんな?」
「あんたを倒したあの人がさ、准将になったんだってよ」
目を輝かせて言ったレイネとは対照的に、セレスはやつれて痣だらけの顔を引きつらせた。
「……え?」
「だから准将になったんだって、なんか呼び方は違ったけど、とにかく同じようなもんらしい。街じゃその噂で持ちきりだって、なんてったって平民の出で――――」
レイネの話は続くが、その言葉はセレスの耳に届かなくなっていた。
――准将?
それは軍を指揮し、統率することが可能になる階級である。
――彩石すら持たずに。
名門貴族の出であっても、重輝士に昇れず苦戦する者も多いのだ、若いうえ平民の立場でありながら将の位に抜擢されるなど、あるはずがない。
「……嘘だ」
思わず心の声が口から漏れる。
レイネはすかさず、
「嘘じゃないさ、ムラクモに捕まってた偉いさんを助けた出したからって、大公直々のご指名だってさ」
セレスは瞳を大きく揺らし、
「大公だって? 待ってくれ、准将にっていうのは、まさか――」
レイネはにたりと笑い、
「そうだよ、この国での話さ。大勢の前で大公はあの人を准将にすると宣言した、それで戦地の指揮官をまかせるんだってさ」
セレスは目を見開いたままゆっくり俯いた。
――そんな。
ターフェスタの貴族社会の影の中で生きてきたセレスは、身をもってわかっていた。この世界に、おとぎ話のような事は起こらない。
セレスは震える声で、
「醜く生まれれば家名も名乗れず、片親が平民なら輝士にすらなれない、この世界はそういう場所なんだ。きっと、聞き間違えたんだ、別の誰かの話を」
レイネは目を尖らせ、
「そう思いたいなら思ってなよ。でも私は信じてるんだ、私を助けてくれたあの人が、今度はここのみんなを助けにきてくれたんだってね」
――あの男が。
敗北と屈辱、囚人として過ごす現状、すべての原因となった人物。その顔を思い出すと、頭の奥底に鈍い痛みが生じた。
――敵国人が、ターフェスタ軍を率いる……?
心の中で収まりの付かない気持ちが、突き刺すような頭痛を生む。無意識に奥歯を噛みしめた。
「さ、話はいったん終わり、早く食べちまいな。さっさと畑に行かないと、大雪が降ったらまた中断しないといけないんだから」
セレスは食事を見つめ、濁った意識を振り払った。
虜囚となり、労働を科されている今、悩みに悶えていられるような暇などありはしないのだ。
残った汁すべてを直接喉に流し込む。
防寒のための服や外套を幾重にも着込み、牢から出ると、暗がりの通路奥から、重たい息づかいが聞こえてきた。
「……私の食事はどうした」
闇の中から重くかすれた声が聞く。
レイネは声の主がいるほうへ顔を向け、ふんと強気に胸を張り、
「あんたは挨拶もしないし礼も言わないから飯抜きだ、それに食わせて、あたしが作ってやった飯を臭いって言ってくれたよな、だったら食わなきゃいいんだよ」
闇の中の人物の息づかいが、苛立ったように荒くなった。
セレスは足を止めて通路奥をじっと見つめ、静かに背を向けた。
*
ターフェスタの中心街から外れた人気のない山中に針葉樹の森があり、そこを抜けた先の一帯に、ひっそりと用意された山畑が広がっていた。
固い土に、ごつごつとした石塊が散乱するそこを、セレスは他の者達と共に、真冬に開墾するという重労働に就いていた。
「ふッ――」
粗末なくわを地面に突き立て、掘り起こす。
斜面をならし、土を掘り、石塊を取り除いて一カ所に集める。雪が積もっていれば、最初に除雪作業までついてくる。
痛めつけられた体を抱えながらの重労働は当初、生きている事を嘆くほど苦しく、惨めだった。
「これ運んどくよ――」
見張り兼、父親の代理としてここに居るはずのレイネは、自らも率先して仕事をこなしていた。
セレスが掘り起こして集めておいた石塊をまとめ、バケツに入れて運び出す。何往復もする大変な仕事を、体の細いレイネは淡々とこなしていた。
「――ほら、水を飲んでおきな、風邪ひかないように汗も拭くんだよ」
そう言って、レイネは水筒と手拭いを放って寄越す。
まるで幼子の世話を焼く母か姉のようだ。
自分を捕まえて殺そうとしていた相手を、どうしてこれほど気にかけるのか、セレスは不思議に感じていた。
殺すつもりで、自らの恥部も、暗い思いも、すべてを聞かせてしまった相手。犯した罪も、弱さも、なにもかもを知られてしまった。
だが、心はむしろ、あの頃より軽くなっている。
――どうしてだろう。
重たい土を掘り返しながら、過去を想う。
手に入らないものへの羨望が、憎悪に変わったあの頃。吐きどころのない欲求を人斬りと冒涜によって発散していたあの日々。
人生の大半を憎しみと羞恥心に苦しんできた自分が、今ではまるで別人のように感じられる。
傷だらけの体、粗末な服、封じられた左手の石。労働者として使役される日々。
――あれ。
ふと、監察隊に入れられた頃の自分を思い出す。
ガラスに映った冴えない顔、輝士服を纏えず、不健康な体で、命じられるまま日陰者の集う組織に入れられ、望まぬ仕事を強制された。
――なんだ。
セレスはくわを振り上げ、
――大して変わってないのか。
「はは」
止めどなく笑っていた。
その時背後から声をかけられ、
「なんだよ、なにか面白いものでもあったのか」
レイネに問われても、土を掘り起こす手を止めず、
「死ぬほど辛い作業なのに……やればやるほど、なんだか心地良くなっていくんだ」
レイネは淡々と、
「ふうん……変なの」
セレスはまた笑って、
「本当に、僕は変で…………弱い奴だ」
笑みを消す。
首を濡らす汗を手に塗り、いつもだらりと下げていた前髪を思いきりかき上げる。
さらけ出された額と、隠して俯いてばかりいた目を見開き、薄雲に覆われた冬空を、大きく胸を張って見上げた。
「あの男は、何を思ってこの国に来ることを選んだんだろう」
誰のことか、言わずともレイネは理解を示し、
「さあね、わからないさ。あんたがまた悪さをしてないか見張りにきたのかもしれないよ」
軽口をたたいた。
「僕のことなんて、もう眼中にないさ」
セレスは自嘲して、手拭いで汗を拭う。
「細かい事情は知らないけどさ、ムラクモにいて戦場で戦ってたとき、すごい活躍をしたんだって聞いたよ。戦場に紛れ込んだ狂鬼に襲われた連中を、敵味方関係なく助け出したってさ。あのリシアから感謝状まで贈られたって、信じられないよね」
セレスは渋面で手元を見つめ、
「直接戦っていなければ、そんな話はありえない、と言えたんだろうな」
戦場での英雄的な行い、名声を得て、敵国から将軍として向かえ入れられる。そのすべてが、手の届かない遠い世界のおとぎ話だ。
レイネはセレスの足元に屈んで下から見上げ、
「でも、よかったじゃないか」
セレスは純粋な気持ちで疑問に思い、
「なにが」
「自分を負かした相手が、凄い奴だったってさ、そんなに悪い気はしないだろ」
レイネは子供らしい無垢な笑みを浮かべた。
セレスは目を見開き、
「そう言われてみると……そうだ、僕は、凄い男に負けたんだな」
自身の弱さと失敗を絶え間なく悔いていた。その言葉から、表現し難い妙な安堵と慰めを得る。
「さて、今日の仕上げに――」
レイネが言いかけたとき、強い突風が地面を打ち付け、一面を覆う粉雪が音もなく、降り始めた。
「――降りだしたね。みんな、今日は撤収するよ!」
セレスは汗をたっぷり吸い込んだ手巾をしぼり、道具を集めて片付けを始めた。
*
牢に戻されたセレスは倒れ込むように床にへたり込んだ。
「つッ――」
座っただけで全身に感じる痛みに、苦痛を耐えて声を押し殺す。
「おつかれさん」
朝と同じ食事を運んできたレイネに、礼を告げて食事にありついた。
レイネは朝と同様、椅子に跨がってセレスをじっと見つめ、
「言っても信じないだろうけど、あんたが囚人だからって粗末なものを食わせてるわけじゃないからな」
セレスは食べる手を止め、
「……わかってるよ」
市民は食料難に苦しんでいるという。
まったく農耕に適していないようなこんな場所で、隠れるように畑を耕しているのも、そこに太った木の根のような、栄養の少ない芋類を植えているのも、そういうことなのだろう。
レイネは深く鼻息を吐き、
「あんたみたいなのに農夫をやらせてたって、もったいないよね。戦ってたほうがよっぽど役に立つだろうにさ……そうだッ」
自分で言った言葉にはっとして、突然強く立ち上がった。
セレスは上半身を仰け反らせ、
「ど、どうしたんだ」
「あの人に頼んで、あんたを軍に参加させてもらえばいいんだよ」
目を輝かせて言うレイネから、セレスは視線を逸らした。
「無理だよ、僕にはそんな……だいたい、重罪人を側に置くはずがない、僕はもう、日の光があたる世界には出られない人間だからね」
憂さ晴らしに市民を殺していた殺人者が、仲間として信用を得られるはずもない。
「良い考えだと思ったのにさ」
レイネは心底がっかりした様子で溜息を吐いた。
語った夢物語を本気で叶うと信じていたらしい、大人びて見えても、やはり彼女は子供なのだ。
食事を終えたセレスは、
「ありがとう、美味しかった」
レイネは満足そうな顔で食器を片付け、
「よかったよ。じゃあ、あっちの糞貴族様に冷めた飯を置いて帰るかな」
通路の奥に行き、無言で食べ物を置いて戻ってくる。
去り際にレイネは屈託のない笑みを浮かべて手を振り、
「また明日」
セレスは淡く微笑み、手を振り替えした。
錆び付いた鍵穴が音をたて、牢獄の蓋が閉じられる。
――また明日。
また会って、また話ができる。
意識することなく、それを嬉しいと感じながら、セレスは自然と頬を緩ませ、そよぐように静かな笑声を零した。
「――まさか、笑っているのか?」
牢の奥から怒りを溜めた、濁った声が響き渡る。
セレスは凍えたように笑みを消し、
「……いえ、違います」
「下民共に飼い慣らされたのではないだろうな」
「……違います、飼い慣らされてなんて」
「よく聞け、ターフェスタが私を見捨てるはずがないのだ。この先、必ず脱出の機会が訪れる。その時が来れば必ず私に協力しろ、力を尽くせばお前のしたことはすべて不問にする、わかったなッ」
セレスは誰も見ていない部屋の中で頷き、
「はい……デュフォス卿……」
牢の片隅に寄りかかって座り込み、膝を抱えて、沈鬱な顔を深く沈めた。