禍根 3
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ボウバイト将軍の執務室は、冬にしては肌寒かった。
新しい薪が灯す明かりは弱々しく、急いで火を入れたことが窺える。
多種多彩、かつ無骨な武具が装飾品として飾られるこの部屋は、主の性格を如実に表していた。
「よくきた、カルセドニー卿」
部屋の主、エゥーデ・ボウバイトに名を呼ばれ、ネディムはかしこまって辞儀をする。
「ボウバイト将軍、急な来訪をお許しください。作戦行動まで間もなく、申し入れに要する時を惜しみました」
「かまわん、座れ。部下に飲み物を用意させた」
エゥーデは酒瓶の封じを短剣でこじ開け、赤々とした葡萄酒でガラスの酒器を満たしていく。
温室の果樹のような香りが一杯に広がり、部屋の空気を彩った。
「ありがとうございます、これは……」
酒器を回して鼻を近づけたネディムは、その豊かな香りを嗅いで顔を上げた。
エゥーデは得意げにあごを上げ、
「西方の名酒である、卿ならばこの酒の価値もわかるだろう」
「たしかに、果実の神髄だけを残したような深い香りを感じます。手に持っているだけで心地良く酔えそうだ」
「遠慮はするな飲み干せ、卿になら二杯目をくれてやるのは惜しくない」
「恐縮ですが、これをいただくのは、話を終えてからにいたしましょう」
ネディムは言って、酒器を執務机の上に置いた。
エゥーデは不服そうに酒瓶を下ろし、
「真面目なことだ。だがいいだろう、私もじっくり話をしたいと思っていたのだ、丁度良いところに来てくれた。その本題についてだが」
「東門……アリオトの件です」
ネディムが言うと、エゥーデは椅子に寄りかかり、
「卿は冬華だ、殿下のお側にあって、そのお気持ちを推察できよう。今回の件、ドストフ様はいったいなにを考えておいでなのか」
ネディムは組んだ脚の上で手指をからませる。
「ムラクモから来た謀反人を、戦時下にある重要拠点の指揮官に任命する、仰っている疑念はそうしたところなのでしょうね」
エゥーデは苛立たしげに踵を踏みならし、
「なぜだ、あのような下賎の者、バリウム救出の褒美にしても精々が小銭でも渡し、傭兵として用いれば済むようなことを、この国の趨勢を賭した戦いの指揮をとらせるなど、愚かな……」
「最後のお言葉は聞かなかったことといたしましょう。そうですね、個人的な見解を述べるならば……そもそも、殿下は勝利を期待されてはおられないのでは、と」
淡々と言ったネディムを、エゥーデは激しく睨めつける。
「なんだと」
「存外、大公殿下は実に行動的なお方なのです、とくに保身を目的とされている状況では。私は、今回の一件もその一つと捉えているのですが……将軍はアリオトの現状をどのように把握されておられますか」
「初手で押され、ワーベリアムが出張ってからは五分に戻した。聞きかじる内容からはそう見ているが」
ネディムは視線を上げて、
「五分というのは過大評価です。国力豊かなムラクモとは異なり、すでに限界まで戦費を捻出するターフェスタは、じり貧の状態。指揮官としてのワーベリアム准将は猛将ながらも他国への侵攻には消極的である。たとえ周囲からそう見えなくても、殿下は現状をよくご存じであられます、やけくその侵攻はすでに失敗に終わり、現状維持のため仕方なく銀星石という盾を置いたが、その盾はなにより強力でありながらも、武器として使うことはできなかった」
エゥーデは大きく舌打ちをして、
「まだるっこしいッ、なにを言いたいのか」
「殿下はすでに落とし所を探していた、ということです。この戦争の行く末の責任をどこに置くか、初戦を委ねられていながら討ち死にをしたゴッシェか、ムラクモ軍に大傷を負わせておきながら、命令を無視して大人しく自陣へ引き上げたワーベリアム准将か。前者はすでに死に、後者は各方面から多大な人気を誇る大人物。ではどうすれば……そんな悩みのなか、突然、人質の身でありながら敵陣から戻ってきた義弟が、得体の知れない人物を戦場指揮官に推すと言い出した」
エゥーデは雷に打たれたように目を見開き、
「そういうことか……」
ネディムは首肯し、
「敗戦の締めとして、これはまさしく絶好の生け贄でしょう。バリウム侯爵は大公妃の弟にして、太子の叔父。それほどの人物が推薦した人物であるからこそ殿下はそれを信じ大権を委ねるに至った、周囲にはそう見える。あとに期待するのは、大権を握った余所者がムラクモに大敗を喫し、継戦能力を失したという結果だけ。その責は推薦人のものとされ、この戦争を誰が始めたのかという事実に多少なり霧をかけることになる」
エゥーデは険しい顔で鷹揚に頷き、
「ならば、大公はあの糞虫の死を願っているということ…………」
舌なめずりをする老将軍の顔を、ネディムはじっくりと注視する。
「ご注意を、見解はあくまでも私の個人的なものにすぎません」
「謙遜するな、卿の評判は我が領地にもよく届く。今回の戦、周辺国とリシアを参戦させたのは卿の手腕であったと聞いているぞ」
ネディムは両手の平を上げて見せ、
「それは、尾ひれの付いた話ですね、私は各所へ書簡を出したにすぎません。この腕に他国の王と教会を動かせるほどの力など、あるはずもない」
エゥーデは意地悪く目を細め、
「どうだかな、真に賢い者は我を示さず、牙を隠し持つものだ…………そうだッ、なぜ気づかなかった」
前のめりに顔を寄せるエゥーデを前に、ネディムは涼しい態度で軽く首を傾げる。
「なんでしょうか」
「カルセドニー卿よ、我が孫と見合いをせよ」
予想外の言葉にネディムは仰け反り、
「御孫女とですか?」
「容姿良く、品性も良し、各所へ顔が利き、冬華の身分にありながら独り身である。これほどの者を見逃していたとはな、卿ならば我が身にもしもが起ころうと安心して後を任せられる。我が孫のディカを妻とし、ボウバイト家に入れッ」
徐々に顔を近づけてくるエゥーデから逃れるように、ネディムは椅子から仰け反るように距離を置いた。
「光栄なお申し出ではありますが、私はすでにカルセドニー家の当主を務めておりますので……」
「弟がいるだろう!」
「事情はご存じでしょう、あれに当主は務まりません」
「そんなもの、ただ置いておけばいいだけだ」
ネディムは期待を遮るように首を振り、
「たとえ見合いをしたところで、互いに気持ちを持つようなことはないかと。残念ながら私ではご期待に添えないでしょう」
エゥーデは体勢を戻し、椅子に背を預け、大きく溜息を吐く。
「良い考えと思ったが…………」
「さきほど、ご親族の方々とすれ違いましたが、そのことと関係があるのでしょうか」
エゥーデは恨みがましく目を細め、
「どうせ知っているのだろう、情けないことだが、ボウバイトには家督争いの火種がある」
「ご心痛、お察しいたします」
「その一つを卿が取り去ってくれるかと期待した。よければこのまま食事に付き合え、孫のディカは芸術に興味が深い、卿とは話が合うやもしれんぞ」
未だ諦めきれていない様子のエゥーデの視線を、ネディムは動じた様子なく受け流す。
「もったいないお言葉です、が本日は戦に出るにあたって、閣下のご意志を確認させていただくためにまいりましたので」
「意思、だと。それを言うなら卿のほうとて……いや、まて――」
エゥーデは椅子に深く座り直し、
「――卿はさきほど、大公がこの戦を締めようとしていると言っていたな」
ネディムは大きく目を開き、
「はい、そうお伝えしました」
「ならばなぜ、大公がすでに負け戦を覚悟のうえであると思いながら、今回の同行を申し出た」
わざわざ進んで泥をかぶりにいきたがる者など、普通はいない。
「度々の言葉になりますが、将軍が侮蔑の言葉で呼ぶ件の人物には、敵地より弟を連れ戻していただいた恩があるのです。返礼もかねて、言葉のまま戦地において全力で補佐の任につく所存ですよ」
「なんだと……」
氷が割れるような声音がエゥーデの口から絞り出る。
「失礼ながら、あらためてお聞きしたい。これまでの仰りようからある程度推測はたちますが、将軍はなぜ、件の者の支援を表明されたのでしょうか」
エゥーデの顔が殺気立つ。
「なぜ、それを知りたがる」
「ボウバイトは歴史ある辺境の守護者であり、東門の後始末に手を差し伸べなくとも責める声はありません。であるのに、わざわざ泥にまみれた戦場に実費を負担してまで参加を表明されたのは、果たして御孫女を救われたから、という理由だけなのかという疑念を持ちました。そもそも、本当に恩を感じている相手を、糞呼ばわりはされないでしょう」
「ころころとよく舌がよく回る……それを知って、どうするという」
ネディムは柔い笑みを浮かべ、
「件の人物にお伝えいたします」
エゥーデは執務机を拳で叩き、
「きさま……親衛隊たる冬華の称号をいただいておきながら、異国の裏切り者を本気で補佐するとほざくつもりかッ、それをぬけぬけと私に言いにきたと?!」
ネディムは長衣の皺を丁寧に整え、
「居所をたしかにしておくことは信用を得るために最も重要なことでしょう。なにしろ私は先方にとっては新参者、このうえ八方美人をしていては、手を差し伸べたところで相手にされません。地道に信を築き上げていくべきとは思いますが、私は時が惜しいのです。よって、はっきりと宣言しておきますが、件の人物と対立することは、このネディム・カルセドニーと対立することと同義、とお伝えしておきます、どうかご承知のほどを」
興奮しきった様子のエゥーデは体を小刻みに震わせながら、
「あの気狂いの弟にしてこの兄、ということか、変人奇人の糞舐めがッ」
ネディムは意に介する様子もなく肩を竦め、
「質問の回答をいただけてはいませんが、大方の所で将軍の本意は察することができました。用件も片付きましたし、さきほどの美酒、いただいてもよろしいでしょうか?」
なにごともなかったような平素の態度のまま聞くと、エゥーデは歯を剥きだして卓の上に置かれていた酒器を払い飛ばした。
つがれていた酒が零れ、酒器が大きな音を立てて床の上で砕け散る。
直後、慌ててエゥーデの副官が駆けつけた。
「エゥーデ様ッ――」
エゥーデはしかし、ネディムを凝視したまま、
「今頃気づいたわ、きさま、いつも吐いていた、あの耳障りな咳はどうした」
ネディムは微笑し、
「なぜか、最近調子が良いのですよ」
「…………出て行くがいい、二度と我が邸に面を見せるなッ!」
ネディムは姿勢良く椅子から立ち上がり、
「帰り道は覚えていますので、おかまいなく」
言って、整然とした態度で辞儀をして部屋を後にした。
*
――元気なお方だ。
激しく猛っていた老将軍の姿を思い、ネディムは呑気に心の中でそう述べる。
ボウバイト将軍の執務室を出た後、ネディムの足は出口ではなく、邸の内へと向いていた。
使用人の若い娘を見つけ、
「ディカ様の所在を教えてもらいたい――」
一瞬で渋るような態度を見せた使用人の手に、高額の硬貨を握らせると、使用人はそれを見つめ、
「どのようなご用件で……?」
「ただお会いしてみたいと思っただけですよ、監視のない状況でね」
使用人は不信感をあらわに、
「はあ……」
ネディムは身につけた冬華の証を見せ、
「身分は保障します、迷惑はかけません」
使用人は唇を噛み、硬貨を服の内にしまい込んだ。
「どうかご内密に……ディカお嬢様は――――」
居場所を突き止めたネディムは、まるで自分の家のように悠々と歩いてそこへ向かった。
目的の部屋を覗き込み、中にいる人物と、彼女が手がける絵を見て、ネディムは一人、静かに頬を緩ませた。
――なるほど。
その絵の中には、エゥーデの怒りや懸念、憎悪の原因が、わかりやすく描かれている。
ネディムは声をかけながら部屋に入り、
「良い出来ですね」
部屋で一人、絵と向き合って座っていたディカ・ボウバイトは、
「……そうでしょうか」
呼吸も忘れたように、微動だにせず呟いた。
ネディムは彼女の側に立ち、ぼんやりと前を見つめるディカの顔を覗き込む。
落ち着きのある栗色の髪に琥珀色の瞳は、ボウバイト一族に南方の血が混ざっていることを示す特徴である。しかし肌の色は明るく、くっきりとした目鼻立ちは北方や西方の面影を強く感じさせた。
整っておだやな面立ちと繊細な手指が、一本に結んだ髪を肩へと流す。青と緑を複雑に混ぜた色の輝石が、暖炉の明かりを受けて輝いた。
「この絵の人物との面識があるのですか」
ディカは曖昧に首を捻り、
「……私は、あの人をただ見ていただけです」
溜息を吐き、力なく肩を落とし、自ら描いている絵を暗く凝視する。
「どうも、絵の出来に納得がいっていないようですね」
絵には銀髪の黒い眼帯をした男が描かれている。目の前で戦場を駆け巡っているような迫力と、今にも人物が飛び出してきそうな躍動感がある素晴らしい出来映えだった。
ディカは少し視線を上げ、
「あのとき見た光景に、ほんの少しでも届かない。美しいと感じたほどの強さ、圧倒的な自信、そして深い慈悲…………形にして刻みたいと思っても、あの輝きを表現、できない……」
彼女の横顔はやつれているように見えた。目の下が暗く色を落としているところをみるに、寝不足でもあるようだ。
ネディムは労るような優しい声音で、
「少し体を休めたほうがよさそうだ。さきほどボウバイト将軍にお会いしました、あなたのことを案じているご様子でしたよ」
ディカは自嘲し、
「お婆さまは心配なんて……怒られてばかりです」
辛そうに息を吐く。
「ボウバイトはターフェスタにとって重要な家の一つ。その後継者としての立場をお持ちのあなたとしては辛いところもあるでしょう」
「私はただこの世界を見る目でありたいのに、お婆さまは剣をとってひとを斬りつけよとおっしゃいます。戦場に出て、嵐のように戦うあの人を前にしたとき、世界が違うのだとわかった。描くことしかできない私が、なぜかあの時、許されたような気がした」
「なるほど。ご自分を卑下しておられるようだが、見たところ、素晴らしい才能をお持ちだと思いますよ」
「…………絵を描いてばかりの私を、皆が愚か者と罵ります」
「描くことは神髄を見抜く力がいる、愚か者にできる技ではありませんよ」
話し始めてからずっと、ネディムを一度も見ていなかったディカの視線が初めて動く、がその瞬間、
「いったいここでなにをッ!?」
エゥーデの副官、アーカイド・バライト重輝士が現れ、声を荒げた。
ネディムは肩を竦め、
「引き上げ時のようですね――そうそう、あなたが絵に描かれている人物ですが、今はターフェスタに身を置いていますよ」
その言葉にディカは椅子を倒すほど強く立ち上がり、その目ではっきりとネディムを捉えた。
「――本当、なのですか?」
「件の人物は、バリウム公を救出した功績としてアリオトの司令官に着任します。あなたのお婆さまは、その副司令としての任に就かれる。願えば対面も叶うかもしれません」
暗く沈んでいたディカの顔に光が灯った。
怒りを押し殺したアーカイドがディカの前に割って入り、
「冬華六家といえど、これ以上の勝手は許されない、ただちにお引き取りを」
ネディムは両手を軽く挙げ、
「では――」
ボウバイトの別邸を後にした。
*
――やはり、見ておいてよかった。
自らの目と耳で得られる情報には価値がある。
ボウバイト家別邸からの岐路、ネディムは馬上で思考を巡らせる。
――ボウバイトは非協力。
しかし、
――弱みもある。
アリオトの新たな司令官は、背後から味方に睨まれることになる。
ある程度わかっていたことでも、その懸念はたしかなものとなった。
ムラクモからの来訪者たちは、ターフェスタで孤立する。憎悪と余所者への不信感、そのすべてが件の人物に注がれるのだ。
――側にあって補佐をする。
ネディムは自ら願い出たその立場をまっとうするつもりでいた。
有益な情報を提示し、必要な助言を語り、物事が上手く流れるよう調整をする。
大公にそうしていたように、相談役としての任を果たすという、その意思は固くとも、しかしネディムは件の人物とは一切の面識がなく、信頼関係のない相手との関わりが難しいということは、ネディムはその身をもって痛いほど経験していることでもあった。
補佐するために手を差し伸べる、言葉では簡単に思えても、相手がそれを受け入れるかどうかは別問題なのだ。
――さて、いよいよ。
天から落ちはじめた粉雪を見つめ、
「我が君に、拝謁を願いましょうか――」
クロムに倣い、件の人物をそう呼んだ。