怨念 2
2
風に揺れない青い光が、夜の森に三つの影を落としている。
「どうしているのかと心配していたけど、よかった……」
出会いから今まで、サーサリアからシュオウの話を聞いた女は、優しげに微笑んだ。
風除けとなる岩壁の窪みに落ち着きながら、サーサリアとシャラは、刺客達が運んでいた水と食料で、乾きと飢えを癒やしていた。
サーサリアは胸の内に溜めていた疑問を口にする。
「あなたは……どうしてシュオウのこと……」
女は微笑し、
「私の名はアマネ、あの子の師匠で、そして育ての親のようなもの」
「育ての、親…………」
サーサリアは目を見開き、言葉を失った。
すぐ隣で干し肉を噛んでいたシャラが肘でサーサリアを小突き、
「つまり、母御ということだぞ」
サーサリアは無意識に首をすくめた。今まで得体の知れない女の視線が、途端に意味を持ったかのように重さを増す。緊張を感じ、体が強張った。
アマネは自身が羽織る黒い外套を手に取り、
「この毛皮の主を狩る術も、縫合の仕方も私が教えた。縫い合わせには癖がある、加工に用いている素材も、上の世界では簡単に手に入らない希少な物よ」
言って、外套の縫い目を光に当てた。言われて見れば、毛皮に独特な形をした縫い目らしきものが刻まれている。
サーサリアはアマネの顔を凝視し、
「本当に、その…………」
「この状況で嘘をつく理由がない」
アマネは突き放すように言った。
シャラが吹き出すように笑い、
「戸惑っているのだ、愛しい男の愛用品を奪った敵と認識していた相手が、まさかその者の身内だったとな」
アマネは目を細めて、
「愛しい、ね……あの子を追って国を出たまではわかるとしても、どうしてなんの準備もなく、こんなところをうろついていたのか」
サーサリアはゆっくりとシャラを見つめ、
「それは、シャラが――――」
サーサリアがここへ至るまでの詳細を説明すると、アマネは怪訝な表情でシャラを睨めつけた。
「無謀ね」
シャラは不敵に笑い、
「深界は試しの地である。サーサリア共々、自己を試すため、研鑽のためにここに足を踏み入れた。愚鈍で過保護な東方の輝士どもに囲まれて過ごす安穏とした日々にも飽きていたからな」
アマネは前のめりにシャラとの距離を詰め、弾いた指でシャラの額を強く叩いた。
「ここは自分を試す場所でも、退屈を紛らわせるために来る場所でもない。無意味な行いを反省しなさい、お嬢さん」
シャラは赤くなった額を擦りながら、
「我が名はア・シャラだ……その呼び方はやめろ、性に合わん」
微かに不満げな表情でアマネを睨む。そうしていると、悪さを叱られた年相応の少女のように見え、サーサリアはくすりと笑いを零した。
突然、アマネの視線がサーサリアをじっと捉える、サーサリアは背筋を正し、衣服の乱れを整えた。
「あなた、自分が命を狙われた理由を知っているの」
アマネに問われ、サーサリアは首を横に振った。
「……わからない」
アマネは一度、深く息を吐き、
「あれは有象無象の集団だった。用意周到な計画ではなかったのなら、おそらく刺客を放った人間は焦って事を起こしたはず。だとすれば今後、さらに刺客が放たれる可能性がある、次はもっと腕の良い者達が選ばれるでしょうね」
ムラクモ王の石、天青石の唯一継承者であるサーサリアは、自身の命の重さを重々理解しているが、親衛隊の保護を離れてからすぐに、命を狙う者達が目の前に現れるなど、想像すらしていないことだった。
アマネは首を傾けて方向を指し、
「帰り方を教える。あの子の話を聞かせてもらえた礼として近辺まで送り届けてもいい。あなたを守る者達と合流し、身分に合った保護を受けなさい」
サーサリアは身を乗り出し、
「でもッ」
「でもじゃない。ひとには各人居場所があるの、他人の生き方に興味はないけど、少なくともここはあなたの居る所じゃないはず。普通なら放っておくところだけど、あの子と少なからぬ関わりのあった相手ということで特別に譲歩をしている、黙って受けておきなさい」
サーサリアはまなじりを歪め、
「私は……シュオウに会いたいッ」
叫ぶように言った声が、夜の闇に沈むように飲み込まれる。
アマネは険しい顔をして眉を顰めた。
シャラがふいに笑い、
「余興もかねて森へ連れ込みはしたが強制はしていない、正規の道を辿って王女が単独で他国へ渡るなど、実際無理な話だった。一人の男のためにすべてを捨てて飛び出してきた事は事実、本人なりの覚悟はしてきている。私も見てきたからわかるが、こいつは嘘偽りなく命懸けだぞ」
アマネは睨むようにサーサリアと視線を交わし、
「一方からの思いに執着すれば不幸を招く、ましてや、王族の身であの子を追いかけようなんて、無謀以前にありえない話よ」
サーサリアは立ち上がり強く拳を握りしめた。
「片思いじゃ……彼は私にそれを預けて待ってろって……ッ」
座ったままのアマネが、射貫くように、さらに鋭く視線を尖らせた。
「処世のために王女の機嫌をとって言っただけ。本当に想う相手なら、シュオウは力尽くであなたを連れ出していたか、側を離れなかったはず。置いていかれたという事実に目を向けて現実を受け入れなさい」
怪我と疲れのせいか、感情が激しく揺らいだせいか、血の気が失せるような心地を感じ、サーサリアは崩れるように地面に座り込んだ。
気落ちするまま俯き、
――だめ。
自身に言う。言葉一つで諦められるような気持ちであれば、ここに辿り着くまでに、とうに死んでいた。
――私は。
青い双眸に強い光を宿し、顔を上げた。
「諦めない、このまま自分の足で会いに行く、絶対に」
「自覚がないようだけど、ムラクモの王女であるその身にはカビの生えた怨念が纏わり付いている。自分の気持ちだけを優先して、この世界を自由に駆け回っているシュオウに余計な火の粉をかけようというのなら――――」
アマネが、なにかを投げるような姿勢で片手を持ち上げた。直後、シャラに肩を蹴り飛ばされ、サーサリアは硬い地面に投げ出される。
だが、アマネの手は空、状況に変化はない。
シャラはアマネを睨みながら、
「ただのふり……? 本気の殺気を感じたぞ……我々をどうするか、結論を出したということか」
アマネが薄ら笑いを浮かべた。その顔は表面上、人当たりの良い女が浮かべる凡庸な笑顔だったが、その目を見てサーサリアは恐怖を感じた。双眸は夜の色よりも重く、闇の中で覗く井戸の底よりもずっと暗い。
アマネは猫のように柔軟な動きで腰を浮かせ、
「二人ともありがとう、おかげで大方の事情は理解できた。それを踏まえた上で最後に聞くけど、このまま大人しく自分の家に帰るつもりは……ないのよね」
アマネにじっとりと見つめられ、サーサリアは寒さを感じて自身の肩を抱き寄せる。
目を背けたくなるのを堪える、視線を交わしたまま、
「ないわッ」
断言した。
「なら――」
アマネの顔から、すっと色が消えていく。
直後にズン、と地面が爆音と共に激しく振動した、シャラだ。
強化された脚力で地面を蹴り、土埃を巻き上げながらアマネを狙って強烈な回し蹴りを繰り出す、しかし当たらない。一発目は僅かに足を擦って後退した標的に届かず、さらに下段を狙った豪速の蹴りもまた空を斬って終わる。
いつも余裕の態度を貫くシャラが珍しく顔色を悪くし、
「な……?!」
三発目に蹴り出された足を躱したアマネがシャラの足を掴み、体の均衡を崩してそのまま地面に組み伏せた。
シャラの足と手を封じ、突っ伏した背中に膝を乗せた姿勢で、アマネがシャラの耳元に顔を寄せる。
「私は生まれつき勘が良くてね、曖昧さから生じる不完全な部分は、経験と技で補っている。挑戦に免じて教えておくけど、あなたはかなりわかりやすい、視線とつま先がどこを攻撃したいか訴えている、能力はあっても、あまりにも愚直――」
言い終えると同時に、シャラの腕を取って、あってはならない方向へと折り曲げる。耳に不快な、聞いたことがない重い音が鳴った途端、シャラが体を震わせ、溺れたように足をばたつかせた。
地面に顔を擦りつけ脂汗を滲ませ、涙を流すシャラが無理矢理首を捻ってサーサリアへ顔を向ける。
「戦え、殺されるぞッ!」
シャラが絞るように叫んだ。
――戦う?
シャラの必死の形相が恐怖と混乱を煽る。それに加え、極度の疲労がサーサリアの思考を鈍くしていた。シャラの言葉が漠然と頭に響くなか、目の前にいる脅威が次なる獲物として自身を捉える。
転べば咄嗟に手を伸ばすのと同じく、本能に直結した必死の行動を、サーサリアはとっていた。
空中が紫色に染め上がる、命あるすべての者を死に至らしめる、猛毒を内包する晶気の霧が顕現した、だが、
「――ッ?!」
頭に鈍い痛みと、骨に伝わる重い音が全身を駆けぬけた。衝撃に抗えず地面に倒れ込む、と同時に晶気によって生み出した毒霧は、完全体を成す前に、音もなく霧散して消えていた。
横向きに見る視界のなかに、石塊がごろりと転がる。石塊の面についた血が自分のものであると理解するまでに僅かに時間を要した。
一人、悠々とこの場を支配するアマネは、ゆったりとサーサリアへ歩み寄り、
「同じ人間である以上、相手がどれほど凄い芸を使うことができたとしても、時に応じて適切な状況と方法を選択すれば、どんな相手でもかならず仕留める方法はある――」
目の前まで歩を進めたアマネが、サーサリアの髪を掴んで無理矢理に顔を上げさせた。目の前には、声を殺して痛みに耐えている様子のシャラの姿がある。
「意地を張って選択した行動の結果が見えるでしょう。この後、あの子は私に殺されて、あなたも同じ結末を迎えることになる」
「あ……く……」
声にならない音を漏らし、サーサリアは弱り切ったシャラをじっと見つめた。
「最後にもう一度だけ選ばせてあげる。大人しく自分の世界に帰りなさい、そうすれば生かしておく、考えるまでもないはずでしょう、ねえ、王女様」
アマネの口か出る王女、という響きが異様なほどの冷たさを帯びている。頭から垂れてくる自身の血が片眼に入り、痛みに堪えつつ反射的に瞼を閉じた。
片方だけ開いた視界でシャラを見る。頬を地面の土で汚したシャラと視線が重なり、サーサリアは細った声で、
「ごめんなさい……」
そう言って、シャラに微笑みかけた。
シャラは苦痛を押し隠し、大きく口を開け、白い歯を覗かせて心の底からおかしそうに笑みをみせ、
「いいぞ、それでこそだ」
と嬉しそうに言う。
ごめんなさい、と許しを求めて言ったのだ。友の命を盾にされても、自身の命を脅かされても、それでも一歩でも後ろに下がる気はないと、まったく愚かな決意を曲げるつもりがない。
シャラはその決意を知って、楽しげに笑っている。怒るどころか、まるで褒められているような気持ちなりに、つられるようにサーサリアも笑っていた。
その時、突然髪を掴む掌握が消え、頭ががくっと地面に落ちる。
恐る恐る視線を上げてアマネを見ると、
「本当に……頭の悪い…………」
別人のように寒々しく感じた無表情さは消え、元の柔和な雰囲気を帯びたアマネがそこにいた。