怨念 1
短めの内容になりますが、しばらく週一更新になります
詳細は活動報告をご覧ください。
怨念
1
寒さを感じ、サーサリアは自身の身体を小さく丸めて抱き寄せる。
目を閉じたままの暗い世界で、ふと鼻先に異様な匂いを感じた。脳天の奥まで貫くような強い刺激を感じ、微睡みから意識が強引に覚醒する。
「ッ……う……」
目の前に置かれた異臭を放つ小瓶から、爆ぜるように顔を背けると、
「起きた」
聞き慣れない女の声が言う。声の主はすぐ側に座っていた。
黒髪を肩に流し、微かに首を傾けてこちらを覗きながら、優しげで柔和な表情を浮かべる。東地人の特徴が色濃い、綺麗な女だった。
「お前、は……」
言いかけて思い出す。気を失う前に体験したこと、その顛末を。
――あれから、なにが。
失われた記憶の糸を繋ぐため周囲を観察すると、岩壁の浅い窪みに身を置いているのがわかった。
目の前にいる女はただ座っている、なにげなく見ていたその様子に、しかし徐々に覚めていく思考は、ようやくあってはならない二つの物を視界に捉えた。
一つはシュオウの黒い外套、肌身離さずここまで身につけていた大切な預かり物が、今は別の女の体を温めている。そしてもう一つ、
――シャラ。
女がシャラの背中の上に、まるで椅子のように腰掛けていた。左手と右足を背中越しに縄で縛られ、身動きのとれない体勢で下敷きにされている。
シャラの目は意思を持ってはっきりとサーサリアを捉えていた。しかし、言葉を発しようとはしない。
「シャラッ!」
駆け寄ろうとして腰を浮かせると、シャラは無言で首を振ってそれを制する。
女はシャラの髪を掴んで顔を上げさせ、
「先に起こしたこの子には、喋るなと伝えてある――あなた達二人とも、互いを思いやっているようね。友情、愛情、親しみ、いずれかのしがらみによって関係が結ばれている者どうし……そうなると、両者を簡単に操れる」
女は指の隙間から白い鉤爪のようなものを出し、シャラの顔に当てた。自分にされていることではなくても、結果を想像するだけで背筋が冷たく凍り付く。
女は優しげに目を細め、肩に羽織ったシュオウの外套にそっと触れた。
「まず先に、これを持っていたあなたに質問をしたかった。嘘をつかなければ、この子に傷はつけない――――聞くけど、あなたは誰? 身なりからおおよその予想はつくけど」
どう応じるべきか判断に窮し、縋るようにシャラを見つめた。シャラは眉間に皺を寄せつつ、迷いを払うように顎を引いて前進を促す。
サーサリアは姿勢を正し、
「ムラクモ……ムラクモ王女、サーサリアである」
怯えと戸惑いを隠しながら、精一杯の虚勢を張ってそう告げた。
女はきょとんとした表情をして眉を上げ、
「ムラクモの……王女……?」
たっぷりと間を置いて息を止め、まるで値踏みをするようにサーサリアの顔を凝視する。
無遠慮な視線を不愉快に感じながらも、サーサリアの視線は自然と女の肩にある黒い毛皮の外套に奪われていた。
サーサリアは自戒のために密かに唇を噛んでから、
「……サーサリア・ムラクモの名において命じる、すぐにその者を解放しなさいッ」
しかし女は無視して笑声を漏らし、
「どういう巡り合わせなのかしら……」
不可解な独り言を呟く女にサーサリアは苛立ちを覚え、険しい顔にそのまま怒りを吐き出した。
「話を聞きなさいッ、シャラを解放して、私の物を今すぐに返しなさい!」
精一杯の虚勢を張り、大国の王女として他を威圧するように伸ばした背筋から、見下ろすように命令を告げた。
女は突如顔色を変え、射貫くように鋭い視線でサーサリアをじっと見つめた。羽織る黒い外套に触れながら、
「これはあなたの物じゃない、嘘をつけば傷つけると言ったはず」
女が鉤爪を握る手に力を込めた瞬間、
「待って!」
サーサリアは叫んでいた。
鉤爪の先が、シャラの頬の肉に僅かに食い込んでいる。あと僅かにでも力がかかれば皮膚が破れる、という寸前で手は止まっていた。
サーサリアは固唾を飲み下し、
「……私の物では、ない」
女は首肯し、
「そう、あなたの物ではない。だから手に入れた経緯を聞かせなさい、慎重に、正直にね」
サーサリアは激しく困惑していた、この女がなぜシュオウの外套の出所に執着するのか、その理由の糸口さえ理解できずにいる。
得体の知れない者を相手にしている今、要求のままに答える事が正しいことか否か迷いも生じる。が、シャラの顔に当てられた鋭利な刃先を見て、迷いは晴れた。
「それはあるひとから預かっている物。それを持って、待っていろと言われた」
女は、
「その相手の名は」
問われ、サーサリアは外套を見つめながら、
「――シュオウ」
「――シュオウ」
持ち主の名を答えたと同時に、女が同じ名を口にした。サーサリアは驚いて女を見つめ、
「なんで……」
女は物憂げに視線を傾け、
「…………あの子が言いそうな言葉には聞こえないけど」
女はうつ伏せに組み敷いていたシャラを横向きに寝かせ、
「南方人のあなた、今の話は事実? 話しなさい、嘘をつけばもう一人を傷つける」
と顔を覗き込みながら問う。
シャラは頷いて、
「事実だ、シュオウという特徴的な大きな眼帯をした銀髪の若い男、それは奴がサーサリアに預けていった物だ」
女はシャラの顔を覗き込み、
「そう……とりあえず、嘘はついてない。よかったわね、もし奪ったり盗んだりした物だったとしたら――」
シャラは額に玉のような脂汗を浮かべ、顔を強ばらせた。
「あの人のこと……どうして……」
突然現れた謎の人物が、なぜシュオウを知っているのか。抑えようもなく、その事が堪らなく気にかかる。
「シュオウは元気?」
まるで昔からの知り合いのように気さくに聞く女の態度に戸惑いつつ、サーサリアは頷いた。
「そう、よかった。もっと詳しく聞かせてもらいたいわ。時間がかかるだろうから、その前に夜明かしの支度をしたほうがよさそうね、あなた達、ついてきなさい」
女はシャラの手足を縛っていた縄の拘束から解放し、立ち上がる。
シャラは獲物を前にした猫のように素早く身を屈め、鋭く女を睨めつける。
女は腰に手を当て振り返り、
「自信がなければ解放しない、私ならそう考える。言っておく、仕掛けてきたら問答無用で殺すわ」
晶気を扱う二人の人間を前にして、なぜこれほどの余裕があるのか、女の左手甲にある白濁した輝石を見て、サーサリアはその飄々とした態度を心底不気味に感じた。
一人で歩き出す女の背を見ながら、シャラは徐々に力を抜いて真っ直ぐ立ち、サーサリアに手を差し伸べた。
「態度からしてシュオウを知る者であることは間違いない。今は少なくとも明確な敵意は感じないが……こちらは手負いで衰弱が激しい、今は奴に従い、様子を窺う。だが、もし手を出してきたらその時は容赦なく力を使え、例えどちらかが犠牲になってもだ、いいな」
サーサリアは頷いて、シャラの手を取り、腰を上げた。
女を追従するシャラは前を向いたまま、
「かなりの手練れだぞ」
と、独り言のように呟いた。
*
二人で女の後について向かった先は、先ほど男達に襲われた地点だった。
あの時、突然現れた謎の刺客達の亡骸は、最後に記憶にあったときのままの姿で点在している。
女は周囲の様子を俯瞰し、
「これだけ餌が転がっていてまだ手つかずなんて……」
剣を握った男が血だまりの中で絶命している。
サーサリアは恐る恐る、近くに横たわる死体に近寄った。包帯を顔中に巻いた男は目を見開いたまま、鼻から口にかけて包帯を手でずらしていた。
隙間から酷く爛れたような皮膚が露わになり、鼻に綺麗な手巾を当てた体勢のまま亡くなっている。彼が最後にとった不可解な行動と容姿から感じる不気味さに、吹き抜けた冷風が手伝って、体にぞわりと震えが走る。
「こっちへ」
女に呼ばれ、二人は奥へと足を運ぶ。
木にぶら下がったまま、微風に揺られる女の死体を目に入れないように奥へ足を踏み込むと、絶命した別の男女の死体が横たわっていた。
女は散らばっていた荷物を漁り、
「かなりしっかりとした用意がされているけど、配分は漠然としていて量も適当……焦って支度を整えた、というところでしょうね」
袋の中から水筒を取りだし、サーサリアへ投げ渡した。
サーサリアは不器用に水筒を受け取り、蓋を開けて匂いを嗅いだ。
「水ッ!」
飲み口にかぶりつきたくなる衝動を抑え、水筒をシャラに差し出した。
シャラは水筒を受け取らず、
「後でいい」
サーサリアは水筒を引っ込めず、
「だめ、熱を出してた」
二人で押し問答を続けていると、女がもう一つの水筒を投げて寄越し、シャラがそれを受け取った。
サーサリアとシャラは二人で顔を合わせ、水筒を傾け、貪るように水を飲む。
女は荷物袋を掲げてみせ、
「食料も水も量は十分……運ぶから手伝いなさい。それと、お姫様――凍えたくなければ、死体から着る物を剥いでいくことを勧めるわ」
肩に冬の冷気を感じ、サーサリアは恨みがましく女が羽織っているシュオウの外套を凝視した。
視線を泳がせなにかを探している様子の女に向かってシャラが、
「なにをしている?」
女は遠くへ視線を送り、
「――いいえ、なんでもない」
視線を逸らし、荷物を拾って背負い込む。
「急ぎなさい。さすがに、暗くなればなにかが死臭を嗅ぎつける」
急かされ、シャラが頼りない足取りで落ちた荷を拾っていく。サーサリアは横たわった女の死体が羽織る外套を見つめ、奥歯を深く噛みしめた。
硬直していると、脇から現れたシャラがしゃがみ、横たわる女の死体から外套を剥ぎ取った。
「さっきの忠告は的を射ている。私のものを貸してもいいが、お前には少し小さいからな」
そう言って外套を差し出すが、サーサリアはそれを受け取ることができず、険しい顔で服の裾を握りしめた。
女は荷物の物色する手を止めぬまま、
「死者から奪う事に躊躇いを感じているんでしょうけど、本質的に、やっていることは何かを食べることとかわらない。ここでは弱い者から死んでいく、転がっている死者と同じ結末を迎えたくなければ、何も考えず必要な物を手に入れなさい」
王族に対する敬意もなく、まるで親や教師のように諭すような物言いをする相手に理不尽さを感じ、サーサリアはまだ痛みの残る鼻の穴を膨らませ、シャラの手から渋々外套を受け取った。