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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
87/184

毒巣

 毒巣







 1







 ムラクモ王国の領地、ユウギリの街の一角、古ぼけた建物の奥で、包帯で顔を覆った男が、木くずまみれの薄汚い調理台に足を乗せ、椅子を傾けて酒を煽っていた。


 隙間風の入るあばら屋では厚着がかかせず、男は使い古して薄汚い毛皮の防寒着をきっちり着込んでいる。その手の甲には、出で立ちには不釣り合いなほど、美しい青色を称えた彩石があった。


 かつての貴族、かつての輝士、しかし死者として表舞台から姿を消して久しいこの男には現在、名がない。


 故に、一見してその者を知らしめる特徴からとり、男は短く、こう呼ばれていた。


 「おい、包帯男!」


 ドタドタと足音を立てながら、年配で小太りの男が声を張りながら現れる。


 「このやろう……お前の声と体臭で酒が不味くなった、これ以上は飲めん、代わりを今すぐ買ってこい」


 包帯男から文句をくらい、小太りの男は調理台の上に置かれた酒瓶を見て大きく溜息を吐き出した。


 「なにがまずくなっただ、中身なんて入ってないぞ、空じゃないか! 嘘をつき他者を欺けば咎となる、そういう小狡こずるい事ばかりしていると天より罰を受けることになるのだぞ。また聞かせてやらねばならないようだな、稲光より新たな聖典を授かったと嘘をばらまいた、ある兄弟の伝説と、その悲惨な末路だ――――」


 神妙な顔つきで胸の前で指を組みはじめた小太りの男を目がけて、包帯男は空になった酒瓶を放り投げた。


 「黙れリシア教徒、これっぽちの安酒でお前の糞説教など聞いてられるか」


 リシア教徒と呼ばれた小太りの男もまた、包帯男と同じ境遇に身を置く者である。名を持たぬ者同士、包帯男は彼を、自称する来歴と常の態度から、そう呼んでいた。


 リシア教徒は投げられた空の酒瓶を慌てて受け止め、

 「あんたはまたッ……どうしてこう乱暴なんだ」


 包帯男は唾を吐き、

 「お前が女で、でかい尻と胸がついてりゃ酒をついでやるさ」


 リシア教徒は肩を震わせ、

 「やめてくれ、あんたに口説かれてる自分を想像してしまったではないかッ――いや、それどころではないぞ! まったく、余計な事を言うから大事な事を言いそびれてしまったッ」


 リシア教徒は言うなり額から汗を拭きだした。この男が緊張しているときに出る兆候だ。


 包帯男は目を据わらせ、

 「なんだ、仕事か……?」


 リシア教徒は呼吸を荒げ、そして大袈裟なほど声を落とした。


 「そうなのだ、ご主人様からのお達しだ、指令内容は標的の抹殺、手段は問わず、しかし早急に事を運べとな」


 「殺しか……その焦りようじゃ、相手は大物だな」


 包帯男に問われたリシア教徒は、瞬きも忘れ何度も繰り返し頷いた。分厚く、熱で紅く染まった舌で唇をしつこくなめ回し、


 「対象者はムラクモ…………サーサリア・ムラクモ、王女、殿下だ」


 ガタリと音をたて、包帯男は腰を浮かせた。


 「おい……嘘じゃないだろうな」


 「嘘なものかッ……あ、いや、嘘であってくれればいいとすら思う。どうやら、王女様が上の領主邸から失踪したとか。付き添いの輝士隊は、未だに消息がつかめていないということで――」


 包帯男はリシア教徒の言葉を遮り、

 「それで、か。どうにも市街地で銀鎧の坊ちゃん嬢ちゃん達が血相変えてうろついてると思ったら……」


 リシア教徒は頷き、

 「ああ、ああ、そうだ、姫君を探していたのだろう!」


 包帯男は皮肉を込めて鼻で笑い、

 「姫なんて歳じゃねえだろ」


 「こら、不敬だぞ!」


 「殺しにいく相手に不敬もくそもあるか」


 「こ、ここ、声が大きい!」

 小心者のリシア教徒は顔を青白くして両手で空気をかきまわした。


 「我らの冷血なる主殿あるじどの、氷姫はいよいよ大それた野心を抱かれたか。よりにもよってそんな大事、氷狼の影にも入れない俺達のようなゴミ屑にやらせるとはな」


 東方四石の一つ、氷長石を有するアデュレリアには、その影に隠れて暗躍し、従属する影の組織が存在する。が、包帯男やリシア教徒のような者達は、大概が経歴に大きな傷を抱えながらアデュレリアに抗い難いほどの弱味を握られ、各地で諜報活動等の裏の任務に従事させられている使い捨ての存在でしかない。


 包帯男のような存在は、たとえ失態を犯そうとも、その存在がアデュレリアに繋がることは決してない。


 「そうだな――」

 思い至り、

 「――ゴミ屑にこそ適任というわけか」

 包帯男は頷いた。


 ムラクモに残された唯一の王族、サーサリア王女の暗殺、それを計画した事だけでも表沙汰になれば、少なくともアデュレリアの現当主の立場は危うくなる。


 即断即決で事に当たることを考えた場合、現地に張り付いている切り捨て可能な手駒を差し向けるのは極当然の成り行きといえるのだろう。


 リシア教徒は、

 「上は標的の完全なる抹殺を求めている、とても強い命令だ、今までに例がないほどに」


 包帯男は、包帯の隙間から僅かにのぞく口元で笑みを浮かべ、


 「だろうよ。王女を抹殺、死体を隠蔽し、その生死が不明のまま、前代未聞の大失態の責が誰にあるかと、声高に叫びたいのだろう」


 ムラクモの貴族社会をよく知る包帯男にはアデュレリアの目論みがよく見えた。限界を超えて血が細ったムラクモ王家最後の王女の死は、実質王家の石である天青石の死を意味する。その瞬間、国が冠するムラクモの名と意味は消え、長らく太平が続いた東の地に、混沌と流血沙汰を巻き起こす火種となる。したたかに野心を秘めていた氷狼の一族にとって、これは失地の奪還と玉座の復活を狙える千載一遇の好機というわけだ。


 「包帯男……私は、恐ろしい。こんな大事、例え成し遂げたところで、上が、すべてを知る我々を生かしておくものだろうか」


 「わからんが……ま、平気だろう」


 「あんたそんな軽く……」


 「ばかやろう、どっちにしても俺達は首に鎖を巻かれてる、やれと言われりゃやるしかないんだ。主は冷徹で公正だ、結果をだせば評価をくださろう、今回ほどの件をうまく片付ければ、きっと褒美をもらって自由の身もあり得るだろうな」


 「そ、そうか……ご褒美が……ッ」


 リシア教徒は冷え切った声を僅かに弾ませた。


 「よし、そうとなりゃ急ぐぞ、この件、まさか俺達だけに話がきているわけもないだろう」


 「ま、まさか別の連中にも?」


 「俺ならそうする。いるかいないかもわからん連中に出し抜かれる前に、まずは調査だ、王女の行方について手がかりがなけりゃなにもしようがない」


 「だが、どうやって」


 包帯男は木板を打ち付けた窓の隙間から外を覗き込み、

 「夜が近い、暗くなってから一匹捕まえるぞ」


 「捕まえる? なにをだ」


 包帯男は自身の手の甲の彩石を見せ、コツコツと指で叩いた。




     *




 長らく領主が不在のユウギリは、各地から訪れる旅人達の休息所として重宝されているという性質もあり、盛り場と、そこを仕切る無頼漢たちが実質的に街の裏側を支配しているという二重の面を持っていた。


 夜のユウギリで盛んになる賭場の近くに、不釣り合いなほど豪華な装飾を施した銀の胸当てをした若い女の輝士が、一人で道の端に佇んでいる。


 包帯男は路地裏の物影から忍び寄り、輝士の後ろ首を掴んで物影に引きずり込み、素早く晶気を操った。首を掴んだ手元から水が沸きだし、それは即座に球体を成し、輝士の頭を完全に水中に閉じ込める。


 「ゴボ――ッ」


 地に足を付けたまま溺れる輝士は、水を剥がそうともがくが、頭に張り付いた球状の水は剥がれず、やがて膝をつき、前のめりに倒れ込んだ。


 首の掌握がとれた瞬間、水は弾けて地面を濡らした。


 「知らないぞ、私は……ムラクモの優等輝士に手を出すなんて……」


 リシア教徒が震える声で、気絶した輝士を覗き込む。


 「手伝え、隠れ家に運び込む」




 蝋燭の明かりだけを置いた薄暗い夜の隠れ家で、封じの手袋をはめさせられ、後ろ手に椅子に縛られた輝士は、濡れた黒髪をだらりと流しながら、意識を失ったまま首を下げていた。


 包帯男は輝士の髪を掴み、顔を上げさせて頬を強く平手打ちした。


 「こらッ、若いお嬢さんだぞ、顔を傷つけてやるな」


 リシア教徒は上っ面のきれい事を吐くのを好む、彼の癖を嫌気と共に熟知している包帯男はうんざりしながら指摘を聞き流した。


 「おい起きろッ、いつまで寝てるつもりだ」


 包帯男は再び輝士の顔を平手で強打した。


 「ぁ……ぁ……」


 瞼を開けた輝士の焦点が、ゆっくりと包帯男に合わさると、途端に恐怖に顔の血の気が消え失せた。すぐさま逃げだそうともがくが、椅子に拘束され、まともに身動きがとれなくなっていることをすぐに自覚する。


 「状況が飲み込めているか?」


 包帯男の問いに、女輝士はぎろりと敵意ある視線を返す。


 包帯男は眉を上げ、

 「――理解も半分ってところだな」

 腰から幅の広い刃をつけた短剣をとりだした。


 蝋燭の明かりに照らされた刃を見た女輝士は、険を込めていた目を、抑えきれぬ恐怖で上塗りする。


 「や、やめて……」


 かすれた小さな声で懇願するような呟きを聞き、包帯男は刃に指を当てながら満足そうに頷いた。


 「そうだ、お前は拘束され、俺に生死を握られている状況に置かれている。晶気は封じられ、手足を縛る縄は馬鹿みたいに頑丈だ。脱出は不可能、反抗すれば従順になるまでさっきと同じように溺れさせる、そうなったら無駄な時間を忘れられない苦しみと共に過ごすはめになる。以上、すべてを理解したなら、はいと言って首を振れ」


 女輝士は固唾を飲み下し、

 「…………は、い」

 言われた通りに首を縦に振った。


 「よし――」


 包帯男は短剣をしまい、椅子を手に取り、女輝士の前に置いて背もたれを前にしてだらしなく腰掛けた。


 「――お前、家は」


 女輝士は声を震わせながら、

 「……ア、クリ」


 「アクリ家か……領地にでかい菓子屋があるな、たしか、どんぐりの臭いがする有名な菓子があっただろう」


 しかし、


 「木莓の香り……」


 「なんだ?」


 包帯男に睨まれた輝士は、

 「どんぐり、じゃなくて…………いえ、なんでも……」

 ふい、と目をそらした。


 「ぷッ――」


 部屋の隅に控えていた覆面をしたリシア教徒が、たるんだ腹を盛大に揺らして笑いを堪える。


 包帯男は大袈裟に咳払いをし、

 「とにかく、アクリ家のお嬢ちゃん、俺達がわざわざ親衛隊の輝士を誘拐したのは聞きたい事があるからだ。いいか、さっき言われたことを思い出しながら心して答えろ、今現在、親衛隊は王女の所在を把握しているか」


 輝士の形相を激しい動揺の色が支配する。この瞬間、彼女を間近で観察していた包帯男は、王女失踪が事実であると確信した。


 「わたしはまだ、親衛隊に入ったばかり、で……なにを……言っているのか……」


 包帯男は再び腰から右手で短剣を引き抜き、

 「わざとらしくしらばっくれるな、時間の無駄なんだよ――」

 空いた左手で輝士の首を掴んだ。


 包帯男の手元から、じわりと水が発生する、その感触に輝士は激しく恐怖を露わにした。


 「いやぁぁッ――――」


 包帯男は輝士のあごの位置で水を止めて手を離し、

 「知ってることを全部言え、そうすれば俺もなにもせずにすむし、お前も苦しい思いをせずにすむ」


 その若い女の輝士の表情には、微かに残っていた親衛隊という選ばれた存在としての誇りも、跡形もなく消えていた。媚びを含む薄ら笑いを浮かべつつ、しかし激しく唇を震わせながら、


 「言えば、生きて……帰れます、か……?」


 包帯男は白い歯を見せて笑い、自身の左手の甲にある彩石を見せる。


 「俺は役立たずは嫌いだが、役に立つ奴は大事にする。もとは俺もそっち側の人間だ。質問の答えは…………そうだな、同族のよしみで無事なまま返してやる、俺の役に立てば、だがな」


 輝士はしばらく包帯男と視線を交わした後、喉を鳴らして、ゆっくりと口を開いた。




 人気のない路地に置き去りにした輝士が目隠しをはずし、空気にすがりつくように逃げ去っていく。その姿を見届けた包帯男は、深く白い息を吐きだした。


 「まさか本当に生かしたまま行かせるなんて……いいのか? 私達の事が伝わったら……」


 覆面を剥ぎ取り、リシア教徒が不安げに言った。


 包帯男はふん、と鼻息を飛ばし、


 「親衛隊の輝士を消せば無駄に警備がきつくなる。それに、奴らの頭にあるのは名誉と出世の事だけだ。どこの誰ともわからんやつに捕まって情報を吐いたなんてこと、わざわざ報告したりはしない。頼まなくたって必死に失態を隠そうとする」


 リシア教徒は感心した様子で頷き、


 「なるほどねえ、貴族の習性というやつか……さすがにあんたは詳しいな。しかし、これからどうする? 仕入れた情報じゃ、探し出すだけで相当に骨が折れるぞ。だいたい、私達がその気になってぽんと見つかるようじゃ、とっくに親衛隊が見つけだしているはずだ」


 包帯男は喉の奥で唸って、

 「だな……」


 実際、かけた労力に見合う情報を仕入れることはできなかった。輝士が吐き出した情報は、王女が夜間に失踪したこと、王女と同時に姿を消した異国の姫の存在、そして各関所に厳重な検問を敷いているが、未だに王女の行方をつかめていない、ということだ。


 隠れ家に戻り、包帯男はユウギリの古い地図を食卓の上に広げた。


 「上の領主邸の周辺にはなだらかな森がある、広いが親衛隊の奴らが本気で探して見つけられないほどじゃない」


 共に覗き込むリシア教徒が、地図の領主邸に指を置いて下へとなぞった。


 「地下、ということはないのか?」


 包帯男は腕を組み、

 「当然探しているだろう、が、連中はまだ見つける事ができていない。検問をしき、ユウギリの出入りの監視もしているが、親衛隊の連中も気持ちじゃ街中をひっくり返して探したいんだろうが、騒ぎにすれば王女失踪が周知される危険が増す、だから、こそこそと理由をつけて街中を探っているんだろうが」


 「街のやくざ共に捕まっている可能性はないのか?」


 リシア教徒の言に包帯男は頷き、

 「ない、とは言えないがな」


 「……連中に探りを入れてみてはどうだ」


 「奴らが王女を隠してなんの得がある。この街を影から仕切っていようと、しょせんはごみ共の群れでしかない。ムラクモじゃ神にも等しい天上の翼蛇に手を出すなんて、ただの自殺行為だ」


 「だったらいったい王女はどこに……」


 「……動機だ」


 「なんだ?」


 「動機を考えろ、なぜ王女は失踪した。自分の意思か、それとも異国の姫とやらに拐かされたか?」


 リシア教徒は思考を巡らし、


 「そりゃああんた、他国の姫がそそのかしたという可能性は高いだろう? あんたも言ってた通り、東方で王族に手を出すなんてことはただの自殺行為にしかならないんだ」


 「ああ、おれもそう思う……だが、その姫が王女をさらったとして、どうやってここを出る?」


 「それは……」

 リシア教徒は腕を組んで唸った。


 「王女がいなくなればそう遠くないうちに親衛隊が気づく、どんなに急いだってユウギリを出て白道までたどり着く事は困難だ。が、未だにその足取りが掴まれていないとすると……」


 包帯男は地図をなぞり、領主邸からずっと北、森を抜け、山を下った先にある薄暗い灰色に塗られた地点を指さした。


 リシア教徒は息をのみ、

 「おいまさか……」


 「深界だ。発見が遅れている現状を鑑みるに、その可能性は十分にある」


 「それこそ自殺行為ではないか……いくらムラクモの姫君とはいえ、たいした護衛もつけずに灰色の森に入れば死んでしまう。いや、ないないッ、ご本人がそれに気づかぬわけがない、ありえないぞそれは」


 「もう忘れたか、王女は一人で失踪したわけじゃない、他国の姫に連れ込まれたかもしれない」


 「……かもしれないが、だがなぁ」


 「よし行くぞ」


 「行くって、どこに? まさか、深界に行くっていうんじゃないだろうな」


 「確証を得てからだ。まずは手がかりを追う、根掘り採集人の連中が飼ってるブタは犬よりも鼻が利く、王女の匂いがついた物を手に入れ、その匂いをブタに追わせる」


 リシア教徒は盛大に首を傾げ、

 「なるほど……だが匂いといったって、雲上人の王女の匂いのついたものなど、いったいどうやって手に入れるつもりだ」


 「仕立屋だ」


 「仕立屋?」


 「いつだか噂になっていただろう、表通りの服屋が王女から新作の注文を受けたとな。特注となると予備と試着用に似たような物を複数用意するのが慣例、ムラクモの王女が求めた物となれば、余ったものでも丁重に保管されているだろう、まずはそれを手に入れる」


 包帯男は外套を羽織って外へ足を向け、

 「急げ、リシア教徒。これから先、一時も休んでいられる暇なんてない」


 「あ、ああ――」

 リシア教徒は慌てて蝋燭の明かりを消し、はっとなって顔を上げ、

 「――待てよ……もしそうとわかったら本当に深界へ降りるつもりなのか? おい、包帯男!」




     *




 「私はこそ泥じゃないんだぞ、聖なるリシアの教えを広めるため使命を負い、使わされた教師なのだ、それをこんな――――」


 仕立て屋の裏手の扉にかかった鍵をせっせとこじ開けながら、リシア教徒がぶつぶつと小声で文句を言う。


 生まれた場所、年齢や信じるものが違えど、この男も包帯男と同様、アデュレリアという大家に生殺を握られる立場にある。


 口では常々、己が聖職者であると自称しているが、手際よく鍵をあける手練の業を目の当たりにすれば、自称する身分の信憑性も甚だ疑わしい。


 「開いたぞ」


 小声で告げるリシア教徒。包帯男は頷いて、

 「店主は住み込みだな」


 リシア教徒は人差し指を上に向け、

 「ああ、二階に居住しているはずだ。聞き出すつもりなのか?」


 包帯男は袖をまくり、

 「命を賭けるほどのねたじゃない、軽く脅せば従うだろうがな。まあ、抵抗されれば相応の拷問にかけるだけだ」


 しかめっ面をするリシア教徒を無視して、包帯男は暗い店内へ足を入れた。


 広々とした作業部屋を抜け、商品を並べた店舗部分に踏み込む。店の中心に、金属の檻に囲われた一着の美しく優雅な青い婦人服が、微かな月明かりに照らされ、淡くその像を浮かび上がらせていた。


 展示されたその服には、優美なるサーサリア王女殿下ご着用、と書かれた札がかけられている。


 「いい腕してるじゃないか――」


 包帯男は札を手に取りにやりと笑み、


 「――喜べ、手間が省けた。こいつをいただいて次へ行くぞ」


 言って、リシア教徒に札を見せる。


 檻の鍵を誰が開けるのかと、一瞬嫌な顔をしたリシア教徒は、しかし穏便に事が片付いたことに、露骨に安堵の表情をしてみせた。




     *




 盗んだ服を鞄にしまい、下水を這うネズミのように、こそこそと夜道の端を進む。すると、二人組の男女が向こう側からこちらへ向かってくる様子が目に入った。


 女は白い毛皮の外套を纏い、背に黒い軽弓を背負っている。男は長さの違う二本の刀を下げているが、左右、胸元近くから吊り下げるという特徴的な持ち方をしていた。


 両者とも黒々とした髪、張りの残る肌質から判断して、齢は二十代の若者と見受けられる。


 ――こいつら。


 一目見て包帯男は勘づいた、二人が武芸を修めた者達であると。


 自然、肩から背にかけ、筋肉が強ばった。緊張を感じて、同様にリシア教徒がしんと息を潜める。


 距離が近づくにつれ、男女の表情がよく見える。剣士と思しき男は、一重まぶたで切れ長の双眸を鋭く光らせ、じっと包帯男を凝視する。弓を背負った女もまた、半笑いの表情で包帯男のつま先から顔までをじっくりとなめ回すように見つめていた。


 日常であれば、ほとんど喧嘩を売っているに等しいほどの視線を送られても、しかし包帯男は二人からの視線を早々に躱し、歩調を維持したまま通り過ぎる。


 夜道に互いの靴音が聞こえなくなった頃、リシア教徒がどっと息を吐き出した。


 「はあ……なんださっきの連中は、ひとのことをじろじろと……」


 包帯男は足を止めて振り返り、


 「どう見ても素人じゃないな。この街じゃ、ああいうのがいても不思議じゃないが、夜更けに酒も音楽もないこんな場所で出くわすってのは、偶然にしては気味が悪い」


 リシア教徒は顔色を悪くし、

 「お、おい、変なことを言うな」


 包帯男は思案し、


 ――同業か。


 その可能性がまっさきに頭に浮かんだ。


 「……まあいい、かまっている暇はない。行くぞ次の目的地だ」




 沈んだ冷気を掻き分けて馬を進める。そこは郊外に点在する小さな牧場の一つだった。


 「ここに例の、そのブタが?」


 寒さで顔を真っ赤に染めたリシア教徒が、馬上で体を揺らしながら問いかける。


 包帯男は馬上で小さな水筒を取り出し、入れている度の強い酒をぐいと煽った。


 「ここに腕の良い根掘りの女主人がいるって話だ。根掘りの連中は馬鹿みたいに高値がつく古い植物の根を掘って儲けている。地中の根を探り当てるために、代々交配を続けてきた特殊なブタを飼ってるってんでな」


 リシア教徒は頷いて、

 「なるほど、そのブタをサーサリア様の捜索に借りようというわけだな」


 「そうだ。一つ言っとくが、この先軽々しくその名を口にするなよ」


 包帯男の指摘に、リシア教徒は慌てて自らの口を塞ぎ、複数回頷きを繰り返した。


 馬上から微かなランタンの明かりを頼りに荒れた道を進む。間もなく、古びた牧場と木造の住居が見えてきた。その時、


 「フゴオオフゴオオッ!!――」


 先のほうから醜い獣の鳴き声が響き渡り、馬が怯えたように足を止め、後ずさる。


 直後、目の前の地面に矢が、ドッという音と共に突き刺さった。


 住居のほうから白い寝間着姿の女が矢を構え、

 「ブタの餌にされたくなきゃ消えな!」

 張りのある威勢の良い声で叫んだ。


 包帯男は両手をあげて、

 「待て! 強盗じゃない、仕事の依頼にきたんだ」


 女は微かに首を傾け、

 「仕事? 嘘くさいね……本当だとしても常識がなさすぎる。明るくなってから出直してきな! 機嫌が悪くなきゃそんとき聞いてやるよ」


 包帯男は両手を挙げて固まるリシア教徒へ手を差し出し、

 「出せ」


 「出せって、なにを?!」


 「金だ、袋一つ、まるごとよこせ」


 リシア教徒は慌てて片手を上げたまま、懐から金貨を入れた小袋を取り出し、包帯男の手に乗せた。


 包帯男は小袋を掲げ、

 「そっちへ投げるッ、手付金だ」

 声を張り、宣言通りに小袋を女のほうへ放り投げた。


 遠目に見える女の影が、しゃがんで地面に落ちた小袋を拾い、中を確認する。


 女は弓を下ろして振り返り、背中越しに手招きをした。




 「それで、遅くに突然現れてカトレイが入った袋を寄越すなんて、あんたら何者だよ」


 筋肉質な体付きに豊かな胸の肉を揺らし、寝間着姿の女主人は長い脚を組んで顔に垂れた前髪をふっと息で押しのけた。


 女主人の足元に座り込む人相の悪い黒豚を一瞥して、包帯男は立ったまま腕を組み、黒豚へ向けて顎をしゃくった。


 「ここのブタは鼻が利くと評判だ。金は払う、使えるのを一匹借りていきたい、今すぐだ」


 女主人は黒豚を撫でながらにやりと笑い、


 「へえ、犬飼いじゃなくてうちにくるなんて、あんたなかなか目が利くじゃないか。王都のばか貴族どもとは違うね――」


 女主人は気分を良くした様子で頬を緩ませた。そのまま包帯男の左手に視線を移し、


 「――ま、似たようなものみたいだけどさ」


 包帯男は身を乗り出し、

 「いま貴族と言ったか」


 「ああ、ちょっと前に近くで猟犬の繁殖をしてる爺さんのとこに輝士が調達に来たって話でね、くたびれた老犬が高値で売れたって飲み屋で自慢気に吹いてたんだ」


 リシア教徒が不安そうに包帯男を見て、

 「ほら聞いただろ、きっと先を越されている、別の方法を考えたほうがいいんじゃないのか」


 包帯男は舌打ちをして、

 「見てのとおりだ、俺達は急いでる、金は払うからブタを――」


 女主人は手の平を突き出して言葉を遮り、

 「うちの子達は物じゃないんだ、売りやしないし、貸し出しもしない。そもそも、他人の言う事なんて聞きゃしないしね」

 言って、手の平を真上へ向けた。


 包帯男は鼻から胸が膨らむほど息を吸い込み、

 「おい、だせ」

 と、リシア教徒に言った。


 催促を受け、リシア教徒は懐から財布を取り出し、

 「どれくらい出せば……」


 「全部だ」


 包帯男は財布を丸ごと奪い取った。


 リシア教徒は泣きそうな顔で手を泳がせ、

 「それは活動のために上から預かっている資金だぞ、さっきだってあんな――」


 包帯男はリシア教徒を無視して、重たい財布を丸ごと女主人の手に乗せた。


 「さっきの手付けに加えて、これ全部を渡す。この金でブタと込みでお前ごと雇う。どれだけ切羽詰まった相手の足元を見たって出てこない金額になるだろう」


 女主人は真顔で財布の中を確かめ、

 「たしかに、こりゃあ――」

 ぺろりと舌で唇をなぞり

 「――いいさ、受けてやってもいい。でもね、あんたちょっと異常なほど気前が良すぎる。こういう時ってのは、必ず変な条件がつくはず……そうだろ?」


 包帯男は頷き、

 「場合によっては深界へ降りる、白道の敷かれていない灰色の森の中へな」


 女主人は大金の入った二つの袋をじっと見つめ、

 「そんなことだろうと思ったよ……」


 包帯男はさきほどの女主人と同じように手の平を差し出し、

 「拒否するなら、この話は犬飼いの爺さんに持って行く」


 女主人はふっと笑い、

 「いい性格してるね、あんた。いいよわかった、これだけの金、汗水たらして働き通したってお目にかかれやしない…………やるよ」


 「はあ……なんてことだ……」

 リシア教徒ががっくりと肩を落とした。


 包帯男は、

 「よし」

 と短く言って、勢いよく腰を上げた。




 時をかけ、領主邸を囲む森へ到着した。


 景色を飲み込む夜の気配は薄まり、宵闇の間から零れてくる朝陽のかけらが、辺りを薄らと光で照らしている。


 途中、調達した物資を積んだ馬の足は重く、さらに街中に点々と配置されて目を光らせる親衛隊の監視を躱していれば、相応に手間を必要とした。


 リシア教徒が馬上で、

 「こんなに買い込んで、見立てが間違いだったと気づいたらどうするつもりなんだ」


 包帯男は首の付け根をぐりぐりと回しながら、

 「日持ちのするものばかりだ、どうとでもなる。それに、俺の勘じゃ予想に間違いはない」


 「間違っていることを神に祈る……」


 リシア教徒は胸の前で指を絡め、大袈裟な祈りを唱えつつ天上を仰いだ。


 包帯男は振り返って後方へ視線を向けた。金で雇った根掘りの女主人が、物資を積んだ馬にまたがって後を着いてきている。さらに、その後ろには白と黒の二色に分かれたブタが二頭、ヒモも繋がれていないのに、忠犬のように後をぴったりついてきていた。


 森の半ば、枯れ木の隙間から遠くに大木が見える場所で一行は足を止め、馬から下りた。


 「ここからだ」

 包帯男は鞄から王女が試着した服を取り出し、女主人へ渡した。


 女主人は驚いた顔で服を観察し、

 「なんだいこれ、こんな高そうな服――」

 領主邸のある大木が見える方角へ視線を流す。

 「――まさか、あんた達が探してるのって」


 包帯男は無言で女主人に睨みを効かす。女主人は言葉を止めて肩を竦め、服を二頭のブタの顔に近づけた。二頭のブタは強く鼻を鳴らしながら服の匂いを嗅ぎ続ける。


 女主人は険しい顔で膝を折り、地面に指を当てた。


 「湿った雪が降った痕、昨日は強風で荒れていたし、霜もついてる。こりゃ、よほど専門的に訓練された犬でもないと匂いを辿るのは難しいね」


 「そのブタ、本当に犬より鼻が利くのか?」


 疑わしげに言ったリシア教徒に対し、女主人は声を尖らせ、


 「この子らはそれぞれが別々の方法で匂いを感じ取る。黒のほうは風や空気に漂うものから、白のほうは地面から。枝にぶらさがった小さな木の実でも、地中の根っこやキノコでも、必ず見つけてみせるのさ、舐めるんじゃないよ」


 匂いを嗅ぎ終わった二頭のブタが同時に顔をあげ、飼い主をじっと見つめた。女主人が高音の口笛を吹くと、二頭は一斉に走り出し、周囲の匂いを嗅ぎ取り始める。


 白ブタは地面すれすれに鼻を向け、黒ブタは顔をあげて空中で鼻を鳴らし続けた。両者はまるで語り合うように交差を繰り返し、同じ箇所に顔を向けて停止し、同時に尻尾をつんと持ち上げた。


 女主人は地面を指さし、

 「間違いない、ここにいたね、それからあっちのほうへ――」

 なだらかな斜面を下る方角へ指を動かす。


 女主人が合図を送ると、二匹のブタが鼻を鳴らしながら斜面を下り始めた。しばらくの間、木々の間を縫うように後をついて歩き、遠目に灰色の森が見渡せる所へついた時、一行は足を止めた。


 「この先にあるのは灰色の森だけ……予想通りだな」

 包帯男は誇らしげに胸を張って言った。


 「はあ……」


 リシア教徒が悲しみに嘆息した直後、背後から落ち葉を踏みしめる音が鳴り、一同は一斉に振り返った。


 そこにいた人物を見て、包帯男は即座に身構える。


 「お前……」


 夜にすれ違った、二刀をぶら下げた、あの剣士だった。共にいた女の姿はなく、一人でそこに立っている。


 剣士は、

 「王女が着た服、か」

 リシア教徒が持つ婦人服を指して言った。


 包帯男は怯えて縮こまるリシア教徒の前に立ち、

 「なんの事かわからんな……」


 剣士は二刀に手をかけ、微かに腰を屈めた。


 「それはこちらが求めていた物だ――」


 言って膝を沈めた瞬間、鞘に収まっていた二刀の刀が一瞬で抜き放たれた。


 女主人が引きつった声で、

 「ちょっとこんなの聞いてないよッ」


 包帯男は胸に溜めた息を吐き出し、

 「戦うつもりか――」

 周囲に音もなく、無数の拳大の水球が空中に現れる。


 剣士は鋭く睨みを効かせ、

 「輝士、か」


 包帯男は前のめりに背をしならせ、

 「成れの果てだ」


 剣を構えたまま剣士が、

 「王女の行方を追っている理由は?」


 この男は知っている。


 「どんな答えを期待してる」


 「知りたい――救出か、それとも抹殺か」


 寒々しい早朝を目前に控えたこの瞬間、空気が重く凍り付いた。


 用意された答えは二択、相手が望まぬ回答をすれば、その瞬間この得体の知れない剣士は襲いかかってくるだろう。


 包帯男は対応に苦慮していた。頭の中には二つの可能性が、等しい重さで天秤にかけられる、敵か、否か。


 問題なのは相手の素性がわからないということ、慎重を期すため、手がかりが必要だった。


 「お前、雇われだな」


 剣士は微動だにせぬまま、

 「そうだ」


 「こっちもそうだ」


 背後からリシア教徒が息を飲む気配が伝わる。


 「雇い主は」


 剣士が真顔でそう聞いた。


 「ばかやろう、言うわけないだろ」


 剣士は目の鋭さを一層磨き、

 「目的を言わぬ、素性を明かさぬ、なら、斬るしかない」

 途端に臨戦態勢を整える。


 「ち」

 戦いが避けられぬと感じ、包帯男も晶気の操作に意識を集める。だがそのとき、


 「ア、アデュレリアだッ!」


 背後から突然、リシア教徒がそう叫んだ。


 包帯男は歯を剥いて一瞬だけ振り返り、

 「お前ッ!」


 リシア教徒は脂汗を拭いながら、

 「もしも身内なら殺し合いは無益だ、そうでないなら、そのときは改めて片を付ければいいではないかッ」


 包帯男は対峙する剣士の動向を観察する。剣士は静かに呼吸を整え、そして肩の力を抜いた。


 「早く言え」

 剣士は言って、剣先を地面へ向け、戦意を消した。


 包帯男は煙を払うように手を振って創造した水球を消し、


 「雇い主の素性をぺらぺら喋るなんてのは三流の仕草なんだよ」


 振り返り、引きつった笑みを浮かべるリシア教徒を睨めつける。


 「だが言わなければどちらかが死んでいたぞ、天より与えられた命を粗末にするものじゃない」


 リシア教徒がなだめるように言うと、剣士が同調する。


 「そいつの言う通りだ。王族の暗殺という大事を成すには、一人でも戦力が多いほうがいい」


 包帯男は視線を剣士に向け、

 「合流しよう、というのか」


 剣士は視線を真っ直ぐ受け止め、

 「主の意を叶えるため、それで僅かにでも成功へ寄せる事ができるのなら、そうすべきだ」


 得体の知れない不気味さはあるが、武人として実直さが窺える顔からは、発言に他意はないように感じられる。


 「ふむ……」


 包帯男は頭の中で損得の計算を始めた。


 手柄を独占できないのは損、しかし危険な動植物や化け物で溢れ返る深界を歩くには、腕の立つ人間が一人でも多くいたほうが助かる。捜索隊と出くわす可能性もあり、荒事になった際、戦いを優位に運ぶための戦力は重要だ。


 無言で目を合わせたリシア教徒が小さく頷き返した。


 包帯男は、

 「……いいだろう。お前には連れがいただろう、あの女はどこに――」


 質問を投げようとしたその時だった。背後からチャリ、と硬貨を入れた財布の音が鳴り、皆の視線が、背後で様子を窺っていた根掘りの女主人へ集まった。


 女主人は、

 「私はなにも聞いちゃいない……ここまでの仕事分は最初の手付けだけでいい、後からもらったこの金は全部ここに置いていく。仲間も増えたんだ、もう私はいいだろう、行かせてもらうよ……」


 女主人が素早く足を踏み出したその時、ドドドという音と共に、女主人の眼前の地面に三本の矢が突き刺さった。


 突然、頭上の木ががさりと揺れ、上から剣士と共にいた女が飛び降りて着地した。


 弓使いと思しき女は、

 「行かせない、あんたはまだ必要だ。でしょ、包帯だらけのおじさん」

 包帯男を見て、にやりと微笑する。


 「……ああ、この先の追跡のために匂いを辿る必要がある」


 包帯男は女主人が置いた財布を拾い上げ、硬直する彼女の手を取り、重い財布を強引に持たせた。


 「危険な仕事だと覚悟はしてた、でもね、まさか王族の命を狙ってるなんて聞いちゃいない、よくもこんなことに巻き込んでッ!」


 「たしかに言ってないな。だが、詳細を確認せずに引き受けたのは自分の意思だったはず。悪いが、お前はもう首を突っ込んでる、そっちには不幸なことだろうが、俺達にはお前が必要なんだ」


 「…………くそ」

 小さく呟いた女主人は、脱力してその場に立ち尽くす。


 逆らった先に、自身にどのような結末が降りかかるのか、生きてきた年月と経験の分だけ、女主人もよく理解している。


 包帯男は剣士と弓使いの女へ、

 「深界へ入ることになる、命懸けになるが、いいんだな」


 弓使いの女は吹き出すように笑い、

 「あんたら運がいいよ、うちらは元々開拓屋の出だ。山の上で安穏と暮らしてる連中より、よっぽど深界には慣れ親しんでるさ」


 「そいつは助かる」


 深界の知識、経験ともに浅い包帯男は、掛け値なしにそう言った。


 「じゃあ、そこのブタ使い、追跡を再開しなよ」


 弓使いに急かされた女主人は眉を怒らせ、

 「偉そうにするんじゃないよ、仕事は続けるが、あんたらの下僕になったわけじゃない」


 渋々ブタたちを操り、王女の匂いの追跡を再開した。弓使いと剣士は連れだって女主人の後に続く。


 場が穏便に収まった事に露骨に安堵の表情を浮かべるリシア教徒は、歩き出した包帯男へ、


 「なあ、包帯男」


 「なんだ?」


 「王女が深界にお入りになったとしてだ、今も生きておられると思うのか?」


 「……さあな」


 「悲しいことだが、私は生きているとは思えない。もしそうなら無駄足になるだろう? 考え直してみては――」


 「そうだとしても死の確証を得る必要がある。それがなきゃ、主からのご褒美はいただけんだろう」


 リシア教徒は溜息を吐き、

 「あんたはそればっかりだな。失ったものを懐かしむより、今を受け入れて地に足を付けることも大切なことなのだぞ」


 無視して歩き出した包帯男は、懐から一枚の高級な手巾を取り出した。四つ折りにした手巾に、包帯で隠された鼻を近づけ、力一杯に匂いを吸い込む。離れて暮らす愛する者達の残り香は、しかし、なにも感じることはできなかった。


 リシア教徒が、明るくなりはじめた早朝の空を見上げながら、

 「――ムラクモの王女よ、今頃どうして過ごしておられるか、無事でおられればいいのだが」


 包帯男はその言いようを酷く間の抜けた内容であると心中で嘯いた。







 2







 白かった吐息が色を失ってから随分と経つ。


 「はあ、はあ――」


 灰色の木々に閉ざされた視界の中、自身の乱れた息づかいだけが耳に届く。


 一人きり、サーサリアは灰色の森の中を、長い間逃げ続けていた。


 闇が生み出す無数の死角、暗澹あんたんたる深界がそこかしこで奏でる奇怪な音が、無限に生じる恐怖と憂いを煽り立てる。


 初めて聞く見知らぬ生物の放つ音が聞こえる度、膝が折れそうになるほど震えた。前か、上か、後ろか左右か、出所もはっきりしないその音が、途切れる事なく耳に届く。


 「――ッ?!」


 脈打つように地面からとび出した巨木の根に足を取られ、地面を派手に転がった。


 膝や肘、顎に焼けるような痛みを感じながら後ろを振り返ると、木々の合間に敷かれた色あせた落ち葉を、シャンと踏む音が聞こえる。


 鼓動に合わせて体が揺れ動くほど、強く心臓が跳ねた。


 足が震え、立ち上がる事ができない。呼吸を躊躇うほどの恐怖を抱えながら、しかしサーサリアは茂みに向かって声をかけていた。


 「シャ、ラ……?」


 呪文のように、震える声でその名に一縷の望みを呼びかける。


 「……………………」


 待てども、返事はない。


 体が激しく震える、小刻みな呼吸を制御できない。


 わかっていた、頭は理解できずとも、体と本能は理解していた。夜風に乗って届く臭気、厩のそれに近くとも、それよりも遙かに嫌悪を催すような悪臭。


 木の陰から、ぬるりと現れた体毛をまとう獣の前足――――大きく避けた口元を震わせ、涎を零しながら、熊のような体躯を持つ獣が、ゆったりとした動作で姿を現した。


 「ウルググ――」

 獣が喉の奥で唸る。


 その顔は本能を剥き出しにしつつも彫刻のように無機質で、しかし圧倒されるほど精気に充ちていた。


 「ッ――」

 溜まった唾をどうにか飲み干す。


 サーサリアは無心で佇んでいた。一線を越えた恐怖は消え、乾きにも似た無感情さが、生死を分ける逃走への判断すらを鈍らせる。


 愚かさにまかせた脳裏には、かつて王宮で過ごした日々、そしてユウギリの邸で横たわっていた大きく清潔な寝台と、枕元に置かれた涼やかな香草の香りが去来していた。


 背後から木々の隙間を通り抜け、突風が吹き付けた。


 凍えるような冬の風も、しかし羽織る黒い毛皮の外套が冷風を寄せ付けない。背中から、忘れかけていた熱を思い出し、サーサリアは深く息を吐いて、目の前の野獣をしっかりと見据えた。


 獣が大きな口を開け、びっしりと生えそろった牙を見せた瞬間、


 ――死。


 ただ一言、その言葉と意味だけが、頭の中を埋め尽くした。


 次の瞬間、視界は紫色の濃霧に覆われた。


 自覚もないまま反射的に晶気を操った。具象化された毒の霧に、対する獣は臆することなく突進を仕掛けてくる。


 漂う毒の霧が、いったいどのような作用を含めた物なのか、乱れきった心のままに生み出したそれを、自身でも知る由がなかった。


 毒霧の中に入った獣はすぐに足を止め、頭を振り始めた。


 「グッ――グッ――」

 獣は強く鼻息を吹きながら、再び足を前へ動かし始めた。


 四肢が震える、目には赤い血管が浮き出し、口からは白い泡を吐いている。毒霧はたしかに効果をみせていた。しかし、獣の歩みは止まらない。


 ――走って。


 本能がそう告げる、しかし、立ち上がる事すらままならない。


 獣が眼前まで迫った。弾みをつけ、前足を振り上げながら飛び込んできたその時、右方の茂みから突如人影が飛び出し、獣に強烈な蹴りをくらわせた。蹴り飛ばされた獣は悲鳴をあげながら大木に叩きつけられ、びくりと身体を跳ねた後、ぐったりと動きを止め、眠るように横たわった。


 目の前に現れた人物を見て、サーサリアは目を潤ませながら、


 「シャラッ」


 シャラはにやりと笑った。が、そのまま地面に崩れ落ちる。


 「シャラッ?!」


 這いずるようにシャラに駆け寄り上半身を抱きかかえた。シャラは瞼を震わせながら目を合わせ、


 「不意をついたつもりだったが……」


 シャラの太股に獣の爪痕がついている。見た目には傷は浅いが、破れた布の奥に見える皮膚は、ドス黒い紫色に変色していた。


 サーサリアは倒れた獣の前を見た。獣の爪にはてらてらとした油のようなものがついてる。


 「毒……?」


 サーサリアが呟くとシャラは笑い、


 「情けない。置き去りにされ、苦難に喘ぐお前を眺めてやろうと思っていたのだが、結局手を出してしまった」


 「どうして、こんなこと……」


 「お前に罰を与えたかったんだ。その身にどれだけの命と責を背負っているか、それもわからず国や民のことよりも、一人の男を追いかけることを選んだ馬鹿女にな」


 その言葉に息苦しさを感じ、サーサリアは唇を噛んで胸を押さえる。


 「だから、ここへ連れてきたの」


 シャラは常のように不敵に頬をつり上げる、だが、彼女の額には玉になった脂汗が滲んでいた。


 シャラは苦しげな顔でサーサリアの胸ぐらを掴み、


 「ここは試しの地だ、強者が生き残り、弱者は淘汰される。お前の行動によって運命を左右される者達と等しく、命を賭けて生き延びろ。我が身はすでに毒が回っている、置いていけ、一人でこの世界から生き延びてみせろ……」


 シャラは弱々しい力で身体を押す、サーサリアは首を振り、


 「置いていけない……」


 シャラは血の気の失せた顔で微笑し、


 「……私はお前を死なせようとした者だぞ。己を第一に考えなければ、欲しいものは手に入らない。行け、私は、お前の友じゃない、自分だけが助かることだけ……を、考え…………」


 シャラの首が、がっくりと力を失った。


 見た事もないほど弱り切ったシャラを抱きかかえながら、サーサリアは涙を溜めながらシャラを睨めつける。


 「本当にそうなら……こんなことに、なってない……」


 遠くから、なにかの鳴き声が聞こえた。強く激しく、不安をかき立てるような騒音が。


 生きているか死んでいるかもわからない、襲ってきたあの獣もすぐ側にいる。


 さきほどまで恐怖に駆られ、なにも見えない暗闇の中にいるような心地だった、しかし、気絶したシャラの熱を感じるほどに、心は冷静になっていく。


 ――ここに居ては。


 落ち着きを取り戻し、思考する。シャラと、そして自分を守るための安全な場所が必要だった。


 サーサリアは力を失ったシャラを力のかぎり抱き起こし、しゃがんだまま強引に背中に背負った。足腰に力を込め、


 「く……ッ」


 両手で膝を押さえながら立ち上がる。ふらつく体をどうにか支えつつ、シャラを背負ってしっかりとその身を落ち着ける。


 ひと一人を背負い、一歩を踏み出す。


 シュオウと出会ったあの頃、自身の体にこれほどの力と体力はなかった。ただ守られていただけのあの頃を思い出し、今ある体の強さは、シャラに鍛えられた結果によるものだ。


 ――生きて。


 鋭い視線で前を見据えながら、サーサリアは自身の足で深界の奥へと歩き出した。




     *




 「ひゃッ――」


 遠くから何かの鳴き声が聞こえるたび、リシア教徒は情けない悲鳴を漏らし、慌てて自分の口を手で塞ぐという行為を繰り返していた。


 「うるさいよ、何回びびったら気がすむんだ」


 弓使いの女が険しい顔でリシア教徒を睨んだ。


 リシア教徒は泣き顔で、

 「そうは言うがねお嬢さん、私は都会育ちで、灰色の森の中を突っ切った経験なんてないんだ……こんな所を歩いていて、いつでかい狂鬼に襲われるかと思うと……」


 剣士が前を向いたまま、

 「ここは上層界や白道に近い深界の浅場だ、大物の狂鬼は滅多に姿を現さない」


 リシア教徒は目を尖らせ、

 「だが出ないわけではない! 悪しき狂鬼は天変地異に等しく、その出現に人の予想などつかないのだ。やつらは、神の子である我ら人を食らわんと、常にその機会を狙っているのだぞ」


 弓使いの女が意地悪く笑み、

 「たしかに、あんたは肉付きがいいから食べ甲斐がありそうだ、きっと狂鬼が出たら、あんたが真っ先に狙われるね」


 「や、やめてくれ、想像してしまったッ」


 リシア教徒は震え上がり、目を閉じ、耳を塞いだ。


 弓使いは、耳を塞ぐリシア教徒の手をはがし、

 「いい加減にしな。ここじゃ見る、聞く、嗅ぐ、は生き残るために大事な事なんだよ。ただし、触るのはなしだ、多少深界をかじってったって、致命傷になる毒を受けてころっと逝く奴を何人も見てきたからね」


 リシア教徒は真剣な眼差しで弓使いの言葉に頷き、

 「見て、聞いて、嗅ぐ、だが触るな、だな。しかと心得た」


 先頭を行く女主人の後をついて歩く包帯男は、雑談をやめない同行者達に振り返り、


 「お前ら、少しは黙って歩け」


 女主人は嘆息し、

 「まったく、あんたらみたいなのが王女を暗殺しようなんて……普通、こういう事ってのはさ、もっとそれっぽい連中がやるもんなんじゃないのかい? ほら、黒い服着て、顔を隠してたりとかさ」


 「そんな格好してりゃ不審者だと教えてるようなものだろう」


 包帯男が言うと、女主人はあきれ顔で、

 「あんたがそれを言う? 鏡を持ってりゃ貸してやりたいよ」


 リシア教徒が人差し指を伸ばし、

 「だがいまの言には一理ある。裏方で地方の小事を片付ける我々のような小物にまかせるには、今回の件はあまりに大役すぎるというもの」


 包帯男は、

 「主は時を惜しんでいるだけだ、現地の手駒で使えるものを動かしたにすぎん」


 剣士は頷き、

 「標的が王族であれ、親衛隊の保護がなければ現状の戦力でも十分に手は届く」


 女主人は首を傾げ、

 「手が届く、か……まったく不本意だけど、あたしは歴史に残るような瞬間に立ち会ってるんだろうね、きっと」


 弓使いは目を輝かせ、

 「うちらのことが後に残って語られるってことだろ、悪くないよ」


 包帯男は口元を曲げ、

 「馬鹿を言うな、そんなわけがないだろう」


 リシア教徒は何度も首を振り、


 「その通りだ。例えこの時のことが後世に語り継がれるような物語になったとしても、我らはきっと名もつけられず、そこらの石ころのような存在としてしか描かれない。史書にはきっとこう書かれる、ムラクモに残された唯一最後の王家の血が、薄汚い賊の手により失われた、と」


 剣士は静々と腕を組み、

 「事を成せるならそれでいい。もとより、我々は名誉とはほど遠い立場にいる、与えられた任務をただこなすのみだ」


 女主人はしみじみと首を横に振って、

 「事を成す前に狂鬼に食い殺されなきゃいいけどね――」


 遠雷のように遠くから得体の知れない生き物の鳴き声が深界に鳴り響いた。


 肩をびくりと震わせたリシア教徒に皆の視線が集まる。


 「……ッ」


 リシア教徒は自らに先んじて口を塞ぎ、その成果を主張するように眉を上げて皆に視線を送り返した。




 一行は歩みを続ける。薄暗い深界の森で、上層界では見る事のない奇怪な植物や小動物を見かけるが、狂鬼との遭遇は未だにない。


 歩きながらの水分補給を終えたリシア教徒が、物憂げな顔をして包帯男に話しかけた。


 「なあ包帯男……ことがうまく運んだとして、唯一正統の血を失ったムラクモは、いったいどうなってしまうのだろう……?」


 「……荒れるだろうな。ここ最近で王家の血は細っていた、実際に国を動かしていたのは執政のグエン公だ。天青石が空位となれば、ムラクモの貴族達は宿り先の検討を始めるだろう。この国には、寄る辺となる三つの燦光石があるからな」


 「三石によって権力争いが起こるということか」

 とリシア教徒。


 弓使いは鼻を鳴らし、

 「うちらが帯びた命令を考えてみなよ、当然そうなるに決まってる」


 リシア教徒は悲しげに肩を落とし、

 「乱が起これば戦となる……いったいどれほどの無辜の民が死ぬ事になるか……この行いのなんという罪深さか」


 道行きの途中、高々と伸びる灰色の木々の合間に、空が見渡せるほどの空間が広がっていた。リシア教徒は足を止めて空を見上げ、


 「猛々しい男神に祈ろう、許しを……そして哀れな民人に祝福を……」


 包帯男は不機嫌に声を荒げ、

 「天を仰ぐなリシア教徒、東の空に神なんていないんだよ」


 女主人は腰に手を当てて振り返り、

 「仰々しいこと言ってるけどね、匂いはどんどん森の深みに向かってる。王女様が護衛もなしにこんなところで過ごしているっていうなら、あんたらが手を下すまでもなく、きっとこの先で野垂れ死んでるだろうさ」


 その意見に、誰も異を唱えなかった。


 リシア教徒は手を合わせながら祈り続け、

 「神よ……どうか我らの行いを許したまえ……浄化の光を指し示し、罪深き我らに大いなる試練をお与えくださ――あ痛ッ」


 包帯男は足を止め、リシア教徒の頭を強くはたいた。


 「縁起でもないことを言うな、へんなもんを呼び寄せるだろうが」


 弓使いも同調して頷き、

 「そうだよ――」

 後ろからリシア教徒の頭を弓で小突いた。

 「――面倒事を望むなんて、一人でいるときにしておきな」


 「運が悪ければ死ぬ、ここはそういう場所だ。が、進んで不運を望むのは馬鹿のすること」


 剣士はそう言って、すっと音もなくリシア教徒との間合いを詰め、流麗な所作でパシンと頭をはたいた。


 リシア教徒は頭をさすりながら、

 「お前たちッ、ひとの頭を気軽に叩くものではない!」


 包帯男は笑い、

 「狂信者の頭をはたいたところでなんだっていうんだ、吊されないだけありがたいと思え」


 「狂信者とはなんたる言い草だッ」


 ぷりぷりと怒りを露わにするリシア教徒に対し、一行から柔らかな笑い声が小さく溢れ出た。




     *




 一時、一行は暗い森の中で、細やかな夜光石の明かりを囲みながら休息をとっていた。買い込んだ保存食と水を食らいながら、各々に疲れた体を癒やしつつも、しかし深界という場所もあって、どこか落ち着かない心地を抱えていた。


 「急いで食え、休憩は少しだけ、寝てる暇はない。夜通しで追跡を続けるぞ」


 包帯男の堅い声に、弓使いが反応した。


 「まじめだねぇ、包帯おじさん。ねえ、気になってたんだけどさ、おじさんなんで貴族をやめたんだよ」


 全員の視線が包帯男に集まると、リシア教徒がにやりと笑って、


 「あんたが言わないなら私が言ってしまうが」


 包帯男はリシア教徒を睨み、大きく溜息を吐き、おもむろに口を開く。


 「輝士だった頃、所属先の金を使い込んだんだ。途方に暮れて酒と薬に手をだしてな、馬鹿になってる所に、魔が差して自分ごと全部燃やしてうやむやにしようとしたが、失敗した」


 その話に皆が笑った。


 女主人は呆れ顔で、

 「それでその顔かい?」


 包帯男は顔にまいた包帯の隙間から指でかき、


 「手を出したのは実質アデュレリアの金だった。死に損なったうえ、治療を施された。事情を聞かれ、家の名誉を守るために使い込みと放火の件を隠して、俺を事故で死んだことにしてくれると言う。引き換えに俺は忠実な犬になった。だが、家督は娘が継ぎ、継承の見届け人はアデュレリアが引き受けてくれたうえ、金が入るよう便宜まで図られている。おかげで家は俺が当主だった頃より格が上がった」


 「こんなところにまで言われるままにやってきて、クソみたいな仕事をしてるのにはそれなりの理由があるってことか」

 と女主人。


 リシア教徒はうんうん、と頷きながら腕を組み、

 「人に歴史あり。神は汝の行いをいつも見ている、罰を与えることもあれば、罪をお許しになられることもある」


 包帯男はふん、と鼻を鳴らし、

 「なにが神だ、お前は盗人だろう――このリシア教徒はアデュレリアの宝物庫に侵入して盗みを働き捕まったんだ」


 弓使いがけらけらと笑い、

 「なんだそうなの? いい子ちゃんです、みたいな態度だからつまんない奴だと思ってたけど、やるねえ」


 リシア教徒は必死の形相で、

 「盗人ではない! リシアの教会にあった聖なる装具を取り戻そうとしただけだ、あれは元々リシア教会の物だった、ムラクモに強奪された物を取り戻すのを盗むとは言わないだろう!」


 包帯男はパン屑を投げ、

 「ばかやろう、いつの話を言ってるんだ。似たようなことをそこかしこでやってたこいつが無事でいられるのも、アデュレリアの情けがあればこそだ」


 一足早く食事を終えた剣士が、

 「こちらも同じようなもの。生死がかかった状況にあって、氷狼公に命を拾われた」


 弓使いは微笑し、剣士の話に合わせて首を縦に振った。


 女主人が冷めた顔で、

 「つまり、あんたらみんな同じ相手に受けた恩義のために汚れ仕事を引き受けてるってわけか。恩返しがしたいなら、他人をまきこまずに勝手にやってくれりゃよかったのにさ」


 包帯男は最後のパンの欠片を口に放り込み、

 「だが、犬じゃここまでの追跡は叶わなかった。お前を選んだ俺の見立てに間違いはなかったってことだ」


 女主人は不機嫌顔で、

 「そうだね、最初はあんたを目利きと思って、ちょっといい男だ、なんて思ったけど、大間違いだったよ」


 弓使いはにたりと女主人の顔を覗き込み、

 「へえ、豚使いのおばさん、あんた包帯おじさんに気があったんだ」


 女主人は弓使いを睨み、

 「黙らないならブタの餌にしてやるよ――」


 包帯男は小さく手を叩いて皆の注目を集め、

 「休憩は終わりだ、追跡を再開するぞ」


 リシア教徒はだるそうに立ち上がり、

 「また重たい荷物を持って歩かなければならないのか……おお神よ、なぜ仲間達は私にだけ重たい物を多く持たせるのでしょうかッ」


 弓使いがリシア教徒の肩を叩き、

 「戦力にならないんだから、それくらい黙ってがんばりな――――この辺はもう森の色が濃くなってる、みんなこれまで以上に気をつけな、こっから先はもうなにに出くわしてもおかしくない」


 黙したまま、皆が一斉に頷いた。




     *




 夕刻が間近に迫る鈍い色をした冬空の下、似たような景色ばかりが広がる深界の森を、サーサリアは細い体でシャラを背負い、ただひたすらに歩いていた。


 吹き荒ぶ風を受け続け、すでに顔の感覚がなくなっている。


 背負うシャラの体は高熱を帯び、酷く震えていた。


 ――このままじゃ。


 医術の知識がなくてもわかる、夜を控えた今、シャラには休息のための安全な場所が必要だ。


 ――でも。


 足を止めて周囲を見渡すが、見えるのは平坦な地形に広がる暗い森だけ。


 呆然と立ち尽くし、孤独と絶望感に苛まれそうになったその時、背後から抜けていく風に煽られ、羽織る毛皮の外套がそっと優しく耳に触れた。


 ――シュオウ。


 その名に誘われるかのように、サーサリアは目を閉じる。


 現状と同じく、アデュレリアの山中で命の危険に晒されていたあの時、シュオウと共に過ごした山の中の洞窟での思い出が、頭をよぎる。


 均されていないゴツゴツとした通り道、触れただけで熱を奪われるように冷たかった岩肌、そして外から入り込む、風の音。


 ――風。


 サーサリアは目を閉じたまま顔を上げ、四方八方に流れていく風の音に耳を傾けた。ザア、と抜けていく風の音の中に一点、奇妙な異音が混じっている。フオ、とまるで下手くそな吹奏楽器のような間の抜けた音、その不思議な音色の響きに、覚えがあった。


 向かっていた方向を変え、音の聞こえた方へと歩き出す。少しして、灰色の木々の切れ間に、枯れた川のような窪みと、その先に小高い岩壁がそびえ立つ地形へとたどり着いた。


 背中ごしに冷たい風が抜けていくとまた――


 ――あの音。


 あの奇妙な風の音が耳に届く。目の前の地形をよく観察すると、岩壁の根元に、地下へ下るように開いた洞窟のような空間があることに気づいた。


 サーサリアは息をつき、

 「あった……」

 シャラを背負い直し、洞窟の中へと足を向ける。


 洞窟の入り口は広かった。外から内へと冷たい風が吸い込まれていくが、風よけになる大きな岩石が点在し、夜を明かすための最低条件は整っている。


 入り口の近くにある岩陰にシャラを下ろした。洞窟の奥は深い、吸い込まれそうな漆黒の闇を前にして、体の芯に寒気を感じた。入り口から吹き抜ける風は行き先も告げず、ただ闇の中へと飲まれていく。


 洞窟の入り口付近には、生物の痕跡が見られなかった。そのことだけが、唯一サーサリアの心に平穏をもたらした。


 「ぐ、く、ううッ……」


 シャラが苦しげに喉を鳴らした。サーサリアは慌ててシャラの顔を覗き込む。全身から汗を吹き出しながら、唇は乾ききって痛々しくひび割れている。


 サーサリアは反射的に、

 「水をッ――」

 背後に振り返って誰もいない事に気づき、口にしかけた要求を飲み込んだ。


 言えばなんでも手に入る生活を送っていた名残である。人の世界を離れて過ごす今となっても、身に染みついたこの感覚が無慈悲につきまとう。


 弱って苦しむシャラに飲ませる水も、傷口を洗ってやる水も、ここにはない。水を探しに行く体力も知識もなく、ただ命の危機に直面したシャラを前にして、悶え苦しむ声を聞いていることしかできない。


 サーサリアはシャラの手を掴み、目に涙を浮かべた。まだ、子供と大人の間にある未成熟な体だ。常にはまるで、シャラに対し姉と接しているかのように感じていた奇妙な関係だったが、今は彼女が未だ残している幼さがよく見えた。


 「シャラ……」


 汗で湿った髪を撫でる。


 ここには熟練の技を持つ医師はいない。滋養のある食材を調理する料理人も、給仕をする者も、外敵から守ってくれる輝士も、誰もいない。


 ――私しか。


 その言葉を胸に秘めた瞬間、服の袖を破り取った。縫い目を引き千切り簡易の布巾として、シャラの汗を丁寧に拭い取っていく。


 だが、病人に与える水も食料もない現状、これ以上に出来る事がなにもない。


 サーサリアは苦く顔を歪めて唇を噛み、


 ――なにか他に。


 シャラがなぜ苦しんでいるのか、高熱のせいか、喉が渇いているせいか、体を傷つけられたせいか。


 考え、そして思い、至った。


 「…………毒」


 すべての出来事には、その発生源となる根が存在する。シャラが苦しむ原因こそは、傷口から入った獣の毒。


 サーサリアは自身の手の平を見つめ、

 「毒なら……」


 代々、ムラクモの血統に受け継がれる毒を操る希少な晶気の力。毒を含んだ霧を創り出し、それを操る事を基本としているが、晶気には無からの創造の他に、すでに存在している物への干渉を可能にする力も併せ持つ。


 シャラの身体を冒す毒を操る事ができれば助けられるのではないか。瞬きも忘れ、その考えへと辿り着き、シャラの胸の上に手を当てた。


 手の平に、異常な早さの拍動を感じる。目的のため、まずはこの乱れを抑えなければならない。


 かつて子供の頃、教育として受けた話を思い出す。毒は人を害するもの、しかし時に命を奪う刃物は、使い方により人を活かす料理のための道具となる、と。


 サーサリアはシャラの顔の前に両手を掲げ、その中心に薄い紫色の晶気の霧を創り出した。


 また、かつての日々を思い出す。自らの不幸を嘆き、行き場のない苛立ちや怒りにまかせ、無力な使用人達の呼吸を止め、苦しむ様を快感と共に眺めていた日々のことを。


 あの愚かな行為の応用が今、必要だった。


 晶気として毒を生み出す瞬間、いつもなんとなくの感覚でそれを行ってきた。だが、人を活かすために用いる毒は、その作用を正確に把握したものを創り出す必要がある。


 求めているものは、シャラの激しい鼓動を落ち着かせるための毒。体が行う活動を鈍くし、毒のまわりを緩やかにするための措置である。


 だが、生命活動を止めてしまうような毒を与えてはならない。あくまでも極々緩やかに、鈍らせる程度の優しさが必要なのだ。


 手の中に小さな欠片を組み合わせるように、少しずつ晶気を紡いでいく、その作業にはかつてないほどに集中力を要した。


 両手の平の中に、微かに発光する紫色の霧状の塊が創り出される。口元にそっと置かれたその晶気が、荒く呼吸を繰り返すシャラの胸の内へと吸い込まれていった。


 サーサリアはシャラの首に指を当て、

 「お願い、効いて……ッ」


 激しく脈打っていたシャラの鼓動が、徐々に速度を落としていく。激走する馬の足音のようだったそれが、少しの間に杖をつく老人の歩みに等しい程度の早さへと落ちていった。


 サーサリアは緊張した面持ちでシャラを観察した。ゆっくりとだが息はしている、少しだが手に感じる体温は低下し、酷かった震えも収まっていた。


 ――うまく、できた。


 的確に、効果はあった。だがこれはまだ前準備にすぎない。


 「探さないと――」


 独りごちる言葉が洞窟の中で反響し、風と共に去って行く。


 シャラの傷口に手をかざし、目を閉じ、集中する。晶気を用いた創造物ではなく、すでに在るものへの干渉、取り込まれた毒そのものを探し出す。


 ――ある。


 穢れの残滓を感じた。不快だが、親しみも覚える。


 たしかな感覚を得て、幼少期のいつか、聞いた言葉が去来する、ムラクモ一族の力は毒を操るのではない、統べるのだ、と。


 捕らえた毒は侵入の際に取り残された破片にすぎない。本体の行き先を突き止める必要があった。


 王女として、また次の王として玉座を継ぐはずだった身として、サーサリアは強く命じる。


 「案内をしなさい、お前達が行く所――諸悪の根源、毒巣どくそうへ」


 それは実際、目に見えないほど小さい、一滴の滴にも満たないようなものでしかない。その微量な毒の破片は、サーサリアの意のまま血流に乗って孤独な旅を始めた。


 旅路を続けて間もなく、胸と腹の間、右の脇腹の辺りで制止した。その時、


 「見つけたッ」


 その手応えに声が弾む。シャラの服をたくし上げ、露わになった皮膚に直接手を当て、体内に淀む毒の感覚に神経を研ぎ澄ます。


 傷口で捉えたものとは比べものにならない、たしかな量、強度と共に、晶気を伝ってすぐそこにある毒巣を掌握する。


 ――外へ出す。


 迷いはなかった。掌握した塊を霧状に変化させ、根こそぎ皮膚の外へと引きずり出す。シャラの皮膚からドス黒い色をした気体が染み出し、サーサリアの手の平の上で、塊となって滞留する。


 「できた……これが……ッ」


 渦を巻くように球体を成した黒い毒の霧が空中に浮かび上がり、吹き付けた突風にさらわれ、そのまま洞窟の奥へと消えていった。


 零れてきた冷風が、いつのまにか溢れていた顔の汗を押し流した。片眼の中に汗が入り、染みる目をこすりながら、シャラの様子を観察する。


 意識はない、しかし明らかに顔色を戻しつつあるシャラを見て、サーサリアは鼻をすすり、服の袖で零れる涙を拭い取った。




     *




 洞窟の中で夜を迎える。明かりがない闇の中でも、辛うじて外から入る微かな光と、闇に慣れた目のおかげでで、周囲の状況をかろうじて感じ取ることができる。


 サーサリアは自らの体にシャラを寄りかからせ、背中から抱き寄せるようにして互いの体を温めていた。


 静かな世界に、規則的なシャラの寝息だけが聞こえてくる。深界に入り込んでから何度目かの夜を過ごしているが、日にちの感覚はなくなっていた。


 酷い喉の渇きと飢え、しかしそれを忘れさせるほどの疲れに、サーサリアの瞼は重くなっていく。


 「守ら――」


 意識を失ったままのシャラは無防備だ。せめて動けるようになるまでは、


 ――ない、と。


 発したつもりの声は、喉を鳴らすことなく、瞼は重く閉ざされた。がくりと、首が下がった瞬間、


 「え……?」


 ふと感じた違和感にたたき起こされたかのように一瞬で覚醒し、洞窟の奥を凝視する。


 ただ闇ばかりの視界の奥から、巨大な塊となって、その違和感が押し寄せてくる。その感覚には覚えがあった。


 ――毒。


 シャラの体内で掌握したあの感覚。他者の生み出した毒を感じたときよりも、ずっと濃厚で重たい感触。


 ザワ、と不気味な音が耳に届く。外から内へ流れる風の音とは違う、逆流してくる他のなにかの音だ。


 音と毒の感覚が濃くなっていくにつれ、ついに視界がそれを捉えた。


 それは一見して壁と同じように見える色をしていた。子犬や子猫ほどの大きさで、歪な形で生え伸びた多足を不気味に動かしている、大群を成した蟲。


 左右、天井と隙間なく、その蟲の群れが、入り口へ向けて大挙して押し寄せる。闇の中で蟲の姿ははっきりと見えずとも、波打つようにうねる蟲達の多足が蠢く様に、恐怖を感じて震え上がった。


 ――逃げて、逃げなきゃ。


 命の危機を感じ、反射的にそう思考する。だが、全身で感じるシャラの体温が、その考えを即座に掻き消した。


 シャラは動けない、しかし抱えて逃げたとしても、蟲の大群に追いつかれてしまう。


 サーサリアはシュオウの外套に触れ、手触りの良い毛皮の感触を手の平で深く感じた。


 「戦わないと」


 それは現状で唯一残された道。だが、


 ――ただの毒では、だめ。


 向かってくる蟲の数が多すぎる。時折突風が吹き抜けるこの状況では、たとえどれだけ強力な毒を創り出すことができたとしても、終わりの見えない蟲の大群を殺しきることは難しい。


 ――ここだけ。


 風避けのあるこの場所に限定し、力を使う。だが範囲が狭まれば、毒の霧がシャラに害を及ぼすことになる。


 範囲を限定し、濃密で強度のある晶気を持続して展開する。


 ――晶壁。


 それは彩石を持って生まれ、晶気を操る術を学んだ者達が使う技の一つ。紫色の毒霧を創造し、それを纏うように周囲に壁を構築する。


 ――もっと。


 あれだけの蟲の群れをはね除けるには力が足りない。さらに毒霧を創り出し、


 ――もっとッ。


 毒の強さ、そして濃度を重ねていく。


 繰り返し、繰り返し。不器用に構築した晶壁は紫色の曇りガラスのように、サーサリアとシャラを覆い隠した。


 濃紫色の晶壁により、視界のほとんどは失われている。迫り来る音が激しさを増し、ついに蟲の大群が押し寄せた。


 それは、嵐の日に荒れ狂う湖面が奏でる音によく似ていた。


 先頭を行く蟲が晶壁に触れた瞬間、ジュ、という焼けるような音と共に、蟲が甲高い悲鳴を上げて動きを止めた。その背後からまた、そしてまた、次々と蟲が現れては、晶壁に触れて崩れ落ちる。


 大群の波の中に身を置きながら、サーサリアはシャラを守るように抱きかかえ、薄桃色の美しい髪を、ゆっくりと手ぐしで解きほぐした。


 「……大丈夫」


 シャラと、そして自分に言って聞かせる。


 しばらくの間、蟲達が通り過ぎる気配と音を聞き続けた。すると突然の静寂に包まれる。


 ――終わった?


 期待を込めてそう思ったのも束の間、


 「ゴオオオオオオ――」


 不気味なその音に、全身が総毛立つ。晶壁の外になにかがいる。視界の鈍る晶壁の奥に、ドス、と大きな柱のようなものが突き立った。


 大群を成していた蟲とは比べものにならないほどの大きな蟲の脚。記憶に、両親を食い殺した蟲の狂鬼が蘇った。


 ――風が。


 頭上を通り抜けていた風の流れが変わるのを感じ、上を見上げる。目に映ったものを見て、サーサリアは息を止め、目を見開いて硬直した。


 晶壁越しにもはっきり見える、大きな一つの目。その目が晶壁の中をただじっと凝視している。


 全身から凍え死ぬような恐怖を感じる、この場で泣き叫び、愛しい人に助けを求めたいと強く願った。


 ――だめ。


 助けはこない。ここには誰もいない。そしてシャラを守れるのは自分、ただ一人のみ。


 シャラを強く抱きしめ、見下ろしてくるなにかの目を睨み返した。


 大きな一つ目が、徐々に遠ざかり、壁のすぐ側にあったなにかの気配が、複雑で奇妙な足音と共に外へと消えていく。


 まるで何もなかったかのように、洞窟の中は再び静寂に包まれる。その瞬間、サーサリアは崩れるように意識を失った。




 「――い」


 誰かに肩を揺すられる。


 「おい、起きろ――」


 聞き慣れた声にうっすらと目を開けると、

 「…………シャラ?」


 顔を覗き込むシャラは笑み、周囲を見渡して、

 「私はお前に守られたらしいな」


 眼前に不気味な姿をした蟲の死骸がいくつも転がっていた。それぞれ、体表や脚に溶けたような痕が残っている。


 疲れは見えるが、表情にいつもの調子を取り戻しているシャラは、目を合わせ、満面の笑みを浮かべた。その屈託のない笑顔に褒められたような心地を感じ、サーサリアは目に大粒の涙を浮かべる。


 「シャラ、私…………」


 シャラはよろよろと立ち上がって手を差し出し、

 「水と食料を探しに行くぞ」


 サーサリアは微笑みを返し、シャラの手を強く握った。




     *




 朝陽が昇って間もなく、先頭を行く二匹のブタ達が突如足を止め、後ずさった。


 「どうした?」


 包帯男が聞くと女主人は緊張した面持ちで前を見やり、

 「怖がってる……この先になにかやばいのがいるよ……」


 「まさか狂鬼じゃ……」

 リシア教徒が声を潜めて言った。


 「だとしても進む。下がれ、俺が前を行く」


 包帯男は女主人の前に出て、先頭を歩き出した。


 全員が声を殺し、慎重に歩を進めていく。


 視界の奥に毛むくじゃらで巨体な獣を見つけ、包帯男は足を止めた。皆が前にあるものに気づき、身を隠すように自然と腰を落とす。


 弓使いが腰を浮かせて奥を覗き込み、

 「……死んでる」


 「ほ、本当か?」

 リシア教徒が汗を垂らし、聞いた。


 包帯男は獣の様子をよく観察し、

 「動いてないな」

 立ち上がった。


 恐る恐る獣に近づく。体格としてはクマに似ているが、大きく目立つ爪は上層界ではまず見かけることがないほど禍々しい。


 微動だにしない身体に触れようと伸ばした包帯男の手を、弓使いが掴み、止めた。


 「死んでから時間がたってるのに死肉をあさられてない。こいつがどんな生物か知らないけど、たぶん相当強い毒を持ってる」


 包帯男は手を引っ込め、死した獣から距離をとった。


 剣士がしゃがんで獣の様子を窺い、

 「なにかから強打を受けた痕跡がある、おそらく死因だろう」


 剣士が指した傷跡を観察し、包帯男はあごに手を当て考える。


 「王女なら毒の晶気を扱う、打撃を受けて死んだのならやったのは別のなにかだ」


 「異国の姫、か?」


 リシア教徒の言葉に、包帯男は鷹揚に頷いた。


 「かもしれん」


 弓使いは周囲を見渡し、

 「王女様、きっと生きてるね、そんな気がするよ」


 包帯男は前に向かって顎をしゃくり、

 「ブタを行かせろ、追跡を続ける。捜索の手が伸びる前に片を付けるぞ、ここから先、もう休憩はなしだ」


 王女の足取りに実感が増し、これから行う事を思う皆の表情は、どこか暗く色を落としていた。




 そして、真昼を間近に控える頃――――


 「いた……ッ」


 女主人が小さく声を漏らした。


 視界の先に二人の若い女達がいる。南方人の特徴を持つ少女が一人、そして――――


 「ムラクモの……王女……」

 包帯男は息をのむ。


 やつれて、まるで貧村の娘のような顔をしているが、際だって整った美しい面立ちはそのまま、一目でそうとわかる気品が滲み出ている。


 二人は寄り添うように肩を抱き合い、つたない足取りで森の中を歩いていた。


 包帯男が合図を送り、皆をその場にしゃがみこませた。


 弓使いは上を指さし、

 「木に登って上から狙いを付ける」


 包帯男は頷いて、

 「討ち損なったら俺と剣士で直接しかける。お前達二人はその場で待機だ、いいな」


 女主人とリシア教徒が強ばった顔で頷いた。


 包帯男は標的を見据え、

 「よし……仕留めるぞ」




     *




 「待て――」


 シャラが突如、硬い声で道行きを制した。


 サーサリアが不安げに視線を送ったその時、シャラが突如身体を捻り、サーサリアの横っ腹を加減した力で蹴り飛ばした。直後、今までサーサリアの胴体があった地点へ、鋭い矢が通り抜ける。


 「……ッ?!」


 足で弾かれ、よろけた体で腰を落としたサーサリアは、呆然として地面に刺さった矢を凝視した。


 森の奥から女の声で、

 「はずしたッ!」


 シャラは身構え、

 「敵だ、複数いるぞ、戦闘態勢をとれッ」


 ――敵?


 現実味のない言葉に、サーサリアは首を傾ける。捜索隊ではなく、敵だとシャラは言った。そんなはずはないと思いながらも、地面に突き刺さった矢が、現実を直視させる。


 前から二人の男達が姿を見せた。一人は二刀を構える剣士、もう一人は顔を包帯で隠した男、後者の男の周囲には、晶気で創り出された水の弾が複数浮かんでいた。


 二人の男達が前屈みに突撃体勢をとった次の瞬間、


 「あがッ、ああッ――――」


 奥の木の上から、首にヒモを巻き付けた若い女が吊り下げられた。女は醜い音を奏でて喉をかきむしり、足を必死にばたつかせながら首に巻かれたヒモを取ろうと必死にもがく。


 二人の男達が驚いた様子で振り返った。その時、女が吊り下げられた木の上から、長い黒髪をなびかせ、一人の女が下へと飛び降りる。木に隠れ見えない奥の景色から、男女の悲痛な叫び声があがった。


 奥から女が姿を現す。女は木々の間を風のように走り抜け、二人の男達目がけて突撃を仕掛けた。


 戸惑った様子の剣士が迎え撃つが、振った剣は空を斬り、女は剣士の手首をとって振り子のようにひねり上げ、剣士が手放した短刀を取り、素早く喉元を切り裂いた。


 剣士が血反吐を零しながら崩れ落ちるよりも早く、女は包帯男に向かってゆっくりと歩き出す。


 包帯男は後ずさり、

 「なんなんだ、お前ッ!?――」


 言いながら晶気を繰り出すが、女はまるで先読みをしていたかのように身を屈め、襲いかかる水球を躱し、包帯男の心臓に短刀を深々と突き刺した。


 刺したまま短刀を手放し、気味が悪いほど涼しい顔をしたまま、その女がサーサリアへ近づいてくる。


 「敵か、味方か」


 手負いの体で、シャラがサーサリアを守るように女の前に立ちはだかり、問いかけた。


 しかし、尚も無言で向かってくる女に対し、シャラは構え、鋭い回し蹴りを女に放つ。女は突然足を止め、蹴りを寸前で避けながら、足をあげたまま全身を支えるシャラの片足をすくうように蹴り払った。支えを失い背中から落とされたシャラの首を器用に掴み、そのまま地面に強く顔面を叩きつける。シャラはそのまま気を失い、地面にぐったりと横たわった。


 女はゆっくりと腰をあげ、

 「こんなところでぞろぞろと人間が群れているから、なにをしているかと後を付けながら様子を見ていたけど……まさか、こんなところでそれを目にするとは思っていなかった」


 真顔でいた女の目に、強い怒りの色が滲む。女が距離を詰め、尻をつけたまま硬直するサーサリアに手を伸ばした。


 身の危険を感じ、サーサリアは咄嗟に目を閉じる。しかし、女の手は、羽織った黒い毛皮の外套に触れていた。


 女はサーサリアの顔を強烈に睨めつけ、

 「これをどこで手に入れたッ」


 外套に触れる女の手を見て、言葉にできないほどの不快さを感じた。


 「――なせ」


 サーサリアは食いしばった歯を剥き出し、


 「――離せ! 触れるなッ」


 叫んだ瞬間、猛毒を込めた霧の創造を試みる。が、それよりも早く、素早く半歩身をひき、距離をとった女の蹴りが眼前に迫っていた。


 目の前いっぱいに広がる、使い込まれた靴の裏が見えたのを最後に、顔面に強打をくらったサーサリアは、そこで意識を手放した。












年内最後の更新になります、一年間、ありがとうございました。

次回の予定と内容は後日、活動報告のほうにあげます。


よいお年を迎えられますように。

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― 新着の感想 ―
[一言] そう言えばリシア教徒は死んでないんだな。 これはシュオウ一行に合流するか?
[一言] 待ってます
[一言] ママが強いんじゃー
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