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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
86/184

後腐れ

 後腐れ







 夜の都が帯びた鋭利な喧噪と、家並の間に淀む色とりどりな夕餉ゆうげの香りを感じながら、逃走を続けるアマネは後方から迫り来る追っ手の気配を察知し、鋭く後ろを振り返った。


 ――左、屋根の上。


 夜に紛れ、顔は見えない、だがわかる。


 影の形は追っ手が偉丈夫であることを示唆している、不自然に左手首を掴みながら、人間離れした動作で的確に歪な屋根の上を渡っている。その挙動には余裕が窺えた。


 追っ手の名はグエン、人類世界、東方一帯を統べる大国ムラクモで、実質全権を掌握する大人物である。指先一つで大勢の運命を決定できるこの男は今、自らの足で追ってきている。


 追跡の動機は明白、奪われた物を取り返そうとしている。左手の甲についた命の石、輝石もろともに切り落とした手首が、まるで持ち主の意思を反映しているかのように、逃走の足を重くする。


 追っ手は市街地の建物の上を獣のような身のこなしで軽々と渡り、じわりと距離を縮めてくる。手首を切り落とされた人間の動きとは到底思えなかった。


 ここまでの事を、アマネは時を使い計画を練った。侵入から急襲、逃走へと繋ぐいくつもの道と可能性を。


 王宮への侵入には想定外に手間を要した。堅い警備の突破口を見つけることができず、強引な手で門をくぐる事となった。しかし標的への攻撃は想定していたなかでも、思いのほか綺麗に片を付ける事に成功した。そして今、逃走の段に至り現状は予想のうち、かなり恵まれた状況である、と判断する。


 武装した複数の輝士達や兵士に追われ、王都全体を封鎖される事態も想定していた。が、現状の追っ手はただ一人、街の様子からして、この一連の出来事はまだ周知されてはいないようだ。


 まもなく、王都の商店が建ち並ぶ中心部を抜ける。目印としていた店の看板を見つけ、視線を広範囲に巡らせた。


 雨垂れの如く想定していた無数の逃走経路のうち、現状で選択可能な分岐は三つ、昇るか、直進か、潜るか。


 追っ手は上から迫り来る、逃走においては一秒でも時間を稼ぐことで優位を得る、たとえ一瞬であろうとも、相手に無駄な行動を取らせる事が出来る選択肢が最善、つまり――


 「下」


 急速に方向を変え、暗い脇道の奥にある、地下道への入り口に飛び込んだ。


 さらに深く、闇を降る。据えた臭い、下等な生物の死骸、汚泥、そこは汚物を隠す蓋の内。


 反響する靴音を最小限に抑え、暗中、通路を疾走する。


 ――追跡は?


 ない、追っ手の気配は完全に断たれた。


 道順は完璧に記憶に収めてある。右へ、左へ、また下へ上へと移動を続け、ようやく、通路の先に微かな光が見えてくる。


 勢いをつけたまま、切断しておいた檻を蹴り飛ばして外に出た瞬間――――


 「ッ?!」


 何者かに喉を掴まれ、強烈に締め付けられる。足が地面を離れ、体が宙に持ち上げられた。


 歯をむき出して皺を刻んだ老いた顔に、鈍く赤色に発光する両眼で睨みつける、グエンの姿がそこにある。彼の背後には、見覚えのある無数の小さな羽虫達が群れを成して飛び回っていた。


 掌握の強さがさらに強まる寸前、力を振り絞り、胸の上を強く叩く。直後、紫色の細かな粉が広範囲に広がった。


 「――がッ?!」


 粉を吸い込んだグエンが激しく咳き込み、掌握に緩みが生じた。すかさず蹴り飛ばし、拘束から脱出する。


 漂う粉を避けて身を低くし、回転を続けて距離を取る。呼吸を再開した瞬間、視界に弾けるような白い光の粒が無数に明滅を繰り返した。


 グエンは膝を突いて咳き込みながらも、アマネを押さえようと手を伸ばす。アマネは転がるように斜面を滑り降り、木々の合間を通り抜け、用意しておいた馬に跨がり、全速力で走らせた。


 坂路を駆ける最中、馬が怯えた様子で首を振り、歩調を弱める。アマネは背後を振り返り、眉間に力を込めた――グエンだ。


 遠目に見える、あの男がまさに、尋常ではない早さで自らの足で走り、迫り来る。距離は縮まりつつあった。


 「行け」


 馬の腹を蹴り、首をゆすって強引に速度をあげる。馬は再び速度を上げた。


 木々の密集が緩やかな森にさしかかり、ゆるやかな斜面を下っていく。顔に当たる枝を避けながら、暗い暗い森の中をひた走る。


 時をかけて走り続けるうち、騎乗する馬の呼吸が荒くなってきた。


 森を抜け、さらに斜面を下る。極寒の向かい風を感じた瞬間、景色は大きく変貌した。


 宵闇の中に、朽ちかけた広大な白い道、植物に浸食され、歪に深界と溶け合うそこにたどり着いた時、ここまで無理を強いてきた馬は、くずれ落ちるように体を横たえた。馬の背から放り出され、受け身を取って転がり、深界の灰色の森を目指して全速力で走った。


 ここまで全力の馬の早さについてきたグエンは、あっという間に距離を詰めて背後に迫っている。


 アマネは暗中、白く浮き出した深界の木々に目をやった。


 背後から迫り来る、追っ手の息遣いと気配を間近に感じる。


 「無駄だ、諦めろッ!」


 勝ちを確信した声がすぐ後ろから聞こえる。衣擦れの音、追っ手が腕を伸ばす気配――――


 闇の中、眼前にさらに深く暗い闇の色を見つけ、アマネはふっと笑みを浮かべる。直後、闇の中へ身を投じた。


 「なッ――」


 戸惑うグエンの声を置き去りに、体は闇の底へと落ちてく。そこは深い崖となっていた。


 ――いち、に。


 目を閉じ、時を測る。


 ――さん。


 目を見開いたと同時に、手の中に紐が収まった。結び目に手がひっかかり、ずしんという落下の勢いと自身の体重を、片腕と肩の力で繋ぎ止める。


 時を置かず、頭上から人が降りてきた。


 壁面にぶら下がるアマネのすぐ隣、岩壁に唯一掴まれる程度の出っ張りに、見た事もない若い男が手をかけた。形相激しく、睨む男の姿を見て、アマネは飄々とした態度で目を細め、皮肉の籠もった声音で語りかける。


 「いきなり誰が出てきたかと思えば…………老いた姿すら偽りだったなんて、まさに化け物に相応しい芸当ね」


 背格好からして目の前にいる左手首を失った男は間違いなくグエンである。が、その姿形はまるで別人、褪せた白髪は消え、黒々とした長髪を揺らす、凜々しげな容姿を持った壮年の男がそこにいる。


 「黙れ! 状況をわかっていないのか、盗んだ物を返してもらう、僅かにでも終わり方に慈悲を望むのであれば、今すぐ丁重に私の石を返すがいいッ」


 猛ったグエンへ、アマネは静かに笑みを返し、

 「わかっていないのはどっちなのか――」


 グエンが眉をひそめたその瞬間、アマネは真横の壁面を拳で思いきりたたき付けた。直後、グエンの掴む岩肌の出っ張りが、壁の中へと飲まれていく。


 「な、んだッ?!」


 壁面は、まるで生物の一部のようにうごめき、捕まっていたグエンの右手首をじわりと飲み込んだ。


 闇の中でも一目でわかるほどの異常、岩肌であるはずの壁面に、うねる触手のようなものがひしめいている。それらはグエンの腕に緩慢な動作で絡み、その身をぐいと飲み込んだ。


 アマネは涼しい顔で、


 「トドメ、と呼んでいる――群れを成して地形の壁面に擬態し、通りがかった獲物を足止めして、餓死させた後に腐敗した肉を食べる、深界に巣くうモグラの一種。下等で殺傷力には劣るけど、状況が整えば、その拘束力は巨体の狂鬼を殺めることもあるほど強い」


 しかし、グエンは慌てた様子もなく歯を剥き出し、

 「愚かな、この程度の仕掛けで私から逃げられると思っているのか」


 アマネはグエンの目をじっくりと見つめ、

 「そうね……なら楽だったけど」


 足元から、がさりと木々の揺れる音が聞こえてきた。下を見た瞬間よくわかった、暗くともはっきりと姿を見て取れる、灰色の大きな木々の隙間を埋める、巨大な深紅の身体を持つ蟲の狂鬼、アカバチの群れが。


 アマネはまじまじと地上を見つめながら、

 「目の当たりにすれば、正直驚く……蟲を……それも、あのアカバチを使役するなんて」


 「必死な細工も無意味、完全なる愚行。はじめから結果は見えている、私に無駄な時を使わせた罪、あがなうがいい」


 言ったグエンの瞳が、赤黒い光を帯びた。


 地上のアカバチ達が一斉に上を見上げ、壁面にぶらさがるアマネにぴたりと視線を合わせる。その様はまるで、複数の操り人形を一人の人間が同時に一本の糸で操っているかのように整っていた。


 先頭に立つ一匹のアカバチが、ブブンと鈍い羽音をたてた。せた白色の枯れ葉が塵と合わさり、激しく空中に散り、舞い上がる。


 絶体絶命の危機にあって、しかしアマネは冷静に事に対処する。懐からグエンの手首を取り出し、手の甲にある輝石を特殊な器具に挟み込んだ。


 グエンは怪訝な顔をして、

 「なにを――」


 「堅くて丈夫な木板に特級の狂鬼の歯を加工した刃を取り付け、土台と刃をまとめる仕掛けで、間に挟んだ石に圧をかけることができる、結果は想像の通り――」


 土台にグエンの手首を当て、輝石に刃の先を突き当てた。すると、


 「待てッ!」


 グエンは唇を震わせ、反射的に手首を失った左腕をアマネへ向けた。大きく体を動かしたことに呼応するように、右手を飲み込む壁面が、またぐねりと波を打ち、さらにグエンの腕を引き込んだ。


 アマネは仕掛けに手をかけたまま、

 「待ってもいい、その代わり、下にいる虫の群れを退去させなさい」


 グエンは臨戦態勢に入った一匹のアカバチを睨めつけた。すると、アカバチは羽ばたきを止め、他のアカバチとほぼ同時に、アマネからふっと視線を外す。


 アマネは軽く首を傾げ、長い黒髪をさらりと流し、

 「退去を望む、と伝えたはずだけど」


 グエンは憎々しげに口を歪め、

 「きさまを逃がせば石を失う……なれば、死と同義。その不愉快な仕掛けに免じ、命を繋ぐ余地を与え、寛大なる慈悲をくれてやる、今すぐその石を返せば命の無事を約束する」


 アマネは挑発的に鼻で笑い、

 「無事を望む? なら、そもそもこんな状況に身を置いているはずがないでしょう」


 「それほど殺されたいかッ」


 「そっちこそ、逆らうなら命と等しいこの石を砕くわよ」


 「それをした瞬間、アカバチの群れがお前を骨ごと溶かして吸い殺す」


 「そう、その結果は望まない。でもどちらも譲る気がないのなら、仕方がない――」


 アマネは懐の中に刃を当てたまま、グエンの手首をしまい込む。


 「――際どい状態で圧をかけてある。もしこれが落ちたり、私の身に衝撃が加われば、この石の無事は保証しない」


 言って、壁面の窪みに手を入れた。そこに置いてあった水筒を取り出して喉を潤すと、鈍く発光していたグエンの目が、ゆっくりと光を失っていく。その顔はどこか呆けている様子である。


 さらに、窪みから食料を取り出してほおばると、グエンが力の抜けた声で、


 「…………どれだけの用意をした」


 「水、食料、睡眠、その他必要な事のすべてを。そっちには迷惑なことでしょうけど、この状況も想定のうちなのよ」


 アマネは木板を取り出し、紐の結び目に取り付けて、腰を落ち着けるための席をこしらえる。


 真顔になったグエンは、初めてまじまじとアマネの顔を見つめ、言葉にならない吐息を漏らした。


 「…………」


 アマネはグエンと視線を合わせ、場違いなほど柔く笑み、

 「私の名前はアマネという」


 呆けた様子のグエンは、

 「なぜ――」


 「知りたそうな顔をしていた」




     *




 グエンは混迷のなかにいた、現状に理解が追いついていないのだ。


 突然現れ輝石を奪って逃げた賊を追跡し、追い詰めたはずだった。相手は彩石を持たない脆弱な存在でしかなく、あとはその命を奪い、輝石を取り返すだけでよかった。だが、


 ――腕が、動かん。


 このざまである。


 無事である右腕は上腕の位置まで壁に飲み込まれている。拘束は強く、負傷した状態で自力で抜け出す事は難しい。


 アカバチを使えば、おそらくこの壁の拘束から抜ける事は可能だろう。しかし、対峙する賊を刺激すれば石を破壊されかねない。


 アマネと名乗った刺客の女は、複数のアカバチを眼下に控えたこの状況で、落ち着き払った様子で淡々と食事を口に運んでいる。


 「このまま、私が死ぬのを待つつもりか」


 アマネに対し、グエンは試みに問うた。


 アマネはグエンの左腕を流し見て、

 「さあ」


 力ない返答にグエンは眉をしかめる。


 「さあ、だと?」


 「どうなるのか私にもわからない。普通、石を落とせば結果は見えている、光砂となって体が溶けていきながら、痛みに狂って心を失い、叫び、喚きながら自ら殺してくれと死を望む――」


 生きたまま輝石を体から引き離された人間は、まるで存在そのものを削り取られるように、時間をかけて生きたまま光砂と化し、ゆるやかに死を迎える。しかしその際の痛みは、およそ生きているあいだに経験しうるものの中でも最悪のものとなり、多くは死に絶えるその時まで正気を保っていることは困難である。人はこれを石落としと呼び、個人に与えうる最も惨い罰として、重罪を犯した者の輝石のついた手首や腕を切り落とし、意図的に失血死を防ぎつつ苦しみを与えるという行いを、極刑として執行してきた。


 「――でもそれは、対象者が人間である場合の話。あなたのような存在がどのような結末を迎えるか、私にはまだわからない」


 「私が人ではない、と言いたいのか」


 アマネはしらけた顔で目を細め、

 「長命を保ちながら老いた姿を偽ってみせ、深界において上位捕食者の地位にあるアカバチを群れ単位で使役している。燦光石を用いた結果かと思えば、石を奪われても狂鬼を支配下に置いているなんて。それになにより、人間ならあの時に殺せていた。石を奪ってからここまでの間、平然と走り回る様を見ても、その体が人のものであるという考えは、少しもわいてこないのよ」


 「あの時、だと…………ッ!?」


 言葉に過去の記憶が引きずり出され、驚きに目を見開いたグエンに、アマネは笑みを投げかける。


 「覚えていたみたいね」


 「きさま、あの時のッ」


 「相手が人間であれば、あの殺しはうまくいっていた」


 ある夜の事、体を横たえ瞼を落とした瞬間、賊に襲われ深々と喉を絞められた。体内に納めた蟲が反応し、即座に反撃を加え相手に深手を負わせたが、逃げられたまま正体を掴むことはできなかった。


 「私、個人に対する怨恨か?」


 「いいえ、始まりを辿れば、あの件に関してはただ依頼を受けただけ」


 「きさま、アデュレリアの刺客か」


 アマネは微かに困惑の色を顔に滲ませ、

 「悪いけど見当違いね。このての職業に従事していた手前、依頼主の名を明かすことはしない、けど話の出所はもっとずっと遠方の事、間違いなくあなたとは認知のない相手だとだけは言っておくわ」


 グエンはアマネから視線をはずし、暗い夜空を見上げた。


 「そんな人間が、私を殺めてなにを得るという」


 「依頼主はあなたが邪魔だと言っていた。東方を統べるムラクモという大樹の根、それがグエンという人物……軍事、内政を一手に握る、実質的なムラクモの統治者である、と」


 グエンはアマネへ視線を戻して目を細め、

 「雇い主を売らないと言っておきながら、随分と情報を吐く」


 「正体を伏せるのは矜持の問題、でもその他については口を閉ざす義理はない。私は、おそらく騙された。グエン・ヴラドウはムラクモの一大権力者、しかし長く生きすぎたせいですでに体は枯死寸前、なんらかの身体能力を強化するという燦光石も、その力は弱り、暗殺に難はないと聞かされていた。でも実際はどうだったか――――絶対に命をとれる状況を覆された、その体に巣くった不細工な虫のせいで。多少の情報の齟齬はつきものだけど、さすがに考えなかった、対象が人の形をした化け物だったなんて」


 グエンは眉間に皺を寄せ、

 「その呼び方をやめろ……不快だ」


 アマネはすかした顔で、

 「事実よ。グエンという存在に関して、その名の大きさに不自然なほど情報は曖昧だった。なかには人の生き血を吸うだなんて噂もあって、それをくだらないと思っていたけど、人の世界は面白い、馬鹿げた伝説のように語られる話に真実が紛れこんでいるんだから。東方に住む人々、それに諸侯や貴族達は知りもしないのでしょう、国の政を支配しているのが人ではない化け物だと……知ったらどんな顔をするのか」


 「その呼称はやめろとッ――」


 声を荒げた直後、左手首の切断面から三本の赤い蟲の脚が肉を破って飛び出した。赤い脚は自らの意思を持って不規則に不気味な動きを繰り返す。


 「――ぐッ」


 手首から感じる鈍い痛みと同時に、他人に人間離れした姿を見られる事に強く不快感を催した。


 アマネはふと真顔になり、

 「その様子からして、それを制御できていないように見えるけど」


 「体内に在るものが宿主しゅくしゅの異常を察知した。石がないまま、これを支配下に置いておけるのにも限りがある――」


 グエンは飛び出した蟲の脚をアマネへ見せ、


 「――哀れみから忠告をする、このままこれが暴走する結果となれば、きさまは惨く醜い死を迎えることになる。それを望まないのであれば今すぐ私の石を返せ」


 アマネは首を横に振り、


 「改めてその提案を拒否する。石を返したとしても、そっちが私を無事に逃がす理由が一つもない。言う通り、あなたがその身に宿す化け物が私を食い殺すのかもしれない、でもわからない、そっちが先に死ねば逃げる隙があるかも。だから、我慢比べをしましょう、どちらが先に死ぬかの、至極単純で、明快な勝負を」


 アマネは薄笑いを浮かべて言った。その顔に淀みはなく、感情の乱れの一切を感じ取ることができない。


 グエンは目の下を震わせ歯を剥き、

 「汚らわしい狂人が……」


 怒り、憎悪、殺意のありったけを込めてアマネを睨む。しかし、相手はまるでなにごともない穏やかな夜を一時を過ごしているかのように、小さくあくびをして瞼を落とした。




     *




 「……ぐ、えん」


 暗闇の中、声が聞こえた。


 「ぐ、えん……」


 舌足らずな幼子の声だ。胸の奥深く、体が震えを帯びるほど、じわりと暖かな熱が広がる。


 「なんということだ、父や母を呼ぶよりも先にお前の名を覚えたぞ」


 耳の側、すぐ後ろからその声が聞こえ、慌てて後ろを振り返る。そこには一人の男がいた。復活を司る炎鳥の紋様を象った深紅の衣装を身に纏っている。


 ――陛下、この世で唯一の我が主。


 「すねないで、側に居る時間が少ないのだから仕方がないでしょ」


 女が現れ主君の肩にそっと優しく手を置いた。


 ――親愛なる王妃殿下、誰よりも英明で慈悲深きお方。


 自らの血縁よりも愛を感じていた二人が前にいる。だが、彼らの顔はぼやけ、まるで濃霧が張り付いたように見る事が出来ない。


 ――忘れた、のか。


 悠久の時を経て、忘却の彼方にある記憶、体に残された人の部分にこびりつく、これは思い出の残滓。


 「ぐえん……」


 幼子がまた、自分を呼ぶ声がする。


 闇の中、小さな体で両手をあげる愛らしい幼子の姿が在る。


 ――姫様、御身のためならば、命を捨てても惜しくはない。


 純粋で、太陽のように明るく眩しい瞳を見つめる。幼子の顔は、はっきりと見えていた。大きな瞳の愛らしい少女、未来の美貌が約束された、この世界で最も尊い存在。


 「ぐえん」


 抑えきれず、零れるように笑みが溢れる。言葉にならないほどの愛を感じながら、幼子へ手を差し伸べ、


 「グエンではありません姫、私の名は――――」




 「――グレンッ」


 自らの声に目を覚ますと、がくりと落ちていた首を慌てて起こした。


 「変わった寝言ね」


 アマネの視線を流しつつ、グエンは額に滲んでいた汗を拭った。


 視界に映る世界は退廃とした灰色の森。すでに夜は過ぎているが、空にどんよりとした重い雲が立ちこめていた。


 グエンは薄暗い空を見上げ、

 「朝、か……?」


 「どちらかというと昼に近い」


 「昼、だと……」


 眼下を見ると、そこには変わらずアカバチの群れが待機している。


 「それほどに眠っていたのか」


 アマネは薄く微笑みながら、

 「楽しそうに、にやけながらフンフン鼻息を吹いてたけど」


 グエンは不快感を露わに顔をしかめ、

 「くだらん嘘をつくな」


 アマネは微笑を貼り付けたまま、

 「さあ、どうかしら」


 首を微かに傾け、柔く笑むアマネの姿は様になっていた。黒髪で東地人の面影を強く宿した面立ちに、母性を感じさせる温かな眼差し、柔和な言葉づかい、美人で気さくな空気を纏い、所作は男が好む女性らしさを漂わせる。


 多くの男達が、彼女を見れば視線を奪われるはず。


 ――だが。


 気色が悪い、とそう感じる。


 この女の纏うすべての雰囲気が、この状況に一致していない。優しく、母性的で気さくな美人が、厳重な警備をくぐりぬけ、鋭敏な感覚を持つグエンに気づかれる事もなく、不意打ちを成功させ、強靱な肉体を誇るグエンの手首を一太刀で切り落とし、石を奪えるはずがない。


 手首ごと石を奪われた後、必ず取り返せると侮っていた。だが、結果は現状の通りである。


 ――この女はなんだ。


 知る必要があった、自分がなにを、誰を相手にしているのか。


 「石を返す気にはならないか」


 「愚問ね」


 「その石を手にいれ、どれだけの報酬を得る」


 アマネは僅かに視線で空をなぞり、

 「言ってしまうけど、とくに得られるものはない」


 グエンは片眉を大きく下げ、

 「報酬がない、というのか」


 「前回の時にしくじった時点で、依頼主との関わりは断っている」


 苛立ちと不安を感じ、

 「ならなぜッ」

 激しくなる語気を抑えることができなかった。


 アマネはまた、作り物のように完璧な微笑をして、

 「暇だったから」


 「ッ…………」

 グエンはなにかを言おうとして、なにも言葉が出てこない喉を唸らせる。


 「あのとき、暗殺にしくじった日、思わぬ拾いものがあった。物というより、たった一人、孤独に生きていた少年……子供よ」


 「子供……? 親に、なったのか」


 「そうともいえる……でも私はあの子を弟子としてすくい取った」


 グエンは皮肉を込めて意地悪く笑い、

 「ふん、こそこそと人を殺してまわる作法でも教えたか」


 アマネは瞼を半分落として、

 「武術を教えたの、それにこの世界で生きるためのすべも。あの子には生まれ持った特別な才能があった、それでも、私はその才だけではしのげない生死に関わる状況に、あの子を何度もたたき落とした、並の人間であれば、命がいくつあっても足りない、という状況に」


 その先が気になり、グエンは思わず続きを促す。


 「それで、弟子はどうなった」


 アマネは柔く頬を上げ、

 「毎回、必ず無事に戻ってきた。教えたことはきちんと覚える、頭の良い子よ、その時々、どんな状況に居ても、かならず自分の活路を見出して突破してみせる」


 「……そうか」


 アマネの微笑には幸福が感じられた。これまでのすべて、偽りを感じる偽物のそれとは明らかに趣が異なる。しかし、アマネはふっと寂しそうに顔色を暗くし、


 「でも、あの子は行ってしまった」


 「……死んだ、という意味ではないのだろうな」


 「言ったままよ。あの子も大きくなって大人になった、世界を見たいと望み、他者との関わりを求めるようになった。でも私は知っている、人間がどれほど愚かで、身勝手で弱い生き物か。だから、そんな世界へあの子を触れさせたくはなかった、でも止められない……私も、若い頃には同じことを望んでいたから」


 「行かせたか?」


 「ええ、送り出した。子を思う母のように涙も流して見せたけど、あの子はそのまま行ってしまった」


 「時が来れば巣立ちをする、子供とはそういうものだ」


 「そう……でも、長く時を過ごし、その成長を見守るうち、あの子は私の物だと感じる気持ちが芽生えた…………だから手向けに、あの子が潜在的に抱く劣等感を刺激するものを覆い隠す物を与えてから旅立たせたわ」


 グエンは意味を理解できず首を傾げ、

 「なぜ」


 アマネはなにもない空中をぼんやりと見つめて笑い、


 「あの子が傷つくように。凡人は他者の本質を外面から判断するのを好む、そのせいであの子が心に傷を負えば、私の下に戻ってくるかもしれないと思った。一度弱点を隠せば恐くなる、恐怖は人を弱くして逃避に走らせる。あの子が逃げ帰るその先には、私がいる」


 グエンは、ふんと鼻で笑い、

 「無様な独占欲か。その態度から察するに、結果は聞くまでもないな」


 アマネは顔に険を滲ませ、

 「そうね……ずっと待っていた、でも帰って来なかった。今頃どこでなにをしているのか」


 グエンは話の結末を痛快に感じた。そして、不満を露わにしている目の前に憎い相手に、さらなる不快な心地を与えたいと思った。


 「なにごとかわざわいに巻き込まれ、野垂れ死んでいてもおかしくはない」


 「あの子が死んでいるかも、と……?」


 アマネのグエンを見る目に怒りはない、その視線は、まるで芸の下手な道化役にでも送るように冷ややかだ。


 「――天災が相手であれば、どんな状況でも生き残れるように鍛えてある。相手が人間であれば誰であれ、地面に這いつくばっているのは向こうのほうよ」


 あまりにも淀みなく言い切るアマネへ、

 「相手が私でもか」


 アマネは首肯し、

 「ええ。化け物が相手でも、きっとあの子ならひねり潰す」

 あまりにも、当然の事であるかのように言う。


 むきになって言いかえすのも幼稚であろうと言葉を飲んだ。グエンは別の言葉を用意し、


 「……若い男であれば、今頃は女の尻でも追いかけている頃だろう」


 アマネは突如不快感を露わにし、

 「やめて、気分が悪いわ」


 むすっとしてそっぽを向くアマネを見てグエンは呆れた。


 「ただの子離れができていない母親だな」


 「余計な一言」


 アマネはぶすりと言って、懐に入れていた食べかすをグエン目がけて投げつけた。




     *




 時が過ぎていく。


 人々の営みがない自然の中では、空の色以外に時の変化を感じにくい。


 外目そとめには岩壁にしか見えない異形の生物に腕を飲まれた状態で、身動きも取れないままグエンは酷く退屈を感じていた。


 常に多忙を極める生活を送ってきた。軍事、内政、財政、外交の管理などを一手に統括していたが、その仕事量は常人にこなせる量を遙かに超越していた。


 長い時間そうして生きてきた。これほど無為に、そして緩慢に時を過ごす事など、いったいいつ以来のことだろうか。


 ――思い出せん。


 それは自嘲を催すほどの遙か昔の事となっていた。


 この意味のない時間を共に過ごす相手を見た。アマネはほとんどの時を瞼を落として過ごしていたが、たまに目を開いたかと思えば、岩壁の隙間に手を入れ、そこからあれこれと色々な物を取り出しては使い、今は乾いた綿のようなものを取り出し、それを濡らして呑気に首や体を拭いている。


 いったいどれほどの用意をしていたのかと呆れるが、あまりにも相手にとって都合の良いこの状況に、少々の疑念も湧いてきた。


 「ここでなければどうしていた」


 グエンの問いかけにアマネは首を傾け、

 「どういう意味」


 「私がここに囚われ、きさまも同様に動けなくなる状況がここで発生するのだと、どうして予測できたのかと聞いている」


 アマネは肩をすっと竦め、

 「わからなかった。予言者じゃないんだから、そんな芸当ができるはずがないでしょう」


 グエンは声を尖らせ、

 「ならなぜだ、それほどの用意を――」


 アマネはしたり顔で、

 「そんなことを気にしていたの。どうも、これを特別なことのように思っているようだけど、答えは単純よ、同じような用意を四方、各所に準備していたってだけ。ムラクモ王都内、そこから幾重にも別れる逃走経路、上層界一帯に渡って作った潜伏場所、そして下山経路から深界に至るまで。相手の出方によって最適な選択をして生き延びる。今の状況に至ったのは、今回の最適がここだったというだけのこと」


 グエンは喉を詰まらせる。


 「…………たいした目的もなく、私の石を奪うため、それだけのためにこんな」


 「言ったでしょ、一人になって暇になったと。やり残しを片付けるのにたっぷりと時間を使えるくらいにはね」


 アマネの言い様は、まるで何気なしに日常の雑務を片付ける程度の軽さだった。


 ――こんなやつに。


 自尊心を投げ捨てれば、自身の置かれた状況が、この目の前にいる一人の人間に手玉に取られているのだと認めることができる。が、それはなにより腹立たしい失態であった。


 グエンは強い怒りを感じていた、自身に、そして遊びの延長のように第二の心臓を奪っていった、この女に。


 アマネはまた、嘘くさい微笑を静々と浮かべ、

 「私は怒らせるようなことを言ったみたいね」


 グエンは眉を怒らせ、

 「黙れ、きさまとはもう口をきかん」


 表面上、気さくな態度で接するこの女は、グエンが死ぬのを待っている。それによって栄誉を望んでいるわけでもなく、莫大な報酬を得るわけでもない、というのだ。


 ――愚か者が。


 なにもすることのない時間を過ごすうち、この女との雑談を微かにでも楽しんでいた自分を叱咤した。


 グエンはまた、無言でアマネから視線をはずした。




     *




 夜。


 「……ぐぁ……ぐ、ぐ……」

 激しい痛みに襲われ、グエンは呼吸荒く、脂汗を滲ませた。


 ギッ、と下っ腹から音がした途端、

 「ぐあ……ッ」

 堅い虫の脚が、一本、二本と立て続けに腹の皮膚を突き破った。


 ――我が意に従えッ。


 グエンが生まれ持った血に受け継ぐ石の力は、蟲を操る能力だった。


 アマネの言葉は正しい、生きるため、目的を遂げるために人としての身を捨てた。代償を払い、我が身を捧げてアカバチを統率する女王蜂を体内に宿し、引き換えに並外れた長寿と強靱な身体を手に入れたのだ。しかし、それらを繋ぐものはすべて石の力に依るもの、燦光石を失ったいま、宿主の弱体化は、すでに女王に悟られている。


 腹の底から、またギギギ、と蠹の鳴き声が聞こえてくる。


 ――鎮まれ、鎮まれ。


 痛みと不快感に、視界が揺れた。


 ――私はまだ。


 不快感が頂点へと達し、ぷつりと、糸が切れるように意識が落ちた。




 深層の闇の中、人々の悲鳴が聞こえる。


 重い瞼をこじ開けると、毒々しく紫色に濁った濃霧の中に横たわっていた。


 「ここはッ――」


 見慣れた光景に猛烈な哀愁が押し寄せる。そこは東方全域を手中に収める炎鳥の王が統べる国〈アマテア〉の荘厳な王宮だった。


 濃霧の奥、各所から聞こえる凄惨な悲鳴に我に返り、


 「私は、なにをして……」


 また、どこかから悲鳴が聞こえた。


 空気が八つ裂きにされるかのような声、濁った悲鳴に断末魔の叫び。紫色の濃霧の中で起こる異常な事態に、深く眠りについていた記憶が呼び覚まされていく。


 ――やめろ。


 目を覚まし、そして走っていた。


 真紅の壁に覆われた通路を抜け、玉座の間に踏み込む。


 「ああああッ――」


 床の上に見慣れた衣服を見つけ、その前にひざまずく。


 ――やめろ、見せるな。


 忠誠と親愛を捧げた王妃の着ていた服がある、その中に、泥のように溶け、粘土のように骨に纏わり付く血肉の塊が横たわっていた。


 「嘘だ………………嘘だぁあああッ」


 これが、この醜く悪臭を放つ肉塊が、誰よりも気高く、美しかったあの人の成れの果てだなどと。


 王妃の遺体が手を伸ばす先を見て、絶句した。


 「…………陛、下?」


 王の姿は凄惨を極めた。ドス黒く変色した皮膚、身体は悪臭を放つ毒に犯され、剥き出しになった頭蓋骨は、最後の時を想像させるのに十分なほど、凄絶に口を大きく開けていた。


 「なぜだ…………こんな最後、が…………」


 落涙を拭うこともせず、左手の甲に輝く王の石へ手を伸ばした瞬間、抗いようもなく意識は闇に囚われる。


 そして、漆黒の景色は、再び濃い紫色の霧に覆われた。


 「待てッ!」


 なにかを見下ろしていた。濃霧の中に一人の人物が佇んでいる。目元を涙で赤く腫らせた、一人の女。


 「ムラクモの毒婦がッ、このすべてが、お前の仕業だというのか…………逆恨みと嫉妬の情念に取り憑かれ、ただそれだけのためだけにこんな……ッ」


 紫の濃霧が微かに薄くなっていく。霧に覆われていた世界が視界を取り戻すにつれ、そこに隠されていた無数の死体が露わになった。


 王都を見下ろすこの場所で、目に見えるすべての場所に、数え切れないほどの、汚泥のように溶かされた死体が横たわっている。


 王都のすべてを覆うほどの毒の霧、その内に含む命のすべてを溶かし殺すほどの猛毒。誰もがみくびっていたのだ、醜く些細な毒を吐くだけの、辺境の弱小一族が持つこの石の力を。


 目を合わせた女は、薄く、口元だけで、引きつったような醜い笑みを浮かべて見せた。


 「殺してやる、何度でも、どんな手を使っても、きさまを――」


 言い終える直前、視界がガタリと崩れ落ちた。


 望んでもいないのに、空を見上げている。立ち上がろうとしたが、しかし足の感覚に違和感を覚える。


 顎を引いて足元を見ると、どろりとした黒い血だまりの上に、右足が腐り落ちていた。横たわる視線の先で、女が興味を失ったかのようにそっぽを向き、市街地へ続く階段を、一人でふらふらと降りていく。


 「待て……待てェッ!」


 立ち上がろうにも、片足では膝をつくことすらできない。身体の奥深くが焼けただれるような痛みを感じ、こらえようもなく血反吐を吐き出した。


 全身に感じる痛みをそのままに、地面を這いずろうとしたその時、


 「グレン……」


 老年の男を見つけ、グエンは肘を擦って側へ向かった。その男は、一族の燦光石を持つ長、そして祖父だった。


 「生きて、おられたのですか」


 「この身を蟲に食わせ、人の身を捨て命を繋いだ、がもはやこれまで……」


 長は腹から下のすべてを失っていた。血走った眼球の中で黒い蟲が蠢き、破けた皮膚のそこかしこで、多足の蟲が傷口に出入りを繰り返す。


 長は左手を差し出し、

 「石を、継げ」


 その手を強く握り、

 「必ず……捨て身をとってでも、あの毒婦を討ち取ります」


 長は小刻みに首を振り、

 「ならぬ、時を得るまで、あの女に……ムラクモには近づくな」


 「しかし、アマテアの王家が……!」


 「まだだ、まだ…………姫君は、お逃げになられた」


 「それは……ッ」


 長は頷き、

 「残火ざんかを探せ。そして、必ずやアマテアの再興を……」


 目を見開き、口を開けたまま、長は絶命した。開けた口や鼻、耳の穴から、蟲の群れがわらわらと外へあふれ出てくる。


 腰から短剣を抜き、石を付けた長の手首を切りはなした。


 燦光石を乗せた手首を地面に置き、短剣の先で石を叩く、が、刃は堅い石に滑って弾かれた。


 無理だと自覚した。起き上がることもできず、全身に激痛を感じながら、これ以上、手に力を込める余力もない。


 死にかけている、毒の霧に犯され、肉体が朽ち果てていく死の感覚。


 懐に隠した主の石、そして手の中にある一族の石。持ち主を失った二つの燦光石を持ちながら、徐々に霧の晴れていく空を見上げた。


 薄れ行く意識のなか、空から鈍い羽音が聞こえてくる。


 ――来い。


 使役するただ一匹のアカバチが地面に降り、長い脚でグエンをすくい上げた。


 空へ舞い上がる直前、

 「連れていけ……私を……お前達の巣の中へ――」


 淡くなった紫の霧が、風向きに従い尾を引きながら流れゆく。

 数えきれぬほどの惨い死を内包したアマテアの都を見下ろしながら、一つの言葉を胸に抱いた。


 ――必ず。




 「絶対にッ――」


 目を覚ますと、そこは夜明け前の深界だった。


 「さっきから寝言がすごいけど、ほとんどあなたの人生語りを聞かされているのと変わらないくらい」


 あの不愉快な女がそう言った。


 視界の揺れが収まらない。身体の中を這うような不快感と痛みが酷くなっている。首を動かすだけで息が切れるほど、体力が著しく低下していた。


 「アマテアというのはあなたの出身国? 聞いた事がない名前だけど」


 グエンは意識が朦朧もうろうとしたまま、


 「東地を真に統べる国、この大地にあるものすべて、人も糧も物も、すべてがアマテアの王の所有物…………」


 「滅びたものへの執着、それがあなたの生きる動機。たしかに、あなたは自分で言うように化け物ではないのかもしれない、そういったくだらない理由に固執するところは、悪い意味でとても人間臭いといえるもの」


 心の内に怒りが充ちる。


 「滅びてなどいない! 私はそのためにこれまでも、これからもッ」


 「……自分ではわからないでしょうけど、酷い顔をしている、今のあなたはもう、外見には人間としての面影を失っている」


 「だから、なんだッ」


 「人は自身の眼で自分を見ることはできない。ムラクモという国、そして王家を恨んできたようだけど、そんな姿になりながら、憎い敵の懐に入り込んで、それでもなおムラクモという国は存続している。あなたはいったいなにをしたかったのか、なにを望んでここまで生きてきたのか、それを知りたいと、今の私は思っている」


 「私は……ッ」


 続く言葉は消え、深く俯いた。そして再び口を開き、


 「…………ムラクモの吐いた毒にやられ、溶けて朽ちていく身体を、蟲を使って癒やすのに長い時を要した。動けるようになった頃、外ではすでに多くの時が過ぎていた。私は探した、亡き主の血を継ぐ王女の足取りを……しかし時をかけても痕跡すら見つける事ができず、アマテア王家の血に連なる各家も、そのすべてが滅ぼされた後だった。ムラクモめ……それだけに飽き足らず、奴らは我らが信仰する神の存在をも消し去り、アマテアの名と共に、文化、歴史を闇の彼方に葬った」


 「そしてあなたは、憎い相手の内に入り込み、復讐の機会を窺った」


 「……信用を得て、権力を欲した。王女が生き延びていれば、その血を次代に繋げておられると信じ、人を使い、血を受け継ぐ者を探した。探して、探し続けて……しかし見つけることができず、いつの間にか私は、主の治めた、この東地の保全に心血を注ぐようになっていた」


 「それで、その命を使い、ムラクモという国に生涯を捧げた」


 その言葉が胸に深く突き刺さる。


 「…………いつしか、心の中を疑念が支配した、主の血は、とうに絶えているのではないかと。だが、探し続けるべきだった――」


 ムラクモの石を手中に収め、その血筋も残すはあと一人という所まで追い詰めた。ただ一人、力なきムラクモの血を絶やすことなど簡単だったはずなのに、それをせずにここまできた。


 「――恐れていた、憎きムラクモの血が消えた後、この東地がどうなるか、と。復讐より、なにより、私はこの地の安定を優先していた」


 今ならわかる、真の目的をなおざりにして、変わらぬ日々に逃げ込んでいたことが。


 息が苦しい。


 吐き気を催すほどの後悔が押し寄せる。


 「…………」


 顔を上げ、アマネを見た。唇の震えをどうにか押さえ、


 「ここでは死ねない、私はまだ、託された使命を果たしてはいない」


 アマネは憎らしいほど平素の態度のまま、

 「そう、それは残念ね」


 「…………伏して願う、返してくれ、私に石を」


 アマネは軽く微笑み、

 「命乞いをしているの?」


 「そうだ……」


 「そう、必死ね。でも、石を返しても、私に得るものはなにもない」


 「……同等の物を、差し出す」


 「同等?」


 「太古の昔、アマテアの王が滅ぼした一族の燦光石…………深界の奥深くに隠した、石だけではない、財宝、そして伝説に名を連ねる武具の類も……私の石を返すなら、その場所をきさまに明かす」


 アマネは一瞬考え込み、

 「悪くない……宝探しなら暇つぶしになるし、気も紛れる」


 グエンは突如鋭く牙を剥き、

 「条件を飲むのならすべてを渡す、だが言っておく、赤い石だけは指一本触れることは許さんッ、それに触れれば、我が残りの生のすべてをかけて、きさまときさまの想う育て子を探し出し、一片の慈悲もなく八つ裂きにしてくれるッ」


 「赤い石……なるほど、おおよそそれがなんなのか、ここまで聞き知った話から想像はつく。つまり、この提案はあなたにとっては最終手段、大いなる危険を孕む可能性を背負い込むということ…………わかった、その条件を飲んでもいい」


 「ならッ」


 「石は返す、ただし交換条件をそっちが先に提供すること、それと、あなたの石は私が先に逃げて逃走した後、途中に置いておく、これを飲めるなら提案を受け入れる」


 その言葉を疑う理由は腐るほど思いつく、が、もはや安全策をとれるような余地は残されていない。


 「…………それで、かまわん」


 「で、隠し場所は」


 「左の下腹部に、詳細を彫り込んだ血蜜を固めた結晶がある。私は手が使えない、きさまが取り出せ」


 「その身体から飛び出てるもの、私に手を出せばすべて終わりよ」


 「……わかっている」


 アマネはぶら下がるヒモに勢いをつけて揺らし、グエンの肩を掴み、制止した。即座に腰から小型の短剣をとり、躊躇なくグエンの下腹部に切り込みをいれ、指を突っ込み、まさぐりはじめる。


 「手触りに堅い物がある」


 「……それだ、早く、取れッ」


 赤黒い色の血がべっとりとついた結晶がアマネの手の中に収まった。


 アマネは月明かりに結晶を当て、

 「いいわ、最初の約束は守られた――」

 短剣をしまって、代わりに液体を入れた小瓶を取り出した。

 「――少し染みる」


 アマネは透明な液体を壁に飲まれるグエンの腕に振りかけた。直後に皮膚に焼いた鉄を押し当てられたような激しい痛みに見舞われた。


 「少し、だと……ッ?!」


 この痛みはそんな生やさしいものではない。だが、すぐに腕を飲む壁に変化が現れた。びくともしなかった腕が外へと押し戻されていく、ゆっくりと腕が露わになり、支えを失った身体は空中へと投げ出され、そのまま崖の下の地面に崩れるように倒れ込んだ。


 上を見上げると、アマネがヒモを手放し、器用に受け身を取って地面に着地する。


 グエンは地べたに這いつくばった姿勢でアマネを睨みつけた。アマネは、


 「約束は守る、ここから直進した先にある三角形の赤茶けた岩の影に獲った物を置いておく。一応感謝をしておく、悪くない時間だった、少なくとも私にとっては。暇つぶしと言ったから、あなたは気分を害したでしょうけど、あなたとの事はわたしにとって、いつか必ず片を付けたい後腐れのようなものだった。おそらく私の口封じを目論んだ依頼主にあなたの石を叩きつけた後、殺してやるのもいいかと思っていたけど、おかげで別の楽しみが増えたわ。お返しというほどではないけど、最後に一つ忠告を――」


 アマネは上を指さし、


 「――気をつけて」




 崖の途中でアマネがぶら下がっていたヒモがするすると落ちてくる。その直後、その真上から巨大な岩石の塊が黒い影を落として降ってきた。


 「な?!」


 グエンは力を振り絞り、地面を這いずるように転がった。一瞬の間で、岩石はグエンの目の前すれすれに落下し、轟音と土埃を派手に巻き上げる。


 舞った土煙が収まる頃、アマネの姿はすでに消えていた。


 落ちてきた岩石を支えに、よろよろと立ち上がる。足を擦りながら、アマネの指定した方向へ向かう最中、左右に居並ぶアカバチ達が、じっとグエンを凝視していた。


 アカバチ達は首をくるくると捻り、なかには数匹、顎を鳴らして威嚇音を奏でている個体までいる。彼らも、体内に宿した女王と同様、疑いはじめていた、目の前にいるグエンという存在が、従うべき主人であるかどうかを。


 ――急げ。


 疑わしげに後を付けてくるアカバチ達を引き連れながら、出せるすべての力を振り絞って歩を進める。少しして、アマネの言っていた目印となる赤茶けた岩を見つけ、言葉通り、仕掛けから解放されたグエンの左手とそこについたままの輝石があった。


 「く……」


 油断した瞬間に意識が飛びそうになる感覚を堪えつつ、左手を取り、手首の切断面から飛び出た蟲の脚に左手を差し入れた。まるで凱旋を喜ぶ民衆の如く、左手は蟲の脚によって引き込まれ、微かな切断の痕のみを残し、切り離された手首を元に戻した。


 若返った本体の皮膚には不釣り合いに、切り離されていた左手だけが老いたままの様を保っている。


 身体に発熱を感じ、力が身体に馴染んでいく。アマネに切られた腹の傷が消え、各所から飛び出した蟲の脚が体内へと引き戻される。すべての傷が癒え、痛みから解放されたその時、振り返って見たアカバチの群れは、元の無口で忠実な兵士としての様相を取り戻していた。


 左手の甲にある燦光石が激しく光を帯びる。グエンが空に向けて大きく手を振り上げた瞬間、アカバチが一斉に羽根を震わせた。


 束になって響く羽ばたきの音が、地震のように大気を震わせる。グエンは先に続く灰色の森をじっと眺め、


 ――追う、か?


 そう、自身に問う。


 重要な秘密を知られた。恥部を晒し、惨めに命乞いまでして、命に替えても守らなければならない主の石の隠し場所を知られてしまった。なににおいても追いかけ、探して殺すのが妥当、そうしろ、と経験が訴える。


 だが頭の中である光景が蘇った。あの時、頭上から降ってきたあの巨岩の様が。


 「いや……」


 関わるな、と、久方ぶりに剥き出しになった人間としての理性がそう告げた。


 グエンは一匹のアカバチの腹を手刀で貫き、体内に溜め込まれた血蜜を獣の如くすすり摂った。真っ赤に染めた口元をぬぐい、紅に染まった歯を剥いて、


 「帰還するッ」


 忠実なるアカバチの群れが、グエンを抱えて空高く舞い上がる。


 遠くに昇る朝陽に目を細め、グエンは深く白い息を吐き出した。




     *




 ムラクモの水晶宮は激しい混乱の中にあった。アカバチを連れて現れたグエンに戸惑い、兵士や輝士らが集まり、場は騒然としている。


 「騒ぐなッ」


 騒動の中、怯えた様子で武器を向けてくる兵士らにグエンは声を荒げて制止した。


 慌てて駆けつけたイザヤが先頭に立ち、

 「あなた、は……」


 グエンはイザヤに頷き、胸を張って皆を睥睨して、今世において血星石の名で知られる輝石を掲げて見せた。


 「私だ」


 彼らにとっては見た事もない風貌の男が目の前にいるのだ、しかしすでに蟲の寄生を経て同化を果たしたイザヤは即座に状況を理解して、一歩前へ進み出た。


 「グエン・ヴラドウ元帥閣下、ご帰還、幸甚こうじんに存じます」


 グエン、と呼んだイザヤの言葉に周囲から激しい戸惑いの声が巻き起こった。


 「状況はどうなっている」


 グエンの問いにイザヤは頷き、

 「アデュレリア率いる左硬軍が、演習を名目として北西部の主要な白道を押さえつつあるとの報告が入っております、その対処を検討するため軍議の支度を整えておりました」


 「卑しい犬共が……やはり動きだしたか」


 「ご指示の通り、宝玉院を封鎖、王都周辺、そしてアベンチュリンへ通じる経路は近衛軍、及び第一軍により確保をしております。しかし、宝玉院に関しては……申し訳ありません、アデュレリアに連なる候補生らの先導により、一部の家々の子女達の逃走を許してしまいました」


 グエンは苦く顔を歪め、


 「……過ぎたことはかまわん、捨て置け」


 「は、サーサリア王女に関しては捜索隊を派遣しております、これよりさらに人員をまとめ、さらなる増派を――」


 「不要だ、現状のままでいい」


 グエンの言葉に、微かに皆がどよめいた。


 イザヤは食い下がり、

 「ですが――」


 「蛇紋石、及び諸侯に連なるすべての家の代表を出頭させろ、即座に応じなければ、候補生として預かる宝玉院の子女らの無事は保証しない。この命令はすべてに優先する」


 「は、御意のままに」


 イザヤが深々と頭を垂れ、輝士の礼をとり、膝をついた。それに倣い周囲の者らも同様に最敬礼の姿勢をとるが、なかには若返ったグエンと背後に控える紅い狂鬼に対し、頭を上げたまま懐疑的な視線を送る者達も少なからずいる。その顔は後々説明が必要であることを強く意識させた。


 矢継ぎ早に指示を飛ばすイザヤの声を背に、執務室へと向かうグエンは、内心でこの先に待ち受ける東地の受難を予期し、顔を強ばらせる、だが、


 ――必ず。


 置き去りにしていた野望が、まるで真新しいものとして心を躍らせている。


 敵味方をより分け、主の治めた東地を、ムラクモの名を用いることなく一つにまとめあげる。そして、


 ――炎を探す。


 失われた王家の血、火炎を自在に操る石の力を継ぐ末裔を、必ず見つけだす。結束した一つの信念を胸に秘め、グエンは堅く、左の拳を握りしめた。










今回は本編へ繋がる、アマネとグエンの一時の対談をメインにエピソードを描きました。


次回もまた、主人公とは別の場所、別の時間での出来事をメインに描くお話になります。

投稿日や詳細については、12月初め頃に活動報告のほうで一報を入れる予定でいます。



【告知】

現在、ラピスの心臓の収益化を計画し、そのための準備や調べを進めているところです。

先のおおまかな指針のようなもの文章でまとめ、活動報告にのせてあります。

スタートは来年中のどこかで、それ以降は作品の投稿の方法に大きく変更が入ります。

ラピスの心臓の今後に興味を持たれている方は、ご一読いただければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 師匠のパワーカウンセリングで身も心も若返ったグエン様
[一言] まあかなり後の世代になるから色々混じってると言うこともあり得るが、シュオウは北方人風の顔立ちなのでアマテア王家とは関係なさそうかも 火炎を操るという特性と顔の火傷?跡が微妙に関係ありそうでは…
[一言] シュオウは北方の特徴を濃く受け継いでいるし、ターフェスタの元宰相が何か関係してそうだから火炎は関係ないと思うな
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