epilogue 開戦編(完)
最新話は2話同時更新です。先に前話【霧中の隘路 後編】からご覧ください。
epilogue
ターフェスタに代々仕える名門、カルセドニー家の邸、広々とした庭に建つ温室に設けられた食台で、先代カルセドニー家当主と、現当主ネディムが対面していた。
ネディムは冷めた茶を手に取りながら、
「帰ってきましたよ、父上。カルセドニー家が生んだ傑作、我らのクロムが」
「戦地での行方不明と聞き、手足の一本でもとられたかと思っていたが」
仏頂面で言う父の言葉を、ネディムは愉快そうに笑った。
「いえまったく、出て行った時と同じ姿そのままで。それにしても、我が君我が君とうるさく言っていたクロムの意中の相手が誰かと疑問に思っていましたが、それがようやくわかりました」
「……できる者か?」
「彩石を持たない身でありながら、この時代を表するような者達がその者の下に集っている。ほら、例の人物ですよ、囚われたサーペンティア家の公子を強引に連れ去ってしまった。並外れた能力、そして胆力を兼ね備えているようですが、しかし未だ時を経ていない、この先の進み方によっては、良いほうへも悪い方へも転がる、そういう身の上でしょう」
先代当主は意地悪く、クツクツと笑って、
「つまり、駆け出しということではないか」
「ですから、私がその者の側に身を置こうかと思いまして、共に戦地へ行くこととなりました」
先代当主は意外そうに眉をあげ、
「温泉ではなく、戦場か?」
ネディムは目を細め、首を傾げて微笑み、
「偽りの咳をするのにも飽きてしまいましてね」
先代当主は片眉を上げ、
「次代の主を待つ、と言ってお前は現大公の執政から距離を置いていた。その望みを捨てる、ということか」
ネディムは微笑を消して視線を流し、
「あのサーペンティア家の公子ですよ、一目見てわかりました、あれは並外れた人物です。そんな人間が、大衆の面前で、件の者に頭を踏ませたのです。それほどの相手に頭を差し出させるほどの人物、それもクロムが主と定めた相手であれば、興味も湧きます。ですから、私はその人を知りたいと思うのです、ですが半端な態度を示していても信頼は得られない、なのでカルセドニー家の私財を投じ、当面の援助を申し出たいと思っているのですが」
ネディムは先代当主の意見を伺った。得体の知れない平民を相手に家の金を使いたいという提案に対し、先代当主は顔色を変えず、
「当主の座はお前に譲った、好きにしろ。だがな、金を使うなら後先を考えず派手に注ぎ込め。上手くことが運べば、注いだものが数十倍にもなって返ってくる。それは相手が力を欲する小さき時であるからこそ意味を成すのだ。そうと決める時がくれば、老いた父のことは考えるな、一切合切、持てる物すべて賭けてしまえ」
ネディムは苦笑し、
「下手をすればすべてを失う、だからこそ、当たれば望外な成果を得られる。まったく、我々カルセドニーの血は度し難い、家族全員、博打事に目がないのですから」
静けさのなかにある温室の一時、ネディムは父と共に、冷たく苦い茶の味を楽しんだ。
*
*
*
その日、サーサリアは違和感に首を傾げていた。
親衛隊率いるアマイが外へ出るな、というのだ。
「はやり、病?」
「……はい、街で流行しているネズミの病が、親衛隊の者達の間で広まってしまいました。申し訳ありません、この私の管理不行き届き故のことです。落ち着くまで、しばらく殿下にはお部屋で待機をお願いいたします、外に出ないよう、重々お気を付けて」
どこか思い詰めたような顔でアマイが言う。
サーサリアは、どこかいつもと違うアマイの態度を不思議に思いつつ、
「……そうか」
と同意を告げた。
シュオウを連れ去っていった者達が部屋に穴を開けたせいで、サーサリアは二階の寝室へ居を移していた。
出窓に腰掛け、夜の冷気をガラス越しに感じながら、美しい夜空の星々を見上げる。すると、突然目の前に黒い人影が現れた。
「……ッ」
サーサリアは驚き、たじろいだ。しかし、すぐに見覚えのある顔を見つけ、ほっと胸をなで下ろす。
「シャラ?」
シャラは器用に壁面に足をかけ、命綱もなしに壁にしがみついている。となりの窓を指さして、開けるように合図を送った。同時に、静かに、という仕草も付け加える。
サーサリアは音を立てないようそっと窓を開き、
「どうしたの?」
シャラは寒さで赤くなった顔をさすりながら、
「ふう……この部屋の警備が厳重すぎて近寄れなかった。しかたなく監視のない部屋の煙突をくぐって上に上がり、そこから見つからないように降りてきたんだ。教えておくが、連中はお前を閉じ込めて当面ここから出す気はなさそうだぞ」
「どうして……?」
思い当たる節がなかった。警備の問題で移動を制限されることはあっても、何日もの間、強制的に部屋に閉じ込められることなど普段はない。
シャラは開け放ったままの窓に腰掛け、
「戦地から輝士達がユウギリへ移動してきている、少なくない、なかなかの人数だ。その者達は重要な話を持ってきた、親衛隊の者達はその話がお前の耳に届かないようにと、怯えきっている」
不穏な気配を感じとり、サーサリアは眉を顰める。
「……教えて」
月明かりが雲に隠れる。遠くに置いた夜光石の明かりが辛うじて届く窓際に、シャラは薄闇の中で冷ややかな笑みを浮かべ、言った。
「お前の愛する男が仲間達と共に国を出たそうだ。現地の司令官とその息子、サーペンティア家の長子を殺めたうえでな」
シャラの顔は、まるで玩具をもらって喜ぶ子供のそれと同じだった。
サーサリアは息を止め、
「…………うそ」
見開いた目は、時を止めたように閉じることはない。
「ムラクモから見れば、シュオウは多額の懸賞金をかけても惜しくないほどの大罪人だ。二度と戻ることはできないだろうし、戻れば間違いなく死罪となる。平民と王女などという問題ですらなくなった、あの男を側に置くことすら絶望的だ」
「いやッ――」
サーサリアの目に大粒の涙が浮かび上がる。寒気を感じ、自らの肩を抱き寄せた。
シャラは手を差し伸べ、
「どうしたい?」
予想外の行動と言葉にサーサリアは戸惑い、
「……え?」
「この手をとるか? 取るのなら、このア・シャラがお前をあいつの下へ連れて行ってやる。人目を避けての行動だ、深界を渡り、森へ入ることになるだろう。命の危険を伴う旅となる、それに、お前はすべてを捨てることになる。王族としての地位、財産、領地、臣下に民、そして継承するはずだった燦光石もな。そのすべてを天秤にかけ、それでもあの男を選ぶか――――決めろ、与えられる機会はこれが最初で最後になる」
サーサリアはシャラの手をじっと見つめた。頭の中に言葉は浮かばず、ただ純粋に、一つの気持ちだけが、その行動をとらせた。
手を伸ばし、サーサリアは無言でシャラの手を掴む。
シャラは歯をのぞかせながら、なにかを堪えるように笑んだ。一人の愛する者のために国を捨てる、その決断をした王女サーサリアは、この時その笑い顔の意味を、まだ理解できずにいた。
そして――
「シャ、ラ………………?」
震える声でその名を呼ぶ。
深い、深い、深夜の灰色の森の中。
共に居たはずのシャラの姿がいつのまにか消え、サーサリアは深界の森の中、寄る辺もなく、ただ一人そこに佇んでいた。
遠くに聞こえた獣の遠吠えを耳に入れながら、サーサリアは木陰にしゃがみ込み、シュオウの物である黒い毛皮の外套を引き寄せながら、震える体を強く押さえつけた。
*
*
*
左硬軍重将として日々の訓練を監督するアミュ・アデュレリアの下に、カザヒナが飛び込むようにして知らせを持ち込んだ。らしからぬ余裕のなさから、アミュは先手を打って問いかける。
「重要事か?」
カザヒナは険しい顔のまま、
「はい、緊急の用件ですので、この場での耳打ちを失礼いたします」
共に控える諸将らの前でカザヒナは手で傘をつくり、アミュの耳元で囁き声で報告を上げた。
話を聞いたアミュは大きな目を見開いて、
「間違いは?」
カザヒナは真剣な顔で首を振り、
「ありません」
アミュは虚空を見つめ、硬直する。
周囲の者達が顔を見合わせ、
「御館様……? いったいなにごとが」
反応を待って静まる者達が見守る中、アミュは突如立ち上がり、
「――――――でかしたぞ、シュオウッ!」
皆が驚きを隠せないなか、アミュは胸を張って手を薙ぎ、
「氷長石の主、アミュ・アデュレリアが命じる――」
言うと、皆が慌てて席を立ち、その場に平伏し始めた。
「――これより、我が軍は速やかに敵地ホランドへ向けて進軍を開始する、相手方に予告を送れ、各々、ただちに支度をすすめるがよい!」
*
同日、アミュは大軍を率い、冷や汗を浮かべたホランド王と、白道の上で対面していた。
「あまりにも急な事……いささか肝を冷やしましたぞ、氷長石殿。しかしようやく対面が叶いました。噂に違わぬ愛らしさ、是非とも未来のあなたにもお会いしてみたいものです」
軽口を言うホランド王も、しかしどこか余裕のなさが滲んでいる。
一対一、他に誰も居ない状況で、各自の大軍を背負いながら、アミュは馬上でホランド王へ睨みを送った。
「案ずるなホランド王、決戦を仕掛けにきたわけではない」
露骨に強ばった肩の力を抜いたホランド王は、固唾を飲み下して、強ばった顔で問いかける。
「では、これの集いはいったい?」
「急ぎの用ができてな、それ故ホランドの兵を借り受けたい、ここへはその交渉のために出向いたのじゃ」
「はあ……え?」
ホランド王はアミュを二度見して、瞬きを繰り返す。長いまつげがバサバサと激しく揺れ動いた。
「即座に動かせる兵を必要としておる。考えると、都合の良いことに目の前にたっぷりと置かれているのでな。ならばそれを借りていくのが手っ取り早かろう」
ホランド王は眉をくねらせ、
「失礼ながら、我々が敵対する状態にあると、あなたほどのお方であればおわかりのはずですが」
「そちらも理解しておろう、我らはにらみ合うだけ、互いに戦いに及ぶことはないと。どちらにも戦う理由はない、形式上そうする必要があっただけにすぎず、この軍事行動には金ばかりがかかり、なんら意味はないのだと」
「正直なお方だ……しかし申し出を受けたところで前代未聞、そちらはどうかわかりませんが、私は神を信じぬ罰当たりな敵国に力を貸したこととなり、各方面より責めを受けることとなる。王の身であれど、悪評は気分の良いものではありません」
「それはこちらとて同じこと。身元がわからぬよう、こちらで衣服も用意し、重々気をつけるつもりじゃ。アデュレリアは受けた事は忘れぬ、良いことも、その逆もな」
ホランド王は遠くを見つめて首を振り、
「……なるほど、仮にお受けする、となったところで、そちらが強く欲していると知った以上、高くつくことになりますが、よろしいのか」
「覚悟の上じゃ、ケチな値切りをするつもりはない、弱点を晒したのは誠意を示すため、今はそれほど時が惜しい」
ホランド王は口角を上げ、鼻から強く息を落とした。
「いいでしょう、お話をお引き受けいたします。かのアデュレリアに大きな貸しをつくれる機会、そうあるものではない。しかし一つ絶対の条件を加えさせていただきたい」
「なにか」
ホランド王はねっとりとした微笑みを浮かべ、
「その小さなお体が年頃の女性として成長した頃に、是非私と共に食事を楽しむ約束を頂戴したい」
アミュもまた、悪戯な微笑みを返し、
「よかろう。しかしその頃、汝はよぼよぼの年寄りとなっているであろうがな。すでにみまかっていたならば、墓の前で一人で弁当をつついてやる」
ホランド王はからからと笑って、
「それもまた一興。では、用意を進めましょう、お貸しできる数には限りがありますが、できるだけの善処はお約束いたします」
「群れた駄馬はいらぬ、精兵を見繕え――」
直後、アミュは目を尖らせ、手を振り上げた。
「――一つ、言うておく。これよりまもなく、我らの拠点キサラギはもぬけの空となるが、もし一歩でも足を踏み入れれば、どうなるか」
背後に巨大な氷柱が天空へ向けて生え伸びる。直後に、左硬軍の兵士達が一斉に地鳴りのようなかけ声を上げ、武器を構えた。
アミュが生やした氷柱の形状を変化させると、兵士達は一糸乱れぬ動作で隊列を動かし、輝士達が巧みな馬術でその隙間を走り抜ける。
また、四方から氷柱が伸び、それらは一つの点に結合して、巨大な猛る氷狼の姿を模した。歯を剥き出しながら顎を震わせるその様子に、ホランドの兵達の間に強く動揺の気配が漂う。
ホランド王は巨大な氷狼を見上げて汗を零し、
「さすがに、お見事でありますな……」
アミュはつんと顎を上げてホランド王の燦光石を見る。輝きを放ちつつも、青みと赤みが混じり合う独特な色合いをしていた。
「同じ燦光石であろうと、その半端な石と我が氷長石を同じと思うな。思いつきに卑しく欲を出せば、我が狼の軍勢が、氷狼と共に貴様らの喉を残らず食い破ろう」
ホランド王は浮かぶ汗を隠せぬまま、虚勢を張った笑みを浮かべ、
「肝に銘じておきましょう――」
*
「お見事です、閣下」
カザヒナと合流し、アミュはふんと息を吐く。
「現状、用意できる手数はすべて揃えた」
「それでは」
アミュは頷き、
「サーサリア王女の失踪、及び監督者であるグエン・ヴラドウの責を問う文書を各地にばらまけ。それと、わかっておるな?」
カザヒナは真剣に頷き、
「刺客の選定は済ませてあります」
「誰よりも早く見つけ、二度とムラクモの地を踏めぬよう、確実に片を付けよ。その死を看取るまで帰還は許さぬ」
「かしこまりました」
「指令を下す。キサラギを現状のままで放棄、忠誠が疑わしい者達はバラして編成し、監視下に置く。その後、全軍を以て以東各関所を制圧、ムラクモの血流を断ち、領地奪還の足がかりとする。王女の死が確実となるまで、言い訳のつくぎりぎりの線を踏み抜くぞ。一族に連なる将兵を集め、ただちに状況を伝えよ」
承知を告げながらも、カザヒナは重たい表情でその場に踏みとどまった。
「アミュ様、あの子達は……」
「……あやつらもアデュレリアの一員、己の力で突破させよ。しかし、打てる手はすべて打て」
カザヒナは僅かに明るさを取り戻し、
「はいッ」
返事を残し、後方へと下がっていく。
アミュは一人、広々とした冬の空を見上げ、ゆっくりと唇を舌でなぞった。心に思うのはアデュレリアの先の事、そして、この機会を生み出したシュオウの先を思いやった。
長らく、安定の下に統治されていた東方に起こった新たな紛争の火種は、未だ自らの足で立ったばかりの、たった一人の青年の行動が発露であった事を、このときはまだ、知る者はごく僅かであった。
*
*
*
ムラクモ王都、水晶宮。
「おい、あいつらはどこだ?」
城の警備につく交代要員の従士は、その光景を不思議に思った。所定の位置に誰もいないのだ。
連れだっている仲間の一人が、
「待ちきれずに飲みに出たんじゃないのか、ほら、新入りのところに赤ん坊が生まれたとか言ってたろ」
「ち、なんだよ、手を抜いて祝い事か? 上にばれたら事だぞ」
「サーサリア様が不在だからって、皆気が抜けてるからな」
「だからといって、グエン様はここで執務に就かれておられるのだ。気は抜けない、過去には侵入を許した賊があの方を襲ったという話もあるからな」
「そりゃ、その賊はきっと死にたかったんだろうよ」
従士達はからりと笑った。そこへ、くたびれた格好をした輝士が一人、今にも倒れそうな息遣いで走り込んできた。
従士達は声をかけるが、
「あの――」
「どけェ!」
その輝士は血走った眼で従士達をはね除け、城の奥へと走り去って行った。
「お、おい、止めなくていいのか? 普通じゃなかったぞ」
「大丈夫だろう、近衛の輝士様だ、見覚えがある」
去っていった輝士のほうへ様子を窺いにいった従士が、突如悲鳴を上げて尻餅をついた。
集まった従士達は、
「おい……大変、だぞ……ッ」
階段の根元の暗がりの中に、前任の従士達の死体が、積み重なるようにそこにあった。
*
「グエン様、夕刻に到着した各地より報告の書簡です」
イザヤに渡された書に目を通しながら、グエンは酷く顔を顰める。
「ユウギリからの報告がないな」
イザヤは顔色を暗くし、
「申し訳ありません、急かしてはいるのですが」
グエンは重く息を吐き、
「いつまでも勝手をさせておくわけにはいかない、追って指示書を送れ、十日以内に帰還の予定をたてなければ、安全確保を名目に軍を派遣し、迎えに出すと――」
言いかけで、執務室の外から派手な騒ぎが耳に届く。グエンとイザヤは同時に部屋の外へ視線を向け、
「――グエン様ァ!」
必死な声が聞こえる。外に立つ者達に引き留められる様子が伝わり、グエンはイザヤへ頷いて合図を送った。
イザヤは扉を開き、
「なにごとか」
「――グエン様にご報告! 緊急です、すぐにお目通りをッ」
その声音はあまりに切迫していた。グエンは自らの足で部屋を出た。
そこにいた輝士は、グエンがサーサリアの監視役として送り込んだ者の一人だった。
輝士はくたびれた顔を上げ、敬礼の姿勢をとり、
「ご報告を、しかし極めて機密性の高い報告ですので」
視線を周囲の輝士達へ回す。
グエンはそこにいた輝士達皆の顔を見回した。イザヤを含め、皆グエンに対し高い忠誠心を持つ者しかいない。
「かまわん、言え」
輝士は苦悶の表情を浮かべながら、
「サーサリア王女殿下が、行方不明となられました」
「……ッ」
全員が言葉を失った。
イザヤが強く足を踏みならし、
「行方不明とは?!」
「一夜のうちに、部屋から姿を消されたのです。極秘のうちに親衛隊が必死の捜索を続けましたが、ユウギリ領内にはどこにもそのお姿がなく、同時に、行動を共にされていたシャラ姫の姿も見えなくなった、と。内容を鑑み、紙ではなく直接、報告のため早馬を飛ばしました、後の事がどうなったか、把握はできておりません」
グエンは近年、周囲の者達に見せる事がないほど焦りを顔に浮かべ、
「ただちに捜索隊を組織しユウギリへ派遣しろ、今すぐかかれ!」
一人を指さし檄を飛ばす。指定された輝士は慌てて承知を告げた。
報告を持ち込んだ輝士はさらに神妙な顔で、
「もう一つご報告が。この件が王女失踪に関連しているかはわからないのですが――」
それは戦地である城塞ムツキで起こった大規模な謀反の情報だった。その首謀者はムツキの司令官を殺害し、囚われた捕虜の救出を土産としてターフェスタへ渡ったという。その者の名を聞いたとき、グエンは目眩を感じるほどの動揺に瞳を揺らした。
――まさか、追った、のか。
イザヤが不安げに顔を覗き込み、
「グエン様……」
グエンは一点を見つめながら、
「アデュレリアの手中に無傷の左軍がある…………アデュレリア重将へただちに指令書を送れ、軍を現地にとどめ置き、ただちに出頭せよ、と」
「はッ」
グエンの指示に応じ、輝士達がばたばたと作業にとりかかる。
そこへ、
「ご報告! 下の連中が騒いでいます、なにやら賊が侵入しているとか」
グエンは報告にきた者を睨めつけ、
「賊……? そんなものを気にしている間はない、警備隊に対処させろ――」
グエンはその報告を早々に頭から切り離し、
「――右軍の現在地を再確認する、サーペンティアからの報告書はどこにあるッ」
巨大な地図の上に駒を置き、グエンはそれらを眺めて苦い顔をした。
「左軍を睨ませるには距離があるな、東南へ退かせ経路を遮断するか……なにより優先すべきは……」
グエンは地図上の極東地点、アベンチュリンを指し示した。
「近衛の予備部隊をアベンチュリンへ派兵し、東部の防衛を強固にする。適切な指揮官の選定に取りかかれ」
イザヤはグエンの指示を周囲に振り分けながら、
「まさか、アデュレリアが裏切るとお考えでしょうか」
グエンは歯を食いしばり、
「わからん、だが私がアデュレリアの統率者であれば、今が好機と判断する、故に最悪を想定するのだ。王女の発見が遅れれば、奴らは監督者の私を大々的に責め立てるだろう。天青石は狂犬にはめた首かせ、それを継ぐ者が無くなれば、大軍を手にした氷狼族を抑えきれなくなる」
くしくもそれは、グエンがサーサリアをアデュレリアの監督下で殺めようと目論んだ時と同じ状況となっていた。あの時、唯一の王族の崩御の責任をアデュレリアにかぶせ、同時にアデュレリア家の弱体化を目論んだ。しかし現状ではまるきり、立場が逆転している。
王女の死の理由がはっきりとわかっていれば、なにかしらに理由を設けることは可能である。が、ただの失踪、生死不明という状況は最悪だ。その責任は、間違いなく王女の行動の可否を決定していたグエンにあり、意図してやったことであろうと難癖をつけられることは必至である。そうなったとき、特に王家に高い忠誠心を抱く貴族家は、グエンを敵としてアデュレリアにつき、刃を向けてくることになるだろう。
グエンは外套をとって羽織り、
「近衛軍主力を直ちに編成し、王都周辺の守りを固める。私が直接指揮を執る」
急ぎ足で通路へ出て、イザヤに向かって指を差し向ける。
「各隊の指揮官へ招集をかけろ、それから――」
その時だった――――天井から突如、なにかが振ってきた。
グエンの目が捉えたのは、長い黒髪を持つ女の姿だった。女の手には白い骨のようなものを重ね合わせた特殊な器具がある。その器具はグエンの左手首に絡まり、次の瞬間、にぶい音と共に、肉と骨はばっさりと切り離される。
それは数瞬の出来事で、女が地面に足を着いた時には、その手にグエンの輝石を乗せた左手首が握られていた。
「な、にッ!?」
「グエン様ッ――?!」
イザヤが叫んだ。
――刺客。
頭がようやく現状を理解する。その女の刺客は身を屈めたまま器用に走り抜け、通路の奥の窓を破り、縁に鍵縄をかけ、そのまま高所から身を投げた。
グエンは血の零れる切断面を握りながら刺客の後を追い、振り返ってイザヤに命令を告げる。
「ただちに宝玉院を封鎖しろ!」
イザヤが返事を送る前に、グエンの体は窓の外へと飛び出し、その体は夜の闇へと飲まれていった。
開戦編 完
あとがき、次回について、その他色々、活動報告に載せておきます。