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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
83/184

霧中の隘路 前編

 霧中の隘路あいろ 前編








   1




 紫色の睡夢の中に、遠く過ぎ去った過去の景色があった。


 暗い下水路に一人、佇んでいる。


 命の気配はなく、水の音も、匂いも感じない。


 ――夢。


 在るはずのない世界に、シュオウはそう思った。


 ――いや。


 そこに居ると、自覚できているのならば、これは夢ではないはずだ。


 現実なのか――――ぼやけた感覚のすべてがそれを否定する。


 手足は動いた、が鈍い。まるで他人の身体を借りているようだ。緩慢かんまんで、怠惰たいだな心地がする。


 ――ここは。


 見覚えのある景色なのだ。ここは暮らしていたかつての家、いくつもの季節を巡り、這いつくばって、腐った食べ物や、不潔な生き物をかじって生きていた、あの頃の。


 あの味を思い出した。あの臭いを、あの視線を。惨めで、空腹で、悲しくて、寂しかった、あの時の気持ちを。


 アマネに拾われていなければ、ここで死んでいたのかもしれない。そんな、もしもの考えを自嘲する。拾われてから後のほうが、よほど命の危険に晒されていたではないか、と。


 繰り返す月日は、交互に顔を見せる光と闇。互いを知りながら、追いつくことのない永遠の旅路を続け、否応なく時は過ぎ、去って行く。


 考える事しかできない場所で、今を忘れ、通り過ぎた過去を見ていた。その行為と、感じるものに、酷く懐かしさを覚える。


 忘れていた景色。別れた人々。味、匂い、指先の感触、世界の色。恵まれた微かな希望と、そして痛み。


 茫洋とした思考を当てもなく繰り返し、過程で、ふと思い出した。


 ――そうだ。


 紫色の情景が小さくなにかを囁いた。試みに、途切れていた記憶の糸を辿る。


 ――サーサリア。


 晶気により、動きを封じられた。毒気を吸い込み、そのまま眠るように意識を手放した。そこまでの記憶を、はっきりと思い出す。


 思考は現実と繋がった。ここはやはり、夢の世界ではないのだ。だが、次の謎が現れる、この状況はなんなのか。


 深く瞼を落とした。次に目を開けると、景色は一変していた。


 ――森?


 整然として立ち並ぶ灰色の木々。だがここも、目に映る景色はあるはずのない紫色に染まっている。


 ざわりと木々が揺れた。腹の底に、沈むような冷気が落ちて重たく淀んだ。


 ――無風。


 なのに、木々が揺れる。経験上、それは驚異の警告だった。なにかがいる、だから揺れる。


 足は杭を打ったように地面にへばりついていた。呼吸を落とし、身を屈めて次の挙動のために力を溜める。


 「フジョウ――」


 木々が揺れるのと同時、そんな言葉が聞こえてきた。


 「イジョウ――」


 また、聞こえた。感情の揺らぎも、起伏もない声。まるで意思のない人形が喋っているような、不気味な響き。だが、その声には覚えがあった、まるで自分の声とそっくり同じに聞こえるのだ。


 誰だ――声を出そうとしたが、なにも音は出なかった。代わりに、心の声で叫んだ。


 ――誰だ!


 「自身――」


 突如、激しい頭痛に見舞われる。立っていられないほどの痛み、膝をつき、頭を押さえ叫ぼうとするが、やはり喉からはなにも音が出てこない。


 自身、と声は言った。


 ――俺、なのか。


 「ここは、お前の――俺の世界」


 知らない、覚えはない。


 「深く深く、水底に沈む、心の奥。はじめて訪れた――俺は、手放さない。俺は、頑固だ、なによりも、誰よりも」


 けなしているのか。


 「この色――原因――異常――異物」


 なにを言っているのかわからない。


 木々が激しく揺れ動き、

 「この色は不快だッ」


 濁ったような紫色に覆われた世界で、自分と同じその声は、突如激高したように強く訴える。


 そうだろうか。


 ――そうでもない。


 紫の色は一帯を染めながらも、儚さに優しさも内包しているような気がした。無遠慮であっても、色はただそこに在るだけだ。


 声の主は猛ったように声を荒げ、

 「不快――不快――不快――不快ッ――」


 声は狂ったように同じ言葉を言い続ける。一言ずつに呼応するように、激しく頭の中を叩きつけるような頭痛が鳴り響いた。もはやそれは、声ではなく、酷く不愉快で濁った騒音だ。


 ――やめろ、やめろ、やめろッ。


 強く思うと、声は止んだ。


 「――――――はじまっている」


 自分によく似た声は、そう言った。


 ――なにが。


 「あの瞬間ときから――――」


 木々の奥から、突如それは現れた。黒い影――黒い塊。人の形をした物体が、豪速で一直線に向かってくる。ソレは、両手に大きな鎌のようなものを持っていた。


 身体が警告する、避けろ、逃げろ、迎え撃て。だが動けなかった。頭痛は続いている。地面に吸い寄せられているように身体が重い。


 黒い塊は一瞬で目の前まで迫っていた。振りかぶった大鎌を避ける手段もなく、反射的に左手の甲にある輝石を突き出す。鎌の一撃が輝石を打ち付けた、その瞬間――――


 世界は爆ぜるように白に染まった。


 「見えている――はじめから――――俺は、頑固だ、誰よりも、なによりも――見ろ――そして、排除し――改善を――」


 ――改善を。


 心の声と音の声が一致する。脅威を排除し、生存のために改善を繰り返す。常にそうして生きてきた。


 白色の世界が黒に染まる。


 ――闇。


 消えたのは色ではなく、光だ。


 世界が黒色に覆われた。対話をしていた声の気配が消失する。


 闇の中、安らかな呼吸の音が聞こえてきた。揺れ動く胸の感覚と、その音は一致している。


 夢のようなあの世界とは違う、呼吸をしているのが、自分の身体がよくわかる。だが、自由が効かない。動けない、他人の身体に心だけが入ってしまったかのように。瞼を開ける事すらできないのだ。


 ――見ろ。


 心が言っている。


 ――見ろ。


 見たいと、強く訴える。


 ――見せろッ。


 重たい瞼をこじ開けた。


 薄暗い部屋の天井があり、空中には紫色の濃霧がかかっていた。だが、その霧の中に、白く煌めく砂粒のようなものが混じっているのが、眼に、はっきりと見えている。


 すぐ隣で、座ったままうとうとと首を揺らすサーサリアの姿があった。記憶と現状が一致し、たしかな覚醒を自覚する。


 幾日もの間、こびりつくようにあった頭痛は、跡形もなく消えていた。




     *




 無為に過ぎていく時に苛立ち、ジェダは無意識のうちに口内で歯を擦り合わせていた。


 シュオウと別れてから一日以上の時間が過ぎている。


 通された部屋は快適に過ごせるよう最低限の配慮はされていたが、湯浴みもできず、着替えもない状況で、シトリがしきりに体臭を気にして、持ち込んだ香水を体に振りまいている。一つ、大きく鼻息を出したシガが、シトリへ向けて声を荒げた。


 「おいッ、食ってるときに臭え匂いをばらまくな」


 シトリは気にした様子もなく横目で睨み返し、

 「うざ……嫌なら鼻をつまめば」


 シガは鋭い犬歯を剥きだしてシトリを睨み文句を吐くが、シトリは涼しい顔で香水の強い匂いを体の各所に振りまき続ける。


 二人のやりとりをよそに、アイセは一人、呆然と立ち尽くして重たい木の扉を見つめていた。


 ジェダはその扉に近づき、押し開こうと力を入れた。が、扉は僅かな隙間すら開かない。


 アイセは神妙な顔でジェダを見やり、

 「鍵をかけられています。呼んでも反応すらなくなりました。いつまでこんなことが続くのでしょうか……」


 ジェダはアイセを見る事なく無表情に、

 「……わからない」


 アマイの言葉通りなら、現状を創り出したのはサーサリア王女本人である。ならば、この軟禁状態は、王女が命令を取り下げるまで継続されるという事になるのであろう。


 ジェダは椅子を一つ持ち、部屋の中央に置いて腰を落とした。その行いに、いつの間にか喧嘩を止めていたシトリとシガ、それにアイセらが視線を向ける。


 ジェダは浅く椅子に座り、腕を組み合わせて語り始めた。


 「我々は現状、軟禁された状態にあるが、王女の下へ一人で連れて行かれたシュオウが、ここまで様子を見に来ることすらしていない事から予想すると、おそらく彼も僕らと同じように拘束されている可能性が高い」


 部屋の空気に緊張が走った。


 アイセが足を前に踏み出し、

 「でもシュオウは殿下から……」


 シュオウは王女の寵愛を受けている。アイセの訴えを読み取り、ジェダは素早く首肯した。


 「だからこそさ。シュオウは彼の隊の維持と管理に強く心を寄せている。そんな時、群れから離れて過ごすここでの時間は、彼にとって望むものではない。同じ場所で共に過ごしたいと望む王女が自身の願いを叶えるためには、無理矢理シュオウをここへ釘付けにしておくしか方法がない――必然から結論を導けば、答えは見えるくる、シュオウは王女の下に囚われている」


 全員が息を殺したように呼吸を止めた。


 シガの大きな舌打ちが静寂を打ち破る。


 「くそめんどくせえな」


 その言葉に、ジェダは心中で全面的に同意していた。


 アイセが、

 「でも、そんなのおかしい。それではまるで、現状を親衛隊が許容していることになる。唯一の王族と彩石を持たない者を――」


 ジェダはアイセを見て頷き、

 「王家に濁石の血を入れる事は、王家に仕え忠誠を誓う者達にとっては悪夢に等しい。王女が側にシュオウを置くことを強引に止めもしていない現状は異常といえる。僕らには知り得ない裏の事情があるのかもしれない」


 シガは軽食を乗せた皿を置き、

 「このままここにいたってなにも変わらねえだろ、ならいっそ――」

 強靱な拳を強く握りしめた。


 慌てた様子でアイセが、

 「おい待てッ――」


 ジェダは冷たく横目でシガを睨めつけ、

 「軽はずみな行動は止めておいたほうがいい。今言ったことはすべて推察にすぎないが、確証もなしに動くには現状は危険を孕みすぎている。次に食事が運ばれる時に、できるかぎりの情報を引き出せるように務めよう。多少、強引な手法をとってでも」


 シガはジェダを睨めつけ、

 「言っとくがな、俺がお前に従う理由は何一つない」


 ジェダは目を細めて睨み返し、

 「理解しているさ。だが、本件の主催者が東地最大の権力を持つ人間であることは君の頭でもわかっているだろう。その人物を相手にとる行動のすべては、軍人としてのシュオウの立場に影響を及ぼすことになる。雇い主の身を僅かにでも案じているのなら、後悔する前に僕の言葉に耳を貸すことを勧めておくよ」


 シガはふん、と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。


 ジェダは密かに溜息を吐き出し、


 ――どうすればいい。


 ゼランの目前に置いてきたジュナを思いながら、ジェダは閉じた部屋の扉をじっと見つめた。




     *




 親衛隊長アマイは、その職責において、理想と現実の間ですっかり疲弊しきっていた。


 「お食事でございます、どうかお部屋の鍵を開けてください――」


 給仕として食事を運んできた若年の親衛隊輝士は、なにも反応のない扉の前で後ろを振り返り、アマイに向けて首を振った。


 組織で高位の立場にある者として、よくない事とは自覚しつつも、アマイは壁に背を預け、ずるずると床の上にしゃがみ込む。


 「はあ――」


 胸から自発的に生ぬるい息が逃げていく。その時、通路の奥から額に汗を浮かべたシャラが姿を見せた。


 「青息吐息だな。その態度、部下を束ねる者には相応しくはない、他国の人間の前でならなおさらだ」


 「今更、でしょう」


 シャラは白い歯をちらりと見せて笑む。

 「たしかに、お前達の醜態はもはや見飽きているな」


 アマイはじっと、主が立てこもる部屋の扉を見つめ、

 「……耳に痛い。結局、彼の事となると殿下は道を見失われる。私の言葉など届きはしない。生まれてこのかた、経験したことがないほどの無力さを痛感していますよ」


 シャラはしゃがみ込むアマイの隣に、同じ姿勢で腰を落とす。年齢を忘れさせる大人びた横顔は、固く閉じたサーサリアの私室の扉を強く凝視していた。


 「わかっているのだろうな、この扉、次にいつ開くかわかったものではない」


 「……ええ」

 返答をして、アマイは口を引き結ぶ。


 「お前達の苦労は承知している。相手は敬うべき主君、強引に手にしたものを取り上げるわけにもいかず、かといって黙って見ていることもできない、なにせ相手が相手だからな」


 無意識に、アマイは自身の左手の甲の石を見つめていた。


 「一朝一夕にひとの心は変えられません。天青石を継がれ、ムラクモを統べる王となられるお方であれば、サーサリア様は望むものをすべて手にする資格を有しておられる。ですがこれだけは…………」


 シャラはふっと笑声を零し、

 「だというのに、お前達は黙って見ている事しかできない。前に餓死寸前にまで至った時、お前達の主は、自身の命を盾にする術を学んでいる。唯一説得できるであろう男本人は、今頃自由を奪われ口を開くこともできないはず。困った事になったものだな」


 アマイの細い目を、シャラは覗き込むように見つめ、

 「楽しげに言われる。あなたには前の時にも助けていただきましたね。サーサリア様のご友人として、またなにかいい手立てを思いついてはくださいませんか」


 シャラは口を引き結んで深く息を吐き、


 「心を変えることは難しくとも、状況を変えることはできるかもな――――うまく運べば、お前達が立場と職責を保ったまま、王女からあの男を引き離してやれるかもしれん」

  

 アマイは初めて釣り餌が投げ込まれた湖の魚のように、シャラの言葉に食いついた。


 「詳しく、聞かせていただきたい」


 「言っておくが、協力が不可欠だ。その覚悟があるのなら、口の堅い部下を少数集め、邸の適当な部屋で火を起こせ、あとの事はこちらにまかせておけばいい」


 シャラの提案を聞き、アマイは鈍く立ち上がって、息をのんだ。


 「放火を、しろと? しかし……」


 シャラはしゃがんだまま、アマイの顔を見上げ、

 「二度は言わん。お前達が被ることのできない泥を被ってやろうと言っている。状況が状況、相手が相手、お前もこの件を穏便に片付けられるなどとは考えていないのだろう」


 「……勝算はおありでしょうか」


 「なければ言っていない。が、確実にとも約束はできん。だが行動を起こせば波風くらいはたつだろう。現状のまま、ただ黙って見ていることしかできないよりはましと思うがな」


 アマイはじっくりと思考を巡らせた後、扉を見つめて頷いた。


 「わかりました……ですが、計画の内容については、事前に詳細を聞かせていただきますよ」


 シャラの頷きを見て、アマイは部下の調達と計画の遂行のためにこの場を離れた。


 アマイが去った扉の前で、シャラは奥に立てこもるサーサリアの姿を想像し、不適に笑みを浮かべる。


 ――悪いがな。


 「その男は、お前の玩具として終わるような奴ではないのだ」




     *




 王女の仮住まいとなっているユウギリ領主邸の敷地内に、突如激しい警鐘が鳴り響く。


 軟禁された部屋の中でその音を聞いたジェダは、他の者達と同様、突然の事態に慌てて身を起こした。


 「なんだ?」


 アイセが素早く扉のほうへ向かい、

 「たしかめます」

 扉を叩き、人を呼んだ。


 部屋の外からの反応はなにもなかった。今もまだ、警鐘は鳴り続けたままだ。


 アイセは聞こえる警鐘の音に耳を傾け、

 「この鳴らし方……火事だ、たしか」


 ジェダはまなじりをつり上げ、

 「火事……王女の寝所があるここで起こったのなら、大事になるな」


 アイセはなにかに気づいた様子で扉に耳を寄せ、

 「待って、外からなにか聞こえる……」


 扉の奥から、ごそごそとなにかをしているような音がする。誰かが慌てて扉の鍵を開けようとしていた。


 扉が開く。四人の視線がそこへ一点に注がれた。


 開いた瞬間、親衛隊の輝士が前のめりになって部屋の中に倒れ込んだ。輝士は背中を擦って怯えた様子で後ずさる。


 「お、お待ちください、シャラ姫様! このような行い、御身のお立場を悪くされますッ」


 輝士が向ける視線の先に、南方の公主ア・シャラが胸を張り、颯爽と現れた。


 「黙れッ。消火の手伝いに行けと言ったのに、職務を放棄せず、しつこくここに居残ったお前にも責があるッ、褒美として受け取れ!」


 言われた者の立場になれば、理不尽極まりない台詞を吐きながら、シャラは俊足で輝士の目の前まで距離を詰め、顔面を蹴り飛ばし、輝士を気絶へと導いた。


 立っていた場所で固まっている四人に向け、シャラは両手を腰に当てて大きく息を吸い込んだ。


 「ア・シャラである! 各々、ムツキで語らって以来だな」


 四人それぞれにシャラは視線を送った。彼女がサーサリアと共にムツキに訪れた一日、各所で自由気ままな猫のように振る舞っていたシャラとは、全員が顔見知りとなっていた。


 興味がなさそうにつんとそっぽを向くシトリ。シガはシャラに見られて、僅かに青ざめた顔で腹を押さえていた。


 アイセは一歩前へ進み、

 「シャラ様……? これはいったい何事ですか」


 シャラは椅子に腰掛け、これまでの粗暴な行いが嘘のように、すました上品な態度で茶器を手に取った。


 「話があってここまできた。空き部屋やら倉庫やらから派手に火の手があがっている今のうちに、お前達に現状と提案を伝えておく」


 ジェダはシャラの座る対面に席を取る。力尽くで叩きのめされ、意識を失っている輝士を見やり、真剣な眼差しでシャラに問いかけた。


 「シュオウの事ですか」


 シャラは首肯し、

 「あれは現在、サーサリアに監禁されている。身体の自由を奪われたうえでな」


 ジェダは下唇に歯を食い込ませた。

 「やはり」


 アイセが動揺を隠せぬ顔で、

 「引き留められているだけかと……」


 シャラは笑い、

 「そんな生やさしいものではないな。だが、もとはといえば、あの男が王女の部屋を出た直後に倒れた事から始まっている」


 「うそ……?」

 黙って聞いていたシトリが、らしくない真面目な顔で腰を浮かせる。


 ジェダは眉を顰めて、

 「無事ですか?」


 シャラは落ち着いた様子で茶を飲み、

 「さあな」


 アイセが足を踏みならし、

 「さあって?!」


 「医師の治療は受けていたが、その後の経過を見てはいないのだ。あの女は他のすべての人間を外へ追いやり、シュオウと共に部屋に閉じこもったまま出てこない。今どうなっているのか、知っている者は誰もいない」


 ジェダは、

 「それを伝えるために?」


 シャラは頷き、

 「近しい仲間であるお前達には知る必要のある情報だろう。親衛隊の連中は王女の勅令により縛られている。なにもしなければ、お前達に真実が知らされることもなく、ただこのまま時間だけが過ぎていたはずだ」


 ジェダは、

 「それが現状……か。なら、提案というのは」


 「陽動を行い、人手を減らして強行突破でお前達に情報を伝えた。本来であれば、まどろっこしい手は抜きにして、馬鹿の部屋に風穴でも開けてやりたいが、これでも我が身は囚われの身分にすぎん。ここまでだ、これ以上をやれば、同じく囚われの愚鈍な父共々、この命も危うくなる。だから、あとのことはお前達の意思に委ねる」


 アイセが怯えたように後ずさって、

 「それは、まさか我々に――」


 腹を守るように腕を下げて防御の姿勢をとっていたシガが、

 「あいつを力尽くで連れ出せってことか」


 アイセは腕で空を斬り、

 「馬鹿な事を……それはつまり、王家に対して反乱を起こすという事になるんだぞ……そんなことをすれば――」


 シャラは遮るように、

 「あれはもう、愛しい男を手放さないぞ。本人も想いを周囲に歓迎されていないことは自覚している。だから力を使い、実力行使で閉じこもりを演じた。お前達が不動を選択するのなら、サーサリアはこの世界で最も欲する人形を手に入れることになる、本人の自由と意思を奪ったうえでな」


 アイセの瞳が大きく揺れ動き、

 「ひどい――――」


 シャラはジェダへ、

 「まがつ蛇の子、お前は奴の副官のようなものなのだろう。その意思を聞かせろ」


 ジェダは微笑を浮かべ、

 「すべてを置き去りにして、彼が一つところに止まることなど望むわけがない。僕はただ、彼の望みに応えるために行動をするだけだ」


 シャラは満足げに微笑を返した。


 ジェダは片手を腰に当て、他の三人をじっくりと見つめた。


 「さて、一応、全員の意思を確認しておく――」


 シトリは早々に身支度を始め、

 「あの女……ぶっとばしてやる」


 シガは首や手足を回して準備運動を始め、

 「さっさと拾って帰るぞ。くそ、妙にあいつの作る飯の味が頭から離れねえ」


 一人立ち尽くしたままのアイセは、酷く青ざめた顔で唇を震わせていた。


 「強制するつもりはない」


 ジェダの言葉に、アイセは息を荒げて、


 「そんなことッ――」


 アイセの叫びに、シガとシトリも身支度を止めて視線を送った。


 ジェダは常になく険しい顔でアイセを見つめ、


 「流されて側に居られても邪魔なだけだ。相手は唯一絶対、未来のムラクモの王となる人間、我が身を優先したとしても、シュオウならそれを責めはしないだろう。迷い、怯えているのなら、ここで待ち、僕らの暴挙を見届け、訴えればいい」


 アイセは唇を噛みしめてジェダを凝視し、

 「あなたのその態度……ずっと腹立たしいと思っていた。あとから突然湧いて出てきて、シュオウのことをわかっているような態度で偉そうな事ばかり言って――――シュオウがいなければ私もシトリもあの森で終わっていたんだ、彼が窮地にあるのなら、その助けになりたい。その気持ちを恐怖や立場と天秤にかけるつもりはないッ」


 ジェダはゆっくりと瞬きをして、

 「僕達は馴れ合いを演じる仲間じゃない。ただ、シュオウの下に集っているだけの他人同士だ。それでも、各々が一つの目的のために行動をすれば、目的を達することはできる。今はそれで十分だ」




     *




 仰向けに寝かされた身体は、まるで自由が効かなかった。唯一の自由を得ているシュオウの隻眼は、忙しなく現状把握に務めていた。


 隣に寄りそうサーサリアは、疲れた顔で身体を枕に預けたままの状態でうたた寝をしている。


 麻痺の元凶である晶気が創り出した紫色の霧は、今も部屋の中全体に滞留していた。


 ――あれは。


 覚醒した直後から、晶気の霧に混じる白い砂粒のようなものが見えている。その白い粒は微かに光を帯びていて、まるで意思を持っているかのように、紫の霧を部屋全体へ撹拌かくはんするような動き方をしていた。


 白光を帯びる粒が、群れる砂のように紫の霧の中を泳いでいる。その動作には一定の間隔があった。生み出されたなんらかの力により、紫の霧の濃密な箇所が届く直前、シュオウは呼吸を止めて晶気の霧をやりすごした。


 意識が遠のく寸前まで息を止め、霧が薄くなった頃合いを見て、慎重に息を吸い込む。


 同じ動作を、何度も繰り返した。


 それは途方もない時間に感じられた。選択可能な行動は見る事と、呼吸だけ。徐々に吸い込む紫色の霧の量を減らしていくうち、指先に微かだが感覚が戻りつつあった。


 ――動け。


 不快だった。あの奇妙な世界で自分の声が言っていた通り。自分の意思で動けない。他人の意思により抑止される。声を発することも、首を動かすこともできない。薄暗い部屋の中も、甘ったるい匂いも、すべてがいとわしい。


 霧に生じた濃淡の隙間にさしかかり、目線を送って左手を見た。


 ――動け。


 今までもそうであったように、生きるための選択と行動は、常に自身の力によって行われなければならない。

 必要だった。取り戻すため、改善のために。

 なによりも強く、自由を求める。


 ――動け!


 ゆっくりと五本の指が折れ曲がる。

 握った拳は、掌握の形を成していた。


 その時、突然部屋の扉を叩く音が聞こえた。


 びくりと身体を震わせて、サーサリアが目を覚ます。直後に、扉の外から聞き慣れた声が、


 「サーサリア王女殿下、ジェダ・サーペンティアです。この扉を開けてください、中に居る従士長との面会を望みます」


 サーサリアは険しい顔で目をこすりながら、

 「サーペン、ティア……?」

 よろよろ扉の方へと向かう。


 シュオウは、特殊な呼吸を続けていた。サーサリアの心が乱れたせいか、晶気の霧は薄く濃度を減らしている。時が過ぎるにつれ、身体の動かせる部位は、徐々に増えていた。


 再び、ドンドンと扉を叩く音が鳴る。


 「この部屋の中にシュオウという名の者がいるはずです。彼に会わせてくださいッ」


 ジェダの要求にサーサリアは肩を怒らせ、怒鳴った。

 「なにをしている、親衛隊! アマイッ!!」


 王女の私室を警護しているはずの親衛隊の気配はなにも伝わってこない。代わりに、またジェダが扉の前で言葉を放った。


 「お願いします殿下、ここを開けてください、強行な手段をとりたくはありません」


 サーサリアは縋るようにシュオウに駆け寄った。守るように背を当て、扉に向かって両手を突き出す。


 「この部屋は毒の霧で満たされている。踏み入れば、その瞬間に命を奪う……ッ」


 扉の前に、前が見えないほどの濃い霧がかかった。その瞬間、漂っていた身体の自由を奪う晶気の霧が、すべて消失した。


 ――きた。


 思いきり息を吸い込んだ。かろうじて動かせていただけの腕に、僅かだがたしかな力が戻る。


 シュオウは背後からサーサリアの手首を取り、現状出せる力のすべてでひねり上げた。


 「――ッ?!」


 サーサリアが小さく悲鳴を漏らしたのと同時、シュオウは叫んだ。


 「ジェダ!」


 分厚い扉が、轟音と共に吹き飛んだ。


 濃い紫色の霧の中から、薄緑色に発光する障壁の中に身を置く、見慣れた仲間達の姿があった。さらに、彼らの頭上にはシトリが創り出した小さめの水球が蓄えられている。


 先頭に立つジェダは天井を指さし、

 「撃て!」


 轟音を上げ、水球が放たれた。水球は部屋の天井隅を突き破り、空へと高く舞い上がる。


 空いた風穴に向け、ジェダが風を起こす。渦を巻く発光する風の晶気は、滞留していたサーサリアの晶気をすべて外へと追いやった。


 瓦礫が落ちてくる風穴から、冬の冷気が入り込み、部屋の中は清浄な空気で満たされた。


 高い強度を持つアイセの晶壁が消えた。サーサリアの毒霧を通さずに防ぎきった壁を創り出したアイセは、布で目以外のほとんどを覆った奇妙な格好をしたうえ、さらに顔を隠すような奇妙な所作をしている。


 突然の事態にサーサリアは硬直していた。


 ジェダは王女にかまうことなく歩み寄り、


 「無礼をお詫びいたします、殿下――」


 荒れた部屋には不釣り合いに、流麗な所作で一礼し、サーサリアの側に身を置くシュオウと目を合わせる。


 「――動けなくなった君を拾うのはひさしぶりだな」

 どこか得意げな微笑をして見せた。


 シュオウの睨みも気にした様子もなく、ジェダは王女からシュオウの身体を引き離し、抱えようとする。だが持ち上げる事ができず、もたついた。


 傍らからシガが手を伸ばし、

 「どけ」

 そう言って、シュオウの身体を片手で軽々と抱き起こした。


 「下ろせ」


 シガに支えられながら、シュオウは床の上に両足をつける。救出にきた皆を見た。シトリは破顔した後驚いたように目を見開き、アイセはちらと視線を逸らす。


 「シュオウ、これを……」


 ジェダが眼帯を差し出し、シュオウの顔に取り付けた。さらに黒い外套を取り、肩にかける。


 シトリが、まるでそこが自分の場所だとでも主張するかのように、シュオウの懐に飛びつき、身を寄せて内側から身体を支える。


 その光景を見ていたサーサリアは、口元を歪めてシトリを睨めつけた。


 シトリはサーサリアと正面から視線を合わせ、

 「ばーか」

 そう言い放って真っ赤な舌をべろりと伸ばす。


 サーサリアは歯を剥き、震えながら熱い吐息を吐き出した。


 「許さない……絶対に……ッ」


 サーサリアの目は瞬くこともなく、ジェダやシトリ、他の二人を凝視していた。双眸は血走り、目の下は暗く沈んでいる。考えるまでもなく、その顔には強烈な憎しみが込められている。


 シュオウはシトリから身体を離し、

 「サーサ」


 そう呼ぶと、サーサリアは真顔を取り戻し、シュオウをじっと見つめた。無言で向き合っていると、サーサリアの瞳には涙が溢れ、流れ落ちた。


 シュオウは肩にかけられた自身の外套をはずし、サーサリアの肩にそっと乗せ、顔を引き寄せ目を合わせる。


 「大人しく待ってろ」


 サーサリアは口元を震わせて、

 「…………はい」


 部屋にサーサリアを残し、シュオウは仲間達と共に、王女の私室を後にした。




     *




 一行はユウギリ領主邸を飛び出した。途中幾人かの親衛隊輝士達とすれ違ったが、彼らは状況を飲み込めていない様子でただ視線を送ってくるだけだった。


 シュオウはシガの肩に担がれながら、少しずつ戻っていく身体の感覚を確かめていた。


 「シガ」


 シュオウは背中側から見えるシガの身体を見て、思わず名を呟いた。


 「なんだ?」


 「いや……」


 シガの身体は白光を帯びていた。全身、とくに腕の辺りは、白い光の粒が、虫かなにかのようにざわざわと蠢いているように見えるのだ。だが、シガは身体になんら異常を感じている様子もない。


 先ほど、皆が救出に現れた時もそうだった。アイセの張った晶壁、ジェダの風の力、アイセの水球。それらすべてに、白い発光体がまとわりついているように見えていた。


 シュオウは目を閉じ、瞼の上から強く擦った。次に目を開けた時、シガの全身から発せられていた白光は、消えていた。


 「これって……」


 厩舎にたどり着いた時、アイセが不思議そうに声を漏らした。


 そこにはまるで、今すぐ出立することが予期されていたかのように、馬と馬車が用意されていた。繋がれた荷台には、嗜好品や高級な日用品の類が積み込まれている。


 荷台の品を確認したジェダは、

 「ムツキ出発時に押しつけられた買い出し品がすべて用意されているな。一応、品物の一覧を渡してはおいたんだが」


 アイセは、

 「でも、この様子じゃまるで、私達が出て行く事を予期していたような……」


 ジェダは首肯し、

 「どうやら、親衛隊に損な役回りをすべて押しつけられたらしい。僕らは退出を望まれている。この分じゃ、追っ手の心配はするだけ無駄のようだな」


 「そんな……」

 アイセはがっくりと肩を落とした。


 馬車の座席に置かれたシュオウへ、ジェダが顔を寄せ、


 「去り際に多少気を遣っていたようだが、ムツキに戻りしだい、君には王女の機嫌取りに恋文の一つでも用意してもらいたいね。王女の怒りを一身に負わされた、僕らのためにも」


 シュオウは機嫌悪く目をそらし、

 「帰るぞ」

 と告げた。


 シトリはアイセが止めるのを無視してシュオウの隣に座り、身を寄せた。


 シトリがシュオウの顔を覗き込み、

 「倒れたって聞いたんだけど……?」


 シュオウは首を振って頭に触れ、

 「もう、大丈夫そうだ」


 あの感覚を忘れてしまいそうになるほど、酷かった頭痛は跡形もなく消えている。


 道に揺られながら、一行を乗せた馬は、ムツキへの帰還へ向けて走り出した。




     *




 曇り空の下を行く旅程は順調だった。


 運ぶ荷で足は重くなっていたが、休みを入れることなく、シュオウ達は無事にムツキに到着した。


 「どうなってるんだ……」

 アイセが違和感を口ずさむ。


 見張り人に誰もいない。シガが強く門を叩き、ようやく一人の従士が現れて門が開かれた。


 従士は汚れてすり切れた従士服を着た姿で、門を開けた後、呼びかけにも応じず、疲れ切った顔で、ふらりとどこかへ去って行った。


 常であれば、シュオウの隊に属する者が、誰かしらかは門での仕事に従事しているはずである。見知った顔が誰一人として駆け寄ってこない事に不穏な気配を感じていた。


 中庭へ向かう途中、漂ってきた匂いに鼻を鳴らしたシガが、

 「おい……」

 と沈んだ声で警告を告げる。


 シュオウも感じ取っていた、鼻をつく微かな匂いを。血の臭いに、不安を伴う死臭が混じる。


 影の中を進み、淡く光が差す中庭へ出る。瞬間、地面すれすれにまとわりつくような異様な音が耳に届いた。


 人の呻き声、泣き声、助けを求める声。その声の主は、中庭の地面を埋め尽くすほど横たえられたムツキの兵士達。


 「ッ…………」


 声を失ったシュオウは、自然と光景の中に探していたものを見つけていた。巨体が目立つクモカリだ。


 クモカリは中庭の片隅に寝かされていた。遠目でもわかるほど、負傷し弱り切っているのがわかる。


 「シュオウ――」


 ジェダの呼びかけに応じず、一人走りだした。距離が縮むにつれ、クモカリの周囲に見知った顔を多く見つける。その側には、食事の用意や看病をしているらしいアガサス家のレオン、テッサの姿もある。彼らはシュオウに気づくと、その場に止まり、うつむいて視線を地面に向けた。


 駆け寄ったクモカリの顔を覗き込むと、クモカリは瞼を震わせながら目を開けた。


 「シュオウ……?」


 シュオウはクモカリの肩に手を置き、頷いた。


 「ああ、俺だ、今戻った」


 クモカリは一瞬だけ、微かに破顔し、すぐに暗い顔をして、目に涙を溢れさせる。


 「ごめん、なさい……あたし、守れなかった…………」


 クモカリは大粒の涙をこぼしながら、首を隣へ向ける。そこには、口元近くまで毛布をかけられた男が寝かされていた。


 シュオウは男の顔を覗き見て、

 「ソバト……」


 ソバトの顔面の半分は青黒く腫れていた。強打を受けたような片眼は白く濁って生気を感じないが、それでも無事なほうの目は、ゆるく瞬きを繰り返している。


 「たい、ちょう……」


 ソバトが震える手を上げる。シュオウはその手をとり、


 「ここだ」


 そこへ、レオンとテッサが並んで膝を突き、頭を下げた。


 レオンは、

 「我々がついていながら、こんなことに……」


 シュオウはソバトへ視線を向けたまま、

 「……なにがあった」


 テッサは重く口を開き、

 「突然、進軍開始の決定が出たのです。司令官代理の特別命令で、ムツキの全軍、全人員を戦場へ駆り出すというもので、それで……」


 手を握ったソバトが苦しげに呻きだした。呼吸が荒くなり、身体を震わせ、やがて糸が切れたように全身をしならせ、身動きを止めた。


 力の込められていた手が、だらりと落ちる。半開きの血走った眼は、前を見据えたまま微動だにしなかった。


 ソバトの胸に手を当てる――鼓動はもう、なくなっていた。


 「…………」


 なにも、頭に浮かばない。ただ、シュオウは周囲へ目を向けた。常には、はっきりと見たいものを見てきた自身の眼が、まるで恐れを抱いているかのように、思うように視線を動かすことができない。時間をかけて、負傷し、横たわる者達を一人ずつ観察した。


 「いない」


 確認できる者達だけでは、隊にいた仲間達の半数にも及ばない。


 呼吸が浅くなっていく。息苦しさを感じながら、テッサとレオンを見て、問いかけた。


 「他の皆は、どこにいる。俺の隊の、仲間達は、どこだ」


 テッサは痛みを堪えるように顔を歪め、顔を沈めた。レオンは伏し目がちに、


 「戦闘で全軍が総崩れに。生きている者達は逃げるだけ精一杯で、遺体のほとんどを連れ帰ることもできずに…………」


 「遺体……?」


 死んだのだと言っている、ここに居ない者達全員が。


 周囲の音が消えていく。なにも聞こえない。ただ、心臓の音だけが、耳障りなほど強く音を増していく。拍動を刻む度、叩かれたように身体が揺れる。噛みしめた奥歯に熱を感じた。唇がめくれ、強烈にかみ合わせた歯が、剥き出しになる。


 誰かの手が肩に触れた。瞬間、消えていた周囲の音を耳が拾う。


 「シュオウ――」


 ジェダの声だった。見返すと、ジェダは眉を顰める。肩に置かれていた手が滑り、シュオウの手首をがっちりと掴んだ。痛みを感じるほどの強い掌握だ。


 「聞いてくれ、頼む、今はどうか冷静に――」


 一つずつの言葉が厭わしい。繋ぎ止めるような重たい掌握が煩わしい。そのどちらも求めていない。今、欲している物は他にある。


 ジェダの腰に下げられた剣を見た。思考はなく、ただ、身体がそれを求めた。


 この場に止めようとする手首の掌握、その力を利用し、地面に引いた瞬間、体勢を崩したジェダの肩に素早く的確に肘を落とす。ジェダの悲鳴が耳に届くより早く、その腰から剣を抜き取り、走り出した。


 「止めろ、行かせるなァッ!」


 背後からジェダの必死な叫びが聞こえた。向かう先には、戸惑いを隠せないアイセとシトリ、その奥にはシガがいる。


 アイセは両手を広げて立ちはだかり、

 「シュオウ!」

 「…………ッ」

 シトリは無言で唇を噛みしめ、アイセの隣に並んだ。


 眼を活かし、肩を当てて身体をはじきながら、両者の間を通り抜ける。


 シガは手を下ろし、身体を傾けて道を空けた。妨害の意思を感じず、素早く横を抜けて突っ走る。


 見慣れた建物の中に入った。大勢の負傷した輝士達とすれ違いながら、目的の人物の姿を探す。相手はすぐに見つかった。


 彼は肩を支えられながら通路を歩いていた。側には母である将軍の姿もある。


 彼らは、抜き身の剣を持って向かってくる不審者に気づいた。居合わせた輝士達が拘束しようと迫り来る。シュオウは勢いを維持したまま、輝士達の顔面を壁に強打し、ねじ伏せた。


 目的の人物、アスオン・リーゴールは、気圧されたように腰を抜かして床にへたり込んでいる。彼の前に立ち、剣を振り上げた。


 ――殺してやる。


 迷いなく、心がそれを望んでいた。手が届かぬ数日のうちに、悪逆な命令によって仲間達を死に追いやられた。それは復讐に値する。


 純然たる殺意を胸に、あとは剣を振り下ろすだけで決着がつく。だが、目を合わせたアスオンは、捕食者の前に立つ小動物のように怯えきっていた。唇を震わせ、目に涙を溜め、ガチガチと歯を鳴らし、股の間を濡らしている。


 かけらほどの戦意も持ち合わせてはいない。ただ怯え、ただ死ぬ事を恐れている。目の前にいるのは、大軍を意のままに操る貴族の指揮官ではなく、ただの怯えた弱々しい一人の男にしか見えなかった。


 「く、ぐ…………ッ」


 上げた手を、下ろすことができなかった。


 「と、捕らえよッ!」


 その一声が上がった次の瞬間、シュオウは背後から複数人に抑え込まれ、床に倒れこむ。押され、のしかかられた衝撃で剣が手から離れた。


 足を押さえられ、背中に乗られ、頭を押さえつけられ、微動だにできない。


 「アスオンを殺そうと?!――即時極刑に値する!」


 ニルナ・リーゴールのその言葉は、ほとんど悲鳴に近かった。


 そこへ、

 「お待ちくださいッ」


 押さえつけられ、姿は見えなかったが、野太い声は覚えがあった。


 「アガサス重輝士……?」


 ニルナは横やりを入れた者の名を口にした。


 横向きに見える視界に、バレンの姿が映る。バレンは膝をつき、頭を垂れた。


 「この者の助命を願います」


 「馬鹿なことを……突然現れアスオンを殺めようとしたのだ! 考慮の余地なく処刑を躊躇う理由は微塵もないッ!」


 「この者には先の戦いで、多くの者達を森から救い出したという無視できぬ功績があります。それを考慮し、本件を王都へ持ち帰り、正式な審判を受けさせていただけますよう、どうか」


 「だめだ! アスオンは司令官代理の身分にある、その命を脅かした者を生かしておけば軍に示しがつかんッ」


 バレンはニルナを見据え、

 「この者を処刑すると言われるのであれば、我が身も同じ処遇を望みます」


 「大罪を背負う平民のために……命を賭けると言うつもりか」


 「はッ――加えて、閣下の副官として進言いたします、この者の身を案じるお方がユウギリにおられる事、どうかお忘れなく。浅慮な行動に出れば、その責は決定を下した御身に降りかかりましょう」


 ニルナはググと喉を鳴らし、

 「…………処遇に関して、一時保留とする。決定を下すまでその身を牢で拘束せよ」


 「将軍閣下の英明なるご判断に感謝をいたします」


 バレンは深く、深く頭を下げて伏礼をした。




     *




 そこは冷めた空気に支配されていた。


 閉ざされた牢は、少し前とはまるで別の場所のようだった。ここを管理し、いつも室内を暖めていた牢番の老人の姿は、どこにもない。


 閉ざされた牢の中、シュオウは冷たい檻に背を預け、項垂れていた。


 換気口から夜の気配が伝わってくる。


 牢部屋の中は、なにやら人の気配でざわついている。誰かが言葉を発し、また誰かがなにかを言っているが、シュオウの耳には、風に揺れる草木の音と同じに聞こえていた。


 少しして、檻の外から足音が聞こえてきた。音の主はシュオウの背後で止まり、表裏がある札のように、背中合わせに座り込む。


 伏せていた顔をあげ、僅かに首を回して振り返った。


 「やあ――」


 肩を押さえながら、同じように振り返るジェダが、そこにいた。











【PR】と感謝

書籍版ラピスの心臓3巻、発売中です。

電子書籍版の1~3巻も同時に発売されています。

3巻にはシュオウの師匠アマネの書き下ろし、本編にも加筆が入っているので、まだご覧になっていない方は、手に取ってもらえたら嬉しいです。


それと、すでに購入していただいた皆様、本当にありがとうございました。

3巻を読んだよ、という言葉もいただいていて、とても嬉しかったです。


開戦編、ここからラストに向けてのラストスパートに突入します。

次回の投稿は目処が立ちしだい、活動報告に載せる予定です。


それでは、また次回。


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小説の表紙
― 新着の感想 ―
シュオウのパーフェクトコミュニケーション、 からの大戦犯。そこは皆殺しにしとこーよ。
フラストレーション
[良い点] シトリすげえよお前
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