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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
81/184

重たい雪 2

 重たい雪






   2




 英雄の瞼は重く閉じたまま開かない。


 休息というには、その表情はあまりに弱々しく、苦しそうだった。


 ――らしくないぞ。


 ア・シャラは意識を落として無防備に身体を横たえるシュオウを前に、心中で呟いた。


 この男は戦う事を宿命付けられた生まれながらの戦士だ。そんな男が、ただ苦しげに眠る姿は、やはりらしくない姿として目に映る。


 心配に思う気持ちもあった。一人の男として、彼の事は気に入っている。自分が年頃であれば相手に選んでも相応しいと思えるほどに。


 顔を寄せ、ふう、と息を吹きかける。前髪が微かに揺れ、呼応するようにシュオウは喉の奥から息を吐いた。直後、サーサリアが険しい顔でシャラを睨む。


 シャラは口角を上げ、その場から身を離した。


 異国に身を置くシャラは、自身が傍観者であることを自覚している。シュオウへ好意に似た感情は持っていても、それは敬意と憧れの域を出ていない。男女の仲など微塵も期待しておらず、思慕の念に我を忘れたムラクモの王女と、命を賭けて張り合う気などさらさらないのだ。


 シャラは身の程をわきまえた、ただの傍観者として振り返った。光景を見やり、腕を組んで、根を張ったようにぴたりと動きを静止する。


 そこには老若男女が平伏し、隙間なく部屋を埋め尽くしていた。顔を伏せ、両手の平を床につけ、膝をついて深々と頭を下げる。完全なる服従を示す相手は、大国の頂点に座す唯一無二の王家の血を継ぐ王女、サーサリアである。


 部屋に集う下々の者達を取り囲むように、武装した親衛隊の輝士達が厳重に目を光らせる。本来、この場にいるはずのない彼らは、皆ユウギリを本拠として活動している医師や薬師という医療に纏る職に従事する者達だった。


 あざなう縄と等しく、人は互いに寄り集まって群れを成すが、この歪な集いの中心にあるのは、寝台で横たわる一人の若い男なのだ。


 シュオウの治療のため、王女の強い希望により彼らは集められた。だが、本来その任に就くはずの王家お抱えの医官は、いまや雑用の地位に落とされている。以前に治療を行ったはずのシュオウの体調が悪化しているせいで、王女からの信用を失ったことが原因だった。


 気落ちした様子の医官が、本来遙か格下であるはずの町医者達へシュオウの病状を微細に伝えた。


 「――以上である……治療法に心当たりのある者があれば名乗り出よ」


 集う者達が一斉に挙手をした。静寂は破られ、各々が口々に治療法を主張する。シャラはその光景を見て、飢えた魚の群れに餌を投げ込む様を想起した。


 「家伝の妙薬がございますッ、どうかこれをお試しに」

 「私の針でツボをつけば、どのような病であれかならず癒やしてみせましょう」

 「手首から古い血を捨てるのです、そうすればすぐに目を覚ますでしょう」


 それぞれが異なる方法を主張する。収拾が付かなくなるほど彼らの主張する様は必死だった。だがそれも当然の事、ムラクモの王族が目の前にいて、直に協力を求めているのだ。


 場を仕切る王家の医官は慌てて、

 「ま、待て、一人ずつ、一人ずつだッ」


 大国において、未来の女王の要求に貢献を果たす事は、いったいどれほどの価値があるか。集う者達の目を見れば明らか――我を忘れるほどの値打ちがある。


 当のサーサリア本人といえば、医師達の存在など意に介した様子もなく、苦しげに汗を滲ませるシュオウの額へ、濡れた布を当てるのに夢中になっていた。


 シャラは軽く笑み、側に置いてあった椅子を手にして、医師達の前に立ちはだかった。一人、王女の私室に似つかわしくない訓練着を着たシャラを見て、医師達は不思議そうに顔を見合わせ、主張を止める。


 静寂を待ち、

 「親切心から問う」


 シャラは言って、手にした椅子を空中に投げた。暴風が起こるほどの勢いをつけ、鍛えあげた武技と、晶気によって強化された脚力を用い、一回転からの回し蹴りで椅子を粉々に蹴り砕く。


 砕け散った破片を浴び、医師やその周囲に身を置く輝士達まで、驚き、怯んで身を縮めた。


 「お前達の主が望むのは結果だ。そこの男を癒やすことができるならよし、だがもし悪化でもさせれば、それを行った者には今の椅子と同じ行く末が待ち受けていると教えておく――それでも己の意見を曲げぬ者は手を上げよッ」


 皆が生唾を重そうに飲み下す。あれほど必死に主張していた者達が、別人のように静まりかえる。だが、そんな集団の中で一人だけ、静々と手を上げる者がいた。白髪と長く白いヒゲを蓄えた、品の良い老人だった。


 「いいのだな?」


 シャラの問いに老人は表情を変えず頷き、

 「はい、ただ仕事をさせていただけるのであれば、それ以上はなにも望みません」


 シャラは微笑して頷き、

 「よし、気に入った。お前達、他の邪魔な連中は帰せ」


 まるで親衛隊の主でもあるかのように、シャラは軽快に指示を飛ばす。親衛隊の輝士達は、サーサリアの側に控える隊長のアマイへ視線を送り、頷きが送られるのを待って、シャラの言う通りに集められた医師達を外へと誘導し始めた。


 老医師はサーサリアの前で一度伏礼をした。

 「偉大なるムラクモの王女殿下にご挨拶を申し上げます」


 サーサリアは目を細めて老医師を見つめ、

 「……お前に治せるのか」


 「恐れながら申し上げます。まずは患者を見せていただき、判断はその後にお伝えするということで、いかがでしょうか」


 サーサリアはシュオウの肩に触れ、一時でも離れるのを惜しむように、少しずつ、少しずつ身を引いた。


 老医師は場所を空けたサーサリアに一礼し、湯で手を洗ってシュオウの顔を覗き込む。まず片眼を覆う大きな眼帯をずらすが、隙間を覗き見るなり、その手を止めて眼帯を元に戻した。片方の瞼を上げ、診察を開始する。


 「血の巡りが悪い……酷い疲労の相……脈は不順……痛みを感じているせいだな……」


 サーサリアが前のめりに診察の様子を覗き込む。


 「お願い、彼を助けて……ッ」


 その様は、ただ心から愛する者の身を案じる町娘のようであり、高貴な生まれには似つかわしくない素朴な態度に、老医師は戸惑ったようにシュオウとサーサリアを見比べた。そして、なにか納得をしたように頷き、寝台から離れて膝をつく。


 「申し上げます。こちらのお方は酷く疲れを溜めているように見受けられます。治りかけの怪我の痕のようなものも多数あり、それら一つずつを根気よく治療する他ありません。まずは手始めの対処法として、苦痛を和らげ、眠れる薬を与え、身体を温めてよく休ませるのがよろしいかと」


 その報告に、サーサリアから信頼を失った医官がほっと安堵の表情をみせた。概ね、老医師の言った治療法は、医官の方針と似たようなものだったからだ。


 シャラは老医師の背中へ向けて、

 「疲れたというだけで倒れるほど、その男は弱くはないぞ」


 振り返った老医師は顎髭を撫で、

 「なるほど……そうであれば他に理由があるのかもしれません。ですが今の時点でこれ以上の事をわかりようもない。まずはなにより、よく休ませる事です。意識をなくしながらも未だ苦しんでいる様子、これを和らげ、経過を見るのが最善です」


 「その薬、用意できるのか」

 と必死な形相でサーサリアが問う。


 「はい、お望みとあれば。ですが、そちらの高名な医官殿であれば、場末の宿場町で酔っ払いを診ている私などより、よほど良い物をお持ちでありましょう」


 サーサリアは険のある視線を医官へ向け、

 「本当か」


 医官は何度も頷き、

 「は――お許しいただけるのであれば、すぐにご用意を。御身に万が一の事があった場合に備えて常備していた特上の薬を調合いたします」


 サーサリアは不安げにシャラへ視線を投げ、

 「シャラ……」


 シャラは、

 「名も告げずに手柄を放棄する正直者の言葉だ、信じる価値はあるだろう」


 サーサリアは即座に頷き、

 「いますぐに」

 と医官へ命じた。




     *




 時を置き、シュオウには痛み止めの煎じ薬が与えられた。さらに、首に頭痛に効くという塗り薬を塗布され、その上から包帯が巻かれている。


 部屋にいた者達のほとんどは外へと追いやられていたが、シャラとアマイだけがその場に残った。


 シュオウの頭を冷やす布を懸命に取り替えるサーサリアへ、アマイが諭すように語りかける。


 「殿下、別室にいる彼の同行者達は現状を把握していません。この事態を彼らに知らせる必要があると思います。ご許可をいただ――」


 言葉を遮るようにサーサリアが、

 「だめッ」


 アマイは、まるでそうした反応を予想していたようにそれ以上の言葉は紡がない。


 シャラは腕を組み、

 「人形のように一つ所に閉じ込めてなどおけないぞ。目覚めればすぐに戦場へ戻るだろう。この男がゆっくりと身体を休めてなどおくものか、隊を預かる立場にあれば、とくにな」


 サーサリアは肩を怒らせ、

 「もう、あんなところには行かせない……ッ」

 語気は荒く、強い決意が溢れて滲む。


 アマイは意を決したように一歩前へ出て、

 「殿下、一度部屋を出て別室でお休みください、ずっと看病にかかりきりではお体を壊します。それに、ここには近衛軍の輝士達の目もある。異性の者と同じ部屋で夜を明かすのは、殿下のお立場に傷が――」


 アマイは忠言を半端で止めた。諦めたからではない、部屋の中に、紫の霧が発生したからだ。


 「殿下、いけませんッ」

 アマイはその行いを止めようと反射的に前へ踏み出す。が、晶気によって生み出された紫色の霧は、アマイの眼前で前が見えなくなるほど濃度を増した。


 「おい――」

 シャラはアマイの服を強く引いた。背中から倒れたアマイへ、

 「――目を見ろ……本気だぞ」


 じっとりとして微動だにしないサーサリアの据わった目は、皮肉にもまるで威厳ある王のような風格さえ備え、見る者に強烈な威圧感を与える。


 サーサリアは怒声を上げ、

 「二人だけにしてッ――二人とも出て行ってッ」


 無様な格好で尻をつけたまま、アマイは迫る霧から逃げるように後ずさる。


 霧はさらに濃さを増し、広い部屋の壁際を覆うように展開する。それはどんな言葉よりも強いサーサリアの意思表示だった。


 アマイとシャラは逃げるように部屋を出る。開いた扉から霧が漏れ出てこないよう、シャラは重い扉を足で押し蹴った。


 アマイが激しく咳き込みながら通路に敷き詰められた絨毯の上をのたうち回る。


 シャラはそれを見下ろして、

 「毒霧を吸い込んだな――今すぐ外へ連れていき、清浄な空気を吸わせてやれ。急げ!」

 駆け寄ってきた親衛隊の輝士達へ、そう指示を出した。


 ――やれやれ、だ。


 扉の前の通路は大騒動になっている。が、シャラは他人事のように静寂を保つ、王女の部屋を見つめ、


 「鍛えがいのある奴め」


 出会った頃のサーサリアは、脆弱な身体に弱い心、そのうえ晶気の扱いもまるで不安定で、すべてにおいて出来損ないのようだった。だが、健全な生活と栄養の摂取、体力の向上に務めた結果、軽くならした程度の晶気の扱いが、今では別人のように精度と威力が増している。


 ――ムラクモは武力で三個の王石従えたのだったな。


 その意味を改めて目の当たりにする。王家の血を継ぐ唯一の者であるサーサリアは、たしかに名だたる燦光石達に膝を折らせたムラクモ王家の血筋であると、未だ片鱗としてしか発現されていない強力な晶気の強さに納得させられる。


 「さてと――」


 シャラは両手を頭の後ろで組み、猫のようにしなやかに、伸びをする。


 「――どうするか」




   *




 甘い香りに誘われるように、深く沈んでいた意識が浮上する。


 シュオウの視界に、紫色に霞む世界がぼんやりと映っていた。


 ――霧。


 毒々しい色の霧に、視界のすべてが覆われている。霞んで見える室内の形、家具の雰囲気から記憶を辿り、ここがサーサリアの私室であると思い出す。


 「…………よかった」


 その声に誘われるように視線を動かすと、枕元にサーサリアが座って涙を浮かべていた。ぼやけていた思考が徐々に鮮明になり、シュオウは激しく上半身を起こした。


 「つッ――」


 纏わり付くような頭痛を感じ、頭を強く押さえつける。


 「だめ、寝てないと」


 起こした上半身を引き戻され、シュオウは再び身体を横たえる。サーサリアは自身の膝の上にシュオウの頭を乗せた。


 また、甘い香りが呼吸と共に全身へと行き渡る。


 「なんで、俺はここにいる……?」


 真上から覗き込むサーサリアは、長く美しい黒髪を垂らし、

 「倒れたの、この部屋を出て、すぐに……」


 シュオウは慌てて窓を探す。外から差していたはずの光はなく、室内は僅かに青白い光が照らしていた。


 「どれくらい時間がたった……あいつらは?」


 嬉しげだったサーサリアの顔に影が落ちる。


 「……今は、いいの」

 サーサリアは小さくそう言って、シュオウの髪に優しく指を通していく。指先が頭皮をなぞり、その感触に少しだけ痛みが和らぎ、安らぎに似た心地を感じる。


 だが、時間と共に意識が覚めていくほど、シュオウは強い焦りを感じ呼吸を浅くした。


 「帰らないと、ムツキに――ッ」


 置いてきたものがある。それは決して忘れてはいけないもの達だった。


 サーサリアと視線が重なる。温かい身体の触れあいも、甘い香りも、心地良い指の感触もすべて、今の状況にあってはならないものばかり。


 身体を起こそうとして、シュオウは違和感に息をのんだ。


 ――うご、けない。


 「なん、だッ――」


 ここへいたりようやく、思考は完全に覚醒していた。突然飛んだ時間、王女の介抱、大きな寝台。なによりも最大の違和感――部屋を覆う紫の霧。


 「な、に……を……したッ――」


 思い通りに声を出すことができない。手足の感覚は鈍くなり、首を動かすのすら億劫に感じる。


 「会う度に、あなたはぼろぼろになっていく。離れてしまうたび、もう会えないかもしれないって思うのはいや。だから……もう、あそこへは帰さない――」


 とばりのように、黒髪が周囲の視界を覆い尽くす。


 「――前よりもずっと上手にできるようになった。ゆっくり寝むって……あなたは必ず、私が守る……」


 恐怖を感じた。


 思考以外、身体の感覚、そのすべてが消えていく。


 深い水の底へと飲まれていく。だがそれは不快ではなく、酷く心地良さも伴う。矛盾した感覚が、さらに恐れを加速する。


 感覚は薄らぐ。


 音が消え、暗夜に意識を掌握される。


 強制的に、シュオウは深い眠りへと引きずり込まれた。




     *




 安らかとは言えない寝顔で、シュオウが再び眠りに落ちた。寝顔を見つめ、サーサリアはそっとシュオウの眼帯を取ってはずす。その奥にある爛れた皮膚に一瞬、呼吸を止めた。


 目を閉じ、意識を集中して晶気の霧の濃度をさらに上げた。


 ――大丈夫。


 サーサリアはシュオウの顔の傷跡に、そっと唇を重ね合わせた。


 音もなく、夜は真っ直ぐ、更けていく。




     *




 ムツキの調理場は、下働きに従事する者達への配膳で賑わっていた。そこを仕切るクモカリの元へ、シュオウの隊の一員であるソバトが現れる。彼は浮かない様子で、表情も暗く重かった。


 クモカリは盛り付けの済んだ皿を差し出した。

 「まだ戻らないのね」


 「はい……どうしたんでしょうね、隊長。すぐに帰ってくるって話だったのに」


 俯き気味に、ソバトは受け取った食事を前に手を付けようともせず箸を泳がせている。態度や様子から、不安を抱いているのがわかる。


 「シュオウは自分の仲間をほっといて遊んでるような人じゃないわ。帰りが遅いのは、きっと何か予定外の事があったのよ」


 「でもよりにもよってこんな時に……そこら中、まるで明日にでも戦を始めるような雰囲気になってるってのに、俺たちにはなんの情報も入ってこない」


 「仕方がないのよ、あたし達は部外者だもの。みんなシュオウが個人で雇ってる使用人みたいなものなんだから」


 一国の軍隊にあって、シュオウの隊は異質な形を持って存在している。そこで働く者達は傭兵と雑用に従事する者達が半々、その全員に支払われている給金はすべてシュオウの自腹である。


 ソバトは不安げな顔でクモカリを見上げて、

 「もしまた戦いになったとして、その時に隊長がいなかったらどうなるんですかね……」


 クモカリはソバトの不安がよく理解できた。シュオウ、ジェダ、シガ、それにアイセやシトリも不在の今、この隊を気にかける力ある者は、このムツキに一人もいないのである。


 深刻に二人が話を進めていると、配膳を終えたユギクが戻り、

 「どうなさったのですか? お二人とも暗い顔をして」


 暗く沈んでいたソバトが、慌てて身だしなみを気にしだした。クモカリは彼の態度の変わり様にくすりと笑いを漏らす。


 ユギクは見目に恵まれた愛らしい娘だ。シュオウの隊にいる若い男達は、彼女の前では途端に緊張と期待の入り交じる態度へ変わる。


 クモカリは調理場の後片付けに手を出しつつ、

 「ソバトがね、シュオウが戻らなくって不安だって――」


 しかし、遮るようにソバトは立ち上がり、

 「隊長が不在の間、皆の気が緩んでいないかと心配だったんですよッ。よし、次の飯の時間まで防御隊形の訓練でもしてこようッ」


 さきほどまでの態度とはまるで別人のように、ソバトは皿に乗った料理を一気にたいらげ、胸を張って颯爽と訓練場へと走っていった。


 「元気でいいですね」


 ユギクの笑顔は、出来すぎなほど完璧なものだった。


 「そうでもなかったんだけどね。綺麗な女の子の前でなら、男はみんなあんなものね」


 自身が褒められたというのに、ユギクはまるで気にとめた様子もなく、調理場の片隅に置いてある料理を盛り付けた複数の皿を見つけて首を傾げた。


 「四つ、あります……? 私とクモカリ様の分と、あとの二つは誰かの分なのでしょうか。よろしければ、私が運んでまいりますが」


 「え……? ああッ、いいのよこれは。あの大食らいさんが居るときの癖で作り過ぎちゃっただけなんだから」


 ユギクは自分の分の皿を取りながら、

 「へえ……そうだったのですね……」

 余分な二つの皿を気にした様子で、じっと見つめていた。




     *




 ジュナの隠れ家は増改築の隙間に生じた不要とされた空間に設けられていた。ここはムツキの歴史に埋もれた不可視の部屋であり、それを目敏く見つけていたリリカは、時間をかけて居住可能な程度にまでそこを整えていたため、思いのほか快適な場所として機能している。が、ここはあくまで裏側の世界、外の光も届かず、空気は淀む。誰にも気づかれる事もなく天井裏をねぐらとするネズミの住処と、趣はなんら変わらない。


 「ただいま戻りました」


 様子を窺いに外へ出ていたリリカが帰還を告げた。


 「おかえりなさい。表側はどんな様子?」


 ジュナの出迎えにリリカは表情を変えず、首を横に振る。


 「蛇の手足がうろうろとしているせいで、とても動きにくくなっています。以前ほど情報も得られていません。ですが、ムツキは今、戦いの支度でざわついているのは間違いありません。非常に物々しい空気が漂っています」


 ジュナは真顔で、

 「そう……」


 ジェダやシュオウが側にいない今、ジュナは表舞台で起こる情報に飢えていた。狭い部屋に閉じ困っている現状では、知る事のできる内容にもかぎりがある。


 「……ご許可をいただけるのなら、もっと深くへ入り込み、直接内情を探ることは可能です」


 リリカの提案にジュナは首を傾げ、

 「許可……? それは私が決める必要があること?」


 「こくり――です。監視が強まっている現状では、行動を起こせば相手方に気取られる危険が伴います。最悪の場合、捕らえられてしまうかも、そうなった場合、お嬢様をお守りする手がなくなります。それを承知いただけるのであれば、多少の危険は覚悟の上で、有益な情報を探りたい、と思うのですが」


 ジュナはリリカのぼやけた双眸を見つめ、

 「大丈夫……?」


 リリカは両手を腰に当てて胸を張り、

 「できない事は提案いたしません――びしッ」




     *




 無手、影蛇を統率するガザイは、限られた人手のなか、自らが率先して失せ物探しに勤しんでいた。だが、


 「ちぃ、また行き詰まったか……」


 狭く古い通路に厚い壁が立ちはだかる。無計画に増改築が繰り返されてきたせいで、中は無駄な空間、無意味な通気口で迷宮のように入り組んでいた。


 背後からガザイの部下が現れ、

 「十三番の通気口もだめです、意図的に塞がれていてびくともしやがらない」


 報告を聞き、ガザイは墨を取り出して、城塞の見取り図に横線を引いた。


 失せ物の捜索は難航していた。ジュナの守りについているであろうアデュレリア一族が傘下に置く組織、影狼に属する人間が、その仕事を堅実にこなしているせいである。隠密として特殊な訓練を受けた者であるからこそ、予めこうした事態を予期し、時間をかけて対策を練っていたに違いない。


 「これだけの造り、奥に隠し部屋の類があるはずだ……だが、これでは時間がかかりすぎる」


 ガザイは焦りを感じていた。実質的な主であるヒネアは、優しさや寛大さとは無縁の性格の持ち主だ。そしてこの現場での主であるゼランにしても、その性格と性質は彼の伯母に勝るとも劣らず、残酷で直情的なのである。なによりも結果が求められる現状、役目を果たすことができなければ、容赦なくその責を問われる事は明白だった。


 「これだけ手間を取らされて、もし失せ物がここになければ……飼い犬の仕掛けた陽動ではないのですか」


 心配して言う部下に、ガザイは睨みを効かせ、


 「だとしても、それを証明するものを掴まねばなるまい。それに、我らの行いは御当主様に隠れてのこと。悟られぬようにと動くのならば、これ以上の大仰な手も打てん。闇の中で手探りをする他にない……」


 ガザイ達にとっては不幸なことに、ムツキに潜伏しているアデュレリアの守り手は腕が良い。時間稼ぎのための罠や仕掛けは精密であり、圧倒できるほどの物量を用意できない現状では無駄に時間ばかりを消費してしまう。


 ――いっそ。


 ガザイはハイズリの言っていた言葉を思い出していた。入り組んだ建物の奥深くに隠れているのであれば、ネズミ殺しの煙でも炊いて燻り出すのが手っ取り早い。だが、それは失せ物を死に至らしめる危険も孕んでいる。


 ムツキの表側へ戻ると、すぐにまた部下の一人が駆け寄ってきた。


 「頭領、ゼラン様がお呼びです」


 なにを言われるかは、たやすく想像することができた。




     *




 「まだ見つからないのか」


 ゼランから予想通りの一言を聞き、ガザイは深々と頭を下げて、


 「は――ただいま手の者ら全力で事に当たっているところであります」


 ゼランは馴染みの冷たい表情で、

 「おかしいぞ、予定ではすでに捜索を終えているはずだった。わざわざ手間を割いてまで奴らを外へ出してやったというのに、卑しいお前達を人目に晒してまで連れてきた意味、よく理解していると思っていたが」


 ガザイはさらに深く、額を床にこすりつけ、

 「ははぁ……ッ、不手際をお詫びいたします。ですが、アデュレリアの飼い犬が失せ物の守りについている様子。その点において予想外の手間が生じているのでございます」


 ゼランはガザイの肩を蹴り飛ばし、

 「言い訳は聞かんッ――だが喜べ、伯母上であれば即刻その首が胴から離れている頃だろうが、このゼランは寛大な人間だ。戦場から戻るまで猶予を与える。どのみち、戦いが始まればここはもぬけの殻になるはず、そうなればお前達も動きやすくなるだろう」


 ガザイは蹴り飛ばされた身体を整え、

 「空……と、申しますと……?」


 ゼランは歪んだ笑みを浮かべ、

 「我らの兵力は敵に勝る。が、万全とも言えない。それを補うために総力を持って戦いに挑むのだ。病人だろうが怪我人だろうが、戦える者はすべて連れて行く、あの愚かな弟が可愛がっているゴミ共も含めて、な」


 ガザイは驚き、ゼランの顔を凝視した。


 「お言葉ではありますが、あまり無茶をされては後々軍規を問われかねません。そのことでゼラン様の身に余計な火の粉が飛ぶようなことになれば――」


 「黙れ、浅慮で無用な心配だ。アレを取り戻しさえすれば、後の面倒事はすべて父上が片付けてくださる。それに、命令を出すのは私ではないのだからな」


 曇りのない目で言うゼランは、ある意味で純粋さから生じる残酷さを秘めた、幼い子供のようだった。


 ムツキに到着してから、ゼランは本来の目的への興味を減らしていた。それは眼前に、敵国の燦光石という宝玉がぶら下がっていたせいである。


 サーペンティア家の深部において、ゼランは次期蛇紋石の継承順一位という認識で通っている。健康な当主の長子であり、風の晶気を操る優れた才覚にも恵まれている。が、なにより世子としての立場を確固としているのは、彼の伯母であるヒネアが幼い頃より後見の立場についているためである。


 ゼランの地位は盤石だった。燦光石を身に宿しながら、凡人と変わらぬ速度で老いていく現当主を思えば、若くして石を継ぐ機会が訪れる可能性は非常に高い。が、ゼランは決してそうした明るい未来に安堵をしてはいなかった。


 当主には血を継ぐ子供達が多くいる。ゼランにとっての不安は、サーペンティア一族の影の支配者として君臨するヒネアが、石の継承時に存命であるかどうかを心配しているのだ。そうした事情から、ゼランはヒネア以外にも、一族の有力な者達からの支持を求めていた。彼らに自分が後継に相応しいのだと知らしめるためには、明確に掲げる事の出来る賞杯が必要となる。今まさに、足を下ろしたこの戦場には、その目的に相応しい賞杯がぶらさがっていたのだ。


 「過ぎた口をお詫びいたします。それと、捜索にあたり、一つご許可をいただきたい事があるのですが」


 「言ってみろ」


 「現状、我らの数では捜索に支障がでています。強攻策として、ネズミ退治を名目として煙を用い、失せ物の炙りだしを試みたいと考えておりますが……」


 ゼランは機嫌良く高らかに笑い、

 「煙――か、いいぞ気に入った。あの出来損ないには相応しい。だが絶対に死なせるな、生け捕りのためにわざわざここまで足を運んだのだからな――それにしてもネズミか、愉快だ、面白いッ、どれほど弱らせようと生きていればそれでいいのだ、必要な事であればあらゆる方法に許可を与える、必ずアレを見つけだせ」


 ガザイは死活問題である現状を娯楽同然に楽しんでいる主の姿に、一抹の不安を抱きながら、

 「必ず、成し遂げます」

 頭を床にこすりつけた。




     *




 「アスオン様、ニルナ様がお呼びです。ターフェスタから使者が参っている、と」


 「使者……わかった、すぐに出る」


 長剣を腰に差し、濃紺の軍服に身を包む。外套を羽織り、アスオンは私室を出て、待機していたトガサカと共に歩き出した。


 些細なことで世界は変わる、アスオンは今、まざまざとそれを体感していた。


 通路ですれ違う者全員が怯えたように視線をはずし、道を空ける。閉じた世界である深界の拠点で、噂話が広まるのは一瞬の事。アスオンに対して敵意を抱いていた者に起こった顛末を知った者達は、嘲りと失望の眼差しを向けていたにも関わらず、今や恐怖心からくる卑屈な態度をとるようになっていた。


 ――これでいい。


 アスオンは再び、ムツキの指揮官代理としての自信を取り戻していた。


 「アスオン様……ご体調のほうはいかがでしょうか……?」


 帯同するトガサカに問われアスオンは、


 「とてもいい……ようやく、イレイが生きていた時の自分に戻れた気がするよ」


 目を合わせて言うと、トガサカは孫の幸せを喜ぶ祖父のような温かな眼差しで微笑した。が、どこかその表情には哀の色が見え隠れする。


 心配をかけていたのだとアスオンは気づく。戦場から戻ってからというもの、別人のように振る舞っていたのを、側で仕えていたトガサカは特に心配に思っていたはずだ。


 「それにしても使者とは、いったいどのような用向きなのでしょうか」


 トガサカは首を捻って言った。


 「わからない。だけど、その内容によっては次の行動への選択肢が増えるかもしれない。まずは聞いてみなければ」


 目的の部屋がある通路に来たとき、トガサカが前へ出て神妙に頭を下げた。


 「アスオン様、どうかご自分のご意志をなにより大切にお考えください。長くリーゴール家に仕えてまいりましたトガサカの、切なる願いでございます」


 いつになくあらたまった態度のトガサカを不思議に思う。アスオンは真意を理解できぬまま頷き、執務室への入室を求めて名乗りを上げた。




     *




 ムツキの行く末に関わる三人と一人が、一つの部屋に集っている。


 ゼランは司令官の椅子に腰掛け、リーゴール家の親子はその傍らに控えている。そしてゼランと向かいあって立つターフェスタ公国の使者の姿があった。豊かな白髪にたっぷりと垂れる白いヒゲ。優しげな眼差しをした、見るからに高い知性と品を備える人物である。


 「アリオト司令官、ワーベリアム准将より使命を受けて参りました、ボライト・ワーベリアムです。そちらが、ムツキ司令官リーゴール将軍でありましょうか」


 ボライトは大きな目でニルナを見やる。


 ニルナは首肯し、

 「そうだ。ボライト殿、遠方よりの来訪を、まずは歓迎す――」


 ニルナの言葉を遮るようにゼランが大きく声を張って、

 「まさか敵国へわざわざ足を運んできたのが、かの銀星石と同じ家名を持つ人物であるとは驚いた。貴殿の主どのは随分と豪気な気質をお持ちらしい」


 ボライトはニルナとゼランを見比べる。輝士の軍服の色から、他国の人間であるボライトでも、一人椅子に座ってふんぞり返る男が、ニルナよりも下の階級にあるのだと理解できる。だというのに、ムツキの最高責任者であるニルナが、この男に対して遠慮をするような態度をとっている。


 ボライトは疑念を態度に織り交ぜつつ、

 「失礼ながら、あなた様は……」


 「ゼラン・サーペンティアである」


 「サーペンティア……では、風蛇の」


 「蛇紋石は我が父だ」


 「なるほど、そうでありましたか――」


 ボライトは深く頷き、ちらとニルナを見た。気づいたニルナは俯くように視線を逸らす。


 「現在、我が身はムラクモ王国右硬軍重将であり、蛇紋石の主である父、オルゴアの名代として任務に当たっている。使者殿、貴殿が話をする相手はこちらというわけだ」


 「かしこまりました……では、ゼラン様に申し上げます。我らは先の戦いで互いに深く傷を負いました。そこでワーベリアム准将は、一時的な停戦の約束を結べるように、と望んでおります。丁度、時期は真冬に入ろうかという頃合い。春を待ち、今は互いに羽根を温めておくのも良いのでは、と」


 ゼランは軽く、

 「ほう」

 他人事のように無関心な振る舞いをする。


 ニルナは声を弾ませて、

 「ワーベリアム准将は戦いを望んではいない、と?」


 ボライトは首肯し、

 「はい。つきましては、主の誠意の一つとして、アリオトより土産の品を持参しております、どうぞ――」


 部屋の奥に控えていたトガサカが、大きな箱を運び、執務机の上に置いた。ボライトが中から取りだしたものを見てアスオンが、


 「パン……?」


 出てきたのは、一見して灰色の石のようにも見える無骨なパンである。


 「ワーベリアム家に伝わる特殊な製法のパンです。特別な灰を混ぜるため色は悪く見えるでしょうが、体内を浄化する薬効があり、当家では特別な祭事などの際に振る舞われるもの。准将が幼い頃には、毎日のように作ってほしいとねだられたこともありますが、特別な材料と制作に時間を要するため、弱ってしまったことがあります。もし、よろしければ、これを主食として共に今夜の食事の席で、これより先の話を深めていくことができれば幸いと願っております」


 ボライトの言動には誠意がよく窺える。自らの血筋に連なる者を使者として派遣したワーベリアム准将も、停戦の提案に対する信用を得るための誠意ある行動の一つなのだろう。敵国であることを忘れてしまうほど、物腰柔らかなボライトの人となりを前に、アスオンは僅か、平和的にこの戦争を決着させられる未来を思い描きはじめていた。が、


 「随分と勝手な言いようではないか」


 冷たく言い放ったゼランの一言に、部屋の暖かな熱が、沈むように下がっていく。


 「ゼラン様……なにかお気に召さぬ事がおありでしょうか」


 「そもそも、この戦争を先に仕掛けてきたのは貴国のほうであったはず。それを突然、都合が悪くなった途端に休みにしたいなどと。お前達の国主は、これ見よがしに燦光石をちらつかせれば、ムラクモが恐れをなして剣を納めると思ったのだろうな」


 「いえッ、決してそのような事は。どうか落ち着いてお話を――」


 ゼランは椅子から立ち上がり、

 「無駄話はもう十分だ。ちょうどいい、牢獄の捕虜共で賄おうと思っていた、がッ――」


 一閃、五本の指を揃えて、ゼランが腕を振り払う。室内に激しく風が巻き起こる。振った手の先から、濃緑色に発光する風刃が発生した。鋭い風の刃が、ボライトの右腕を一瞬で切り落とす。吹き出した鮮血が辺り一帯を赤く染めた。


 「ァああ――ッ?!」


 傷口を押さえ、ボライトは悲鳴を上げながら膝をついた。


 ニルナは口を押さえて壁に背を当て、顔面に血しぶきを浴びたアスオンは声を失い後ずさる。


 ゼランは何事もなかったような涼しい態度で、

 「血止めを急げ。それと医者を呼べ、こいつを生かしたまま送り返す」


 トガサカがボライトの腕の付け根を布で縛り上げる。

 ニルナは壁際を這いながら、

 「呼んで、まいります」

 飛び散った血を避けながら、蒼白な顔で部屋を出た。


 アスオンもまた蒼白となった顔で、恐る恐るゼランへ問う。

 「どうして、こんな……?」


 ゼランは笑みを浮かべ、

 「燦光石に挑んだとしても戦場へ出てくる保証はない。せっかくの獲物に引きこもられては面白くないからな。たしか、リシアの信者共にとって、五体を分かつ事は最大の侮辱となるのだったか。ならそれは、銀星石に対し、ちょうどいい土産物になるだろう」


 ゼランがぎらりと目をやったほうに、切り離されたボライトの片腕が転がっている。


 「そんなことのために……」


 「まさか怖じ気づいたのではないだろうな。貴殿は戦いを望んでいたはず、他人にかすめ取られた栄光を取り戻すのだろう? 背後にはまだ王女殿下が御座し、この戦の決着を待っておられる。リーゴール家にあとはないのだと、わかっているのだろうな、司令官代理殿」


 捕獲した獲物をなめ回すようなゼランの言いように、アスオンの瞳が、激しく揺れ動く。


 「……はい、戦います。そしてかならず勝利を」


 ゼランは悪辣に口元を歪めて、


 「よく言った――ならばすぐに指示を出せ、翌早朝、進軍を開始、一部の例外を除き、老若男女、個人の私兵、傷病の有無を問わず、ムツキに在するすべての者達に出陣を命じると」


 その言葉に、アスオンはぎょっとして大きく口を開ける。


 「すべ、て……? 怪我人や下働きの者達まで……ですか」


 「そうだ、ムツキの兵力は万全ではない。故に総力を持って敵を討伐する。ここは戦場なのだ、司令官代理殿。甘えや寝言は不要、武器を持ち、立っていられる者はすべて戦力として利用しろ」


 突如、

 「いけませんッ、アスオン様!」

 ボライトの介抱をしていたトガサカが声を上げた。


 存在を認知すらしていなかった使用人の一言に、ゼランは鋭い睨みを向ける。


 アスオンは額に脂汗を滲ませつつ、

 「トガ、サカ……?」


 トガサカは血だまりの中で膝をつき、アスオンの顔を見上げる。


 「正道に反する命令を出せば、アスオン様の御名前に生涯消えぬ傷がつきます。怪我人や兵士でもない者達を無理矢理戦場に連れだすなど――」


 「黙れッ、誰が発言を許可したッ!」

 ゼランは怒声をあげ、晶気を用いて風を起こした。トガサカの身体は厚い風の圧に押され、壁際に老体を叩きつけられる。アスオンが慌ててトガサカに駆け寄り身体を起こした。

 「……坊ちゃま…………どうか」

 苦しげに息を切らせながら、トガサカが懸命に訴える。


 ゼランはじわりとアスオンとの距離を詰め、高みから軽蔑するような眼で見下ろした。


 「正しさに甘えたいならそうすればいい。自信を失い、俯いて、他人から指を差されて生きたいのならそうすればいい。だが言っておく、戦い方に良いも悪いもない、常に勝者が正しいのだ。思い出せ、正しく振る舞い、その結果にどうなったのかを」


 勝てば、すべてが丸く収まる。ゼランの言葉は明るい未来と希望に濾過され、アスオンの耳の奥にそう届いた。


 ゼランの目は生きた凶器のようだ。生まれ落ちた瞬間からの支配者の気質を持ち、整った顔だちも、他者を飲み込む強固で冷たい双眸が、対する者の自由な意思を支配する。


 逆らってはいけない、と、アスオンは心の奥で、無意識に発生した自信の声に突き動かされる。


 「……司令官代理として、命を発します。もう後戻りをするつもりはありません」


 その一言に、トガサカは絶え絶えの息で、がっくりと肩を落とした。




     *




 ニルナ・リーゴールの執務室の天井裏の僅かな隙間から、一部始終を観察していたリリカは、急ぎ、かつ慎重にその場を後にした。


 仕掛けておいた罠を解除し、敵の捜索を警戒しつつ、隠れ家へと戻る。


 ジュナに姿を見せたとき、いつも向けられる柔らかな微笑はなかった。


 リリカは常に、感情を外に見せないように振る舞う癖がついている。が、その常態が崩れてしまうほど、今の自分は心の内が外に漏れ出てしまっているのだと、なにも告げていないジュナの真剣な表情を見て、知った。


 「お嬢様、ご報告をいたします――」


 リリカは見たこと、聞いたことを語った。ジュナは胸に溜めていた空気を一気に吐き出し、


 「そう、全員を…………愚かなお兄様…………」


 事の重大さに比べ、思いのほかジュナの態度は落ち着いていた。


 ジュナは捉えどころのないぼやけた顔で、寝床の傍らに置いてある皿に触れた。そこにはまだ手をつけていない料理がのっている。


 ジュナはリリカを真っ直ぐ見据え、

 「リリカさん、あなたにお願いがあります――」




     *




 夜。


 ターフェスタ領、深界の拠点、東門アリオトは不気味なほどの静寂に包まれていた。


 講堂に輝士達が集い、円を成して一人の人物を囲っていた。その中心でプラチナは遺体となって戻ってきたボライトの前で、膝をつき肩を震わせる。


 震える手の指で、青白く、冷たくなったボライトの頬を撫で、

 「ボライト、お兄様……?」


 背後から、リディアの泣き声が響くと、他の者達からも、誘われたようにすすり泣く音が聞こえてくる。


 「ムツキを出てから、境を超えるまでは生きておられたのですが、道中の衰弱が激しく……申し訳ありません……准将ッ」


 プラチナの前で、ボライトの付き添いとして同行していた若い輝士がひれ伏して、説明と謝罪の言葉を吐いた。


 「プラチナ様、これを――」


 険しい顔で歯を食いしばりながら、ナトロが細長い包みを差し出した。その布は粗末で、流通の際に中身が古く状態が悪い事を示す記号が記されてる。ぐるぐるとまかれたその包みは、一方だけが黒く変色した血の色に染まっていた。


 プラチナは包みを受け取り、丁寧に布を剥がしていく。その中に、一通の書簡と、血に濡れた灰色のパンがあった。


 プラチナは書簡を見る事なく握り潰した。読むまでもなく、この蛮行でなにを伝えたいのかは、すでに付き添いの輝士の口から聞いていた。


 布の中からボライトの腕を持ち上げ、そっと遺体の側に置く。


 プラチナはボライトの頭を撫で、

 「今すぐに、切れ目の縫合を――」

 立ち上がり、預けていた不動棒を強く握る。

 「――聖堂での葬儀の後、ただちに出陣の支度を開始するッ」


 プラチナの声は静かに深く、だが、その奥に強い圧力を秘め、講堂全体に浸透した。輝士達が一斉に胸に手を当て、合唱するように承知を告げる。


 次の瞬間、プラチナは不動棒の片側を蹴り、勢いをつけて振り上げた。皆が驚く間もなく、壁際へ向かって豪速で不動棒を投げつける。他人事として白けた態度で壁に寄りかかっていたカトレイの将軍オーデインの顔面すれすれに、轟音を上げて硬い壁面に深く突き刺さった。


 プラチナは矢のような鋭い視線でオーデインを睨み、

 「払った分の仕事はしてもらいます」


 オーデインは針で止められた昆虫のように身を硬直させ、

 「お、おまかせを……ッ」

 額に滲んだ脂汗を袖で拭い、堪えきれぬように尻をついた。




     *




 日を跨ぎ、まだ夜の闇も明けきっていない早朝。


 ジュナはムツキの表側、その通路の片隅に積まれた木箱の上に腰掛けていた。黒髪のカツラでサーペンティア一族由来の髪色を隠し、茶色い従士の軍服を着て、ただじっと、そこにいる。


 無骨な城塞の通路奥から、靴の足音が響いた。その音は徐々に近づいてくる。現れたのはアスオン・リーゴールだった。寝不足なのか、目の下の色は暗く沈んでいる。


 アスオンはジュナの存在に気づき一瞬足を止めた。躊躇いがちにまた歩を進め、

 「……これは、君が用意したものなのか?」

 手にした一枚の紙を見せながら、変装をしたジュナへ問う。


 「ええ、私です」

 ジュナは淡く微笑した。


 アスオンは紙に書かれた文字を読み上げる。

 「あなたの罪を知っている――――なんなんだこれは」


 その一文の後にはこうも書かれてある――指定の場所まで来るように、と。


 「ごめんなさい、深い意味はないのです。ただ、あなたにお話ができる所まで出てきていただきたかっただけなので」


 アスオンは心底惑った様子で眉根を寄せる。だがそれも当然の事。面を会わせる相手は平民階級の従士の格好をしている。遙か下の世界を生きるその従士が、ムツキで序列二位の身分にあるアスオンを、過激な言葉で呼び出し、対面してからも飄々《ひょうひょう》とした態度で接しているのだ。


 アスオンは、

 「……質の悪い内容だ、どうしてこんな言葉を」


 「あなたに一人で来て欲しかったからです。言葉の内容から、あなたは近日にご自身の内に秘めていた不安を連想する。責められたり、恥をかくかもしれないと想像したとき、人はわざわざそんな所を他人に見せたいとは思いません」


 アスオンはわずかに視線を落とし、

 「……そうか、理由はわかったよ。だが、恨み言を聞かせたいわけではないのなら、この呼び出しになんの意味があるというんだ。内容と目的によっては、司令官代理として厳しい罰を与えなければならなくなる」


 「ただ、たしかめておきたかっただけなんです」


 「……なにを?」


 「あなたの、選択を……水面に石を投げ込めば波紋が生じる、土の上を歩けば足跡が残る、文字を綴れば誰かが読む。行動には結果が伴います、それがどんな些細なことであったとしても…………お尋ねしますアスオン様、あなたはあなたの選んだ道に、少しでも悔いをお持ちではありませんか」


 抽象的に連なる言葉の果てに、問われたアスオンは硬直して訝った。


 アスオンはこのやりとりを一方的に切り上げ、相手を組み敷くこともできるのだ。だが、彼は問いかけに対し、真摯な態度で静かに考えにふけっていた。


 たっぷりと時間をかけアスオンは、

 「正直、言っていることの意味がほとんど理解できていないんだ。でも不思議だな、丁度一晩中、自分の選択について考えていた所だったんだ。悔いがないかどうか……少なくともそうでありたくはないと思う。前の自分は、嫌なんだ、あそこへは戻りたくない。だからこそ、歩むことを止められない。僕はもう、後ろを振り返るつもりはない」


 暗く濁った沼のように落ちくぼんだアスオンの瞳に、揺らぎはない。


 「そう、ですか」


 「これで、この奇妙な呼び出しの目的は果たされただろうか」


 ジュナは虚ろに微笑し、頷いた。


 「私に罰をお与えになりますか」


 「……不要だ、今はそれどころではない。でもこれ以上の無駄な時間を見過ごすこともできない。間もなく陽が昇る、君も今すぐ戦いの支度にとりかかるべきだろう」


 行くように、とアスオンから促され、ジュナは動かない足の一つを両手で持ち上げて見せた。


 「ごめんなさい、前の戦いでこうなってしまって。ここまでは無理を言って運んできてもらいました――」


 アスオンは訝った様子でジュナの足を見つめる。ジュナも自身の足を見つめながら、


 「――たしかめますか?」


 アスオンはジュナと一瞬目を合わせ、

 「いや……いい……」


 わだかまりを抱えたような顔をしたまま、アスオンはその場を去って行く。時折振り返ってジュナを気にしながら、しだいに姿は見えなくなり、靴の音も聞こえなくなった。


 ジュナは俯き、胸の前で握った拳を、片方の手の平で強く押さえつける。


 「…………さい」


 掠れるように呟いた一言は、ジュナ自信の耳にも届かなかった。




     *




 暗い通路の物影で、ユギクが隠れて様子を窺っていた。視界の先には、木箱に腰掛けた従士の軍服を着た女の姿が在る。従士にはしては異様なほど顔だちが整っている。その面立ちには強烈に見覚えがあった、双子の片割れによく似ている。


 ユギクはその人物を確認し、ほくそ笑む。


 ――だめじゃないですか、獲物が自分から外に出てくるなんて。


 余分な料理を持ってこそこそと物影に向かった不自然なクモカリの行動から推理し、まったく期待せずに一人で探りを入れた結果、偶然降って湧いた大手柄に笑みが治まらない。


 ――じさまより先に、ゼラン様に直接ご報告すれば。


 独り占めにできるかもしれない手柄を思い、口の中に湧いた涎を飲み、湿った舌で唇をなめ回す。


 ユギクは弾む声を必死に押さえつつ、

 「ジュナお嬢様、みいつけた――」


 が、突如耳元でぼそりと声が、

 「こっちの台詞、なので」


 「――ッ?!」


 気づいた瞬間、手遅れだった。首に縄のような物が巻き付き、正体不明の誰かに、背中側へと引き倒される。足が浮き上がり、一瞬で逃れることのできない力で首を締め上げられた。


 「か、は……ッ」


 胸の奥に残っていた最後の息を吐き出し、ユギクは落ちていく意識の片隅に、自らが取り返しのつかない失態を演じたことを、激しく後悔していた。










前回、予告したことのご報告です。


ラピスの心臓の書籍版第三巻が発売されることになりました。

発売日は12月28日 同じ日に1巻~3巻までの電子書籍も発売される予定です。


三巻は謹慎編を基本としつつ、アミュが氷長石を継承した日の場面の加筆、サーサリアやジェダのイラスト、そして短編として書き下ろしのシュオウの師、アマネの過去のエピソードを収録しています。

amazon等で本日より予約が開始されています。

是非、購入のほうご検討ください。


それと、追加でご報告となりますが、書籍版は残念ながら3巻で終了となります。

連載の次回更新についてと、書籍の情報と詳細は活動報告に乗せておきますので、そちらもご覧ください。

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物語の続き、最新話と限定エピソードの連載は…

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※ぜひチェックしてみてください!





コミカライズ版【ラピスの心臓 第3巻】2025年7月16日発売予定!

小説の表紙
― 新着の感想 ―
この無能なプラチナさんは今度は傭兵軍に八当たりか...
[一言] シャラが現状の身の程をわきまえてるのともかく、それに甘んじ続けるつもりなのは意外だったな。
[一言] なんで面白い作品は、続刊しないで下品なハーレムものばかり刊行されるんだ… 絶望やでぇ
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