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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
79/184

支配者の流儀

 支配者の流儀






 氷結を司る王の石を継承するアデュレリア一族。氷長石の現継承者アミュ・アデュレリアは現在、左硬軍を統べる将として、ターフェスタが起こした戦争に対応し、国境付近に大軍を置いているホランド王国を睨むため、ムラクモ王国領内に点在する主要な要塞の一つ〈キサラギ〉に身を置いていた。


 そのアミュの耳へ奇妙な一報が届いたのは、調練を控えた真昼の頃だった。


 「リシアの聖輝士、か?」


 目鼻の周りに皺を寄せ、アミュは副官のカザヒナが告げた言葉にしかめっ面を向ける。


 カザヒナは首を傾げて困惑の表情を返し、

 「所持品に出で立ちから判断して、偽りはないものと思います」


 「ホランドからの使者ではなく、あのリシアからの使者なのか? いまさら……やつらがいったいなんの用があるという」


 「その来訪者の話では、真の用向きはこの訪問ではなく、このキサラギの通過であり、その許可を求めたい、とのことです」


 「いったいなにを言うておる……」


 今回の戦争でリシアは傍観者ではなく、ターフェスタに戦力を派遣する当事者である。つまりムラクモにとって、そのリシアの所属であると告げた来訪者は敵であり、突如現れて敵国の領内を堂々と素通りさせろと言ってきたということになる。珍奇な要求は、アミュを困惑させるだけの十分な理由を備えていた。


 「詳細は閣下に直接お伝えしたいと。来訪者はそれを目的として、氷長石様に対しての拝謁を希望しています」


 この場において、カザヒナが石名を指した意味、それは面会の希望者が戦に臨むムラクモ王国軍重将へ会いに来たのではなく、個人を指す氷長石に面会を希望していることを示唆していた。


 機嫌が悪ければ問答無用で追い払っていたかもしれない。事前の約束もなく不躾な訪問だが、しかしこの時勢に敵国の軍門を堂々と通過したいという妙な望みは、ほどよく好奇心を刺激した。


 アミュは眉間に力を込め、腕を組む。


 「そやつの名は」


 「ミオト・ダーカ。リシアの精鋭、聖輝士隊の指揮官を自称しています。それと随伴に一名、その者の副官である、と」


 世界二大宗教の一つ、リシア教の影響は多方に及ぶ。主に北方、そして西方国家群より選抜されるという聖輝士隊は、ある種、リシアという組織の力の象徴とも言える存在であり、それを率いる部隊長ともなれば、間違いなく一角の人物なのであろう。


 「ふむ……カザヒナ、お前はどう思う」


 問われたカザヒナは視線を泳がせ、

 「退屈はしないもの、と」


 微笑みながら目を合わせて言ったカザヒナの、その一言が決定打となった。


 「よかろう、場を設けよ。ここが猛る氷狼の群れであると知って飛び込んできたのであろう、たっぷりと脅してやる。期待に応えてやらねばな」




     *




 リシア聖輝士隊の長、ミオトを支える副官のルイは、自身の胸の鼓動が、目鼻口、顔面にあるすべての穴から外に漏れ出ていないか、不安に思うほど緊張していた。


 背後に居並ぶのはアデュレリア旗下の大軍。前方には簡易の椅子に腰掛けたキサラギの高位に属する上級輝士達が、左右にずらりと展開している。


 そして一番奥の席には、数段高さを上げた土台の上に席を置く、ムラクモ四石の一つ、氷長石を有するアミュ・アデュレリアの姿があった。


 ムラクモ王国の左硬軍は精強であるとの評判があり、さらに、それを統率するアデュレリアの当主は、怒りと共に容易く人を屠ってきたという逸話が、氷姫という通り名と共によく知られている。


 極淡い紫色の長い髪、大きな瞳に整った愛らしい顔。ルイの目に映る氷長石は、十歳前後にしか見えない幼い少女であるが、実際に彼女が生きてきた年月は、すでに百年を超えているのだ。それは実際、初めて当人を目の当たりにしてみて、立ち居振る舞いにはたしかに、生きてきた年月を感じさせるだけの威厳が漂っていた。


 ルイの隣に立つミオトは一歩前へ出て、ひざまずいて一礼する。ルイは慌ててそれに続いた。


 「聖輝士隊、隊長ミオト・ダーカであります。我が副官、ルイ・オストフと共に、ご高名なる氷長石様に拝謁の許しを得た事、リシアを代表して心より感謝いたします」


 アミュはつんとあごを上げて、軽く頷く。


 「うむ、謝意は受けよう。が、我はこの訪問に疑念を抱いておる。すでにそちらの要求は耳に届いているが、突如前触れもなくホランドから現れ、アデュレリアの陣門を素通りさせよとは。聖輝士とはリシアの信徒から選ばれた勇士達に与えられる栄誉ある称号と理解しておるが、汝の言動、相応の理由がないのなら、とち狂った者の戯れ言にしか聞こえぬぞ」


 ――おっしゃるとおり。

 下げた頭の奥深く、ルイはアミュの言葉に全面的に同意していた。

 ミオトは平時のまま軽やかな笑みを浮かべて、


 「失礼ながら、私は狂い人ではありません。リシアより特務を受け、ホランド王の許しを得てこちらへとまいりました。急ぎの旅程であるため、事前の報告が遅れた事に関してはお詫び申し上げます。加えてお伝えいたしますが、ホランド領通過の許可をいただいた際、引き換えとしてホランド王より言伝を預かりました故、お伝えいたします――――お美しい氷長石様へ、是非一度お会いしてお顔を拝しつつ、我が手より直接、お口へ菓子などを運びたい――と」


 ルイは最大限に瞼を開き、ひきつった顔で上官を見上げた。ミオトが言った言葉はたしかに、まったくそのままホランド王が言った言葉に間違いない。が、まさか本当にそのまま、侮辱ともとられかねない暴言を本人に直接伝えるとは思っていなかったのである。


 結果はルイの想像の通り、

 「こんのおッ――無礼なッ!」

 アデュレリアの将兵らがいきり立ち、怒った顔で歯を剥き出した。


 ――終わりだ。


 ルイは絶望した。背後には屈強な兵士達。前方にはアデュレリア一族を筆頭とする優れた輝士達。そして最奥には、猛る氷狼の群れを統率する長、燦光石の主がいる。


 半端な抵抗は愚。いっそ楽に、とルイが肩の力を落としたその時、


 「そこの者――」


 アミュの言葉に、場は一時静粛を取り戻す。


 硬直していたルイへミオトが、

 「ルイ、氷長石様がお呼びだ」

 「は? え……私、でありましょうか……」


 アミュは頷いて、

 「ミオトとやらの今の言葉、真実ホランド王の語った言葉で相違ないか」


 淡々と見つめられ、ルイは顔面一杯の汗をそのままに、強く頷いた。

 「じ、事実であります。私もその場におりましたので――どうかお許しを。ダーカ隊長は、その、少し――」


 言い淀むルイへ、アミュが言葉を重ねる。

 「正直者、か」


 ルイは幾度も首を振り、

 「は、はいッ」


 真顔を貫いていたアミュはふっと表情を緩め、

 「面白い奴じゃ。この場の状況で今の言葉を発した胆力、そして偽りではなく真実を述べた事に対して、我はそれを許そう」


 「あ、ありが――」

 ルイが礼を告げる前に、ミオトが胸を張って話し始める。

 「さすがは氷長石様、お心が広い! そしてお美しく、かわいらしい!」


 「隊長ッ――」


 ミオトの言葉に将兵らは再び猛って歯を剥きだした。そんな彼らへアミュが、


 「やめよ、我は許すと言った――」


 言って手を振ると、全員が一斉に怒りを静め着座した。

 アミュは場が鎮まったのを確認して続ける、


 「――が、その事と汝らの要求は別。おいそれと敵対する組織の者を領内へ通すはずもない。じゃが、リシアの特務という、それを知ったうえで判断を下しても遅くはなかろう。話せ、聞いてやろう。が、内容によっては無事な帰還は保証せぬぞ」


 ミオトは感謝を伝え、大仰に手を振り上げた。自身の眼帯を指さし、まるで舞台の上に立つ役者のように饒舌に語り始める。


 「先のターフェスタとムラクモの開戦の場に、このミオト、精鋭たる聖輝士隊を率いて参加いたしました。集った将兵達はにらみ合い、間もなく戦士達の雄叫びが鳴り響き、戦闘が始まった、その時の事ですッ――」


 ミオトの饒舌な語りは、元々の華のある容姿も合わせて、居合わせた者達を釘付けにしていた。戦いの最中に追った片目の負傷、その傷を負わせた者の手により、森の中から救い出されたこと。恐ろしい狂鬼との遭遇、戦いについても多少の誇張を含みつつ、語りは進む。


 そしてミオトは懐から小さな入れ物を取り出し、

 「――これが、その者に与えられるリシアからの報奨品。教皇聖下直々の感謝状も携えております!」


 筒状にまとめた紙も取り出し、掲げたミオトへ、強面の老輝士が顔を突き出した。

 「まさか、自分の片目を抉った者に感謝と報奨を届けにきた、と言っているのか。それも相手は一介の従士である、と?」


 「まったく、その通り!」


 ミオトの宣言に場がどよめきに支配される。


 アミュが側に控えた女輝士と意味ありげに視線を交わした後、

 「その者の名は?」


 ミオトは胸を張って、

 「はいッ――シュオウ、という名の者であると!」

 そして、そのまま従士の特徴ある容姿を告げた。


 騒がしかった場が静寂に包まれる。が、即座に居並ぶ幹部達の間から爆ぜるような笑声があがった。一斉に緊張が解け、和やかな気が漂い出す。


 急な空気の変化にルイは戸惑い、ミオトは不思議そうに周囲を見回す。


 アミュの顔からは緊張が消え、嬉しそうな微笑が浮かんでいた。側に座る男が、

 「さすがは御館様の見込んだ者、戦の最中に敵から謝礼を送られるとは」


 「うむ――」

 と、アミュは満足そうに頷き、ミオトとルイへ目を向ける。

 「――そなたらには不思議に思うだろうが、今出た名の者、我らアデュレリアとは縁が深い。我が目をかける者でもあるのでな、その者に礼を尽くすため、わざわざ危険を冒してここまで来たという事がわかった今、悪くない気分じゃ」


 他の者達も、件の者の名を出し、嬉しそうに談笑している。彼らの態度はまるで、身内を褒められて喜ぶ家族のようでもあった。


 呆然とするルイ。ミオトは、

 「はあ……」

 と息を吐いて、立ち尽くす。


 アミュは側に控えた女の輝士を呼び寄せ、

 「カザヒナ、腹に入れる物を用意させよ――」


 指示を出した後、あごを上げてミオトを見やり、


 「――お前達の要求、このアミュ・アデュレリアが引き受けよう。ムツキの側は我ら左軍の管轄外であるが、氷長石の名の下に通行許可証を用意してやる。それで通過に支障はなかろう。が、引き換えに早めの夕食にありつきながら、かの者の話を聞かせてもらいたい。応じるか?」


 ミオトは破顔して、

 「その栄誉、喜んでお受けいたします! 短い間に三個の王石とお近づきになれるとは、これも天より見守りくださる神のご加護でありましょう」


 アミュは顔を突き出し、

 「我に、そしてホランド王で二つ、あとの一つは……なるほど面白い、その話も聞かせてもらうぞ」


 「はい、喜んで」

 ミオトは歌うように告げて礼をした。


 身体が縮んで見えるほど深く吐ききったルイの溜息は、アデュレリアの輝士達が放つ活気の中にかき消える。どっぷりとかいた汗の分、吸い込んだ衣服が異様に重たく感じられた。


 この困難な状況が、氷長石直々の夕食会への招待へ変化したことに安堵する。相手方の態度から察するに、この訪問が報復のための偽り等と疑われなかったのは、ミオトが放つ気に、陰の要素がかけらも感じられないおかげであるのかもしれない。


 ルイはしかし、拠点の通過に許可が得られてしまったことへの不安に苛まれていた。


 いっそ、あのシュオウという男を知るという氷長石の主へ、リシアからの謝礼を預けてしまえばいいと思いつつ、それを提案してもミオトは一笑に付すであろうと、容易く想像できてしまう。


 実際、夕食会の席へ向かう道中、ルイはその案をミオトに提案したが、


 「嫌だ、直接渡す」


 ミオトはそう言い残し、飛び上がりそうなほど軽い足取りで、うきうきと氷長石が主催する夕食会へ向かったのだった。


 ルイは胸の下を片手で押さえ、とぼとぼと上官の後を追う。丸みを帯びたその背は、忠実かつ常識を備えた中年輝士の哀愁を帯びていた。




     *




 昼が過ぎ、夕暮れを間近に控えた頃。晴れとも曇りとも判断がつかない、眠たげな空の下、灰色の森に直線を穿つ白道の上を、騎乗する輝士の部隊が通過していた。


 部隊が纏う青の色は濃く、深い。


 サーペンティア麾下の輝士達の中でも指折りの実力者が揃っている。発足を命じたのは、蛇紋石の主であるオルゴア・サーペンティア。編成したのはオルゴアの副官、エルデミアである。が、しかし、現在この部隊を統率するのは、部外者であるはずのオルゴアの長子、ゼラン・サーペンティアだった。


 「ゼラン様、見えてまいりましたぞ」


 帯同する、サーペンティア家が所有する影の組織の長、ガザイが馬上から前方を指さした。

 頑強な門と城壁に囲まれたムツキを見て、ゼランは人相悪く鼻に皺を寄せ、笑む。


 「行けッ――」


 強烈にたたき付けた鞭の一撃。腰を打たれた馬があげた悲痛な叫びが合図となり、部隊は一斉に速度をあげた。




     *




 空が薄暗くなる前に、後方から送られた補充の部隊がムツキに到着した。


 ギリギリまで来訪を知らされていなかったニルナ・リーゴールは、部隊の指揮官の名を知り、肝を冷やした。知らされた名が、サーペンティア当主家の長子、ゼラン・サーペンティアであったからだ。


 ゼランは門を通過し、中庭の奥まで強引に馬を進める。跨がる馬の皮膚は、道中激しく鞭で打たれたせいか、痛々しく破れて赤々と血を滲ませていた。


 「出迎え、ご苦労である」


 軍の中では遙か下の階級に位置するゼランは、将の位にあるニルナを睥睨し、まるで卑屈な家臣にでもくれやるかのように、上辺だけの労いの言葉を吐く。


 慌てて飛び出してきたニルナ、そしてアスオンとムツキの幕僚達が居並ぶが、全員、下の階級であるはずのゼランへ恭しく頭を垂れた。


 ニルナは馬上のゼランを見上げ、

 「ゼラン様、補充部隊を率いてのご来訪、ご足労に感謝を申し上げる。早くお知らせいただければ、もう少しましな歓待をご用意できたのですが。これは、我が息子アスオンにございます、以前にお目にかかったと思いますが――」


 ゼランはアスオンの紹介を遮り、高くあごを上げて鼻を鳴らす。

 「話は後だ。今はそれより優先すべきことがある」

 そう言うと、掲げた指をぱちりと鳴らした。


 合図を受け、ゼランが引き連れてきた部隊から輝士達が集合する。ゼランは下馬し、手にした鞭を自身の手の平を叩いた。


 「やつの――ジェダの部屋へ案内しろ」


 ニルナは目を瞬かせ。

 「ジェダ様……弟君のお部屋に、でしょうか」


 ゼランは冷たくニルナを睨む。有無を言わさぬ迫力を感じ、ニルナは困惑した。


 ゼランは補充部隊の輝士達へ、

 「許可を出すまで城壁内部の流れを断て。内と外、出入りをすべて禁じる」

 輝士達は承知を告げ、それぞれが物々しい気配を放ちつつ、配置につく。


 越権に等しい命令を出したゼランに対し、ニルナは険しい表情で、

 「ゼラン様、失礼ながらムツキの事は私の許可を――」


 ゼランはニルナの鼻先に鞭を突き出し、

 「黙れ、ニルナ・リーゴール。同じ事を二度言わせるな、このゼランは今、サーペンティア家当主名代としている。従わないというのであればその旨、ただちに我が父に報告させてもらうが」


 ニルナは肩を震わせ、

 「も、申し訳ありません。ただちにご案内いたします。アスオン――」


 目線を送られ、アスオンは慌てて頷いた。

 「あ、はい……弟君のお部屋にご案内いたします」


 歩み出すゼランの背後から、影のように付き添う一人の老人の姿がある。

 貴族の従者としては老いていて、背負う影もどこか暗い。目深にかぶったフードから、ちらりと覗いた横顔には、酷く怜悧で老獪な目が、周囲を鋭く観察していた。




     *




 ゼランが連れ立つ輝士達は、そのほとんどが壮年の頃にある者達で、彼らの帯びる鋭利な気配は、一時の義務ではなく、職業として輝士であることを選択している者達が漂わせる特有のものである。


 ムツキに配属されていた多くの輝士達は若く、どこか気の抜けたような空気を漂わせていた。宝玉院という安全地帯からの延長のような空気に慣れていたアスオンは、右硬軍の精兵らが醸し出す刺々しい気に緊張を感じつつ、ゼランの要求の通り、彼の弟であるジェダ・サーペンティアの私室へと案内する。


 目的地に到着して早々、ゼランは確認もとらず部屋の扉を蹴り開ける。突然の行動にアスオンは驚き、後ずさった。


 「鍵をかけていると思ったが……物騒ではないか、度し難く愚かな弟よ」


 入り口のすぐ側で、ジェダはまるでこの訪問を予期していた様子で正装をして立っていた。整った顔に流麗な微笑を浮かべ、

 「まさか、兄上がこちらへおいでになるとは。お迎えにあがれず申し訳ありません」

 そう言って頭を下げる。


 「どうでもいいことだ――」

 ゼランは忌々しげに鼻息を落とし、

 「――この部屋にある物、すべて調べつくせッ」


 指示を受けた輝士達が一斉にジェダの部屋に押し入る。置かれている荷物を派手に撒き散らし始める。


 ゼランは腰から剣を抜き、寝台に置かれた布類をより分ける。


 ジェダは涼しい顔を崩すことなく、

 「なにをお探しかはわかりませんが、ここには兄上に隠す物などなにもありません」


 ゼランは微笑を向けるジェダを邪悪に睨み返し、

 「なあに、近頃市井では病気を運ぶネズミが増えていると聞いたのでな、弟の部屋に紛れ込んでいないか気になったのだ。見ていないか? 薄汚い、腐った生ゴミにも劣る醜い雌の沼ネズミを」


 ジェダは笑みを崩さず、

 「幸いなことに、ここでは見ておりません、兄上」


 「……はッ――」

 ゼランは鼻で笑い、

 「――いいだろう、初めから簡単に見つけられるなどと思ってはいない。だが、またすぐに調べてやろう、弟のためだからな」


 剣を鞘へ落とし、ゼランはジェダの前に立つ。そして腰から鞭を取り、ジェダに命じた。

 「手を出せ――」


 指示されたままジェダが手の平を上にして差し出すと、


 「――兄への礼を欠いた事に対して罰を与える」


 言ってゼランはジェダの手の平を鞭で思い切り叩いた。


 裂けるような乾いた音が鳴る。ジェダは直後に手の平を握り、一瞬だけ顔を沈めた後、再び完璧な微笑をゼランへ向けた。


 「ご指導、感謝いたします、兄上」


 ゼランは無言で冷たい睨みを残した後、輝士達を引き連れ、ジェダの部屋を後にした。




     *




 ジェダの部屋を後にした後、ゼランはアスオンに命じて司令官の執務室へ案内させ、入室した。


 ゼランは椅子に座るニルナを睨み、露骨に咳払いをする。

 「さて、この身は蛇紋石の名代であると伝えたはずだが」


 ニルナは長く呼吸を飲み込み、

 「…………は、失礼を、いたしました」

 渋々、椅子を明け渡した。


 足を組み、肘をついて身体を傾け、まるで尊大な大将軍のようにゼランは振る舞う。


 室内にいるもう一人、アスオンが戸惑い気味にゼランへ、

 「あの……先ほどのあれは、いったい」


 「ああ、どうということはない。が、あえて言うならば当家の事情というところだ」


 要領を得ない回答に、アスオンは首を竦めて押し黙る。


 ニルナは改まって頭を下げ、

 「直々の援軍の派遣、サーペンティア重将閣下のお心遣いに感謝いたします。さっそく我が軍の編成に加えさせていただき、次なる戦いにおいて、必ずや成果のご報告を――」


 ゼランはにたりと頬を上げ、

 「勘違いをするなよ――」

 その一言に、ニルナは押し黙り、顔色を青くした。


 「――持参の兵はすべてこのゼラン・サーペンティアの麾下にある。戦場においても当然、このムツキにあってもリーゴールの指揮下に属することはない」


 ニルナは一歩踏み込み、

 「お、お待ちください。しかし、お父上との約束で」


 「黙れ、重将閣下はお怒りだ。必要十分な戦力を持ちながら、おめおめと補充を望む体たらく。その気になれば、蛇紋石の名代としてここに在る私が、全権を掌握することも辞さないつもりでいる」


 粘つくようなゼランの高圧的な態度に、ニルナは怯えた亀のように首を縮め、

 「そんな……それでは……」


 若干の間を置いて、ゼランは前屈みに両膝を執務机に乗せ、手の平を組み合わせた。


 「むろん、こちらも馬鹿ではない。リーゴール家が本戦場の指揮を父上より委譲された事、その事情は理解している。そちらも一定の成果なく、このまま終わりを迎えるのは本望ではないのだろうな」


 汗を滲ませるニルナは唇を湿らせ、頷いた。


 ゼランは控えるアスオンを見てにやつき、

 「そこでだ、ご子息がこれから先の戦いにおいて、武功をたてる機会は保証しよう。その代わり、こちらの任務について、全面的にリーゴールの協力を取り付けたい」


 ニルナとアスオンは互いに顔を見合わせ、

 「任務、とはどのような……?」


 ゼランは横柄にふんぞりかえり、

 「このことは極秘情報だが、ジェダにはサーペンティア家の所有物を盗み出した嫌疑がかけられている。ここへはその証拠を掴むために参上した」


 「あのジェダ様が、まさか……」

 信じられぬという顔で、アスオンは瞬きを繰り返し、ニルナは当惑した様子で耳を傾けていた。


 ゼランはにやついた笑みを消し、


 「外の人間にはよくある勘違いだ。弟は、父オルゴアが気まぐれに目立つ所に連れ回していたために、後継者筆頭などという馬鹿げた噂がたったこともある。だが、一族内での奴の地位は下の下。己の不出来をサーペンティアのせいと逆恨みし、ついには家に仇をなした。お前達も蛇紋石の子という称号に惑わされ、多大な優遇を与えていたようだが、無駄なことだったと同情しておこう」


 ニルナは硬くした表情で、

 「そのことについて、私どもがどのようなお力添えをできると……」


 「簡単な話だ。こちらが求めたことにすべて応じ、そうでなければなにもせず、なにも見ず、なにも聞かず、口を閉ざせ。ただそれだけを約束するのなら、表向き、この戦いの指揮権を有するのはリーゴール家のまま、ということにしておいてやろう」


 ニルナは首を回してアスオンを見る。次に顔を戻した時には、惑いの気は晴れていた。

 「何卒、サーペンティア家のご厚情を賜れますよう……」

 親子が並び、同時に頭を下げた。


 ゼランは拳で机を叩き、

 「よし――さっそくだが聞かせてもらおう。奴がここへ来てからの事、そしてムツキの現状、知り得ることのすべてをな」


 「は、かしこまりました――」

 まるで上官を前にしたように、ニルナは迷いなく、深々頭を垂れた。




     *




 司令官の執務部屋を出ると、廊下の物影からぬるりとガザイが姿を見せる。

 そのまま歩みを止めないゼランに帯同するガザイは、

 「いかがでしたか、当地の指揮官は」


 ゼランは顎を上げて鼻を鳴らし、

 「ふん、どうということはない。益を吊り下げて見せた途端従順になった。やつらは意のままに動かせる」


 「さすがはゼラン様、お見事な手並みでございます」

 ガザイはへこへこと頭を下げ、皺だらけの手を揉み込んだ。


 「速さを持って事に当たる、奴の隠しているもの、必ず曝いてみせる」


 「しかし、弟君もまたこれを予期していたものと思われます。例のモノ、どこへ隠したものか……手こずるやもしれませぬ。御当主様にこの行いを知られる前に片をつけねば」


 「そのためにお前達がいる。腕を見せろ、捜索に関してはお前に一任するが、期待を裏切ればただではすまさん」


 「はい、かならず」


 ゼランは足を止め、外の景色を見やる。


 ガザイの言葉通り、隔離されていた腹違いの妹、ジュナ・サーペンティアを見つけ出すことは、サーペンティアを実質裏で仕切る伯母のヒネアが、再び主導権を取り戻すために必須の事。


 オルゴアはジュナの身がサーペンティア家の監視からはずれたことを良しとし、ジェダに護身のための力まで渡そうとしていた。指令を受けていたオルゴアの副官、エルデミアを捕らえた事と合わせ、これらの行いをオルゴアが知れば当然、蛇紋石の主、右硬軍の最高司令官、そして双子の父として、その権威を使い守ろうとするはず。だが、そうなるより先に、奪われた物を取り返せば状況は再び一変する。


 ――急がねば。


 焦りはある。自身が危うい橋を渡っているという自覚はあるのだ。だが、


 「ふ……ッ」


 思わず、堪えきれない笑声が溢れた。


 不思議そうに卑屈な目を向けるガザイをよそに、ゼランの頭には、いつも張り付けた微笑を浮かべ、従順なしもべのように振る舞っていたジェダの顔が浮かんでいた。


 ――随分と楽しそうじゃないか。


 ニルナ・リーゴールとその子息から聞いた、ムツキでのジェダの振る舞い。それはまるでゼランの知らない別人のような様で、他人と親しげに連れ添い、拠点の運営のための堅実な働きを真面目にこなしていたらしい。和気藹々と平民の兵士達と食事をしている様子、そしてその傍らには友のようにいつも同じ男がいるという話を聞かされた。


 自身の持って生まれた卑小な運命をすべて受け入れていたように振る舞っていたジェダ。それがまったく、別の人生を歩み始めたかのように、楽しげに生活していたという。本来、不愉快であるはずのその話を聞いても、しかしゼランはこの状況を愉快に思っていた。


 ――壊してやる。


 作った物を踏みつけ、父が用意させた服を破き、死んだ平民の母親の遺品も、姉からの手紙もすべて目の前で破壊してきた。もう命以外、壊す物などないと思っていたが、まだ、破壊できるものがあったことを知り、その瞬間を思い描くと、頬が勝手に軽くなるのだ。


 「ゼラン様、あちらを――」


 ガザイに促されて見ると、離れて佇むアスオンが恭しく一礼をした。


 「リーゴールの跡取りにここを案内させる手はずとなっている――指揮をまとめるためにも、ムツキの兵力を把握しておかねばな」


 ガザイは驚いた様子で眼を見開き、

 「もしや、御身で戦場に出られるおつもりでしょうか」


 ゼランは足を止めてにやついた顔でガザイを見る。


 「目前にターフェスタの燦光石が在るらしい。万が一にでもしとめれば、歴史に残る大功となるだろう。ただ目的を達して終わるには惜しい状況になったということだ」




     *




 曇の隙間から赤色の空が色を漏らす。荒らされたジェダの部屋に落ちる夜への兆しは、そこで起こったばかりの暴挙を物語るように悲しげな陰影をつけていた。


 硬い表情をして、シュオウが部屋の戸を押し開く。

 「大丈夫だったか」


 ジェダは軽い態度で、

 「おかげでね。悪いけど、また手伝ってもらえるかい」

 言って、寝台の片方を掴んで持ち上げる。その瞬間、ジェダは痛みに堪えるような表情をしてみせた。


 シュオウは反対側を持ち上げ、重たい寝台を横へとずらした。寝台の下に置かれていた荷をどけると、そこから古ぼけた色の木製の扉が現れる。ジェダが扉を開くと、寝台に寄りかかって座るいつもの姿のまま、ジュナがにっこりと微笑んだ顔で見上げていた。


 「平気かい」

 ジェダの問いにジュナは頷き、

 「ええ、古いお酒の臭いで頭がくらくらするけど」

 戯けて言うジュナの頬は、微かに赤みを帯びている。彼女が入っていたその空間には、年代物と思しき酒瓶が複数並んでいた。


 シュオウはジェダと協力して、ジュナを寝台の上へとそっと寝かせた。


 「酒好きを隠していた過去の部屋の主のおかげで、緊急の避難場所としては十分に役に立った」


 片付けの手を動かしながら言うジェダ。シュオウは壊された茶器の破片を集めつつ、

 「急だったな」


 ゼランが後方から援軍を引き連れて現れたとシュオウ達が知ったのは、彼らがムツキに到着する寸前、見張り台に詰めていた者から報告が上がった時だった。


 ジェダは頷いて、

 「後ろに王族が詰めているせいさ、流通と共に情報の巡りが滞っている。けど、この程度の事は予想の内でもあった」


 ムツキの後方に位置する領地ユウギリにサーサリアが滞在している影響で、これまで健全に行われていた物資運搬等の行き来に制限が設けられたため、ムツキの外で起こっている事への察知に問題が生じていた。


 ジェダの思う不満は、シュオウも同様に感じている。現在、城塞ムツキの基礎的な雑務をしきるシュオウにとっても、不健全化した流通の影響に不便さを感じていたからだ。


 「どうするつもりだ」

 シュオウが控えめにジュナを見て言った。


 ジェダはその視線を追って、

 「向こうがどこまでの事をしてくるかで、こちらの出方も変わる。が、実際こちらのとれる選択は限られているね」


 ジュナは首肯してシュオウを見つめ、

 「ゼランの後ろにはサーペンティア家があります。そこへ剣を向けるのなら、先の道筋をきちんと見いだしてからでないと」


 シュオウは視線を下げ、

 「様子見、か……俺になにができる」


 ジェダとジュナは揃ってよく似た微笑を浮かべ、


 「いつも通りにしていてくれればいい。もちろん、相手の出方しだいでは君にも害が及ぶ可能性があるが、それが度を超したものになったときは、後先を考えず精々暴れてやるさ。その時が来たら、全力で君に助けを求めるよ」


 シュオウはジェダを凝視し、

 「考えてるんだろうな」


 ジェダは笑みを消して頷き。

 「ああ」


 シュオウは仏頂面でジェダを睨めつける。

 「なら、なんとかしろ」




     *




 「余裕そうに答えていたけど、よかったの?」

 シュオウが先に部屋を出た後、残ったジェダに対し、ジュナは首を傾げて問いかけた。


 ジェダは天上を見上げ、

 「巻き込んでいる側としては、そう言うしかない」


 ジュナの視線はしかし、ジェダの手元に向いている。

 「その手、痛いでしょ」


 ジェダは自身の手の平を見つめ、

 「まあね」

 微笑を浮かべて言い、手を握って傷を隠す。


 ジュナは曇った表情で口元を引き結ぶ。常の朗らかな表情とはまるで違う、僅かに沈めた目の奥には、静かな怒りが秘められていた。


 ジュナは意識を逸らすようにあごに手を当てて視線を流し、荒らされた部屋を眺める。


 「思っていた以上に単純……正攻法なやり方ね」


 ジェダは頷き、

 「ゼランの思考は単純さ。欲望の赴くまま、ただそれに向かって手を伸ばすだけ――」」


 二人は皮肉交じりの微笑を交わす。


 ジェダは続けて、

 「――蛇の手足をまとめる頭領も同行している、当たり前だけど、向こうも本気だ」


 サーペンティア家が抱える組織、無手と影蛇をまとめるガザイは、表舞台に姿を現すことのない人物だ。そのガザイが姿を晒し、堂々とゼランに帯同していることの意味を、ジェダはよく噛みしめていた。


 ジュナは大きな樽に目を移し、

 「私達には居場所が必要……でも、サーペンティアの監視下では、それを望むのはとても難しい。ここからはどう立ち回るかが大切になる……」


 「とはいえ主導権は向こうにある。シュオウにも言った通り、流れを見てみるしかないだろう。それでも、ただその流れに振り回されないだけの力は持っているつもりだ。差し伸べられている手もある」


 「状況を俯瞰しながら、起こる事に一つずつ対処していく、ということよね。大丈夫、眺めている事は得意だから」


 動かない両足を、両手の拳でとんと叩いたジュナへ、

 「そうだね」

 ジェダは微かに哀のこもった微笑を返す。


 その時、天井裏からコンコン、と合図のような音が鳴った。リリカが行う仕草である。


 ジュナは天井を見上げ、

 「準備が整ったみたい。じゃあ、決めていた通りに私は隠れる、またあの人がネズミを心配して見にきてしまう前に」


 ジェダは不安そうに視線を追従し、

 「心配だな、隠れ家はここほど居心地がよくないだろ」


 「大丈夫、リリカさんがきちんと準備を進めておいてくれたから――ね?」


 ジュナが言うと、天上の一部がずらされ、そこからリリカが髪を逆さに流しながら顔を出し、

 「ぬかりなし、です。害虫、害獣の類もすべて追い出し、戻ってこられないように工夫もしました――まる」

 自分で言いながら、指で丸い輪を作って見せた。


 リリカが姿を隠すと、直後に天井の穴から腰掛けのついた縄が下ろされた。

 ジェダの介助でジュナが腰掛けに座ると、


 「ちょっと心配……」


 深刻な顔で言う姉へジェダは問う。 

 「どうしたんだい」


 ジュナは困ったような顔で唇を噛み合わせ、

 「あの……ここのご飯が美味しくて、家を出てから私、どんどん重くなっているような気がして。上へ上げてもらえるか……」


 ジェダは柔く吹き出して、

 「その心配は無用だよ」


 ジェダが上のリリカへ合図を送ると同時に、虚空に発生した分厚い風の塊が、ジュナの身体を持ち上げる。上から引かれる縄に誘導され、ジュナの身体はあっけなく、天井の闇の中へと飲まれていった。


 天井の穴の奥から、

 「ずりずり――と、リリカはたしかに受け取りました、以降の事はおまかせを」

 とリリカからの報告が聞こえてくる。


 その時、ひゅっと天井からジュナの顔が飛び出した。

 「隠れる前に一つお願いをしておきたいの――」


 ジェダは頷いて続きを促す。


 「――あの、シュオウ様が討伐をしたという狂鬼の腕があるっていうお話があったでしょ」


 思いもしなかった話に、ジェダは微かに首を傾げた。


 「ああ……アガサス重輝士の子息が彼に見せにきていた物か」


 ジュナは弟の顔を上から見下ろし、

 「それを、目立つ所に飾ってもらえるようにアガサス重輝士にお願いしてみてくれないかしら」


 「飾る……? 展示をするようにっていうことかい」


 ジュナは首肯し、

 「リリカさんからも聞いたのだけれど、シュオウ様の狂鬼の討伐に興味を持っている人がとても多いって。持ち帰られた狂鬼の腕は戦利品、それは英雄が活躍した証拠になる。それを多くの人に見てもらえるのは良い事だと思うの。それに、とくに見て欲しい人がいるから」


 ジェダは目を細め、

 「いまいち話が見えないな。それはゼランのことかい」


 ジュナは幼い子供のように笑い、

 「そうね、あの人にも見て欲しい。私達を助けてくれる味方は、本当にすごい人なのよって、自慢をしたい」


 ジェダは一瞬、計るようにジュナを見つめ、

 「……わかった、承諾を得られるかはわからないけど、頼んではみるよ」


 「ありがとう」


 ジュナの満足そうな笑みが隠れると、すぐのその気配も感じられなくなる。

 ジェダは双子の姉が残した願いを胸に、その足をさっそくアガサス重輝士がいる部屋へと向けるのだった。




     *




 シュオウの下で下働きに勤しむ若い村娘のユギクは、夕食の支度のため、料理を取り仕切るクモカリと共に食材を調理場へ運んでいた。その途中、通路ですれ違う一人の老人がユギクの担ぐ箱にぶつかり、派手に倒れ込んだ。


 「ご、ごめんなさい!」


 荷物を置き、ユギクは倒れた老人に駆け寄った。

 クモカリは大きな腕にたっぷりと荷を抱え込んだまま、

 「あら、大丈夫?」


 老人はユギクの手に背を支えられながら腰をさすった。

 「いやあ、申し訳ない、きちんと前を見ておりませんでした」


 「よかった――」

 クモカリは安堵の表情を浮かべた後、老人の顔を見つめ、

 「――おじいさん、見かけない顔ね」


 老人は低姿勢で頭を下げ、

 「そうでしょう、先ほどこちらについたばかりでしてな」


 クモカリは驚いた顔をして、

 「あら、じゃあサーペンティアの……?」


 「ええ、はい。ありがたい事に、こんな老人を雇っていただいておりまして」


 クモカリは老人の言葉を聞いて同情をするように悲しげな表情をする。

 「大変ねえ、その歳で戦地に駆り出されるなんて」


 老人は優しげに笑み、

 「いやいや、私などは所詮卑しい従者の身。実入りをいただけるというだけでありがたいことです」

 と、薄くなった頭を撫でた。


 老人はおもむろに立ち上がろうとし、ユギクがそれを手で支える。だが、

 「いたたた――」


 老人は腰を押さえて前のめりに両手をついた。

 ユギクはすぐにクモカリを見上げ、


 「すみません、こちらのお年寄りをお医者様に見ていただいたほうがよいと思います」


 クモカリは頷き、

 「そうね、それじゃ、あたしが抱えていくわ」


 ユギクは激しく首を振り、

 「いえッ、クモカリ様は大切な役目を負われていますし、ぶつかってしまったのは私ですから、行ってまいります。ただ、荷運びの途中ですし、お許しをいただけるなら、ですが……」


 クモカリは大きな手を振り、

 「気にしないで行ってきて、荷物ならあたし一人で運べるから」


 ユギクはクモカリに礼を言い、老人の肩を支えて、医者であるクダカの仕事場を目指して歩き出した。




 治療所の前まで到着し、ユギクは扉を叩くと、

 「……なんだ」

 と扉の奥からクダカの声が聞こえてきた。


 「ユギクです、怪我人を連れてまいりました、入室のご許可をいただけますか」


 たっぷりと間を置いて、

 「………………はい、れ」


 部屋に入ると作業椅子に座るクダカがいた。その背後には、彼女の弟子であるレキサという名の娘が控えている。クダカの視線はしかし、入室したユギク達を無視するようにあさっての方向を向いていて、その身体は小刻みに震えていた。


 ユギクが扉を閉めたのと同時、弱々しく腰を曲げていた老人は、すっと頭を上げ、まるで何事もなかったかのように自身の手で椅子を取り、腰を落とした。


 「やれやれ、面倒な小細工のために死にかけの年寄りを演じねばならん。逆に身体がくたびれるというものよ…………さてと……ハイズリ、現状を聞かせぃ」


 弱った老人としての面を捨てたガザイは、常のように、影の中を行く組織の頭領としての顔で振る舞う。


 可憐な少女然としていたユギクは険しく表情を変え、だらりと背を壁に預けて悪辣に口角を下げた。


 「じさまが来るって聞いてねんだけど。あと、うちはもっと使えるのを寄越せって言ったんだ。こいつみたいな下手くそじゃなくってさ」


 ハイズリ、という呼び名に応えたユギクは、この部屋の主であるクダカの後ろで佇むレキサを睨みつけた。


 レキサは長くたらした前髪の奥で笑みを作り、

 「……ごめんね、ハイちゃん」

 目線を逸らし、しきりに前髪に指を通す。


 ガザイは苦い顔で、

 「ここは狭い箱の中。半端な者を紛れさせれば足がつく。無手の者を同行の派遣隊に紛れ込ませてはいるが、先行させる者には細心の注意を払い、極力怪しまれる恐れなのない者を選んだのだ」


 ハイズリは意地悪く鼻を鳴らし、

 「はッ、細心の注意ったって、ウルを見てみなよ。全身だらだらした服を着て身体を隠して、こんなやつ、怪しいですって自分から言ってるようなものじゃないか。あんたそれ、腕に巻いてるもん取られたら一発で石がばれるんじゃないのかよ」


 ガザイはレキサへ向け、

 「ウルガラ、はずして見せろ」


 ウルガラ、と呼ばれたレキサは腕に巻いた包帯をするするとはずす。左手の甲の石は、白く濁っているように見えた。しかしそれ以上に、彼女の腕についた痛々しい火傷痕のようなものが、激しくその存在を主張している。


 ウルガラはまた視線をはずしながら下手な笑みを浮かべ、

 「大丈夫、上手く作ったから……」


 彩石を濁石のように見せる工作は、賢い者がよく注意を払っていれば気づいてしまう程度の細工だが、ウルガラの腕にある火傷の痕跡は上手く作られており、彼女の腕を見た物はまず、そこへ注意を惹かれるだろう。


 「…………たの、む……もう……」


 おかしな方を向いたまま硬直していたクダカが、必死に首を動かし、ウルガラを見る。ウルガラは腰に下げた袋から、羽をもいだ毒虫の尾を取りだし、その尾針をクダカの首に突き刺した。


 クダカの震えが止まり、これまでが嘘のように平素の落ち着いた表情をハイズリへ向ける。まるで意思のない子供が、親の指示を待っているかのようだった。


 クダカは口を開き、

 「医者ならみんなから信用されるの。その弟子ってことになってるから疑われないよ」

 と、子供のような口調で語る。


 ハイズリは、ふんと鼻息を鳴らしそっぽを向いて、

 「へたくそ――上手くやってるって言うんなら、混ぜ物なしで傀儡にしてみな」


 ウルガラの左手甲には彩石がある。両親は共に濁石を持つが、先祖の血の影響で生まれながらに特殊な能力を持っていた。しかし力の発現は安定を欠いていた。上手く能力を発揮できるかどうかは、対象となる人物の個人的な資質や身体能力にも左右されるため、ウルガラは精神に悪影響を及ぼす毒の力を借りて任務に当たっている。


 ウルガラとハイズリ、サーペンティア家お抱えの暗部組織の中で生まれた二人は幼なじみだった。色のついた輝石を持って生まれたウルガラは、高い戦闘能力を有する者達を集めた無手に配属され、見目に恵まれて生まれたハイズリは、諜報や潜入を主とする影蛇の所属となった。


 幼少期より、ウルガラはハイズリに懐き、ハイズリはそれに煙たそうな態度を見せる。両者の関係をよく知るガザイにとって、二人のやりとりは慣れたもの。この任務に二人を宛がったのは、二人が華奢な少女風の容姿をしていて、紛れものであることを疑われにくいと判断したからだ。


 ガザイはウルガラとハイズリ、両者を強く睨めつけ、

 「この任務、世子様直々の取り仕切りとなる、失敗は許されん。ハイズリ、改めて問うが、間違いなく例のモノはここにあるのだろうな」


 ハイズリは目を細めて、

 「あの部屋、不自然なくらいに警戒がきつい。それに、やたらでかい酒樽が運び込まれたって目撃情報を聞いた。ジェダ様は大酒飲みじゃないし、荷物にしては不自然すぎる。ムツキを出る荷で、人が隠れられるものは全部たしかめてるし、最初からここに居るんだとしたら、きっと今もそのままだよ」


 「奪い去ったものを戦場にまで持ち込んだとなれば、大胆かつ無謀にも思えるが――」


 ジュナ・サーペンティアは足が不自由なのだ。いざというとき自ら行動することができない姉を、ジェダが心配して手元に置きたがったと考えれば、その選択もあり得るのだろうとガザイは考える。最悪、この予想がはずれていたにしても、ゼランは強攻策をとってジェダから居場所を聞き出すだろう。


 「――気取られることも承知の上の行動と見る。初めから疑われるとわかっていれば、うまく隠しているはず」


 ガザイの呟きにハイズリは頷き、


 「ここ、中はめちゃくちゃ複雑になってる。こっちが把握できない古い隠し部屋にでも籠もられたら、あとはもう煙でも炊かないと出てこないかもね」


 ガザイは強く足を踏み鳴らし、

 「念を押しておく、例のモノは必ず生け捕りとすること。死なせては意味がない」


 ハイズリは、

 「はいはい、でもだからって、空き家からこっそり物を盗んでくるようになんてできっこないんだ、手を出すなら絶対荒事になるんだからね」


 ガザイは腕を組んで頷き、

 「奴らと共に過ごしてそれなりだろう。相手方の戦力、お前はどう見る」


 ハイズリは深刻に表情を暗くし、


 「……やばいのがいるよ。一人は南方人の彩石持ちの傭兵、こいつは馬鹿みたい身体が強い、普通に想像するのよりずっとね。あともう一人は例のでかい眼帯をしたやつ、特にこいつはやばい。彩石もないくせに戦場で敵を殺しまくって、そのうえ一人で猿の狂鬼を討伐して、取り残された連中を生きたまま大勢連れ帰った英雄様。あれはもう、完全に人間離れしてる。うちとウルであれをどうにかしろって命令だけは勘弁だからね」


 ガザイはじっくりと話を聞き、しかめっ面で深く頷いた。そしてゆっくりと口を開く。


 「眼帯の男、間違いなくあの家の警備を壊滅させた者。数々の噂と合わせても、常識外の手練れなのであろう。それに、手練れといえばジェダ様もだ。家の方々は、その実力を生まれの先入観から極めて過小に評価されている。だが実際の所、晶気の使い手としては計り知れぬ才をお持ちだ、決して油断はするな」


 ハイズリは嫌気の込められた顔で溜息を吐き、

 「そんなの相手に、どうやって隠したものを回収しろっていうんだよ」


 「どのようなときにも必ず方法はある、それを模索している最中だ」


 ゼランが指揮し、ガザイが担当に当たる今回の任務。連れ出されたジュナ・サーペンティアを見つけ出し、再び手中に収めること。手練れが集まっているとはいえ、所詮は少数。大家であるサーペンティア家の力で事に当たれば容易く解決することができそうなものだが、実際はそう簡単ではない。


 彩石を持たずに生まれてきたジュナの存在は、サーペンティア家の秘密である。派手に動けば、家内の騒乱が内外に知られるはめとなり、大勢の目が集中してしまえば、ジュナの存在が明るみにでてしまう恐れも増す。実際の影の当主ともいえるヒネア・サーペンティアは、家の血に穢れとなる平民の血が混じっていること、それを知られる事を特に忌避していた。


 ガザイが腰を上げ、部屋の出口へ向かおうとする。ハイズリはそれを呼び止め、


 「関係あるかわからないけど、飼い犬がうろついてるような気がするんだ。はっきりしないから報告にはあげなかったけど、どうする……?」


 サーペンティア家とは不仲であるアデュレリア家お抱えの暗部組織を指す隠語を聞き、ガザイは背を向けたまま顔だけで振り返る。


 「やつらはカビや埃と等しく、どこにでも湧くからな。現状、あえてこちらから尻尾を踏みに行く必要もないが、一応警戒はさせておこう。それと言っておく、我らは所詮影の中の住人。影の行いがサーペンティア家に繋がる事は決してあってはならん。くれぐれも注意しろ。追って指示を与える」


 ガザイは諭すように言って退室した。


 ハイズリは懐から乾燥させた甘い木の実をウルガラへ投げ、

 「だってよ――ウル、上手くやりなよ」


 木の実を受け取ったウルガラは頬を赤くして、

 「うん……ありがと、ハイちゃん」


 ハイズリは溜息をつき、ウルガラの前に立って、だらりと垂れる前髪を耳にかけてやった。そして、あらわになった広い額を指で弾く。


 「あったた……」

 口では痛みを訴えつつ、ウルガラの顔には嬉しそうな笑みが浮かぶ。


 ハイズリは表情を消し、

 「気をつけな――」

 言って、部屋の出口の前でくるりと回転し、

 「それでは、ありがとうございましたクダカ様。ユギクはこれに失礼をいたします」


 まるで別人のように、普段装っている村娘の顔を素早く身にまとい、流麗な所作で綺麗に一礼を残し、去って行った。




     *




 組織には階級がある。本来群れの統率のためにあるはずのそれは、人の間に優劣を生み、時に理不尽な状況に人を追い込む。


 アスオン・リーゴールは、まさしく予想だにしていなかった状況に立たされていた。


 現在、通路を行くゼラン・サーペンティアの共をするアスオンは、まるで彼の従者か部下のように一歩身をひき、身体を斜めにしてゼランの顔色を窺いながら案内役を務めている。


 ムラクモ王国軍において、ゼランの階級は重輝士であるアスオンよりも下にある。その相手に対し、腰を低くして接する現状は、まさに理不尽かつ不可解なものだった。


 アスオンは母ニルナから厳命を受けていた。それはゼランに対し、彼の父であるサーペンティア重将にするのと同じように応対せよ、というものである。


 状況は理不尽ではあっても、アスオンに不満はなかった。彩石を持つムラクモの輝士達にとって、軍とは貴族社会のもう一つの面である。階級という独自の体系を持ちながらも、だからといって各人が持つ背景が消えてなくなるわけではない。


 今、共に歩くこのゼランという男の家名はサーペンティア。その家の名は、大国の中でも五本の指に数えられるほどの大家なのである。その家の当主の子息ともなれば、軍での階級などもはや飾りに等しく、媚びへつらう事を恥と感じる事もない。


 「寒くはありませんか。もしよろしければ、温かい物でも用意させますが」


 だが、決して健やかとは言えない心根はそのままに、アスオンは接待役に徹して、丁寧にゼランの機嫌を窺った。


 ゼランは足を止め、底意地の悪そうな顔から感情の色を隠し、

 「欲しければ命じるための口は持っている」


 「はい……失礼いたしました」


 「最近、ここへ王女殿下が来訪されていたとか」


 城塞の内部を眺めつつゼランがさりげなく話題を出した。


 アスオンは一瞬ためらい、

 「……はい、ムツキで一泊を過ごされました」


 ゼランはアスオンとは顔を合わさぬまま、

 「めずらしいことだな。ご様子はどうだった」


 「体調がお悪いように見えました……お顔を拝す機会もあまりなく、正直なところ、よく、わかりません」


 ゼランは鼻で笑った。ただ息を吐いただけだったのかもしれないが、アスオンにはそれが自身を嘲笑する音に聞こえた。


 サーサリア・ムラクモの来訪について、浮かぶ光景はただ一つ。この国でもっとも高貴な存在である王女が、一介の従士の身分にある男に身を寄せている姿だ。表だってその話をする者はいないが、このムツキの中でその事を知らない者はいない。


 サーサリア王女は、ムツキを統括するリーゴール家に一切の興味も示すことなく去っていった。婚約者候補に、などと浮かれていた母ニルナの言動と、渋々ながらそれに乗っていた自身を思うと、恥と劣等感が沸々と脳裏に沸き起こる。その感情はアスオンの顔面に重さとなって張り付いていた。


 「めずらしいと言えば、殿下は現在もユウギリに逗留されておいでだ。通過の際に目通りの希望も出せたが、あいにく、そのために用意できる時間はなかった。しかし妙な事だな、ほとんど王都から出ることもなく、高位の者ですらろくに拝謁も叶わなかったあのサーサリア様が、わざわざ戦地にまでお顔を出され、未だにすぐ後ろに居を構えて動こうとはしない」


 胸の内が、どくりと跳ねる。今共に歩くこの男は、すべて知っていて聞いているのではないか、という考えが浮かんだ。


 アスオンはその言葉に視線を落とし、

 「それは……そう、思います」


 外気に晒された外通路を行く途中、

 「この先は輝士達の宿舎、です……」

 アスオンは濁った池のようにぼんやりと語調を曇らせた。


 恐れていた。先の戦いで失った信頼は、遅効の毒のように群れでの立場を蝕んでいる。かつては誇らしかった大勢からの視線も、今となっては、その視線の奥にある一つ一つから敵意や嘲りを感じずにはいられないのだ。


 ゼランは足を止め、計るようにアスオンの顔を凝視する。


 「不満そうな顔をしているな、司令官代理殿。だがまあ、当然だろう、自分の物だと思っていた戦場に横やりをいれられたのだからな」


 表情の暗さを別の意味に受け取られ、アスオンは大いに焦った。

 「い、いえッ、違います、そんなことは決して――」


 ゼランはアスオンの言葉を遮り、

 「貢献には報いるつもりだ。損をするように感じるかもしれないが、次代の蛇紋石に貸しを作れる好機と考えればいい。実際、働きによってはその通りとなるだろう」


 勘違いを正すにはあまりにも道がはずれている。難解で自虐的な方法を早々に手放し、アスオンは流れに逆らうことを止め、頭を垂れて礼を言った。


 「ありがとうございます、出来うるかぎりの努力をさせていただきます」


 ゼランは空気を千切るように鋭く目線を動かし、また前進を再開する。


 輝士達の集うその宿舎には、緩慢な空気が漂っていた。広間に集っている者達は、茶を片手に雑談に興じたり、札を用いた遊びに金をかけて盛り上がっている。


 だらけた輝士達を見やり、ゼランは腰に手を当て、

 「知った顔もあるな」

 そう言うと、鞭を取り出し、歩み出て茶器の並んだ円卓の上を思い切り叩きつけた。


 割れた茶器が散らばる音と、女達の悲鳴が響き、辺りは一瞬にして静まりかえる。非常事態を嗅ぎつけ、部屋に籠もっていた輝士達も皆、ぞろぞろと顔を出し始めた。


 ゼランは皆の注目を一身に集め終えたのを確認し、

 「本日、ムツキに着任したゼラン・サーペンティアである。総司令官たるサーペンティア重将の名代として増援部隊の指揮をとる事となった、よろしく周知を願いたい」


 ぞろぞろと集まり、群れた若い輝士達は硬直していた。サーペンティア当主家の長子は、その存在を広く知られている。独身の公子へ憧れるような視線を向ける者もいるが、一方でゼランへ怯えたような態度を見せる者達もいた。


 アスオンはゼランの斜め後ろに立ちながらも、視線を恐れるように顔を下げる。見られる事が苦痛となっていたせいか、不必要なまでに視線を独占するゼランの側は、意外にも心地良さを感じた。


 一部、狡猾に素早くゼランへ媚びを売るような言葉をかける者達が現れる。そんな中、ゼランは彼らを無視して、

 「貴様、なんだその目はッ――」

 と、突如鋭く言い放った。


 険のある言いように、アスオンは驚いて顔を上げる。ゼランが声を荒げて鞭を向ける先には、若い女の輝士がいた。彼女の姿を見て、アスオンは思わず息を飲む。それは近頃、アスオンを重く、睨むように凝視を向けてくる者だった。最後にその姿を見たのは、彼女が大切に想う相手であろう者の千切れた頭部を抱えていた時のことだ。


 ゼランが鞭の先を女へ向けると、その前で群れていた者達が一斉に壁際へと身を避ける。自身が指名されたことを悟った女の目には、戸惑いの気が滲んでいた。


 ゼランは女との距離を縮め、

 「リーゴール司令官代理を睨みつけていたな」


 問われた女は汗を滲ませ後ずさる。

 ただならぬ空気に、アスオンはゼランの顔を覗き込み、

 「お待ちください、彼女は……」


 冷え切ったゼランの目に睨まれ、アスオンは言葉を飲み込む。


 「司令官代理殿、貴殿はいささか部下を甘やかしすぎておられるようだ。このような木っ端に、あれだけの反抗的な態度を許すべきではない」


 言って、ゼランはおもむろに鞭を振り上げる。しなる鞭の先端は、怯える女の顔を激しく叩いた。衝撃で女は床に伏し、顔をかばうように手を上げて体を丸める。


 ゼランはさらに女の体を鞭で叩く。痛々しい音と、裂けるような女の悲鳴。三打、四打と数を重ねるうち、女の悲鳴は謝罪の言葉へと変わっていた。


 「お許しください……お許しください……ッ」


 ゼランは興奮したように鼻の穴を広げ、

 「誰に謝っている、相手を間違っているだろう!」


 鞭打ちの手が緩んだ。すかさず、女はゼランの背後にいたアスオンの足元へ飛びつくように這いつくばり、震える身体で頭を下げ、何度も謝罪の言葉を口にする。


 硬直したまま、動けずにいるアスオン。ゼランは冷たく鼻を鳴らし、

 「この愚か者と同じように上官を睨みつけたい者がいるのなら、今すぐ名乗りでるがいい、遠慮は不要だ」


 顔を青くした輝士達は皆、一斉に顔を下げ腰を落とす。その光景は、完全なる恭順の意を示していた。


 ゼランは振り返り、アスオンへ不適な笑みを向ける。


 「これが、支配だ」

 まるで戦勝宣言のように誇らしく言って、血で汚れた鞭を自身の手の平に叩きつける。


 まとわりつくようだった集団が放つ視線は、この瞬間にすべてが消失していた。

 寸前まで恨みの視線を向けながら、今は這いつくばって許しを請う者。次に鞭で打たれることを恐れて俯く者。目の前に広がる始めて見る光景を前に、アスオンは自身の心臓が放つ激しい鼓動を聞く。そして、口の中に湧いた唾液に甘みを感じ、そっと、密かに喉を鳴らした。




     *




 「さっきのあれはどういう事だ」


 険のある声でゼランの声。アスオンはたじろいで顔を落とす。


 「……お見苦しいところを、申し訳ありませんでした」


 が、お決まりの返答にゼランは満足した様子もなく、先を促すよう無言で鋭くアスオンを睨めつける。


 二人は通路に佇む。ここはムツキの上層に位置する者達の私室が集まっていて、他と比べると人気が少ない。

 有無を言わさぬゼランの視線は、まるで獲物を前にした蛇のようだった。こうした捕食者を思わせる目は、微かに面影を同じくする彼の弟の双眸を思わせる。


 目の前にいる男は年下で、軍での階級も下にある。が、彼の背負う物の大きさを前に、アスオンは余地なき屈服を選択した。


 「――先の戦いにおいて、私は指揮官として大きな失態を犯しました。そのために、多くの者達からその責を問われているのです。つまり、その……彼らの信頼を、失いました」


 それは屈辱を伴う告白だった。一足飛びに大戦の指揮権を得ながら、傷を伴う失態を演じたという内容なのだ。そのことに罵り、叱責も覚悟していたが、ゼランが返した反応はそれらの予想とは趣が異なっていた。


 「そんなことはどうでもいい。なぜ、下の者にあのような態度を許しているのかと聞いている」


 腕を組んで強く言うゼランに、

 「それは……私のしたことによって彼女の……」


 「あの女だけではなかったな、まるで敵を睨むような目を向ける者達が幾人もいた」


 指摘に、アスオンの鼓動が早まった。


 「はい……ですから、彼らは皆、私の失態によって大切なものを失い――」


 「馬鹿な事をッ――」


 ゼランは吐き捨てるように言って、


 「――戦場で戦う駒がいくつ死のうが、そんなことは当たり前の事。大切なものなどない、駒の命など、みな等しくゴミくずと同じ。恨むのならば無様に散った己の無能を恨めばいい」


 冷淡な言葉、それに一切の疑念を抱いていない揺るがぬ瞳を前に、アスオンは強く動揺し、視線を泳がせる。


 突如、ゼランがアスオンの首を掴み、壁際まで押し当てた。


 「ッ……なに、を……ッ」


 「苛立たしい、めそめそとした顔を私に見せるな。貴様らリーゴールは我が父から戦場を買ったのだろう。輝士として見れば実に卑しい行いだ。だが、その貪欲さは嫌いではない。くずの家ならばそれらしく、今更他人の顔色など窺わずに堂々と胸を張っていろ。反省などするな、しくじったのなら、それはすべて駒の質が悪かったせいだ。奴らに鞭を打て、罵声を浴びせろ、自由な意思を持つ事など許されないのだとわからせろッ。それが支配者の流儀だ」


 生まれた瞬間から支配する側としての道を歩む者がそこにいる。引き寄せられるように、アスオンはゼランと視線を重ねた。首を押さえつけていた力が、ふっと軽くなる。


 壁にもたれた身体が、ずるずると床へ落ちていく。目の前に立ち、視線だけで見下ろしてkくるこのゼランという男は、間違いなく善なる者ではないのだと、アスオンは理解していた。


 誠実で正直に、正しさに対して真っ直ぐ向き合いながら積んできた輝士としての経験が、ゼラン・サーペンティアという男の前では、すべてが無意味であると思わされる。


 我、という絶対的な感覚、その根底を揺るがすような存在を前にして、しかし、耳に届く言葉の一つずつが、心地良くも感じられる。


 アスオンは床に腰を落としたまま、ゼランを見上げて言った。


 「お言葉を……心に刻みます、ゼラン様」


 「ふん」


 一瞥を残し、ゼランが無言で立ち去っていく。彼の去った後、別の通路から人の気配を感じ、アスオンは立ち上がって服の汚れを払った。


 ゼランが去った通路とは逆側から、輝士が三名向かってくる。ここのところ、他人との接触を避け、人とすれ違う時には伏し目がちになっていたアスオンは、先ほどの体験を思い出し、意識して顔を上げ、輝士達へ目を向けた。


 負の思いが込められた目を向けられる。それを覚悟していたが、彼らはアスオンに気づいた様子もなく、足早に前を素通りしていった。歩きながら、それぞれに口を開き、


 「――本物か?」

 「――間違いない、戦場で見たままさ。僕は目の前であの腕が隊長の首をもぎ取っていったのをこの目で見ているんだ」

 「――ムラクモの輝士を手玉に取った狂鬼の腕、か。未だに信じられん、そんなものを、ただの軟石の兵一人が狩り殺したなどと」

 「――だからこそこの目で確かめておくんだ。それに、今となっては例の従士、ただ者ではないわかっているだろう」

 「――なんにせよ、拝んでおけば王都への土産話になるだろうな」


 彼らの言葉の切れ端を拾い集める。


 ――狂鬼の、腕?


 純粋な好奇心が湧いた。

 アスオンは噂話に夢中になっている三人の後を追うことにした。


 通路を抜け、階段を降り、中庭へとたどり着くと、中央の広場を中心に大勢の輝士達、従士達が集まっていた。


 中心に置かれた荷車、さらに積まれた木箱の上に赤い敷布がかけられ、その上に黒光りする体毛を蓄えた、大きく太い猿の腕が置かれていた。傍らには、取り外したと思しき狂鬼の禍々しい輝石も置かれている。


 それを見て、アスオンは思わず身震いをした。寒気を感じる、武装した輝士達を、まるでぼろきれでも裂くように殺していた、あの狂鬼達の狂乱の舞台を思い出す。


 皆が怖怖とそれを見ている。だが、その多くはアスオンとは違う感想を口にしていた。


 「――すごいな、これを一人でか」

 「――これ一体ではないんだ、死体の山を築き上げたという話じゃないか」

 「――これほどのまでの剣士なら、家に雇い入れたいが」

 「――やめておけ、あの血塗れ公子のお気に入りだぞ。それに……」


 飾られた猿の腕の側で、見覚えのある輝士がその場を仕切っていた。


 ――アガサス家の。


 彼はアガサス重輝士の息子、レオン・アガサスだった。身振りを加え、いかにして件の従士がこの戦果を上げたのかを説明している。彼の言葉に皆は夢中となり、まるでこの場は、流行の舞台劇に夢中となった観客席のようだった。


 ふと、アスオンは薄ら寒い孤独感に苛まれる。


 ――誰も。


 気づいたのだ、この場にいる誰も、自分を見ていないということに。


 その場にいるだけで凍り付くようだったあの空気、視線。なにもない。皆、ある一人の男の活躍劇と、その戦利品に夢中になっている。


 赤い太陽を覆っていた雲が晴れる。差し込んだ光に眩しさを感じ、背を向けた。伸びた影と、大勢の無関心を背に、アスオンは自嘲するように口元を歪め、両手の平を、そっと深く握りしめた。




     *




 宵の頃、軽装の輝士を乗せた馬が全速力で白道疾走していた。輝士は王家の紋章によって封じられた一通の書簡を携えている。


 冬の冷気にざわつく灰色の森。暗がりの奥深くから聞こえる化け物達の気配を置き去りに、輝士を乗せた馬は、まるで使命を理解しているかのように強く道を蹴り進む。


 ほどなく、早馬は深界の拠点、ムツキの門をくぐった。




 「ゼラン様――」


 夜更けを目前とした頃、ガザイの呼び出しに応じたゼランは、片手に高級酒を注いだ杯を持ち、気怠そうな態度で顔を出した。


 「なにか」


 不機嫌に応じるゼラン。部屋の奥から何者か来客の気配を感じ、ガザイは声を落として囁くように告げる。


 「ユウギリより、王家の書簡が届けられました」


 瞬きを繰り返し、ゼランは険しく問いかける。


 「王家……だと。内容は?」


 ガザイは首を振り、

 「リーゴール将軍に宛てたものです、内容は察知しておりません」


 ゼランは一瞬瞳を揺らし、視線を泳がせる。そうした所作は、決して正当とはいえない企みに従事しているせいであった。後ろ暗さを抱えている状況では、制御下にない不意の出来事は不安の心を誘うのだ。


 「……確認をとる、同行しろ」


 「かしこまりました」


 ほんのりと赤みを帯びた顔で、ゼランは輝士服に正装し、ガザイを伴って司令官の執務室を訪れた。室内には暗い顔をしたアスオンと、それによく似た表情を浮かべるニルナの姿がある。


 「王家からの書簡が届けられたそうだな、なぜすぐに知らせを寄越さなかった」


 ゼランの存在に気づいたニルナは、慌てて腰を上げた。その手には、届けられた書簡と思しき、文字を綴った一枚の分厚い紙がある。


 ニルナは一礼をして、

 「ゼラン様、失礼をいたしました、ですがその……」

 歯切れ悪く言葉を濁す。


 ゼランは自身の身を投げるように司令官の椅子に腰掛ける。そして、眼前の親子を睨めつけた。


 「蛇紋石の名代を前にしても語れぬ内容か」


 ニルナは縋るような目つきで即座に否定する。


 「いいえ決して、隠す所はありません、どうぞこれを……」


 差し出された書簡を奪うように受け取り、ゼランは足を組んで内容に目を通した。


 中身を把握したゼランは安堵したように肩の力を抜き、

 「なるほど――」


 大仰な書簡に書かれていた内容は、先の戦いにおいて、戦功の著しい者を表彰するための呼び出しだった。そこに記された名は、ジェダ・サーペンティアとその部下であるアウレール晶士、それに王族からの直々の表彰に値しない身分であるはずの従士長、シュオウと記されていた。


 「――殿下は愚かな弟と、その手下を評価されているということか、もしくは別の目的か。どちらにしろ、この戦場に華を飾るはずであったリーゴール家を差し置いてのこの栄誉ある呼び出しは、貴殿らにとってさぞ忌々しい一文に見えるのだろうな」


 指摘に、ニルナは恥じ入るように視線を逸らす。が、これまでやたらに顔を隠すように振る舞っていたアスオンは、暗さを背負いつつも、ゼランから視線を逸らさない。


 ゼランは笑み、

 「この内容、思うほどに悪いものではないぞ」


 アスオンは眉間に力を込め、

 「と、おっしゃいますと」


 「書簡は王家の名の下に発せられている、つまりこれは勅令に等しい。拒否権なく、ジェダをムツキから出すことができれば、こちらの目的達成への利となる。それに、司令官代理殿にとっても、手柄を横取りする目障りな連中を遠ざける事が出来るのは本望なのではないか」


 アスオンは瞳を揺らし、

 「そんなことは……」


 「邪魔者の居ない戦場で、取り戻したいとは思わないのか、名誉と誇りを」


 暗く、濁っていたアスオンの双眸に、僅かに光りが灯る。


 ゼランはアスオンの表情を見るや得意げに頬を上げ、部屋の奥へ向かって呼びかける。

 「ガザイ――」


 「は」


 物影から、まるで気配のなかった老人が姿を現し、ニルナは一瞬驚いた顔をする。


 「この件、どうだ」


 ガザイは恭しく頭を下げ、

 「極めて、都合の良い内容かと。一人でも多く、相手方の戦力を遠ざける事ができれば、失せ物探しもやりやすくなりましょう」


 ゼランはじっくりと頷き、

 「よし、いいだろう。考案をだせ」


 ガザイは一瞬、視線を上に上げた後、

 「できるかぎり足の遅い馬を用意させ、荷台を繋げて重荷を運ばせます。載せる物は、ムツキより王家への献上品とでもいって、無駄に重い物を少しでも多く。そして、それらを護衛という名目で、呼び出しに名が記されていない相手方の者達に同行を命じます。拒否がしにくいよう、その者らをムツキ司令部より、表彰への推薦という形をとってもよろしいかと。さらに、帰りがけには指定の物資の運搬も命じれば時間を稼ぐことができましょう」


 ガザイの提案にゼランは複数、頷く。


 「……よし。ならば、対処のための時間は与えのは惜しい。用意にかかれ、今すぐだ」


 「御意のままに」

 そう言ってガザイは粛々と部屋を後にする。


 ゼランはニルナを一瞥し、

 「司令官の名の下に命を下せ、王家の呼び出しに応じ、その指名を受けた者達の護衛隊を派遣すると。護衛役にはジェダ・サーペンティア隊所属の輝士、それに硬石持ちの南方人を選抜する」


 アスオンは首を振り、

 「お待ちください、あの傭兵は軍の所属ではありません」


 「だからなんだ? 私兵であっても戦地に置けば上級指揮官の意が優先される。支配者の流儀、忘れたわけではないだろうな」


 アスオンは喉を鳴らし、

 「……はい」


 ゼランは、

 「ムツキに目をかけてくださる殿下のご厚情に報いるため、献上の品々を用意する。できるかぎり重たい荷物をたっぷりと用意させろ。件の指名を受けた者達も含め、これらを丁重に守り、殿下にお届けするようにとな――」


 言葉を止め、ゼランはリーゴール親子の前に立つ。


 「――以上が提案だが、命令を下すには司令官でなければならん。判断はお二方にまかせよう」


 一時、ためらいの気を漂わせた後、アスオンとニルナは互いに目を合わせ、頷きをかわし合う。その様子を見ていたゼランは、一瞬、口が裂けたように大きく笑った。




     *




 静寂に包まれる深夜。


 陽は沈み、人は眠る。


 空気は淀み、塵は止まり、そして音が消える。


 静けさは隠れたものを浮き彫りにする。


 例えば夜遅く、中庭から音が聞こえてくる事がある。ざっざっ、と規則的に足を踏む音だ。正体は輝士の身分にある小太りの青年。彼はひとより重い身体を気にして、夜遅くに一人で走る事がある。その動機が片思いを成就するためであると、シュオウは知っていた。


 大きなくしゃみ、誰かが階段を踏み外した音、寝酒の調達にしくじって愚痴を言い合う者達。多くの人間が詰め込まれた深界の拠点で過ごしてから、シュオウはこうした音を日々聞いてきた。夜の音に敏感なのは、人生の大半を孤独と過酷な環境で過ごしてきた影響なのであろう。


 この日、この夜。シュオウの耳はしかし、外から発する音ではなく、自身の内から聞こえる音を聞いていた。


 不規則に鳴る重い音。その音は頭の奥から生じる痛みと同じ間隔で聞こえている。ドッ――ドッドッ、まるでなにかに叩かれているかのように感じる頭痛。その不快な音は、周囲が静寂になるにつれ、より大きくなって頭の中で鳴り響き、痛みを伴いながらより強ささを増していく。


 痛みと音に、眠りにつけずにいると、不意に部屋の外から気配を感じ、シュオウは素早く身体を起こした。


 扉を一回、控えめに叩く音が聞こえ、

 「シュオウ――」

 呼んだ声はジェダのものだった。


 シュオウは急いで扉を開け、

 「なにかあったか」

 ジェダの姿を見るより先に早口で問うた。


 ジェダとジュナ、二人にとっての現状は、まさに敵と対峙している最中である。当事者であるジェダの深夜の呼び出しは、警戒心を抱くのに十分な理由があった。


 「さっそく動きがあった。が、事態は少々複雑だ――」

 そう言ったジェダの表情は険しい。


 ジェダは周囲を警戒するように首を回し、そのまま部屋の中に入って扉を閉め、

 「――王家からユウギリへの呼び出しがかかった。対象者は君と僕、それにアウレール晶士。理由はターフェスタとの初戦での働きを評価して、ということでね」


 シュオウは薄く口を開き、眉間に皺を寄せる。


 「ユウギリに、今か?」


 ジェダは視線を逸らして首肯した。


 シュオウは即座に、

 「だめだ、断る」


 「相手が相手だぞ、仮に辞退するにしても一度顔を合わせて説明するしかない」


 「俺の隊はお前の所属になっているはずだ、お前が行って説明をしてくれば――」


 ジェダは首を振り、

 「この呼び出しの真意を考えたほうがいい。サーサリア王女直々の招きなんだぞ、目当ては一つしかないだろう」


 ジェダの双眸がシュオウを見つめる。


 シュオウは一瞬、歯を剥いて息を吐いた。


 「あのとき、王女の訪問があっさりと終わった理由が理解できた――」


 ジェダは乾いた声で言って、腕を組んで壁に背を預け、


 「――とれる行動はそうない。呼び出しを無視してここに居座るか、応じて少しでも早く戻ってくるか。だがご丁寧にも、王女の招きに名がないアイセ・モートレッドや、シガを護衛役兼、ムツキ司令官からの表彰推薦として派遣するという通達されてきた」


 シュオウは驚いて息を飲み、

 「シガもか――あいつは俺が個人で雇っているんだぞ」


 ジェダは溜息を吐いて、

 「正論は通じないさ、この企みは間違いなくゼランの用意したもの。この呼び出しを利用して、僕の息のかかった戦力になりうる人員をここから追い払うのが目的だろう。突っぱねれば命令違反を理由に裁かれるのが目に見えている。それに抗うなら大事になるが、君にも守る者達がいる、無計画に力に訴えるには分が悪い状況だろう」


 シュオウは息を吸い込み、たっぷりと間を置いてすべて吐き出した。言葉を伝えようとして、なにも言うことができなかったのだ。


 ゼランの目的はジュナを見つけ出し、サーペンティア家の手の中に取り戻すこと。だが大袈裟な行動をとって衆目を集めてしまうことは避けたい。両者、手の内の探り合いが始まったばかりのこの時に、サーサリアの用意したこの呼び出しは、シュオウ達にとって大きな不利を招く結果となっていた。


 ジェダの言うように、正当な理由、手続きによって固められたこの企てに、力尽くで抗うには、現状のシュオウはあまりにも身重である。シュオウが個人として雇う兵、そして雑事に従事する者達も皆、選択する行動によって、危険に巻き込んでしまう事になるのは明白だった。


 「彼女は?」


 名は出さないが、ジュナの事を指しているとジェダには伝わる。


 ジェダは頷いて、

 「伝えてある――問題はないらしい。自分の事は心配するな、と」


 シュオウは虚空を見つめ、思考する。導き出した答えは一つ、

 「わかった、行くぞ」


 同じ気持ちであったジェダも、即座に首肯した。

 「時間稼ぎのために大量の手土産を運ばされる事になっている。中庭ですでに支度に入っているころだろう」


 シュオウは早々に旅支度を済ませ、

 「シガに運び込みを手伝わせろ。アイセとシトリは――」


 「僕が伝えてくる」


 シュオウは頷き、

 「俺はクモカリに会って話す。留守の間、皆の事を頼んでくる」


 ジェダは頷いて了承を伝えた。そしておもむろに手巾を取り出し、

 「大丈夫さ、その無愛想な顔を見せれば、きっと殿下も満足して、機嫌良くムツキへ送り返してくれるだろう」


 手巾を受け取ると、ジェダは額を拭くようにと手の動きで伝えてくる。手の甲で額に触れると、玉のように浮かんだ汗が滲んでいた。ジェダはきっと、不安や緊張で脂汗をかいているのだと思ったのだろう。


 だが、

 「……そうだな」


 話の最中、一瞬忘れていた頭の奥の痛みと音が戻ってくる。

 一つずつ、連なりとなって押し寄せる頭痛。それを抱えたまま、シュオウは部屋の扉を強く押し開けた。




     *




 一行がユウギリに到着して後、臨時に王女の居城として利用されているユウギリ領主邸の門をくぐるよりも早く、爆ぜるような勢いで扉を開け、駆けだしてくる者の姿があった。まさしく、現在この邸の主ともいえるサーサリア・ムラクモ王女本人である。その手には、シュオウの持ち物と思しき黒い毛皮の外套が抱かれていた。


 サーサリアの表情は、ほとんど誰も見た事がないほど、喜びに満ちていた。それはよくある平凡な人々が幸せを感じる瞬間に垣間見せる、花が咲いたような笑顔だ。


 「シュオ――」

 サーサリアはそう言いかけて、呆然として口をつぐむ。


 視線は一行の中心に立つシュオウではなく、その側にいるジェダ、シトリ、そしてアイセ、シガ達に釘付けになっている。


 まるで、美しい花が一夜にして枯れてしまったかのように、サーサリアの顔から微笑みが消えていく。


 「なんで……ッ」


 言って唇を噛むサーサリア。そこにいた全員の耳に、その滲んだ染みのような言葉が届いていた。


 サーサリアは指の動きだけで人を呼び、耳を寄せた親衛隊長アマイに、他の誰にも聞こえぬように小さな声で何かを囁く。そして、微かに潤ませた瞳でシュオウを見つめた後、邸の中へと戻っていった。


 縋るようにサーサリアの背に手を伸ばし、その名を呼ぶアマイの声は酷く弱々しい。振り返った顔に浮かぶアマイと視線を交わしたジェダは、王女が残した言葉が、悪質なものであることを察知していた。


 脳裏に、去り際のサーサリアの顔が浮かぶ。ジェダは自身が旅立ちの直前に言った言葉が、酷く楽観的なものであったことを自覚した。




     *




 同じ頃、ミオトとルイは旅を経て、いよいよ城塞ムツキの姿が見えるほどの地点に到達していた。


 「見えたぞ、ルイ。いよいよ目的の地に到着した、思ったよりも楽な旅程だったな」


 「はい。氷長石様にいただいた通行証のおかげです」


 アミュ・アデュレリアの名で裏書きを添えた通行許可証の効果は絶大だった。どこの関所砦でも、聖輝士の服装に強い警戒心を持たれたが、用意された物を見せると、少し間を置いて通過が許可される。しかしそれも万能ではなく、ムツキへ入るまでの経路には厳しい制約が設けてあった。所定の拠点を指定された通りの順に通過しなければ、即敵対行為とみなし適切に処断せよ、と裏書きに付け加えられている。恐ろしい内容だが、しかしルイは、まるでリシア教圏で信徒達が行う聖地巡礼の際、各地の巡礼を証明するために押される印を思い出し、ほんの少しだけこの行程を愉快に思っていた。


 ルイの思いをよそに、ミオトは常よりも高揚した様子で、

 「ついに、あの男に借りを返せる」

 キラキラと輝く隻眼で、遠くに見える堅固な城塞をうっとりと見つめる。


 「ダーカ隊長、どうかお忘れなく。あそこは我ら聖輝士隊が参戦した戦、その敵本拠地なのです」


 「みなまで言うなルイ。敵とはいえムラクモは洗練された大国だぞ。大山麓の蛮族でも、鬼を崇める褐色の僧徒共でもない。敵であっても礼ある訪問には、相応の礼を持って返すにきまっているさ」


 「……だと、よいのですが」


 ミオトは妄想を巡らせるように空を見やり、

 「きっと驚くだろうな、あの教皇聖下よりの直々の謝礼状に報奨の品々だ。これだけで生涯に燦然と輝く栄誉となるッ」


 「……そう、でしょうか」


 シュオウという名の件の男、容姿は北方の面影を強く持っていたが、おそらくリシアの信徒ではないだろう。であれば、異教の教主より与えられる物にそれほど喜びを感じるかは疑問である。

 きっとあの男は、目の前に現れたミオトを前に、別の意味で驚くことになるはずだ、いったいなにをしにきたのだろうか、と。


 ミオトは何一つ不安の気を持たぬ様子で、

 「どうだルイ、恩人との再会、お前も心が躍るだろう」


 ルイはミオトの顔を懸命に覗き込み、

 「叶うならば、今からでも引き返した――」


 「よろしいッ、さあいくぞ!」

 ミオトはルイの視線を斬り捨て、颯爽と馬を駆り出した。


 「あ……いつつ……」

 ルイは胸の下に感じた痛みをなだめ、ゆるゆるとミオトの後に続くのだった。




     *




 同日、その後。


 「って、あれぇ……?!」

 ミオトの裏返った声は、酷く混迷の色を織り交ぜている。


 「はああああ……」

 がっくりと肩を落とすルイは、紅界の底よりも深く溜息を吐き出した。


 ルイとミオトは石を封じられ、さらに足を鎖に繋がれていた。

 陰湿に暗く、冷たい檻でひしめきあうこの部屋は、紛れもなくムツキの牢部屋である。


 「我々は告げたんだぞ……リシアの特使であり、訪問はただ感謝の意を伝えるためであると。それに見せたんだぞ……あの氷長石様の裏書きも。それなのに……」


 ミオトが叫ぶと、部屋の奥から、

 「またうるさいのが入ってきたか……」

 野太い声の主は、うんざりとした調子でそう言った。


 「ぼおぇぇッ――」

 近くの牢の中で、壁際に拘束されている男が、しきりに嘔吐いている。影の中にあるせいで、その顔はよく見えない。


 また奥のほうから野太い声で、

 「おい、そいつには気をつけろ、病気のネズミを食ったんだ。下手すると伝染されるぞ」


 「うおええ、げぼええ――」


 華やかな楽器が奏でる美しい旋律を聞きながら食事をしたキサラギでの一夜は遠い昔。暗がりから響き渡る、謎の男が絶え間なく嘔吐く汚声を背景に、


 「なんでぇぇッ――!?」


 ミオトの絶叫が空しく牢の中に木霊した。











次回は11月10日、更新を予定しています。

しばらくは一話を分割して投稿をしたいと思っているので、一回の内容が短めになります。

それでは、また次回。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 俺のアスオン君が着々とダークサイドに… 好きなキャラなのでどうにか持ち堪えて欲しいが… [一言] ハラハラしっぱなしの一話だったけど最後のミオトにすごく癒された
[良い点] めttっちゃあおもしろい!次回の話が待ちきれない!
[一言] 更新だって? とんでもねえ、待ってたんだ。
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