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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
75/184

狂態

 狂態






 クロム・カルセドニーという人間にとって、占いと賭け事は、そのどちらも決定権が己の手の内にないという点において、等しく価値のある事だった。


 生じる心地良さの本質は、委ねることにある。


 目に見えない超常の力。宗教という共通認識の下にのみ存在が保証される神。手の届かない未知の可能性に己の行く末を委ねる事。


 日々を運に任せて生きるクロムは、夢と憧れを抱いていた。神や超常に勝るとも劣らない、決定権を委ねる価値のある主君を得る事である。


 本来の主たるターフェスタの領主は論外。矮小な権力者を相手に、敬意は不要。そう判断したクロムは、思うままの行動を選択し、結果として不名誉な仕事を宛がわれることとなる。


 クロムにとってそれは些末な問題だった。輝士、という呼び名に集約された小さな器に興味等なかったからだ。


 狙撃という行いに、クロムは必中必殺を自負していた。

 天を舞い、祈るように放たれる矢の一撃。風を読み、動きを読み、太陽の位置を把握する。弓術は生まれ持つ天分に合致している。


 その時は唐突に訪れた。


 脆弱な獲物を狙う。万全の状況、場所も状態もケチのつけようがない場面に、放った必殺の一矢を片手で止めた者がいた。


 必ず――その確信を越え、片手で運命を覆してみせた一人の男。その瞬間、クロムは自身が渇望していたものを、たしかに見つけたのだ。




     *




 「ああッ、あなたはッ――わがきみッ――!!」


 鉄格子の間に頭をめり込ませながら、捕虜として収容されている男の第一声は、状況に不釣り合いな言葉に出所不明の強烈な熱気を帯びていた。


 痩身だが貧相ではなく、むしろ良く鍛えられた筋肉質な体付きが見て取れる。赤みを混ぜたくたびれた銀髪の隙間から覗く目は、まるで猛禽類のように怜悧で強かな気を漂わせ、シュオウを捉えて微動だにしない。


 独特な風貌の男。一目見て、対面する人物が武技に長けた戦士であることをシュオウは直感する。


 ジェダが一歩前へ出る。首を傾げ、

 「ワガキミ……とは主を指す、我が君――という意味なのか」


 ジェダの投げた疑問に対し、男はしかし一度でもシュオウから視線を外さなかった。


 ぶふう――まるで気の荒い馬のように、荒い鼻息を繰り返す。男はジェダを完全に無視して、饒舌に語り始めた。


 「我が君、お会いできるこの時を生まれ落ちたその日より待ち望んでおりましたッ。このクロムをどうか、どうか! 我が君の下に置き、手足、馬車馬の如くお使いいただきたいッ」


 クロムと名乗った男の左手には白く分厚い手袋が固定されている。血走った眼で鼻息荒く語る男へ、再びジェダが険しい表情で問う。


 「なにか思惑があっての行いであれば、稚拙としかいいようがない。なぜターフェスタの輝士がムラクモの従士に忠誠を語る」


 クロムは相変わらずシュオウから視線をはずすことはない。そして再びジェダの問いかけを無視した。まるで、この男の視界にはシュオウ以外のものがなにも存在していない、というような態度である。


 ジェダは眉をひそめ、対応を問うようにシュオウを見やる。


 シュオウはクロムを鋭く見つめ、

 「俺を知っているのか」


 クロムは残像が見えるのではというほど早く三度頭を振り、

 「存じておりますとも、我が君」

 歯を見せて笑んだ。


 不意にジェダがクロムの首元を掴み、引き寄せた。

 「なぜ彼を我が君と呼ぶ」


 無理矢理に注意を引き寄せたジェダに、クロムは顔面に影がつくほど猛烈に破顔してみせた。


 「天啓なのだよッ――カエル様のお導き、空に放った我が意をその手中に収めたお方、このクロムを捧げるに相応しいッ、すべては運命! 神のお導きッ――」


 ジェダは怪訝に首を傾け、

 「…………なにを言っているんだ」


 集う者達から冷ややかな空気が漂う。後方にそっと身を置いていたアガサス家のレオンが、

 「狂い人では……」

 ぼそりと呟いた。


 シュオウは腕を組み、深刻な顔でクロムを観察する。

 「強く頭を打ったせいか……」

 振り返り、背後に立つ巨体を見つめた。その視線を追うように、皆の目もその人物に集まる。


 「なんで俺を見る……」

 シガは若干の気まずさを隠すように不満げに唇を突き出した。


 不幸な捕虜に対する憐憫と、その責任の所在を追求するような空気が漂いだした、その時だった。


 「そいつは見立て違いだぞ。その男、クロム・カルセドニーはもとよりそんな人間だ」


 牢部屋の奥から、渋く枯れた重い男の声が響いて届く。声の主はこの部屋の主賓である北方の領地バリウムの領主ショルザイだ。


 「クロム、カルセドニー……」


 聞いた名をシュオウは声に出して呟く。その名にはたしかな聞き覚えがあった。はっとして顎をあげる。脳裏に、ターフェスタの市街地で出会った一人の男の顔と声が思い浮かんでいた。


 「この男が」

 先に見える牢の中から、ぼんやりと明かりに照らされたショルザイが頷いた。


 「知っているのか?」

 ジェダに問われシュオウは首肯した。


 「ターフェスタで噂を聞いた。優れた武人……たしか、猛者だとか――」


 シュオウの言葉にクロムは笑みを浮かべて頷く。


 「それは偽りなくこのクロムを的確に表す言葉ッ、さあ、我が君、我が身をご存じとあらばなんなりとご命令を! お望みとあらば、天に馳せ地に潜り、大湖の水ですらすべて掻き出してごらんにいれましょう!」


 舞台劇のような大袈裟な言い回しを繰り返すクロム。必死な形相とまき散らす唾液。異様な態度にシュオウは閉口して肩を縮めた。そしてこの場にいるほとんどの者達が共有しているであろう思いを口にする。


 「……なんなんだ」


 クロムは必死さを増し、腐った油のようにべったりと鉄格子に身を押しつける。


 「我が君ッ、これほど語ってもなお、このクロムの忠誠、未だ信じていただけませんか。今この手にはありませんが、御身への忠誠を証明するため、手土産にターフェスタの価値ある者の首を持参いたしました。そうだ……あの生ぬるくて臭い首はどこにッ!?」


 首、という発言にシュオウは、

 「あ――」

 と思わず声を漏らしていた。


 ジェダがシュオウの顔を覗き込み、

 「心当たりが?」


 シュオウは頷く。そう、たしかに、このクロムという男を戦場で目撃した際、その手に生々しく血を流す人間の首をぶら下げていたのだ。


 ジェダは再びクロムの注意を物理的に引き寄せ、

 「その首の持ち主は誰だ」


 クロムは一瞬破顔し、すぐに表情を萎ませた。

 「ああ……それは……ええと、誰だった、か……」


 ジェダは盛大に溜息を吐いて、

 「時間の無駄だ。まともに相手をすべきじゃない」

 とシュオウに小声で告げた。


 シュオウは頷いて、

 「後回しでいい」

 クロムに背を向けた。


 「お、お、お待ちをッ!」

 撤収の雰囲気を察したクロムが吠えた。


 クロムは拘束のない片手を懐に入れ、そこからなにかを取り出した。


 ジェダ、そしてシガは露骨に警戒の構えをとる。


 クロムは取り出した物を手の平の上に乗せて見せた。赤と黒に分かれる六面の賽だった。


 「……ん?」

 興味をしめしたシガが前のめりにクロムの手の平を覗き込む。


 「見ての通りの二色の賽。我が君、この賽で我が天運を問い、言葉に偽りのないこと、証明いたします。的中のあかつきには、今すぐにこの牢から出していただきたい、ここは老人臭く不快なのでね」


 「おい、俺のことじゃないだろうな」

 奥の部屋からショルザイが声を荒げた。


 相変わらず彼の言う言葉の意味が理解できず、シュオウはどう返事をすべきか困った。


 「なんだ――」

 おもむろに、興味を示したシガが賽を指先二本で摘まみ上げ、

 「――色しかついてないじゃねえか、くだらねえ」


 シガは賽を摘まんだ指先に力を込め、揉みこんだ。硬い賽は粉々に砕け、砂のように床に崩れ落ちる。


 砂状に砕け落ちていく賽を見つめるクロム。目を大きく見開き、喉の奥から人のものとは思えない引きつった音を振り絞る。


 クロムは膝から崩れ落ち、ぶるぶると肩を震わせた。錆びた扉のように、ギリギリと頭を上げると、そこには濃い鼻水を垂れ流す成人男の顔があった。鋭い視線はシガを捉えて放さず、食いしばった歯の隙間から、奇怪な唸り声を発していた。


 「ふんッぬぬぬッ…………」


 異様な気配にシガは珍しくたじろぎ、

 「な、なんだ、文句があるなら――」


 ズイ、と鉄格子の隙間からクロムの腕が伸びた。シュオウはその手を止めるか否か考えたが、指先の形を確認して見過ごした。


 クロムはピンと張った人差し指をシガへ突きつけ、

 「貴様を我が生涯の敵として認めるッ。この仕打ちは忘れない、この愚かな燻製肉柱めッ!」


 睨みつけら言われたシガは上半身を仰け反らせ、

 「に、く――?!」


 どこからともなく、吹き出すような声が漏れる。


 シガは後ろに傾けていた身体を前のめりに倒し、クロムの突き出した腕を掴もうとして手を伸ばした。が、クロムは予期していたように腕を引っ込める。


 「言いやがったな――てめえの立場をわかってねえようだから教えてやる、こっちにこいッ」


 クロムを掴もうとしてシガの太い腕が鉄格子の内へと滑り込む。クロムは壁際へ後退し、シガの手に捕まれないよう、際どい位置から挑発するように、余裕の態度で無精髭を撫でつけた。


 「手のとどかない物を必死に取ろうとする様、頭の中身は野生の獣と同等なようだ。方法を変えず同じ過ちを繰り返す者の事をバカというのだそうだよ! バーカ!」


 クロムに罵られ、シガはまた喚きちらして腕を伸ばす。


 「くそがァッ――言ったことを後悔させてやるッ――」

 シガが鉄格子を二本、両手で掴み力を込めた瞬間、


 「やめろッ」

 シュオウが素早く止める声を挟むと、シガは力を振るう寸前で歯を食いしばり、硬直した。


 直後に聞こえた冷めた声が場の空気に風を通した。

 「隊長……取り込み中にすみません」

 入り口から恐る恐る入ってきたのは、シュオウ隊の一人だった。


 「どうした」

 ジェダがシュオウに代わり、言葉を促す。


 男は頭を下げ、

 「上のお偉いさんが隊長に急ぎの要件があるとかで」


 シュオウは振り返ったジェダと視線を合わせ頷いた。

 「わかった、すぐに行く」


 しかしシュオウが歩き出すよりも早く、

 「おい、待ってくれ、まさかそいつを野放しにしておくつもりか。かんべんしてくれ、うるさくて頭がおかしくなりそうだ」


 ショルザイの悲痛な訴えに、シュオウはジェダを見て、

 「なんとかしろ」

 そう言い残し、一人部屋を後にした。


 ジェダは息を吐いて肩を竦める。


 「あ、あのッ――待って、すこし相談がッ」

 大きな布にくるんだ塊を抱えるレオンがシュオウの後を追って出て行った。


 去って行く背へ焦ったようにクロムが呼び止めるが、牢の前に鬼の形相で張り付いたシガがいるため、身動きがとれない様子である。


 ジェダは腰に片手を当て、

 「ここにいる間、口を開かず静かに過ごしていてもらいたいが」

 クロムに対し、枯れた調子で言葉を投げる。


 クロムは不適に破顔して、

 「断るよ。その言葉に従う理由はなく、その必要も感じないのでね。この不快な場所から出られるまで、このクロムは抗議の声を上げ続ける! どうか我が君のお側に、と!」


 ジェダはそっと息を吐き、

 「なら、いいさ――」

 腕を伸ばし、それをクイと引き寄せる。牢の奥から強風が発生し、クロムの背中に吹き付けた。


 「うがッ?!」

 クロムは強風に流され、鉄格子の隙間にぴったりと身体を押しつけられる。身動きのとれない状態となったクロムの前に暗く大きな影がさした。シガが拳を鳴らしつつ、高みからずっしりと見下ろす。


 「軽くでいい」


 そう言ったジェダの言葉をどこまで飲んだかはわからないが、シガは右腕の肘から上だけを用い、強く握った拳でクロムの顔面を殴りつけた。


 「はぶ――」

 おかしな声をあげ、顎をぐるんと仰け反らしたクロム。風が止み、その身体は糸が切れた傀儡の如く崩れ落ちる。


 「くつわを噛ませておけ」


 話せないように口の中に入れる拷問器具の一種が用意され、ぐったりと鼻血を出して気絶したクロムの口に装着された。


 「バカはてめえだ」

 シガが言い捨て、クロムの腹に軽く蹴りを入れる。


 「はあ――」


 誰よりも安堵したようにショルザイの吐いた溜息が、静かに牢部屋一帯に木霊した。




     *




 「あの、ちょっといいですか――」


 牢部屋を出てまもなく、後をついてきたレオンに呼び止められたシュオウは足を止めて振り返る。


 「ああ……」

 シュオウはその存在を思い出し、ぽつと声を漏らす。


 初め彼が現れた時に大勢の人の勢いに飲まれ、すっかり忘れてしまっていたのだ。請われて牢部屋へ向かう最中も、レオンはずっと側にいたのだ。しかし、彼が抱える大きく目立つ布袋ほどには、本人の存在感はどこか希薄なように感じられる。


 「なにか――」

 彼は初めから布袋と共に要件を抱えている様子だった。聞こうとして口を開くと、


 「ごほん……」

 わざとらしい咳払いがシュオウの注意を引いた。


 後方に佇むのは一人の女輝士。派手で見目の良い貴族らしい容姿のその女は、眉根を寄せて鼻に手巾を当てていた。


 その女輝士をシュオウはよく知っていた。ムツキの司令官に就任したリーゴール将軍の前任地から同行してきた補佐役の一人だ。彼女は大まかな指示を伝える伝令役として、すでに幾度か接触している。


 「ずっと待っていましたので、こちらの要件を優先してかまいません?」


 女の視線と言葉はシュオウではなく、レオンへ向けられている。レオンは顔をこわばらせ、小刻みに頷いた。


 「も、もちろんです、どうぞお先に……また出直しますので」

 言った最後の言葉はシュオウへ向けられていた。

 レオンはがっくりと肩を落として去って行く。


 「仕事ですか」

 慣れた調子でシュオウは女へ問う。


 女は頷き、

 「ええ。詳細は明かせないけど、近々、このムツキは重要なお方をお迎えする事となる。そのため、本日現時点より可能なかぎりムツキ全体の綿密な清掃に取り組むよう、司令官からのご命令です」


 シュオウは訝り、

 「掃除……? 今、からですか……」


 女は腰に片手を当て、

 「そうです、なにか不服がありますか? 従士長」


 シュオウは即座に首を振る。

 「いいえ」


 「よろしい。この命令はあらゆる物事を後に置き、最優先で実行しなさい――後できちんと調べるので、くれぐれも手は抜かないように。塵一つ、ほこりの欠片でも残っていれば反抗とみなし罰を与える――以上です」


 シュオウの返事を待たず、女はさっさと背を向けて歩きだす。高貴な生まれである彼女のような者達にとって、不潔な牢のある通路というのは、鼻を覆いたくなるほど不快な場所のようだった。


 一人廊下に佇むシュオウはしゃがんで地面を撫でた。手の平は黒ずみ、埃や塵がしっかりとついていた。




     *




 「はあ……はぁあ……」


 シトリの零すその溜息を耳に入れた回数は、もはや数え切れない。アイセはうんざりして、


 「そんなに嫌ならやらなければいいだろ」

 と、手にしていたホウキの先を向けつつ言った。


 シトリはその場にしゃがみ、手に持ったハタキをぱたぱたと空中に泳がせ、唇を尖らせる。


 「だってやっと……なのに……掃除なんてつまんなぁい」


 シトリの行動により、ハタキにため込まれた埃が解き放たれる。巻き添えを食らったアイセは咳き込みながら抗議した。


 「やめろ、全部こっちにきてるじゃないかッ」


 シトリは服が汚れることも厭わず、座り込んでぐったりと壁に背を預けた。


 「アイセだって嫌々なくせに……」


 アイセは舞い上がった埃を手で扇ぎ、シトリの前で腰に手を当て、見下ろした。


 「仕方がないだろ、仕事なんだ、嫌も好きもない」


 シトリは目線だけでアイセを見上げ、

 「でも、あいつにやれって言われたとき、むっとしてたじゃん」


 アイセはそっと目線を外し、

 「それは……」


 シトリは身体をずらし、だらけた姿勢で身体を横たえる。

 「もう、なんのアレ。いつもいつも、側に必ずアレが、アレが――」


 怠惰な表情に、苛立ちと怒りを混ぜ、シトリは続ける。


 「――夜中に会いに行った時だって、アレに止められた。会わせてって言ったら、なぜだって。一緒に寝たいからって言ったら、正気なのか、だって……うざ」


 アイセは険しい表情で、

 「まったくいつのまにそんな……だいたい、サーペンティアの公子をアレ呼ばわりするな。あの家に下手に睨まれでもしたらお父上が泣くぞ」


 「べつに、家のことなんてどうでもいいもん。はあ――」


 シトリはまた大袈裟に溜息を吐き、いつになく目尻を尖らせる。


 「――がんばったのに。もっと一緒にゆっくりして、褒めて欲しかったのに……アレがいない時に」


 アイセは掃除の手を継続しつつ、

 「シュオウは実質、ここの運営の取り仕切り役だぞ。兵の訓練もある。個人を相手にのんびりしていられるほど暇じゃないんだ」

 言い様はどこか、自身に言い聞かせるようでもある。


 シトリはバタバタと手足を揺らし、

 「いやッ、どうして側に居られないの? どうしてもっと会いにきてくれないのッ」


 アイセは睨みを効かせ、

 「だから言っただろ、いちいちお前をかまっている暇がないんだ」


 シトリは上半身を起こし、

 「……コレがあるのに……?」

 腕を支えにして、自身の胸元を持ち上げて言った。


 アイセは汚い物でも見たように口元を歪め、

 「真顔で言うな、気持ち悪い」


 持ち上げたモノを降ろし、シトリは自身の髪の先に指をからめつつ、

 「気持ちいいと思うけど」


 アイセは聞き流し、淡々と掃除を進めた。集めた塵の山を見て、


 「しまった、ゴミを入れておく物がないな……」


 その言葉を聞いて、だらけていたシトリがさっと立ち上がった。


 「取ってくる」


 言い残して颯爽と歩き出したシトリの後を追い、


 「ちょ――お前、そのままさぼるつもりじゃないだろうな!」


 振り返らず手を振るシトリへ、アイセは呆れ気味に溜息を吐いた。彼女の性格を思えば、面倒ごとに積極的に取り組むはずがない。


 「……まったく」


 一応、目的の物がある地点を目指して歩いて行ったシトリを確認し、元の場所へ戻ると、つい先ほどまであったはずの塵の山が、バラバラに崩れ去っていた。


 「あれ――」


 風に飛ばされるような場所でもなく、不思議に思うアイセの視線の先に、三人組の輝士の姿があった。ふと、振り返った彼らと目が合うと、鋭く睨みつける敵意を感じる視線が向けられる。かと思うと、何事もなかったように、彼らはすっとその場から立ち去った。


 よく観察するに、崩れた塵の山は、まるで誰かに蹴られたような痕跡がある。


 ――まさか。


 歯切れの悪い気持ち悪さを感じつつ、アイセは再びホウキを手に、ばらけた塵を一カ所に集め始めた。




     *




 「状況は」


 昼の休憩時、シュオウの問いを受けたジェダは曖昧に首を傾け、


 「正門はおおよそ。しかし最後にまわすべきだったかもしれない。人の出入りと風のせいで、完璧な清掃という状況にはほど遠い。他は未だに状況の把握ができていないが、割ける人員を考えれば、たいして進んでいないのは明らかだろう」


 「そうか……」


 シュオウは急遽受けた命令に苦慮していた。シュオウの率いる私兵を主とした隊は、ムツキの大まかな雑用の大部分をまかされている。日々の荷受け、基礎的な清掃や、装備、備品の管理等。それに加え、完璧な清掃状態を保つように、との急な命令をこなすには、日頃の仕事の合間に手の空いた者達を手配し、やりくりしなければならない。


 仏頂面で、シガが卓を拳で叩いた。

 「ここは戦いの地だッ、細かい掃除なんてする必要が本当にあるのか。ほうっときゃいいんだ、そんなバカなことは。それよりも訓練だ、次の戦いに備えて俺が連中を鍛えてやるッ」


 ジェダはまぶたを落として深く息を吐き、

 「いったい誰を鍛えるんだ、皆割り振られた仕事をこなすので手一杯なのに」


 シガは嘆いて首を振り、

 「情けねえ。俺たちは戦士だろう、それが一日中掃除や荷運びなんてな。これじゃあただの労働者じゃねえか」


 「軍人が労働に勤しむことに矛盾はないさ」

 ジェダの返しに、シガは鼻息を落としてそっぽを向いた。


 シュオウが逸れた話を元に引き戻す。


 「とにかく、やるしかない。この清掃任務が最優先だと言っていた。でも、だからといって毎日の業務を止めるわけにもいかない」


 ジェダは頷いて、

 「つまり、皆をいつも以上に働かせるしかない。あまり時間もかけられないとなると効率も重要になってくる。いっそ、この手のことに長けた者に相談してみるのもいいかもしれないな」


 ジェダの思いつきにシュオウは、

 「クモカリならこの手の事に慣れている」


 ジェダは首肯し、

 「適任者だろう。けど、彼は料理場の責任者でもある。別のことにまかせるのなら、そっちがおざなりになるかも。数日は我慢――」


 言いかけで、シガが叫ぶように声を荒げた。

 「だめだッ、絶対に反対だッ」


 シュオウもジェダも、シガがなにに慌てているのかを理解していた。当然、理由は聞かない。


 「もう一人いる」


 シュオウの言葉に、ジェダは一瞬首を傾げたが、直後に大きく頷いた。


 「ああ……たしかに」




 隊に所属するソバトという名の若い男がいる。彼はシュオウの名と噂に引き寄せられてきた者の一人であり、堅実さと経験に裏打ちされた技能の持ち主だ。


 シュオウはソバトの特技を知り、複雑な管理が必要になる倉庫全般の整理、運用をまかせたという経緯がある。


 「ムツキの清掃について、ですか」


 シュオウ、ジェダと向き合うソバトは首を前突き出し、素早く瞬きを繰り返した。


 シュオウは頷いて、

 「今のやり方をどう思う」


 ソバトは気まずそうに首を落とし、シュオウを見上げる。また、隣に立つジェダへ視線を流した。


 ジェダは無表情に、

 「遠慮は無用だ。自分ならどうするか、聞かせてもらいたい」


 ソバトは後ろ頭をかき、

 「……人手を分けて掃除するのは逆に仕事が遅くなる、と思います。何人かをまとめてまず、上にある輝士様方の兵舎から終わらせます」


 すかさず、ジェダは問いかけた。

 「理由はあるんだろう?」


 「あ、はい。生まれの良い方々というのは清潔な性分というものをお持ちで。きちんと綺麗にしておけば、そうそう酷く汚されることはありません。ですので最初にここを終わらせて、最後にもう一度軽く掃除をすれば十分です。次に正門から中庭、裏門までを一気に。ここを出入りする多くの従士、労働者達の足が汚れにくくなります。仕上げに各兵舎の階下を、皆が寝静まった後の夜分に片付けます」


 ジェダは頷きながら話を聞いていた。シュオウはソバトの肩に手を置き、

 「この仕事の指揮を頼む」


 ソバトはきょとんとして、

 「あ……はい?」


 「必要な数を集める。誰か特定の人間が必要ならそれも優先する。できれば今日と明日、二日のうちに目処をつけたい。できるか」


 ソバトは難しい表情でううん、と唸る。しかし、すぐさま照れたように顔を綻ばせた。


 「難しいですが、隊長から見込まれての命令、喜んでやりますよ」


 ジェダが、

 「誰でもと言ったが、料理の担当だけは別だ。餌が疎かになれば、隊の士気に関わる」


 ジェダの言葉が冗談であると気づいたシュオウは微かに笑声を漏らす。


 ソバトは、

 「はあ――」

 と気の抜けた声を返す。そして、何かを思い出したように声をあげた。


 「――食と聞いて思い出した、そういえばクモさんがお二人を探してましたよ」


 シュオウは、

 「クモカリが?」


 「ええ、なんでも、無事に皆が帰還できた祝いの宴会をやりたいとかって」

 伝えたソバトの顔は、わかりやすく期待を大いに含んでいた。




     *




 ムツキは夕暮れを迎えている。


 「この作業が有効な時間の使い方とは思えないね」


 ひっくり返した粗末なバケツに腰掛けながら、芋の皮を剥くジェダが、うんざりとした調子で言った。


 「あら、食べることより大切なことなんてないのよ」


 言って、クモカリはジェダの剥いた芋の皮を回収していく。

 集めた芋の皮を丁寧に水洗いするクモカリを見て、ジェダが不思議そうに首を傾げた。


 「それはゴミだろう」


 クモカリは微笑して首を振る。

 「限られた食材をやりくりしてるんだから、これだって貴重な食料なの」


 ジェダはなおも怪訝そうに、

 「資金なら十分あるはずだが」


 「出入りの商売人が運んでくる物で、いいものはほとんど上に買い取られちゃうんだもの。こっちで引き取れるのは質の悪いものとか、売れ残りとかそんなものよ。それに、無駄遣いしてたらすぐにお金なんてなくなっちゃうんだから。増える当てのないお金は大切に使わなくちゃ」


 ジェダは肩を竦めて、

 「彼は恵まれているな、有能な金庫番に恵まれて」


 クモカリは両手を腰に当て、

 「それ、皮肉で言ってるなら、皮むきの野菜を倍に増やすけど?」


 ジェダは微笑し、

 「まさか――忌憚のない本音だよ」


 そんなやり取りをしていると、シュオウが重そうな箱を担いで持ってきた。


 「――ここでいいか」


 クモカリは逞しい上半身でシュオウの荷を引き受け、

 「預かるわ、ありがとね」


 「ふう――」

 シュオウは汗を拭い、身体を休めた。


 兵舎の一画、十分な広さがある一室で似たような光景が広がっている。調理に勤しむ者、食材を運び込む者、調理をする者。シュオウの隊に属する者の多くが一点に集まり、クモカリの提案した祝勝会のための支度に勤しんでいた。


 シュオウが汗を乾かし、ジェダが担当の皮むきを終える頃、部屋の入り口のあたりで、ざわざわと騒がしい気配が起こった。


 「隊長ッ、副長ッ!」


 大声で呼んだのはソバトだった。声には僅か、緊張の気が漂う。


 「どうした」

 問うたシュオウへソバトが小声で、

 「それが、上の方々が大勢で入り口に……」


 ソバトを含め、部屋の外を気にする皆が一様に不安そうな顔をしている。


 シュオウが外の様子を伺おうとしたとき、険しい顔のジェダがそれを止めた。


 「待ってくれ、僕が行く――」


 言葉に強い意志を感じ、シュオウは黙したまま足を止める。

 不安げな皆をかき分け、ジェダが一人廊下へと出て行った。


 その間、僅かな一時を長く感じ、シュオウは痺れを切らして一歩を踏み出す。すると、ジェダが顔だけを見せ、シュオウと視線を合わせた。その表情から安堵と微かな笑みが浮かんでいる。


 顎をしゃくって合図を送られ、シュオウは要領を得ぬまま部屋を出た。途端、


 「あなたがッ――」


 わッ――という歓声と共に、若い輝士の女が、両手で包むようにシュオウの手を取った。


 「なにを……」


 慌てるシュオウへ、間を置くことなく集った輝士達がシュオウの下へ集まってくる。最初に手をとった輝士の女が言った言葉で、シュオウは彼らがここへ来た目的を知った。


 「あなたのおかげで弟が無事に帰ってこられた。ありがとう――ありがとう――」


 目に涙を浮かべながら語った言葉、それは感謝の念であった。


 集う輝士達がしきりに語る口から、彼らが森に取り残されていた者達の血縁者や思い人、友人であることがわかった。


 もみくちゃの状態で、シュオウの手を握る者、背中をさする者、抱擁を求める者が後を絶たない。皆口々に感謝の言葉を述べ、また賛辞を送る者も多い。


 勢いに押され、よろけたシュオウを支えるジェダが、

 「森から君に救出された者達が、その行いを英雄的な事として伝えたようだ」


 シュオウの手を握った男の輝士が、奥から大きな箱を重ねて持ち込んだ。


 「ささやかだが、君が祝宴を計画していると聞いてね。上から上等な酒や食料を調達してきた。私の婚約者をあの森から救い出して心から感謝している」


 ジェダが室内から顔を出す者達を呼び、荷を受け取らせる。その他にも、次々に持ち込まれた差し入れがシュオウへ手渡されていった。


 彼らの勢いに気圧されながらも、シュオウは送られる言葉と物資に礼を伝え、そのすべてを受け取った。




 「すんごぉい……まるで王様の食卓ね……」


 シュオウへ贈られた差し入れの数々。油の入った肉の塊、贅沢な甘味の菓子、高級な果実酒に乾物、一等の食材、それらが山となって摘まれた卓を眺め、クモカリは感嘆の声を漏らした。


 「凄い量だな、どうしたんだこれ」

 掃除を終え、遅れてやってきたアイセが差し入れの山を前に目を丸くする。


 後に続くシトリが、

 「うわ……太りそ……」


 重い木箱を重ねて運び込んできたシガは、

 「ごく――」

 部屋の隅まで聞こえそうなほど大きく喉を鳴らした。


 ジェダは一人冷静に、

 「小分けにすれば何日分かの食料として使えるな」


 部屋に集う者達の視線が中央に立つ一人に寄せられた。


 「どうするの?」

 クモカリがシュオウへ聞いた。


 シュオウは眉間に力を込め、

 「今日、食えるだけ皆で食べよう」

 そう言うと、外に溢れるほどの歓声が沸き起こった。


 「よしッ――」

 クモカリが威勢良く袖をめくり上げ、

 「――これだけの食材、腕の見せ所ね。あなた達もこっちを手伝ってちょうだい」


 クモカリは大きな腕で振り、軽快に調理の指示を飛ばし始めた。嫌がるシトリの背中を押し、火元のほうへと向かう。その後をアイセも追いかけた。




     *




 クモカリがこしらえた料理が食卓の上に所狭しと並べられていく。元々あった粗末な食材と、差し入れで提供された良質の食材とを上手く融合させ、見事な仕上がりだった。


 そのなかでも一際目立つ風変わりな一品があった。大人の指ほどの大きさの黒い炭の塊のようなものだ。


 料理皿の上になければ、そもそも料理として認識できたかどうかもあやしい見た目のそれは、南山の奥地に生えるスジュという実を粉にして固め、辛みのある香辛料に何度もひたし、ガリガリに焦げるまで焼き続けるのだという。


 「蜘蛛の巣に来たお客さんに南方からの行商人が来てね。食材を渡されて作ってほしいって頼まれたことがあったのよ。スジュの黒焼きっていうらしいんだけど、味見させてもらったらこれが意外と美味しくて――」


 提供された食材のなかに、件のスジュ粉があったのだという。ここでは別の調理法に用いられていたであろうそれを、過去の経験から南方風の料理として仕上げたクモカリは、この場にいる南を出身とするシガへの心遣いであることを強調した。しかし、


 「知らねえな、こんな焦げた炭みたいな料理」


 シガの反応は実に淡泊であった。




 短時間の間に次々と宴の支度は進んでいく。がやがやとした作業から生まれる音が心地よく、シュオウは湯浴みの最中に感じるような心地良さに耳を傾けていた。そんな時、ジェダがやや重みのある声音で語りかける。


 「美酒に豪勢な食事。飲み過ぎ、食べ過ぎれば今後の作業に悪影響をもたらすかもしれない。気を緩めすぎじゃないか」


 シュオウは横目でジェダを見やり、

 「戦いから戻ってすぐ皆休まず働いてくれている。ちょうどいい息抜きになるだろ。明日からまた大掃除で働き通しになるんだ、これくらいはいい」


 ジェダは渋々、

 「そう言うなら」


 シュオウは笑みを浮かべ、差し入れの山からこぶし大の芋を選び取り、ジェダへ差し出した。


 きょとんとして芋を見つめるジェダへ、

 「暇そうにしてるからな。皮むきにはもう慣れただろ」


 ジェダはむすっとした顔で芋を睨みつけ、

 「……ありがたくいただくよ、隊長殿」


 ジェダの手がシュオウの持つ芋へ伸びたその時、横からさっと別人の手が伸び、芋を奪い取った。その手の主を目で追うと、


 「その任務、このクロムにおまかせください、我が君ッ!」


 「…………」


 シュオウとジェダは時を止めたように、目の前の人物を見つめたまま固まった。

 そこにいるのはたしかに、午前のうちに会い意味不明な会話をまくし立てていた捕虜、クロムという男である。にたりと笑みを浮かべながら片手で大きな芋を持ち、逆の手には調理用の小さな包丁が握られている。


 「おまえッ――」

 事態に気づいたシガが大声で叫んだ。

 「――なんでここにいる!」


 シガの声に全員がぴたりと手を止め、クロムを見た。しん、と室内が一瞬で静まりかえる。


 クロムは一人カッカと痛快に笑い、


 「我が君の下へ参上したいと強く念じていた! 忌々しい鉄格子に怒りをぶつけていたら、そのうち一本がガタガタとやたらに揺れるのに気づいたのだ。これぞ神のお導き、このクロムに行けとおっしゃっている。そう判断し、揺れる鉄の棒をはずし、外へ出たというわけだッ」


 「見張りはどうした」


 固い声でジェダが問う。クロムはまた愉快そうに、


 「幸いに誰もいなかったのだ。これもまた神の御意志にちがいなし」


 部屋にいる皆の視線が一点へ集まる。その先にいた老人は、気まずそうに目を動かし、後ろ頭をかいた。赤ら顔から、すでにほどよく酒がまわっている様子である。


 「どうでもいい、とにかく牢へ戻りやがれッ」


 「お断りだ! あそこは暗くて臭い!」


 問答無用でシガがクロムへ飛びかかった。一見考えなしに動いているようで、巧みに卓の上の料理が落ちないよう配慮された動き。シュオウはそこに強いシガの欲と念を感じ取り、密かに感心する。


 クロムはその場にしゃがみ、するりと机の下へ身体を滑らせる。捕獲を試みたシガの手は空振りに終わった。


 「バカに捕まるほど、私はバカではない!」


 シガは血走った眼で歯を剥き、

 「バカはそっちだッ――」


 さらにクロムを狙って手を出すが、クロムは料理の乗った卓を盾にするような動作をとった。まるで、シガが現状に抱える不利を咄嗟に理解したかのような行動である。


 呆然と状況を見守る皆へ向け、ジェダが叫んだ。

 「石は封じられている、捕まえろ!」


 男達が覚悟を決めた顔でクロムを囲み睨みつける。


 クロムはぎょろりと周囲を一周見渡して、

 「現状は不利、反撃を試みたいが」


 ぶつぶつと呟いて、手に握った包丁をじっと見る。その視線がじっとシュオウへ向いた後、クロムはガン、と包丁を卓の上に突き刺し、手放した。


 敵に取り囲まれた現状、武器を放棄するという突飛な行動に、囲む者達の間に戸惑いが広がる。クロムはしかし、卓の上に置かれていた料理の一つに手を伸ばした。


 「うむ――」


 物を見て満足そうに笑む。クロムの手の中にはクモカリの調理した、あの黒い炭のような食べ物が握られていた。


 突如、クロムは自身を囲む集団の一角へ走り込む。捕まえようと手を伸ばす者達を巧みに躱し、手にした黒焼きを振った。次の瞬間、クロムと対峙した者達の首に黒い線が引かれていく。


 破顔しながら次々と黒い線を引いていくクロム。行き先に待ち伏せしていたシガが、大熊の如く両手を広げて待ち構えるも、


 「ほいッ――」


 「おおおッ?!」


 クロムが投げた料理の皿、シガはおかしな声を上げてそれらを必死に空中で受け止める。クロムはその巨体とすれ違いざま、跳躍して素早く首筋に黒い線を引いた。


 「はッは」

 痛快に声をあげ、クロムは笑った。あまりに毒気なく無邪気な笑顔に、シュオウは釣られて微笑する。


 ジェダは一歩前へ出て、

 「笑っている場合じゃない、上に捕虜の脱走を知られれば面倒になる」


 ジェダの手中に周囲の空気を巻き込む風の渦を発生する。晶気の発生から放出へ至る一瞬の間、クロムの動作はジェダの初動を上回った。


 クロムは実を低く屈め視界からはずれる。底を這うように足を突き出しジェダの軸足を絡め取った。背中から倒れたジェダに馬乗りとなり、


 「君、見覚えがあるな……思い出したよ、仕留め損ねた獲物くん。次ははずさない」


 言って、他の者達と同様に、ジェダの首筋に黒い線を引き、両手で弓を引くような動作をしてみせる。


 シュオウはクロムに向かって手を伸ばした。死角からの不意打ちである。が、クロムは即座に上半身を仰け反らせ、回避の道筋をつけた。


 ――こいつ。


 異常なほどの勘の良さなのか、出所の見えない強靱さを、この男はたしかに持っている。しかし、シュオウの動体視力は相手の想像を凌駕する。


 回避を始めたクロムの腕を素早く掌握する。見た目の細さからは驚くほど強い反発。体重を的確に移動させ、自身の重さと相手の回避の動きを合わせて利用する。


 腕をひねる。しかし、ひねり上げるより早く胴体が半回転し、さらに逃れるための力を生んだ。シュオウは膝を押し当て力を強引に押し込める。


 掌握した腕の力がすっと抜ける。


 ――極まった。


 思考が確信へと変わる間際、クロムの身体全体にさらに力が入る。無理矢理に身体を前方へ押し出す動き。自身の身体が壊れることも厭わない力のかけ方。まるで痛みを僅かにでも恐れていない者の行動である。


 シュオウは流れる力をそのままに腕の拘束を緩めた。クロムの上体はするりと拘束を抜けていく。が、その途中、逆側の腕を取り素早く足の関節に挟み込んだ。腕一本を完全に封じられ、クロムは僅かにでも身動きがとれなくなる。


 「素晴らしい――」

 腕を取られ、生殺を握られた瞬間に発したクロムの言葉がそれだった。

 「――なにをやっても勝てない、そんな心地がする。やはり、御身こそ我が主に相応しいッ」


 苦しい態勢から顔だけを持ち上げ、視線はシュオウを射貫くように鋭く定められている。クロムの身体がぶるぶると止めどなく震えている。恐怖からではない、とシュオウは理解していた。


 咳き込み、首を押さえながらジェダが立ち上がる。

 「……根底から狂っているらしいな、処遇を考えなおすべきだ」


 シュオウに押さえ込まれたままのクロムに、黒い大きな影が落ちる。首についた黒い痕をこすりながら、シガが覆い被さるように覗き込んだ。


 「歯を一本ずつ引っこ抜いてから顔面に穴を開けてやるッ」


 が、シガを押しのけ、もう一人の巨体がクロムを見下ろした。


 「これは玩具じゃないの。食べ物で遊んじゃだめなのよ」

 クモカリがクロムの握った黒焼きを取り、顔の前に突きつけて説教を浴びせる。


 クロムはシュオウへ向けていた視線をゆっくりと黒焼きへ向け、

 「……食べ物?」

 呟いた直後、腹がぐうと大きな音をたてる。


 シュオウは、

 「腹が減ってるのか」


 クロムは涎をすすりあげ、二度頷いた。




     *




 「おおおおッ――」


 歓声と喝采が、集団の中心で一気飲みを続けるシガへ送られる。


 喧噪からは一段離れた横長の食卓に、シュオウやクモカリ、アイセとシトリ、ジェダ達がゆったりと食事を口に運んでいた。その中に一人、異物とも言える男、クロムがまるで賓客のように優雅に席を得ている。


 シュオウの横の席に陣取ったクロムは、もごもごと口に入れた物を噛みながら、


 「すまないが料理長、君の料理は私の口には合わないようだ。噛めば噛むほど苦くて臭い匂いが口の中いっぱいに広がる」


 向かい右斜めに座したクモカリは顔色を悪くクロムを凝視し、

 「……それは雑巾よ」


 クロムは、のべっと舌を出し、

 「おっと、うっかり見間違えていたようだ」


 「どうしたら料理と雑巾を間違えるんだ」

 アイセがぼそりと呟いた。


 自分の舌を服の袖で拭うクロムの様を見て、

 「なんかこいつキモい……」

 シトリが吐き気をこらえるように口元を覆った。


 ジェダは不機嫌顔で頬杖をつきながら、

 「当然のように拘束もなく食事をさせているが、すぐにでも牢に戻すべきだ」


 ジェダの心配をシュオウは理解していた。捕虜とした敵国の輝士が脱走し、そのうえでのんきに夕食会に参加させているのを、ムツキの上層部に知られれば、良くて叱責か最悪罰せられることになるだろう。


 シュオウは牢番の老人オガロクを呼び問うた。

 「捕虜について、上の人間が確認に来たか」


 オガロクは真っ赤になった顔を振り、

 「だーれひとり、ちらっとも見にきやしません。お偉方は汚えところには近寄りたくもないらしい」

 そう言っておかしそうに笑った。


 シュオウはジェダを見やり、

 「らしい――気にしている人間がいないなら大丈夫だろ」


 ジェダはクロムを一瞥して、

 「刃を撫でても傷つくだけ――見るからに狂人だ。甘く見るべきじゃないと思うけどね」


 シュオウはクモカリから取り分けられた料理皿を受け取り、

 「囚人にはなにかと縁があるんだ――ジェダ、お前もその一人だ」


 「ふッ――」

 アイセがおかしそうに吹き出した。


 ジェダは、ふんと鼻息を落とし、そっぽを向く。無意識にか、首をしきりに撫でていた。


 「でも、すごいじゃない。ここにいるみんな、あなたが一人でやっつけちゃったんでしょ」


 クロムは胸を張って鼻を高く持ち上げ、

 「その通りッ」


 ジェダがクロムを睨めつけ、

 「周囲には巻き込むことのできない者が多く居た。能力を発揮しきれない状況で加減をしたんだ。安易に打ち負かしたと考えるのは浅はかだ」


 クロムはジェダを睨み返す。しかし顔には微笑が浮かんでいた。


 「それはこちらも同じこと。ここにたむろする者達を我が君の擁する材であると判断すればこそ、こちらも手を抜いて戦ったまで。我が意を纏った風と適切な武器を持てば、相応の戦果を得られていたはず、と宣言しておこうッ」


 「風使いなのか」

 シュオウが呟いた。


 クモカリが手を叩き、


 「あら、風を操る輝士ならうちにも二人いるじゃない。同じ物を持って生まれたんだから、言い争ってばかりいないで仲良くしなさいよ、あなたたち」


 「こんな変なのと一緒にするな! だいたいこの男は敵国の人間なんだぞ」

 アイセが声を荒げて提案を拒否した。


 ジェダは顎を引いて、

 「同意する。そもそもムラクモで風を由来とする晶気に属する者は、彩石を持つ者のなかでも多数派を占める。それだけで仲間意識を持てというのは暴論だよ」


 クモカリは汁物を器に注ぎながら、大きく首を傾げた。


 「ふうん、多数派、ね。あたしには遠い世界の話だけど。でも不思議ね、風を操る力を持ってる人間がたくさんいるって。そんなに偏るものなのかしら」


 ジェダが一瞬思考を巡らせた。


 「彩石はそれ自体が強力な武力となる。武の目的は敵を倒すこと。相手を圧倒するためには強い晶気が必要となる。自然、殺傷能力に長けた晶気を持つ者の血をより多く取り込まれ、今に至る。人はそれを結婚という形で成就してきた。ありていに言えば、より人殺しに長けた力を率先して受け継いできたというわけさ」


 「殺すための能力を受け継ぐために子供を作るなんて、なんだかえげつないわね」

 クモカリは腕を抱えて肩を震わせる。


 ジェダは、

 「遠隔からの切り裂き、行動の抑制、圧殺。これらに長けた風や水、土石を由来とする力は、戦士としての役割を効率よく果たすことができる。それ以外にも土地に根付いた血の特徴もある。南方は肉体を用いた武術を好む。その効果を最大限まで高めるため、身体能力を強化するという石の質を好んで受け継いできたのは頷ける話だ。結果としてシガのような晶気を受け継ぐ者が多数派となった」


 シュオウはジェダの話に頷き、

 「それで、ムラクモは風や水、か」


 ジェダはしかし答えを濁した。

 「どうだろう……現在のムラクモの貴族階層の多数を占める人間は、本来西側を生国とする者達の子孫だ。血の傾向に関していえば、ムラクモのそれは、輝士制度等と共に西方の特徴をそのまま丸写ししたような形になっている。東地本来の形をあげるなら――そう、氷結を由来とするアデュレリア。東地土着の有力家であるあの一族は、その質を混ぜることなく代々地道に受け継いでいる。それに東のアベンチュリン。他にもあったのかもしれないが、時の中で失われてしまった血統も――たとえば――」


 血や彩石に関連した話を、ジェダは持論を交えつつ淡々と述べていく。よく口がまわるのは、先ほどの出来事に関係する溜め込んだ苛立ちをごまかしているようにも思えた。


 「ふあ――」

 話の合間に、シトリが大きなあくびを零した。


 わ――と大きく騒ぐ声があがった。誰かが宴会芸を披露し始めたらしい。皆が手を叩き、身体を揺らす動きから風が起こり、室内に沈殿する酒や食べ物の匂いを舞い上げた。


 夢中でがっついていた食事の手を止めたクロムが、

 「御石の力はすべて神の恩寵。それを選び、より分けることなど、天に唾する愚行といえる」


 ジェダは熱のない視線でクロムを見て、

 「そう、だから北方は不揃いかつ固有の能力者が多い。奇形の晶気、ともいえる」


 クロムはにたりと口元だけで笑みを浮かべ、

 「言葉には気をつけたほうがいい。それは神を愚弄する暴言だよ。もっと適切な言葉があるだろう――個性、という言葉がね」


 ジェダは表情を変えず首を振って立ち上がり、二枚の皿に料理を少しずつ取り分けた。


 「疲れがきたようだ。残りは部屋で休みながらいただくよ。だけど、行く前にこの捕虜についての処遇をどう考えているか知っておきたい」


 ジェダがシュオウへ言うと、皆の視線が集まった。


 シュオウは眉を上げて顔を向けるクロムへ、

 「食べ終わったら、牢に戻って大人していられるか」


 クロムは歯をむき出して破顔し、

 「はいッ、それが我が君のご命とあれば」




     *




 ほろ苦い薬湯の香りが充満する傷病者のための部屋。布ごしの淡い灯りが、寝台で寝息をたてるバレンを照らしている。


 重い寝息がぴたりと止まり、バレンが眠りから覚醒した。


 「……くぐ」


 頭を起こそうとして、身体の痛みに苦痛の声を漏らす。


 レオンは父の背を支えて起こし、

 「無理はされないでください」


 この時になり、バレンはようやくレオンの存在に気づいた。


 「レオ……戻っていたか……こちらは気にしなくていいと言ったはずだ」


 レオンは苦笑いをして、

 「そうも言っていられません」


 バレンは突然に、

 「テッサはッ――」


 レオンは身体を避け、後ろで寝息をたてる姉の姿を見せる。呼吸は穏やかであり、寝顔は安らかだった。


 バレンは安心して溜息を落とす。


 「……取り乱した」


 レオンは優しげに微笑し、

 「無理もありませんよ」


 バレンは枕に背を預ける。寝台の脇に置いてある布の塊に気づいた。


 「どうだった――」


 顎をしゃくって聞くバレンは、レオンは弱り顔で後ろ頭をかく。


 「それが、見せる機を逸してしまいまして……なにかと忙しくしている様子でしたので、また明日にでも出直そうかと」


 「そうか――」

 静かに漏らしたバレンの一言に、どこか気落ちした気配を感じる。しかしすぐに気を取り直し、

 「――ところで、司令官代理は来られたか?」


 レオンは首を振って否定し、

 「いいえ。私が居ない間も、一度も顔を出されてはいないようです…………実はそのことについて、少し気がかりなことが」


 バレンはひっそりと声を落とし、

 「なにかあったか」


 レオンは声の大きさをバレンに合わせ、

 「拠点内を歩いている最中、聞こうとしていなくても、口々に司令官代理に対する厳しい評価が度々耳に入りました。それに……」


 言いにくそうにレオンが言葉を止めると、バレンが厳しく顔相を歪める。軍人然としたバレン・アガサスの顔がそこに在った。


 「かまわん、聞かせろ」


 レオンは喉を鳴らし唇を湿らせた後、

 「朝方の事、食堂前の壁一面に、アスオン殿を名指しした中傷文が張り出されていたそうです。その場で大勢が目撃した、と」


 バレンは苦々しく喉を鳴らし、

 「それは……よくないな……レオ、今がどういう状況か理解できているか」


 レオンは慎重に言葉を選びつつ、

 「軍の士気が低下しつつある、でしょうか」


 バレンは鷹揚に頷いて、

 「もっと言えば、集団が統率者の資質を疑いはじめている。軍においては、こうした状況は致命的な事態を招く事となりかねん。事の重要性は理解できるな」


 「……はい」


 「もとより戦での死は、軍人にとっては覚悟の上。がしかし、指揮官の誤った判断により、不要な死を招いたと思われれば、意に従う者達からの信を損なうことになる。皆命を懸けで戦うからこそ、無能な指揮官の下で戦うことを嫌うのだ」


 「つまり、父上はアスオン殿が指揮官の器にない、と兵達から疑われているとお考えなのですね」


 バレンは首肯し、


 「本来の指揮官たるリーゴール将軍、そして実権をまかされたアスオン殿も含め、戦場の統率には不慣れ。アスオン殿は本来の立場を考えれば、母上の手回しによる大抜擢であることは周知のこと。今回、それが仇となっているのだろう。一足飛びの出世は、結果を伴ってこそ他者からの納得を得られる。今回のこと、狂鬼の乱入時にアスオン殿の下した判断の誤りにより不用意に死者を増やしたことは事実。下につく者達は愚かではない、そうした指揮官の過ちはよく見ているものだ。分不相応な権力を得たうえでの大失敗。となれば、厳しい目を向けていた者達の怒りは際限なく膨れ上がる。それが人情というものだ」


 人の犯す過失のうち、死に関わる事柄は重さを増す。先の戦いにおいて、友や家族を亡くした者達が原因に思いをはせ、悲しみを恨みへと転化させてしまったのであれば、戦場を指揮したアスオンに対して厳しい言葉が飛び交うのも、当然の事態なのであろう。


 バレンは重傷を押して寝台から降り、

 「このまま放置していい問題ではない。指揮官が侮られれば、軍は統率を欠いた無能の集団となる。すぐに空気を整えねば――」


 床を踏んだ直後、バレンは肩を押さえて倒れ込んだ。


 「――ぐうッ」


 「父上ッ――」


 「かまうな、リーゴール将軍にご相談しなければ――」


 レオンは立ち上がろうとするバレンの身体を押さえ、

 「重傷の身では移動だけでも身体に障ります。私が行きます。必ず、父上の懸念を伝えてまいます」




     *




 「アスオンは?」


 アスオンが呼び出しに応じない、という報告を受けたニルナは、自らの足で出向いていた。


 扉の前に暗い顔で立つトガサカは、ニルナと目を合わせ首を横に振る。


 「申し訳ありません、アスオン様は眠っておられるようで……もうしばらくお待ちいただけませんでしょうか、せめて明朝に――」


 ニルナは閉じた扉を睨めつけ、

 「もう十分待った。アスオンッ、ニルナが入る」


 押し開けると、室内には淀んだ空気が漂っていた。暖もなく、無造作に冷え切った部屋は、明かりも灯されず、暗く遺体を置くための地下室のように陰気である。


 トガサカが焦って明かりの支度に駆け出した。

 徐々に明るくなっていく室内に、大きな寝台で横たわったアスオンの姿が浮かび上がる。ニルナはかけられた寝具をはぎとった。


 「いつまでも寝ているつもりだ」


 現れたアスオンの顔。薄黒いクマをつけた目、瞼はしっかりと開かれている。


 「……すみません」

 上半身を起こし、アスオンは言ってニルナから視線を逸らす。


 ニルナは寝台に腰を落とし、

 「失態を悔いるのも、上に立つ者として必要な時もあるだろう。が、今はその時ではない」


 アスオンは顔を逸らしたまま俯いて、

 「すべきことが数多あるとわかっています……ですが、戦の疲れが癒えず、身体が言うことをききません。元々、司令官の任務は代理としての役割でした。申し訳ないと思うのですが、職務についてはどうか母上が――」


 言葉を遮り、ニルナが口を挟む。


 「そのようなことを言っているのではない。もっと重要なことがあると言っている」


 声音に、どこか場違いな陽気さを感じ取ったアスオンが、恐る恐るニルナを見た。


 「なにが――」


 ニルナは目を見開き、アスオンへ顔を寄せた。囁くような小声で、

 「近日、サーサリア王女殿下が、ムツキへ視察においでになる」


 サーサリア・ムラクモは、東方一帯を統べる大国、ムラクモを支配する王家唯一の血筋である。高位にある者達であろうとも、直接顔を合わせられる機会はめったにない。これから後、王家の石を継ぐ事が確定している人物であり、その手中に収める潜在的な権力は凄まじく、まさしく遙か天上から世界を見下ろすような存在だ。


 アスオンは驚いて、

 「まさか、なぜこんなところに……」


 「学びのため、各地へのご旅行の最中だったとか」


 「なら、そのついでの視察、ということですか」


 ニルナは頷いた後、首を傾ける。


 「が、この期を見てのムツキ来訪はただの視察ではない、と私は考えている。戦の最中、この前線の地へわざわざ訪れる理由。間違いなく、初戦の戦果を見たうえでのことに間違いない」


 アスオンは戸惑い、

 「ですが、あのような結果に……とても誇れることでは……」


 「狂鬼の襲来は予期できることではない」

 ニルナが強く言うと、控えていたトガサカが同調する。

 「――そうです、アスオン様」


 「それまでの事は万事上手く運んでいたという。敵軍の指揮官を早々に討ち、邪魔さえなければ初戦を勝利で飾ることもできたはず。そのことはきちんと報告も上がっている。殿下のお耳に入ればこそ、今回の来訪に繋がったのだ」


 「そうで、しょうか……」

 顔を落とす表情に自信はなく、瞳は安定を欠き揺らいでいた。


 「とにかく、よく自分自身を整えることだ。まだ戻ってまともな物も食べていないのだろう。湯浴みで身を清めることだ――」


 納得をしていない様子のアスオンは、曖昧な返事をして顔を落とす。ニルナはその背に手を乗せ、静かに部屋を後にした。




 トガサカへ指示を出しつつ廊下を歩く。常を思えば、その足取りは別人のように軽やかだ。


 「アスオンの見目にはとくに注意を払うように。殿下の件、軍とは離し、リーゴール家として事に当たる」


 「はい……ですがリーゴール家の事とは、ただごとではありませんな……」


 ニルナは立ち止まり、周囲を見回してトガサカの耳を手招いた。声量を落とし、

 「王家の血が細っているのは周知のこと。殿下は適齢を迎えられ、次代の王族も視野に入れた、婿の候補選びに動いていてもおかしくはない」

 

 トガサカは唖然として眉を上げ、

 「もしやニルナ様は、アスオン様がその候補の一人に選ばれる、とお考えで」


 ニルナはにやりと笑みを浮かべる。


 「品行方正にして容姿端麗。若くして軍の出世頭であり、家格も足りる。我が子は殿下の配偶者としての条件をすべて備えている。この度のターフェスタとの初戦、きっとその成り行きをお耳に入れられ、アスオンに興味を持たれたのだろう」


 トガサカはそわそわと手をこね、

 「なんということだ。あのアスオン坊ちゃまが王家と……」


 「トガサカ――」

 ニルナは改まってトガサカの肩に手を置き、

 「――件の中傷文、間違っても殿下のお目に入らぬよう厳重に監視せよ。それに、すでに命じてあるが、ここの清掃に不手際がないよう、慣れたお前の目でしっかりと確認を頼みたい。さらに――」


 指示の途中でトガサカが意味深に首を振った。廊下の先から一人の男の輝士が向かってくる。徐々に近づいてくるにつれ姿が鮮明となる。その険悪で下品な面立ちには覚えがあった。


 「アガサス重輝士のご子息か」


 語りかけると、

 「レオン・アガサスです。将軍閣下に拝謁いたします」


 レオンは正式な輝士の礼をとり、一礼した。大仰なその態度から、彼がこの遭遇を望んで来たことをニルナは悟る。


 「いかなる用向きがあってのことか……お父上のことは聞いている。無事に戻ったと知り、喜ばしいと思っていたところだ」


 「感謝いたします。お言葉を伝えれば父も喜ぶでしょう。実は、その父バレン・アガサス重輝士よりの申し出を持ち、代理としてまいりました」


 ニルナは眉を顰め、

 「……ゆっくりと聞かせてもらいたいところだが、今はとても忙しい。また改めて時間をつく――」


 退席を示唆する言葉を並べるより先に、レオンが強く言葉を挟んだ。


 「アガサス重輝士は現状を強く懸念していますッ」


 ニルナは不快げに口角を落とし、

 「万事上手くいっている。いったいなにを言って――」


 「すでにご存じのことと思いますが、ご子息を名指しした中傷文に関連することです」


 ニルナの顔色が冷ややかに落ちていく。


 「その件ならすでに対処を済ませている。アガサス重輝士には、不要な心配はせず、身体を癒やすことを最優先とするようにと」


 レオンは苦い顔で、

 「お話しする時を誤ったのであれば、明日また出直してまいります。どうか――」


 ニルナは声を尖らせ、

 「わきまえなさい、私は不要だと言っている」

 レオンから背を向けた。


 「正式な手続きはこれからだが、本日より、傷病者収容のために解放してある一画は出入りを管理する事とする。アガサス重輝士に予め伝えておいてもらいたい」


 レオンは狼狽した様子で前のめりに身体を突き出した。ニルナの前に、厳しく睨みを効かすトガサカが立ち塞がる。


 「お、お待ちください、それはつまり、封鎖をお考えということですか?! いったいなんのためにそんな――」


 ニルナは肩越しに僅か振り返り、

 「近々、ムツキは非常に重要な人物をお迎えすることとなる。その方の目に怪我人や病人の苦しむ姿を入れることは不敬に相当する」


 レオンは歯を食いしばり、

 「それはつまり、見苦しいと。父も姉も、命を賭してご子息を守るために戦いました。あの傷はその結果に――」


 ニルナは話を最後まで聞くことなく一歩を踏み出す。


 「お待ちください!」


 縋るレオンへ、


 「下がれ。忙しいと言ったはず。用があるなら、次からは手順に従い下の者を通してからにしろ。以上だ――行くぞ」


 トガサカへ伝え、ニルナは長い夜の廊下を歩き出す。その胸中にはすでにレオンの訴えは消えていた。今はただ、急に訪れた幸運の兆しを完璧な状態で迎えることのみ。ただそれだけが気がかりだった。




     *




 ムラクモ王都から遠く離れた領地ユウギリは、異教国家を眼前に置く軍事拠点ムツキに付随する特異な街として知られていた。


 長い年月、侵攻を受ける可能性に晒されてきたここに、安寧を求めて住み着く者は少ない。結果として、ユウギリはまるで川下に位置するように、東方、その他の地より、罪人や訳ありの者達が流れ着く下賎の街としての役割を果たすようになる。


 ここには日々をまっとうに生きる者達に煙たがられる、悪党達の集団が群れ集い、旅人や遊びを目的として訪れる者達に、賭け事や違法な娯楽、薬物等が商われていた。


 歴代の代官達を泣かせてきた堕落の街ユウギリ。

 重いモノは底へ落ち、受け皿のなかで濁りを伴い淀むのだ。


 およそ、ムラクモ王国のなかでこの街にもっとも似つかわしくない人物。唯一の王族たるサーサリアは、夕刻、日が落ちる前ギリギリにユウギリに到着していた。


 身分を隠して粛々と領主邸入りし、ささやかな食事を済ませたサーサリアは、寝所に入り手持ちの衣服ほとんどすべてを盛大に広げていた。


 「これは?」


 服を合わせて問うサーサリアに、親衛隊所属の女輝士が微笑みながら頷く。


 「とてもよく似合っておられます、殿下」


 サーサリアはしかし満足のいかぬ様子で、最上級品の礼服を身体に当て、

 「じゃあ、これ――」


 輝士はまた同じような顔で頷き、

 「大変お似合いでございます、殿下。誰よりもお美しいと」


 サーサリアはまた不満そうに眉をひそめる。その顔が部屋の片隅で身体をほぐしていた南方の公主ア・シャラへ向いた。


 「シャラ……」


 不安げに問われ、ア・シャラは仏頂面を返す。


 「平凡だ、つまらん。お前はここのところ肉がついた。今の身体に合っていないようにも見える」


 サーサリアは意を決したように頷いて、手にしていた服を投げ捨てた。


 「人を呼んで」


 端的で要領を得ない要求に輝士が首を傾げる。


 「失礼ながら、誰を、でしょうか……」


 サーサリアは声を尖らせ、

 「仕立師よ。この街にもいるでしょ、一番腕の良い職人を呼び出して」


 輝士は弱り顔で、

 「し、しかし今からではとても……」


 苛立ちにまかせたサーサリアの顔が怒りの色で染め上がる。王女を守護する親衛隊の者達に、この顔は覿面てきめんに効いた。


 「はい、ただちに……ッ」


 輝士が慌てて出て行くと、代わりの護衛役が部屋に入る。同時に顔を見せた親衛隊長アマイが、こっそりとア・シャラを部屋の外へと手招いた。


 「……なんだ、食後の鍛錬の最中だ。邪魔をするな」


 アマイは溜息を吐き、

 「煽られては困ります」


 ア・シャラは突き放すように、

 「黙れ、私は言いたいことを言う。止めたければ貴様の手で舌を切り裂いてみろ」


 「ただでさえ、殿下は目的のものを前にして一層不安定になられている。服は手持ちの物のなかに適したものがある、と一言添えていただけませんか」


 情けない声で懇願するアマイへ、ア・シャラは真剣に向き合った。


 「アレも馬鹿なりにここまで努力を重ねてきた。念願の成就を目前にしているのだ、このくらいの事は自由にさせてやれ。いまさら仕立屋を呼び出すくらいなんだ、なにをそんなに気にしている」


 対する者のどこか切実な雰囲気を感じ取り、ア・シャラは問うた。

 アマイは重い息を吐き、廊下の窓から見える中庭を示すよう目線を送った。


 中庭には険しい顔をした複数人の輝士達が待機していた。ここまで帯同してきたア・シャラには見覚えのない顔ばかりが並んでいる。


 「あいつらは」


 「近衛軍所属、元帥よりの使者です。長くなっている旅程を切り上げ、王都に戻るように、と」


 ア・シャラは目を細めアマイを見やる。


 「それで、飲んだのか」


 アマイは仏頂面で喉を鳴らし、

 「親衛隊は東地の宗主たるムラクモ王家の意に従う。サーサリア様がムツキ視察を望まれているかぎり、それを叶えるまで戻ることはない……と」


 言葉を聞いてア・シャラは笑み、

 「よく言った」


 アマイはまた溜息を吐き、

 「しかし、いつまでも突っぱねることもできないでしょう。実際、戦地であるムツキへサーサリア様をお連れするなど、本来あってはならないこと。ここへ入られることすら――」


 サーサリアは自らの足で目的の人物の下まで向かうことに意義を見いだしていた。わざわざ開戦してまもない戦地へ赴く危険行為も、忠告を無視して強行されている最中なのである。


 あくまで戦地で戦う兵達の慰労を名目としているムツキ視察も、現地で派手な行いはせず、王女としての務めを果たすことを条件に、アマイは主のわがままを了承した。


 夜の一時に、扉の奥から呑気にあれこれと指示を飛ばすサーサリアの声が聞こえてくる。


 当日の化粧、唇につける色や着飾る装飾品など。サーサリアの思案は当てもなく彷徨う迷い人のように、不毛なほどの迷いと期待を孕んで続いている。


 「ふ――」


 今頃、王女の来訪を知り、慌てふためくムツキの者達を思い、ア・シャラは笑う。彼らはサーサリアの目的が、ただ一人の男に会うためである、と知らないのだ。


 そのことがなぜだか無性におかしかった。

















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