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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
74/184

余燼

 余燼






 寒空は暗く、夜はもう深く奥へとさしかかる。


 暗夜に沈む深界の拠点ムツキ、その一室。こなれた暖炉の灯火がゆるく揺らでいた。


 焼けた薪の匂いと、美味を内包した料理の香りが一体となり、部屋一杯に充満している。


 明かりの色、広がる香りは、この一時が安らかなものであることを告げている。


 しかし、賑やかな食卓には不釣り合いなほど、部屋は静寂に包まれていた。が、


 「――くしッ」


 静寂を破る気の抜けた音が鳴る。シガはかじった骨付き肉の先を、その音を発した者へ突きつけた。


 「棒みたいな身体をしてるから、少し外に出てたくらいで風邪なんてひくんだ」


 指摘したシガへ、ジェダは赤くなった鼻の根を押さえつつ、


 「馬上で冬の空気に晒され続け、降り出した雨をまともに浴びていれば、普通の身体ならこうなる。無駄に膨らませた肉の衣を着込んだ自分を基準に物事を考えるべきじゃないな」


 饒舌に言い返したジェダも、しかし指摘通りその声は鼻声になっていた。


 シガは忌々しそうにジェダを睨めつける。


 「俺の身体がただの肉の塊だってのか。俺がいったい何人の敵を殺したか、見てなかったとは言わせねえ」


 どん、とシガは両の拳で卓を叩いた。


 ジェダは軽く椅子に寄りかかり、足を組んで顎をあげ、睨むシガへ刺すよう視線を返す。


 「自惚れも甚だしい。たまたま自分より弱い相手しかいなかっただけ、大人が赤子をいたぶるのと同じ事だ。それを誇らずにいられないと感じるのなら、なによりも先に恥の感情を知るべきだろうと忠告しておく」


 シガはより一層目元を険しく尖らせて、


 「ほおう――ならお前はどうなんだ、大人か、ガキか? ガキなら偉そうに俺に講釈を垂れるな。大人だって言うなら、いいぜ、俺がただの口だけの男かどうか、直接お前で証明してやっても」


 ジェダは白けた顔を向け、


 「またそれか……馬鹿馬鹿しい――が別に、それが望みなら受けて立つさ。今でもいい、風邪のひきかけでも、それが丁度いい手加減になる」


 そう勇ましく反撃しつつも、そっと鼻を鳴らす。


 尖った犬歯をむき出しに、シガが椅子を飛ばして勢い良く立ち上がる。


 倦怠感すら伴う不穏な空気が漂うが、しかし、


 「はいはい、そこまで。喧嘩をやめないなら料理は全部没収よ――」


 作りたての料理を手に現れたクモカリの仲裁により、荒んだ空気は表面上、急速に沈静化の様相を呈した。


 クモカリは湯気の昇るご馳走を卓に並べ、


 「――あなた達が罵り合い以外で会話してるところ、ほとんど見たことないんだけど。いい加減飽きたらどうなのよ」


 シガは座り直してクモカリの料理に手を伸ばした。


 「俺はただ身の程を知らない馬鹿野郎に現実を教えてやってるだけだッ」


 シガの言葉にジェダは、


 「そのまま返すよ。馬鹿という言葉を、救いようのない大馬鹿、に代えてね」


 「なんだとこのッ――」


 再び歯を見せたシガ、そして静々とそれを睨むジェダ。騒音を厭い、彼らのやり取りを黙って聞いていたシュオウは、渋々口を開いた。


 「うるさい、傷に響く」


 火花を散らしていた両者の視線がシュオウへ向く。それが一応の終わりの合図となったのか、シガは鼻息を強く落として食事を再開し、ジェダは体勢をそのままに、腕を組んで瞼を閉じた。


 苦笑して肩をすくめるクモカリへ、シュオウは惚けた顔で首を真横へ傾けた。


 深界の森の中、取り残された者達を救出して戻ったシュオウを、クモカリは仲間達と共に出迎えた。


 現在、小さな食堂で開かれている食事の席はクモカリの用意したものである。ささやかな残り物でいい、と願ったが、しかし次々と並べられる作りたての料理を前にすれば、その言葉が馬鹿馬鹿しいと思えるほど、すべてが周到に用意されていたと知る。


 このご馳走の数々は、友の無事な帰りを喜ぶクモカリの気持ちそのものであろう。


 「――二人は?」


 二人、と言えばクモカリは即座に察してくれる。アイセとシトリの両名は、それほど二人で一組の印象が強くあるからだ。拠点へ戻ってからこれまで、出迎えの中に二人の姿はなかった。落ち着いた今になり、彼女達が駆け寄ってこなかったことを不思議に思ったのだ。


 「途中までは待ってるって言って下の通路で座り込んでたんだけどね。当然なんだろうけど、二人とも凄く疲れてたみたい。あまり時間もたたないうちにお互いに寄りかかって眠ってたわ。大丈夫よ、きちんと暖かい部屋に運んで寝かせておいたから」


 優しく微笑みながら説明するクモカリの顔を見て、シュオウはほっと穏やかな溜息をついた。


 「そうか――二人ともよくがんばってくれた。おかげで全員を無事に連れ帰ることができた。だから、早く礼を言いたかった」


 「ちゃんと帰ってこられたんだし、いまさら挨拶が遅れたからって怒るような仲でもないでしょ。明日ゆっくり気持ちを伝えたらいいのよ」


 シュオウは笑んで頷き、

 「そうする――隊の、皆の様子はどうだった」


 ムツキに戻ってから、自身の隊の者達全員の顔はまだ見ていない。慣れない戦で疲れ果て眠りに落ちる者。戻って早々、自身の役割に従事する者など、彼らも各々に使命や役割がある。誰一人欠けることなく戻っていることはジェダから聞いていても、やはり心配は尽きなかった。


 問いかけにクモカリは、

 「まあ、それぞれね。平然としているのやら、ぐったりしてるのやら。全員それなりに疲れてる様子だったけど、当然だもの。そっちも心配はいらないわ、むしろ――」


 クモカリは言いかけて突如表情を曇らせる。


 「――誰よりも酷い状態で戻ってきたのは、シュオウ、あなたよ。明日になったらちゃんとお医者に見てもらってちょうだい。いくら治療を済ませたからって、あたしみたいな素人の手だけで終わらせていいような傷じゃないんだから」


 シュオウは気まずそうにクモカリから視線を反らし、

 「大丈夫、少し休めばこれくらい――」


 とげのある声でジェダが割って入る。


 「大丈夫じゃない。外から見ただけでも痣や打撲、切り傷だらけじゃないか。言い張るから今日の所は後に回させたが、明日は起きてすぐにでも、ここで最も腕の良い人間に君を診させるつもりだ」


 シュオウは不快感をたっぷりと表情に込め、

 「他の怪我人だけで手が足りてないんだ、余計な事で仕事を増やさなくていい」


 また反論を述べようとジェダが口を開けた時、シガが横槍を入れた。


 「ほっとけよ。その程度の事で死ぬような軟い奴なら、とっくにのたれ死んでるぜ」


 ジェダはシガを冷たく睨み、

 「自分の鈍さを基準にものを考えないでくれ。少なくとも彼の身体は、君のそれより繊細にできているはずだ」


 シガはつまらなさそうに舌打ちを漏らした。


 クモカリが苦笑いを浮かべながら、


 「ひとのことばかり言ってるけど、ジェダ様――あなたも酷い怪我を負って帰ってきたじゃない。明日、シュオウと一緒にお医者に見てもらってちょうだいね」


 ジェダは苦いものでも噛んだように口元を歪めた。


 「僕のそれはすでに適切な処置をすませている。わざわざ医術を受けるほどのことじゃない」


 「はあ――」


 クモカリは溜め息を落とし、


 「――それだってあたしがしたんじゃないの。適当に効くかどうかもわからない薬を塗って布を巻いただけなんだから。あなた達みんな、だいじょうぶだいじょうぶって、子供みたいに駄々をこねてッ」


 シガが料理皿を片手にカッカと愉快そうに笑う。


 「そうだよく言った、ガキみたいってのはその通りだ」


 言ったシガへ、クモカリの視線が鋭く尖って突き刺さる。


 「なにを他人事みたいに笑ってるの。肩から背中まで血だらけで帰ってきたくせに。あそうだ、もう一度見せてちょうだい、さっきは暴れるせいで禄に薬も塗れなかったんだから――」


 クモカリがシガの服の隙間から背中を覗き込み、


 「――あ、やだもぉッ、やっとこで巻いた包帯がずれてまた血が出てるじゃないッ。ちょっと、一度全部脱いで、ちゃんと処置をさせてちょうだい」


 服を脱がそうと手を伸ばすクモカリへ、シガは転がるように椅子から飛び退いた。


 「ひぃ――俺に触るな、近寄るなッ」


 「逃げるんじゃないの、どうせすることになるんだから、さっさと終わらせたほうがあなたも楽なのよ」


 「この程度の傷、ほっときゃ勝手に治るんだよッ」


 「そんなわけないでしょッ」


 「俺はそうなんだ!」


 巨体の二人がばたばたと部屋の中で追いかけっこを始めると、途端に静かだった部屋が騒がしくなった。


 二人をよそに、シュオウは慎重に椅子に身体を寄りかける。全身にくまなく感じる痛みは、まさに深界で繰り広げた戦いが、死闘であったことを証明している。


 節々から感じる痛みに、不自然な体勢で身体を傾けと、


 ――あれは。


 部屋の片隅に巨大で無骨な大剣が置かれている事に気がついた。血の痕が残るそれは、ターフェスタ軍指揮官の持ち物であったはず。


 「持ってきたのか……」


 無意識の独り言にジェダが反応した。


 「そうらしい、一応の戦利品だ。相応に価値のある物だろうが、敵の指揮官を討ち取った功績への証明ともなる。あの男にしては、珍しく気の利いた事をした」


 「…………」


 戦利品、という響き。そこに本来含まれるはずの喜ばしい気持ちは感じなかった。


 儚げな明かりを受け、大きな影を落とすそれは、この世界に生きた一人の人間の終わりを告げる、ただ悲しい残り香としか思えなかったのだ。


 「……シュオウ、君に一つ言っておきたいことがある」


 真剣な顔で、ジェダが意味深に話を振った。


 「なんだ」


 「戦場でのこと、君の選んだあの策だ。もう一度あれをやると言ったら、その時は本気で反対する」


 束の間、ジェダと無言で視線を交差させ、

 「――理由があるんだろ」


 ジェダはじっくりと頷いて、


 「今回、あの企みはほとんど成功しかけていたと言っていい。だがそれは、敵にとってその行動が不意討ちとなり、虚を突いたからだ。が、一度見られた以上、次に同じことをすれば対策をとられ、集中攻撃を浴びるだろう。一発の晶士の砲撃を凌ぐのも二人がかりでやっとだった。立て続けに狙われれば、鈍足で塊となった隊は意味もなく壊滅する」


 シュオウは椅子に深く背を預け、首をもたげて天井を見上げた。


 「なら……どうやって守ればいい……」


 ジェダはシュオウの視線を追うように上を見やり、


 「これは戦だ、犠牲を厭うのは不毛といえるだろう。が、らしいと言えば、そうなんだろうな。あの発想は悪くなかった。実戦で効果を見ることもできた――」


 ジェダは一つ呼吸をはさみ、


 「――そう……もっと多くの守りに長けた輝士を集めて、大規模で強固な陣を組む事ができれば……それなら戦法として活用するに値するかもしれないな。とはいえ、輝士を馬から降ろす事がそもそも難しい。貴族は利よりも面子を優先する、そういう傲慢な生き物なんだ。長い歴史、文化が育んできた染みを消そうとするのは、並大抵のことで出来ることじゃない」


 「それは、わかる」


 ジェダの言葉に納得し、頷いた。今回、シュオウが選択した戦い方について、その要として指名したアイセは初め、強く拒絶の意を示していた。


 なにがあろうと曲げたくない心情というものは多かれ少なかれ、人は各々に持っているものなのだ。それは時に立場や生まれからも生ずるものであり、常識や不文律など、外的な要因からも影響を受けるものである。


 ジェダが前のめりとなり、


 「それでも不可能ではないんだ。輝士も貴族も所詮は人間。力でねじ伏せれば、信念を曲げて従わせる事もできる――君なら、戦場に立つすべての人間を思うままに従わせる事だって」


 どこか必死に絵空事のような事を真顔で力説するジェダの態度をおかしく思い、シュオウは鷹揚に首を横へと振った。


 「そんな話よりも今は、次の戦いをどう凌ぐかを考えたい」


 ジェダは肩を落として大仰にため息を吐き出した。


 「……考える時間なら十分にある。今回の戦闘では互いに多くの損害を被った。より切迫した状況なのは、開始時点からじり貧のターフェスタの側。もとよりムラクモは領土の拡大に興味がない。戦いを仕掛けてきた張本人が待ってくれと言うのなら、しばらくは国境拠点間の白道も静かになるかもしれないな」


 「このまま休戦になるかもしれないのか」


 「さあね、可能性の一つを言ったまでだ。結局のところ、大局での決定権を持つ上の人間達次第だろう」


 「そうか……」


 とりとめもなく、シュオウが考えを巡らせていると、


 「初戦から無事に帰ることができたんだ。今この場で考え込む必要はない。しっかり休息をとり、それからまた、僕も一緒に策を練るさ――」


 ジェダは微笑し、視線を外して追い押し問答を繰り返すクモカリとシガを見た。


 「――いつどんなときでも、下品でうるさい獣男だな」


 辛辣な評のわりには、ジェダの視線は柔らかい。


 「あいつが側にいるだけで、初めて戦場に立った時とはまったく感覚が違った。ただ暴れるだけじゃない、敵の目を惹いて、考えながら戦っていた。本当に役に立ってくれた」


 「過大評価の極地だね……でも、あの大食らいが君が帰ってくるまで食事を我慢していた、とか。そんな風にはまったく見えないが、多少なり心配していたのかもしれないな」


 クモカリの追撃を躱しつつも、器用に食卓の料理を一皿ずつかすめ取り、たいらげていくシガの姿がおかしく、シュオウは笑った。


 皆が容姿や態度を怖がるシガへ、家族のように気軽に接するクモカリを見る。


 ひげを伸ばし、化粧をしていない顔では、初対面の時からはまるで別人のようだが、内に秘めた大らかで優しい心根は、変わらずそこにあった。


 食事の世話だけではない。怪我人の治療、彼らの世話。内助として働く者達を上手く指揮して、まとめ役もこなしている。


 「クモカリ」


 シュオウの呼びかけに、クモカリはその場に足を止め、


 「――ん?」


 「みんなの世話をしてくれてありがとう。お前が後ろにいてくれるだけで安心できる」


 わずか、瞳を潤ませたクモカリは目元を指で一線撫で、穏やかな微笑をシュオウへ返した。




     *




 深夜、自室に戻ったジェダをジュナが出迎えた。


 「おかえりなさい、ジェダ。やっとゆっくりできそう?」


 「ただいま、姉さん。あとはもう、寝るだけでいい――」


 ジェダは言って、長椅子に倒れるように寝そべった。しかし、肩を押さえて苦しげに喉を鳴らす。


 「痛いの?」


 「……ここで強がってもしょうがないから正直に言うよ。腕を動かすだけでうずくまりたくなるくらいにはね。高まっていた気分が落ち着いてきて、今更怪我の程度を自覚してるところさ」


 心配そうに無言で見つめるジュナへ、ジェダは薄く目を開いて微笑みを返した。


 「大丈夫だよ、夜が明けたら治療を受けるつもりだ。けど、僕よりも先に彼を診させてからになるだろうけどね」


 「そう――」


 ジュナは不安げに眉を下げ、胸の前で拳を握る。


 「――あの人は大丈夫? 帰ってきたときの状態はあまりよくないと聞いたけど」


 ジェダは鷹揚に頷いて深く溜め息を吐いた。


 「……無茶をしていると思っても、たいした怪我もなく涼しい顔で戻ってくると思っていたんだ。実際に酷い状態で戻ってきた時、その姿を見て安心よりも不安が勝ったよ」


 「でも、無事に帰ってこられたでしょ」


 「ああ。森で死ぬはずだった大勢の人間も連れ帰って、ね……」


 「残念そうに言うのね。けれど、それはすごいことでしょ」


 「そうだね。だけど、戦場で勝利を決定づける栄誉には及ばない。あのまま狂鬼の邪魔が入らなければ、彼とその隊の上げた成果は、大勝への大きなきっかけになっていたかもしれない。敵の主力部隊の一つ、リシアの輝士隊を退場させ、敵陣深くに砲撃を加えて大軍の士気を乱した。早々に指揮官を討ち取った事も含め、それらの功績はすべて彼のものとなるはずだったのに……」


 話を聞いてジュナは励ますように微笑した。


 「器に水を注いで、途中でそれを止めたとしても、それまでに入れた水がなくなるわけじゃない。したことをきちんと周囲に知ってもらえれば、全部がなかったことにはならないはず」


 ジェダは首を動かして惚けた眼でジュナを見た。


 「僕も同じ考えだ。今回の事、裏側から盛大に喧伝し、世に知らしめる」


 ジュナは眉をくねらせて苦笑する。


 「やりすぎると騒ぎになるわ。あの人はそれを喜ばない」


 ジェダは首を戻して虚空を見つめた。


 「つくづく、無欲だからね。もっと欲しがるべきだ。手の届く物すべてを掴み取ったっていいのに。今はただ、待つしかないんだろうな。くるかどうかもわからない、その時――を――くしッ」


 盛大にくしゃみをしたジェダへ、ジュナは手元にあった予備の毛布を放った。


 「今日はもう眠って。お話はまた明日。しっかりと身体を温めて。風邪をひいてしまったら、したいこともできなくなるから」


 ジェダは、

 「そう……だね……さすがに、疲れた…………」


 時をおかず、ジェダはすぐに寝息を立て始めた。


 「少し、いい?」


 天井へ向けてジュナがそう声をかけると、


 「すた――ちゃきッ――」


 天井の陰から音もなく飛び降りたリリカが、かかとを合わせて真っ直ぐに立ち、両腕を組んで横向きの姿勢から顔だけをジュナへ向けた。どういう意図があっての体勢かはわからないが、これは彼女固有の美的感覚からくる行いなのだという。


 「話は?」


 リリカは、

 「――こくり」

 と言って頭を落とす。


 「また、お願いがあるのだけれど」


 リリカは焦点のわかりにくいぼやけた瞳をジュナへ向け、

 「推測するに、ムツキ内部で、先ほどの話を広めてこい――というところでしょうか」


 「その通り。ジェダの負担を少しでも減らしてあげたくて」


 リリカはかしまって、


 「そのことで、報告を上げます。森から救出された方々が戻ってから、すでに拠点内はシュオウ様の話で持ちきり。この後にあえて火を煽る必要があるか、疑問に思うほどに」


 「本当に?」


 「上から下まで隙間なく、そのお名前が囁かれています。現時点で噂に対しての反応は大半が懐疑的ですが、実体験を伴う方々が多くいることを考慮すると、それも時間の問題かと。すでに就寝している人間も多く、夜明けと共に騒ぎはより大きくなるのではないかと」


 「そう――敢えて言って回る必要がないほど、大きな事をしてこられたのね」


 リリカは微かに首を傾け、

 「お嬢様のご想像の通りのご活躍だったのでは」


 ジュナは重く視線を沈め、


 「それ以上よ……あの人は、目の前にある不幸を放っておけない。命がけで他人を助ける行いは、見る者によって、戦いに勝つ事よりもずっと尊い行いに写るはず。今回のことでむしろ、その名声はより高まることになるのかも……過剰に……不必要なほどに」


 最後の一言は消え入りそうなほどのささやきだった。寝息をたてるジェダを、ジュナは目を細めてそっと見つめる。無言のまま力を込めて引き結ぶ口元に、一つの思いを噛みしめる。


 「筆記道具を」


 ジュナの願いにリリカは頷き、

 「いそいそ……」

 と動作を音で表現しつつ、要望通りに用意を終えた。


 ジュナはさらさらと紙に文字を綴り、

 「お願いがあります――」

 そう言った声は、押し殺したように静かだが、込められた力はとても強い。


 「お嬢様が望まれるのであれば。話を広めてくるくらいのこと、難はありません」


 早合点をしたリリカへ、ジュナは首を振ってみせる。


 「そのことじゃないの……やってほしいことは、これを、深夜のうちに誰にも見られず、目立つ場所に貼ってくること」


 ジュナは自身の文字を綴った紙を掲げ、表をリリカへ見せる。そこに書かれた文言を見てリリカは声を詰まらせた。


 「え……は……? 本気、でしょうか……」


 ジュナは首肯し、

 「はい」


 リリカは心底、不思議そうに眉をひそめ、ジュナから紙を受け取り、そこに書かれた文字を幾度もなぞるように凝視した。


 「改めて申し上げますが、私はアデュレリアより貸し出されたもの。一時的であれ、お嬢様は現在このリリカの主様であり、可能な限りお力添えをする覚悟でいます。ですが……これになんの意味があるのか、理解できません。意味のない行いを強制されるのであれば、それはただの嫌がらせ。拒否権がなくとも、不満は訴えます」


 リリカは頑固そうに口角を下げ、抗議を込めた視線をジュナへ投げる。


 ジュナは淡々と微笑を返し、


 「私はあなたにとても感謝している。色々な事で助けてくれて、ここではない戦場で起こった事も、すぐに調べて教えてくれる。そんな有能で優しいあなたに、理由のない事を頼んだりしない。でも、この事の意味をいま伝えられるほど、たしかな事はないの。ただ――そう、試みに、種を蒔いてみたいと思っただけ。嫌ならそう言って。あなたがしたくない事を無理にさせたいとは思わない」


 リリカは不信を込めた表情で、紙とジュナの顔を交互に見やる。


 「……わかりました。リリカはいち下僕としてそれらしく、ただ言われたことをそのままに実行いたします」


 視線を外して言うリリカの皮肉も軽やかに躱し、ジュナはぽんと手を叩いて、


 「ありがとう。それなら、もう少し待っていて――」

 そう言って、続けて別の紙にもすらすらと文字を書き付ける。


 行儀の悪さを承知の上で、

 「こっそり――」

 ジュナの手元を覗き込んだリリカは、そこに描かれた文言の数々を見て、

 「…………どん、びき」




     *




 仰向けのまま目を開く。覚醒というよりも、眠りにつこうとした時の延長のような感覚がする。


 「アスオン様、おはようございます」


 その一言で、今が朝だと知る。恭しく頭を下げて挨拶を述べたのは、リーゴール家筆頭使用人であるトガサカだ。


 アスオンは上半身を起こし、

 「……おはよう」


 顔を落とし、暗い顔をするトガサカ。鏡を見るまでもなく、アスオンは自身が酷い顔をしている事を自覚する。


 起きて早々、物足りなさを感じた。ここに、友の姿がないことに。

 迷惑なほどに、この部屋に入り浸っていた。深夜まで軍略について語り、飲み食いをしてはそのまま朝になり、床に転がっていたことも一度や二度ではない。


 ――イレイ。


 心の中でその名を呟くと、

 「ッ……」

 胸に焼けるような痛みが走り、同時に目眩を感じるほどの吐き気を催し、むせるように咳き込んだ。


 「アスオン様ッ」


 トガサカが心配そうにアスオンの背を撫で、水を差しだした。


 ぬるい白湯を流し込み、アスオンは絶え絶えの息で、寝台に身体を横たえる。


 「友を見殺しにした。あれほどの惨いの死を、むざむざと、僕は……」


 虚空を見つめて苦しげに言ったアスオンへ、トガサカは膝をついて、

 「狂鬼の襲来は天変地異と等しく、深界においての常でございます。不幸な事ではありますが、ご自身を責めてはなりません」


 「大勢が死んだんだ。イレイも、シオサ家の輝士達も。副官であるアガサス重輝士やその子息らも、森の中に置き去りに……今頃彼らは……」


 苦しげに拳を握るアスオンへ、トガサカが神妙に、絞るように声を出した。


 「アスオン様……その、一つご報告をお伝えしなければならないことがあります。夜のうちにお知らせしたかったのですが、ニルナ様より眠らせておくようにとの指示を受けまして」


 含みのある言い方に、アスオンは問いかける。


 「いったいなにを……」


 「その……今のお話に名の上がったアガサス重輝士について、そのご子息とご息女、その他複数の輝士、従士らが救助され、昨夜のうちにすでにこのムツキへ生還されています」


 爆ぜるように顔を上げ、アスオンは目を見開いてトガサカを凝視した。


 「本当に……? どうやって深界の森から……あのとき、たしかに狂鬼の群れに追い立てられて――」


 トガサカは大きく喉を鳴らして唸り、


 「まったく、理解に苦しむ話なのですが……あの、件の年若い従士長、大きな眼帯をした若造が、アガサス重輝士達十数名を、単身で救出し、連れ帰ってきた、とか」


 疲れと寝不足の身体に、激しい驚きは毒となって全身を巡る。目眩を感じ、アスオンは背中から倒れ込むように壁に寄りかかった。


 「アスオン様、お気を確かにッ。きっと何かの間違いです、歴戦の輝士や戦士達を差し置いて、ただの若造が一人で彼らを連れ帰ったなど、到底ありえない話。話が伝わるうちに尾ひれがついたに違いありません」


 駆け寄ってくるトガサカへ手のひらを差し出し、


 「……大丈夫、いいんだ。たしかに信じがたい話ではある。でもとにかく、彼らが無事に帰ってこられたなら、それは良い知らせだ……アガサス重輝士のご様子は?」


 「お怪我を負われているようです。それ以上のことは把握できておりません」


 「わかった……すぐに着替えの支度を頼みたい。急ぎ、アガサス重輝士を見舞いに行く」


 「はいッ、ただいますぐにご用意を――」


 整えられた重輝士の軍服を纏い、それ以外は最低限の身支度を済ませて、傷病者のための区画を目指し、アスオンは早足で向かった。


 途中、すれ違う者達と挨拶を交わそうとするが、しかし彼らのほとんどが、まるで気まずい状況に耐えかねたように露骨に顔を背けるのだ。


 漂うおかしな空気を嫌でも察するようになった頃、道中にさしかかった貴族階級のための食堂の近くに、人だかりができていた。


 道を開けてくれ、と頼むまでもなく、アスオンに気づいた輝士達が、驚いて飛び去って行く鳥達のように散っていく。


 人だかりのなかに、すっぽりと開いた道。まるでそこへ行けと導かれたかのように、アスオンはこの場に大勢を釘付けにしていた根源へと向かう。


 そこは一面大きな壁際に、通達事や献立などを貼り付ける掲示板が置かれている場所だった。その掲示板からはみださんばかりに、なにか大きく文字の書かれた紙が無数に貼られている。


 中心にある一枚、そこに書かれた言葉を目に入れた時、アスオンの身体の芯に、凍えるような怖気が走った。


 『無能の指揮官、リーゴール家の卑劣な愚か者。友を捨て、部下を置き去りに、ひとり無事に逃げ帰る』


 筆致は繊細かつ美麗である。そんな文字で、流ちょうに綴られていた文言は、アスオンに対する誹謗中傷だった。


 母の力で得た過ぎた役。浅慮により大勢を無為の死へ追いやった。無能、愚劣、鈍才、愚か者。思いつく限りの悪口、罵詈雑言が複数の紙に書き付けられ、隙間なく晒されている。


 浅くなっていく呼吸、胸に圧迫感を感じながら、アスオンは拳を握りしめる。


 ふと、横目に見た女の輝士と目が合った。暗い目元は腫れ、涙を流した跡が見受けられる。頬の肉は尖ったように持ち上がり、眉間に皺を寄せるその顔――――彼女は怒っていた。


 「あ……の……」


 彼女を知っていた。戦場に立つよりも前、ムツキの中で頻繁に声をかけられた。意識せずとも、異性として好意を寄せられていた事を自覚していた。彼女は朗らかな笑みをいつも浮かべていた。が、今はもう、その面影を見いだすことはできない。


 アスオンは労いのため、状況に相応しい神妙な表情を作ろうとした。だが、意思に反して、顔面には引きつったような醜い笑みが浮かぶ。


 「ぶ……無事で――」


 言葉をかける途中、相手はまるで汚いものでも見るような蔑んだ視線を残し、背を向けて早足でこの場を去った。


 ひそひそと、微風に揺れる林のように囁き声が重なって広がる。


 周囲に居並ぶ者達を見やり、

 「み……皆……」

 視線を合わせるより先に、各々が苦い顔で背を向ける。


 人の多さからはありえないほど、場がしん、と静まりかえる。咳の一つですら、発する者は誰もいない。


 誰一人顔を合わせぬまま、皆がこの場をそっと去って行く。その光景は、アスオンにとって未知のもの。人の手足を笑いながら引きちぎる化け物の群れの中に立っている時の恐怖とも違う、人生の足場が根底から崩れ落ちていくような、底冷えするような感覚だった。


 誰も居なくなった後トガサカが、

 「くッ――だ、誰が、このような浅ましい行為をッ」

 怒りにまかせ、貼り付けられた紙を力任せにはがしていく。


 足下に落ちた一枚の紙を拾ったアスオンは、中身を見つめ、それを強く握りしめた。


 真っ直ぐに張っていた背中が弓のようにしなって曲がっていく。頭は重く、顎は下がり、目は足下しか見ていない。


 逃げ出すように、アスオンは来た道を引き返した。


 「アスオン様ッ、アガサス重輝士のいる部屋はそちらでは――」


 呼び止めるトガサカへ、

 「僕はまだ、戦いの疲れがとれていないようだ。見舞いは、先送りにする……」


 震える声で駆けるようにこの場を立ち去る。

 顔を落としたまま、アスオンは自室を目指した。誇らしく胸を張ってムツキを歩き回っていた日々はすでに遠く、今はただ、他人の顔を見るのも、彼らに見られることも怖かった。




     *




 戦時に拠点へ配置される医師の数は、そこに詰める兵の人数に合わせて増えていく。

 ムツキほどの大きさと重要性を持つ拠点ではさらに、集う医師は二種に分かれる。彩石を持つ者と、持たざる者だ。


 濁石を持つ平民階層の人間にも、医術を生業とする者は当然いる。が、彩石を持つ医師にはまた別の需要があった。つまり、彩石を持たざる者に触れられる事を嫌う者達がいる、ということ。


 ムツキにも、一人の貴族としての生まれを持つ医師がいた。老いてたるんだ頬に、口角の歪みきった偏屈そうな顔。頑固さと歪に尖った自尊心に取り憑かれている。それは求められる高い需要からくる傲慢さが根となっていた。


 貴族を専門に診るこれらの医師達には一つの共通点があった。知識や技術に関して、一般のそれとは酷く隔たりがあり、学問としては狭く閉ざされた常識を共有しているのである。


 寝台に寝かされたテッサ・アガサスの前に立ち、老医師は不快そうに鼻を手巾で押さえた。


 「なんという臭いか、鼻がもげそうだ……」


 老医師が不快感を表明した匂いの元は、テッサにかけられた黒い毛皮の外套が原因である。


 隣の寝台に腰を落とすバレンは、仏頂面で老医師を睨みつけた。

 当然、バレンもこの臭いには気づいている。が、これをテッサにかけたままにしてあるのには理由があった。


 この外套の持ち主である男は、その身を挺して森の中まで救出に来てくれた恩人。それを思うと、不快なはずの臭いは不思議と、まるで嫌なものとして感じず、むしろこの臭いがある種の加護のようにすら思えたのだ。


 老医師は臭いの発生源である黒い毛皮をつまんで顔を近づけ、再び醜く顔を歪めた。その態度に、バレンは言い知れぬ怒りのような感情を抱いた。


 「娘の経過はいかがでしょうか」

 と、バレンが不機嫌に問う。


 老医師は寝入るテッサの目を開き、夜光石を入れたガラス管の光を当てて診察を始めた。


 「まぁ……悪化は、しておらんようだ……が」


 遠回しな言い方にバレンは険しく眉をくねらせ、

 「それは、問題がないということですか」


 老医師は別の医師が書き残した治療経過に目を通しながら、煩わしそうに、ううん、と唸り、顎髭を指の間に通す。所作や表情から、苛立っている雰囲気が伝わった。


 「だいたい……よくわからんおかしな処置をされたものを、この私に判断しろと言われてもだ。なにやら、得体の知れない薬草を飲ませたということだが、それ自体が毒のような物だというではないか。そんな物は下の世界の――それこそ開拓屋や下民の薬師などが好む汚れた代物。そんな得体の知れない治療法、どのような副作用がでるかわかったものではない」


 バレンのこめかみがぴくりと振動する。


 「まったく話が逸れている。どうあれ、現状は回復に向かっているとみて間違いはないのでしょう」


 言葉にはあからさまに棘があり、固くなった声は不機嫌さが隠されることなく、ありのままに表現されていた。


 「父上――」

 背後からそっと声をかけてくるレオン。諫める意味が込められていると察し、バレンは咳払いをして呼吸を整える。


 老医師は怒りを隠そうともせず、歯をむいて首を振り、


 「わざわざこうして診にきているというのに、その無礼な態度はなんだ。私にも医術を修める者としてのやり方がある。待っていろ、これから当家に伝わる秘伝の解毒薬を入れ、得体の知れないものをすべて息女の身体から洗い出してやるッ――」


 鞄に手を突っ込んだ老医師の手を掴み、バレンは相手の顔を目がけて自身の恐ろしげな顔面を寄せた。


 「それこそ、得体の知れない代物――快方に向かっているのなら現状維持が最善。余計な処置は丁重にお断り申し上げる」


 「う……ぐ――」


 バレンよりもずっと老いた老医師は、息のかかるほどの距離で睨めつけられ、


 「――け、けっこうだ。多忙ななか、重輝士の位を考慮して優先したが、感謝されるどころか脅されるとは。後になっておかしなことになったと後悔しても、私はもう知らんからな」


 酷く怯えた顔で捨て台詞を残し、逃げるように部屋から出て行った。


 「父上、やりすぎですよ。相手は爵位持ち。序列のうえではアガサスよりも上位の家柄。恨みを買ってあらぬ噂でもたてられたら」


 レオンの指摘を聞き流し、バレンは鼻息荒く拳を握る。


 「ただ一言、わからないとなぜ言えない。あれではただ難癖をつけにきただけ。すでに医師の処置は昨夜のうちに受けている。大勢の怪我人がありながら、夜に寝室から一歩も出てこなかった人間の手など、いまさら借りたいとも思わん。今頃になってのこのこと――」


 バレンらを含む、森から救出された者達がムツキに戻ってから、本格的な治療に当たったのは、彩石を持たない平民階層の医師達だった。献身的な処置のおかげもあり、テッサは命の心配がない程には容態が安定している。


 「どうしたのですか父上、らしくありませんね。いつもなら、波風を極力立てずにやり過ごそうと尽力されるのに」


 レオンのその言葉に、バレンは怒らせていた肩の力を緩めた。


 テッサの上に置かれた黒い外套を撫で、

 「助かったのは現場での処置のおかげだと、あの女の医師が言っていたな」


 レオンは頷き、

 「そのこと、未だに信じられないのです。つい昨日の事が、まるで夢で見た幻のように感じられて」


 「たしかに。暗い洞窟……いや、腹の中か。狂鬼の鳴き声を聞きながら、そんな場所へ逃げ込み、終わりの時を想って絶望していた。それが今、暖かな部屋で、こうして平穏に過ごすことができている。私もどちらかが夢に見た事ではないかという感覚に陥る。が、我が身についたこの傷の痛みが、すべて現実だったのだと教えてくれる」


 バレンは親指を自身の背中のほうへと向けて言った。


 「そうですね――」


 レオンは真剣な顔で頷き、そしてなにかを思い出したように突如しかめっ面をした。声を潜め、


 「――しかしアスオン殿……リーゴール司令官代理は薄情です。あの方を救い出すため、我々は犠牲となって森に取り残された。命からがらに帰ってきたというのに、未だに挨拶にも訪れないなんて。同格とはいえ、父上は長年をかけ軍に貢献してきた功労の身。命をかけて尽くしたうえ、ここまで軽んじられるいわれはない……」


 常であれば、厳しく息子の言動を諫めるバレンであっても、このときは視線を深く落とし、


 「昨日の今日だ、後処理でお忙しいのだろう。そのうち顔を出されるはず。今はそのときに備え、少しでも形を整えておかねば。懸命に生きてこそ、あの御方の行いに応えることにもなる」


 父の言葉を聞き、レオンは呆けて大きく目を見開く。


 「父上……いま、従士長の事をあの御方、と――」


 はっとして、バレンは口を引き結んだ。


 レオンは微笑して、

 「随分と心酔しておられます」


 からかいの調子であろうレオンの言いように、しかしバレンは神妙に頷く。


 「あの森の中で、すべてが終わっているはずだった。部下を、そして我が子らを、たった一人命がけで救いに来てくれたのだ。そんな人間へ、敬愛の念を抱かずにいられるものか」


 レオンは緩めていた表情を改め、

 「……すみません、お言葉の通りです」


 瞼を落としたバレンの脳裏には、今もまだ焼け付いて消えない男の姿、言葉や所作、その記憶が、たった今目の前で起こっている事のように思い浮かぶ。そして思い出すたび、その姿は後光が差したように神々しくすら感じられた。


 あまりにも刺激的だった不幸の連続。そんななか、常識を打ち破るような方法で救いの手を差し伸べられた。その衝撃が強い刺激となって、自身の心情に強烈に影響を及ぼしているのだということを自覚していても、この感情の起こりを止めることは出来ず、またそれを望んでもいなかった。


 「あの……アガサス重輝士はこちらに……」


 ふと、呼びかける声のしたほうを見ると、部屋の入り口から恐る恐る立っている若い従士の姿があった。バレンは彼を知っていた。森の中に取り残され共に逃げていた集団の一人である。従士は茶色い布でくるんだ何かを大事そうに抱え込んでいた。


 バレンは頭を下げた従士へ頷き、

 「ここだ、入室を許可する」


 従士はまた頭を下げ、重そうに抱えた物をバレンの座る寝台の前に置いた。


 「お休みのところすいません。でも、なるべく早くこれをお見せしたいと思って」


 従士は言って、何重にもまいてある布を丁寧にはがしていく。バレンとレオンは何事かと不思議に思い、それを覗き込んでいたが、しだいに漂ってきた臭いから、そこに包まれている物がなんであるか、思い至った。


 濃厚な獣臭がした。布の奥から黒い剛毛を生やす、あの猿に似た狂鬼の腕が姿を現す。


 「それは、あの狂鬼の片腕……持ってきたのか?」


 レオンが問うと従士は幾度か頷き、


 「帰りの道中、後尾を歩いているときに道ばたに転がっていた物を見つけて。仲間達と一緒に装備に包んで持ち帰りました」


 若い従士は、やや誇らしげにそう説明した。


 「いつのまに……」

 とバレンがしみじみ零し、真剣に片腕を見つめて唸ると、従士が焦った様子で一歩下がって深々頭を垂れた。


 「す、すいません勝手なことを――」


 「いや、かまわん。むしろよくやった。これで、あの事が嘘や幻ではなかったのだと改めて実感できる――これをどうするつもりだ?」


 従士は再び表情を明るくして、

 「もしよければ、アガサス重輝士にもらっていただこうかと」


 バレンは瞼を大きく開け、

 「私に、か。しかし、相応に価値を生む物となるかもしれないぞ」


 深界に纏わる生物由来の品々は、上層界において高値で取引される物も多くある。毛皮や骨、植物などを加工したものは、相応しい対価を用意したとしても、容易に手に入れられない事も珍しくない。


 従士は当然そのことを承知済みだった様子で、淀みなく頷いた。


 「一緒に持ち帰った仲間達と相談して決めたことです。アガサス重輝士は俺たちを見捨てずに守ってくださった。あの場の指揮を執っていたお方がアガサス重輝士でなければ、俺たちのような人間は、すぐにでも肉の壁として狂鬼の前に置き去りにされていたはず。皆、感謝しているんです。ですからせめてこれを貰ってください」


 「…………」


 バレンは黙したまま、置かれた狂鬼の腕を撫でる。体毛は触れただけで跳ね返されそうなほど密度が濃く、その奥にあるはずの皮膚は、ゴツゴツとして異常なほど硬く、尖った表面は、撫でただけで指を切ってしまいそうなほど鋭利だ。


 「ありがたく、受け取ることにしよう。レオ――礼を渡してやれ」


 レオンは、

 「あ……はい」

 寝台の脇に置いた手荷物から硬貨の入った財布を取り出す。確認するように一枚ずつとり、バレンの顔色を見た。


 レオンが取り出す硬貨を見つめるバレンはなかなか頷こうとはせず、考え込んだ後、


 「全部渡してやれ」


 そう言って顎をしゃくった。


 一瞬ためらいをみせたレオンも、すぐにバレンの指示に従う。受け取った従士は驚いた表情で、


 「こんな……礼をしにきたのはこっちで……」


 「正当な対価、と言いたいところだが、それは労いだ。酒、食事、なんでもいい。皆で傷を癒やすことに使え」


 従士は礼を言いながら何度も頭を下げ、退室した。バレンは残された狂鬼の腕をじっと凝視する。しゃがんで共に覗き込むレオンが心配そうに、


 「残す事ができればいいのですが……」


 バレンは難しい顔で頷き、

 「狂鬼のそれは素材として残す事に難があるとも聞く。たしかに、残せるのなら、これを利用して装具などに加工できるかもしれないが」


 考え込んでいると、レオンが咄嗟にひらめいた様子で、


 「そうだ、あの――シュオウ殿に聞いてきましょう。深界に通じているという噂、先の事で事実であると確信しました。このことについても相談できるのでは、と」


 バレンは晴れやかな顔でレオンを見つめる。


 「それは良い考えだ」


 「はいッ。それでは、さっそく持って行きます」


 再び布で狂鬼の腕をくるみ、レオンはそれを抱えて立ち上がる。部屋を出て行く背を、バレンは呼び止めた。


 「待て」


 「はい?」


 「テッサも容態が落ち着き、私もあとは横になり、痛み止めの薬湯を飲み続けるだけ。こっちのことはいい、もしなにか……手を必要としているような事があれば――」


 レオンは意気込みよく頷き、

 「はい、おまかせください」




 重たい狂鬼の腕を抱えながら、レオンは意気揚々と廊下を歩いていた。すると、のっそりと大きな身体をした男が前からやってくる。表向き、ジェダ・サーペンティアの部隊所属となっている傭兵扱いの南方人、ガ・シガという名の男だった。


 巨体と、見るからに均整のとれた体つきから、想像できる優れた能力は、まさしく戦場においてそれを証明するように発揮されていた。それを知る今となっては、以前よりもさらに、この男が恐ろしい存在としてレオンの目に写る。


 自身も含め、アガサス家の人間は恐ろしげな顔相を特徴とする。そのため意図せず他人に恐れを抱かせる事も多いのだが、前からくる件の男については、また別種の恐ろしさが顔相に含まれているように感じられた。


 ――恐い。


 目を合わせただけで殺されかねない、そんな恐怖が全身を震わせる。このまま振り向いて来た道を戻りたくなる衝動をこらえる。輝士の身分にありながら、たった一人の傭兵に対して怯えた態度をまわりに見られれば、それは軍人として、アガサス家の者として、背負うものすべてに泥を塗る行いとなってしまう。


 レオンは露骨に顔を床に向け、ほとんど辞儀をするような姿勢で、この男をやりすごすことにした。が、


 「あ……」


 レオンは右へ行こうとした。だが、対する男、シガはわずかに左へ身体を避けた。結果、二人は廊下で身体を突き合わせるような格好となる。


 ち、と舌打ちが聞こえ、レオンは肩を震わせる。急ぎ、今度は逆の左側へ身体を避ける。だが、


 「あ……」


 シガはまた、レオンが行こうとした方へと身体を避けたのだ。向き合ったまま恐る恐る顔を上げると、高みから見下ろすシガの鋭い眼差しが突き刺さる。


 見上げ、じっと目を合わせた時、レオンは自身の犯した失敗に気づき、酷く後悔した。そう、自覚する通り、レオンは人相が悪い。時として他人から恐れを抱かれるそれも、相手が悪ければ、怒りを買うことになりかねない。


 シガは尖った犬歯を剥き出し、

 「やるのか?」


 レオンは必死に首を振り、

 「やらない!」


 必死に否定し、レオンは廊下の脇へ避け、へばりつくように道を空けた。わずかにでも身体が当たらないよう、まるで枯れた細い枝にでもなったような心地がする。


 横目で鋭く睨めつけるシガの視線をやりすごしながら、レオンは彼が去ったのを確認し、ため込んだ緊張を止めていた息と共に深くじっくりと吐き出した。


 「はあ……恐かった…………」




     *




 ムツキに雇わた平民出の医師がいる。年の頃は三十半ばの女人であり、名をクダカという。


 「幾度も死にかけた――と傷が語っているように見えるのだがね」


 服を脱いだシュオウの身体を診たクダカは、開口一番そう呟いた。


 黒髪を白い布でまとめ、細くつり上がった目と薄い唇。まとう東方土着の装束はアデュレリアの氷服に趣が似ているが、色味は濃い赤を基本とし、模様の在り方も微妙に異なっている。


 彼女を強く推したのはジェダだった。この拠点に滞在するどの医師よりも腕が良いというのがその理由である。


 クダカは毒気なく淡々としていて、それでいて冷徹な厳しさも秘めている。彼女の帯びたそんな雰囲気を前に、シュオウはふと師を思い出し、懐かしい心地を覚えた。


 「酷い裂傷、複数の打撲、怪我の箇所は数えきれんな――しかし傷は寸前のところで奥まで届いていないのか」


 クダカの独り言は呆れたようでもあり、関心したようでもあった。


 「命に関わるような傷は」

 シュオウの隣で直立するジェダが問う。


 クダカは淡々と、

 「それを調べているところだ。仕事に横やりを入れられるのは好まない。黙っていられないなら同席をご遠慮願うことになるよ」


 その生まれから多くの者達が畏怖や配慮を見せるジェダに対し、クダカは物怖じした様子もなく言ってのけた。


 クダカはシュオウの傷を間近で見つめ、


 「初めの処置が良いおかげもあるが、それだけではないな。どの傷も絶妙に急所を避けている。まるで己のどの部位にどれほどの傷を受けるか計算していたような……不適切な言葉だが、美しくすら見える――」


 一人ぶつぶつと呟いた後、なにか気づいたように首を傾け、


 「――この顎の痣は。この傷だけは、他とは違うな」


 「それは――」

 シュオウはタイザとの戦いで受けた傷、そのときの状況を説明する。黙って聞くクダカは、驚いた様子で眉を上げた。


 「聞きしに勝る超人のようだ。昨夜から耳にまとわりつく噂話と、森から戻った当事者達の話を聞いていなければ、今の話を真実として飲み込むことはできなかっただろう。狂鬼の群れをたった一人で討伐したという話は事実なのか――」


 ジェダが大げさに咳払いをする。クダカは首を振り、


 「――話が逸れた。頭が激しく揺さぶられたのであれば、そこを心配すべきだろう。手足の動きに不自由はないか」


 シュオウは首を振り、

 「ありません」


 「目の運びに違和感は」


 「いいえ」


 「ふらついたり、転びそうになったりは」


 「ない」


 「頭痛は」


 小気味よく否を返してきたシュオウは、その問いを受け一瞬の戸惑いをみせる。


 「――少し」


 ジェダが眉をひそめてシュオウを見る。


 クダカは抑揚のない声で、

 「その頭痛は平常時にはないものだろうね」


 シュオウは視線を横へ流し、鷹揚に頷いた。


 「よくない兆候なのか」

 ジェダがクダカに詰め寄るよう問いかける。


 クダカは顎に指を当て、


 「話を聞けば、あって当然の症状とも言える。深刻かどうかは現状を見る限り判断がつかないが、当分の間は安静に過ごす事を勧めるよ。戦の最中、戦士にかける言葉としては実に間の抜けた事ではあるのだろうがね」


 シュオウはジェダと視線を交わす。ジェダはなんとも言えない表情で肩をすくめた。


 クダカは、よしと手を叩き、

 「――傷の処置を済ませよう。レキサ、五番の三色、九番の一色と縫合、消毒の用意を」


 クダカは室内の片隅に一人の少女と思しき人間を立たせていた。彼女は弟子なのだという。レキサと呼ばれたその少女は、身体を隠すようなぶかぶかとした外套を羽織っていた。


 レキサは、

 「はい……お師匠様……」

 と暗く微かに呟いて、各種薬剤を詰め込んだ木箱の引き出しを開く。手際は悪く、どこに指定された物が入っているのかをきちんと把握できていないようだった。


 レキサは包帯や薬を取り出し、クダカに差し出した。大きな外套から伸びる細い腕をすべて覆うほどの布が、ぐるぐると巻き付けられている。その範囲は輝石がすっぽりと隠れて見えないほどだった。


 椅子に座っていたシュオウからは、フードの中に隠れたレキサの顔が見えた。僅かにあどけなさを残しているようにも見えるが、年の頃は子供よりも大人に近いように感じられる。面立ちはよく整っていたが、まるで人形のように表情がなく、沈鬱とした雰囲気を帯びている。


 頭を下げ、元いた片隅に戻っていくレキサ。それを見つめるジェダの視線が一層険しくなる。生じた緊張を察して、クダカは治療の支度をしつつ、小声で説明を始めた。


 「依頼を受けて訪れた村で拾ってね。大火事があり、怪我人が多く出たのだが、アレはその生き残りだ。両手足の皮膚、首や背中が酷く焼けただれてしまった。炎に飲まれた両親を救い出そうとしてついた傷が身体中に残っている。年頃の娘だ、あの格好を責めないでやってくれ」


 ちらとクダカに視線を向けられたジェダは、

 「なにも言っていない」

 そう言って腕を組み、ふいと顔を背けた。


 クダカは薬剤の調合を終え、シュオウの身体に塗布していく。


 「毒を受けた昨夜のテッサ・アガサス輝士のことだが。森の中で飲ませたという深界の薬草、あれは入手に難がある物なのか」


 シュオウは曖昧に首を振って、


 「季節や地形の条件にもよる。あれだけを探そうとしても、すぐに見つけるのは運が必要かもしれない」


 その回答にクダカはじっくりと息を吐いた。


 「やはり、そういうものか。真の良薬とは、別の側面から見た場合、毒ともなり得るほど際どい線の上にあるものだ。見せてもらった件の代物には、そうした性質が感じられた。特定の症状のための作用ではなく、正常を犯す異常を、さらなる異常で上塗りをしたような力業の治癒。私のような生業の者には宝物よりも価値があるように思えるもの……惜しいな、知ったうえで使うことができない、というのは」


 残念そうにクダカが言った。


 シュオウは、

 「興味があるなら、取り方を――」


 提案の最中に、クダカがそれを遮った。


 「けっこうだ。聞いたところで簡単に穫りに行けるような物でもないのだろう。仮に買い取れたとしても、希少なものは相応に値が張る。私の客は裕福な者ばかりとはかぎらんのでね。それに、深界に関する事なら、一つの情報が万金を生む事もあり得る。軽々しく他人に与えるものではない。知識は井戸と同じ、水が湧き上がるまで、掘るには多大な労力と時を必要とする。たとえ今、無限に水が湧いていようとも、かけた苦労に相応しい対価を求める事は悪いことではないのだよ」


 クダカは語りつつも手は止めない。話しかけられていたシュオウよりも、隣に立つジェダのほうが納得した様子で頷いた。


 「いまの意見には賛同する」


 ジェダの一言にクダカは笑い、


 「本音を言えば、この治療の対価としてあの薬草の話を聞きたいが、そこにおわす風蛇公の若君に相場以上の心付けをすでにいただいているのでね――」


 クダカは蝋燭に火を灯し、細い針の先を炙った。


 「激しい動きをすれば開きかねない傷がいくつかある。念のため縫っておいたほうがいいだろう。だが、どうするか判断はまかせる」


 返事を渡す寸前、診察部屋の扉が強く開かれた。


 「シュオウッ――」


 戻ってから初めて見る、アイセとシトリの二人が部屋の中に駆け込んできた。


 二人を見てシュオウの表情が和らぐ。


 問答無用に突撃してきたシトリの抱擁を受け、

 「ぐ、う……」

 シュオウは上半身を仰け反り、苦しげに小さく悲鳴を上げた。


 クダカは声を高くし、

 「おや……見逃すところだったな。骨にも傷がいっていたか」


 「あ、やだ、まだ足りないッ――」

 シトリはジェダに襟を、アイセに腕をつかまれ、シュオウから強引に引き剥がされた。


 「――はなしてッ」


 抵抗するシトリへアイセは、

 「あさましいぞッ」


 上半身に走った痛みよりも、聞き慣れた二人の口喧嘩にほっと安堵の心地を感じる。この時、シュオウは戦場から帰った二人の事を強く心配していたことを、自覚した。




     *




 湯気の昇る鍋からひとさじ、汁の味見をしたクモカリは、難しい顔で幾度か頷いた。


 現在、クモカリは朝食の支度の最中である。シュオウの隊に所属する当番の者らを監督しつつ、指示を出していく作業にもすっかり慣れていた。


 「お味が足りませんか?」


 当番の少女が問いつつ、心配そうに顔を覗き込む。彼女はユギクという名で、華奢な身体はまったく戦場には不釣り合いな人間だが、ユギクもまたシュオウという人間見たさにユウギリへ集った者の一人だった。


 「そうねえ……食材の癖が気になるから、少し辛味と香辛料を追加してごまかしましょう」


 「はいッ、承知いたしましたクモカリ様」


 ごくありふれた農村の出であるユギクは、出身を思わせないほど口調や所作に品を備えている。幼い頃から遠方にある貴族家の邸で働いていた、という事情を聞いてからは、それも頷けた。


 ユギクは指示の通りに味を変えた鍋を味見して嬉しそうに微笑んだ。


 「さっきよりずっと美味しくなっています……さすがですクモカリ様ッ」


 クモカリは笑みを返しつつも困り顔で、

 「それはいいんだけど、その仰々しい呼び方はやめてちょうだい」


 「そんな、とんでもありません。クモカリ様は、あのお方が信頼を寄せる特別なおひと。敬うことは当然のこと、とッ」


 ユギクはシュオウを指して、あのお方、などと大げさに呼ぶ。シュオウの隊にいる者達は大半、彼の噂を目当てに集まってきた者達だ。中にはその真偽を確かめようとして集った者、噂をすべて鵜呑みにして信奉するようにシュオウを褒めそやす者などがいるが、ユギクは後者に分類される。


 ユギクのような者達がシュオウを語る際の目は、おとぎ話の英雄を語る者らのそれと同じだった。


 クモカリがシュオウから、ある種の特別扱いを受けている事は周囲にいる者達であればすぐにわかる。その関係は当事者達にとっては友人である、という些細な理由に過ぎないのだが、シュオウを信奉する者達にとっては、その影響でクモカリに対してまで、尊敬の念を込めた態度で接してくるのでやりづらさを感じていた。


 「そんなにシュオウの事が好き?」


 調理の作業をしつつ、クモカリは問うた。


 ユギクは満面の笑みを浮かべ、


 「はいッ、素敵なお方です。あのお方の噂は方々で語られ、私たちのような生まれの者に勇気を与えてくださっています。とはいいましても、まるで信じていない方々のほうがまだずっと多い。でもここへ来て、自分の目と耳で感じて確信いたしました、噂は全部本当だったのだとッ」


 ユギクは熱っぽく頬を染めて語った。


 「その顔、まるで恋する乙女じゃない」


 クモカリの言に、ユギクは顔を真っ赤にして俯き、

 「ひ、否定はいたしません……」


 「やめといたほうがいいわよ――」

 クモカリはさらりと言う。


 ユギクは俯いたまま、


 「そうですよね……わかっています。私のような者が想いを抱くことなど分不相応だと。きっと顔と名前も知られていませんし……お声をかけたいと近づいても、睨んでくる副長様が恐くて近寄れませんし……」


 クモカリは首を振り、

 「違うのよ、相応しいとかそうじゃないとかの話じゃなくてね――ほら、見てごらんなさい、あれ」


 クモカリが指した先に、外廊下を歩くシュオウの姿がある。どうにか寄り添って歩こうとする二人の美女と、それを牽制するようにシュオウの斜め後ろにぴったりとついて歩くジェダ。また、あまり見ることのない人相の悪い男の輝士が、大きな布包みを抱えて必死に後をついて歩いている。さらに、後方から大股で現れたシガが、シュオウに対して何か言葉をかけている。不満げな顔つきから、なにか注文をつけている様子だった。


 「シュオウ様はたくさんの方々に慕われておられます。素晴らしいですッ。皆様、とても優れた方達ばかりでッ」


 クモカリは複雑な顔で、

 「想像してみて。彼に気持ちを持つっていうのはね、あの中に飛び込んでいくってことなのよ」


 ユギクは真横に口を半開きにして、シュオウの側にまとわりついて歩く濃い面々を観察した。


 「…………離れたところから憧れを抱くに止めたいと思います」


 クモカリは苦笑して、


 「初めて会った頃はもっとかわいげがあったんだけどね。それがほら、見て、あの顔――」


 言われ、ユギクはシュオウの顔をじっと見つめる。忙しなく、共に歩く者達から何事か話しかけられている。その都度、鷹揚に頷きを返していた。


 「――皆の話を聞いてるようで聞いてない、絶妙な間で頷いてるのよね。すっかり世間慣れしちゃって、初めて会った頃はもっとこう、純粋で不安げで、幼くてトゲトゲな感じもあったのよ。都会に初めて迷い込んじゃった野良犬みたいな、ね」


 クモカリの目は過去を懐かしむように遠くを見ているようだった。


 ユギクは不思議そうに首を傾げ、


 「……私にはよくわかりません。あの方はいつも自信に満ちあふれていらっしゃいますし、それに、きちんと皆様の話を聞いているように見えるのですが……」




     *




 自身の治療を終え、ジェダの処置を見届けた後、診療部屋を後にしたシュオウは、現状把握のため拠点内を練り歩いていた。


 ぞろぞろとついて回る者達から、遠慮なくかけられる言葉はほとんど頭に入っていない。それぞれが他者に配慮をせずにまくしたてるので、まともに相手をすることを諦めたのだ。


 「あ、あのッ、昨日はその、助けてもらって、ええと――」


 背後から、ぬっと人相の悪い顔を出したのは、アガサス重輝士の息子である、輝士のレオン・アガサスだった。


 レオンはなにか重そうな物を抱え、なにかを伝えようとして唇を濡らす。しかし、側にぴたりとついて立つジェダを気にして言葉を詰まらせた。


 シュオウが彼の言葉を待っていると、前の通路から疲れ切った顔をした老人が手を振って走り寄ってきた。


 「た、隊長どのぉ」


 頼りない足取りの老人、オガロクはシュオウの隊に所属する者の一人であり、牢屋の管理をまかせている者である。戦場に立てるような身体ではないため、村娘達と共に下支えのためにここに残していた。


 「どうした」


 オガロクは日頃の飄々とした様子からは想像もつかないほど疲れ切った様子で、


 「無事なお帰り嬉しくおもっとります。ですがね、隊長殿が捕らえたという相手方の捕虜の男がッ――もう、うるさいのなんの……。バリウムのご領主様がなんとかしてくれとおっしゃるんで、静かにするよう言ったんですが、なにを言っても、ワガキミに会わせろとか、わけのわからん言葉をまくし立てて暴れるばかりで。お疲れのとこ申し訳ないですがね、なんとかしていただけんでしょうか……」


 オガロクの言う妙な話に、シュオウはジェダと顔を見合わせ、首をかしげた。




     *




 「それで、アスオンの様子は」


 ニルナに問われたトガサカは、顔を沈めて一礼する。


 「常になく動揺されているご様子。今は自室で横になられておられます。お疲れのうえ、ご友人を亡くされた直後、あのような仕打ちを受ければ当然の事と……。ニルナ様、卑劣な行いをした者を許してはおくべきではありません、すぐにでも犯人を捕まえ、懲らしめてやるべきですッ」


 語気が荒くなっていくトガサカを、ニルナは手を出して制した。


 「今回一度の事で終わるのなら、あえて掘り下げる必要はない」


 「ですが、それでは示しがつきません――」


 トガサカは憤り、ニルナの前に置かれた紙束を手に取った。それは、壁一杯に貼り付けられていたアスオンへ対する中傷文だ。


 「――これは陰口や悪戯の域を超えています。アスオン様への明確な攻撃、お立場を危うくするものです。見過ごすべきではありません」


 ニルナは深く息を吐き、トガサカの手元へ視線を落とした。


 「少し大袈裟だろう。下に置くすべての者達から支持を受ける者など見たことがない。出世が早ければ嫉妬を受けるのはままあること。私とて似たような事に覚えがある。下手に騒げばそれこそ、アスオンの軍歴にいらぬ傷をつけることになりかねん。今はこれ以上の騒ぎを起こさない事だ」


 しかし、トガサカは納得がいかない様子で、

 「ですが……」


 ニルナはそっと笑みを向ける。

 「我がことのように怒ってくれる、お前の心配はありがたい。静観はするが二度目は許さん。騒ぎのあった地点を中心に当家の私兵を巡回させよう。お前にはその指揮をまかせたい」


 トガサカは顔に活力をみなぎらせ、

 「おまかせくださいッ」


 コンコン、コンコンと四度扉を叩く音がした。それは緊急の要件であることの合図だった。


 「入れ」


 許可を受けた側近の一人が慌てた様子で駆け込んだ。


 「ニルナ様、訪れた前触れの使者がムツキの管理責任者との面会を求めて待機しておられます」


 ニルナはトガサカと目を合わせた後、

 「使者? いったいどこから」


 側近は喉を鳴らし、

 「ムラクモ王家親衛隊です。サーサリア王女殿下が直接ムツキの視察を望まれている、と」


 一瞬声を失ったニルナは、爆ぜるようにばたりと席から立ち上がった。




     *




 窓を打つあられの音のみが室内に響いていた。


 ゆっくりと煙を上げる香。臨時に設けられた祭壇に、手向けられた厳かな花が横たわる。

 ターフェスタ公国領主の城、その一室はある一人の貴人を軟禁するためにだけ使われている。


 祭壇を前に膝をつき、白と黒、二色の聖衣を纏う女が厳かに祈りを捧げていた。


 「プラチナ様」


 女は名を呼ばれ、静かに閉じた瞼を持ち上げた。


 「祈りの最中です。話なら後になさい、ナトロ」


 「はい、ですが……大公殿下よりの呼び出しです。玉座の前へ、急ぐようにと」


 「ドストフ様の……そう、ですか――」


 俯き気味に傾けた顔を上げ、プラチナは凜と目に力を込める。


 「――リディアに軍衣の用意をするよう伝えてきて」


 ナトロは快活に承知を返し、部屋の奥にある扉を挟んだ寝室へ向け、駆けだした。


 大家の公子ジェダ・サーペンティアに纏わる一連の出来事の後、謹慎を命じられていたプラチナと、そして共に自粛という身分にあったナトロは、この日、この時の呼び出しの意味を明確に理解していた。




     *




 「プラチナ・ワーベリアムが大公殿下の命により参上いたしました。拝謁を賜ります」


 プラチナは玉座の前に深々頭を垂れた。


 周囲を囲むように、諸侯らの一団が列を成して立ち尽くしている。一様に彼らの顔色は暗く、空気は重い。


 「プラチナ――ワーベリアム准将」


 名を呼ばれ、プラチナは玉座の主、ドストフ・ターフェスタの顔を仰ぎ見た。


 「一時、ご無沙汰しておりました、殿下」


 ドストフは眉をひそめて視線を逸らし、

 「此度のムラクモとの戦、現状を把握しているか」


 プラチナは悲しげに眉を落とし、

 「はい……我が国は優れた才を一つ、失いました」


 ドストフは溜息を漏らし、


 「例の一件以来、続けて冬華の輝士を失った事はまことに遺憾である。が、喪失は戦の常でもある。失ったものを振り返っていても、勝利は得られん。ダイトスの後に誰をアリオトへ送るべきか……皆の意見を求めたが、全会一致でお前が推された。ワーベリアム准将、これを受けるか」


 周囲を固める者達から小さくどよめきがあがる。皆の目が一心にプラチナへ注がれるが、その目はどれも縋るような色が含まれていた。


 「質問をお許し願います」


 ドストフは煩わしそうに口角を曲げ、

 「……言え」


 「現在、冬華ゴッシェ・ダイトス亡き今、アリオトを統括している者は誰ですか」


 「……カトレイ軍指揮官がアリオトの管理者を務めている」


 プラチナはドストフを鋭く凝視した。その目は睨みにも等しい。


 「ドストフ様……」


 怯んだ様子で、ドストフは喉を詰まらせる。


 「ぐぐ……り、臨時の事だ。奴らの雇い主はこの私だッ、戦場より退いた後、カトレイの指揮官は長を失い混乱の内にあったアリオトの兵をまとめ、粛々と守備に努めている、なにも問題はない」


 「アリオトは我が国の重要な国境守備の要。どのような事情であれ、他国の人間に指揮権を持たせるべきではありません」


 諭すようなプラチナの物言いに、ドストフは機嫌悪く睨み返す。


 「当然のこと。だからこそ、後を引き継ぐに相応しい将を送ろうと言っている」


 プラチナはなおもドストフを見据え、


 「カトレイ……我利を貪る亡者の軍を雇うため、どれほどの支出を重ねておられるのか。風が通り抜けるたび、雨が地面を打つたび、聞こえてくるのです。殿下が件の軍を雇うため、民にどれほどの重税をかけたか、と――」


 「だ、黙れッ――」

 ドストフは激高し、玉座を拳でたたき付けた。

 「――私は簡単な事を聞いているのだッ、行くか、行かぬか。どうなのだッ」


 「一点、お許しを求めることができるのならば」


 「……言ってみよ」


 「司令官就任後、現地での采配に関し、決定権を一任していただきたいのです」


 ドストフは口を歪ませ、

 「否と言えば、どうする」


 「許しを得られるまで、この場にひざまずいて願い続けます」


 「ぐ、ぬ…………」


 ドストフは声を噛み殺し、玉座に深く背を預ける。そして、居並ぶ者達の視線を伺い見た。


 「…………許す。が、確実に使命を果たせ。それができないと言うのなら行かずともよいッ」


 しかし、プラチナは即答を返す。

 「行きます」


 おお、と居並ぶ者達から歓声にも似た声が漏れる。


 言葉の途中で勢いを挫かれたドストフは、口元を震わせ、鼻から強く息を吐き出した。


 「……なればターフェスタ大公ドストフが命じる。アリオトへ就任し、軍を率いて東方の地を奪い取れ」


 プラチナは丁重に輝士の礼をとり、


 「プラチナ・ワーベリアムが拝命いたします。副官として、ナトロ・カデンの任命を希望いたします。戦場にて、先の不手際へのあがないをさせたく思うのですが」


 「……好きにしろ」


 不機嫌に顔を歪め、そっぽを向くドストフとは対照的に、プラチナの意を心から喜ぶように、人々の拍手が玉座の間全体へ響き渡った。




 戦の指揮官として正式に就任が決まった後、玉座の間を後にしたプラチナの前に、見覚えのある赤い聖衣を纏った二人の輝士が待ち受けるように立っていた。


 装備と佇まいから、彼らが聖リシアが擁する優等の輝士団、聖輝士隊の人間であると理解する。


 後ろに控えた男の輝士と、その前に立つ女の輝士。後者は目立つ花柄の眼帯で片目を隠していた。


 歩みを進め、声が届く距離となった時、


 「ワーベリアム准将――――いえ、壮麗たる銀星石様に、聖輝士隊、隊長のミオト・ダーカが拝謁いたします」


 ミオトはそう言って、深々とその場に頭を下げた。




 ここのところ、すっかり私室としての感覚が染みついた軟禁用の部屋へ、プラチナは突然の来訪者であるミオト、そして彼女の副官であるルイを通した。


 「ここでは自粛を常として過ごしていました。なので、聖輝士の位に相応しいものはなにも用意することはできませんが」


 プラチナは言いつつ、リディアに用意させたささやかな菓子と茶を二人分差し出した。


 ミオトは、


 「無作法にも突然の面会を申し入れたのはこちらの側、お気遣いは無用に。とくに、アレにはなにもいりません。ついてくるなと言ったのに、同伴を強行した愚かな頑固者です」


 言って、後方の壁際に立ち尽くすルイを指さした。

 プラチナに視線を向けられたルイは緊張した様子で姿勢を正し、


 「ダーカ隊長のおっしゃるとおりであります。この身はただの置物として、ここから微動だにいたしません」


 ミオトは顎をつんと上げ、

 「よろしい――しかしただの置物をプラチナ様のお部屋に置くのは忍びない。無駄な空間を省くため、手荷物などを乗せて置くべきか」


 ミオトは意地悪く笑み、重みのある装具一式をルイの手に渡した。ルイは粛々とそれを受け取り、


 「は、おまかせ、くださいッ――」


 手をぷるぷると震わせながら、汗を滲ませて意地を通す。


 「置物が口を開くな」

 ミオトはルイに預けた手荷物にぽんぽんと手を乗せる。


 プラチナの背後に立つナトロは、そんなやり取りを見て小さく吹き出した。


 「失礼でしょう」


 プラチナの叱責に、ナトロは自身の口へ手のひらをかぶせた。


 席へ戻ったミオトがナトロを見て頷く。

 「そこの男子は、噂に聞く冬華の称号を持つ者とお見受けしますが」


 プラチナは首肯し、

 「弟子のナトロ・カデン。今現在は、不手際の責任をとり、冬華六家の席を自粛している身ですが」


 ナトロは顔を沈め、形式的な挨拶をミオトへ述べた。


 ミオトは頷きを返し、

 「此度の戦、貴国の将を失った事に対し、まずはお悔やみを申し上げます」


 座したまま頭を下げたミオトへ、プラチナも合わせて頭を垂れる。


 「ありがとう、ございます」


 ミオトは下げた頭をそのままに、


 「加勢をしておきながらこのありさま。申し訳ありません、私の力不足ゆえの事と恥じ入るばかりであります」


 プラチナは眉を下げ、

 「あなたのせいでは……」


 「いえ、このような身でプラチナ様への拝謁を願うのは本来あってはならないこと。しかし、今回の結果を受け、我が身には本山より速やかなる帰還の命が下りました。本心では挽回のためにも戦場へ残り、身を粉にして戦いに挑むべきところですが、それも叶いません。ですので、せめて後任の人物へ引き継ぎを行うべきと考えました。それが御身であったことは予想の内ではありましたが。猶予がなく、身を清める間もなくまいりました。不躾をあらためてお詫びいたします」


 「現地の空気を知る方からの話はとても貴重です。どうかこれ以上頭をお下げになることはやめてください。むしろ、感謝をしているくらいです」


 顔を上げたミオトは微笑し、片目を隠す眼帯にそっと触れた。


 「御身にお会いできるのを楽しみにしていたのです。できれば、両の目を合わせて見ていただきたかったのですが、このざまです」


 プラチナはおおまかであれ、戦地での出来事を知っていた。そこから状況を推理し、


 「それは、狂鬼に……」


 ミオトは自嘲気味に笑って否定し、

 「戦いが始まってまもなく、敵の従士にやられました」


 プラチナは目を見開き、側に控えるナトロも息をのんだ。


 「それは……」

 プラチナは気まずそうに言い淀む。


 ミオトは、


 「遠慮は無用です、どうかわらってください。慢心とは病のようなもの。私もいつのまにかそれに全身を蝕まれていたようです。相手を雑魚と侮り、勝ち以外の可能性を考慮しなかった。これはその報いなのです」


 ミオトの眼帯は皮素材を基本とし、そこに麗しい桃色の布地と花柄の刺繍が施されている、職人の手によって作られたものではなく、急ごしらえの物であろう。それが彼女の華のある容姿と絶妙に合ってはいても、やはり痛々しくその下にある傷を想起させる要素は消しきれない。


 「さぞ、痛むでしょう」


 プラチナの問いにミオトは盛大に首肯する。


 「はい、違和感も消えません。ですが、傷ついた中身を抉りだされたときの感覚に比べればたいしたことは――あれは今まで感じたことのないまったく未知の苦しみでした。生涯、忘れられそうにありません」


 プラチナは胸に手を抱き、

 「かわいそうに」


 しかし、ミオトは軽快に笑む。

 「これは笑い話でもあります。皮肉にも、この傷をつけた張本人に命を救われもしたのですから」


 プラチナは首を傾げ、

 「救われた? わかりません、それはどういう事か」


 「妙なやつ――男だったのです。ムラクモの従士ですが、容姿のうえでは北方の人間を思わせる。灰色の髪に大きな黒い眼帯。彩石を持たない身で、しかし優れた武人でありました――いや、それでも言葉が不足している。優れたなどという一言では足りません、あれは傑出した者。時代に一人いるかいないか、そんな存在にすら思えました――そうだな、ルイ」


 ミオトは振り返り、必死に荷物を支えるルイへ声をかける。


 「はッ――その通りかと」


 「大きな眼帯……まさか……」


 胸騒ぎを感じ、プラチナは胸にある手を強く抱き寄せる。


 「戦場では彩石を持つ長身の南方人を連れていました。また、多方からの話を合わせると、かの者の引き連れた部隊に、噂に名を聞く血塗れの輝士、ジェダ・サーペンティアが随行していたようです。奴らはまるで連携をとるように戦いに挑んでおりました」


 「う……」

 呻き声を漏らし、ナトロが一歩引き下がる。視線を合わせたプラチナは確信へと至った。


 「その者を知っています。シュオウ、という名前で――」


 「う……おぇ……」

 プラチナが件の者の名を言うと、顔色を悪くしたナトロが口を押さえ、身をかがめて嘔吐きだした。


 「……奥で休みなさい」


 プラチナの指示に、ナトロは逃げるように別室の扉へと向かう。その様子を呆然と不思議そうに見つめるミオトは、

 「ナトロ殿はどうされました――」


 プラチナは溜息を吐き、


 「身体は癒えても見えない傷が残ることもあるのです。ナトロは生まれに恵まれ、勝つ事を当然とする生を歩んできた。負ける事に慣れていないのです」


 ミオトは肩を竦めて唇を噛んだ。

 「いまひとつ状況に理解が及びませんが、まるで自分の事を言われているような心地がします」


 プラチナは重い表情のまま、前のめりにミオトへ顔を寄せた。


 「話を戻しましょう、その者に救われたというのは」


 ミオトは快活に頷いて、


 「私を含め、聖輝士隊、そしてターフェスタの兵達が、狂鬼に追い立てられ森に取り残されていたとき、件の従士がひょっこり現れ、狂鬼に追われていた我々を救ったのです」


 「いったいどうやって……」


 食い入るように聞くプラチナ。ミオトはまたルイと目を合わせて微笑し、


 「あの男は単身で狂鬼を屠りました。見事な手並み、胆力、武技、機転。あれもまた、忘れられぬ出来事です」


 プラチナは呼吸を忘れ、背もたれに身体を預ける。ゆっくりと息を吐き、


 「そう、ですか――」


 ミオトは茶で喉を潤した後、片方の目を細め、遠くを見やる。


 「そうですか、シュオウ、というのですね、あの男は――希なこと、どうやら、件の者と御身には関わりがあるご様子。であれば、執筆を予定している推薦状に、どうかプラチナ様からも一筆いただけないものでしょうか」


 プラチナは首をかしげ、

 「推薦状?」


 「はい。あの男は憎き敵の戦士、ですが非戦闘時に敵味方の区別なく命を賭して救命に尽力した行いは英雄的です。このことを聖下にご報告し、リシアより恩賞を授与できないものかと計画しておりまして」


 憎い、とは言葉で言いつつも、ミオトの顔はどこか明るさを帯びている。それとは対照的に、プラチナは暗く重い表情で俯き、深く息を吐いた。


 「申し訳ありませんが、私にはその推薦に言葉を添える資格も、気持ちもありません」


 ミオトは畏まって頭を下げ、


 「調子乗りました。貴国と戦争中のムラクモの兵を称えるような真似、さぞかしご不快でありましょう。それに実を言えば、あの男が無事に森から帰ったかどうか、確証はないのです」


 「でも、救出された、と」


 プラチナの疑問に、ミオトは頷く。


 「我らを救い出した後、あの男は狂鬼のひしめく森へ再び戻っていきました。残された仲間を救うのだと言って」


 「そう……」


 プラチナの脳裏に記憶が蘇る。一時だが、同じ時間を共有した者同士、不思議と、彼ならばそうするだろう、などという気持ちを感じていた。


 ミオトは、


 「普通であれば、自殺行為。生きて帰ったなどと微塵も考えはしませんが、あの男にかぎっては、そうした常識は通用しないのではとも思えます。それに、その事について、ルイはあやつが必ず生きて戻っていると主張して譲りません――そうだな、ルイ」


 重い荷を持ったままのルイは汗を浮かべつつ、

 「は、間違いありませんッ」

 なにか確信したような表情でそう断言した。


 その事への正否は捨て置き、プラチナはただ静かに首を振る。


 「叶うならば、もっとお話をお聞かせください。アリオトへ向かう前に、知っておくべきことが多くあるように思えます――」


 「おまかせください」


 ミオトがアリオトへ赴く時からの事。始まりから終わりへと、語られていくすべてに、食い入るように耳を傾けた。




     *




 天から落ちる霙は湿った雪へと変わっていた。


 帰途につくミオト達を見送るため、聖輝士隊が待機しているという聖堂への道すがら、プラチナは久方ぶりに見る外の様子に嘆息する。


 ――空気が。


 澱のように重く沈んだ街の気配は、悪天候のためばかりではない。道行く者達の数は激減し、商い人達の活気ある活動風景も、まるで見られない。


 古い雪の処理もおろそかになり、歩道は歪に積もった雪のため、足をつけるたび身体が傾いた。


 ミオト達、プラチナとナトロも、身分を隠すため、地味な外套で身体を覆い、顔を隠して歩いている。


 細身の馬に荷を乗せた者達と時折すれ違うが、皆、貧相に痩せこけた顔をしていた。目に輝きはなく、鬱々と下ばかり見て歩いている。


 「ご心痛、お察しいたします」


 ミオトのすぐ後ろを歩くルイが、振り返りプラチナへ言った。


 プラチナは奥歯をぐいと噛みしめる。

 彼に対し察しが良い、という言葉を贈ることはできない。誰が見ても、現状のこの街を見れば、荒廃の兆しを感じ取ってしかるべきである。


 怒り、そして苛立ち。なにより、プラチナは恥を感じ、微かに顎を引いて視線を下げる。


 強く拳を握りしめると、心中を察したナトロが沈んだ声で、

 「プラチナ様……」


 横目で無理矢理な微笑を返したプラチナは、

 「大丈夫です」


 聖堂のほど近く、細道の前にひっそりと佇む幼い二人の子供がいた。男の子と女の子、前者が僅かに年長の気を帯び面立ちも似ている。おそらく兄妹であろう。


 二人は痩せて荒れた顔を上げ、

 「おめぐみを……」

 小さな手のひらを、水をすくうように差し出した。


 目の奥深くから憐憫の情が湧き上がる。歯を食いしばり、プラチナは自身の懐を探るが、なにもない。目を向けたナトロも、申し訳なさそうに首を振った。


 足を止めていたミオトが、

 「ルイ――」


 副官へ手を差し出すと、そこへ二枚の硬貨が乗せられた。


 ミオトは子供達の前にしゃがみ、片手で祈りの紋様を空中に刻んだ。そして、子供達にそれぞれ一枚ずつの金を手渡す。


 施しを受け取った子供達は疲れた顔に一瞬の笑みを浮かべ、金を両手で強く抱き、礼を言って逃げるように立ち去った。


 プラチナはミオトへ深々頭を下げ、

 「我が国の民への慈悲。お礼を……申し上げます」


 この街に、病のように蔓延する陰の空気。プラチナはその空気の名を知っていた――飢え、だ。


 原因は、大公の名の下に課せられた重税にある。


 不必要な戦――ターフェスタがムラクモへけしかけた戦いを、プラチナはそう評している。

 この戦争は長期的な視野のもと、周到な支度をしてきたわけでもなく、思いつきと勢いのみを頼りに始められた。


 しかし、ターフェスタに独力で、大国ムラクモを相手に戦いを挑む余裕はない。当然のように、外部からの援助が必要となり、ドストフはそれを金で買ったのだ。


 大金を積めば相手がどこであれ軍を派遣するカトレイは言わずもがな。それに加え、神の名の下に行われる聖戦としての体裁を取り繕うため、リシア教本山への多大な寄進をし、僅かばかりの優等の輝士団が派遣された。


 さらに、彼らが食い潰す兵糧、移動や滞在諸費用など、すべてを負担しなければならない。払う代償から得るものはあまりに刹那的であり、消費の果てに得られる物は、まるで夢物語に等しく地に足のつかない話ばかりだった。


 「これは独り言ですが――」


 ミオトは肩に積もった雪を払いながらそう言って、


 「――民を見れば領主の有り様が見えるともいいますが、この状態が長く続けば、取り返しのつかぬ事態を招くやもしれません。天より示される御心の光が、貴国を照らすことを、お祈りしております」


 「…………」


 返す言葉もなく、プラチナはただ黙ってその言葉に耳を傾けた。




 大袈裟な事になることを避けるため、プラチナは聖堂の入り口でミオト達に別れを告げた。


 帰り際、真剣な眼差しを向けるナトロへ、プラチナはその理由を問う。


 「なにか言いたいことがあるのなら、はっきり言いなさい」


 ナトロは覚悟を決めたようにフードをはずし、まなじりに力を込める。


 「戦地指揮官への就任を引き受けられたことが意外でした。はっきりと聞いたことはありませんでしたが、プラチナ様は参戦を望まれていないと――」


 「もちろん、望んでいません」


 きっぱりと言い切ったプラチナへ、ナトロは戸惑いつつ聞き返す。


 「ならどうして……」


 プラチナの足は城ではなく、市街地に向いていた。小さな広場に人の行列ができている。中心に天幕が張られ、その下で用意された食事が、並ぶ者達に順番に配られていた。


 「なにをしているんでしょうか」


 ナトロが不思議そうに呟いた。


 「食事の配給、でしょう」


 「配給……こんな大勢が……」


 驚いた様子のナトロだが、プラチナもそれに近い心地でいた。列に並ぶ者達の貧相な佇まい。痩せこけた身体で、雪の降る外に並ぶ姿、とくに子供達の飢えて虚ろな顔は、目に入れるのも痛々しい有様だ。


 そのうえ、この配給はどう見ても国の手によるものではない。上街の裕福な商人か誰かはわからないが、この状況を見かねた者による身を切っての行いであろう。


 「話に聞いていても、半分も理解に及ばない。この目で見てはっきりと知りました。我が国の現状を。こんなこと、見過ごすことなどできないッ――」


 唇を噛み、握った拳の手のひらに、強く爪が食い込んでいく。


 プラチナの態度を見たナトロは不安そうに、

 「堪えてください。プラチナ様の采配で民に救いの手を差し伸べれば、大公殿下に対しての当てつけともとられます」


 遠く離れた戦地で起こった大火は、まだそのほとんどが燻った状態のままにある。一時の感情で、四方に燃え移った火に灰をかけたとしても、そこに残る熱を完全に消し去ることはできはしない。


 「このような事態に陥る前に、殿下のお心を鎮める事ができなかったのは我が身の未熟さゆえ。すべてが起こってしまった、取り返しのつかないことばかり……もう、私の言葉はドストフ様には届かない。でも、始めた事を終わらせる事はまだできる。私はその責を果たします」


 「戦いを早く終わらせるための参戦、ですか。銀星石の力を持ってすれば、ムラクモの奴らに一泡吹かせてやることができますッ、うまくすれば、殿下の望む通りの結果を出すことだってッ」


 勇ましく興奮したナトロに対し、プラチナはあくまで落ち着いた声音を維持する。


 「勝敗を決する事なく終わる戦もあります」


 「まさか、今更交渉を持ちかける気ですか」


 プラチナは小さく息を吐き、

 「最善を求め、あらゆる可能性を否定しません」


 「越権行為ととられかねません」


 「すべての責はこの身で負う覚悟です。当然、必要とあれば戦うことも厭わない」


 ナトロは喉を大きく鳴らした。


 「戦場には、あいつがいる……」


 「そう、非凡な才を秘めた謎の多い人物でした。ミオト殿の言いようにより、それでもまだかの者をまるで知らないのだと気づかされる。次に戦場で対峙すれば、もう怪我だけで見逃される事はないと覚悟しておくべきでしょう。それを恐れるのなら無理に同行する必要は――」


 プラチナが言い終えるよりも先に、ナトロは足を揃えて背筋を正した。


 「何があっても、最後までお供いたします」


 プラチナは頷きを返し、眼前に広がる不幸な人々に背を向けた。


 「戻りましょう。支度を整え最速で出立する。急ぎアリオトを掌握します――」


 余燼よじんの冷めやらぬ戦地へ向け、プラチナは足下に積もった雪に、重い一歩を踏み出した。














開戦編、後半をスタートします。

前半と同様、色々な事が起こる予感のシーズンとなるはずです。

今回も含め、しばらくゆったりな展開になるかと思いますが

どのように物語が進行していくのか、楽しみにしていただければ幸いです。

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小説の表紙
― 新着の感想 ―
プラチナが一番の戦犯だと思う。
[一言] プラチナはシュオウが以前判断した通り覚悟が足りないし決断も遅いから頼りにならないし やる必要の無い戦争の為に他国に大金払って雇う為異常なまでの重税で民が苦しむ羽目になったのもボンクラ大公とそ…
[一言] 軍事費を賄う為には、飢餓輸出も辞さないとか、かな
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