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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
73/184

悪食 <後>

 悪食 2






 地上に黒が澱んでいる。まるで、世界のすべての哀が、ここに沈殿しているようだった。


 姿も知らない虫の声。始まりと終わりの入り交じる森の臭い。心地良い緑の香りなど、ここにはない。


 不慮の出来事から灰色の森に身を置くバレンは、先を行く仲間達と合流を果たしていた。


 襲撃をやりすごす事に成功はしたが、微力な反撃で退ける事ができたとは到底思えない。つかず離れず、どこからともなく聞こえる不気味な遠吠えがそれを証明していた。


 だが現状、狂鬼らが手を出してくる気配は、ひとまず鎮まっている。


 暗い森の中、ぽっかりと空いた広い空間に行き着いた。地面は堅い岩であり、雨風が強く当たる地形となっているためか、この場所だけ動植物の痕跡がほとんどない。


 誰ともなく足を止めて腰を下ろす。重奏のように複数人から溜め息が吐き出された。


 バレンは改めてこの場にいる者達の人数を数える。


 彩石を持つ者、持たない者を合わせ、総数は二十を超える。テッサを除けば、全員が歩く事に難を見せない程度には健全な状態だが、各々顔に覇気はなく、まるで色を失っている。


 戦という極限状態にありながら、人間にとって、深界に対する恐れの根源ともいえる狂鬼の襲撃に遭い、今もまだ追われる恐怖の只中にいる。それを思えば、彼らの消沈ぶりは至極当然の事といえるだろう。


 「アガサス重輝士、助けは……あ……いや……」


 若い男の輝士が力なく言った。その問いかけは宙に浮いたように不確かで、不鮮明な残響を置き去りに消失する。


 質問した当人は自らの発した言葉を聞き、即座に気づいたのだろう。それが、まるで意味のない質問であることに。


 応じる事なく、バレンはテッサへ注意を向ける。毒を受け、全身汗ばみ、震えながら苦しげに呻き声を漏らしていた。


 その身を心から心配するレオンも、道中テッサを背負い続け、くたびれた表情を見せている。


 手巾でテッサの汗を拭いながら、バレンは目を細めた。


 「苦しいか……」


 バレンの問いかけにテッサは微かに頷きを返す。まだ辛うじて意識を留めている。だが、現状はそれを喜ばしいと思えるような優しい状況ではない。


 ――救援は。


 先程、質問を途中で飲み込んだ者と同様、バレンは心の奥底で抑えきれぬ願望を唱えていた。しかし、希望はすぐに冷める。


 ――くるはずは、ない。


 常に死の危険が横たわる異郷の地――――上層の世界に引きこもる人間にとって深界、灰色の森とはそういう場所なのだ。


 あの混乱の中、両軍はそれぞれの拠点へ向けて恐怖に駆られて逃げ惑っていた。そんな状況下で、森に逃げ込み取り残された者たちをわざわざ助けに戻ろうと考える者などいない。残酷ではあっても、それは正しい選択だ。


 バレンはゆっくりと立ち上がる。自然、皆の視線が集まった。彼らに向け、言葉をかける。


 「この状況下、森で孤立する我々に助けは来ない。それは全員が承知の事だろう――」


 視線を向けていた者たちの顔が暗く沈んでいく。わかっていても、言葉にして聞いた途端、それは抗いがたい現実として突きつけられ、自覚を促す事となる。


 一つ、鼻息を落としてバレンは続けた。


 「――あの醜悪な化物は、まるで我々を白道から遠ざけるよう、森の奥へと追い立てている。このままではなすがまま、化物どもの餌となるだけ。ここにいる皆で力を合わせ、どうにかこれを打破しなければならない」


 ふ、と一団の内から皮肉を含む笑声が漏れて出た。


 「アガサス殿はまるで訓練事のように気軽におっしゃいますな……」


 底から舐めあげるような視線を向ける一人の輝士。この男はこの場で唯一、バレンと並ぶ重輝士の階級を持つ人間だ。有力な家柄を背景に、その顔相から恐れられる事が多いバレンに対しても、意見を言いやすい立場にある。が、平素の彼が持つ嫌味のない気品ある雰囲気からは想像ができないほど、その疲れきった顔つきに酷く邪気を帯びていた。


 「言いたいことがあるか」


 バレンは顎を上げ、目線で男を威圧するように見下ろす。下から見上げる男の視線は交差したままはずれることがない。そこには明確な敵意があった。


 ――まずい。


 内心でそう零す。命の懸かったこの状況、小集団の主導権を握る人間は一人でなければならない。そうでなければ群れは混乱し、分裂する。


 常の立場や階級、年齢なども考慮したうえ、皆が自然とバレンを統率者として認めている。が、今現在敵意を含む視線を送り、皮肉を漏らしたこの男は、バレンの立場を脅かすような怪しげな気配を漂わせていた。


 男は腰を上げてバレンの前に立ち、


 「狂鬼の群れに追われ、森の奥に逃げ続けるしかない我々に活路があると、あなたは言う。皆で力を合わせ……でしたか? まったく馬鹿げた――それこそ愚者の戯言というやつだ」


 男は暗く窪んだ双眸に、片頬だけで引きつったような笑みを浮かべながらそう言った。この期に及んでは、誰の目にも明らかである。この男ははっきりとバレンへ反抗の意志を示していた。


 「無礼だぞッ――」

 父に対し不遜な態度をとる男へ、レオンが声を荒らげる。バレンはすぐさま手を伸ばし、それを制した。


 「…………」


 一瞬、バレンに迷いが生じた。不穏な気配が漂う現状、これを回避するために簡単な解決方法がある。長の座を望む者に譲る事だ。だが、対峙する男の暗く正気を失ったような形相が、その考えを忘れさせた。皆の運命を、そしてレオンや、手負いのテッサの命を、この男に預ける気にはなれなかったのだ。


 バレンは強く両の拳を握りしめる。


 「深界で孤立する今、集団の力を合わせて敵へ挑むのは適切な判断だ。なにも間違った事は言っていない」


 男はバレンの言を鼻で笑った。


 「挑む、という。それがなによりの愚策なのです。あんなモノに挑んで真っ当に勝利を得られるわけがない」


 静観する者たちのなかに、静かにうなずく者がいる。その数は半数を超えていた。


 「……このままただ逃げ続けろと言うのか、ただ黙って敗残の行く末を享受しろと」


 バレンはあえて同格の相手に高圧的な調子で当たる。子供のような意地の張り方であっても、今はそれが必要だった。


 「そうです……ただし、なにもしないとは言いません。このままでは駄目なのです」


 含みを持たせた言い方に、相手の望むまま続きを促す。


 「聞こう――」


 「この集団を分割し、可能な限りそれぞれまるで別の方向へ逃げるのです。追うものが一つであるより、二つ、三つと、増えれば増えるほど、奴らもまた戦力を分断される。結果、運良く難を免れる者もありましょう」


 密かに、バレンは固唾を飲み下した。


 この提案への反応は様々だ。が、あきらかに恐れの気を見せ始めた者達がいた。彩石を持たない従士達だ。


 彼らの懸念はわかりやすい。提案の通りに人員の組分けをする際、輝士とそうでない者達とに分けられるのでは、と心配している。超常の力を持たない彼らには、輝士と離れて行動することは、即ち死刑宣告に等しいのだ。


 バレンもまた、彼らと同じ思いだった。数が減るほどに、弱っているテッサを連れ、生還へ至る僅かな可能性がさらに低くなる。


 「その案は……受け入れ難い……」


 生来の実直な性格は非常時に重しとなる。バレンは他人を丸め込むための話術を苦手としていた。ただ一言、正直に思いを吐くのが精一杯。当然、相手はそこにつけ込んでくる。


 「ただ受け入れ難い、とおっしゃられても。それはなぜか、お教え願いたい」


 全員の視線が自身へ寄せられているのを肌で感じた。バレンは咄嗟に、


 「…………細木が集い大樹を成す――という。我々人間の力とは、強力な武器でも、超常を生む石の力でもなく、集団となり互いを支え合う事にある。人数を分けて行動すれば、追手にとってはより狩りが容易くなるだけだろう。敵が一気に攻めてこないのは、我々の集団としての力を警戒している可能性もある。不用意に手持ちの有利を捨てるのは致命的な愚策ともなりうるのだ。今は分かれて行動すべきではない、力を合わせて苦難に立ち向かう時だ」


 口をついて出たのは、若い頃に一族の年寄りからうんざりするほど聞かされていた説教の一文である。咄嗟の反論ではあったが、言った事に偽りの心は一切ない。


 その言葉を聞き、皆がそれぞれに言葉を交わし合う。表情と頷きの気配から、バレンは発言に一定の手応えを感じていた。


 空気を察知し、対立する男の表情が不機嫌に曇っていく。僅かに血走った目がバレンの後方、ある一点に集中した時、その顔が不穏に活気を取り戻した。


 「もしか、アガサス殿が群れる事にこだわりをもたれるのは、皆を盾に、ご息女の無事を確保したいがため、ではありますまいか」


 その発言で空気は一変した。


 それは、この男だけが気づいていたことではないのだ。この場にいる唯一の負傷者、テッサ・アガサスはバレン・アガサスの実子である。身内可愛さに目が曇り、私利を優先して、皆にとって有益な提案を拒んだのではないか。


 各々が個々に秘めていた微かな懸念は、現実の言葉として発せられた途端、一つの総意として束ねられる。それは皮肉にも、直前にバレンが語った話と似たような体をなしていた。


 ここで狼狽えてはならない。


 軍という、戦士の集う群れに長年属してきた経験、そして勘が強く訴える。この攻めに対し、弱気や迷いを微塵でも見せれば、この集団を統率するための実権を失うことになりかねない。


 バレンは胸を張り、疑心の気を帯びた者たちを睥睨した。


 「ムラクモ輝士として、長くその任に就いてきた。この場には軍人としての私を知る者も多いだろう。それをふまえ、問う。この身、バレン・アガサスは、これまで私利私欲のための行いをしてきた人間かどうかを」


 バレンの問いかけに、各々の真摯な視線が返ってくる。左右に顔を見合わせる者は誰一人として居なかった。


 人相の悪さへの悪評は多くとも、バレンの軍での実直な仕事ぶりを評価する者は多い。同じ下流の家柄で、軍に身を捧げる輝士などからは一定の尊敬の念も集めるバレンは、これまでの行いになんら恥じ入る事がなかった。


 たとえ、対立する者の言う事に僅かな事実が含まれていようとも、戦士達の前で堂々と胸を張って言えるのだ、自分を信じろ、と。


 生きた年月、国や軍に身を捧げてきた時間、行い。そのすべてを清算する時がきたように、バレンは感じていた。


 若く、体格の良い一人の輝士が立ち上がり、

 「自分は、アガサス重輝士を支持します」


 誘われたように、続いて立ち上がり、支持を表明する者たちが現れる。そうでない者も、鷹揚な頷きをバレンへ返し、反抗する意志がないことを示した。


 バレンは日頃の強面のまま、対立する男の顔をじっくりと睨めつける。


 「ばかな……この男が身内のために私の案を拒絶しているのは明らかだッ、そんな人間に――」


 食い下がる男へ、立ち上がってバレンの支持を表明した輝士が、

 「親が我が子を思うのは当然の事でしょう」


 「だからこそ言っているのだッ、家族の命を惜しみ、我々を犠牲にして一時でも長く生かそうとしているッ」


 男の必死の訴えに狼狽えることなく、若い輝士は迷いなく反論する。


 「そもそも、我々の安全のためにアガサス家の三名は率先して後尾の守備を務めてくださった。それなのに、負傷したご息女を見捨てるような真似をすれば、生き残る事ができたとしても、家名に消すことのできない傷が残ります――」


 そうだ、と快活に同調する声が上がった。

 若い輝士はさらに続ける。


 「――さきほどの戦でも、アガサス重輝士に命を救われた者達が少なからずこの場にいる。皆、わかっているんです、重輝士が我が身を一番に行動するような方ではないと。あなたが先任の重輝士に従えないというのであれば、ご自身で思う通り行動されればいい、自分はそれを止めません」


 批判を込めた言葉を受けた男は露骨に狼狽した。表情には怒りと不安が入り混じり、平静さを失っているのは誰の目にも明らかだ。


 男は口元を震わせながら皆を見渡した。自身を支持する者が誰一人居ないと悟り、歯を食いしばって、森の奥へと逃げるように後ずさる。


 バレンは彼の腕を取り、


 「この難を乗り切るため、誰一人として欠けるわけにはいかない。この場に残り、皆と共に力を合わせるよう。これは命令だ、従えないというのであれば、反乱と見做し、この場で処罰を下す」


 男は気まずそうにバレンと視線を交わし、

 「……承知、しました…………アガサス重輝士」




     *




 出発に際し、テッサは体力を残した従士達が交代で背負う事となり、身軽になったレオンは、最前列を行くバレンに並んで歩いていた。


 「父上、本当にあれほどの狂鬼を討伐できますか……」


 不安げなレオンの言葉は、注意していなければわからないほど小声だ。


 バレンは喉で唸って、

 「真っ当にぶつかっても勝ち目はない。だからこそ、こうして我々にとって有利となる地形を探している」


 バレンは実権を掌握した小集団に対し、まとまったままの行進を命じた。目的は追ってくる狂鬼らに対し、少しでも有利に戦うことのできる場所を見つけることである。


 敵の侵入口を一つに絞ることのできる地形であれば望ましい。四方を木々に囲まれ、どこから攻めてこられるかわからない広々とした場所での交戦は避けるべきであるとバレンは考えていた。


 「しかし、なにか釈然としません」


 はっきりとしない口調でレオンが言う。


 「なんだ」


 「あの狂鬼……森の中まで我々を追い立て、しかし、その後の攻めは極めて手ぬるい。戦場で見たあれだけの数がいれば、力任せに我々を全滅させることもできるはず」


 この指摘はバレンも気にしていた事だった。


 「……戦場から森へ逃げ延びたのは我らだけではない。その中には北側の者達も多くいた」


 「では、敵はすでに群れを分けて行動している、と?」


 問われ、バレンは首肯する。


 「おそらく。分散して逃げるのが劣った相手であるのなら、集団を分けて、それぞれに狩りを行わせるだろう。数が減り戦力が薄くなれば、行動はより慎重になる」


 「つまり、敵は我々の力を警戒し、様子を見ているということ――」


 若干の希望を含むレオンの言に、バレンは目を逸したまま頷いた。それらはすべて希望的で都合の良い想像にすぎない。戦場で見たあの圧倒的な力の差。あれを思えば、狂鬼達が今現在、積極的に攻めてこないことが、ただただ不気味だった。


 ――もし。


 頭に浮かぶ最悪の想像を、レオンへ聞かせることなく飲み込んだ。


 もし、あの狂鬼達がただ、遊んでいるのだとしたら。

 いつでも狩ることのできる獲物をあえて泳がし、怯えて彷徨う姿を嘲笑っているのだとしたら。


 ――だとしても。


 抗うことの意味を疑う余裕など、バレンにはない。二人の子を思い、そして、運命を共にする部下達を思う。


 バレンは振り返り、列を成す皆を見た。

 ここにいるのは大半、まだ未来に多くの時間を残した若者ばかりだ。


 結局のところ、あの反抗を見せた男の提案もそれほど悪いものではない。どちらにせよ、狂鬼に狩り殺されるのであれば、一か八かでも散り散りに逃げる事も一つの道だ。が、たとえ塵よりも小さな可能性であっても、皆で生きて帰る事のできる未来を諦める事はできなかった。


 軍人として、輝士としての矜持がある。この集団の指揮官として、バレンは一つ強く心に決めていた。


 ――共に。


 現状が、狂鬼の手の上で転がされているだけだとしても、死ぬときは皆で運命を共にする。その決意を胸に、足を止めて彼らを見た。


 「アガサス重輝士、私達はまだ死んではいませんよ」


 列の中からそんな声があがり、集団にそっと笑いが生まれた。


 思いがそのまま顔に出ていた事を恥じながら、眉間に皺を寄せ、ごまかしの言葉を返そうとしたその時、


 「ぐッ、ぐ、がッ――」


 列の中、一人の輝士の首に突如、黒いなにかが巻きついた。そのまま不自然に身体が真上に持ち上がり、苦しげに藻掻いて足を振る。


 耳に不快な音が鳴った。濡れた古い枝が折れるような、音。


 輝士の首が真横へ折れ曲がる。開ききった眼に生気はない。その身が打ち捨てられ、奥にある暗い森の中から、ぼんやりとむき出しの尖った歯が見えた。


 嗤っている。目元まで引きつったように割けて開く口を見て、バレンはそう思った。


 「あ……あ……」


 一団から、恐怖に塗れた悲鳴が上がる。


 「戦闘態勢ッ――いや、退却だッ、前に行く――走れッ!」


 バレンが叫ぶと、皆が一斉に駆け出した。


 バレンはその場に留まり、テッサの持ち分であった石弾を手に握る。速やかに、そして正確に石弾は思う通りの形状を模していく。一瞬のうちに、ただの石塊は右手の中で投網を模した形となっていた。


 頑丈な石で出来た網は、晶気による作用で柔軟さも併せ持つ。バレンは狂鬼の頭目掛けて石の網を投げつけた。広範囲に投げたそれを、小さく網の目を狭めていく。網は避けようとする狂鬼を正確に捉えたまま、濡れた布のようにその顔面に密着して張り付いた。


 蜘蛛の巣のようにまとわりつく石の網。狂鬼は半狂乱となり、網をはずそうと地面を転がった。一時の撹乱としては十分な効果を発揮している。


 「父上、早くッ――」


 手を伸ばし、レオンが叫んだ。バレンは頷いて逃げに転じる。


 先を行く従士の一人が足を引きずられ、腹ばいのまま悲鳴を残し、森の奥へと消えていく。


 暗がりから襲い来る狂鬼に、輝士が束になって晶気による攻撃を浴びせるも、僅かに怯ませただけ。突風のような速さで駆け抜ける狂鬼に、一人の輝士が腕を噛まれ、そのまま奥へと連れ去られた。


 化物共の狩りが始まったのだ。


 バレンは周囲を見回し、

 「テッサ――!?」


 慌てて首を回し、レオンは前を指差す。

 「あそこに!」


 テッサを背負った従士は懸命に前へと逃げていた。その後をついて走る一人の男の姿がある。


 その男はバレンに反抗したあの重輝士だった。走ってテッサを背負う従士を追い抜き様、不自然な姿勢から足を前に出し、テッサもろとも従士を転ばせた。


 彼がなにを目的としてそうしたのか。背後から迫る狂鬼を見れば明らかだ。その狂鬼の視線は転ばされた従士とテッサを捉えている。


 「あいつッ――」

 レオンは怒りの声をあげつつ、前のめりでテッサを目指し走り出す。


 バレンもまたレオンに続いて走り出した。

 狂鬼の爪が転んだ従士の足を掴み、後方へと投げ飛ばす。

 次に狙われたテッサに爪が振り下ろされる直前、レオンがかばうようにその身をかぶせた。


 「ぬぐッ――」


 走る足に限界まで力を込めた。手の中には最後の手持ちである石弾が握られている。レオンの前に背を滑り込ませ、後ろ手で分厚い盾を構築する。ためらうことなく振り下ろされた狂鬼の爪は、硬い石の盾を食い破り、その先がバレンの肩に深くめり込んだ。


 無意識に漏れる悲鳴をあげながら、食い込む爪から逃れるために身を低く落とし込む。


 レオンが咄嗟に構築された盾に触れ、一部を尖らせて反撃に転じる。盾はその表面から無数のトゲを生み出した。レオンは伸ばしたトゲを破砕させ、細かな石つぶてを狂鬼の顔面に浴びせる。


 ギャッ――悲鳴をあげ、狂鬼は怯んでその場から姿を消した。


 「いい判断だ……あれと戦うには、頭を狙う他にない」


 一瞬の笑みを消し、レオンの顔が青ざめる。


 「父上、怪我を……」


 バレンは首肯し、

 「肩を抉られた。が、問題はない」


 「ありますッ、血止めをしなければ」


 遮るように言ったレオンは、右肩から盛大に血を零すバレンを案じ、苦しげな顔をみせる。


 「アガサス重輝士、ご無事ですかッ――」


 駆け寄った者達がバレンを助け起こし、前を指さした。


 「この先は下りの傾斜地となっています。底へ降りましょう」


 痛む肩を押さえつつ、バレンは頷いた。そのままレオンを見て、


 「テッサは無事か」


 横たわるテッサの顔を覗き込み、レオンは小刻みに頷きを返した。


 森の奥から助けを求める声が響き渡る。

 歯を食いしばり、声のする方向へ身体を傾けた時、


 「無理です、父上。我々の力ではもうどうすることも……逃げましょう、せめて無駄にしないよう……」


 バレンは片方の拳を握りしめ、暗い地面を叩きつけた。


 「不甲斐ない……ッ」


 剣を取り、行き先を示すよう、角度をつけて地面に刺した。意味のない行動だとしても、せめてもの悪あがきだった。


 這うようにして、傾斜から眼下の景色を俯瞰する。

 そこは崖に囲まれた小規模の谷のような地形となっていた。部分的に人の足でも下れる程度の坂道となっている。


 バレンらと同様、狩場から逃げ延びた者たちが、距離をあけて同じように下を見下ろしていた。


 底は暗い。はっきりと地面の色も見えないほどに。


 取り返しのつかない道程となることへの不安も、背後から聞こえるおぞましい獣の声がかき消した。


 バレンは、レオンの背で震えながら苦しむテッサを見つめる。


  ――行くしかない。


 底へ向けて踏み出した。 




 降りた先にはまた、見飽きた森の景色が広がっていた。しかし、一帯はじめじめと湿気が多く、汁気を感じるほどじっとりと重そうな気味の悪い見た目をした植物が多く生息している。


 無事にここへ降りることのできた者たちは自然と合流を果たしていた。数名減っている。上に取り残された者たちがどうなったか、言うまでもなく皆、理解していた。


 「あれを……」


 一人が指さした先。崖の上から歯を剥き出した猿の面がじっとこちらを凝視している。黒く大きな目と嗤っているように割けた口。全身が凍りつくほどの恐怖に、バレンは必死に震える身体を押さえつけた。


 「足の速い者から先に行け。後ろを振り返らず、とにかく逃げ続けろ――命令だッ」


 その指示に戸惑いを見せつつ、レオンからテッサを預かろうとする者を止め、バレンは彼らを優先して逃がした。


 この状況、すでにテッサが足手まといとなっていることは誰の目にも明らかであり、それを救おうとする事は、やはり私情を多分に含んだ行いなのだ。その思いはレオンにも伝わっていた。見つめると、迷いなく頷きが返ってくる。


 大怪我を負ったバレン、そして動けない人間を一人背負うレオンは、当然集団の最後尾を行く事となる。


 ふらつく身体に活を入れるのも、すでに限界が近かった。


 ギギッ――――


 間近に感じた鳴き声に、振り返る。一体の狂鬼がそこにいた。まるでふくろうのように首を傾け、合わせた視線を一時でも離さない。


 ――わらうがいい。


 この猿に、そんな感情があるかどうかはわからない。が、バレンは確かにそう感じていた。この化物は、脆弱な生物を前にその無様さを、弱さを嘲笑っている、と。


 「後ろを見るな」


 レオンを押しながら懸命に走る。

 身体は飾り鎧を着込んだように重かった。


 背後から高速で迫り来る気配。僅かに振り返ると、狂鬼が低い位置から長い腕を伸ばし、バレンの足下を薙ぎ払おうとしていた。その時、


 前から送られた鋭い風刃と土塊の矢弾が狂鬼を襲う。狂鬼は不意討ちに小さく悲鳴を上げ、バレンへ伸ばしていた手を戻してその場から退くように転がった。


 「アガサス重輝士ッ!」


 先を行っていた者たちが援護をしてくれたのだ。彼らは奥へ招き入れるように、手を振っている。


 「すまんッ」


 一言残し、レオンと共に誘導された方へと走り込む。その先には、ぽっかりと岸壁に開いた洞窟の入り口があった。


 中へ駆け込む。地面のでっぱりに躓き、洞窟の入り口から奥へ転がり込んだ。


 助け起こされ、顔を上げたそこに、一人の男が座り込んでいるのが見える。バレンへ反抗を示し、またテッサとそれを背負う者を転ばせて一人で逃げた、あの男だ。


 四つん這いとなったバレンの背後から、突如レオンが声を荒らげて前へ飛び出した。


 「きさまよくもッ――!」

 レオンは男に飛びかかり、その顔面を拳で強打した。


 止めに入るだけの体力がないバレンは、

 「やめろッ」

 太く重い声が、洞窟の中で木霊して響く。


 されるがまま、抵抗する素振りを見せない男は、バレンと目を合わせた後、怯えたように顔を背け、とめどなく謝罪の言葉を口にする。


 二撃目の拳を振り上げたままのレオンは、不満げに男から手を離した。


 「今はそれどころではない――」


 バレンはそう言い、現在身を置く洞窟の中を見渡す。全体の壁際が見渡せる程度のほどよい広さ、そして見たところ入り口は一箇所のみ。敵を迎え撃つための好条件が揃っていた。


 「――狂鬼は?」

 バレンの問いかけに、

 「複数、来ますッ!」


 敵もまた合流を果たしたのだ。

 またあの恐怖が群れで襲いかかってくる。だが、もはや逃げの選択肢はない。


 「ここで迎え撃つ。輝士は両翼に、従士は武器を持ち、輝士の前面で待機だ。中へよく引きつけて頭を狙え」


 命令の通り皆が配置に就き、迎撃の構えを見せる。間もなくして、狂鬼の気配が洞穴の中に伝わってきた。すぐさま、あの不気味な猿の面がぬるりと中を覗き込む。長い舌で鼻先を濡らし、臭いを嗅いだその直後、狂鬼は甲高い声を一つ漏らし、侵入することなく身を引いた。


 しんと、空気は静まり返り、なんの兆候もなく時が過ぎる。


 「どうした……」


 漏れた疑念に呼応するように、従士が一人バレンへ呼びかけた。


 「アガサス重輝士、自分が見てきます――」


 許可を受け、従士は恐る恐る外の様子を調べに出た。


 「――重輝士……来てください」


 神妙に呼ばれ、バレンは外の様子を観察する。

 狂鬼はまだそこにいた。が、なぜか手の届かない範囲に身を潜め、森の木々の隙間から、じっとこちらを見つめて様子を窺っている。


 「なんのつもりだ……」

 バレンは訝りながら呟いた。


 あれほど強気に攻めてきていた狂鬼達から、まるで戦意を感じない。待ち伏せと知り、それを警戒しての行動かとも思ったが、これまで見せつけられてきた実力差からすれば、この程度の事にあの狂鬼らが怯えをみせるなど、到底考えられなかった。


 理由はわからずとも、状況は膠着状態となっている。じっと入り口の外に待機する狂鬼らがいる以上、ここから出ていく事もできないが、今は敢えて、そのことを考えたいとも思わなかった。


 ここまで逃げ延びてきた全員、疲れ切っている。


 脱出方法を考えなければならないが、今はそれ以上に休息が必要だ。肩の怪我の応急処置を受けながら、白く生気を失っていくテッサの顔を見て、バレンはそう思った。


 荒れた風の切れ端が、壁を伝って洞窟の中に吹き荒ぶ。中を満たした空気に、微かな夜の臭いが混じっていた。




     *




 静謐に冷めた風が通り過ぎる。


 夜が近い。が、どちらにせよ、すでに一帯は暗暗として闇が優勢である。


 空を隠す雲は重く厚みがある。暗い鈍色で覆われたそれが、地上の灰色の木々と合わさり、溶けて混ざり合ってしまいそうな錯覚に陥った。


 水気を含んで強く感じる土の臭いと相まって、一帯にはこれ以上ないほど雨の気配が濃厚になっている。


 ――降るなら、今がいい。


 シュオウのそうした思いに天は応えることなく、常に気まぐれな自然界の事象への語りかけに意味はない。


 ターフェスタの者らと遭遇した時と同様、追跡に難はなく、やはり逃げた先には多くの痕跡が残されていた。


 見る限り、どこにも死の気配がないことに僅かな希望を抱く。


 どこからともなく、タイザの吠え声が聞こえた。距離は遠からず、近からず。


 早足で追跡しつつ現状を整理する。


 ――状況は。


 先にいる者たちの生死は不明。しかし、少なくない人数のムラクモ側の人間が森に逃げ込んでいるという情報は、助け出したターフェスタの者達からも聞いていた。


 ――敵は。


 タイザは群れを成し、頑丈な身体と優れた身体能力を併せ持つ。たやすく攻略を挑めるような相手ではない。


 ――いいのか、このままで。


 胸中に湧いたその言葉に、迷いを誘われる。

 理性と経験は撤退を猛烈に促していた。生存のため、死地となりうる現場に自ら進んで入り込むのは愚かな行いとなる。


 だが、

 「嫌だろ、いまさら――」


 それは独り言というよりも、自身への問いかけだ。


 この先には、救いを求める者達がいる。彼らはまた、同じ木の下に集った仲間なのである。もし、一人でも無事に助け出す事ができる機会が残されているのなら、それを見捨てて帰る事は、酷く収まりの悪い心地を味わう行為となる。


 行く道には、さきほどとは比べ物にならないほど、タイザの濃厚な痕跡が見受けられる。おそらく、その数を数えるのに片手の指では足りないだろう。


 望む行いには同時に恐怖が付きまとう。去るために思いつく言葉は無限に湧き、止めようもなく溢れ出た。


 「――やるだけだ」


 弱気と共に、自らの言葉によって逃げ道を吐き捨てた。


 グンと足に力を込め、シュオウは先に待ち受ける戦いの地へ、深く足を踏み入れた。




     *




 タイザの目は赤を見る。


 生き残るため、色はなにより不可欠な要素だった。


 始まりはありきたりな生存競争。食うものと食われるもの、そうした関係から逃れるための事。


 種として、タイザを主食とする生物がいた。皮膚の外側を骨で鎧うその生物は、長い時間、ただ群れる事のみを得意としていたタイザにとって、生存を脅かす脅威の象徴となる存在だった。


 長く、果てしない時をかけ、種を繋ぐ。


 タイザは天敵が持つ鋭利で尖った牙から身を護るため、身体中から生やした強固な爪を帯び、頑強な鎧とした。


 丈夫な身体は生存への可能性を大きく広げた。敵の攻めを凌ぐ事ができ、戦いを挑む事も可能となった。


 ただ一方的に殺されるだけだった関係に変化が訪れた。


 狩られる側から狩る側へ。未熟な子供を守るため、予め天敵の数を減らす必要があった。


 天敵の色は全身を骨で覆うくすんだ灰色。その色は森の木々と同化し、巧みに身を隠した。


 身を鎧う骨は無臭であり、自慢の嗅覚も意味をなさない。狩りの過程で不意を突かれ、命を失う者も多くいた。


 生存のため、敵を探し出す術を強く望んだ。森の中で素早く、的確に敵を見つける事の出来る目が必要だった。


 骨と、それに似た性質のモノを森の中で浮かび上がらせる術。見たいモノにだけ、特別に目立つ色をつけるのだ。


 色はなにより目立つ赤。その質が高いものほど、際立って赤く、色を見分ける事ができる。


 獲得した新たな力は状況に劇的な変化をもたらした。もはやその相手は天敵と呼ぶに値せず、生存のための大きな脅威を消すことに成功したのだ。


 強固な身体、そして群れの絆に守られるタイザ達にとって、種の存続を脅かすほどの脅威はもはやない。


 健やかに種は増え、結果、獲物が枯れた。


 糧を得るため、タイザは群れを分け、各地へ向けて歩みだす。それもまた、生きるための選択だった。


 この時から、タイザは旅をする種となった。




 時は移ろい、連綿と続く命、僅かな変化。しかし、世界は無防備にあるがまま。




 過ぎゆく時の中で、一つの群れを率いるタイザの長は、遭遇した稀で貴重な機会を喜んだ。


 常において、群れは一つ所に留まる事がなく、当てもなく広い森を彷徨い歩く。その過程、他の群れとの遭遇は、一つの命が生まれ寿命をまっとうするまでの間に、一度もその機会に恵まれることがないほど稀な出来事だった。


 故に、通りすがりに偶然見つけた同族の痕跡は喜ばしく、逃すことの出来ない好機となる。


 接触を図るため、敢えて不快な石で出来た地面に印を残した。それは自らが率いる群れの強さを誇示するための行いだった。


 異なる群れは新たな種を運ぶ。それは閉ざされた世界の淀みを消す。望みへと至る経緯に思考はなく、ただただ、本能からの渇望だ。


 接触へのたしかな返答を得て、支度は整った。


 誰から教わるわけでもなく、方法は身の内に刻まれている。各々の出来を測る舞台を用意するのだ。


 獲物には困らなかった。領域を這い回るアレが、ほどよく争いの支度を整えている事を察知したからだ。


 アレは脆弱な存在だ。が、大群ともなれば、侮れない力も発揮する。力競べという目的のため、二つの群れはその時がくるのを待った。


 まもなく、時は満ちる。


 二つの群れは儀式のために他人事の騒乱へ飛び込んだ。


 目的は明快、そして単純。殺すこと、殺したモノの体液を浴びる事。その色、臭いがより濃いほど強さの証明となり、優れた相手と子を残す事ができる。


 強い血を残すこと、強い種を得ること。そのために、群れは狂ったように殺しに励み、結果は上々だった。


 食うための狩りでなくとも、事を成せば腹が減る。よく動くモノを敢えて逃がすのは、労いを兼ねた余興のため。


 若く未熟な者達に狩りを教えるのに、これは絶好の機会となる。


 逃げる獲物は仕掛けた攻撃に対し、必死に反撃をしてみせる。それは活きの良さの証明でもあり、この遊びに、まだ楽しむ余地が残されているという事でもあった。


 群れの長は歓喜の叫びを上げた。


 狩りはまだ、続く。


 先陣が獲物を追い立て、手に入れた獲物をまとめていた最中、とある音が聞こえた。


 その遠吠えは細く、切なさを秘めて耳に届く。声は別の群れから発せられたものだった。


 なにより不快で、不安を伴うその音の意味は――仲間の死。


 必然として、そこには警戒を促す意味も含まれる。


 経験から、いくつかの可能性へと思いが巡る。風に乗り違和感を伴う臭いが漂ってきた。逡巡は遮られ、獣の本能が全身の体毛をびりびりと震わせる。


 風が運んできたもの、それは恐怖だった。


 その臭いは仲間のものと酷似していた。さらに獲物の血の臭いが混じり、臭気はさらに主張を強めている。違和感を伴うのは、そこに加わるもう一つの臭いだ。


 濃さを増していく臭気を追い、来た道を振り返る。


 時を置かず、違和感の正体は判明した。


 狩りの獲物である、アレだ。


 しかし、その数は一体だけ。怯えて逃げ惑うばかりである脆弱な獲物であるはず。にもかかわらず、目の前に立つアレは、じっとこちらを凝視し、佇んでいる。


 目の前に現れたアレは、一本の大きく尖った骨のような物を携えていた。それを見て、タイザの長は肩を竦ませる。


 赤――――


 それは煌々として光を伴って見えるほど、強烈な赤い色。長い年月を経て獲得したこの力も、すでに形骸化しつつある。が、本能の奥深くに刻まれた記憶が微かに呼び起こされたのだ。


 本能は告げていた、この色は、脅威の象徴である、と。


 濡らした鼻先に、仲間の死臭がこびりつく。


 戦おう、とその眼が言っていた。


 なにかが違う、他の獲物とコレは。


 察知した非常事態に、長は群れへ向け、深く、重く唸った。


 その音は、なによりも明確に意志を告げた。


 ゆっくりと口を開く獲物の顔を観察しながら、タイザの長は戦いの始まりに備え、深く深く、その身を沈めた。




     *




 深い森の奥、木々の中に充満した獣臭を感じ、飛び込んだ先にタイザの群れが在った。


 木々に遮られ、正確な数はわからない。


 暗がりのため、タイザの姿形は、まるで影だけがそこにあるかのように、黒く塗りつぶされている。その足元に幾人かの人間が重なるように置かれていた。


 「俺の仲間達はまだ生きているか――」


 シュオウの問いかけに、対するタイザは意味を解さぬ、という風に喉をグル、と鳴らした。


 横たわる者たちは身じろぎをして、まだ命を繋ぎ止めている様である。だが、身体の一部を欠損した者もあり、決して安心できるような状況ではなかった。


 シュオウは奥歯を噛み締める。


 前にいるタイザはこれまで見たどの個体より、なによりも強靭さを帯びていた。他の成体とは違い、佇まい、雰囲気に威厳や風格を漂わせている。


 ――統率者。


 場の雰囲気から、自然、そうであろうと予想する。


 眼前のタイザが踏ん張るように四足の爪を地面に穿ち、見上げるように首をあげ、重々しく吠えた。


 左右、木々の間から四体の黒い影が姿を見せる。二体は小柄、あとの二体は戦場に現れたものと同程度の体格をしている。


 強い血臭を感じた。


 黒い影の頭部に、白く剥き出しの牙だけが、ぎらりと存在を主張した。敵意は計るまでもない。


 シュオウは剣を引き抜き、だらりと切っ先を地面に下げる。


 タイザ四体が同時に駆け出した。この時点で悟る。敵はシュオウに対し、全力を以って排除すべき敵であると評価したことを。


 尋常ならざる力を秘めた化物が四体同時に襲いかかる。その光景はまさに、身一つで嵐の中に佇んでいるように、心細さを思わせた。


 シュオウの眼には緩やかな動作に見えていても、タイザの一撃は十分に速さを維持している。完璧な回避、そこへ至るまでの道筋の答えを出すには、あまりにも時が短い。


 ほぼ同時に見えるタイザらの攻撃にも、僅かながら時間差は存在する。


 ――上半身を目掛けての爪のなぎ払い、腹を狙った突き。


 一撃目から二撃目の位置を予測し、シュオウは上体を逸して最初のなぎ払いを躱し、次に胴を狙った突きの一撃に対し全身をよじってこれを躱した。そのまま地面を蹴って跳ね上がり、足元を狙って僅かに遅れて手を出してきたタイザの顔面を切りつける。最後の一体から強烈に振り抜かれた腕を蹴り上げ、後ろ向きに半回転して距離をとった。


 ――次。


 敵の勢いは死んでいない。顔面を切りつけた小柄なタイザは自身の面を撫で付けた後、睨んで大きく叫び声を轟かせた。握った拳で地面を打ち鳴らし、誰よりも早くシュオウへ向けて飛び込んでくる。


 この攻撃を避けるのは容易かった。振りかぶった腕が通る道は予想をつけやすい。回避し、次の動作をどうするか思考したその瞬間、シュオウの視界にぞっとするようなモノが映った。


 身を低く、転がるようにして入り込んできた一体のタイザ。その手の先はシュオウの足を掴むべく、開いて前へと伸びている。


 ――掴まれたら。


 手中に落ちれば、その瞬間、待ち受けるのは死だ。


 選べる動作は、すでに選択肢の多くを失っていた。しかし、なによりも敵の手に掴まれることだけは避けねばならない。


 無理な体勢のまま足を蹴り、後退する。最初に放たれたタイザの一撃はそのままシュオウ目掛けて襲いかかる。完璧な回避への道は、失われた。


 同時に左方からも別の個体が向かってくる。


 ――回避は。


 思考の直後、


 ――避けられない。


 可能性は即答で否決される。


 この時、思考が導くのは回避への道筋ではなく、生存に向けた手順となる。


 敵の攻撃が身体に当たる。避けられない状況だが、しかしどこでそれを受けるか、選択肢はまだ残されていた。


 ――肩だ。


 自身の身体能力が許す限界までの行動、上半身をよじり、攻撃を待ち受ける。だが、直前になりタイザの腕に微かな加速がついた。見通しよりもずっと早く、その一撃が迫り来る。


 「ッ――!!」


 タイザの拳は肩を超え、顔面に迫る。その軌道は、


 ――あご


 タイザの拳が顎に届く。全力を込めて回避に努めても、ぎりぎり、小指の先ほど距離を開ける事ができない。


 ――痛みの程度は。


 かする程度の事、十分耐えられる。が、


 ――頭が、揺れる。意識が、切れる。


 見通しは暗い。


 シュオウは手にした剣に回転をつけて放り投げた。その回転と落ちていく高さを見ながら、襲いくる一撃を待ち受ける。


 頭のすぐ側に、黒い拳が現れる。直後に風切音が耳に届き、視界は天地の区別を失うほど激しく揺さぶられた。


 ――――――――。


 ただ、真正の暗闇。


 すべての音は消え、世界との繋がりが消滅する。


 「――――」


 音が聞こえた。


 耳の奥を突き刺すような風鳴り音。


 木々の音、風の音、幾重にも折り重なる命の音。そして、獣の唸る喉の音。


 ゴオ――と、ありとあらゆる音が耳朶の奥に雪崩のように押し寄せる。


 「――――ッ!」


 シュオウは眼を見開いた。冷めた空気を胸いっぱいに吸い込んで傾いていた首を直し、空中で回転したまま落ちる剣を、見る。


 ――一回転半。


 最後に見ていた剣の位置から落下した回転数を知る。そこから意識を落としていたおおよその時間を計算した。過ぎた時の分、視界の外から迫りくる敵の攻撃の到達を予測する。


 身体を捻りながら前転した。直後、直前までいた地点へ、タイザが猛烈な勢いで走り込んでくる。


 落下途中の剣を握り、直線上に走り抜けるタイザの目元を切りつけた。


 眼球を切りつけられたタイザは悲鳴を上げ、目を押さえながら半狂乱に転がり、大木の幹にその身を強く打ち付ける。


 そこへ向け、走り込みながら剣を捨て置き、腰から針を抜き取った。


 ――下から。


 黒い影としてしか視認できないタイザに対し、体毛とその下にある鎧のような鱗を想像する。腰の辺りから針をすくい上げるように突き入れた。幾度かの滑るような感触の後、期待した、たしかな感触が返ってくる。


 ――かかったッ。


 硬い感触が途絶え、針の先が柔い肉の感触をたしかに伝える。すべての体重を乗せ、シュオウは針の先をタイザの身体に突き入れた。


 ギギャャッァァァ――


 醜い悲鳴をあげ、タイザは身体を痙攣させ、血反吐を吐いて首を落として脱力した。


 屠った獲物を背負い、シュオウは対する別のタイザらを睨めつける。


 猛烈な攻めの様相はこの時、雨に濡れた松明のように、微かな煙を残して消えていた。


 肩を怒らせたまま首を竦め、身を低くして歯を剥き出して唸り声を漏らす。威嚇の気を見せているようで、タイザ達は明らかに動揺の気を帯びていた。


 奥から、長と思しき個体が姿を見せる。


 シュオウは両足を広げて立ち、威厳あるタイザと対峙した。


 「続けるなら、こうなる――」


 シュオウは半身を後ろに下げ、針を突き刺したまま仕留めたタイザを見せつけた。


 地鳴りのように深く、タイザは唸った。言葉はわからずとも、放つ意思は伝わっている。


 「――引けばここで終わる。これ以上の傷は負わずにすむ」


 一瞬、空に敷き詰められた厚い雲に、薄い切れ間が生じた。


 暗所に置かれた一本の蝋燭のように頼りない微光が、タイザの面をおぼろに照らす。その目には、他の個体とは違う、相手を窺い計るような、優れた個が持つ資性があった。


 群れには行動を決定する統率者がいる。意思決定権を持つ存在に、現状が戦う価値のない状況であることを理解させる事ができれば、無益な命のやり取りを終わらせる事が出来るはず。


 古く、時を刻んだタイザの目と対峙する。


 一歩とて退く気はない。瞬くことも忘れた片眼で、シュオウは強く意思を示した。


 オ゛オ゛オ゛――


 長から発せられた重い一吠えで、他のタイザ達は前を向いたまま、静かに後退を開始した。


 露骨に緩んだ空気を感じ取り、シュオウもまた、肩に溜めた緊張を解いていく。


 ――退いてくれた。


 溜め込んだ緊張を呼気として吐き出した。


 木々の合間に吸い込まれ、徐々に姿が見えなくなっていくタイザ達。最後尾につく威厳あるタイザは、ゆっくりと背後へ向き直り、戦いの意思がないことを告げるようシュオウへ背を向けた。その直後、


 大風が巻き起こり、天上から闇をつんざく雷光が轟いた。


 空を見上げた。

 立ち込める重い雲から、大粒の雫が降り注ぐ。


 一瞬のうち、一帯は豪雨に包まれる。


 後ろを向き、去る直前だったタイザの長は、その場で動きを止めたまま立ち尽くしている。黒い影がゆっくりと振り向いた。


 ズン――と、爆音を伴って雷光が降り注ぐ。一瞬だけ世界を白く染めた稲光が、正気を失い、凶悪な顔相で前を睨むタイザの面を映し出す。


 シュオウは恨みがましく天を見た。


 雨に濡れ、顔に張り付く前髪をそのままに、

 「今じゃない――」

 そう零し、一人、その場で自虐的に乾いた笑いを零した。


 針を抜き取り、シュオウは横たわる者たちの元へ向かった。無事をたしかめている余裕はなく、少しでも雨がかからないよう、彼らの外套をとって隠すように被せる。


 雨粒に濡れ、雫を垂らす複数の黒い影が、四足を這わせ、徐々に距離を詰めてくる。


 シュオウは針を振り上げ、近くにある大木の幹に叩きつけた。挑発を受け、タイザらが怒り狂った形相で鋭い牙を剥く。


 走る――――なにに向かってでもなく、動かねば死ぬと、本能が訴えた。


 左右に展開した二体が、それぞれ木の幹を蹴って弾みをつけ、シュオウ目掛けて突撃した。


 回避のため、身体を捻りつつ跳躍する。行動に反撃を挟む余地はなかった。


 空振りに終わったはずのタイザの攻撃、しかし背後から鈍く打ち付けたような音が鳴る。


 振り返って見た先では、同時に攻撃を仕掛けてきたタイザが、片割れを勢い余り殴りつけていた。拳を受けた一方のタイザは仰向けに地面に倒れ、身体を痙攣させながら、立ち上がれずにいる。


 さきほどとは明らかにタイザ達の様子が変わっていた。闘争本能だけが剥き出しとなり、仲間の安全に向けた意識が欠如している。


 前のめりに前転をした後、体勢を整えるよりも早く、左右から別のタイザが、また二体同時に迫りくる。その速さは想像を絶した。


 緩く流れる光景――シュオウは歯を食いしばり、眉間に力を込める。


 眼は目まぐるしく変わる世界を、連続する絵のように分けて見とる事ができる。得ることのできるのは、なによりも時。緩慢に過ぎる光景のなかで、結果を見るよりも早く思考する事ができる。それこそが、自覚する最も優れた生存へ至る有利となる。


 左右から敵意の迫るこの瞬間、シュオウの思考はただ一つ、避けることのできない結果を予測した。


 ――当たる。


 顎にタイザの拳がかすった時よりも、さらに状況が悪い。


 我を忘れたタイザの動作は、さらに速さを増していた。常日頃、己や仲間の身を守るために抑えている力が、すべて解放されているのだ。


 すでに別の攻撃を回避した直後、不利な体勢で受けるこの攻めに対し、回避への道筋はまるで可能性を見出だせない。


 二体からの攻撃をどちらか一方でも躱す事ができない。ならば残された道はただ一つ、


 ――一体はとる。


 低く身を屈め、針を構えた。


 左右から伸びるタイザの豪腕、その距離が間合いに入った瞬間、地の底から打ち上げるように、右からきたタイザの腹部に針を突き刺した。


 致命傷を受けタイザは苦しげに顔を歪めるも、猛烈に駆けてきた勢いは生きたまま。シュオウは刺し入れた針をそのまま強く握りしめる。咄嗟の判断で、自身の立ち位置に不確定な要素を取り入れた。


 刺した針に身体が振り回される。強すぎる勢いと降りしきる雨により、握った手はすぐに振りほどかれた。


 眼は左からきたタイザの襲撃を捉えていた。一連の行動の結果、全身で受けるはずだった攻撃を、本来の狙いからはずすことに成功した。だが、


 「つッ――」


 すれ違い様、タイザの爪の先が腹をかすった。ぴり、と脳天まで鮮烈な痛みが突き抜ける。


 一撃を振り抜き、タイザは暗闇のなかへ溶けるように消えていく。


 切り裂かれた腹を押さえつつ、討ちとったタイザを見る。その様は前のめりに、針を抱え込むように倒れていた。


 ――回収を。


 しかし、その余裕もなく頭上からがさりと木々の揺れる音がした。見上げた先に、白く浮かび上がる歯が見える。


 ギャッ――――


 耳に残る醜い声を上げ、巨体のタイザが飛び降りる。振り上げた両の爪、間合いに入るより先に仰け反って後退し、これを避けた。


 この状況で頼りとなる針は、タイザの体内に突き刺さったまま、置き去りになった。


 すぐ側で雷光が大地を穿つ。轟音で空気が振動し、白光が眩いほど世界を照らした。


 後退し、向きを変え、前へと直走る。


 後方から一体、タイザが追ってきた。


 腰にある予備の小剣を抜き放つ。


 シュオウは木の陰に背を預け、ぐるりと回転を加えて向きを変え、足元に落ちていた太めの木の枝を拾い取った。激しい動作により、腹部に強烈な痛みが走る。


 敵は一体。


 だからといって軽く攻めかかる事のできるような相手ではないが、雨に濡れてからのタイザは、勢いこそ大きく強化されているが、攻め方はより短絡的であり、その動きは読みやすい。


 四足と爪で大地をひっかき、超速の突撃をかける。これまで幾度か見てきた、このタイザという名の狂鬼が好む戦闘姿勢だ。


 先手の突撃を躱した。際どくすれ違う途中、タイザの黒々とした眼球を目掛け、


 「閉じろッ――」


 剣を突き刺した。直後に、片方に握っていた木の枝を、もう一方の眼球に突き刺す。


 二つの目の機能を失ったタイザは、悲鳴をあげて転げまわる。殺すには及ばずとも、戦闘を継続するだけの余力はもはやない。


 息を整える間もなく、暗い世界にさらなる影が落ちた。


 ヴゥゥ――


 抑えようもなく全身が総毛立つ。背後から聞こえたその声は、音だけでなく、たしかな吐息を首筋に感じた。


 錆びついたようにぎちぎちと首を回す。眼に写るその姿――あの威厳あるタイザが、そこにいた。


 毛深い左腕が伸びて迫る。

 咄嗟に得物を求めた腰に、もう対抗し得る物は残っていない。


 しゃがみ、強引に身体を捻って木の幹の陰へ飛び込んだ。無理な体勢をとり、腹に裂けるような痛みが走る。傷が広がったのだ。その場にうずくまり、患部を手で押さえたくなる衝動に駆られた。


 人間の足でタイザの追撃から逃れることは難しい。目指すのは、倒したタイザの身体に刺したまま置き去りとなっている針だ。


 縋るように飛びつき、骸から目的の物を引き抜いた。


 荒い鼻息がすぐ側に迫る。振り向きざま、シュオウは針を後方へ突き出した。


 引き裂くために繰り出された爪をすれすれに躱す。


 知り得たタイザの特徴を元に、継ぎ目に空いた隙間を思い描き、針の先を突き入れた。が、


 「くッ――」


 他よりもいっそう、対峙するタイザの鱗はゴツゴツとした凹凸の激しい歪さを備えていた。まっすぐ刺し入れたはずの針の先ははじかれ、タイザの肩に突き刺さる。


 ――浅い。


 追い打ちを望むも、ここはすでに敵の間合い。タイザが大きく口を開いた。


 ――噛まれる。


 シュオウは針から手を離し、距離をとった。


 針はタイザの肩に刺さったまま。当然、それは致命傷には足りず、猛り、怒り狂う現状にさらに油を注いだだけ。回収を望めば、敵の間合いに素手で入り込まなければならなくなる。そして、現在対峙する相手は、それを容易く許してくれるような易しい存在ではないのだ。


 ――忘れろ。


 執着を捨てる。なによりも、今は逃げる事が最優先。状況に変化をもたらすため、何か別のモノが必要だった。


 走った。ひたすらに走る。


 直線的に攻めてくるタイザを避けるため、木々の隙間を縫うように駆ける。


 僅かに、開けた空間に行き当たった。


 ――剣。


 深界の深い森の中。場違いに地面に突き刺さった一本の長剣がそこにある。


 まるで行く先を示すように、意図して傾けて突き刺さっている。シュオウは走り込み、その剣を抜いた。


 オオオオ――激しい雨音を掻き消すほどの一吠え。


 後方から今まさに、あのタイザが迫っている。


 瞬きよりも速い一瞬の事、シュオウはタイザの胸の下から長剣を突き入れた。激しい突進を避ける事ができず、断末魔の悲鳴をあげて倒れ込むタイザに押し飛ばされる。


 背後は急な坂になっていた。


 重い身体の下敷きとなりながら、坂の底へと転がり落ちる。地面に身体が打ち付けられる寸前、できた隙間から抜け出し、最低限の受け身をとって転がった。


 ついた泥を、強雨が即座に洗い流す。


 がさ、と植物が揺れる音。


 奥から四体ものタイザが顔を出す。例外なく、敵意が一帯に充満する。


 ――傷は。


 切り裂かれた腹に触れ、深さをたしかめる。裂かれた肉はぎりぎり、内臓にまで達していない。しかし、


 ――耐え難い痛み。


 痛みは人を鈍らせる。それは身をもって教え込まれた理念であり、知識である。思いつくかぎりの痛みについて経験してきた。同時に、これを耐え忍ぶ術もまた、シュオウは学び得ている。


 身体中に感じる痛みを他人事のように俯瞰する。肉に受けた傷、そこから生じる痛み、不安、恐怖。心が宿す平常心がそれに勝れば、己を見失う事態は避けられる。


 急場の処置で、強引に腹に血止めを施した。


 ――まだ。


 現状を知り、分析して評価を下す。


 ――戦える。


 シュオウは立ち上がった。背後にある坂の上からも、他のタイザの気配を感じる。前後を挟まれ、やはり逃げ場はない。


 「もういい――」


 雨のなか独りごちて、シュオウは絶命したタイザの長から剣と針を引き抜いた。


 「――全部倒す」


 どす黒い血を滴らせる剣先をそっと寝かせ、シュオウは自ら狂ったタイザの群れへと飛び込んだ。




     *




 ――音。


 雨音で目が覚める。


 黒色の岩肌。暗闇。ここがどこか、思い出す。


 身体を起こす。激痛を伴うはずの肩の痛みが、分厚い布の奥にある事のようにぼやけている。


 ――外は。


 バレンはその事が真っ先に気になった。


 零れて入る雨の雫が、入り口の突端を濡らしている。


 降ったのか。


 そんな思考も、どこか他人の言葉のように頭の中で呟かれた。


 ――なにか。


 なにかを忘れているような心地がする。忘れてはならない、なにかを。


 汚れた輝士服を握りしめた。


 増していく不安感。左右に行き来を繰り返す眼球と、速まる鼓動。


 「そんな――」

 不安に駆られ、

 「――レオン、テッサ」


 慌てて二人を探す。両者とも、手を伸ばせば届く位置にその身があった。


 二人共に肩が呼吸で揺れている。安堵を得て、全身の力が抜けたように、バレンはその場に腰を落とした。


 ――なぜだ。


 周囲を見るに、ここへ逃げ込んだ者たちは皆が無事なまま。ぐったりと力なく項垂れる者、伏して眠りに就く者など、様々ではあるが、たしかに全員がここにいる。


 見張りに立てたはずの者達もまた、ぐったりと力なく入り口の側の壁に寄りかかっていた。


 なぜ、家族や部下達よりも、外の様子を真っ先に気にかけたのか。バレンは自身へ責めるように問いかける。


 激しく痛みを感じて然るべき肩の傷も、まるで麻痺をしたように感覚が鈍くなっている。


 ――死期が近い、か。


 怪我を負った肩に触れながら項垂れる。


 傷を負い、血を失い、体力を使い果たし、袋小路に飛び込んで、脱出するための手立ても失った。


 死が間近に迫り、あらゆる感覚が鈍くなっているのだ、とバレンは思った。


 今もまだ、外にいるであろう狂鬼達がどうなったのか。


 ――雨に濡れたか。


 しかし、その事が逃げるために有利に働くとは思えなかった。


 ――なぜだ。


 思えば、なぜあの狂鬼達はこの洞窟の中へ入ってこなかったのか。


 ――恐れた、か?


 疑問の上に、さらに疑念が上塗りとなる。


 ――いったいなにを。


 待ち伏せを警戒してか。自覚する現実と照らし合わせ、否であると自答する。


 結果的に、逃げ込んだこの洞窟は安全地帯として機能していた。しかし、なぜそうなったのか理由がわからない。


 ――いや。


 バレンは、あり得る可能性の一つに思い至っている。しかし、頭が考えるそれを、心が否定しているのだ。


 改めて周囲を観察する。


 皆の様子がどこかおかしい。くたびれている、戦の最中の混乱の後、慣れない森の中を逃げ続けていたのだから当然だ。しかし、全員が気だるそうに身体を横たえ、一言も言葉を交わす様子がなかった。どうにも最低限の生気すら感じられないような気がする。


 彼らと同様に、横にいて身体を地面に沈めるレオンも、しかし眠っている様子はない。薄く目は開いていて、それでいて、どこかありもしない幻の世界を漂っているような虚ろな表情をしている。その顔には、恐怖も憂いも、一切の感情の色が見えなかった。


 ――おかしい、なにか。


 ふと、甘い香りが鼻先をくすぐった。その香りを嗅ぐと、不思議と心を占める不安が軽くなった。


 ――いや…………なんだったか。


 白く、甘く、思考が濁る。


 それは場違いな香りだった。


 甘やかであり、罪の意識を刺激する。


 強引に、香りが記憶を引きずり起こした。


 若い頃、想い人がありながら、同輩の女性に焦がれるような感情を抱いた。ある日、彼女が酒に酔い、肌を露出した姿で舞っていた、あの姿。威厳ある輝士として、一人の心に決めた相手を想う者として、ふさわしくない事だと思っていた。しかし、舞いが終わるまでの間、心が鷲掴みにされたように、目を離す事ができなかった。


 香りはいっそう、強さを増す。


 ――あれは。


 生まれた我が子を抱いた時のこと。アガサス家の特徴を強く受け継いだ我が子へ抱いた罪の意識。周囲から煙たがられるであろう険しい目元を見た時、容姿によって苦労をかけることがわかっていた。生まれながら、いらぬ難を背負う我が子を不憫に思いながら、しかし、幸せだった。


 頬が緩み、またすぐに重く歪んで底へと落ちる。


 去来する喜びと苦しみは常に一対。苦しさの果てに喜びを得て、また喜びの先に苦難が前を塞いで立ちはだかる。


 繰り返し、繰り返し。止むことのない連続。その果てに今がある。


 さあ――と、砂が流れて落ちるように音が、消えた。


 無音のなかに、ぼんやりと苦しげに唸る、テッサの嗚咽が聞こえてくる。


 バレンは両の手で自身の耳を強く叩いた。


 ――いったい、今までなにをしていた。


 ここへ来る前から、今までもずっと、愛娘は毒に侵され、その苦しみに声を濡らしていた。それなのに、眠りに落ちていた時から今までずっと、耳は外で降りしきる雨の音しか拾っていなかった。


 横たわるテッサの額に手を当てる。玉のように浮かぶ汗の奥、高熱を手の平に感じた。


 「いた、い……くる、しい……」


 身を縮め、テッサは自身の身体を掻き毟る。横向きになった目の奥から、とめどなく大粒の涙が溢れて流れる。顔色は蒼白、健全な人の肌色を、もはや保っていなかった。


 震えるテッサの肩をゆっくりと撫で、

 「……すまない…………」


 ――判断を誤った。


 上官を助けるため、己を犠牲とした。結果、なにより大切な家族の命を危険に晒してしまった。


 若人達の導き手としての責任がありながら、幾人かを見捨ててここへ逃げ込んだ。化物は攻めの手を緩めたが、外へ出ていく気力はもはや、ない。


 現在地もわからぬ森の洞窟の中で、枯死するのを待つばかり。


 「なんという無能か……」


 恥を感じた。


 部下を守れず、家族を守れず、己の身を守ることもできない。


 ――失敗した。


 あの男の言う通り、死を覚悟して個々に逃げ惑うべきだった。その結果に酷い死があったとしても、苦しみをただ引き伸ばすよりもましだった。


 ――愚かだった。


 己の命を、自身を守るために使っていたら。今頃はきっと、外壁に囲まれた暖かい建物のなかで、熱い湯で汗を落とし、労いの美味い食事にありついていたはず。


 失敗と後悔、懺悔を経て、自責する。


 「は……ッ……」


 痛々しい声に呼ばれたように、バレンはテッサの弱りきった姿を凝視した。


 眼の前にあるこの光景は、バレンにとって自身の犯したすべての失敗の結果だった。


 時を戻す事はできない。が、失敗に対して、その後の処置の方法は、まだいくつかの選択肢が残されている。


 地面に捨てるように置かれていた一本の剣へ手を伸ばした。良質な輝士の長剣だ。鞘から抜き放ち、零れ落ちた刃で手の平を切りつけ、たしかな切れ味があることを確かめる。


 テッサを仰向けに寝かせた。


 どれほどの苦しみに耐えているのか、いつのまにか、あちこちを掻き毟る指先の爪が剥がれ落ち、剥き出しとなった肉から血が滲んでいる。口のまわりには血反吐がこびりつき、鼻からはどす黒い体液がこぼれ落ちていた。


 突如、テッサは顔面を押さえて悲鳴を上げた。無理矢理に手をこじ開けると、そこにあるはずの瞳は、まるで焼けただれたように黒く溶け落ちていた。


 胃の奥からこみ上げるものを懸命に堪える。そもそも、吐き出すものなど何も残ってはいなかった。


 胸の奥で、なにかがふつ、と音を立てて切れた。


 ――今すぐ、楽に。


 それは使命感だった。これ以上、我が子を苦しませたくはない。


 バレンは必死に立ち上がり、手の平から溢れる血も無視して剣を握った。


 今もなお、悲鳴を上げて顔面を掻き毟るテッサの胸の真上に、剣の先を合わせて置く。その時、持ち上げたバレンの腕を誰かが掴んだ。


 「ア、アガサス……重輝士……」


 血走った眼で、バレンは横目に声の主を見る。森の中で反抗し、テッサを置き去りにして、一人だけでこの安全地帯へ先に逃げ込んでいた、あの男だった。


 「手を離せッ」


 「いけません、親がその手で子を殺める、など……」


 煩わしく、忌々しい、とそう感じた。


 「これほど苦しむテッサの姿が見えないというつもりかッ! お前は、またそうやって私に逆らうつもりなのか!」


 沸き立つ怒り、苛立ちにまかせ、片腕で男を思い切り弾き飛ばした。男は岩肌の上に身体を横たえ、それでもなお、バレンを止めようと手を伸ばす。


 「どうか…………」


 引き止めるために声を絞るも、しかしそれ以上身動きをする余力は残っていないようだ。


 洞窟の中、誰からともなく、みじめにすすり泣く声が木霊する。共感の念を感じ、根拠もなくその事に感謝した。


 テッサの悲鳴がまた、耳に届いた。


 「待っていろ、今、楽に……」


 向き直り、再び剣を向ける。


 「…………」


 すぐ側で横たわるレオンが、薄く目を開け、バレンを見つめていた。その首が幾度か頷いたように見えた。


 瞬きをしないまま、乾ききった目でテッサを見下ろした。振り上げた剣を握る拳に力を込める。


 呼吸を止める。


 救いを振り下ろす寸前――――


 「く、ぐッ……」


 石化したように、上げた腕を下ろす事ができない。


 硬直したまま、バレンの頬を熱い雫が止めどなく流れ落ちる。


 両の目を失い、爪が剥がれ落ち、生きるだけ苦しみを享受する有様。愛娘はいま、誰よりも慈悲と救いを必要としている。


 しかし――


 下すべき決断、下ろすべき手から、からりと音をたて、剣が零れ落ちた。


 バレンはその場に跪き、嗚咽を漏らす。


 「できない…………私には、娘を、殺す、など……」


 だらしなく、そして惨めに、目鼻口から液を垂らし、硬い地面に頭を打ち付ける。


 「やるしかない、やるのだッ! やらなければ、テッサが……」


 血走って見開かれたまなこに、もはや理性の面影はない。


 意を決し、バレンは再び剣を握った。


 「ああああッ!」

 咆哮をあげ、がたがたと震える手を振り上げたその時、


 「やらなくていいッ――」


 洞窟の中に響いたその一言に、バレンはテッサの胸の上寸前で剣の先をぴたりと止めた。


 その声はおかしな方から聞こえてきた。化物がひしめく森が広がる入り口からだ。


 激しく雨に打たれた姿で、一人の従士服を着た男がするりと洞窟内へ足を踏み入れる。その姿に、覚えがあった。


 いくつかの事が重なり、その存在をとても気にかけていた。その名前はたしか、そう。


 ――シュオウ。


 シュオウの纏う濡れて泥まみれの従士服は、酷く損傷し、破れた箇所からは血を流した痕が見受けられる。


 洞窟にいた全員が、シュオウへ視線を向けていた。だが、誰一人その場から立ち上がる者はいない。


 シュオウはバレンへ歩み寄り、手に握ったままの剣へ触れ、

 「預かります」


 剣を奪われそうになり、焦燥に駆られた。


 「テッサを楽にしてやらねばッ」


 シュオウは神妙な顔で首を振り、

 「本当にその必要があるのか、もう一度よく考えたほうがいい」


 シュオウは静かに言って、濡れた指先を弾き、水滴をバレンの顔に当てた。


 バレンは冷たい雫を厭いつつ、強く憤り、

 「なにをッ――見てわからないか、テッサの手を、この目を……見て、も…………?」


 まじまじと、改めて見つめるテッサの顔に、なんら傷を負った様子はない。溶けて暗く落ち窪んでいたはずのそこには、綺麗で淀みない目蓋がたしかについている。そして、酷く剥がれていたはずの指の爪も、平常時のままだった。


 バレンは激しく混乱し、握りしめていた剣をがらりと落とした。


 「な、なぜ……そんなはずが……たしかに見たのだ、さっきまで、あんな…………」


 シュオウは落ちた剣を取り、一人洞窟の奥へと歩を進める。


 他の者たちと同様、バレンはその背を目で追った。そして、この段階に至り、なぜ彼がここにいるのか、という疑念を初めて抱く。


 シュオウは奥の壁際に立ち、靴のかかとで前の壁を細かく蹴り始めた。


 「深界で、死に場所を求めて彷徨う生き物に、安らかな居所を与え、自身の中に釘付けにする珍しい虫がいる。まるで臓腑だけで出来たような生物〈フクド〉。小さな洞窟に住み着いて、毒性のある臭気を撒き、体内に入り込んだ生き物の生を奪って、まるごと糧として取り込む、悪食の狂鬼だ」


 淡々と語られる言葉の意味を、バレンは理解できずにいた。シュオウはまた、継続してなにかをたしかめるように壁を蹴りながら言葉を紡ぐ。


 「臭いにやられると心を蝕まれる。やる気を削がれ、希望を失う。身体の機能が停滞し、考える力もなくし、そのせいでありもしない幻を見ることがある」


 シュオウは蹴る足を一箇所に集中させ、そこを剣で叩いた。硬い音が鳴る。それは岩を叩く音とは明らかに違っていた。ずっと固く繊細で、震えを帯びたような硬質な響き。


 シュオウは剣を置き、腰に差した尖った得物を抜いた。本来の色であろう白に、血のような黒いものがべっとりとこびりついている。その武器の尖った先を、前にある漆黒の壁に当て、勢いをつけて突き刺した。


 悲鳴のような甲高い音が鳴り響き、耳に痛いほど洞窟の中に反響した。その瞬間、黒い光の粒が舞い散り、天井を突き抜けて空へと昇っていく。暗くて見えないが、洞窟の中にあった薄皮が一枚、剥がれて消えたような心地を感じた。


 バレンはその光景に目をやり、

 「光砂……」


 言葉もなく、その光景に見入る皆を他所に、シュオウは突き刺した武器を引き抜いて、テッサに歩み寄って様子を窺った。


 「なににやられた?」


 シュオウの問いに、側にいたレオンがテッサが傷を負った時の状況を説明した。


 シュオウはレオンの説明へ幾度か頷きを返し、

 「処置が間に合えば治癒できる。危険でも、それでもここへ逃げ込んでいてよかったんだ。フクドの中では身体の機能が鈍る。おかげで毒のまわりが遅くなった」


 シュオウは腰から小さな筒のような入れ物を取り出し、おもむろに中に入っていた茶色い枯れ草を噛みだした。


 バレンは目まぐるしく動く状況に翻弄されつつも、シュオウの言った一言に強く反応する。


 「待て……治癒、と言ったのか、そんなことが――」


 詰め寄るように踏み込むが、シュオウが手を出し、それを制した。そして、テッサの口を開け、自身の口をつけた。直後、テッサの喉が何かを飲み込んだ。


 顔を上げたシュオウは口に溜まったものを吐き出し、

 「止血用に貼って使う薬草を飲ませた。腹に入れば少しだけ解毒の効果がある。ムツキに帰るまでの応急処置になればいい」


 シュオウはテッサを起こし、腕や足を数箇所強く布で縛った。肩に自身の外套をかけて器用に一人でその身を背負う。


 だらりと横たわったまま、ただシュオウに視線を送るだけの皆へ、

 「全員、自分の足で立って動け。雨が止まないうちに、上に置いてきた生き残りを回収して白道へ出る。急ぐぞ」


 淡々と洞窟の入り口へ向かうシュオウをバレンは慌てて追った。


 「ま、待て、外は危険だ、あの狂鬼達が未だにッ――」


 テッサを背負って雨の降る外へ出たシュオウにバレンは絶句した。


 ――そうだ。


 フクドという虫について、彼の語った話が真であるのなら、そのためにどれほど自身の頭が狂っていたのか、とバレンは自覚する。


 外には恐ろしい狂鬼達が待ち受けていた。それらが雨に打たれれば、狂って凶暴性をさらに増していたはず。


 そんな状況下で、シュオウがいったいどうやって、一人でこの洞窟へ入ることができたのか。


 「まさか……」


 息も忘れ、光景に見入る。


 あるのは雨に打たれる狂鬼の死骸。累々として横たわり、離れて見てもわかるほど、それらははっきりと絶命していた。骸の一つには、見覚えのある輝士の長剣が突き立てられている。


 雨の中、佇むシュオウを改めて見た。血に汚れた腰の武器、傷だらけの軍服と血の汚れ。


 震える右手を握りしめ、作った拳を左手で覆う。自身で傷つけた手の平の痛みを強く感じた。


 「現実、なのか…………」

 背後から遅れて来たレオンがそう呟いた。


 遅れて来た他の者達も、目の前の光景に、まるで現実の事ではないように驚きの言葉を交わし合う。洞窟の中で朦朧としていた意識に、この光景は覚醒を促すのに十分な効力を発揮していた。


 震えを抑えつつ、バレンはシュオウへ問うた。


 「本当に……帰れる、のか……?」


 シュオウは首肯し、

 「かならず、連れて帰ります」


 まるで気負いなく、彼は当たり前の事のようにそう言った。


 言葉を聞き、バレンはシュオウに背負われたテッサと、レオン、部下達を見やる。


 ――生きて……。


 堪えきれず、目の奥深くに熱が灯った。


 堪えきれず、膝から崩れ落ちる。


 その身を案じる声と合わせ、バレンが漏らす嗚咽は、より激しさを増した深界の雨音によってかき消された。




     *




 雨中を歩いた。


 しとしとと、冷えた雫が降り頻る。


 周囲一帯に狂鬼の気配がない。それはタイザの群れが残した唯一の喜ぶべき置き土産だった。


 怯えて歩く皆を先導し、シュオウは戦地であった白道のすぐ側までたどり着いていた。


 先に見えるのは、光の道が漏らす淡い青の色。

 戦場の跡地、無数に眠る死体の山。そのすぐ側に、馬を引き連れた一団が待機していた。


 先頭に立つ黄緑色の髪をした輝士を見て、シュオウはほっと胸を撫で下ろす。彼はまた、常になく神妙な顔をしているように思えた。


 急ぎ、駆け寄ってきたジェダは、雨にびしょ濡れとなった顔に、一つ冷めた笑いを讃えた。


 「余計なことを、なんて言わないだろう」


 努めて戯けた調子で言ったジェダに対しシュオウは、

 「皆は?」


 「全員がムツキに入った。なにも問題はないよ。ここへ向かう時、ついてこようとする者たちもいたが、休ませるために無理やり置いてきた。君ならそう望むだろうと思ってね。ここについてきた同行者は皆自主的に参加を申し出た輝士達だ。彼らには馬を運ばせるために同行を認めた」


 シュオウはほっと胸をなでおろす。ジェダに同行してきた他の者たちと、救出してきた者たちとで、再会を喜びあう声が聞こえてくる。


 シュオウは自身が背負う者へ注意を向け、駆け寄って来た他の者にその身をそっと預けた。


 背負われていく姿を見つめながら、

 「一刻を争う状態の人間が複数いる。急いで帰るぞ」


 ジェダは眉を歪めて微笑し、

 「その筆頭は君のように思えるが……雪山で拾ったときよりも酷い有様だ」


 馬上から差し伸べられた手を取り、シュオウは馬の後部に跨った。激痛を伴う腹部を押さえ、密かに顔面を歪める。


 雨で張り付いた前髪をかき分けながら、ジェダがちらと後ろを向き、物言いたげな視線を投げて寄越した。


 シュオウは仏頂面を向け、

 「…………いいから、早く出せ」


 言うと、ジェダは前を向き、勢いよく馬を走らせた。


 すれ違い様、深々と頭を下げるバレンを横目に、シュオウが吐いた一つの溜め息は、うっすらと白く湯気となり、風に飲まれて溶けていく。


 一帯を盛大に濡らした雨雲は、北北西へ吹く風に流され、すでに小雨となっていた。




     *




 北、東の国境沿いを舞台に、国家間戦争が始まったこの日。


 ムラクモ領内東側の外れを、壮麗な輝士隊を引き連れて突っ走る馬車がある。


 先頭を行く輝士が掲げる旗には、王家の紋章、翼蛇の紋様が印されていた。


 馬車に乗り、真剣な顔で、ムラクモの王女サーサリアは手をもみ、落ち着きなく唇を噛みながら、浅い呼吸を繰り返す。その肌艶は生まれたての卵のように艷やかであり、馬車が揺れるたび、もちもちとして弾力のある若々しい肌が弾んでいた。


 「まったく――」


 サーサリアを乗せた馬車に帯同し、自らの手で馬を駆るア・シャラは、大げさに嘆いた。


 「――ようやく体を整え、これから心身共に鍛えてやろうというときに。お前たちが中途半端に情報を漏らすからこうなる」


 親衛隊を率いる隊長アマイは苦々しく顔を沈め、

 「まったく、面目ありません……」


 並走するアマイは責に対し言い訳もなく謝罪を述べた。


 そもそも、彼を責める事が酷であるとア・シャラは知っている。親衛隊の一人が、サーサリアに強く乞われ、想い人の現状と居場所をぽろりと漏らしてしまったのだ。


 保養地としても名高い温泉地の温泉にかたっぱしから浸かり、滋養に良い食べ物を食べ、軽い運動と睡眠の乱れを正し、ようやく正常な体調を取り戻しつつあったサーサリアも、自身の最たる望みが今どうしているのかを知れば、そこへ行きたいと強く望むのも当然の事なのであろう。


 ――幼子め。


 我慢がきかない、それは子供と大人を分ける最もわかりやすい境界だ。ア・シャラは自身の事を棚に上げ、心中で呆れつつそう呟いた。


 馬車の窓を開け、サーサリアが風に黒髪を流しながら、ぬっと顔を出した。その表情は常になく真剣そのものだ。


 「アマイ――もう少し、速く。この馬車が重いなら、降りて馬に乗るから」


 主からの難題を必死に諌めるアマイを他所に、ア・シャラは彼女の想い人たる男の顔を思い出していた。


 ――東方で最も高貴な面倒事がそっちへ行くぞ。


 現在地はムラクモ領内でも辺境のはずれ。この後、サーサリアが目指す先へ到着するまでは、まだ幾日も時を要する。


 戦地であろう拠点に、突如訪問するムラクモの王女が、あの男にどれほどの迷惑をかけるのか。ムラクモ各地に眠る名物品のすべてを味わう前に旅立つはめになったことも、そのことを考えれば、僅かにだが不満が和らぎ、楽しみにも思えるのだった。











開戦編は前半部分を終え、次回から後半戦へと突入します。

しばらく動きの多い場面が続いていたため、へとへとです。

ここから先しばらくは、ややまったり気味な展開になるかとおもいます。

それでは、また。

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― 新着の感想 ―
更新おやすみ中なので好みの過去話をコロコロ一読。その中でも悪食章は読み応えもありとても良い。 上編では3度救われたという女騎士=ディカ(多分晶士もディカ)とミオト達。下編ではアガサス家が深掘りされて…
[良い点] 全て [気になる点] 悪食1の方で、3度も救われた、と言ってる女性がどのような人物なのか少し気になります。 [一言] 何周も読み返しています! 頑張ってください!
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