表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
72/184

悪食 <前>

 悪食 1






 それは公平に訪れる。


 なにより平等であり、善悪の境界すら存在せず、結果に待ち受けるものは、ただの肉、骨の塊となるだけ。


 戦いを経て敗者は死す。しかし、その屍を越えていく者もまた、いずれ死を迎える。


 深界という、弱肉強食を体現する世界を生きたシュオウにとって、死は日常に転がる当然の事であり、理だった。


 悲しみも喜びもなく、生死は廻る車輪のように繰り返し、微かな痕跡を残しながら、思い出となって朽ち、果てる。


 深界を不浄の地と定め、避けて生きる人間もまた、しかし輪の中に生きる平等の一部でしかない。


 前に広がる世界を俯瞰した。


 無数の亡骸が、静寂に無垢の道を汚している。


 戦の痕は、人が輪の中で溺れる哀れな生き物であることを、強く印象付けていた。


 当然の事。知識や経験はそう訴える。が、同じ種である人間の酷い死に様は、理性の奥深くに眠る、幾千もの負の感情を呼び起こした。


 やはり、それはただただ、悲しいのだ。


 戦の残り香が、微熱と共に臭気となって鼻孔を突いた。同時に、死にきれず苦しみの嗚咽を漏らす者の声が聞こえてくる。


 「た……ずけ……」


 見込みはない。半身を失った身体がそう告げている。


 縋るように生きることを望む者の手を握り、シュオウは腰から抜いた剣の刃で喉を一筋、切り裂いた。


 握る手に込められた力は徐々に消え、微かな痙攣の後、だらりと腕が地面へ落ちる。


 小さな赤い血溜まりの前に立ち、眼前に広がる森を見た。


 点々と続く血の跡が、灰色の森の中へと伸びている。赤く擦ったような靴の跡を残す白道を見るに、生き延びて森へ逃げ込んだ者の数は、決して少なくないようだ。


 しかし、


 ――どっちだ。


 道筋は大きく二つ。どちらも同じ森へと向かっているが、方向は大きく異なる。


 おもむろに、シュオウは背後を慎重に観察した。


 ――逆側には、ない。


 反対側の森には生存者が逃げ込んだ様子が微塵も見られない。多数の人間が入り乱れていた現場の状況からして、これは不自然だと思えた。


 あって当然の事象が確認できない場合、そこには何者かによる意思が介在している、と考えるべきである。つまり、


 ――意図して同じ方向へ追い込まれた。


 人間狩りに勤しんでいた狂鬼、タイザは群れの力を活かし、獲物である人間達を意図して同じ片側の森へ追い込んだのではないか。


 シュオウはそっと顎を引き、静かに喉奥で唸る。


 再び、赤い跡の残る森へ向き直る。


 この色のない世界で、狩りはまだ続いている。そうであろうと予測し、そうであって欲しいとも思った。


 自ら慈悲を与えた者が残した血溜まりの前に膝をつき、持参していたタイザの排泄物を、まだ温かい血液の中に溶かす。黒い土のように乾いた糞を血と混ぜ、泥のようにこねたそれを服や首筋に塗布した。


 「行こう――」


 頷きの後、独りつぶやいた。


 空に立ち込める雲の奥、ごろと重い音が鳴る。


 左右、交互に見やる先には、二つの赤い道があった。




     *




 誰もが目を奪われる美しい宝石であろうとも、泥水の中に浸されていれば、その輝きに気づく者はいなくなる。


 華麗な外見と内に秘めた魅力。その両方を誇っていた聖輝士隊の長ミオトは、深界という世界に身を置き、すでにその輝きを失っていた。


 「はあ……はあ……」


 赤い涙の跡を落としながら、目眩を起こしそうなほど短い呼吸を繰り返し、ひたすらに森の奥へと逃げ惑う。


 オオオ、と背後から鳴る獣の声。恐怖し、寒々と肩が震えた。


 先に広がるのは、人を寄せ付けぬ死の森。生きるために選択したこの行動が、酷く愚かであることは、この場にいる誰もが承知していた。が、これが選べるただ一つの道だったのだ。


 周囲にある者達の多くは、聖輝士の装束を纏う身内達。その他に、森のなかで自然と合流したターフェスタ軍の輝士、兵士らも混じっている。


 途中、ムラクモ軍の兵士らの姿も見えた。だが、ミオトらを中心とした集団のなかに、ムラクモ側の人間は一人も混じっていない。生きるか死ぬかの非常時であっても、人は所属や境界を強く意識するものなのかと、現実逃避気味に思いを巡らせた。


 慣れない片目の視界のため、足元の硬い根につまずいたミオトへ、慌ててルイが駆け寄った。


 「全員止まれ――」

 押し殺したルイの掛け声により、集団は戸惑いつつも足を止める。

 「――隊長、お怪我は」


 その問をおかしく思い、ミオトは苦々しく吹き出した。


 「愚問だぞ、ルイ」


 「動けるのであれば早く退却を。こうしていては化物共に追いつかれます――」


 引き起こそうとするルイの手を退け、ミオトは唇を噛み、ため息を吐いた。


 「本気で奴らから逃げられると思っているのか」


 「それは……」


 ルイは眉根を寄せ、沈痛な面持ちでうつむいた。


 「皆もわかっているだろう。奴らの能力を見れば、この森の中で人の足に追いつけぬわけがないと」


 周囲に立つ者達が不安な様子で互いに顔を見合わせる。


 濃い雲に覆われた空の下、灰色の重い木々が、僅かな光さえ遮り、辺りは鬱々として仄暗い。


 僅かにでも離れて立つ者の表情が影に隠れて窺えず、俯瞰して見れば、まるで意思のない人形達が佇んでいるようで、不気味だった。


 唇を濡らし、ミオトは続けた。


 「初めから意図してここへ追い込まれた。奴らの世界である森に入ってもなお、恐怖を煽るように緩慢に追跡してくる気配が伝わるのみ。あの醜悪な化物共は、ただ遊んでいるのかもしれない。子供がとるにたらない小虫をつつくように、な。逃げ続けても無駄だ。このまま進めば、奴らに殺されずとも、他の狂鬼に見つかるか、灰色の森に飲み込まれ、ただ死を待つのみである」


 「……ですが、道のある方向へ行くことができれば、まだ望みが」


 希望に食い下がるルイへ、ミオトは皮肉めいた笑声を浴びせる。


 「奴らがそれを許すはずがない。仮に白道へ出られたとして、やはり……」


 途切れた言葉を察し、皆が声を失い、重い吐息を吐いた。


 静々と立ち上がったルイが天上を見上げ、

 「いっそ、雨でも降れば……」

 と呟く。


 心中、ミオトはルイの言葉に同意していた。


 狂鬼とは、深界に生息し、雨に濡れると正気を失い狂って暴れる生物の総称である。


 推測通り、この逃亡劇があの狂鬼らによる演出だとすれば、降雨によりそれが台無しとなる可能性がある。その結果にさらなる惨い死が待っていたとしても、雨によって発生した混沌により、運良く生きて逃げ延びる事ができる者も現れるかもしれない。


 不合理な賭けであっても、それは全滅という末路に比べれば、遥かにましな結果といえた。


 暗い世界で、泥人形のように生気なく佇む者達を一人ずつ見やり、ミオトは決心して立ち上がる。


 「天の采配にすべてを委ねるほど、我々は幼くも弱くもない。ここにいるのは神の名のもとに集った戦士である。恩寵たる石の力を持って、化物共を討伐するッ」




     *




 背後から伝わる狂鬼達の気配。付かず、しかし離れず。


 ムラクモ王国軍所属の重輝士、バレン・アガサスは悪夢に勝る恐怖に追われていた。


 先を行くムラクモ輝士や従士達。彼らを守るように、最後尾につけるアガサス家の三人は、その身に強く、脅威を感じていた。


 がさ、と草木の揺れる音が鳴る。


 振り返ったバレンの視界に、あの黒い猿の狂鬼の姿が見えた。


 それは、白道で暴れ狂っていた個体よりもずっと小さい。しかし、それでもなお人間の体躯に勝っていた。


 狂鬼が四足で地を蹴り駆け上がる。バレンは腰から石を取り出し、晶気を用いて壁を構築した。足下に向け、先を尖らせたそれを地面に穿つ。左右に広げた箇所にレオン、テッサが肩を当てた。


 直後、狂鬼の突進により石の壁は猛烈な重さを伴い、押し込まれた。


 「やれ!」


 バレンの掛け声を合図に、レオンとテッサは各々が前面の石壁に晶気を加える。石壁の表面が形を変え、複数本の尖った槍の形を成し、勢いをつけ前へと突き出される。ギヤ、と濁った悲鳴が聞こえ、石壁がふっと軽くなった。


 「父上、今のうちにッ」


 レオンに腕を引かれ、バレンはよろけつつも前へと駆け出す。


 無我夢中の逃走である。


 途切れる呼吸の合間、バレンは重さを感じなくなった腰の袋に手を伸ばした。そこに蓄えていたはずの石の手応えはない。


 先程の反撃が効いたのか、続いていた追跡の気配は、いつのまにか消えていた。


 胸に限界を感じ、バレンは足を止めて二人の子供達へ問う。

 「お前たち、石の残りは」


 レオンが首を横に振る。振り返って見たテッサは、腰からとった袋を上げて見せた。


 膨らみの具合からして、一つ、よくて二つといった所であろう。


 石塊に干渉する晶気を代々受け継いできたアガサス家の力は、無から有を生み出す術には長けていない。殺傷力のある力を発揮するには、その礎となる質の良い石弾が必要となる。戦に臨むにあたって、十分な量を用意していたはずのそれも、ここへ至る戦いの果てに、すでに残るのはテッサが持つ僅かな物のみとなっていた。


 汗を拭ったテッサが、ふと側近くの木の陰へ目をやった。


 「そこに良さそうな石が――」


 駆け寄ったテッサの背を黙って見ていたのは、疲れていたせいか。しかし、バレンは直後にそのことを強く後悔した。


 「まて、テッサ!」


 僅かに早く、ソレに気づいたレオンが声をかける。が、遅かった。


 テッサが掴み取った石塊から蜘蛛に似た足がざわざわと伸び広がる。深界に生息する虫の類であろう。テッサが小さく悲鳴を上げ、虫を落とした。駆け寄ったバレンらが見たテッサの右手に、黒い点が三つあり、そこからだらりと血が溢れている。


 「噛まれたか――」


 娘の身を案じるバレン。テッサは、

 「大丈夫、少しちくっとした……だ……け……で……」

 言いかけで身体がゆらりと揺れ、背中から倒れ込んだ。


 姉の身体を支えたレオンがその顔を覗き込み、バレンへ向け不安そうに首を振る。


 バレンは力なく、

 「毒か――」

 と一言呟いた。


 あきらかに即効性のある猛毒である。


 「――これほど早く回るとは」


 「走り通しで血の巡りが早くなっているのでしょう。このままでは……どこかで休ませなければ」


 レオンのその提案は、現状を思えば簡単に望めるような事ではない。


 狂鬼に追われ、死の森を遁走し、愛娘が未知の毒を受け負傷した。


 不幸を塗りつぶすほどの絶望の連鎖に、かろうじて心を支えていた希望の灯火がしぼんでゆく。


 無言で硬直し、汗を滲ませ苦しげに唸るテッサを見つめる。そんな父へ、レオンが急かすように呼びかけた。


 「父上……」


 オオオオ――――

 森の奥から多重に重なる獣の声が聞こえた。


 バレンはテッサの肩を支えてレオンと共に立ち上がる。


 生きるための心の支えは、もはや恐怖によってのみ構成されていた。


 「逃げるのだ、今はそれだけを考える……」




     *




 踏みしめられた枯れ草、不自然に折れて千切れた枝、そこら中に残された足跡。招かれざる来客達は、頼まれたわけでもなく行く先に自ら痕跡をたっぷりと残していた。


 選択が正しかったかどうか、シュオウの思考はそのことに集中していた。同時に、先にあり得る悲惨な結末も覚悟する。状況に対して後追いをしている以上、すべてが手遅れになっている可能性も十分にあった。


 早足で歩きつつ、周辺の森を観察する。大きな一つの違和感があった。


 ――気配が。


 様々な種が生息する灰色の森にあって、その鳴き声や動く気配が極端に少ない。恐れているのだ、とシュオウは考える。


 ――タイザ。


 猿と狼の質が入り混じった、そんな特徴を濃く持つ狂鬼だった。俊敏な動作と怪力、頑丈な身体を持っている。それだけで十分な脅威といえるが、それに加えてこの狂鬼は群れを形成するのだ。平素であれば、なにより無駄な交戦を避けるべき相手である。遭遇すればたやすくその難を払うことはできないだろう。


 シュオウは無音でぴたりと足を止めた。身を低く屈め、そっと鼻を鳴らす。


 ――獣臭。


 風下に立ち、微かに特徴ある生々しい汚臭が漂ってくる。


 ――群れ。


 人の嗅覚でこれほどはっきりと臭いを感じ取るのは難しい。よって、シュオウは前方に複数体のタイザがいる、と推測する。


 大木の陰に隠れ、風向きに注意を払いつつ前進する。まもなく、派手な赤の外衣に身を包む女輝士の姿が見えた。


 ――あれは。


 見覚えのある容姿。派手で華のある見た目と負傷した片目から、すぐに記憶から鮮明な絵が思い浮かんだ。シュオウが戦場で片目に傷を負わせた、あの輝士だ。


 彼女の背後に立つ者達を観察する。結果、ムラクモ軍人と思しき人間は一人も見えなかった。


 落胆にも似たため息を、シュオウはそっと吐き出す。二択のうち、間違えた選択をしたことを後悔しても意味はない。もしタイザの群れがターフェスタ側の者達を追ってここに集結しているのだとしたら、逃げ延びているかもしれない仲間達の生存の可能性は高まる。


 音をたてず、静かに身を引こうとした、そのとき――


 「聞いているか悪鬼どもッ! 我らはこれ以上逃げも隠れもしない。戯れに獲物をいたぶり上位に立ったつもりだろうが、我らとて力なき脆弱な存在ではない。手を出すならば無傷ですむとは思わないことだ」


 一人で前に立つ女は、勇ましく声を張り上げ、タイザの群れへ宣戦布告した。顎をあげ、背筋を伸ばし、強く結んだ口元に揺るぎない強い意思を滲ませる。その様は、深界において異物として排除される人間という存在を、不思議なほど上手く光景に馴染ませていた。


 後退を忘れ、シュオウは一瞬目の前の事に視線を釘付けにされる。頭はしかし、救うべき仲間達の下へ向かうよう、急かしていた。


 ――早く。


 ここから離れるべきだ。タイザは複数、正確な数も位置もわからない。獲物として定められた人間達へ救いの手を差し伸べるにはあまりに無謀な状況なのだ。だが、


 「――――ッ」


 一人立つ女の拳は、きつく握りしめられ、小刻みに震えを帯びていた。


 恐怖を押し殺し、懸命に運命に抗おうとするその姿から、目を離す事ができなくなっていた。




   *




 理性と恐怖の間に立ち、ミオトの呼吸は浅くなっていく。


 逃げ出してしまいたくなる衝動を抑え、


 ――逃げ場などどこにもない。


 そうした言葉を呪詛のように頭で繰り返した。


 「ルイッ」


 副官を呼び、合図を送る。


 「――いけます。いつでもご指示を」


 常になく弱々しい応答を聞き、ミオトは自身の能力を展開した。


 ――霧を。


 その事象は手元より生じ、前面から波打つ濃霧を展開し、世界を飲み込んでいく。


 ――数は。


 ミオトは自身の発生させた霧が包む物体のおおよその位置、数などを把握することができる。その力の本質は、より晶士適性者としてのものに近く、撹乱のために対象に見せる幻影と合わせ、繊細さと多大な集中力を必要とする高難度の技である。


 五感とは異なる、頭の奥に白昼夢のように送られてくる霧のなかの光景。そこに映し出された人外の形状、その数をひとつずつ正確に数えていく。


 ――いち、に…………さん。


 霧に包み込んだ狂鬼の数は三体。一桁にすぎないその数も、相手の力量を思えば、絶望を感じるのに十分な数字である。


 ――目は塞いだ。


 後は手順に則り、幻影を応用して敵のいる位置を味方に知らせ、対象の足を封じる幻の斬撃を見せて撹乱すればいい。が、しかしその目論見は、ミオトが次の工程に着手するよりも早く崩された。


 想定外の事が起こった。狂鬼の一体が走り出し、真っ直ぐミオト目掛けて向かってきているのだ。


 「位置がッ、なんで!?――」


 未知のものと対峙する恐怖心は、ミオトに極単純な事実を忘れさせた。戦う相手が、人の常識で測れるようなものではない、ということを。


 「臭いだ」


 左耳に突如、男の声が聞こえた。


 意識の外からの人の気配にぎょっとする。仲間かと思ったが、濃霧の中から見えた姿は、ムラクモの茶色い従士服だった。顔面を大きく隠す黒い眼帯を見て、ミオトは驚きに声をあげた。


 「おまえッ――」


 間もなく、ミオトは現れた男に覆いかぶされるように倒される。直後、頭上を鋭い爪の一撃が轟音を伴い振り抜かれた。




   *




 ――小さい。


 薙ぎ払われた爪の一撃を避けつつ、シュオウは思う。


 このタイザは、白道で襲撃してきた個体よりも明らかに身体が小さく、毛並みやその色味にも差異がある。それはただ小さく個性がある、というより、若く未熟な特徴を示唆しているように思えた。


 ターフェスタ軍の女輝士を抱きかかえ、地面を転がった。


 一撃を躱された小柄のタイザはすぐさま向き直り、シュオウを睨めつける。が、即座に鼻先をもぞもぞと動かし、不思議そうに首を傾けた。


 血に混ぜたタイザの排泄物。悪臭を放つそれが、一時の撹乱として作用していた。


 地べたについた身体を上げつつ、腰に差した針を抜く。即座に前のめりとなり、目の前にいるタイザへ武器を突き出そうとしたとき、身体を押さえつけるような、不快な重さを感じた。


 振り返る先、助けた女が服の端にしがみつき、固く拳を握っている。


 シュオウは強く女を睨み、

 「離せッ――」


 女は、はっとした顔で自身の手を不思議そうに見つめる。その顔はまるで他人の手でも見るように、意外そうな表情をしていた。


 「なん……で……」


 女は懸命に腕を引く。が、しかしその意志に反して拳は強く握られたままだった。


 シュオウは急ぎタイザへ視線を戻す。


 黒々とした眼球がぴたりと合わさった。瞬間、怖気が走る。そこには明確な殺意が見える。臭気による惑いはすでに霧散していた。


 タイザは長い両腕を背へ回し、鋭い爪を立ててシュオウへ襲いかかる。


 重い石のように地面に倒れ、服を握って離さない女は、生死を左右するお荷物と化している。だが、


 ――こい。


 シュオウはそのままの姿勢を維持し、迎撃の体勢を整えた。もとより、学んだ武術は、敵に先手をとらせることも一つの起点とする技なのだ。


 タイザの豪腕が打ち込まれる。


 シガのそれを思い出させるような威力。が、十分に躱す余地の残された攻撃だ。


 膝を落として屈む。頭上を通り過ぎる風を感じながらシュオウは針をタイザの下腹部めがけて突きたてた。


 ――入った。


 足腰の支え、刃先の当たる角度、すべてが良好な状態。結果を見るよりも早く、自身の攻撃に手応えを感じる。鋭く尖った針の先が体毛をかきわけ、肉を穿つその感触を待った。だが、


 針の先に金属に触れたような硬い感触がした。完璧な角度で当てたはずの針は、タイザの腹部、体毛の上をするりと滑る。当然、そこに致命傷を与えた手応えなど微塵もなかった。


 遅れて届いた濃い獣臭が鼻の奥を焦がす。


 背後に隠れ、シュオウの服を握ったままの女輝士が、引きつった悲鳴のような声を漏らした。器用に突進を中止したタイザが、素早く二撃目を用意していたからだ。


 間近にある脅威を前にして、針を握る手が汗ばんでいく。


 万全の状態で身動きが取れない状況で、手持ちで最も威力のある攻撃は通用しなかった。


 ――もう一度。


 針を強く握りしめる。が、即座に力を緩めた。


 針による攻撃が敵にとって脅威ではない、とすでに知られている。さきほどと同様に迎撃したとしても、タイザはひるむことなく攻撃を継続するだろう。


 一瞬の事。選択を誤れば即、死を迎える状況にあって、しかし選べる行動が極端に少ないという現実を目の当たりにする。


 その時、タイザが腕を振るよりも早く、背後から複数の異音が聞こえてきた。発光する緑の風刃がタイザの片腕へ命中する。人体であればその瞬間に切り飛ばされるであろうその晶気による攻撃も、タイザの体毛を僅かに剃り落としたのみで、傷を負わせた気配もなく、風刃ははじかれたように上空へと消え去った。


 不意打ちにより攻撃の手を止めたタイザが後方、奥へと視線を流す。一瞬の隙を、シュオウは見逃さなかった。針を腰へ戻し、代わりに短剣を掴み取り、タイザの顔面目掛けて投げつける。


 どれほど身体が頑丈であろうとも、大きく見開かれた眼球を守るものはない。


 現在、すぐ後ろで服を掴んで離さない女輝士にそうしたように、タイザの目を狙って短剣を投擲する。


 勢いをつけて投げた短剣は弧を描き、タイザの足元、地面に勢いよく突き刺さった。


 「…………」


 足元に刺さった短剣をタイザが見下ろしてじっと見つめる。シュオウも、すがりつく女輝士も、皆の視線がそこに集中していた。


 女輝士がそっと顔を上げ、シュオウを見つめる。そっと気まずい視線を返し、シュオウはすぐに顔をタイザへ戻した。


 まるで意味を成さずとも、タイザは自らが攻撃を受けたことを理解し、形相を怒らせ、尖った歯をむき出しにしてゆっくりと顔をあげる。


 また、背後より異質な気配がした。


 「伏せろッ!」


 声を聞いた瞬間、シュオウはその場に伏せ、女輝士の頭を押さえて地面すれすれに下げさせる。


 立ち込める霧が徐々に青みを帯びていく。唸る水音を伴って、大きな水球がタイザを飲み込み、吹き飛ばした。


 奥にある灰色の大木に命中した水球は弾けて消えた。水に濡れ、大木に叩きつけられたタイザは、濡れた身体を犬のように小刻みに振り、歯を見せて小さく唸り声を残し、霧の奥へと後退した。


 「ご無事ですかッ、ダーカ隊長」


 女輝士と同様の外衣を纏う輝士が現れ、女へ駆け寄った。


 「ルイ……さっきのはお前の指示か」


 ルイは頷いて、

 「はい。生き残りに晶士が紛れていて幸いでした」


 「が、直撃でも仕留めきれなかった。晶士の砲撃を無傷で凌がれるなら、いったいどうすればあれを傷つけることができるというのか……」


 ルイは無言で頷き、おもむろにシュオウを見た。一瞬、その視線が鋭さを増す。


 「貴様は……あのときのムラクモ従士、か」


 負わされた腕の怪我を意識したようにさする。わずかに見せた怒りの気配を押し殺し、ルイはしかし、品良く礼を口にした。


 「…………身を挺しての救援、感謝する」


 シュオウは頷きを返し、未だに服を握ったままの女の手を見て、

 「おい――すぐに離せ、これだと身動きがとれない」


 忘れていた様子の女輝士は眉間に皺を寄せ、


 「気安く呼ぶなッ――リシア聖輝士隊、隊長のミオトである」


 なんでもいい、と心中で零しつつ、シュオウは服を引っ張り、拘束を解くよう促した。


 固く閉じられた拳を、自身の空いた片手で一本ずつ指を解いていく。ようやく開かれた手は、血の気が抜けて白く生気を失っていた。


 「逃げましょう。さきほどの晶気による攻撃で敵がひるんでいる今のうちに」


 ミオトへ言ったルイ。しかしシュオウは即座に否定する。


 「無理だ、逃げられない」


 肩を怒らせ、ルイが反論した。


 「なにを言う、貴様になにがわかると――」


 ルイの発言をミオトが遮った。


 「その男の言う通りだ。退きはしたが、奴の目には強い殺意がぎらついていた。退いたのは様子見のための一時的なものにすぎないのだろう。未だに霧の中に連中の気配を感じる、戦意は消えていない」


 「しかし……」

 その言葉を最後に沈鬱として、ルイは押し黙る。


 シュオウはすっくと立ち上がり、

 「生きて森を出たいなら、戦うしかない」


 ミオトが怒りと呆れを込めた顔でシュオウを見上げた。


 「軽く言ってくれる……この状況、勝機を見出すことができるとでも言うつもりか」


 ミオトへ目を合わせ、シュオウは微か、片頬を上げた。


 「ついさっき、勇ましく自分で言っていただろ――」


 ミオトが怪訝な表情で首を傾げた。

 シュオウは濃霧に包まれた森の中を俯瞰し、


 「――手を出せばただではすまない。それを相手に理解させる」




     *




 濃霧の中、一人佇むシュオウは、周囲に浮かぶ奇妙な光景に呆気にとられていた。


 白の暗幕に閉ざされた空間に、不自然に一個の大きな目玉が浮かんでいる。その浮かぶ目玉に一本の短剣が突き刺さった。刃が刺さった方向から、獣の駆け走る音と気配が徐々に近づいてくる。突進と共に放たれた狂鬼の一撃を難なく躱し、シュオウはわざと大仰に足音を立てて移動を開始した。


 ――なるほど。


 一人、感心する。戦の最中、立ち込めていた濃霧の中で正確に狙いを定めて攻撃をしかけてきた赤い外衣の輝士達が、どのようにして敵の位置を把握していたか。その方法を目の当たりにし、知り得ることができたからだ。


 霧の中で生み出す事のできる幻影は、敵を惑わすという目的にかぎることなく、離れている味方に対して意思や目標を伝える事にも活かす事ができるのだろう。


 ミオト、という名の輝士の能力へ関心を抱くと同時に、僅か不安も感じた。この力、より選ばれた状況で用いられていたならば、シュオウや仲間達にとって、大いに脅威となったはずだ。


 ゆるく走りつつ、シュオウは未だに側を離れない目玉の幻影が気になった。


 敵の位置を知らせるのに、あえてこの剥き出しの目玉を用いる必要があるのだろうか。さきほどの短剣の一撃を受けた目玉は、刃を受けた箇所からだらりと生々しく血を零している。どう見ても、この幻影は不必要に悪趣味なのである。


 ――あてつけか。


 シュオウにはこの悪趣味な幻影が、片目に重傷を負わされた事に対する彼女の抗議ではないか、と感じられた。


 血をこぼす目玉が、血走った視線で睨むようにシュオウを凝視する。


 ――間違いない。


 一度は睨み返し、しかし居心地の悪さを感じたシュオウは、奥歯を噛み締めて悪趣味な幻影を視線のぎりぎり隅っこへと追いやった。




     *




 目を閉じながら、ミオトは仏頂面で鼻息を落とす。


 自身の展開する霧の中を駆け回る男に対して、あえて不快感を催すような幻影を見せている。そんな子供じみた嫌がらせをしている場合ではないとわかっていても、やはり、生来の宝であった二色の瞳のうちの一つを傷物にした張本人と共闘している現状は、心地良いものではない。


 「この程度の仕返しは可愛いものだろう」


 独り言ちた内容に、ルイが不思議そうに聞き返した。


 「は?」


 「……いちいち反応するな」


 「はあ――ダーカ隊長、あの男はまだ……?」


 興味を切り替えたルイへ、ミオトは首肯する。


 「生きている。狂鬼の初手を躱してみせた」


 「位置を把握できたとして、そんな芸当ができるような相手でしょうか」


 ミオトは片目を開き、眉根を寄せた。


 「……その通りだ」


 ムラクモの従士服を纏う隻眼の男は言ったのだ。自身が狂鬼を引きつける、と。


 鍛え抜かれた輝士であろうと、狙った瞬間に殺めることのできる化物を相手に、あの男は幾度かその身を狙われながらも、無傷のまま生存している。


 戦の最中に見せた並外れた身のこなしも含め、この男はすでに印象として強く存在を主張していた。


 ――あれが、従士?


 もはや、その言葉はただの飾りとしてしか機能していない。この世界のどこにも、化物達の待ち受ける霧の中に、望んで一人で突っ込んでいこうとする従士など、居るはずがない。


 「何者なんだ……」


 ミオトは呟き、ルイは静かに首を振った。




     *




 血をこぼす目玉に再び短剣が突き刺さる。指し示す方向へ注意を向け、シュオウはその場でタイザの攻撃を待った。


 霧の中から猛烈な速さでタイザが姿を現した。


 ――同じやつ。


 二度目の交戦に至り、初手を仕掛けてきた相手と同じ個体である。額についた特徴的な白い泥汚れから、そう判断する事ができた。


 タイザは先程とは戦法を変えている。濃霧の発生源であるミオトを狙う事なく、自ら挑発するように前へ飛び出したシュオウを狙っていた。二度、続けて攻撃をしかけてきたのは良い兆候だ。自ら血に排泄物を混ぜ、その臭気を身にまとった目的は、そもそも敵を引きつける事が最大の目的である。臭いに敏感な獣であるタイザにとって、濃霧の中にあってもシュオウは何より目立つ存在となっているはずである。


 ――でも、どうして。


 タイザの二度目の突撃を躱しつつ、シュオウは疑念を抱いた。


 この場にいるタイザは、ミオト曰く、少なくとも三体いる。にもかかわらず、攻撃を仕掛けてくるのは、今の所一体ずつである。標的である人間達はこの場に複数人。狩りを行うならば、先程の戦場と同様、乱暴に攻めかかればいいはずだった。が、ここにいるタイザ達は、自らの有利であるはずの森の中であっても、あえてそうしているように一体ずつ攻撃を仕掛けてくるのである。


 タイザの突進は空振りに終わった。そのままタイザは振り返り、

 「グク――」

 と、不気味に喉を鳴らす。


 目に見える位置に留まっている目玉の幻影が、突如、横一線真っ二つに切り裂かれた。その絵の意味することを理解できず、シュオウは首を傾げる。が、直後に背後から発光現象が近づいてくる気配を感じ取り、その場に寝転ぶような姿勢で伏せた。


 頭上を鋭い二対の風刃が通り抜ける。

 背後に控える輝士による援護だ。


 風刃はタイザの上腕から胸にかけ直撃する。が、先程と同様、晶気をその身に受けながらも、垂れ下がった布でも払うような手軽さで、それを軽々といなしてみせた。


 風刃の威力は十分にあったはず。


 外殻に覆われた虫でもなく、体毛と肉を晒して生きる獣であるはずのタイザは、やはり異様なほどのその身の頑強さを誇っていた。


 シュオウは立ち上がる最中に針を抜き取り、タイザ目掛けて突撃を仕掛ける。


 地を這う蛇のように身を低く屈め、タイザの腹部目掛けて針を穿つ。しかし、その一撃は敵を屠ることを目的とはしていない。


 ――感触を。


 晶気をものともせず、硬い狂鬼の輝石をも打ち砕く事のできる針の直撃も凌いでみせた。その頑丈さの根源が何であるか、知るための一手である。


 対するタイザは、シュオウの一撃をまるで恐れた様子なく、正面から受け止めるように立ちはだかった。


 刃先が腹に当たる瞬間、手に伝わる感触を確かめる。


 ――硬い。


 こつんと当たる感触。石や岩などを凌駕する硬さが伝わってくる。一瞬の時、僅かに滑らせた刃先から、また新たな感触が伝わってきた。


 ――不規則。


 ゴツゴツとして、まるで意味を成さない自然に削られた岩肌のような手応えだった。ごり、ごりと、響く手応えにはまったく、規則性が感じられない。


 ――これか。


 正面から当てたと確信しても、まるで滑ってしまったかのように手応えなく刃先が逸れてしまう。タイザの体毛の下がどうなっているのか、目で見る事はできないが、そこが想像を絶するほど頑丈ななにかで覆われている事は間違いない。


 敵を知るための攻撃にかけた手間は、そのままシュオウに大きな不利を招いた。


 振りかぶるタイザの爪がシュオウを襲う。自ら待ち受ける敵の領域へ飛び込んだがため、回避のための道筋は、極僅かな可能性しか残されていない。


 空中に放り投げた針の穴に糸を通すような正確さを必要とする。当たれば即死の一撃を、シュオウは顔面すれすれでどうにか回避した。


 回避の動作をそのままに、狂鬼を置き去りに走り抜ける。激しく心臓が鼓動を繰り返した。風の流れ、空気の重さ、地面の状態。なにか一つでも不利な状況が働けば、確実に命を失っていただろう。


 ――くそ。


 決死の行動により、得られた情報はあまりに虚しい。強力な刺突武器である針の先を通さぬほどの頑丈な相手。つまり、殺傷手段を持ち得ぬ状況で敵を撃退せねばならない、という事実を知り得ただけだった。


 これほどの強敵でありながら、晶気や手持ちの武器は通用しない。最大の弱点ともいえる輝石は、その正確な位置すら把握できていない。


 ――狙えるのは。


 唯一、傷を負わせる事のできる黒々として大きな目だけだ。


 視界に変化が現れる。ミオトの見せる目玉の幻影が新たに生じたのだ。数は二つ。それぞれが前方、斜め方向に左右一つずつ浮かんでいる。


 左右別方向に浮かぶ、二つの目玉。その意味するところをシュオウは瞬時に察知する。


 ――二体目。


 タイザは仕留めきれない獲物に対し、次の手に打って出たのだ。


 戦いが次の段階へ進んだ事を知り、シュオウは迫る敵意を迎えるため、深く静かに腰を落とした。




     *




 二体の狂鬼が従士の男へ迫る様子を察知する。その事を知らせた後、


 ――死んだな。


 ミオトは疑いの余地なく、一人で前に立つ男の結末を予想した。


 鷹揚に見る前の光景。ついさっきまで見えていなかった奥にある大木の姿が微かに浮かんで見えた。それは、ミオトの展開した霧の効力が薄れてきていることを示唆している。


 「ルイ」


 「はい」


 「間もなく、霧が晴れる。覚悟を決めろ」


 ルイの息を呑む気配を感じつつ、ミオトは自身の手の平を見つめる。


 晶気を生み出す力は、すでに限界に近い。


 晶士の放つ高威力の砲撃であろうとも、鋭利な風の刃であろうとも、あの狂鬼を屠るには至らないのだ。


 ――無駄、か。


 切れそうになっている。集中も、希望も。

 逃げ道はなく、勝利への方策も尽きた。


 ミオトは霧が包む空間の掌握を放棄した。


 くたびれはてた足に逆らうことなく、地面に膝をつき、腰を落とす。


 諦めは一時の安息をもたらす。不安も恐怖も、終わりへの抵抗によって生じる心の摩擦である。抵抗をやめれば、自然こすれる事もなく、そこから生じる痛みも消える。


 過去に思いを馳せ、未来を想う。僅かな合間。感傷に水を差す、ルイの場違いな感嘆の色を含む言葉が耳に届いた。


 「信じられん……まさか……」


 ミオトは顔を上げ、刮目するルイの視線を追った。そこには、あの従士の男の姿が遠目に見える。ミオトは結果を悟り、その結末を知る事を放棄した。が、しかし、男は未だ生きてそこに立っている。


 「……うそ、だ」


 子供の頃のように、飾りのない言葉を漏らしていた。


 その男は単身、二体の狂鬼を相手にしながら、怪我も負わずに渡り合っている。短刃の剣を握り、連携をして攻撃を仕掛けてくる狂鬼を躱しながら、並外れた所作で的確に狂鬼の顔面を狙って剣を繰り出していた。


 同様に、この男の行いを見つめる他の者達からも、驚きの声が口々に漏れ伝わる。


 男は目で追うことも出来ない爪の薙ぎ払いを回避し、直後にまた別の個体から放たれる攻撃も避ける。そのうえで、防戦に徹することなく、狂鬼を怯ませるほどの鋭い一撃を繰り出していた。


 それは一瞬の出来事だった。


 一体の狂鬼とのすれ違い様、男が腕を狂鬼の顔面目掛けて振った直後に、狂鬼が悲鳴を上げ、片目を押さえて転げ回った。


 隣で、ルイが大きく喉を鳴らした。彼の気持ちが手に取るようにわかる。ミオトも同様の思いを感じていたからだ。


 ――いけるのか。


 複数体の狂鬼を相手に対等に渡り合う男の姿が、消えかけていた希望の灯火に再び光を呼び戻しつつあった。


 我慢を切らしたようにルイが一歩前へ踏み出した。片手に握る剣を見て、その決意に思い至る。


 「行くな」


 ルイの前に手を伸ばし、ミオトはその決意を阻んだ。


 「行かせてください、隊長。こんな状況で、ただ見ているなど……」


 「手負いの身で、あんな戦いに飲み込まれればひとたまりもない。そうでなくとも……」


 言葉は如実に現実を突きつける。なにより今、眼前で行われている攻防を冷静に見れば、自らの行おうとしていることの無謀さを嫌でも知るはめになる。


 ルイは心底悔しそうに歯を食いしばり、踏み出した足を元に戻した。しかし、剣を握ったまま離さない拳を見るに、強い未練を残していることがありありと窺える。


 ミオトは後ろを見やる。そこにいる者達もまた、前のめりとなって、名も知らぬムラクモ従士の戦いに強烈な関心を寄せていた。ついさきほどまで、生気すら感じないほど沈んでいた姿とは程遠く、血の通った人間としての様相を取り戻しつつある。


 前を向き、ミオトは深く瞼を落とした。一度は手放した霧の中の掌握を再び取り戻す。すでに濃度を失いつつある霧、感じ取る事のできる形状は朧に霞んでいるが、ひとつずつをつなぎ合わせれば、まだ元の形を想像できる程度には、力は維持されている。


 ――奴は。


 ミオトが気にかけたのは、この場にいる狂鬼の三体目。最後に感じていた位置から、すでにその姿は消えていた。


 ――いた。


 その位置はずっと近くなっている。速度は緩くとも、確実に前へと足を向けている。その先には、今なお交戦中であるあの従士がいる。


 「ルイッ」


 平素の如く、隊長としての威厳を込めて呼びかける。忠実な副隊長としての返事が返ってきた。


 「はいッ」


 「位置を告げる。晶気を扱える者達を総動員し、敵の援軍を妨害するぞ」




     *




 シュオウはすべての意識をただ視る事にのみ集中していた。


 目を傷つけ一体は退けた。敵が一体となっても、この戦いの難しさは少しも楽にはならなかった。


 鋭い爪の攻撃を避け、回避の勢いを利用して剣をタイザの目に向けて突き立てる。が、タイザは顔面を守るように素早く腕を上げ、適度に距離をとって、一つ大きく吠えた。


 ――学んだな。


 仲間が傷つけられた様を見て、シュオウの目を狙う攻撃をあからさまに警戒している。経験から素早く学び取る。それは群れを成す狂鬼によく見られる特徴だ。


 繰り返す突進、全身を使った攻防の繰り返し。


 「飽きないかッ――」


 タイザへの語りかけも意味はなく、この対戦者はこの決着のつかぬ戦いを諦めるつもりはないらしい。


 戦いの最中。シュオウの眼に映る光景に、寒気を催すようなものが、視えた。


 薄くなっていく霧の光景の中に、徐々に鮮明になっていく一体の獣の姿がある。それは対戦するタイザよりも遥かに立派な体躯をしていて、全身に赤黒い血をたっぷりと浴びていた。


 ――あれは。


 瞬間、シュオウは悟る。


 先程から戦っていた二体のタイザが、まだ幼く若い個体であったことを。ゆったりとした歩調で迫るあのタイザこそ、完成された成体である。人の血を全身に浴び、まるで人間のように二足で歩むその姿には威厳すら漂っていた。


 ここには初めから、真に完成された個体が存在していたのだ。にもかかわらず、人間狩りに臨んでいたのは二体の若い個体だった。状況を鑑み、シュオウはここに居たタイザ達の目的を思い、知る。


 ――訓練。


 群れから切り離され、脆弱に逃げ惑う人間達を、まだ経験に乏しい若い個体に狩りの練習台としてあてがっていたのだ。


 それを見守る監督者の視点に立てば、たった一匹の獲物に対し、いつまでも仕留めることのできない現状は許しがたいはず。痺れを切らし、自らが手本を見せるために前に出てきたのではないだろうか。


 予想は、そのまま的中した。


 近づいてくる成体のタイザが一つ吠え声を轟かせると、若いタイザが怯えたように肩を縮め、即座にシュオウから距離をとったのだ。


 成体のタイザと視線を交わす。まだ距離は遠い。タイザが前かがみとなり、突撃の構えを見せたその時、後方の左右両翼から、発光する晶気による遠隔攻撃がタイザを襲った。背後に控えていた者達による援護射撃だ。


 風刃や土塊の矢、氷柱が巨体のタイザへ直撃する。が、このタイザにとってそれらの攻撃は薄布で撫でられた程度の威力でしかなく、まるで効いた様子もなくすべてを完璧に防いでみせる。がしかし、最後に放たれた水球だけは別だった。


 前を向くタイザにとって、真横から放たれたその一撃は完全な不意打ちとして機能する。その水球は他のものと比べ、数段上の威力を持っていた。シトリのような晶士適性者によって構築された力であろう。真横から受けた水球によりタイザは、木々に身体をぶつけながら、その姿が見えなくなるまで霧の奥へと吹き飛ばされた。


 衝撃によって揺さぶられた灰色の木々の一つから、

 「ヴヴ――」

 という聞き覚えのある重い鳴き声が微かに聞こえてきた。


 一本の巨木を見上げたシュオウは、

 「テンガン――」

 と呟く。


 ――いたのか。


 ジュナを救い出すため、ジェダと深界を歩いた際にも見た、馴染みのある虫の狂鬼だ。密集した太い枝の奥に、ひっそりとその姿を馴染ませていた。


 「やったのかッ」


 後ろから駆け寄ってきたミオトが声を弾ませそう聞いた。


 シュオウはタイザの飛ばされた先を見やり、注意を向ける。


 「オオオウグ――ッ!」

 猛り、怒るタイザの叫びが一帯に轟いた。


 霧の中から、水で濡れたタイザが歯をむき出しにして現れた。赤黒く固まっていた血が水に濡れ、赤い雫を滴らせる。その様はまるで、全身から鮮血を滴らせているようだった。


 「そんな……あれほどの攻撃でも――完全な不意打ちでもだめなのか……」

 失望を込め、ミオトが力なく呟いた。


 無言で立つシュオウにとっては予想の内である。そもそも、先に戦っていた若いタイザに直撃した際にも、仕留めきることができなかったからだ。


 傷を負わせる事もできない相手との対戦。一人であれば、どうにか逃げる事ができるかもしれない状況にあって、シュオウは背後に立つ者達を見る。


 見慣れぬ服を纏う馴染みのない姿。彼らは一人とて仲間ではなく、戦争という状況にあって対峙し殺し合いを演じてきた敵である。が、その下にある様は、まるで同じただの人間なのだ。


 身体にまとった水を振るい落とすタイザを見た後、シュオウは頭上に見える虫の狂鬼、テンガンを見た。


 ――一か八か。


 前へ歩を進めたシュオウをミオトが呼び止めた。


 「まて、どうするつもりだッ、我らも戦う、共闘を――」


 シュオウはその声を無視して前へと進む。現状、シュオウは生か死か、完全な二択のみ存在する状況へと自らを送り込もうとしていた。


 ――逃げるように言うべきか。


 迷いを含んで浮かんだ言葉をすぐに飲み込んだ。無駄である。この場でタイザらを退ける事ができぬなら、彼らを先に逃がしたとしても簡単に追跡され、狩られるであろう。


 水を払い終わったタイザが突進を開始した。シュオウもまた、正面から走り込んでタイザへと向かう。


 鍛えた距離感覚から、互いの速度を思い描き、交差する一瞬を予測する。目標と定めた位置は、あのテンガンが巣食う巨木の真下だ。


 巨木の幹の側。そこはすでにタイザの間合いとなっていた。長い腕がしなるムチのように振るわれシュオウを狙う。


 本来、この間合いでは敵の攻撃を待たねばならない。自ら起こす行動が早ければ早いほど、次に選択できる行動の余地が狭まるからだ。が、シュオウはあえて一歩、前へ踏み込んだ。外から見ればそれは一瞬の出来事であろう。あえて死地へ踏み込んだように見えるシュオウの足は、巨木の側に置かれた丸くて平たい石の上に置かれていた。


 緩慢に流れるシュオウの視界にあって、それでもタイザの繰り出す一撃は十分な速度を保って見える。迫りくるその力に対し、シュオウにはもう回避の道筋は残されていない。鋭く鋼のように丈夫な爪が空を切り裂き向かってくる。当たればその瞬間に切り刻まれるだろう。


 その攻撃の最中、タイザがふとなにかに気づいたように上を見上げた。その鋭敏な感覚に寒気を感じる。だが、


 ――もう、遅いッ。


 真上から迫る異変に気づいたタイザへ、テンガンの鋭い前肢が突き落とされる。太い槍のように鋭利な前肢は、大口を開けていたタイザの口内へ突き刺さり、深く体内を貫いた。ズドン、と重く音が響き、地震のように地面が振動する。シュオウは仰け反り、背中から一回転して距離をとった。


 荒く整わない呼吸に身を任せ、眼前の光景へじっと視線を向ける。


 それはまるで屠殺場のような光景だった。巨体の猿を、不気味な虫が解体していく。あれほど硬かった身体が、粘土のように軽々と切り分けられていく様を不思議に思い、シュオウは駆け出して飛び散った腕の一本を奪い取った。


 黒い獣の腕を取り、その皮膚に向けて剣の刃を当てる。ごわごわと何層にも重なった体毛を丁寧に剃り落とすと、現れたのは皮膚ではなく、体毛と同じ色をした硬い鱗のようなものでびっしりと埋め尽くされていた。


 ――これか。


 その鱗のようなものは、ただ硬いだけではなく、一個ずつが歪な形をしている。どれほど鋭い刃を突き立てても、針の先端で貫こうとも、この不規則な形状の硬い鱗に滑り、皮膚まで貫く事ができなかったのだ。


 体毛の下を覆い尽くすその鱗に触れる。あらゆる方向からなぞるようにそれを確かめると、ある一定の方向からのみ、隙間が空いていることにシュオウは気づく。


 タイザの骸を器用に切り分けるテンガンは、この隙間にうまく鋭い爪を刺し入れていたのであろう。その向きは必ず一定であり、二足で立った状態から見た場合、鱗の下側が隙間となるようだった。


 濃く人間の血の臭いを発する腕を放り捨てる。


 「やったのか――」


 駆け寄ってきたミオト達へ振り返り、シュオウは首肯した。


 「あとの二体は」


 シュオウが問うと、ミオトは瞼を落とし、


 「――少なくとも、霧の中には感じない」


 それを聞き、シュオウは深く息を落とし、地面に背を預けた。


 訓練の監督役の死により、若いタイザらは退いたのであろう。たしかな確信はないが、そうであってほしいと希望的に願うほど、短い戦いの間に溜め込んだ疲れが一気にシュオウへ押し寄せていた。




     *




 シュオウが救助した者達を連れ、戦場であった白道へ戻ったとき、ターフェスタ側の軍人達が、馬を連れて現場の様子を窺っていた。その中に混じっていた赤い外衣を纏った者達が、ミオトとルイの下へ駆け寄った。


 「ダーカ隊長に副隊長ッ、皆も……よくぞご無事で……」


 ミオトは隊員と思しき人間から毛皮の首巻きを受け取り、それを巻き付けながら頷きを返す。


 「九死に一生を得た。聖輝士隊の現状はどうなっている」


 ここに居合わせる者の中に、赤い外衣をまとう者は少ない。


 ミオトに問われた者は神妙に首を振り、

 「重傷を負った者が多数。それらをアリオトへ収容し、動ける者はみな救出隊への参加に志願しました。申し訳ありません、本隊を置き去りにして、我々は……」


 苦しげに俯いて言った隊員へ、ミオトはその肩に手を乗せる。


 「いい。戦いの最中、私の不用意な采配がために隊が分裂した。責めを負うのは長たるこのミオトである――」


 再会を喜び合う彼らの側に、シュオウは所在なく佇んでいる。そこへ、救助隊としてここに居る者達の視線が、痛みを伴うほど多く突き刺さった。


 シュオウが僅かに身を引いた時、

 「ムラクモ軍からの救出隊は来ていないようだな」

 とルイがシュオウへ声をかけた。


 シュオウは一度遠くまで視線を流し、

 「ああ」

 と愛想なく答える。


 ルイは姿勢を正し、軽く頭を下げながら、


 「この度の事、命がけでの我らへの救援、改めて感謝する。このまま我々と共にアリオトへ入り、身体を休めるというのはどうだ。リシアの名に誓い、決して悪いようにはしない」


 まるで周囲の者達にシュオウの行いを知らせるように、ルイは大きく声を張り上げて言った。


 この男の言葉や態度からは一切の悪意を感じない。むしろ、端々から礼をしたい、という純粋な意向が伝わってきた。


 ルイの背後に立つミオトと目が合うと、緩めていた顔を厳しく引き締め、たしかに一つ頷きを寄越した。


 皆が寄せる視線を受けながら、シュオウは否定の意を込めて首を振る。


 「そこは俺の居る場所じゃない」


 ルイは口を結んで喉を鳴らし、

 「……そうか」


 そこへ、ミオトが進み出てシュオウの前に立った。


 「我が目に受けた屈辱、本来であれば決闘を申し込むに値する。だが此度の行いにより、この場での報復はしない。しかし――」


 ミオトは言いかけで、傷を受けた片目から落ちる赤い涙を親指でなぞった。血で汚したその指を、シュオウの顔へ向けて伸ばす。


 避ける事はできた。が、敵意を感じず、シュオウはその行為をそのまま受ける事にした。


 ミオトは背を伸ばし、親指でシュオウの眼帯の上をなぞる。


 「因を結んだ――許す、が…………忘れん」


 片目で強烈にシュオウを睨み、ミオトは宣言した。


 シュオウは、

 「さっきの狂鬼達は群れからはずれた別働隊だ。戦場を襲った群れはまだ近隣の森にいる。早くここを離れたほうがいい」


 ミオトは仏頂面で、

 「情緒を解さぬつまらん奴め。貴様は一刻も早く風呂に入れ。猛烈に臭うぞ――」


 ミオトは仲間達へ向き直り、

 「――よろしい。生存者がいないか最後の確認をした後、聖輝士隊は全速力でアリオトへ帰還するッ」


 帰り支度を始めた彼らを確認した後、シュオウは一人、再び森へ向けて一歩を踏んだ。直後に、ルイが慌てた調子で声をかける。


 「待て、どこへ行くつもりだ。ムラクモの拠点へ戻るのでは――」


 上半身だけで振り返り、シュオウは、

 「まだ森へ逃げた仲間達を見つけていない」


 「馬鹿な……生き残っているわけが――」


 その瞬間、シュオウはルイを強烈に睨みつける。思いを察したように、ルイは言葉を止めた。




     *




 言葉通り、一人で森へ向けて早足で駆けて行く男の背を、ルイとその他の者達はじっと見つめていた。


 「見たか――」


 隣に並んだミオトがルイへ言う。


 「――あの男、あれほどの戦いを演じておきながら、終ぞ大きな傷を一つも負っていない」


 ルイは頷きつつ、見たことを思い返す。幾度となく身体が引き裂かれ、肉塊になっていてもおかしくない状況で、対等に化物と渡り合っていたあの男の姿を。それはすでに夢の中の光景に等しく、現実味を伴わないように思えた。


 ミオトはルイの肩に手を置き、


 「我らが見たものを他の者達にも見せることができるのなら……あれを見れば、我が目に負わされた傷も恥にはならないのだがな。が、いずれにせよ、見た者は多い。報告をあげねばな……」


 言い残し、用意された馬へ跨るミオト。

 ルイは馬の手綱を取るよう促されても、森へ向かう男の背から目を離すことが出来ずにいた。


 「……?」


 救出隊からの労いを避け、輝士が一人、未練を残したように進み出て、離れていく件の従士をじっと見つめている。


 その女は、凛としたターフェスタ軍の輝士だった。


 女は、さばさばとしてかすれた声で、

 「三度も命を救われ、礼を言うこともできなかった」

 そう、まるで生真面目な男のように、冷然とした口調で独り言ちる。


 男の姿が、するりと灰色の森へ飲まれていく。それはまるで、家に帰るような気軽さであり、化物でひしめく狂気の世界へ侵入する者の様とは思えなかった。




 今まさに、一生ものの戦いをしてきた直後、狂鬼のはびこる森へ、生死不明の者達を探すために、あの男は一人で森へ戻ったのだ。


 「本当に同じ人間か……」


 そんな馬鹿げた言葉が漏れるほど、驚嘆と共に、ルイは収まりきらぬ心を抱えたまま、静かに馬に跨った。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。




物語の続き、最新話と限定エピソードの連載は…

✅ FANBOXで先行公開中!

※ぜひチェックしてみてください!





コミカライズ版【ラピスの心臓 第3巻】2025年7月16日発売予定!

小説の表紙
― 新着の感想 ―
[良い点] 結構周回して読んでるけど、74ページから始まる悪食が1番好き
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ