表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
69/184

いくつかの夜 <後>

 いくつかの夜 2






 「まったく、話にならないッ――」


 その苛立ちに塗れた女の声は、ムツキ城塞厩舎の近くに置かれた、商材を積んで肥え太る大きな荷馬車の影から上がった。


 晴天の乾いた朝空の下、透明な空気を濁す怒声に、厩舎の屋根で肩を並べる小鳥達が一斉に羽ばたき、散ってゆく。


 女の名はエン。中央大山の麓、混沌として雑多な文化、人種が混じり合う地帯の出身であり、志を持って危険な深界を行く旅商としての道に従事する者である。


 艷やかで張りのある肌は、浅く焼いたパンのような小麦色をしている。南方の人々よりも薄く、その他の地域の人間よりも濃い肌の色は、混沌領域において多色な愛が混じり合った結果、形成されたものだった。


 分厚い帳面を叩きつけるように座席に置いて、エンは車輪に寄りかかり、地面に腰を落とした。

 腹の底に沈殿して消えない怒気にまかせ、重い車輪に拳をドン、と叩きつける。


 「おや、荒れとるじゃないですか」


 声の主は、物陰の奥から姿を見せた恰幅のよい中年男だった。見覚えのあるその顔に、エンは慌てて立ち上がり、身形を整える。


 「これは――お見苦しいところを」


 彼とは知己の間柄だった。

 エンにとっては単純に、自分より早く長く、商売の道に通じている人生の先達である。


 男は人の良さそうな目元に皺を寄せ、エンの前にどっかりと大きな尻を落ち着けた。


 再び、エンは足を組んで腰を落とす。車輪に背を預ける事なく、しゃっきりと意識して背筋を伸ばした。


 「まさかムツキにいらしたとは。いつ頃から……」


 意外そうに聞いたエンへ男は返す。


 「実は、しばらく前からここに足止めをされていてね」


 「では、ずっとこちらに……知りませんでした」


 「そりゃあそうだ。あんたは明るいうちに眠っているのだからね。昼に活動している私と顔を合わせなかったのも無理はない」


 「ああ、それはたしかに……」

 エンは視線を落とし、無意識に目元を擦った。


 「私のほうはあんたに気づいていたんだが、商談の邪魔をしては悪いと思い、遠慮してたんだ。が、まあ朝食後の散歩をしていたら、少しまいっている様に見えたんで、老婆心ながら声をかけずにはいられなかったというわけさ」


 男は幾重にも目皺を刻んだ人懐こい笑みを浮かべ、そう言った。


 「お恥ずかしい…………突然に降って沸いた儲け話に飛びついて、このざまです。相手方の都合に合わせ、夜通しの交渉を続けてきましたが、もう何日もまるで進展がありません」


 エンは旅商としての道を歩みだしてまだ日が浅い。多額の借金をして種銭を用意し、予期せぬ不和が原因で宙に浮いた商材を低価で買い付けた。その矢先、滞在していたユウギリで、急ぎまとまった数の武具を必要としているという話が飛び込んできたのだ。品の指定は、戦場で軟石兵らに持たせる良質の盾であり、その条件はエンが買い付け、運んでいた物と完璧に一致していた。


 「どこからとなく話は聞いているよ。さぞ、幸運が舞い込んできた、とそう思っただろう」


 エンは情けない心地を隠し、下向きに目を泳がせつつ頷いた。


 「なにせ、商談相手はあのサーペンティア家、それも現ご当主の若君です。近隣で相手方が満足するような品を即時に用意できるのは私だけでした。急ぎの様子でもあり、多少ふっかけても一瞬で売れるもの、と。なので本来の予定を捨ててまで飛んできたのですが……」


 男はかっかと笑い、

 「大貴族の若様は、おもいもよらずケチだったということだ」


 エンは憂鬱そうに顔を落とし、はい、とため息混じりに返事した。


 「あちら方の要求は話になりません。こちらの事情を知ってか知らずか、仕入れ値のギリギリの線を要求してくる。仮に言われるままに売り渡せば、かけた時間と手間の分、大損です。これ以上商談が長引くようであれば、私はもう撤退しようかと考えています」


 「とはいえ、身を切ってでも上手くとりまとめれば、若様との繋がりが得られるかもしれないよ」


 エンは渋い顔を男へ向け、


 「誘惑しないでください。あのような金払いの悪い客、繋がっていたところで、この先になんの益もありません。だいたい、件の盾は雑兵に持たせるような安物ではないのです。それを買い叩かれれば、世の物の価値そのものに悪影響を与えかねない」


 大げさなエンの言いようを聞いて、男は鷹揚に受け流した。


 「まあ、我々の道とは常々そういうものだよ。なにもかもが順風満帆、安く仕入れた物がありえないほどの高値で売れたという人間が、大金抱えて故郷への帰りしな、深界で気まぐれな狂鬼に出くわして食い殺された、なんて話も珍しくない。大なり小なり、皆なにかしら運というやつに身を委ねて生きている。私なんてほら――」


 男は話の途中で、遠く離れた場所に停められている大きな覆い布をかけた荷馬車を指さした。


 「――あれは私のなんだが、中になにが詰まってると思うかね」


 「それは……なにかしらの商材でしょう」


 男は冴えない顔で首を振って、

 「なんの価値もない古びたガラクタの山だよ」


 「え? なぜそんなものをムツキに……」


 「それがね――――」


 男はとつとつと語りだした。

 商談をまとめ、約束していた相手が破産して遁走。預けていた前払い金は戻らず、あったのはその相手が倉庫に置いていた古くてまとまりのない売れ残り品の山だけだった。

 そんな折、ターフェスタとムラクモの間に起こった戦の兆しに、遠回りを嫌って馬を飛ばして越境し、ムツキへ到着した直後、馬車を引いていた馬が病気を患い、身動きがとれなくなってしまったのだという。


 「それは、大変なご苦労を……」


 男に起こった不幸話を聞き、エンは同情の意を伝えた。


 「なあに、私が悪いんだ。長年築いてきた信用を過信しすぎてしまった。それに、この大事に追い出されなかっただけ幸運だよ。頭の固い拠点長ならさっさと追いやられていてもおかしくなかったが、新たなムツキの長は多少の事なら、それなりの誠意を示せばお目溢しくださる。でなければ、今頃私は自分であの馬車を引いて深界を歩いていたところだ。どだい無理な話だが――」


 男は自嘲気味に笑い、


 「――そもそもがガラクタの山……かけらでも回収しなければとかき集めて持ってきてしまったがね、あんな物のために大切な足をすり潰したと思うと、なおさら気が滅入るというものさ」


 エンはわずかに表情を和らげ、

 「そのわりには、先程からとても明るく振る舞っておられるように見えます」


 男は何度も頷きながら、また笑みを見せた。


 「わからんものでね。馬を休ませている間、暇にしていたら、なにやら忙しそうに働いている私服の連中がわらわらといる。仕事を手伝えば賃金をもらえるっていうんで手を貸していたんだが、どうにも彼らの言う雇い人、隊長とやらがとんでもない人物らしい、という話がよく耳に入るんだ。その話がなんだかやたらに面白いもんで、空いた時間でちまちまと書き留めているんだよ。やってるうちに楽しくなってきてね」


 思わぬ話を聞き、エンは僅かに抱いた好奇心に、前のめりに身を傾けた。


 「とんでもない人物、ですか?」


 「私も何度か遠目に見かけたんだが、北方人風の白っぽい髪に大きな眼帯をした濁石を持つ若い男でね……曰く、一人で巨大な狂鬼を討伐したとか、南山の砦を一人で落としたとか、ターフェスタで輝士達を相手に大立ち回りをして戻ってきた、なんてね――」


 エンは吹き出すように笑った。


 「夢想の英雄でも、もう少し控えめな内容でしょう」


 男はぽんと手を打った。


 「そう思うだろう? 私も当然そう思ったんだ。ところがね、その男、やたらに巨体で彩石を持った南方人を従えているうえに、サーペンティア家の若様が、まるで主に仕えるように寄り添ってあれこれと仕事を手伝っているんだ。あの様を見たらね、もしかしたらって思うようにもなる」


 「サーペンティアの若様って、それは――」


 「そうそう、あんたの商談相手だよ」


 思わぬ話に、エンは一人盛大に首をひねった。


 「もう少し、詳しく聞かせてください――――」




    *




 厩舎の壁際で、自身の馬の毛並みを整えていたアイセは、壁の向こう、空気取りの隙間から漏れ伝わってくる男女の会話を、意図せず漂ってくるままに聞き流していた。


 だが、話の途中から、その内容が自身のよく知る人物のことを示していることに気づき、作業の手を止め、より注意を傾けた。




 「――と、まあそんな話をしていて」


 城壁沿いに設置された簡易の調理場の側で、アイセは対面にいるクモカリが朝食の用意をする様を眺めつつ、見聞きしてきた商人達の会話を話して聞かせた。


 「別に驚かないわよ。ここにいる茶色の軍服を着た人たちの間でも、しょっちゅう彼の名前が聞こえてくるもの――――はい、朝ごはん出来たわよ。もうみんな食べて仕事に出た後だから、あたし的には遅ご飯だけど」


 少量のパンと、とろみのある白く濁った汁物を受け取り、アイセは晴れ晴れとした顔で礼を言った。


 「ありがとう、美味しそうだ」


 クモカリは背の高い調理台の上で頬杖をつき、

 「あんた達は上で上等な食事が食べ放題なんでしょ、わざわざこっちに来て寒空の下で粗末なものを食べなくたっていいじゃない」


 アイセは品良く汁物を喉に通し、


 「流れではあるが、シュオウと同じ隊の所属となったんだ。彼と同じ物を食べ、同じ物を飲みたい。それに、粗末だなんて思ってないからな。この料理は輝士の食堂で振る舞われる物にまるで負けていない。むしろ、私はこの味のほうが好きだ」


 クモカリはふわりと笑みを浮かべる。


 「そんなに素直に褒められちゃ、なにも言えないわね――ところで、ここに居ないあなたの相棒はどうしたの」


 「誰が相棒だ。まあ、シトリも上の食堂は嫌だと言っていたから、ここで食べるつもりなんじゃないか。でも、起こさなければ昼過ぎまで出てこないから、朝食は必要ないかもしれないが」


 「そう、そういうことなら一応量を考えて残しておくようにしておいたほうがいいわね――それにしても、さっきのあなたの話からして、あの王子様、すっかり商談相手に嫌われちゃってるみたいじゃない」


 「王子様って――」


 アイセはパンを手に持ったまま首を傾げて、


 「――ああ、あのヒトのことか……。上等な呼び方をするからわからなかったじゃないか」


 むっすりと機嫌を悪くして言うアイセへ、クモカリは問う。


 「ずいぶん含みのある言い方じゃない。ひょっとして、ジェダ様が嫌い?」


 歪んだ表情を正して、アイセは澄ました態度で汁を一口すすった。


 「嫌いというか……苦手、だな。意地が悪いし、家名を盾に、階級を無視して好き勝手に振る舞っている。それに、なんのつもりか急にシュオウにベタベタと……まるで副官気取りで張り付いて……」


 苦々しく歯を食いしばりながらアイセは愚痴をこぼした。


 「一番大事なところは最後のとこなんでしょ。相手を考えなさい。見境なく妬いてたら身が持たないわよ」


 指摘に喉をつまらせ、アイセはごまかすようにそっぽを向く。


 「シトリじゃあるまいし……私はそんな子供じゃないッ」


 そう、子供のように拗ねて言うアイセをクモカリは高みから余裕を持って宥め、


 「はいはい、そうね――――にしても、ううん……」


 ふと、考え込むようにクモカリは指を顎に添えて視線を上げた。


 「どうしたんだ?」


 「……なんとなくね、あなたから聞いた王子様の話が気になっちゃって――あたし、ちょっと行ってくるわ」


 クモカリは前掛けをはずし、調理場を出て城塞へ向けて歩き出した。


 立ち上がったアイセが、

 「どこへ行くんだ?」


 「ちょっとたしかめたいことがあって。遅く来たんだから、食べたらちゃんと自分で片付けなさいよ」


 「あ、ああ、うん――」


 明確な答えを得られぬまま、クモカリは足早に建物のほうへと姿を消してしまった。




     *




 通路の曲がり角で不意に大きな身体の男とぶつかり、アスオンは背中から地面へと倒れ込んだ。


 「大丈夫か、アスオンッ――」


 駆け寄ったイレイはアスオンを弾き飛ばした大男へ怒鳴る。


 「――きさま、どこに目をつけている!」


 「あ、やだ……ごめんなさい、考え事をしていたから」


 もさもさに生えた髭面の大男は、容姿に似合わない柔らかな物腰で謝罪し、アスオンへ手を差し伸べた。


 「下郎が、きやすく手を出すなッ」


 イレイは顔相を歪めて喚き、大男の手を払いのける。

 叩かれた手を胸に抱え、大男は弱り顔で一歩身を引いた。


 「イレイ――いいんだ、僕はなんともない」


 「いいものかッ、誰を突き飛ばしたと――」


 なだめるアスオンの言葉を無視して、イレイが大男へ詰め寄ろうとした、その時――


 「司令官代理は不問に処すとのこと。以後は気をつけるように――行け」


 イレイの前に身を入れたバレンがそう告げると、大男は頭を下げ、足早に奥へと立ち去った。


 機嫌悪く、イレイは鼻を膨らませ、怒りを帯びた横目でバレンを睨む。バレンは不敬な視線を無視してアスオンへ手を差し伸べ、その身体を引き起こした。


 「罰を与えるべきでした、アガサス重輝士」


 バレンへそう言ったイレイへ、軍服の汚れを払うアスオンは、


 「大げさだ……わざとぶつかったわけではないだろう」


 「甘いぞ、アスオン。お前がここの管理者として毅然とした態度を見せないから、奴らが調子に乗って平然と道の真ん中を歩いているんだ。甘い顔を見せるな、奴らはすぐに調子に乗る。あんな愚鈍で無価値な濁り共に――」


 「やめてくれ……」


 一層低い声を発したアスオン。イレイは不意を突かれたように声を詰まらせた。


 アスオンはより低く重い声で、


 「イレイ、僕はその言葉が嫌いだ。持って生まれた石の色がなんであろうと、同じ人間だ。僕の前で二度と今の言葉を言わないで欲しい」


 正面から友を睨み、アスオンは言った。イレイは臆した様子なく視線を重ね、


 「言うようになったじゃないか――――それは、上官としてのお前の命令なのか」


 「そうだね、そうとってもらって構わない」


 生じた睨み合いはイレイが先に瞼を落とし、決着を見る。


 「ふん――承知した、リーゴール司令官代理」


 イレイに頷きをしてみせた後、アスオンはバレンへ振り返る。


 「アガサス重輝士、お恥ずかしいところをお見せしました、視察を再開しましょう」


 バレンは厳つい顔を僅かに傾け、

 「は――その件について、ですが」


 すでに足を出していたアスオンへ向け、バレンは語尾に含みを持たせる。


 歩みを止めたアスオンは、

 「なにか?」


 「……輝士隊の確認よりも先に、収監されている敵軍の将、バリウム侯爵の現状をご自身の目で確認されてはいかがかと。合わせて、従士隊、及び拠点内各部の詳細把握に努められる事を具申致します」


 バレンの提案に、イレイが棘のある声で割って入った。


 「その必要まったくなし。アスオン・リーゴールは本戦を指揮する実質的な将。そのような高貴な身にある者が、戦いの前に薄汚れた牢になど近寄れば陰の気を引き寄せる事になる。なにより、戦の前に敵の捕虜となるような愚者へ、将として敬意を払うことなどないでしょう」


 バレンは険しい顔のままイレイの言葉を聞き流し、その視線をアスオンへ釘付けにした。


 アスオンはイレイの言葉を飲み込み、思慮深い顔でバレンを見つめ返す。


 「アガサス重輝士。正直なところ、現状で僕は敵軍の人間と言葉を交わしたくありません」


 「……理由を伺えますか」


 「人間味に触れたくないのです。信じるものが違うとも、彼らも僕たちと同じ人間であることに変わりはない。それを肌で感じれば、ターフェスタの将兵らを討ち果たす覚悟に迷いが生じる。そんな気がするのです」


 バレンは、

 「――そうおっしゃられるのであれば。承知しました」


 「それと、おっしゃっていた従士らについては、現状その運用になにか問題があるとお考えですか」


 バレンは一旦言葉を飲み、


 「――いいえ。各所の運営は一切の滞りなく、士気も高い。滅多に見ることがないほどに……」


 したり顔でイレイが胸を張った。


 「それもすべて、アスオン・リーゴールの高名あってのこと。問題がないのであれば、わざわざ連中のために司令官代理が骨を折る必要などない。これ以上、無駄な進言で時を消費するべきではありますまいな――」


 アスオンはイレイを手で制し、


 「彼の言いようには賛同しかねますが、問題がないのであれば、僕が顔を出して彼らに不要な緊張を与えることもないと思います。それに時を使うのであれば、戦の勝敗を左右する輝士隊の編成等の話し合いに使うべきと考えますが、ご納得いただけますか、アガサス重輝士」


 バレンは、ニヤついた顔のイレイ、そして真面目な顔で正面から見据えるアスオンを順番に見やり、


 「は――司令官代理のご判断に従います」




     *




 アスオンを先頭とした一行。その道行きに再び、立ちはだかる壁が現れた。


 淡く輝く草原のような黄緑色の長髪を揺らしながら、前方からジェダ・サーペンティアが姿を見せる。その斜め前方には、眼帯をした従士長、シュオウの姿もあった。


 「ジェダ様……」


 向かってくるジェダへ道を譲ろうと、アスオンが脇へ避けようとした瞬間、イレイが服を強く掴み、その動きを制した。


 「お前がこの戦の長だ。ここには他の輝士らの目がある。絶対に道を譲るな」


 イレイの言いようは真剣そのものだった。言い分は正しく、周囲には率先して道を譲る男女を入り混ぜた輝士達の姿が見られる。


 足を止めたアスオン。背後にはイレイ、バレンが控える。正面から来るジェダは、従士長を前に立たせ尚も前進を続けている。すれ違う輝士らの視線は、優美なサーペンティアの公子へ熱心に注がれていた。


 ジェダはアスオンの前に立ち、腰に左手を当て冷笑した。


 額に冷や汗を滲ませるアスオンは思わず片足を擦って下げた。が、腰帯を握ったイレイに押され、上体は変わらず同じ位置を維持している。


 「道を開けろ、ジェダ・サーペンティア。リーゴール司令官代理の前に立ちはだかるなッ」


 身を乗り出し、イレイがジェダを怒鳴りつける。


 ジェダに動じた様子はなかった。むしろ、浮かべる笑みは、より負の強度を増している。


 「立ちはだかっているつもりなどありませんよ。僕はただ、直進を継続したいだけだ。道の脇をこそこそと歩く趣味はないのでね」


 糊で固めたような、完璧な微笑を保って言うジェダへ、イレイは一層険しく眉を吊り上げて、


 「序列を弁えて物を言え。大家の名を背負おうとも、貴様個人に至っては一介の輝士にすぎんのだ。その程度の者が、重輝士であり、司令官代理の身分にあるアスオン・リーゴールへ道を譲れなどとのたまうつもりか!」


 ジェダはイレイの言葉を鼻で笑う。


 「我々の世界において、家名なしに個人が評価されることなど稀であると、よくご存知ではありませんか、シオサ家のイレイ殿」


 イレイは歯を剥き出し、さらに声を荒げた。


 「よくも言った。ジェダ・サーペンティア、この場で貴様に罰を与えるための口実、片手で数えきれないほどに思い当たるぞ。今すぐそこをどけ、どかないのなら――」


 イレイが剣に手をかけた瞬間、周囲に緊張が走る。様子を伺っていた者達から悲鳴にも似たざわつきが上がった。


 「イレイ、まッ――」


 アスオンが止めに入ろうとした時だった。この場に居合わせながら一言も発することなく屹立していた従士長が、そっと静かに通路の脇へ避け、頭を下げたのだ。


 彼の行動に、一番の戸惑いと苛立ちを見せたのはジェダだった。


 「――ッ」


 ジェダは微笑を消し、強く物言いたげな顔で従士長を睨んだ後、無言で道の脇へ避け、従士長の隣で同様に頭を落とす。


 輝士達がひそひそと話し合う声の響く通路で、呆けていたアスオンの背をイレイが押した。


 「行くぞ、アスオン――」


 小声で言ったイレイへ頷き、アスオンは頭を垂れるジェダの前を通り過ぎる。後尾から後をついてくるバレンがジェダへ向け一つ深々と礼をする様を見て、イレイは密かに舌打ちをした。




     *




 ゆっくりと持ち上げたジェダの顔面には溢れんばかりの鬱憤が澱んでいる。


 「どうして道を譲ったんだ」


 憤って聞くジェダへ、シュオウは顔を合わさずきっぱりと言った。


 「無駄な縄張り争いは必要ない」


 歩き出したシュオウの後を追うジェダは、

 「意地を張らなければならない場面もある」


 「今がその時だったのか?」


 前を向いたままのシュオウの言に、ジェダは応えることなく沈黙した。


 二人は広いムツキ城内を歩く。


 すれ違う輝士らは道を開け、ジェダへ向けて軽く会釈をする。また、茶色い軍服を着た従士達も進んで道を開ける。が、後者の視線は例外なくジェダではなくシュオウへと送られていた。


 道すがらにシュオウはジェダの名を呼んだ。


 「ジェダ――そろそろ限界だ。いくらでもいい、足りるだけの盾を買い付けろ。付け焼き刃でも、皆に実物を持たせて訓練をさせておきたい」


 「ああ……わかっている。待っていてくれ、今夜か、明日中にでも相手に条件を飲ませてみせるさ」


 隙間を通る微風よりも小さく、ジェダは溜息を吐いた。


 シュオウは不満気に、

 「そう言ってもうずっと――」


 言葉の途中で、道の先に手を振るクモカリを見つけ、シュオウは話を中断した。彼の下まで行き様子を窺うと、クモカリはどこか蒼白とした顔で額に汗を浮かべていた。


 「どうしたこんなところで、なにかあったのか」


 不穏なクモカリの様子に不安を感じ、シュオウはそう問いかけた。


 「いえ、たいしたことはないの。ちょっと偉い人とぶつかって怒られちゃっただけ。あなたの周りにいると忘れそうになるんだけど、やっぱり貴族って苦手……」


 シュオウのすぐ後ろに佇むジェダが真顔で首を傾けた。


 クモカリは胸の前で両の手のひらを振り、

 「――と、そんなことを言うために来たんじゃなくて。ちょっと、見せてもらいたいものがあってあなた達を探してたとこなのよ」


 「見たいもの、とは」

 とジェダ。


 「お金よ。ほら、アデュレリアから持ってきたっていう」


 「ああ――」

 そう漏らしたジェダは横目にシュオウの顔を伺った。

 シュオウは頷きを返して、


 「俺はこれから別の隊の訓練を見て欲しいと頼まれてる」


 ジェダは頷いて、

 「なら僕が案内をしよう。君は自分の事を優先しろ」


 クモカリは弱り顔で額に浮かぶ汗を拭った。

 「ごめんなさい、忙しい時に……今じゃなくてもいいのよ、別に夜とかでも」


 ジェダはいち早く自室のある方向へ先導し、


 「その様子、ただの好奇心からじゃないんだろ。遠慮はいらない、この程度の事も後回しにするほど追い込まれてはいないさ」


 シュオウと一時の別れを告げ、クモカリとジェダは連れ立ってその場を後にした。




     *




 ぎっしりと金が詰め込まれた木箱の山を前に、クモカリは口を閉じるのも忘れてその光景にあっけにとられた。


 思わず喉を鳴らしたクモカリは、

 「こんなとんでもない量のお金、夢の中でだって見たことないわ……」

 言って、口を開いたままジェダを見つめた。


 「そんな顔で見るのはやめてくれないか。生まれで持たれる印象ほど大金に縁はないんだ。この金の所有者は僕ではなく、正真正銘シュオウだ」


 クモカリは木箱の山に目を戻す。


 「そう……ね。でも信じられないわ……これだけのお金、ぽんと渡すほうも渡すほうよ。要するにこれ、氷姫がシュオウにつけた値段ってことじゃない。彼、怖くないのかしら……」


 背後の寝台に腰掛けたジュナがさえずるように笑って、

 「シュオウ様はあまり気にもとめていないご様子でした」


 クモカリはようやく開けた口を閉じ、ジュナへ微笑みを返した。


 「さすが大物、でいいのかしら……ひょっとしたら鈍いだけかもしれないけど――――でも、こんなにあるんだったら、ぽんと買っちゃえばいいんじゃない? 言い値で取引したって、たっぷり木箱は余るでしょ。あっちも商売なんだから、ちょっとくらい譲る気持ちも大切よ」


 クモカリに言われたジェダは、一瞬惑い、すぐにその意を理解した。


 「だめだ。甘い態度を見せれば、この後の交渉事に悪例をつくることになる。シュオウという人間を相手にすれば、容易く儲けを引き出すことができる、連中にそんな風に侮られるわけにはいかない」


 ジェダの言いようは真剣で、目尻は鋭利に研ぎ澄まされていた。そこには一切の甘さ、優しさの気配は伺えない。


 「随分彼のことを立てるけど、そんなに先の事まで考えて、いったいなにを見ているのかあたしにはわからない……。そこまで本気ならこれ以上言っても無駄でしょうけど。でも気をつけて、あちらはもう手を引く寸前まで機嫌を損ねているわよ」


 ジェダは不穏に表情を暗くし、

 「そう聞いたのか」


 「ええ、風の噂にね。でもたしかな話よ」


 ジェダは鼻から深く息を落とし、くたびれた顔で木箱に手を置いた。


 「彼の名は、すでに知られつつある。この後、その振る舞いや行いは人伝にさらに広まることになるだろう。例えどんな些細な交渉事であっても、身を切るのは彼ではなく、相手でなければだめなんだ。風説には質がある。良し悪しが入り交じるそれに、可能なかぎり負の要素を取り込みたくはない――向こうが手を引くというのならそれでも、彼の名を落とすよりはいい。すぐにでも別の交渉相手を探すさ」


 「それで本当に間に合うのかしら。さっきから雲を掴むような話ばかりしているけど、先ばかり見て今を見逃すようじゃ、その努力も無意味になってしまうわよ――ッと、ごめんなさい、偉そうに言っちゃって」


 美貌に差す暗い影。そこに見える闇の色の濃さを感じ取り、クモカリは底冷えするような感覚に身体の芯を震わせた。


 優れた容姿に家柄。仕事ぶりを見てもよく頭が回る人間であり、噂通りであれば輝士としての腕前も一級なのだろう。が、クモカリから見るジェダ・サーペンティアという人物は、危うさを感じるほど硬く、尖った骨を剥き出しにして生きているようにも思えた。


 暗くなった場をなごませるように、クモカリは戯けて木箱をぽんぽんと叩いた。


 「でもほんと、シュオウって豪胆よね。こんな大金ぽんと渡されて、後でたっぷりと利子をつけて返せ、なんてもし言われたらと思うと、あたしなら怖くてとてもじゃないけどすんなり受け取れないわ」


 和ませるように言った言葉に、しかしジェダとジュナは真顔で顔を見合わせて、

 「知らなかったのか」


 ジェダに問われ、クモカリは首を傾げた。すると、ジェダは木箱の片隅に置かれていた小さな入れ物の中から一枚の紙を取り、差し出した。


 そこには、アデュレリア当主の名と共に、シュオウに対して用意した金がすべて譲渡される物であること、今後一切返済の義務も発生しないことが過剰なほど、事細かに記されていた。


 ジェダは淡々と言う。

 「それをアデュレリアの当主に書かせたのは君だ」


 「…………えッ」


 喉の奥から濁った声を絞り出し、クモカリはジェダとジュナへ視線を流した。弱り顔でうなずくジュナを見た後、蒼白となった顔面を証書へ戻す。


 「酒の力があったとはいえ、その話を聞いたときは、抜け目のない大胆さに一目置いたんだが、まさか完全に覚えていなかったとはね。彼の話では、君はアデュレリア公爵を罵倒しながらそれを書かせたということだった」


 呆れを込めつつ、ジェダは語った。


 「嘘、でしょ……氷姫にあたしがこれを――」


 寒気に肩を震わせつつも、クモカリは冷静さを取り戻し、一つ嘆息して、


 「――でもこれ、すごい内容よ。あの大貴族のアデュレリアが、シュオウに対して一切の見返りもなくこれだけのお金を渡したっていう証明になるじゃない」


 ――よくやったわ、あたし。


 クモカリは心中で自身を褒め、決意と共に強くうなずいた。


 「ねえ、あなたの商談相手、今すぐここに呼んでちょうだい」


 ジェダは訝りながら、

 「……かまわないが、思いつきでどうにかなるような相手じゃない。やめておいたほうが無難だ、無駄に気分を害する結果になりかねない」


 「強さを貫くことが大事な時もあるけど、人と人とのやりとりには、柔軟さが必要な事もあるのよ。失うものなんてないんだから、少し試させてちょうだい。からんだ糸を解すための材料、見つけたかもしれないから」


 クモカリは証書の表面をジェダへ見せ、髭面に柔らで妖艶な笑みをそっと浮かべた。




     *




 大金の詰まった木箱の蓋がすべて開けられ、階段状を成して部屋に並べられている。その光景を目の当たりにした旅商のエンは、眠りを邪魔された不機嫌さを忘れて、寝不足で赤みを帯びた目を見開いた。


 しかし驚きも一瞬のこと、エンは不快そうに口角を下げ、


 「これは、どのような意図を持つ余興でしょうか……。これほどの大金を持ちながら、それでも商品を安く買い叩く、そういう意思を誇示している――そういうことですか」


 室内にいるのはエンを除いて二人。ジェダは彼女を連れてきてすぐ、長椅子に足を組んで腰掛け、むっすりとして顎を引き、瞼を閉じている。


 もう一人の部屋の主であるジュナは、急な来客にそなえ身を隠している最中だった。部屋の隅に置かれた大きな樽は現在、人間一人分の重さを内包し、存在感をさらに増している。


 互いに刺々しい気を帯びている彼らは、これまでの交渉期間を経て、すっかり関係を悪くしている様子だった。


 この場を設けたクモカリは進行役となり、不機嫌なエンへ語りかける。


 「いやあね、わざわざそんな嫌味なことをするために呼んだりしないわ」


 筋肉の多い大きな身体で、女のように手を泳がせてクモカリは言った。そうした仕草、話し方を披露するたび、エンは一瞬ぎょっとしたような顔を見せるが、広い世界を行き来する商売柄、彼女は自然とクモカリの個性を受け入れ、飲み込んでいるようである。


 「では、いったいなんの目的で……」


 エンは腕と足を組み、目を閉じるジェダを見て聞く。

 瞼を落としながらでも、声を向けられたことを察知したジェダは、


 「――僕はこの余興の主催者ではないよ」


 エンの視線は部屋にいる残された一人、クモカリへと向いた。


 「そう、あたしが頼んであなたを連れてきてもらったの。あなた達の話し合いが上手くいっていないみたいだったから」


 エンは考え込むように前傾に姿勢を歪めた。


 「何を言われようと、提示されている額では話になりません。これだけの資金を見せられた今ならなおさら――まっとうな値をつけていただけないのであれば、私は明日中にでもここを去るつもりでいます」


 薄く目を開いたジェダ。その顔に浮かぶ鋭い気に、エンは抱いた怯えの色を一瞬滲ませ、顔をそらした。


 クモカリは澱んだ空気を祓うように両の手の平を強く叩き合わせる。


 「一つ誤解を解くわね。まずこのお金、所有者はそこにいるジェダ様じゃないのよ」


 エンは疑念に眉根を寄せた。


 「はい……? しかし、ここは公子のお部屋なのでしょう」


 ジェダは軽く首を振り、

 「一時的に預かっているだけ――というより、置き場としているだけにすぎない」


 クモカリは首肯し、

 「そういうことなの。あなたの売り物を求めているのは、このお金の本当の持ち主、ムラクモ王国軍にいる従士長。彼の名前はシュオウ、というの」


 エンはその名を聞いた途端、はっきりと顔を上げた。


 「シュオウ……その名を、存じています」


 「そう、ならそこの説明は省けるわ。このお金は彼の物。ジェダ様は彼の求める物を手に入れるため、代理で交渉に当たっていたというわけ。支払いはこのお金の中から賄われる。だからこそ、ジェダ様は少しでも安く、負担を減らして手に入れたかった――それでいいのよね?」


 クモカリに問われたジェダは目を脇へ逸しつつ、一度だけ頷いた。


 エンはジェダの反応を見た後、


 「そう、ですか……しかし、従士長といえば濁石を持つ者。これほどの資金を手元に置ける人間はそういない。本当に、そのシュオウというお方の私財なのでしょうか。例えば、家が高名な商家であるとか」


 消沈と失望に塗れていた空気から一転、好奇心を垣間見せ始めたエンへ、クモカリは微笑みを浮かべ応じる。


 「彼は孤児よ」


 「なら、こんな――」


 クモカリはしたり顔で一枚の証書を取りだし、エンへ渡した。


 文面をさらさらと読み解くエンは、次第に大きく顔色を変える。


 「あのアデュレリア……ご当主の印、署名。ではこの金はすべて――」


 「推察の通りだ」

 とジェダ。


 「……信じられない」


 エンは再び文書へ目を戻し、絶えることなく何度も内容を読み返した。


 ――思った通り。


 彼女の様子に、クモカリは事が思惑通りに運んでいることを喜んだ。


 目の前にあるのは、使い切るのも苦労するほどの大金である。が、その金を用意し提供した人物が、世に知られる氷長石の主、アミュ・アデュレリアであるという事実は、その物の価値をさらに倍増させる。


 この箱詰めにされた金は、大国の権力の中枢にある大領主の用意した金であり、その金は本人の署名つきで、返却の必要なし、と記されている。つまりは、シュオウいう人物に対して差し出された金なのだ。


 それはアミュ・アデュレリアが一人の青年につけた値にも等しく、世界を渡り歩く旅商が、その価値と意味の重さに気づかぬはずはない、とクモカリは計算していた。


 クモカリがまた手を叩くと、エンは肩を震わせ、はじかれたように文書から目を離した。


 「ここで改めて本題に入りましょう。さ、どうぞ座ってちょうだい」


 クモカリはジェダの対面の席へエンを誘導し、自らは両者の間に椅子を置いて腰を落とした。


 エンは開口一番、


 「はじめに言っておきます。たしかに驚きましたが、これを見せられたからと言って、言われるままの値で商品を売るほどお人好しではありません。脅しや威圧のつもりであれば、そんな事に屈するほど私は軟弱ではありませんよ」


 きっぱりと言ったエンへ、ジェダが無言で鋭い視線を投げた。


 「でも、あなた本当に無視できるの――」


 その問いかけに、エンはグッと喉を鳴らした。クモカリの言は続く。


 「――若くしてムラクモ王国軍の従士長にまで抜擢されて、あのアデュレリアが無償でこれだけの大金を差し出し、サーペンティア家の若様が彼のためにしつこい値引き交渉を続けて毎日寝不足にまでなっているのよ」


 最後の一言に、ジェダは頬をぴくりと上げ、物言いたげな顔でクモカリを凝視した。


 「それは……」


 言葉を濁すエンへ、クモカリはさらに畳み掛ける。


 「今ここで言ったって、到底信じてもらえないような事だってしてきた人なの。今回のことは、そんな人間を相手に恩を売る絶好の機会でもある。商売って目先の利益がすべてではないはずよ、時には先を見越した投資が重要な時もあるんじゃない」


 「…………それは、そうです」


 次いで、クモカリはジェダへと視線を移した。


 「ジェダ様――高貴なお生まれのあなたにはピンとこないかもしれないけれど、下々の人間っていうのは、少しのお金であってもそれが生きるか死ぬかを左右する重要な事なの。その苦労を無視して一方的に損を引き受けろ、というのは横暴よ」


 ジェダは無言でクモカリから視線をはずし、組んだ腕と足を降ろして姿勢を整えた。


 クモカリはエンに向き直り、


 「エンさん、お願いがあるの。こちらの若様にも、交渉を引き受けた手前面子があるのよ。あなたが損をするほどでなくてもいい、でもギリギリのところで値引きを考えてもらえないかしら。それに加えて、これまでかけた時間と輸送を考慮した手間賃を加えるわ」


 エンは、唸って唇を噛む。その視線が前を向いた時、ジェダは渋々といった様子で、しかし明確に首肯した。


 熟慮を経て、エンはジェダとクモカリを交互に見やった。


 「……前向きに検討しましょう。でも一つ、条件があります」


 クモカリは首肯し、

 「ええ、どうぞ言ってみて」


 エンはジェダを一瞥した後、クモカリを見据え、

 「そのシュオウというお方に、私を直接紹介していただけますか」


 一切の澱みなく、クモカリはエンへ了承を告げた。




     *




 エンの去っていった部屋で、クモカリは樽に収まっていたジュナを抱きかかえ、寝台の上に座らせた。


 「お見事です。おつかれさまでした」


 朗らかに言ったジュナへ、

 「ちょっと強引だったけれどね」


 そう言い、クモカリは得意げに笑みを返した。


 「でも――ごめんなさい、相談もなく勝手に追加の金額を提示してしまって」


 クモカリの謝罪を受け、ジェダは長椅子に腰掛けたまま、


 「かまわないよ。完璧に望んだ通りの結果ではないが、支払いの額は許容出来る内に収まっている。しかし、こんなにあっさりと話がまとまるなんて……」


 細かい交渉の末、最終的にエンが受け入れた条件は、ジェダが強硬に主張していた条件に僅かな色をつけた程度の額に落ち着いていた。仮の約束ではあっても、これまでを思えば、ジェダが呆然とするほどに短時間で話がまとまったことになる。


 呆けて言う彼にクモカリは、


 「商売人ってね、利益を出せない自分が許せないものなのよ。それこそ、損を出すなんてもってのほか。どうしても安く売らせたいのなら、その分彼らに他の事で少しでも得るものがあった、と思わせないとだめ」


 「それが、シュオウへの顔つなぎ、か」


 クモカリは首肯し、


 「旅をして商いをする人たちにとって、人脈はお金の次に大切なものでしょ。決定打はアデュレリアの証書でしょうけど、あなた――ジェダ様の存在も、彼の価値を裏付ける重要な要因になったはずよ」


 ジェダは深く息を吐いて、

 「なるほど……勝手を知り、裏口をついたわけか――」


 言って立ち上がり、正面からクモカリを見つめて輝石のある左手を差し出した。


 「ジェダ、と呼んでくれてかまわない」


 真顔のジェダの手を握り、クモカリは頬を上げ頷いた。


 「ええ……わかったわ」


 「よければ、後の細かいやりとりは君に主導してほしい。この金の管理も含めてね」


 「あたしに金庫番をしろっていうの?」


 首肯したジェダは、

 「僕には仕事が多すぎるんだ、分担をしてもらえるなら助かる」


 言いながら部屋の外へ足を向けたジェダへ、クモカリは慌てて呼び止めた。


 「待って、でもあたし、こんな大金を管理できるような立場じゃ――」


 ジェダは微笑を向け、


 「適材を適所に配置する。そこに石の色も生まれも加味されない。彼の下ではそれが出来る。事後報告になるが、今から経過報告と今の提案の許可を取り付けてくるよ、彼ならきっと二つ返事で了承するだろうけどね」


 背中越しに一度手を振り部屋を後にしたジェダ。静かに様子を伺っていたジュナが、


 「ごめんなさい、弟が強引に押し付けてしまって。ご迷惑なら……」


 クモカリはジェダの座っていた長椅子の上に身体を横たえ、天井を見つめた。


 「いいの――ちょっと怖いけれど、半分は嬉しい気持ちもあるから。でも……きっと買いかぶりだと思うけれど」


 ――まあ。


 悲しみを思い出す間を少しでも埋めたいと願う現状。ジェダがその身に背負う多忙を分けてくれたのは、むしろ好事である。そこに彼からの信頼が多少でも含まれているのなら、悪い心地はしなかった。


 ――疲れたわ。


 クモカリは緊張に固まっていた身に僅かな休足を与えた。




     *




 自身の荷馬車へ戻ったエンを、あの先達の男が出迎えた。


 「やあ、おつかれさん――おめでとう」


 早々に祝の言葉を浴びせられエンは戸惑った。


 「……どうして」


 男は快活に自分の太鼓腹を撫でながら笑い、


 「かかっていた雨雲が晴れた――そういう顔をしている。若様からお呼びがかかって出ていくところを見たときには、刺し違えでもするんじゃないかという顔をしていたから、内心ひやひやしていたんだ」


 「それは、どうも……。私もてっきり、また腹立たしい無理難題をふっかけられるものと思っていましたが、突然妙な仲裁人が現れて、いつのまにか話がまとまりました。なんだか、うまく丸め込まれたような気もしますが」


 エンは気恥ずかしさを覚え、目を細めて唇をそっと噛みしめる。


 「いやあ、よかった。若人の幸先を心配していたところだったから。しかし、いいことってのは伝染するものなのだろうか」


 男の言いようを疑問に思い、問う。


 「といいますと」


 「じつは、すぐにでもここをたてる事になってね」


 「では、馬の病が癒えたのですか」


 「そうではなく、先ほど突然、お綺麗なムラクモ輝士のお嬢様がやってきて、余っている馬と病の馬を交換してくださると」


 「それは随分とお優しい……」


 男は深々と頷いて、


 「そうなんだ、どこで聞いたのか私の事情をご存知のようでね。とはいえ、貴族方が我々のような者の事を案じてくださることなど稀なこと。なにか裏がありゃしないかとも思うんだが、ひとの親切は素直に受け取ろうと、ね。と、いうわけで、挨拶して早々名残惜しいが、これでしばしのお別れとなりそうだ――」


 戯けて言い、片手を上げた男にエンは、


 「それは、よかったです。私もこれから場所を借りて、交渉の大詰めに備えて荷の状態確認にとりかかります。どうか――無事な旅を願います」


 柔く笑み、頭を下げて別れを告げた。




     *




 アイセは各所に散る厩舎の一つから一頭の馬を引き、逆側に位置する厩舎を目指して歩いていた。この馬はシトリがムツキへの移動に使っていた乗馬用のものである。その馬を、不幸にも戦を控えた最前線の軍事拠点に足止めされている男へ渡すための道中だった。


 荷馬車の側に佇んでいた約束をした男の下までたどり着き、アイセは手綱を手渡した。


 男は、はあと溜息を漏らし、

 「よい馬です。本当にいいのでしょうか、私のような者に。しかも、このような時に――」


 恐縮した様子の男へアイセは軽く言う。


 「これは軍馬ではないし、持ち主に許可もとってきた。心配する必要はない」


 男は馬の喉元を撫でながら、物腰低く機嫌を窺うようにアイセを見上げる。突然、ごそごそと胸元を漁ったかと思えば、そこからこっそりと財布のようなものを覗かせた。


 「どうも……あの、できるかぎりの事はさせていただきたいと思いますが、仕事で下手を打ってしまいましてね、現状の手持ちには限界が……」


 アイセは慌てて手で制し、


 「礼など必要ない。たまたま事情を知ってしまったので、できる範囲で助けたいと思っただけだ。重く受け止める必要はない」


 恐る恐る合わさる視線に澱みのない意思を込める。少しして、男はほっとしたように肩の力を抜いた。


 「ありがとうございます、不幸続きで参っていた折、このような慈悲を、まさか輝士様からいただけるとは……。言葉もありません。弱っているとはいえ、私の馬は元々健脚で粘り強く気性も良い。後のこと、何卒よろしくお願い致します」


 アイセはしっかりと頷いて、

 「きちんと面倒を見るつもりでいる。大丈夫、馬の事には慣れているから」


 深々と何度も頭を下げた男は、アイセの用意した馬を自身の馬車へ繋ぎ、忙しなく出立の支度を始める。馬車の後部側からチラチラと中を気にするアイセへ男は、


 「いや、お恥ずかしい……できればあまり見ないでください」


 言った通り、心底恥じ入った様子の男の態度が気になり、アイセは好奇心から問うた。


 「なにが積まれているんだ?」


 男は情けなさそうに自嘲し、


 「借金のカタに回収してきたガラクタですよ……出来の悪い玩具やら工芸品やら……古い物も大量に混じっています――ええい、恥ずかしいですが、恩人に隠し事をすれば罰が当たる。どうぞッ――話の種にでも見てやってください、これなんてほら、酷いものでしょう」


 男はテカテカの塗料を塗りたくった一点の工芸品を取り出した。


 「ッ――」


 アイセは息を呑んだ。男が手に持つ工芸品の美しい造形のためである。それは狐を模した彫り物だった。眩く陽光を反射する表面の体毛。ぎょろりと大きく血走った眼に、なぜか大口をあけ、自身の身体と同程度の大きな芋虫を丸呑みしている真っ最中。なにを目的として造られたか、意図不明の一瞬を描くその様に、アイセはうっとりと目を潤ませる。


 「こんなのが、まだ中にわんさかと……」


 ぎょろりと、荷馬車へ視線を動かしたアイセが次に吐いた言葉を聞いた男は、破顔して全身から喜びを滲ませた。その喜びようは、馬を渡されたときとは比べ物にならないほどであった。




     *




 「で、このゴミの山を積んだ荷馬車まるごと買い取ったっていうの?」


 呆れ果てた口調で言うクモカリに対し、


 「……はい」

 と、消え入りそうな声でアイセが応えると、側にいたシトリが堪えきれずに吹き出した。


 アイセは虚ろな顔で、不気味な狐の彫り物を抱きかかえ、立ち尽くす。


 クモカリは呆れを通り越し、アイセの無駄な買い物を哀れんだ。


 「どんなに良いとこに生まれたからってね、いくらなんでもこれはただの無駄使いよ。これのどこを見たらお金を払う価値があるって思えたの……」


 「あの時は宝の山に見えたんだ……」


 「今でも?」

 と、ボソリとシトリがつぶやく。


 アイセは光の消えた眼を落とし、

 「皆の顔と反応を見てたら、なにかすごく愚かなことをした気分になってきた……」


 アイセは視界の中に映るシュオウをそっと注視する。彼は無言で荷馬車の中身を伺っていた。淡々とした横顔からは何を思っているのか、窺いしれない。


 「でも、あの商人の男は困ってたんだ。買い取ると言ったらすごく喜んでいた……」


 アイセが垂れた言い訳は、皆にではなくシュオウに対しての言葉だった。この事で、無駄金を使う愚か者、と思われたくなかったのだ。たとえそれが事実であったとしても、である。


 「喜んで当然でしょ」

 辛辣なシトリの一言がアイセの心に突き刺さる。


 「これは、なんだ……?」


 シュオウが荷馬車の中から、黒い塊を詰めた小瓶を取り出し、光に当てて注視する。それだけは、中に収められた品々とは趣の異なる代物だった。


 アイセは、

 「ああ、それ――荷を全部買い取ってくれたお礼にって、渡されたんだ。この辺りの白道に落ちていた物で、すごく珍しくて貴重な物だから、幸運のお守りにって」


 一瞬、興味を寄せたシトリがシュオウの手元を覗き込み、

 「なにこれ?」


 シュオウがおもむろに、

 「獣の糞、だな?」


 シトリはぎょっとして小瓶から顔を離した。


 アイセは首肯し、

 「たしか……タイザ、とかいう狂鬼の物だって。聞いたことがないし、本当に値打ちのある物かどうかもよくわからないんだが」


 シュオウは小瓶を握りしめ、アイセの正面に立ち、両肩に手を当てた。


 「これを渡した男はどこにいる」


 アイセは触れられた手の熱に緊張を覚えつつ、

 「さ、さっき、渡した馬でユウギリに行くといって正門のほうに――」


 言いかけでシュオウは手を離し、

 「――これ、借りていく。ありがとう、アイセ」

 去り際にそう言い残し、シュオウは一人で正門のある方向へ向けて駆け出した。


 突然の行動にあっけにとられる面々。なぜか親身に礼を送られたアイセは、理由もわからないままの心地良さに身を委ね、暗くしていた顔に花を添える。


 少し前までアイセを小馬鹿にしていたシトリは、片頬をふくらませ、つまらなさそうに背を向けた。




     *




 「待ってくれッ――」


 騎乗し、正門を出てすぐの男の背をシュオウは懸命に呼び止めた。


 声に気づいた男は振り返り、シュオウを見て驚いた顔をする。


 「あなたは……」


 男は重そうな身体を馬から降ろし、一礼して応じた。


 シュオウは荒い呼吸を整えて、

 「これの事で、教えて欲しいことがあって追ってきた」


 「あッ、それ。私があの輝士様に――」


 シュオウは頷いて、

 「借りてきた。あなたから貰ったと聞いた」


 「なるほど……そういうことでしたか。ああ、いや、大した話ではないんです。少し前にムツキへ向かう途中に、偶然見かけて拾っただけで。でも、それに興味を持たれるとは流石、お目が利きますな。そいつは正真正銘、旅をする狂鬼、タイザの排泄物です。白道の上にわざわざ糞を垂れるなんて妙な狂鬼でしょう。タイザは群れを成して行動する狂鬼で、なんでも、数十年に一度、別々の群れ同士が子作りのために見合いをするんだとかなんとか」


 「見合い……」


 初めて聞く奇妙な習性にシュオウは前のめりで話に聞き入る。


 「いやね、若い頃に立ち寄った辺境で、開拓業をしていた年寄りから聞いた受け売りなんですがね。なんでもそのタイザっていうのは、雄が度胸試しをして相手の群れの雌に力を見せるんだとかって。白道に置かれた糞は、見合いの申し込みの合図なんだそうですよ。そのときに聞いていた話と、実際に見せてもらったタイザの糞がまったく記憶にある通りだったもので、これは間違いない、と――」


 さらに詳しく状況を聞き出し、シュオウは礼を告げて男と別れた。

 頭に残ったのは一つの懸念、そして可能性。

 正門の前、白道の上で一人ぽつんと佇み、小瓶の中身を凝視したシュオウは、強く奥歯を噛み締めた。




     *




 一夜が明けている。


 城壁沿いの一角で、幅広の盾を手に隊列を組む一団があった。

 その盾は漆黒の表面に、黄金色の蔦の模様が施されている。黒く艶光りする姿は、このまま王宮の壁に調度品として飾ってもいいほど美しい。


 縦横に整然と居並ぶ様を見て、シュオウは満足気に口角を上げた。


 「質に間違いはないんだな」


 シュオウは隣に立つエンに問いかける。

 エンはあらたまって頷き、


 「黒凝鉱――ブレイ・アイとして知られる希少鉱石を主材とした盾です。よほど優れた硬石兵でもないかぎり、破壊することは簡単なことではありません」


 その言にジェダが正面を向いたまま付け加えた。

 「武具がいかに丈夫であろうと、それを持つ者の資質は無視できない」


 一瞬の事だったが、ジェダの言いようを聞いたエンが、露骨に口元を歪めたのをシュオウは見た。


 ジェダは険しい表情でシュオウへ顔を向け、


 「――この隊形を戦場に持ち込むつもりなら、僕は反対する。どれほど優れた盾を持たせたところで、やはりこれはただの的だ。歴史、伝統にもそれなりに意味を持つものもある。なぜそうなったか、を考えれば、出来ることと出来ないことの選択を間違えることはない」


 シュオウは表情を変えぬまま、

 「わかってる――」


 傍らに置かれた余った盾を取り、固定された訓練用の丸太にくくりつけ、ジェダを見た。


 「――思い切りやれ」


 ジェダは難しい顔で眉をくねらせた後、息を吐いて右腕を薙ぎ払った。ジェダの正面で生じた発光する風刃が、盾の側に立つシュオウをかすめ、固定された盾に直撃する。皆の視線が集まるなか、衝撃音の発生と共に、盾の表面にひと目でわかるほどはっきりと亀裂が入った。


 青ざめたエンが、一歩身を乗り出す。


 シュオウは舞い乱れる風を受けつつ、固定した盾を取り外し、状態をたしかめる。その盾を皆に見えるように高く掲げ、


 「傷は内まで届いていない、表面で止まっている」


 おお、と野太い歓声が上がったと同時に、シュオウが手にある盾を集団の中へ放り投げると、皆が群がり状態をたしかめながら言葉を交わし始めた。


 エンは肩を落とし、ほっとした様子で額の汗を拭う。


 シュオウは元居た位置へと戻って佇むジェダを見やり、

 「よくやった――――あるだけすべて買い取る。今すぐ全額金を渡せ」


 ジェダは瞼を閉じて肩を縮め、

 「功績の半分以上は僕の物ではないけどね」


 やり取りに割って入るように、エンが進み出た。


 「その件ですが、お約束の金額よりさらに、身を切って大幅に値引きをさせていただきます」


 急で不可解な申し出に、シュオウは訝って聞いた。


 「値段の交渉で長く話がこじれていたはずだろう。急にどうした。なにか他の見返りが必要なのか」


 エンはさらりと笑む。しかし野性的で切れ長な瞳に緩みはない。


 「いいえ、あなたに直接お会いして気が変わったのです。お渡しする品に自信がないわけでもありません。ただ一つだけ、誠意へのオマケをいただけるのなら……ただ、私のことを見知り置いていただきたい」


 「それだけでいいのか」


 エンは首肯し、両膝をついて恭しく頭を垂れる。


 「大山麓、ハウ・エンと申します」


 シュオウは顔を沈めたエンを追うように片膝をついた。


 「シュオウだ――ムラクモ王国軍で従士長をしている……本当にこんなことでいいのか」


 顔を上げたエンは鋭く眼尻に力を込め、シュオウと目を合わせた。


 「はい――私の商道において、一度した約束は曲げません。が、今後に後悔されるのはそちらのほうになるかもしれません。あのときの買い物が高くついた、と」




 エンが自主的に損を引き受けてまで高額な商品を安く売り渡したという事実は、後に広く、多くの噂話の中に紛れて広まることになる。

 そしてさらに後の事、この時エンがシュオウへ言った言葉は、現実の事となった。




     *




 遠巻きに見える不可思議な光景に、アガサス家の三人は足を止めた。


 「なにやら壮観ですね、父上……」


 レオンの呟きにバレンは、

 「うむ……」


 黒く大きな盾と棒を構え、整列する私服の軟石兵らの姿が在る。彼らは発する掛け声と共に前進と後退を繰り返し、また、前後左右の向きを同時に変化させ、並べた盾の隙間から握った棒を突き出していた。


 テッサは腕を組んで首を傾け、

 「……なにを目的とした訓練なの」


 「密集隊形……?」


 先を見るレオンの声にテッサが訝って反応する。


 「深界戦で?」


 問われたレオンも、要領を得ず頭を捻って喉を詰まらせる。


 無言で前にある光景に見入っていたバレンへ、レオンが茶化すように声をかけた。


 「父上、よいのですか」


 バレンは重く咳を吐き、

 「……なにがだ」


 「なにごとか、今すぐにでも聞きに行きたい、とそう顔に書いてあります」


 息子の鋭い一刺しに、バレンは思わず自身の顔面を手のひらで撫で回した。父の行動を見たテッサがおかしそうに笑声を零す。


 バレンはごまかすように咳払いを重ね、

 「行くぞ――なによりも我らは職務を優先する」


 受けた指摘を否定しなかった父の背を、レオンとテッサの二人は、顔を合わせて笑みを浮かべた。




     *




 静寂の中、突如落ちる雷鳴のように、一度の事で場の空気が一変する事がある。


 夜の焚き火を囲む穏やかな団欒の一時を打ち壊したのは、シュオウが発した一言だった。


 「アイセ――」


 名を呼んで、シュオウは会話を楽しんでいたアイセの注意を惹き、


 「――馬を降りてくれ」


 視線だけを向け、きょとんとして黙り込むアイセは、ゆっくりと目を見開き、絞り出すように震えた声を発する。


 「…………え?」


 ただならぬ気配を察し、賑やかだった場が静寂に包まれた。


 シュオウは湯呑を置き、真剣な表情でアイセへ向き合った。


 「優れた盾を手に入れ、訓練も開始した。それでも、俺の隊には足りないものがある」


 アイセは声を失ってしまったかのように口を何度も開閉し、


 「――でも、それがなんで、私が馬を……」


 ようやく、その一言の疑念を喉奥から絞り、吐き出した。

 無言の視線が多く刺さる状況で、シュオウは前にある湯呑を掴み、焚き火の側へと寄せる。


 「大群とぶつかる戦場で、濁石の歩兵が散り散りに行動をしていても、晶気を前にすれば一方的に狩られるだけだ。その当たり前に不利な状況を打開したい」


 シュオウは周囲に視線を回す。望む物を察知したジェダが、自身が持つ湯呑と、両隣に置かれた同じ物を取り、シュオウへ渡した。


 自身の湯呑の周囲に、また別の湯呑をぴったりと寄せ合う。焚き火の前に孤立して置かれていたそれは、いつのまにか厚く強固な群れを形成していた。


 アイセは不安気に浅く息を吐いた。


 「待ってくれ、それはわかった。でもどうして私が馬を降りるという話になるんだ。どうして……」


 シュオウは強い視線をジェダへ投げ、

 「戦場に群れを成して固まっていれば砲撃の餌食になる、そうだな」


 ジェダは首肯し、

 「個人差はあるが、晶士の砲撃は基本、面の攻撃。自然、機動力を活かし強固な点として高速で騎馬を駆る輝士こそが、戦での主戦力となる。それが伝統、常識だ」


 シュオウも頷きを返し、見守る皆を見つめた。


 「あたりまえの結果は求めない。伝統も常識も、この世界の絶対の法則じゃないはずだ。答えは一つじゃない――」


 再びアイセを見ると、細い肩が怯えたように震えを帯びた。


 「――馬を降り、剣を捨て、群れの中心で砲撃から隊を守ってほしい」


 その要求に、アイセの瞳は大きく揺れる。


 「待ってくれ……そんな、急に……」


 「出来るはずだ。深界踏破試練で見せたあのときの晶気の壁。あれだけの力があれば、上からの砲撃を受け止め、弾き返すことが」


 ジェダは目を見開いて、

 「戦場で、彩石の能力を濁石を守るために使うのか」


 首肯を返し、シュオウはシトリを見つめた。


 「密集して、防御の隊形を維持させたまま、隊を前進させる。その中でシトリの砲撃を用意させ、敵の後衛、晶士の戦列に直接打撃を与える。一人の力で全軍に致命傷を与えることはできなくても、大きな混乱を招くことができるはずだ」


 一瞬、名を呼ばれて喜びを見せたシトリは、話を聞いて青ざめた顔で自身を指差し、


 「私も前にでるの……?」


 シュオウが無言で頷くと、シトリは口を曲げて顔面一杯に恐怖の色を貼り付けた。


 「――りだ」


 アイセが消え入りそうな声でなにかを呟いた。


 「なんだ」


 必死の形相で顔を上げたアイセは、


 「無理だ……できない――馬を降りて戦えなんて。戦場での輝士は人馬一体。それが当然の事なんだ。剣を握って馬を駆り、力を賭けて相手と渡り合い、雌雄を決するのが輝士の本懐、誇りだ。それなのに――」


 言葉を止めたアイセは唇を噛み、シュオウと合わせた視線を外して俯いた。


 シュオウは肩を落とし、一つ息を吐いた。


 「そうか。わかッ――――」


 言い終えるより前に、ジェダが強く立ち上がり、アイセとシトリ両名の服を掴み、引きずり去っていく。


 戸惑い抵抗する二人を無視するジェダ。去っていく三人の姿を、シュオウはただ黙って見送った。




     *




 「やめて――」

 「離せ、なにをするッ――」


 抵抗する二人から突き飛ばすように手を離したジェダは、地面にへたり込む両名を睥睨し、


 「否定をしても疑問を投げても、最後に従うのならかまわない。が、他の人間の目があるなかで、公然と彼の要求に逆らう態度を貫いたことは許せない。輝士としての誇りとやらがそれほど大切なら、好きにすればいい。服従を拒否するのなら君達はここに必要はない。それぞれが元の隊に戻れるよう、明日にでも僕が処理をしておく。二度と顔を見せるな」


 言い切って、一人戻っていくジェダ。


 アイセの心中は、怒りと混乱に覆われ、無意識のうちに奥歯を強く噛み締めていた。


 奥にいるシトリは蒼白になった顔で、

 「わたし……なにも言ってない……」




     *




 一夜が明け、訓練場に集うシュオウの部隊へ、大股で前へ進み出る輝士の姿がある。


 アイセは寝不足の顔に目の下を黒く染め、佇むジェダの前に立ち、自身の腰につけた剣を鞘ごと抜いて差し出した。


 「あなたに言われたからじゃないッ――彼への恩……心があるからやるんだ」


 剣とアイセの顔を交互に見たジェダは、無言で一瞬の微笑を浮かべ、殴るような勢いで出された輝士の長剣を受け取った。


 鼻息荒く、アイセは盾を構える集団の中に身を投じる。

 彼女の勢いに存在を薄くしていたシトリは、ジェダの隣に立つシュオウの腕を掴み、


 「ちゃんとやるから」


 上目遣いに言われ、シュオウが頷きを返すと、シトリは静々とアイセの後を追った。


 二人が行った後、ジェダはアイセの長剣を見て冷たく笑った。


 「拒絶されたらどうするつもりだった」


 ジェダの問いかけにシュオウは、

 「お前にやらせただろうな」


 ジェダは肩をすくめて、

 「まあ、君がやれというのならやるが。ひとには向き不向きがあることを忘れないでくれ――」


 言って、ジェダは前へ進み出て、盾を構えて群れる集団へ大きく訓練の掛け声を浴びせた。




     *




 夜更けの事。


 ジェダは輝士のための食堂で、料理人に用意させた山盛りの食事を盆に載せて自室の前の通路まで運んでいた。


 部屋の前でごろりと横たわるシガの姿を見つけ、

 「ほら、タベモノだ――」


 雑に床に盆を置く。するとシガは起き上がり、怒りに尖った犬歯を剥き出した。


 「俺は犬猫じゃねえぞッ」


 怒声を響かせながらも、シガの手はしっかりと盆を掴み、大切そうに胸元へ引き寄せている。


 ジェダはシガが伸ばした足をまたぎ、

 「知っている。手足の生えた胃袋だろう」


 「へめえッ――」


 パンを咥えてもごもごと文句を垂れるシガを無視して、ジェダは自室の頑丈で大きな扉を開いた。


 寝台の上で出迎えた姉、ジュナを見て、ジェダは一つ心を落ち着ける。凝り固まった肩の力を抜くと、木漏れ日のように柔らかく、ジュナが微笑んだ。


 「おかえりなさい、ジェダ」


 「ただいま、姉さん」


 二人は極当たり前のやり取りを、呑気に交わすことのできる現状を楽しんでいた。


 「今日は早いのね」


 青と黒の外衣を脱いで、ジェダは長椅子に身を投げる。


 「例の商談が片付いたからね――ひさしぶりに早く眠れるかもしれないと思っていたけど、結局、他の雑務を片付けていたらこんな時間になってしまった」


 「仕事を引き受けすぎなんじゃない」


 ジェダは身体を横たえ、目の上に腕を置きながら、


 「そうだね……否定はしない。が、なにせ上が具体的な拠点運営になんら興味を示さないんだ。シュオウが下支えの雑用を引き受けて以来、毎日少しずつ手を出す範囲が増していく。今までは遠目に見ていた事ばかり。実際に手を出すと見えていなかったことがたくさんある」


 「そう、やりがいがあるのね」


 ジェダは目を腕で隠したまま、片頬を上げて笑んだ。


 「私のほうもね、色々と見えてきたことがあるの」


 紙のこすれる音にジェダは目の上の蓋をはずし、身体を起こして寝台へ見た。


 「随分な量になったものだね」


 ジュナの座る寝台の上に、文字を記した無数の紙束が広げられている。ジュナはそのうちの数枚を手に取り、


 「リリカさんが頑張ってくれてるから。笑わないでね、あなたのしている事に比べたら地味な事だけれど、これも身を護るためには大切なことだから」


 「わかってるよ――」


 表情を柔らかくした後、ジェダは突如顔色を暗くし、


 「――結局、今の所サーペンティアからの反応はなにもない」


 ジュナは頷いて、

 「様子を伺っている……?」


 ジェダは顎を撫で、

 「さあ。あるいは、戦が始まって僕が野垂れ死ぬのを期待しているのかもしれないな」


 しんと、部屋の空気が静まる。

 二人の視線は一本の糸に手繰り寄せられたかのように結びあった。


 「消極的な悪意……たしかに、あの人達の考えそうなことね。でも――」


 「ああ、違和感が残る。あって当然の事が起こらない、その理由は――」


 「事情の変化、突然の波乱、混乱、不和……私達への対処を後回しにするほどの何かがあった――」


 「または、妨害を受けたか――」


 「あの愛らしい公爵様かしら――」


 「まさか、それはない。あのひとは所詮アデュレリア、そして僕らもまた、所詮はサーペンティア――」


 「整理をしましょう。私達の存在を最も忌むのは誰か――」


 「数えるのも億劫なほど思い当たるな。けど頂点を挙げるなら、それはヒネア・サーペンティアだ――」


 「予想では、サーペンティアは私達に対してかならず報復行動をとると思っていた。でも、結果的にこれまでの間、私達は野放しにされている――」


 「つまり、報復の指揮者たるヒネアの動きがない、ということ――」


 「あのひとが自主的にそれをするとは考えにくい――」


 「他者からの妨害、行動を封じられている――」


 「あの家のなかで、私達を擁護するのは一人だけ――」


 「父上……まさか――」


 ジェダとジュナ。両者が隙間なく交わす会話は、一人の人間が思考として行う頭の中での自問自答のように繰り広げられた。


 一時の間が生じ、これまでのやり取りの末、一旦の答えを見たジェダは深く溜息を吐いた。


 「希望的な想像は危険な油断を招く、気をつけるべきよね」


 そう言ったジュナへ同意を示したジェダは、


 「正直、現状でなにも手を出されていないのはこちらには都合がいい。が、やはりなにもなく進むとは考えられない。おそらく、諜者もすでに紛れ込んでいるだろうし」


 ジュナは緊張を解いて、

 「それならほら――」

 寝台の上に数枚の紙を広げた。


 ジェダは寝台に寄り添って覗き込む。

 「候補者かい」


 ジュナは首を落とし、

 「どう見ても違和感のある人物が六人。ついさっきよ、ここまで絞ることができたのは」


 「ふむ。その六人全員か、あるいは――」

 各人物の情報が記されたそれらにジェダが目をやると、突如天井のほうからぼんやりとした若い娘の声が聞こえてきた。


 「あー……左側の二名については候補から除外してもよいかと」


 見上げると、天井の薄暗い隙間から、若い女の生気のない顔がうっすら覗いて見える。声の主はリリカだった。


 「根拠はあるの?」

 ジュナが上を向いて問を投げかける。


 「……返答を拒絶します――げふんげふん」


 リリカの言いようにジェダは笑って鼻息を落とし、

 「……なるほど、理解した」


 首をかしげるジュナに、

 「――身内は売れない、ということだろう」

 と小声で告げた。


 ジュナは得心して、

 「あ……ごめんなさい、すぐに気づけなくて……あなたにも本来の立場があるものね」


 天井から再びリリカが寒々とした声音で、


 「いえ……というか、ドンピシャで候補者にその二人を上げたお嬢様にぞっとします。おっしゃられたように立場があるので、今の会話はなかったことにしてください――ぺこり」


 「そうします、ありがとう」


 見上げて言うジュナをよそに、ジェダは残された四枚の紙を睨んだ。


 「手は出してこなくても、先駆けはすでにいる、と仮定する。僕らが戦場に出ている時が心配だ。ここが手薄になるその時を狙って仕掛けてくるかもしれない」


 頭の上からリリカが、


 「ご安心ください、当日は発見済みの隠された別室にジュナ様をお連れします。すでに掃除を済ませ、水、保存食の運び込みもすんでいます。命に代えても、使命を全うしますんで――」


 ジェダは姉を見て、

 「心強いな」


 ジュナは喜びと、どこか隠せない不安を混ぜた顔で頷いた。


 「……大丈夫?」


 なにを聞かれたか、と一瞬惑ったジェダは、姉が戦地に立つ弟の身を案じているのだと気づく。


 「姉さんは知らないかもしれないが、輝士としての僕の力は突出しているんだ。簡単にやられたりはしない」


 微笑みながら、ジェダは言った。


 「知ってる……けれど、戦争ってそんなにわかりやすい物ではないのでしょう。一人ずつ順番に勝敗を決める世界じゃない……」


 不安そうなジュナを前に、笑みを消したジェダは、


 「かならず戻ってくるよ。これまでもそうであったようにね。僕は幾度かくぐり抜けてきた、だから自分の身を守る事については心配はないんだ。むしろ心配なのは、シュオウと彼の周囲にいる人間達のほうさ。特にモートレッド、アウレールの娘達がね」


 「それは、あなたの言っていたあの二人の女性達のこと?」


 「なにせ、彼はあの二人に作戦の重要な役を与えた。それは彼の望む結果を左右する一因になる。信用してもいいかどうか、不安が残る」


 「聞いていた印象では、お二人とも優秀な方たちなのだと思っていたけど」


 「たしかに、才に見所はある。が、あの二人は未だ子供のままだ。実利よりも感情を優先するあたりが特に、ね」


 「その心を利用して引き入れたあなたがそれを言うの?」


 ジェダは弱り顔で苦笑いをして、

 「随分とかばうんだな、会ったこともないのに」


 ジュナは寄せた眉間の皺に権謀術数の気配を込め、

 「お友達になれるかもしれない人達ですもの。今のうちにかばっておいたほうが点数を稼げるじゃない」


 「知り合いたい、というのかい」


 「ええ、機会に恵まれれば、だけれど」


 「断言する、あの二人は姉さんには合わないよ」


 「ためしてみなければわからないわ。あなたはさっき、彼女達が感情を優先するからだめだと言ったけれど、心があるからこそ、信用だってできると私は思う。あなたがあの人の側にいる理由だって同じでしょ」


 ジェダは両手を軽く上げ、

 「まいった、降参だよ。前言は撤回する」


 勝ちを得て、ジュナは無邪気に目を細めた。


 ジェダは寝台の上に身を横たえた。灯りが落とす影を見つめつつ、


 「心配はそれだけじゃないよ。今、部屋の外に張り付いているあの男」


 横になったジェダを覗き込んだジュナは、

 「シガ様――?」


 「そう、シュオウはあの男の力に全幅の信頼を置いている。が、僕は彼がまともに戦っているところを見たことがない。戦場でどれほどの働きをするのか…………ターフェスタでのあの男の様は最悪だった。雇い主を放置して腹を満たしていたらしい。戦場で気まぐれを起こして戦いを放棄されたら――」


 ジュナはひんやりと冷えた手をジェダの額に当て、


 「仕方のない事だけれど、あなたは世界を遠くから眺めすぎる癖がある。あの人なら大丈夫。きっと、思いは伝わっているから。強そうに振る舞っているけど、あなたが思うよりずっと繊細なひとだと思う」


 ジェダがぎょっとした顔でジュナを見つめた。

 

 「繊細? 言葉を間違えていないか」


 「立つ場所、位置を変えてみて。そうすれば、きっと新しい別の顔が見えてくる」


 「…………いいや、お断りだ。あの野獣のような男の弱い部分なんて、見たくもないし知りたくもないよ。僕の代わりに姉さんが見ていてくれればいい――」


 ジュナは目を細め、鷹揚に頷きを返した。


 ジェダは寝返りを打って横向きに転がり、


 「この先、彼の下にはまだまだ多くの人間が集まってくる。あの二人のように、図に乗って権利を主張しだす者も増えるだろう。僕が統制し、掌握しなければ……逆らう者は……たくさんの仕事まだ……まだ……」


 絶え絶えになる言葉。ジェダは語り終えるよりも先に、穏やかな寝息を立て始めた。




 「――しゅたりッ」


 天井から、声以外の音もなくリリカが着地して現れる。そのまま、そっとジェダの顔を覗き込んだ。


 「眠ってしまったみたい。ごめんなさい、なにかかけてあげてくれないかしら……ジェダには風邪をひいている暇なんてないから」


 「了解です――はらッと、ふさ」


 丁寧に自ら音をつけ、リリカは掛け布をジェダに乗せる。


 「弟君はおつかれのご様子ですね」


 「良き疲れは、良き休足へ至る――最近のジェダは、とても充実した日々を過ごしているから」


 「寝顔は安らかですが……なにか恐ろしげな事を呟いていました」


 ジュナは当惑しつつ、


 「ジェダは今を生きながら、もうずっと先の事を見ているみたい。きっと…………この先たくさんの人達から厭われるのでしょうね」


 「……アスオン・リーゴールと通路でかち合った際、弟君は道を譲ろうとしなかったそうです」


 「そう、でも自分のためじゃないと思うわ。ジェダはもう、輝士として重職に就く人物よりも、シュオウ様を上に置いて見ている。その気持を隠せなくなっているみたい」


 「その事で、一時は一触即発の空気になっていたとか。失礼ながら、少々いきすぎた行動にも思えます」


 ジュナは重く首肯し、思いを馳せる。


 アスオン・リーゴールは、リリカの集めた情報により、ムツキという拠点において注意を払うべき重要人物であると、ジュナは考えていた。

 その理由は彼が戦場において、実質的な指揮官としての任を得ていることだけが原因ではない。彼の名が、輝士階級にある者達の間で頻繁に取り沙汰されているためだ。


 調査により、ジュナは本拠点内での人物の重要度に順位をつけていた。その決めごとの根拠として最も太い柱となっているのが、噂である。


 貴族階級を上とし、平民階級を下とした場合。上の世界で最もその名が挙がる人物はジェダだった。そのジェダを一位とし、次に頻繁に名が挙がる人物が、件の輝士、アスオン・リーゴールだ。


 ただの噂話と軽んじることはできない。人々が交わす言葉は、増えるほど、重なるほどに重く深く、現実の事象に干渉し、影響を及ぼすものだと、ジュナは知っている。


 時に一冊の書に記された文字の羅列が、それを読む者に多大な影響を与えるのと同じように、人々の間で交わされる言葉には、ある瞬間から無視できない強固な力が宿ることがあるのだ。


 アスオン・リーゴールという人物については、すでにリリカが多くの情報をまとめあげていた。


 温厚で誠実な人柄はよく知られている。輝士としての能力への評判も良い。が、これまでの経緯を鑑みて見れば、実戦の経験に乏しいという事実が残る。彼が輝士としての評価を受けてきた仕事の多くは、武力を必要としない事柄に属していた。つまり、アスオン・リーゴールが成してきた成果は、ほとんどが武の功績ではなく、文の功績なのである。


 それは、文武の境界が曖昧なムラクモという国の体制が生む悪癖のようなものだった。彼の母、ニルナ・リーゴールがそうであるように、軍での出世がかならずしも武功によって成し遂げられるものではないという事実は、現在のムツキという拠点において実証されている。


 戦の指揮官として、適正を疑問視されるリーゴール親子が就任した事。その凶事に加担したのは他ならぬ、大権を握るサーペンティア家である。


 悪縁でしかない血の繋がった一族を思う。リーゴールの司令官就任を推し進めたのが誰であるか、いくつかの顔を頭に浮かべ、思いを馳せた。


 連なる人と人。それぞれの関係や、立つ位置、役割を整理して思考し、ジュナはゆっくりと呼吸をした。


 ――目立ちすぎている。


 現状でジュナが抱える不安を知る者は世界に誰一人とていないだろう。


 ジェダはムツキにいる貴族らの間で最もその名が語られる人間。一方、彼が補佐する人物、シュオウは、下の世界である従士階級にある者達の間で、圧倒的にその名が挙がる人物だ。


 この二人はすでに、ムツキにいる者達にとって目の離せない存在となりつつある。


 ジェダは輝士としてずば抜けた能力を有している。そして、これまでの間、過酷な環境を自らの力で生き抜いてきた実績があった。


 一方のシュオウは彩石を持たないながらも、優れた武勇により、すでに多くの伝説を残しつつある人物だ。


 ――きっと。


 シュオウと彼を支える者達は、戦場において相応の戦果を挙げるはず。喜ばしいはずのその予想に対して、しかしジュナは、シミのようにこびり付く別種の不安を、捨て去る事ができずにいた。


 


     *

     *

     *




 深界、白道。


 曇り空の下、ムラクモ、ターフェスタの両国の大軍が睨み合う。


 密集して短槍と盾を構えた隊の中心に、真剣な顔で佇むアイセ、シトリの姿があった。


 シュオウ、ジェダ、シガの三人は隊の前方に立ち、戦場の先で挨拶を交わし合う両軍の長の背を見つめていた。


 「絶好の戦日和、とはならなかったな」


 ジェダの軽口に、シュオウは無表情に応じた。


 「そんな日和なんてない。ただ、殺し合いをするだけだ」


 鼻の穴を大きく広げ、シガがふん、と息を吐く。


 「ぬるいことは言うなよ。殺らなきゃ殺られる、それだけだろうが。加減なんてできねえからな」


 シュオウは前を見たまま頷き、

 「それでいい――」


 痛みを伴って脳裏を掠める、ターフェスタで見たあの家の光景。戦いの果てに連鎖する多くの不幸を思い、しかしシュオウは歯を食いしばった。


 「――全力でいく。早く勝てば、早く終る」


 挨拶を終えた両軍の長が自陣へと引き返す。

 両者が大軍に呑まれるのと同時に、従士各隊へ前進を告げる合図が下った。


 隊に前進を告げるより先に、ジェダがシュオウの軍服についた従士長の階級章をはぎとった。

 その行動に疑問を唱えるよりも早く、


 「戦場で後ろを気にせずに戦うのはこれが初めてだろ――」


 頷くと、ジェダは微笑して従士長の階級章を握り、


 「――君はこんな狭い所に自分を縛り付ける必要はない。背中は僕にまかせろ。この戦場で存分に力を示してやれ」


 強く見開いた隻眼にたぎる光を宿し、剣を高らかに抜き放ち部隊に告げた。


 「時間はかけない、一気に敵の喉元を食い破る――全員、ただ前を見て俺に続けッ――」


 戦場の騒音をかき消すほどの強烈な雄叫びが、高らかに天へと打ち上げられた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。




物語の続き、最新話と限定エピソードの連載は…

✅ FANBOXで先行公開中!

※ぜひチェックしてみてください!





コミカライズ版【ラピスの心臓 第3巻】2025年7月16日発売予定!

小説の表紙
― 新着の感想 ―
アイセとシトリのような甘えるだけのヒロインがずっとついてくるのかとげんなりしてたけど、ジェダが矯正するようでスカっとした。
ぃよっし!よく言ったジェダぁぁ!! 拍手喝采です^^
[良い点] シトリのセリフがツボに入って大変でした。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ