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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
68/184

いくつかの夜 <前>

 いくつかの夜 1






 厳しく下をまとめ、上には忠実に従う。統率された集団で、上下の間に立つ者は重要な責務を背負う事になる。


 ムラクモ王国の重輝士バレン・アガサスは、間に立つ者としての苦労を芯から体感してきた人間だった。


 重輝士であっても、家格の低いアガサス家に対して敬意を払わない輝士は少なくない。


 任務を負って地方砦へ派遣されることも多かった。ときに紛争を鎮めるため、乱れた空気を整えるため、訓練を施すため、等。仕事の内容は多岐にわたる。


 軍務をこなしていくうち、バレンは拠点という役割を持った場所に、それぞれに特徴を持った空気があることに気づいた。


 人が織りなす様々な営み。動の裏には風が舞う。見ることはできず、容易く感じることもできない。しかし、必ずそれは在る。


 ある場所では、勤める従士達に大きな特徴があった。彼らの表情は暗く、感情の色に乏しく、鬱屈としていて、日々の生傷が耐えなかった。


 バレンは輝士階級による虐待を疑ったが、調べてみると、従士を統率していた老齢の従士長が、訓練の名目で部下達を家畜の如く管理し、二人を組ませ、互いに殺し合う寸前にまで戦わせる、という事を日常的に行わせていたことが発覚する。


 悪虐を監督し、諌める立場にあるはずの責任者は、この従士長が開催する苛烈な訓練を改めるどころか、勝敗を賭け事とすることで、娯楽にして楽しんでいた。


 逃れ難い不幸に耐えていた者達の表情が重く、暗かったのは、至極当然の事といえるだろう。


 下に在る者達が滲ませる空気は、常に上に立つ者が作り出す。

 バレンの、経験からくるそうした考えは、いついかなるときにでも当てはまった。


 深界の重要拠点、ムツキへ来て間もなく。


 バレンはそこに漂う空気を肌で感じ、不安を覚えた。


 この戦線に配属された輝士達は皆、若い。


 軍人であると同時に、歴史ある家を継がなければならない彼らにとっては、兵役を終えたとき、家を守るために、または新たな血を次代へと残すという崇高な役目を担わなければならなくなる。


 そうした代替わりが多く発生した時期と重なり、行き交う輝士達の顔は若く、やたらに明るく、浮ついた気配が充満していた。


 卒業して以来、散り散りになっていた者達も多いのだろう。ひさしぶりの再会を喜ぶ者、新たな出会いに顔を綻ばせる者等、歳を重ねてきたバレンから見るムツキは、まるで浮かれた候補生らが集う、宝玉院の延長のような空気を帯びていた。




     *




 談笑する若い輝士らを尻目に、早朝のムツキをアガサス家の三人は忙しく駆け回っていた。


 「運び込まれた兵糧がこれで全てのはずがない。ここにあるのは古い物ばかりだ。ここ数日のうち、ユウギリから運び込まれた物はどこにある。全ての備えと合わせて正確な数を知りたい。ここの管理者はどこの誰だ」


 バレンに問われた下っ端の従士は、怯えた顔を引きつらせ、懸命に首を振った。


 「し、知りません……空いていたここの見張り番を自分から買って出ただけなんで。管理者が誰かなんて、自分のような下っ端にはさっぱり……」


 「そんなはずはない、かならず管理責任者がいるはずだ」


 「あの、自分はここへ来て日が浅く、あまり詳しく知りませんが……運ばれてくる物資を率先して受け入れていた連中なら見かけました、が……」


 バレンは強面をぐいと押し付け、さらに問いただす。


 「どこの部隊だ――指揮官は誰だった」


 問われた従士は首を強く横へ振り、


 「わ、わかりませんッ。ただその、作業をしていた奴らは従士服を着てなかったんで、たぶん臨時の雇われか、後ろから手伝いに借り出された人間だと思います……街にいるような若いのも混じっていたんで……あの、すみません、どうかもうご勘弁を……」


 バレンは唸りつつ、泣きそうな顔をした従士を解放した。


 「いったいここはどうなっている……」


 不安を零すバレン。テッサが重ねるように呟いた。


 「兵糧、物資の管理者に未だ辿り着けないなんて。正直言って、これほど管理の杜撰な砦は見たことがない」


 一夜が明けるのを待ち、本格的にムツキの内情を知るために行動を起こしたアガサス家は、すぐに頭を抱える事になった。


 拠点内の各場所への道を聞いてもまともな答えを用意できる者はおらず、重要な物資の管理責任者が誰なのかも不明。こんなことは通常ありえない事である。


 「ひょっとして、誰かが物資の横流しを……」


 テッサの暗い声に、バレンは沈鬱して顎を引く。


 「ありえない事ではない。が、深界でのそれは容易なことではない――」


 バレンは苦々しく口の中で舌を転がす。


 懸念は物資等の管理がいい加減であることにとどまらない。

 昨夜の行動から今朝の調査にかけて、もともとムツキに勤めていたはずの軍人達がまるで見つからなかったのだ。拠点間の輝士の移動は活発ではあっても、内情をよく知る者にこれほど巡り会えないというのは異常である。


 「父上――」


 単独で調査に当たらせていたレオンが戻り、一礼した。


 「レオ、なにかわかったか」


 頷いて、レオンは暗く眉を顰める。


 「もともと、ムツキに勤めていた者達のほとんどが、前任の司令官が退任して間もなく、自主的な嘆願により別の任地へ移動、または退役したようで。本格的な戦への懸念からか、配属されていた従士達の多くも軍籍からはずれ、故郷へ帰った――というのが表向きの理由なよう……なのですが……」


 歯切れ悪く言葉を濁したレオンへ、バレンは改めて聞いた。


 「真実は」


 言いにくそうに、レオンは顔色を落とし、


 「リーゴール将軍の指揮下に入ることを嫌った者たちが逃げ出した、というのが本当の所ではないかと。減った人員の補充はすぐにされたため、外から見た限りでは数が減ったようには見えていない。あまり公になっていない話のようで、おそらくその理由は……」


 「家名の恥となる話は封じたか」


 直截に言ったバレンへ、レオンは黙して頷いた。


 テッサが胸の前で手を絡め、

 「元々、ここをよく知る者達が不在となり、その後、新たに配属されてきた者達に対して、適切な配役が未だに出来ていないのでは……」


 バレンは眉根を下げて口角を曲げた。


 「なんにせよ、放置していい問題ではない。最優先で拠点内部の指揮系統、人員の配置を把握しなければ…………今から司令官代理の下へ向かう。角が立とうとも、采配を問わねばなるまい。テッサは現地点で待機、レオは聞き込みを継続しろ」


 三人で頷き合い、それぞれの行動に移ろうとした寸前、先から姿を見せた一人の輝士に気づいたバレンは息を呑んだ。


 「あれは――」


 動きを止めて深々と一礼した。


 「――お前たちも頭を下げろ、風蛇の若君だ」


 前方から来る輝士、ジェダ・サーペンティアは、灰色髪の従士服を来た青年と連れ立って、何やら真剣な様子で話し込んでいる。

 促されて慌てて頭を下げたレオン、テッサを従え、バレンは野太くよく通る声で挨拶を述べた。


 「ジェダ様、ご無沙汰しております」


 足を止めたジェダはバレンの挨拶に気づき、ああと軽く応じた。


 「アガサス重輝士、ここの配属になるとは知りませんでしたよ」


 頭を上げたバレンは両手足を固く合わせ、


 「は――この度の戦、不肖ながらこの身はリーゴール将軍の副官としての任につきます」


 「あなたが支えとなるのなら、将軍には幸運な事でしょうね。同じ戦場に立つ身としても心強いですよ」


 軽やかに、そして饒舌にジェダは述べた。


 「お言葉、恐縮です――後ろに控えておりますのは、我が娘テッサと、息子のレオン。アガサス家一同、何卒お見知りおきのほどを」


 一瞬顔を上げたテッサとレオンは、バレンが言い終えるのと同時に再び深々と頭を垂れた。


 ジェダは笑みを浮かべ、

 「覚えておきますよ。すみませんが、少々面倒事が詰まっているので、僕はこれで」


 一瞬、バレンはジェダの顔に目を奪われ硬直した。そこに並外れて優れた顔貌があるからではない。


 ――お顔が。


 記憶にあるジェダ・サーペンティアという人物と、現在目の前にいる人物は、まったくの同一人物であることは間違いない。なのに、まるで違う人間へ挨拶をしているような、一致しない感覚に囚われたのだ。


 「――お手間をとらせました。失礼いたします」


 頭を落としたバレンの横を、従士と共にジェダが通り過ぎていく。


 去っていく姿を見送った後、レオンが重たい声音でかの人物の異名を唱えた。


 「……サーペンティアの血塗れの公子――噂に聞いていたよりはずっと健やかな人物に見えますね。ターフェスタでの事、さぞやご無念でありましょうに」


 「だからこそ、ここで戦に臨まれるのでしょう。ジェダ様にとってはきっと復讐のための戦いとなる」


 そう言ってテッサは拳を握りしめた。

 バレンは諭すように子どもたちに語りかける。


 「世が世なら、殿下と呼ばれているお方だ……お見かけした際にはくれぐれも失礼のないように。ジェダ様が見たこと、聞いたことは、すべて後方のサーペンティア重将の下へ届くものと心得よ」


 頷いたテッサ、レオン。レオンはしかし、不思議そうにバレンへ尋ねる。


 「父上……先程の事、どこか違和感を覚えました。その、まるであの従士がジェダ様を引き連れているようにも……見えたのですが」


 「そんなわけがないでしょう」

 テッサは笑ってレオンの言葉を否定した。


 レオンは疑念を引きずった様子で食い下がる。


 「しかし……そう見えたんだ。あの従士が引き連れていた、というより、まるでジェダ様が身を引いて歩いていたような。挨拶を終えた後、去り際にだって――何も見ていなかったのか?」


 「あのお美しいお姿を前にして、側にいる従士へ視線を流す変わり者はあなたくらいなものよ。それに、次の蛇紋石様となられるかもしれないお方が、どうして従士を立てる必要があるというの」


 もはや弟の言を楽しんでいる様子のテッサへ、レオンは拗ねたような不満げな表情をしてみせた。


 姉弟のじゃれ合いをよそに、バレンはレオンの言葉に一考を残し、深く息を吐く。


 背後から若い女達の一団が現れ、三人の注意はそちらへと向けられる。彼女らは服装からして晶士であった。


 ツンと顔をあげ、すました態度で歩く姿はお馴染みのもの。晶士らはその特異な才能のため、慢性的に自分達が特別な存在である、という意識を日頃から態度で表明することに余念がない。


 「ごきげんよう、アガサス家の皆さん」


 晶士の群れの先頭を切って歩く女は、甲高く猫を撫でるような声でそう挨拶し、大げさな所作でバレンへ一礼した。

 後に続く者たちも同様に、バレンへの軽い挨拶を残し、去っていく。その一団に一人だけ、挨拶をせずに、気怠そうに群れの最後尾をついて歩くふんわりと柔らかそうな水色髪の娘がいた。


 「はぁ…………だる……」


 眠そうな顔をした水色髪の娘が残した大きな溜息が消える間もなく、バレンは子供達を率いて、上階へと向けて足を踏み出した。




     *




 「知り合いか」


 半歩下がってついてくるジェダに対し、シュオウは聞いた。


 「バレン・アガサス重輝士、近衛所属の中堅輝士だよ。水晶宮に寄る度に見かけることが多くてね。あの見た目のわりに人柄は温厚で誠実だが、輝士としての能力は極平凡だ。アガサス家に領地はなく、血も細い。たしか、あそこにいた二人の子らと合わせて、アガサスの家名を名乗っているのはあの三人だけだったはずだ」


 詳細に、淡々とジェダはそう説明した。


 「リーゴール将軍の副官だとか言っていたな」


 「ああ、戦の経験が浅いニルナ・リーゴールに当てられたお目付け役といった所だろう。派手さはないが、アガサス重輝士は手堅い軍人だ。まさに適役だろう――まっとうに機能すれば、だけどね」


 「そうか――」

 一言吐き、シュオウは興味の対象を切り替えた。

 「――ところで、例の物はまだ交渉を続けるつもりなのか」


 「当然だ」


 「いつまでかかる、十分買える程度の値段なんだろ」


 「だからといって、言い値で買う気にはならない額だよ。現状、アデュレリアの金は減る事はあっても増えることはない、無駄使いは極力避けるべきだ。こちらに交渉期限が差し迫っていることも知られているから、向こうも強気だ――が、心配はいらない、必ず手に入れるさ」


 寝不足で疲れた顔をしているジェダへ、シュオウは頷きを返した。


 「わかった――」


 行く先の分かれた通路に差し掛かり、シュオウは足を止める。


 「――外の兵糧庫の様子を見てくる。今日の分が到着する頃だから、場所を空けさせて受け入れの用意をする」


 言って足を向けたシュオウをジェダが止めた。


 「待ってくれ、その件は後で僕が片付けておく。それよりも、一つ頼みたいことがあるんだが――」


 出した足を戻し、シュオウは何事かと無言で首をかしげる。


 「――彼女が、君に相談があると言っていてね」


 「俺に、か?」


 「君が忙しいだろうと、無理ならいいと言っていた。なにを相談したいのかは僕も知らない。悪いが、話を聞いてやってくれないか」


 ジェダの言いようはどこか遠慮がちだった。彼は姉の事となると日頃の棘が落ち、物腰が柔らかくなる傾向がある。


 シュオウは僅か、鼻から息を漏らして、

 「わかった、これから行く」


 ジェダは微笑して、

 「助かるよ。本当は僕も同席したいんだが、誰かのおかげで仕事が山積みでね。これから人員の確保とニルナ・リーゴールへの交渉もしなければならない」


 ジェダの言いように、シュオウは首を傾げる。


 「人員……交渉……? なんのことだ?」


 ジェダは笑ってごまかし、

 「後で説明する。君が喜ぶかはわからないが、使えるモノは猫の手でも借りたほうがいいだろうと思ってね」




     *




 人間は群れて行動するのを好む。群れの仲間として、最も単純な条件は似たものであること。なにかしらにせよ、共有できる事柄が重なれば、結ぶ絆はより深まる。


 ムラクモ王国軍において、強大な晶気を生み、放つ事のできる晶士という存在は特別だった。


 優れた馬術で颯爽と戦場を駆け巡る輝士らを遥かに凌駕するほど、晶士が自覚する尊大さは底が見えない。


 ムツキに入った晶士達は、さっそく群れをなして行動していた。誰に言われたわけでもなく、彼らは自然とそれを行う。その集団のなかで、もみくちゃにされながら流れに身を任せる一人の若い晶士の娘がいた。


 「シトリさん、そこは私達の座る席ではありませんのよ」


 晶士隊を率いる猫なで声の女に言われ、食堂に並んだ卓に腰掛けたシトリ・アウレールは辟易とした表情で応じた。


 「べつに、どこでもいいでしょ……」


 女は露骨に嫌気を差した顔で目元を歪め、

 「なんですかその態度は。だいたい、あなたは王都からずっと――」


 そこへ、颯爽と現れた一人の輝士の男がシトリの席の隣に座った。


 「やあ、なにか揉め事かい。めずらしいね、晶士のお歴々が輝士の席に群がっているというのは」


 爽やかで顔立ちの整った黒髪の輝士は軽やかに言葉をかけ、晶士隊の長である女へ向けて白く美しい歯を見せて破顔する。

 晶士の女はわかりやすく顔を赤らめ、


 「あ、あなた……私達は別に……」


 男は熟れた微笑みをシトリへ向け、


 「やあ、君のことは覚えているよ。その美しい水色の髪は目を惹いた。宝玉院で見かけたときはこんなに小さかったのに、ずいぶんと綺麗になったんだね」


 熱の籠もる潤んだ瞳で見つめられ、シトリはほとんど仰け反るようにそっぽを向いて、

 「はあ……」

 と雑に応じた。


 途端、側にいた晶士の女の機嫌が悪くなる。その不機嫌さは、シトリの態度を諌めていた時とは別種の、負に塗れた気を帯びていた。


 「あなたは昔からずっとそう……。女なら誰にだって優しくして声をかけるんですから……」


 ふくれっ面の晶士の女へ、輝士の男が身を寄せ、肩を抱く。


 「心配しなくても、君以上にこの目を奪う女性なんていない。知ってるだろう」


 肩に手を乗せられた彼女は、顔を背けても身体はそのまま男へ寄りかかるように寄せている。


 「また、うそばかり言って……」


 潤んだ瞳に頬を火照らせた女の顔を、顎に手を当て、強引に男が引き寄せる。背後に控える晶士隊の面々から黄色い声が上がった。が、その直後、


 「なに、してるの……」


 食堂の入り口から集団で姿を見せた女の輝士は、蒼白となった顔で男を見つめ、駆け足で詰め寄った。


 「誰なんですか、そのひとッ――」


 女同士、強烈に合わせた目を一時もはずすことなく睨み合う。その狭間で両者を宥める男と、その動向に夢中になる観衆と化した輝士、晶士達。


 渦中に取り残され、シトリはこれ以上なく不機嫌に心中で叫び声をあげた。


 ――めんどくさッ。


 わいわいと騒ぐ食堂の影から、一人の輝士が姿を現す。


 「こんなところにいた――わざわざ部屋まで起こしにいったんだぞ、シトリ――」


 シトリへ向け、手を振る輝士、アイセは騒ぎを気にかけた様子もなく、食堂の入り口へ向けて親指を振った。


 「――行くぞ、来ないなら一人で会いに行くからな」


 さっさと食堂を後にする友を追うため、シトリは嵐の中心から這うように抜け出した。


 「待ってよ、アイセ――」


 見慣れた仏頂面といつものやりとりに、シトリはほっと、心の奥が和らぐ心地を自覚した。




     *




 若干息を切らせながらアイセに追いついたシトリは、乱れた髪を整えつつ盛大に溜息を漏らした。


 「はあ……」


 「なんだったんだ、あの騒ぎは」


 正式な輝士の青の軍服が板についてきたアイセが、腰に下げた長剣に手を乗せつつ、聞いた。


 「どうでもいい――」


 言いながら、シトリは遠くを見つめ、


 「――振り向いてもらえない相手に恋い焦がれるのって、バカみたいだよね」


 突発的に出くわした、輝士、晶士達の恋愛模様へ思いを馳せ、シトリはぼそりとそう言った。


 隣で聞いていたアイセは苦々しく、

 「返事に困るような事を言うな……」


 通路に並んだ窓の外から見える景色はうっすらと雲がかかり、褪せた色と、深界特有の退廃とした雰囲気を漂わせている。

 遥か遠方から鳴った雷の音に、シトリは僅かに身を固くした。


 「……どこにいるかわかってるの?」


 シトリの問いに、アイセは曖昧に首を振る。


 「それが、はっきりしないんだ。特徴を言って聞いてみたら、どうも一日中、拠点内をあちこちに移動しているらしくて」


 「だめじゃん……」


 「それでも、同じ場所にいるんだ、必ず会える。だからこれからムツキ全体をくまなく歩いてまわるぞ」


 シトリは露骨に嫌そうに顔を歪めた。


 「……やっぱり、ついてすぐ会いに行けばよかったのに……」


 「お前がくたびれた顔で会いたくないって言ったんだろうッ――」


 そんなやり取りも終わらぬうち、早々に二人に幸運が訪れる。先にある通路の奥に、見慣れた灰色髪の後ろ姿を見つけたのだ。


 「いたッ」


 同時に声をあげ、顔を見て頷き合う。

 駆け足で後を追い、通路を曲がった先で、奥にある部屋の扉を叩くシュオウの姿を見つけた。


 アイセとシトリは破顔し、声をかけるために大きく手を上げ、胸いっぱいに空気を吸い込む。


 「シュオ――」


 名を呼びかけて、しかし背後から突如、服を引かれた二人は、よろけて声をあげることができず、その隙にシュオウは部屋の中へ姿を消した。


 再会を邪魔した謎の人物へ、二人の濁った視線が突き刺さる。


 「なにをッ――」


 荒げた声は、行き場をなくして霧散した。


 そこには、顎を上げたまま冷たく無表情で視線を下ろす、ジェダ・サーペンティアが佇んでいた。




     *




 窓辺から白い光が厳かに室内を照らしている。


 香に誘われ、シュオウは鼻から一杯に空気を吸い込む。ジェダの部屋は穏やかで心地良い茶の香りで満たされていた。


 奥に大きな樽が置いてある事以外はこれといった特徴もなく、味気ない軍人の部屋といった趣だが、部屋の最奥のかたすみには、シュオウがアデュレリアから調達してきた多額の金が保管されている。


 なにかと、ムツキで優遇を受けるジェダの立場は、シュオウにとっても都合が良かった。


 シュオウを招き入れたもうひとりの部屋の主、ジュナは落ち着いた様子で、正面の席へ着席を促した。


 「どうぞ――お茶と、ささやかですが甘い物も用意してあります」


 輝士の食堂でしか振る舞われない甘い菓子を見て、シュオウは一瞬、大きく目が見開いたのを自覚する。口の中に沸いた唾液をこっそりと飲み下し、呼ばれるままに椅子に腰掛けた。


 「ジェダから話があると聞いた」


 茶をそそぎ、差し出しながらジュナは首肯する。


 「はい、私がお願いしました。でもこんなに早く来ていただけるとは思っていなくて、きちんと片付けも出来ていないままでごめんなさい」


 置かれていたもう一脚の椅子の上に、雑然として紙束が置かれている。そこに書かれている文字を見た時、シュオウは思わず興味を惹かれ、手を伸ばしていた。


 「――これは、人の名前か」


 「はい、このムツキにいる人達の名を記した物です。まだほんの一部でしかないのですけど」


 その一覧に目を通しながら、シュオウはジュナを見て口を開いた。が、


 「――どうしてこんなことを、と……そう思われますか」


 先手をとられ、シュオウは黙して首肯する。

 ジュナは薄く微笑し、


 「私からお願いしてリリカさんに集めていただいたものです。それはなぜか――このムツキで生きる人達の事を知れば、何かわかることがあるのではと思いました。特に、私達姉弟は大家を敵に回す行いをした。なんらかの報復行為を警戒するためにも、必要なことだと考えたからです」


 「敵を見つけるため、か」


 頷いたジュナは紙束を手に取り、


 「人と人は繋がっている。どんなに細くて見えにくくても、居場所のある人間には必ず、どこか、だれかとの繋がりがあるんです。もし、なにか別の目的を持って無理やりにそこに居る人間がいたとしたら、そこには必ず、歪みが生じるはず。それは矛盾、不一致とも言えるのかもしれません。きちんと調べることで、それを異物として取り除くことが出来るはず。ほんの少し調べてもらっただけでも、もう何人かは候補が見つかりました」


 シュオウは驚き、聞いた。

 「本当か――」


 ジュナは、やや控えめに首肯して、


 「ただ、まだまだ判断するための情報が不足していて。その事で、シュオウ様にお願いしたいことがあって、こうして機会を設けていただきました」


 姿勢を正したジュナへ、シュオウは真剣な顔で頷いた。


 「わかった、話を聞く」


 「ありがとうございます。実は、これまでのお話の通り、この件を護衛のためにアデュレリアよりお借りしたリリカさんにお願いすることになりました。すぐに片付くような事ではないので、彼女がそのために動いている間、私は自分の身を守る術を失います。ですから――」


 ジュナの願いを理解し、シュオウは先んじて承知を告げた。


 「つまり、新たに護衛が必要なんだな」


 ジュナは整って澄んだ顔で、僅かに唇を噛む。


 「常に、というわけではありません、リリカさんが私の下を離れなければならない間だけでいいんです…………あなたには、ここまで私達姉弟にとても良くしていただきました。そのうえでさらに厚かましいお願いであることはわかっているつもりです。今がとても大変な時であるということも」


 ジュナの心配をよそに、シュオウは視線を泳がせる。頭の中で、自身が動かすことのできる者達の顔が目まぐるしく駆け巡っていた。


 「わかった――ちょうどいい適任がいる、心配しなくていい」


 腰を浮かせたシュオウへ、ジュナは頭を落として礼を告げる。


 「ありがとうございます、ごめんなさい、こんな事のためにお時間をとらせてしまって」


 シュオウは茶を飲み干し、

 「問題ない。俺の仕事はあいつが引き受けてくれた。すごく怠そうだったけどな。少し、無理をさせているかもしれない……」


 ジュナは慈愛の滲む微笑みを浮かべ、

 「疲れていても、ジェダは毎日とても楽しそう」


 シュオウは首を傾げた。


 「楽しんでる、のか。ここ最近は、本当に色々な事に手を貸してくれるから、ついあれこれと扱き使ってしまう。そのせいか、最近俺の隊のなかで、あいつの事を副長と呼ぶやつもでてきた」


 「きっとそうなるように、自分から居場所を作ろうとしているのだと思います。昨日も夜遅くに戻ってきて言っていました、自分にあるサーペンティアの名が生きているかぎり、それを利用して、あなたのために役立てる、と」


 シュオウは眉を歪め、苦笑いする。


 「あいつの言葉には聞こえないな――――じゃあ、仕事に戻る。護衛の事はまかせておいてくれ、なるべく早く人を用意する」


 シュオウの背をジュナが呼び止めた。


 「これ、よかったら――」


 ジュナは綺麗な手巾に乗せた菓子をシュオウへ差し出した。

 手を伸ばすか、一瞬の迷いに身体が硬直する。そんなシュオウへジュナが柔らかく言葉をかけた。


 「――お嫌いでは、ないですよね?」


 どことなく見透かされている様子から、シュオウは照れ隠しに頭を掻きながら菓子を受け取り、


 「子供っぽいだろ……」


 ジュナはただ、くすくすと、屈託のない楽しげな笑い声を零していた。




     *




 「戦場で独立して行動する少数部隊……ですか」


 渋い実を噛んだときよりも苦い顔で、ニルナ・リーゴールは湿った視線をジェダへ向けた。


 ジェダは微笑して頷き、


 「従士長を一人と、その私兵達。それに加えて新米の輝士と晶士を一人ずつ。たったそれだけの戦力を僕の直卒としてもらいたい。願っているのはそれだけのことです」


 ジェダの背後に立つアイセ、シトリの両名は顔を見合わせ、驚きを隠せない表情で薄く口を開けた。


 ニルナはしかし、快諾する様子はなく渋い表情を維持していた。言いにくそうに口角を曲げて、


 「それだけ、とはおっしゃいますが……現場において、指揮官の命令に従わない部隊があれば混乱を招きます。たやすく承服できるような話ではありません、そこはご理解をいただきたい」


 階級の上では遥か上位に立っているニルナは、一輝士でしかないジェダに対し、まるで目上の者に対するように腰が低かった。それは当然、ジェダという個人に対する態度なのではなく、背負った家名に対する媚である。


 「独立とは言っても、ご子息の出す命令に従わないとは言っていません。大局的な采配に逆らうような真似はしないとお約束しますよ、将軍閣下――」


 最後に階級を大げさに強調して言ったジェダの微笑みは、まるで獲物を前にして口を開けた蛇のように、無感情で冷酷な色を帯びている。


 ニルナは怯えた草食動物のように肩を縮め、引いた顎の奥で密かに唾液を嚥下した。


 ジェダはさらに畳み掛けた。


 「――別に多くを望んでいるわけではありません。全軍から見れば、数として入らなかったとしてもなんら問題ない程度のものを要求しているだけです。それを持って戦場から逃亡しようと言っているわけでもなく、それどころか、戦いに勝利を得るために尽力するつもりでいる。それを拒絶するというのであれば、相応に理由を問い、その言葉を父に伝える必要がある、と考えますが、いかがです」


 父、オルゴア・サーペンティアを示す言葉を発した途端、ニルナの顔色はみるみる青ざめていく。


 「お、お待ちください、なにも拒絶とまでは言っておりません」


 ジェダの笑みはより冷ややかに、熱を失っていく。


 「話が片付かないのであればそれも仕方がないでしょう。事のついでに、右軍より送られた精鋭輝士隊の処遇についても聞いてみましょう。こうして話している間に、もしかしたらご子息の手には余るのではないか、という気がしてきましたので」


 ニルナは平静を失った様子で立ち上がり、

 「さ、さきほどの話はすべて――――すべて、ジェダ様の思うままとしていただきたい……」


 「つまり、独立部隊を承認する、ということで間違いはない、と」


 ニルナは汗を浮かべた顔で首肯した。


 「ただちに、最高司令官の名で正式な証を用意させます……何卒、御父上には――」


 ジェダは待機する二人に部屋を出るよう促し、

 「もちろん、リーゴールの貢献、忘れることなく必ず父に報告致しましょう。寛大な決定に感謝します――将軍閣下」


 そう言葉を残した去り際、ほっとした、とは言えない、ニルナの表情はなにかを懸命に抑え、噛み殺しているようだった。




 ニルナの執務室を出て間もなく、

 「どういうことですか……」


 怪訝な顔をしたアイセがジェダへ詰め寄るように問うた。シトリは黙しているが、アイセ同様に疑念と不快感を込めた顔でジェダを睨んでいる。


 「言った通り、少数で自由に動くことのできる部隊を組織する。君たちにはその編成の一部となってもらう」


 「なにそれ……」

 シトリは怒りを溜めた顔でそう呟いた。


 アイセは拳を自身の胸の前で握り、

 「あまりに突然ですし、私達はそもそも承諾していません。さきほどの様子では、上からの正式な指示というわけでもない。強引です、断る権利くらい――」


 ジェダは無表情に二人を睨めつけ、

 「この部隊の実質的な指揮官はシュオウだ」


 その言葉に、アイセとシトリは怒りを忘れ、互いに顔を見合わせる。


 「シュオウが? 本当に……」

 怪訝な面持ちで聞くアイセへ、ジェダは無表情に頷きを返す。


 「この話を受けるのなら、君たち二人は彼の下、同じ状況下で戦場に立つことができる。僕が今までの君たちの態度を見ていたかぎりでは、これを喜んで受けるだろうと思っていたが――」


 言葉が切れるより早く、シトリは不機嫌な顔に煌めきを宿し、はっきりとした態度で身を乗り出した。


 「わたしはそれでいいッ」


 「でも……そんな急に――」


 未だ呆けているアイセは、きちんとした態度を表明していないが、その表情から拒絶の意思があるとは、微塵も伺えなかった。


 ジェダは険しい顔で二人へ強い視線を送る。


 「――僕は、君たちが利になると思ったから編成に加えた。彼の手足となり、力を尽くすのならよし、そうでないなら居るだけ邪魔でしかないと思っている。誘い入れたからといって図に乗るなよ。戦力としての貢献がなければ、そのときは彼の隊から出ていってもらう。そのことを頭によく刻んでおいたほうがいい」


 捨てるように言って、ジェダは二人に背を向け、一人立ち去った。


 後に残ったシトリが、

 「――なんか、うざい……ずっと無口だったのに……」


 アイセはシトリの愚痴を聞き流す。急で強引なやり方に不満がないわけではないが、それでも、思い人の側で共に戦えるという降って湧いた話に、悪い心地はしなかったのだ。




     *




 「アスオン殿――リーゴール重輝士ッ」


 すでに私室を後にしていたアスオン・リーゴールをようやく見つけ、階級をつけ直して呼び止めたバレンの声は重く通路へ響いて抜けた。


 疲れた顔ではねた髪を押さえるアスオンは振り向いて、

 「アガサス重輝士……どうも、おはよう、ございます……」


 軽い挨拶を交わすも、アスオンは辛そうに頭を押さえて顔を顰める。


 「お身体の具合が思わしくないご様子」


 「面目ありません……昨夜、飲まされてしまって…………」


 バレンは仏頂面を維持して、

 「そのようなところ申し訳ないのですが、ムツキ内部の管理体制について、早急に掌握を進めねばなりません。現状はあまりに――」


 突如、通路の先から聞き慣れた声がアスオンの名を呼び、始まったばかりの話し合いに水を差した。


 「アスオンッ――」


 その声をかけたのはイレイ・シオサだった。

 イレイはだらしなく輝士服を着崩した姿で、アスオンの首へ腕を回し、グイと引き寄せる。


 「痛ッ――揺すらないでくれ、飲み過ぎで頭が割れそうだ」


 「はッ、たったあれっぽっちの酒で情けない奴だ」


 「一気飲みを強制した張本人に、言われたくはないな……」


 「それよりも聞け、到着したばかりの輝士隊の女達がお前の噂話でもちきりとのことだ。ということで、皆が興味を持つ若き出世頭を披露してその人気にあやかろうと思ってな。いますぐ来い、ちょうど食堂に連中が集まっている頃だ。お前の姿を見れば目の色を変えて良家の子女が飛びついてくるぞ」


 イレイは回した腕を締めてアスオンの首を拘束する。アスオンも口では不満を言いつつも、態度では友の乱暴を嫌ってはいない様子だった。


 「――わかった、行くから、首を押さえるのはやめてくれ」


 同行を告げたアスオンへ、慌ててバレンは呼び止めた。


 「アスオン殿、まだ話が――」


 アスオンは顔だけを向け、

 「すみません、アガサス重輝士。ここの事は最高司令官である母、ニルナの領分です。なにか問題があるのなら、そちらへ直接言っていただいたほうがいいと思います」


 にたりと、ほくそ笑むイレイがバレンへ、


 「そういうことですよ、アガサス重輝士。アスオン・リーゴール司令官代理は戦支度で忙しい、些末な問題は下に就く者達で片付けるのが最善でありましょう。なあに、細かい心配事に胃を痛めているご様子ですが、心配はありません。相手はターフェスタが如き弱小なのです。これまで無事でいられたことがムラクモの温情であったこと、この戦で身に焼き付けることとなるでしょうよ――」


 小気味よくイレイは言って、背中越しに片手を上げて、小刻みに振った。


 去っていった二人に対し、怒りも憤りも感じなかった。それすらを無駄に思い、バレンは急ぎ、リーゴール将軍の下へと足を向けた。




 「将軍は現在、お休みになられています――誰も繋ぐなと仰せに」


 ニルナ・リーゴールの私室の前に立つ護衛の従士からそう聞かされても、バレンは別段驚きも失望もしなかった。


 「重要な要件がある。せめてそのことだけでも伝えることはできないか」


 バレンの要求に、警護に立つ従士は心底申し訳なさそうに、


 「なにがあろうと呼びかけるなと厳命されています。すみません、アガサス重輝士。リーゴール将軍はさきほどからとてもご機嫌を悪くされているようで……」


 ほとんど小声で言った従士の言葉に、バレンは次ぐ願いを用意することができなくなっていた。




     *




 「司令官代理はどうでした」


 待機させていたテッサと再び合流したバレンは、渋い顔で首を振り、


 「まともに相談をすることもできなかった。リーゴール将軍へは意を伝えることもままならん」


 テッサは父親譲りの強面に不安そうに影を落とす。


 「……本当に、この戦いを指揮するのがあの親子で大丈夫なのでしょうか。戦を前に、このような根本の決めごとですらいい加減なようでは先が思いやられる。これではまるで、司令部が存在しないのと同じです」


 見えるかぎり、周囲に人がいる様子はない。が、バレンは肝を冷やす心地で娘の発言を諌めた。


 「気をつけろ、言葉が過ぎる。聞かれれば我々の立場は危うくなる」


 「……はい、ごめんなさい」


 一つ息を吐き、バレンは諭すように言う。


 「いかなる時でも、不満を吐くだけならば幼子にもできるのだ。副官として、上官に足りないものがあるのなら、補い支えるのが私の役割、現状で出来ることをすべて、権限の許すかぎりに片付けていくしかないだろう」


 テッサはバレンの言葉に頷き、

 「そうですね……弱音を吐いてしまいました、情けない」


 直後に、バレンは何かを思い出したように口を開いた。


 「いかん、失念していた……」


 言って、慌てて足を踏み出した。

 バレンの急な行動に、後を追うテッサは問う。


 「どちらへ?」


 「獄へ向かう、バリウム侯爵の処遇について、確認を怠っていた――」


 言って、すぐにバレンは足を止めた。


 「――場所がわからん」


 結局、目的の部屋がどこにあるかを聞き出すのに、また一つ余計な手間を要した。




     *




 その部屋は、牢獄と呼ぶにはあまりに明るく、清潔な空間だった。


 随行するテッサが落ち着き無く視線を動かすのも当然の事。牢獄とは本来、不潔さや汚臭が付き物であるのに、ここにはそれがないのだ。


 「なにを驚いた顔をしている、アガサス重輝士。薄汚い部屋で苦悶の表情を浮かべ、恨みに歯ぎしりをする私の姿でも期待していたか」


 奥の牢部屋の一つから覗き込むショルザイ・バリウムは、足を止めて光景に見入っていたバレンへ皮肉めいた口調でそう話しかけた。


 「バリウム殿……いえ、ご不便がないかと、様子をたしかめに……まいりましたが……」


 先日までのくたびれた姿が嘘のように、やたらに身綺麗になっているショルザイは、ばらけた髪を揺らし、愉快そうに笑った。


 「我が領地、バリウムには遠く及ばずとも、あの若者のおかげで、ひさしぶりに心地よく熟睡を得られた。そのうえ、今朝方から大勢がやってきて、本腰を入れてここを掃除していった。暖をとるための火は絶える事がないし、暇つぶしの書物まで。そしてなにより、やたらに飯が美味い――少々薄味ではあるがな」


 機嫌よく語るショルザイへ、バレンは問う。


 「あの若者――とは、いったい誰のことでありましょうか」


 バレンの頭には一瞬、優しげな眼差しのアスオン・リーゴールの顔が浮かんでいた。が、そのありえない想像が形を成すより先に、ショルザイの発言が牢獄の中に重く響く。


 「なんだ、貴殿は知らんのか。あの若さ、彩石もなくあれほどの風格を漂わせている男だ、てっきりここでは知られた者なのだと思っていたが」


 もったいぶるショルザイへ、バレンが一歩分、身を乗り出した時だった。


 「――ッ?!」


 すぐ側にいたテッサが引きつったような悲鳴を上げ、バレンの腕を引き、慌ててショルザイから距離を取らせた。


 「どうした――」


 「父上……囚人の、石がッ――」


 聞いた瞬間、バレンの視線は猛烈な勢いでショルザイの左手に注がれる。バレンは娘をかばうように片腕を広げ、もう片方の手を腰元に伸ばした。


 ショルザイの左手に、晶気を封じるための手袋はされていない。


 「隠していたわけではないぞ」


 バレンは最大限に警戒しつつ、

 「御自分で封を解かれましたか」


 ショルザイはにたりと笑み、


 「そうであれば格好がついたが。これは件の男からの信義の証――いや、ためされているのか。アガサス重輝士、あれは大物だぞ。知らないのであれば、後に笑われぬよう、名と顔を早々に頭に刻んでおくべきだ」


 滲む汗を拭う余裕すらなく、バレンは聞いた。


 「では、その名を聞かせていただきたい。独断で彩石を持つ囚人の封じをはずしたこと、罰せねばなりません」


 ショルザイは眉を歪め、

 「……まあ、考えれば当然だな。が、害する気がある相手に名を教えれば不義理となる。俺が黙っていてもすぐに知られるだろうが。なかったことにしろ、教える気が失せた――」


 壁にもたれて腰を落とすショルザイは、立てた膝の上に、外気に剥き出しになった輝石を置いた。


 「――かぶせるなり、叩くなり、蹴るなり、小便をかけるなり、好きにすればいい、逆らいはせんさ。言っておくが、貴殿ら親子がここへ入り、呑気に油断していた間、私はその生命を殺める機会を幾度となく自覚していた。それをする気など端からなかったがね――さあ、どうする? 私の石を封じるか、それとも罰を与えるか」


 鉄格子の隙間から痩せた左腕が差し出される。

 バレンは怯え戸惑うテッサと目を合わせ、深く、深く嘆息した。




     *




 牢獄の入口へと戻ったバレンは、そこで棒を握り椅子に腰掛けて一応の見張り役をこなす、従士服を着ていない老人へ問うた。


 「この牢を管理しているのは誰だ」


 老人はほとんど歯のない口を開き、

 「……はい?」

 耳に手を当て、大きな声でそう聞き返した。


 バレンは耳元へ口を近づけ、

 「お前の主は誰だ――」


 老人はにっこりと笑みを作って頷き、

 「スオウさまでこさいます」


 もごもごとしてはっきりとしない言葉に、テッサが老人の肩に手を触れ、腰をかがめて聞き直した。


 「スオウ、と言った? ここを管理している者の名前は、スオウ、なのね?」


 老人は嬉しそうに歯抜けの顔で笑い、

 「へえ、へえ、そうでこさいます」


 バレンは強面をずいと老人へ寄せた。

 「そのスオウという人間は今どこにいる、どこへ行けば会える」


 老人は一瞬、きょとんとして、すぐに再び嬉しそうに微笑んだ。

 「へえ、死ぬ前に孫と近所に自慢したくって、こちらへまいりました」


 聞いた事とはまるで違う答えが返り、バレンは頭に手を乗せて顔を引く。代わりに、テッサが両手を筒状にして、老人の耳元で大声をあげた。


 「スオウという人はどこに行けば会えるの?」


 老人は頷き、ある方向へ向けて指を差した。





     *




 示された先、城壁沿いの片隅に並んだ物資倉庫へ向かうと、そこには体格の良い男たちが忙しなく歩き回り、食料を詰めた箱を倉庫へ運び入れている真っ最中だった。


 「父上……」


 テッサの意を汲み、バレンは頷いた。


 「ここに運び込まれていたのか」


 バレンは搬入を仕切っている様子の若い男を呼び寄せた。荷台から重そうに木箱を下ろす周囲の様子を見て、


 「ユウギリから届いた兵糧だな」


 「あ、はい、そうです。細かい所はここに――」


 その男は腰に下げていた丸めた紙束をバレンへ差し出した。

 封を解き、中を確認したバレンは感嘆を込めて息を漏らす。


 「量、受け入れ時期、種類が明確に記されているのか――この数字はなんだ?」


 記された食料の種類事に、異なった数字が添えられていることに気づき、バレンは聞いた。


 「それは、まともに食えるまでのおおよその日数です。クモさんの提案で付け加えることになりまして」


 聞き覚えのない名に、バレンは質問を重ねた。


 「クモさん、とは」


 「ああ、すいません。来たばかりのうちの隊の料理番で」


 「……料理番?」


 要領を得られぬまま、バレンは意識を切り替える。

 テッサに紙束を渡し、倉庫の中へ入り様子を観察した。


 整然と収納されるそこを見ながら、テッサが木箱と紙束を交互に見て、


 「外からひと目でわかるよう目印がつけてある。並びも書かれている通り、足の早い物ほど手前に、上に。通常の管理方法よりも、ずっと効率的、中をたしかめられるように隙間まで開けてある……美しい」


 テッサの言葉に、監督者の男が嬉しそうに鼻の下を擦った。


 「へへ、うちの商売柄、こういうことは慣れっこなもんで」


 純粋な好奇心から、バレンは男へ聞いた。


 「商売とは?」


 男は得意そうに、

 「資材やら商材やらの預かり倉庫の運営を代々」


 「なるほど――」


 バレンは感心したように頷いた。

 忙しなく荷を手に出入りを繰り返す屈強な男達。作業の邪魔になっていることを自覚し、外へ出た。


 「――後ほど、他の倉庫にある物と合わせてすべて確認をしたい。問題がなければ、書かれた文書の写しをとらせたいのだが」


 テッサが持つ紙束を一瞥し、そう尋ねると、男は即座に首肯した。


 「もちろんでございます、どうぞ、それをそのままお持ちください」


 「いいのか」


 「はい、常に予備は用意しておりますし、必要だと言う方が現れたら、お渡しするように隊長に言われておりますんで」


 「そうだ――スオウといったか、その隊長とやらにすぐに会いたい」


 しかし、男はきょとんとした首を傾げる。


 「スオウ……? ああ、もしかしてシュオウ様のことで?」


 「シュオウ……」


 男は困ったように頭を掻き、

 「すいませんが、今うちの隊長がどこにいるかは……。ついさっきまでここに副長が――あいや、ジェダ様がいたんですがね、あの方ならご存知のはずですが」


 急に沸いて出た名に、バレンは首を傾げた。


 「副長……ジェダ、と言ったか?」


 「ええ、ジェダ様ですよ、輝士のジェダ・サーペンティア様です」


 テッサと顔を見合わせたバレンは、その場で言葉を失った。




     *




 行き交う者達から情報を拾い集め、目指した先。そこには城塞の敷地内の片隅、見張り塔の側に簡易に設置された屋根付きで壁のない簡素な建屋があり、その傘の下に置かれた長く広い卓の上には、所狭しと書や城塞内部の見取り図等が広げられていた。


 建屋に群がる人の数は多い。あちらこちらから従士達が来ては、指示や質問を求めて列を成している。


 建屋の中心に立ち、それらに指示、対応している人物を見て、バレンは声を忘れて見入っていた。


 灰色の髪に黒い眼帯。目立つ風采だ。見るのはこれで二度目になるが、印象に残っていなかったのは、傍らに居た人物が原因であろう。


 眼光鋭いその若者の側には、一歩身を引いた場所から、まるで彼を補佐するように手を貸し、助言を与えるジェダ・サーペンティアの姿がある。その様はまるで、上官に仕える副官としての姿そのものだった。


 「レオは、よく見ていたな……」


 ここに居ない息子を褒めるバレン。随行するテッサは目の前で繰り広げられる、従士服を着た男に仕えるように振る舞うジェダ・サーペンティアの姿に動揺している。


 「父上ッ、ここにおられましたか」


 背後からレオンがくたびれた顔で駆け寄った。


 「レオ……どうした、急いだ様子で」


 レオンは膝に手を乗せ、肩を揺らして荒く呼吸を繰り返し、


 「――従士らを中心に聞き込みをして、ようやくわかりました。ムツキの雑務を一手に引き受けている部隊がありました。長の名は――」


 バレンは息子の肩に手を乗せて、

 「もういい、すでに承知している」


 「ほ、本当ですか――」


 がっくりと肩を落とすレオンは、テッサへ確認するように顔を向ける。テッサは惑いを残した難しい顔で弟へ頷いた。


 「――その者について、妙な話をたくさん聞いたんです。先の南方との紛争時、一人で拠点を落としたとか、ターフェスタに囚われたジェダ様を救い出して連れ帰ったとか。他にも、まったく現実味のない話をたくさん……ほとんどが尾ひれのついた、ただの噂話だとおもいますが」


 バレンは眉を深く落として寄せる。


 ――シュオウ、だったか。


 その名を心中で反芻し、グエンがあの時、呟いた名をハッキリと思い出す。


 「おそらく、その噂話は事実なのだろう――」


 吐いた言に引きずられるように、バレンの視線はシュオウへと引き寄せられる。大勢が集い、統率者の意を受け、生き生きと行動する。その表情は皆明るく、芯が通ったように玲瓏としていた。


 眼前の光景を前に、バレンの胸中にある思いが去来していた――


 「――まるで、ここがムツキの司令部のようだ」


 小さくつぶやいて、建屋から背を向けて歩き出したバレンへ、テッサが呼びかけた。


 「父上、会われないのですか?」


 「見た所、多忙を極めている様子――時を見てまた出直す」


 喧騒を背負い、アガサス家の三人はその場を後にした。




     *




 夕暮れの迫る頃。


 朝からシュオウを探し回っていたアイセとシトリは、未だにその姿を見つける事ができずにいた。

 それほどムツキは広く、多くの人間達がうごめいている。


 最後にシュオウを見かけた部屋は、扉を叩いても中から応じる気配はなく、その時点でアイセ、シトリの両名は手がかりを失っていた。


 「あの男、隊に入れるとか言っておいて、投げっぱなしじゃないかッ」


 憤懣して愚痴るアイセは、嫌味なサーペンティア家公子の顔を思い出し、長剣の柄を強く握りしめた。


 シトリは通路の壁に背を預けてへたりこみ、

 「もうだめ、広すぎ……疲れた……アイセ、見つけたら私の部屋まで教えに来て。でも一人で彼に会わないで」


 究極に自分本位な要求を投げ、シトリはぐったりと肩を落とす。

 アイセは慣れた所作でシトリの身体を掴み上げ、


 「自分だけ楽しようなんて許さないからなッ、お前はいっつもいっつもそうやって――」


 揉み合う二人へ、野太い声がかけられた。


 「あなた達って、どこに居ても同じ事してるのね」


 声の割には柔和で、大げさなほど女性的な話し方。聞き覚えのある声に誘われて、二人が見た先には、大きな身体をした短髪、髭面の大男が立っていた。


 呆然として黙って大男を凝視する二人へ、


 「もう、なによ――熊にでも会ったみたいな顔でひとの顔を黙ってジロジロ見て、失礼じゃない」


 「クモカリ……なのか?」


 まるで起き出した死人でも前にしたように、まるまると目を見開いたアイセは、少しして嬉しげに破顔し、シトリと共に大きな身体の友の下へ駆け寄った。




     *




 日が落ちてしばらく。焚き木の音に耳を傾けながら、シュオウの下に集った者達が一斉に夕食にありついていた。


 「おぇッぷ――」


 この時間を誰より楽しみにしているシガが、こみあげてきたものを抑え込むように腹を押さえ、苦しげに呻いた。


 「――なにかおかしいぞ、もう腹がふくれてきた……」


 彼の言動に一番驚きを見せたのはシュオウだった。なにせ、シガはまだ食事を開始して五人前ほどの量しか食べていない。


 「どこか具合が悪いのかッ」


 切迫した調子で聞くシュオウへ、シガは不安そうに首を振った。


 「わからねえ……とにかく、腹が苦しい……ちょっと隅で横になってくる……うぷ」


 肩を落としてとぼとぼと、片隅に積まれた荷物置き場で横になるシガ。そんな彼を見送り、くすりと笑う声があがった。


 「ちゃあんと効果があったみたいね」


 したり顔で言ったのはクモカリだった。


 「……なにかしたのか?」


 シュオウが聞くと、クモカリは服の内側から一つ、小さく皺だらけの四角くて薄茶色の物体を取り出した。


 「あの大食らいさんのお皿にだけ、これを隠して入れておいたのよ」


 ちゃっかりとシュオウの隣に席をとるシトリが、あ、と声をあげた。


 「それ知ってる……うちの使用人が庭の石段をこするのに使ってた。水に入れると、ぼわっと膨らんで――」


 シトリは身振りを加えて説明する。それを聞き、焚き木を囲う皆がぽかんと口を開けた。


 「そう、ヤシヤハの種船よ」


 クモカリは言って、にたりと怪しげに笑った。


 ヤシヤハとは、湖などの水辺に生える植物の名称である。その植物は繁殖のため、種を含んだ泡のように軽い実を風で湖面へと飛ばす。乾燥した実は水を吸って固く膨らみ、表面から油分を滲ませて水面を漂い、旅をして遠方まで種を運ぶため、その実を指して種船と呼ぶのが一般的となっていた。


 その種船は水を吸ってほどよい硬さに膨らみ、こすることで汚れをよく落とすため、便利な掃除用の道具として広く知られている。


 「清掃道具を食べさせるとはね」


 やや呆れ気味に、ジェダがおかしそうに言った。


 「心配ないわよ、掃除用っていってもただの乾燥した植物ですもの。普通の人ならお腹で膨らむ実なんて毒かもしれないけど、彼ならあれくらい平気で栄養にしちゃうだろうと思って」


 クモカリの試みは絶大な効果をもたらした。シガはたしかに、通常ではありえない速さで満腹感を得たのだ。


 「何個、入れたんだ?」

 とシュオウ。


 クモカリは夜空を眺めつつ、

 「そうねぇ……おかわりの度に一個ずつ隠して入れたから――」

 言って、片手の指をすべて広げて見せた。


 腹を抱えてもだえているシガを見つめ、シュオウは、

 「次からはもう少し減らしてやってくれ」


 「ええ、何度かためして最適な量を探ってみるわ。試し甲斐があるのよねぇ――彼、出した物はなんでも口に入れるから」


 クモカリはシガを赤子のように言って、探求者のように遠くを見るような顔で頷いた。その目には、やる気と自信がみなぎっている。


 「あの男にも天敵がいたんだな……」


 心底感心したように、アイセはクモカリを尊敬を含む目で見つめた。


 それぞれが手にした食事を空にする頃、火を囲みながらアイセが囁くように呟いた。


 「少し足りないが、あの頃を思い出すな」


 あの頃――という言葉がなにを指しているのか、シュオウは聞かずともわかっていた。


 シュオウにぴたりと肩を寄せるシトリが頷いて、

 「よけいなのも混じってるけど――」


 シトリの冷めた視線、言葉をまるごと無視して、ジェダは白湯を喉へ流し、動じた様子なく食後の一時を過ごしている。


 「あなた達は戦いに参加するんでしょ。あの時は狂鬼が相手だったけど、こんどの相手は……」


 つらそうに声を絞るクモカリ。シュオウは鼻息を落として、深く揺らいだ焚き火を見つめる。


 沈んだ空気に、威勢よくアイセが声を上げた。


 「大丈夫だッ、馬を駆り、戦場を駆け巡るのは輝士の本領。私が剣を手に道を切り開いてみせる。そして必ず、シュオウの力になる――」


 自分へ言い聞かせるような言葉を吐いたアイセは、シュオウと視線を合わせ、力強く頷いた。


 シトリは重くねっとりと嘆息し、


 「戦争なんて嫌……血とか汗とか、気持ち悪い。ずっと家に居たい。ゆっくり起きて、ベッドの上で朝食を食べて、お昼は子供達と一緒にお散歩に行く。そういうのがいい……」


 シトリは手を絡め、横目でシュオウを見つめ寄りかかるように身を寄せる。が、その最中にアイセに腕を引かれ、思惑を阻止された。


 「ムラクモ王国の輝士として、戦うことから逃げるなんて許されないからな――」


 「子供を産んで育てることだって戦いだから」


 それぞれの意見を交わし合う二人を余所に、シュオウは視線を落として思いを漏らした。


 「経験して、わかったことがある。大群がぶつかり合う人間の戦争で、当たり前に振る舞っていても、ただその勢いに飲み込まれてしまうだけだ」


 しばらくの間、黙っていたジェダがシュオウへ、


 「そうならないよう、今準備をしているところだろう。君の兵士に持たせる装備を整え、彩石を持つ者も、少数だが戦力として計算できる。その部隊を君は自由に扱う事ができる。やりたいこと、思うことがあれば、それを考えたままに実行すればいい。そのための協力は惜しまない」


 ジェダの言葉に、アイセ、シトリの両名は驚きを隠せない様だった。ターフェスタへの道中、そして到着してからの彼の態度を見ていた二人ならば、今のジェダはまるで別人のように見えているのだろう。


 「警戒、しとくべき?」

 ぼそりと呟いたシトリへ、アイセが、

 「……バカ」


 「あなたたちねえ――」


 まるで姉のように二人を諭すクモカリと、そんな彼らへ冷めた言葉をぶつけるジェダ。

 一時の団欒にやすらぎを感じながらも、しかしシュオウは、先の戦に対する解決を得ない懸念を抱いたまま、夜の一時を、とりとめのない考えを巡らせる事に費やした。




     *




 深夜に入る頃。


 長引く交渉から引き上げてきたジェダは、自室の前の廊下でごろりと寝転ぶ丸太のような物体に足を止め、警戒した。


 緊張はすぐに解ける。闇に慣れた目は、そこにいた人物の正体を即座に看破した。


 「いったいなんの真似だ――食べすぎで自分の居場所を忘れたか」


 上半身を起こし、飢えた獣のように鋭い目で、シガはジェダを睨めつける。実際、この顔、巨体を前に凄まれれば、怯えを感じない者はそうそういないだろう。


 シガはやや視線を逸し、

 「今日からこの通路が俺の部屋だとよ」


 不承不承であっても、この男に指示をすることができる人間は、このムツキにおいて一人しかいない。

 少ない言葉から、ジェダはシガに指示を出した者、その内容と理由へ素早く考えを巡らせた。


 この件を実行に移した者の思いに至ったジェダは、腹の底から湧き上がるものに押され、吹き出すように笑った。


 不機嫌そうに、シガはジェダを睨んで、

 「なにがおかしいッ」


 「彼の言うことには黙って従うんだな、と思ってね」


 ジェダの言葉に、シガはふてくされたように横向きに腕を立て、寝転んだ。


 「……べつに、黙ってたわけじゃねえ」


 負け惜しみのような言を聞き流し、ジェダはシガへ問いかけた。


 「理由は、聞いたのか」


 「……守れ、だとよ――」


 一つ間を置いて、


 「――部屋に女がいるな。中から呼ばれて礼を言われた。顔だけ見りゃお前によく似てると思ったが、俺の気のせい……か?」


 その問いかけに無言を貫き、ジェダは壁にもたれて背を預けた。青と黒の軍服は薄暗い通路に飲み込まれ、存在を淡く霞ませる。


 「どうして――」


 試みに吐いた問いを一旦、飲み込んだ。


 「――どうして、ここにいる」


 シガは鋭くジェダを睨みあげた。


 「あ?」


 「どこにだって行けるだろう。その身体、能力があれば。護衛であれ、戦いであれ、その力に権力や大金をつぎ込む者はいくらでもいるはずだ――それがなぜ、一介の彩石も持たない男の下で燻っている。一人でどれだけ大量に食事をとったとしても、その力で本来得られるだけの報酬には到底及ばない。それくらいはわかっているんだろう」


 静寂が降りる。


 虫の音も届かないほど厚い石壁の内側で、巨体から絞り出される溜息が、重さを持って通路を抜けた。


 「ここは……あいつの所からは、いつでも離れられるからな……」


 その言葉がなにを意味しているのか、ジェダには理解できなかった。


 「それは、どういう意味だ――」


 「……美味いことを言って俺を誘い込むやつは多かった。が、みんな少しして俺を一箇所に縛りつけ、持ってるもんを全部寄越せと言いやがる」


 「……なるほど」


 真意に至り、ジェダは半分瞼を落とした。


 「俺が出ていくといえばあいつは行かせるだろう。いつでも出ていける。自由だからな――だから、居るんだ。悪いかよ」


 小さくなっていくシガの声とは逆に、ジェダは通路の奥まで届くほど、はっきりと声を張った。


 「はっきりと、居心地がいいと言えばいいだろう」


 シガは目を剥いて、

 「誰がそんなこと言ったッ」


 ジェダはあえてシガから視線を逸し、


 「言ったも同然だ。見合わない給金で、理不尽ともとれる命令におとなしく従っている。それはつまり、献身だ。ガ・シガという人間がなぜそうするのか……彼の仲間として、ここに居ることを強く望んでいるからだ」


 「黙れよ――ぐだぐだと喋りやがって、女みたいなのは見た目だけじゃねえな。ひとの事ばかり言うが、お前のほうこそ――」


 語気を強めたシガの発言の途中――空気を壊す、重く響く腹の虫が鳴り響いた。


 情けない顔で腹を押さえるシガ。ジェダは微笑し、踵を返して部屋とは逆方向へと足を向ける。


 「輝士の食堂から差し入れを用意させよう――――言っておく、呼ばれていないのに勝手に中に入れば、その身体を千々に切り刻む」


 シガは鼻で笑い、

 「やれるもんならな。その前に片手でお前の頭を引っこ抜いてやる」


 言い合う言葉ほど互いに感情はこもっていない。そんなやり取りを交わし、両者の会合はシガの腹の音を境に、一旦の幕引きとなった。




     *




 夜に閉ざされた世界は負の印象を強く煽る。


 天から降り注ぐ光が消えただけ。ただそれだけの事で、見える景色は一変した。


 昼間には、陽光を受けて白く見えていた深界の森も、夜になると暗く重たい灰色が、木々の区別を曖昧にして景色を溶かす。


 人間の創造した深界の異物、城塞ムツキの高くから、シュオウは夜風に身を晒し、ただ変化なく広がる深界の夜景を眺めていた。


 「考え事でもしているのかね」


 突然の声かけにもシュオウは動じなかった。その人物が近づいてくる気配は伝わっていたし、相手もそれを隠そうとしている様子はなかったからだ。


 ゆったりと振り返り、シュオウは声の主へ挨拶をした。


 「どうも……たしか――アガサス重輝士。はじめまして」


 夜更けにも関わらず、しっかりとした佇まいで一点の乱れもなく重輝士の軍服を纏うバレンは、鷹揚に頷いた。


 「初対面ではないな、一度顔を合わせている。その若さで従士長か。年功による出世の多い軟石兵のなかで、早々に従士長に抜擢されるとは。しかも、あのグエン様直々に。知ってみれば、なぜその名が広く知られていないのかを疑問に思うほど、噂に聞く君の功績は輝かしい。すべて事実なのか?」


 怒っているようにしか見えない仏頂面のバレンへ、シュオウは皮肉に微笑して視線をはずし、


 「なにを聞いたのかわからなければ、答えようがありません」


 そう言って、壁際に腕を乗せ、身体を預けて外の景色へ目を向ける。


 バレンはシュオウの隣に立ち、同じような姿勢をとって、遠くの景色を眺めた。


 「たしかにそうだ……あげれば、気になることは多々あるが、やめておこう。聞かずとも、君の周囲の様子を観察すれば、自ずから答えは得られる」


 バレンはそっと嘆息し、わずかに肩を震わせた。


 「よかったら――」

 シュオウは羽織っていた黒い毛皮の外套をバレンへ差し出した。


 バレンは険しく見える顔に一層暗い影を落とし、

 「老体への哀れみか」


 シュオウは一瞬、視線を泳がせて、

 「まあ、そうですね」


 皺を溜めたバレンの険しい顔相が、ふっと緩んだ。


 「はっきりと言う。我が子であっても、もう少し気を使うが……。では、哀れみを素直に受け取らせてもらおう――」


 バレンは毛皮の外套を受け取り、それを自身の肩にかける。直後に、驚いた顔で毛皮の表面を丹念に撫で始めた。


 「――上物だ。まるで王侯への献上品……これほどの品、早々お目にかかれるような物ではない。これは狂鬼の毛皮か」


 シュオウは頷いて、


 「毛皮を傷つけずに狩るのは、命懸けの状況で不利を上乗せして戦うことになる。当然、石も壊せない。たしかにそれは、簡単に手に入る物じゃありません」


 バレンは羽織った毛皮を大切そうに両手で引き寄せ、


 「軽く言うが、その言葉は私からすればまるで、別世界の住人のもののように聞こえる。君が噂通りの人物だとして、そんな男から見る戦場など、少しも怖くはないのだろうな」


 また、灰色の森へ視線をやり、シュオウはどこか淋しげに枯れた声を振り絞る。


 「……怖いです。戦争は人がたくさん死ぬ。人が死んだ後の結末の一つを、ターフェスタで見ました。深界で生きている間、数えきれないほどの死を見てきた。それでも、目に映る同族の死は、なによりも汚く、汚臭を感じる。誰かが死ねば、誰かを殺せば、あの汚れた暗い家の中のように、また別の誰かが苦しんで、汚い姿で死んでいく。自分がそれに加担するのだと思うと、恐怖を感じる」


 「だが、それだけの思いがあっても、君は戦場に立っている」


 虚空へ向けて、シュオウは首肯した。


 「自分のしたことで、誰かが不幸になったとしても、俺はここにいたい。誰かの死を嘆いても、自分のまわりに居る人たちだけは、生きていて欲しいと思う。俺は自分勝手な人間だ。でもそうでなければ、人の世界で――――ここで、意思を貫くことができなくなる。戦わなければ、自分の居場所は守れない」


 言葉無く、バレンは横目でシュオウを見つめていた。


 静寂を破る遠雷が鳴るのと同時に、夜に生きる鳥や虫の声が掻き消える。


 血脈のように天から地へと降りる白い稲光を見やり、バレンは戯けた調子で言った。


 「いっそ、雨が降り続けば、戦をする間もないのだろうが」


 それが彼の冗談であるとすぐに悟ったシュオウは、軽く笑みを返して頷いた。




 戦いへと至る、いくつかの夜。


 その一つは何事もなく平穏に、終りを迎えた。






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