狂人の選択
狂人の選択
灰色の闇を溶かす青の点光。
深界を彩る光の粒は多数に群れ、しかし整然として前進を続ける。
群れが奏でる音の響きは高らかに天空へと舞い上がる。それはまた、これから始まる騒乱を告げる前奏のようでもあった。
人類社会の北から西へかけ、広く信徒を獲得しているリシア教。そのリシアが神の恩寵であると定める輝石を模した、結晶を描く紋章旗を掲げ、密集して深界を進む輝士の一団がある。
上質な生地の聖衣に軍服としての要素を混ぜた、白と赤の衣装を纏う。リシアの最高指導者たる教皇の支配下に置かれた彼らは〈聖輝士〉と呼ばれていた。それは、各地から集められた、突出して優れた者たちに与えられる名誉の称号である。
聖輝士隊は色を揃えた白馬を駆り、広大かつ長大な白道〈ルタエノ太道〉を東進していた。先に在るのは、ターフェスタ公国が所有する深界の拠点〈対東要塞アリオト〉である。
「ダーカ隊長、先にアリオト門が見えてまいりました」
夜通しの行軍の末、空はすでに明るみ、世界は朝を迎えようとしている。頭を覗かせた太陽の位置を確認しつつ、副長からの報告を受けた聖輝士隊の長、ミオトは満足そうに頷いた。
「時間通り、大変よろしい」
夕映えの中で光輝く稲穂のような、赤みの差した長い金髪をなびかせ、女としての魅力を余すところなく体現しつつ、優雅に馬に跨る。若くしてその才と見目の艶やかさを認められ、教皇直々の指名による〈希少十才器〉の一人に選ばれたミオトは、先代隊長の引退と共に早々に長としての座についた才媛だった。
長身、整った眉目、華やかで雅な髪色に加え、ミオトが持つ大きな特徴の一つが、左右に色の違う双眸である。左目に備えた淡い碧と、右目に備えた淡い琥珀色。光を受けると輝きを放つように見えるその二つの目は、なによりも絢爛に存在を主張していた。
各国、各家から止むことのない見合いの申し込みを受けるミオトは、現代の婚姻申し込み総数記録保有者としても知られる人物である。
ミオトは長く片方に流れた前髪に触れ、
「ルイ、私の身形に問題はないな」
と副長に問うた。
副長ルイ・オストフはミオトより一回り以上歳上である。誠実で優しげな眼差しに、鼻の下に蓄えた豊かな髭が特徴的な男だった。性格は固く面白みに欠けるが、忠実で余計な事を言わない態度で、ミオトからの評価は高い。
ルイは自信を持って頷き、
「は――一片の淀みもなし。誰よりもお美しい」
そう、小気味よく答える。
ミオトは上機嫌で、
「よろしい――到着の頃にはほどよく朝陽がこの目を照らす。聖下より天地の宝玉とお褒めいただいた我が双眸、ターフェスタ将兵達への良い土産となるだろう」
言って嬉しそうに、自分の言葉に酔うミオトは、弾む心地で一層早く、白道を賭け走った。
*
左右に居並ぶターフェスタの将兵達。整列して膝を落とし、加勢のために遠路はるばるやってきた聖輝士隊を迎える面々。奥に佇む軟石兵らは、リシアの加護を受ける選びぬかれた精鋭を前に感嘆の声を漏らし、それを率いる若き指揮官に見惚れ、その容姿を口々に褒めそやす――――
「――そんな光景、どこにもなかった!」
かぎりなく現実に近く、起こりうる事として想定していた妄想を打ち砕かれ、ミオトは地団駄を踏んで不満を表明した。
アリオトに到着直後、開門の頃から兆候はあった。外まで出迎えの列ができていてもおかしくない状況で、しかし応じたのは馬を預かるための下っ端従士らが数人だけ。聖輝士隊を恭しく出迎えるはずのターフェスタ輝士らの姿はなく、その所在を聞くと、訓練場にいるだろう、という淡々とした答えが返ってきただけだった。
渋々、ミオトは部隊を引き連れて訓練場へと向かう。その途中、城壁の内側にはびっしりと、岩の下で蠢く虫達のように密集した一個の軍隊があった。纏う装束、装備は明らかにターフェスタの人間が用いる物とは違っている。所狭しと張られた天幕の隙間で、彼らは表情一つ変えず、淡々と戦支度に勤しんでいた。
「カトレイだな」
ミオトの呟きにルイが首肯した。
「は――間違いありません」
一滴の水玉が微風で揺れ動くよりも静かに、ミオトは舌打ちを漏らす。
「……先を越されたな。相変わらず、無駄に練度の高い連中だ」
ぴったりと帯同するルイは沈んだ声で、
「はい……」
道を抜け、いくつかの門をくぐり、訓練場へと足を踏み入れたミオトは、そこにあってはならぬ光景を見た。
険しい表情で武技の訓練に勤しむ輝士達。訓練場の隅で弓を引く従士達。そして、中央でやたらに巨大な剣を振る、一人の大男がいた。
大男は、ぞろぞろと現れたミオトらに気づくと、手を止め、両手で握る巨大な剣を地面に投げるように置いた。轟音と共に煙が上がり、周囲の者たちの視線が一斉に彼に注がれる。
寒さも気にした様子無く、大男は上半身裸の状態で、筋骨たくましい身体に流れる汗を拭い、抑揚の薄い声で指示を投げた。
「片付けておけ」
承知を告げた従士らが、巨大な剣に手をかける。最初に駆け寄ったのは三人。しかし、それでも持ち上がらず、さらに三人が加わり、ようやく剣は重い腰を上げ、訓練場の片隅へと運ばれていった。
ミオトの前に立つ大男は、上半身をはだけたまま鋭い目を向け、黙って睨みを利かせている。長い手足に、がっちりとした骨ばった顔。細く鋭く尖った黒い目。鉄のように重い灰色の短髪。立派すぎる体躯に合わせ、見るからに強靭な戦士としての風格を滲ませる。大きく硬そうな拳には、茶褐色の輝石が鈍く光っていた。
「おい、そこの筋肉自慢。司令官はどこか。遠路、リシアより駆けつけた援軍へ、相応の礼も尽くさぬ愚か者の顔を見てやりたい」
ミオトの問に、大男は一層険しい顔で応じる。
「その愚か者の顔ならここにある、好きなだけ見ろ」
「なにぃ……貴様のような者がアリオト門の統括者、だと。こんな若造が」
「鏡を見て言え――」
ふてぶてしく大男は言い捨て、
「――東門は現在、ターフェスタ大公殿下御自らが指揮下に置かれている。この身はその名代にすぎん」
ミオトは黙して大男をじっと見つめ、
「……よろしい、では名乗ろう。私はリシア聖輝士隊の長、ミオト・ルゴ・ダーカ。生国は西方、彩の都レダである。教皇聖下より百碧侯の位を賜り、希少十才器の指名も受けている。命を受け、選抜した聖輝士隊を連れ、参陣した――以上だ。名代とやら、名を聞こう」
「冬華六家の一、ゴッシェ・ログ・ダイトス。大公殿下の命により、ムラクモとの戦、この身が現場での指揮を執る」
ミオトは噛み殺したような笑いを漏らし、
「ふ――どれほどの人物かと思えば、噂に聞く冬華六家、ターフェスタが誇る六の貴才か。我ら聖輝士に比べればいかにも小粒。大層な名をつけて権威を誇るなど、己に自信のない証拠だ。そうだな、ルイ」
ルイは目を合わせ盛大に首を振った。
「全く、おっしゃる通りです、ダーカ隊長」
強く鼻息を落としたゴッシェは、
「鏡を見ろ」
とだけ小さく呟いた。
「ルイ、あれを――」
命令を受け、厚い布にくるまれていた石版が取り出される。薄くともどっしりと重く、表面は鏡のように磨き上げられている。そこに、恭しくいくつかの文言が刻まれていた。
聖輝士隊が一斉に踵を鳴らし、膝をついた。
持ち上げられた石版の前に立ち、胸を張ったミオトが大きく口を開く――
「教皇聖下よりのお言葉を伝えるッ。東の敵を討ち果たさんとする決意を評し、神威の輝士団を派遣する。ターフェスタ軍との混成とし、これを光受神話に語られる廃灰の剣にちなみ、東滅軍団バーケアイの名を授ける。全力を尽くし、影に隠れし悪を討て――」
ゴッシェは表情を変えぬまま、掲げられた石版の前に一礼して、
「――拝受、いたします」
そこへ、ミオトの快活な一声が浴びせられる。
「よろしいッ、合流の儀は滞りなく。以上をもって終了とする――全員起立!」
号令を合図に、聖輝士隊は一斉に立ち上がり、無言でその場に屹立した。
生じた厳かな空気も冷めぬうち、ミオトは形式ばった仮面を捨て、目鼻口を歪ませてゴッシェの周囲をぐるぐると周りだした。
「――さてさてさて、それにしてもまったくおかしな話だ――けしからん、まったく理解に苦しむ。ひとこと言ってやらねばきがすまん」
「……言いたいことがあるなら、言え」
仏頂面のゴッシェへミオトは周囲をゆっくりと回りながら、一本ずつ指を折ってみせる。
「まず一つ、敬意を払ってしかるべき援軍への出迎えがなかった、礼儀知らずな行いだ。さらに一つ、アリオト門の統括者が、たいした実績もないぽっと出の凡愚である事。なぜ晴れの戦を指揮するのが銀星石を誇るプラチナ様ではないのか。特にこの点については納得がいかないッ」
ゴッシェは周囲を回るミオトを律儀に視線で追い、
「出迎えについては私が必要なしと指示した。無駄な催し事で戦いに挑む前の兵達を消耗させる気はない。ワーべリアム准将については、その御手をわずらわせるより先にムラクモを討ち果たせと、大公殿下がお覚悟を表明されたのだ」
「ははん――つまり、出し惜しみをすると言うわけか? あのムラクモを相手に。まるで強者の余裕だな」
「好きに思え。いかに燦光石であろうとも、ワーべリアム家はターフェスタの臣下。その処遇に関して、いかなる意思、思惑があろうとも、大公殿下のご意向がなにより優先されるのだ。部外者が口を挟むことではない」
「ほお――言ってくれるじゃないか……図体ばかりの凡愚めが」
大きな口を薄く開き、ミオトは嗤う。
ゴッシェはミオトから目をはずし、隅に置かれた自身の大剣を見やる。
「自慢の聖輝士隊にあの剣の柄を握り、持ち上げられる者が一人でもいるのなら、凡愚との称号、謹んで受け取ってやる」
ミオトは指し示された巨大な剣を見つめ、自身の細い腕へ視線を落とした。直後、一考の余地もなく、希少十才器の一人へ呼びかける。
「ターテル!」
前へ出た偉丈夫、ターテル・エーセリヒは身体強化の力を持つ彩石の持ち主。腕力に関しては聖輝士隊随一として知られていた。
詳細な指示はなくとも、ターテルはミオトの意を汲んでいる。根を張って立ち尽くすゴッシェへ余裕の笑みを送り、彼の剣へおもむろに太い腕を伸ばした。が、
「……ぐッ――ぬぐッ――」
大剣の柄を握ったターテルはそのまま刃を持ち上げることもできず、真っ赤になった顔で振り返りミオトへ首を振り、降参を告げた。
険しく顔を濁らせるミオトの横を素通りし、ゴッシェが大剣を両手で握る。ふん、と踏ん張って声をあげると、大剣は高らかに持ち上がり、異様なほどの大きさ、長さに、圧倒されたように聖輝士隊から静かに驚愕の息が漏れ響いた。
ゴッシェは両手で握った大剣を振りかぶる。剣の腹に押されて巻き起こった風圧により、ミオトをはじめ、待機して整列していた聖輝士達の身体を弾き飛ばした。
崩れた体勢となり、滑稽なほど慌てた様を晒す聖輝士達の前に、大剣を肩に乗せたゴッシェが立ちはだかる。
「いかに小技を操る術に長けていようとも、澱み無き強さの前には為す術もなく敗れるものだ――ダーカ殿、大公殿下に代わり、参陣には感謝する。東門においては戦いまでの間、自由にくつろがれるがいい。言われずともそうするのだろうがな」
ミオトは尻をついたまま見上げて、
「ふんッ、よろしい……凡愚の称号は一旦預かっておいてやる」
なにも言わず、ゴッシェは部下を引き連れ、城塞の中へと消えて行った。
「無礼な……我らを聖下の輝士と知りながら、あのような……」
不快感を表明したルイへ、ミオトは手の平を出した。
「言うな、ルイ。不意打ちとはいえ尻をつかされた現状で喚いても負け惜しみにしか聞こえん。それよりも隊を休ませるぞ。不愉快だがこれ以上の抗議は格好がつかん。事が片付いた後にでも、今日の事はすべて告げ口してやるさ」
「は……ダーカ隊長がそうおっしゃるのであれば」
立ち上がり、衣服の汚れを払って、ミオトは部下に指示を投げる。
その最中、遠雷が轟き、一帯の空気に微振動を加えた。
「雷雲か――たいへん縁起が良い。ルイ、我が剣を供物と共に空へ掲げろ」
めずらしく、きょとんとした顔でルイは聞き返す。
「――は? 雷を溜めた雲に剣を、掲げろ、と……?」
「我が国、レダの古い仕来りだ。もっとも、死にかけの年寄りくらいしか意識はしていないが。この度の戦は強敵ムラクモ。愚かしくとも、縁起を担いでおきたいのだ」
「し、承知いたしました……」
「心配するな、雲はずっと先にある――」
青ざめた顔で手を出すルイへ剣を渡し、ミオトはそっと空を見上げる。
上空から差す朝陽は、煌々として世界を照らしていた。
遠くの空にかかった薄暗い雲を眺め、ミオトは乱れた前髪をかきあげた。
*
クロム・カルセドニーの朝は早い。
というより、ほとんど寝ていなかった。
原因は奥歯で噛みしめる、もしゃもしゃとした物体。それはルブドレという強壮効果のある植物の根である。
噛んで味わえば眠気を消し、集中力を高めてくれるルブドレは、夜通しの追跡任務など、休む間も惜しい時に重宝するクロムのお気に入りの一品だった。
南西の覇国ヘリオドール領内の限られた地域でしか採れないそれは、生産者から西、北を行き来する商人らの手を経て、もともとの高値にさらに法外な中間手数料や輸送費等が加わり、クロムの手に届く頃には目が飛び出るほど高価な嗜好品として商われる。
クロムはルブドレを購入するため、実家からせしめた財の大半を費やしていた。私財の出費先としては、人生の一部である占いや、気まぐれに興じる賭け事に並ぶ程度となる。
太陽が登るよりも早く、クロムは見張り塔の最上階から暗い深界を眺めていた。
水が低い所へ流れていくのとは反対に、隙きあらば高所へと昇るのは、クロムの持つ習性の一つである。彼の持つ性質は、重さを伴う水ではなく、軽くどこへでも滑り込み、意味もなくいつの間にか霧散して消える煙のようなものだった。あとに残るのは悪臭のみである。
背後から陽の光をわずかに感じる頃、アリオトに警鐘の音が鳴り響いた。せわしなく鳴り続ける異常を知らせる音ではなく、カカン、カカンと規則的にゆったりと鳴らす音である。これは拠点に敵意のない者が接近していることを知らせる叩き方だった。
「クロム殿――ついに来ましたな、聖輝士隊のお歴々だ。さすが、各国からの才人を集めた精鋭達、皆良い風格を漂わせています」
いつの間にか隣にいた男に話しかけられ、クロムは首を傾げた。覚えのない顔、声に対しクロムの考えは一つの帰結を迎える。
――だれだ、こいつは。
身形からして輝士であることは間違いない。その男は望遠鏡を覗き込みながら、
「リシア教皇は最精鋭としての誉れ高い十才器を我が国へ貸し出された。これは大公殿下の御覚悟が伝わったという証、なのでしょうな」
クロムは目を細め、先の集団へだらけた視線を投げる。
「ジュッサイだか野菜だか知らないが、ただの呼び名に意味などないのだよ。聖輝士などくだらんね、むしろ暇人と呼ぶのがふさわしい。他人から与えられる幻の名誉に溺れ、そこで無様に手足をかいている間抜け共の群れにすぎないさ」
白馬に跨がり、夜光石の灯りを揺らしながら来るその群れに、居並ぶ顔の一つずつが、クロムにとってはただの無防備な的にしか見えない。
「それはまた極端な物言いだ。聖輝士の位は誰でもいただける物ではない。名誉は家の名に刻まれ、優良な婚姻の候補者にも困らない。実を伴うのですから、この呼び名には意味がありましょう。実際、我が国にも六家が在る。クロム殿の兄君はそのお一人ではありませんか」
「人間が勝手に作った小さな囲いの中でどれほど大層な名を得ようと、やはり意味などないね。君は……ええと――」
クロムは男を見て呼び名に窮した。そもそも記憶にその断片すらないのだ。
クロムは男の顔をまじまじと見つめ、唸った。
他人に対して興味を抱くことなど稀であるクロムは、根本から、人間の顔というものをきちんと認識していない。大半の者であれば気づく顔立ちの微かな差異を見分ける能力に劣っていたのだ。
自分以外の人間は皆、おしなべて平凡な存在であり、掃いて捨てるほど代わりのある無価値な物にすぎない。実際、クロムは人の顔をきちんと見分ける能力くらいは持っているが、それが出来ないというのは、まったく根っこからやる気がないということなのである。
しかし、最低限にでも他者と関わって生きていくうえで、どうしても他人を識別する必要はある。そこで、クロムは人の特にわかりやすい特徴を強調し、それぞれに自分のつけたあだ名を与えることを常としていた。その指標とのなるものは、時に対象者にとって猛烈に嫌悪感を伴う欠点であることも少なくない。
さきほどから、べらべらと語りかけてくる眼前の男を観察したクロムは、彼の口元が開くたびに見える大きく隙間の空いた前歯に着目する。
「――隙間風くん!」
クロムの命名に、男は辟易した態度を示す。
「その名で呼ばないでくれと、つい先日お願いしたばかりなのですが……」
「ほう――」
クロムは内心、感心していた。覚えのない過去の自分が生み出した、冴えた命名に対してである。
「――それで、その時私はなんと言っていたのかね」
男はまた、うんざりと顔色を悪くし、
「……こう言っていましたよ、わかったよ隙間風くん――と」
クロムはまったくわかっていなかった。
この男と面識があったことも、すでに名をつけていたことも、すべては忘却の彼方。白紙に墨のついていない筆で透明な文字を書き殴っていたにすぎない。一日もすればまた、彼の事を忘れているだろう。
「まあ、どうでもいいが」
投げやりなクロムの言に、男は慌てて言葉を重ねた。
「よくはないッ、私には祖父からいただいた大切な名が――」
クロムは手の平で男を制した。
「わかった、いいだろう。そこまで言うのなら、天に判断を委ねようじゃないか――」
言って黒と赤に分かれた賽を取り出し、
「――赤が出れば君が望む名で呼ぼう、いいね?」
男は眉を顰めつつも、渋々頷いて同意する。
クロムは手慣れた様子で賽を放りなげ、空中で握ったそれを、上に向けた手を開いて結果を見る。
「黒、だ。天は君を隙間風くんと呼べと仰せである。わかったかね、隙間風くん」
男は盛大なため息をつき、
「あなたと話していると頭がおかしくなりそうだ。もういい、なんとでも呼んでくれ……」
相手が降参を告げたのと同時に、クロムの男に対する産毛一本ほどの興味は消え失せた。
現在、クロムの思考は、ターフェスタで運命の出会いを果たした、ある一人の男の事で一杯なのである。
先から来る聖輝士隊の一団は、太陽が昇るにつれ徐々にアリオトへと距離を縮めている。
隣にいる男が、再び望遠鏡を覗き込み、静静と語りだした。
「冬華のゴッシェ様は出迎えの整列は不要とおっしゃった。私などからすれば、優れた戦力となる聖輝士隊の助力は喜ばしいこと。しかしここだけの話、この度の援軍の裏にはターフェスタよりリシアに対して多額の寄進をした見返りとの噂がある。カトレイから借り受けた兵団への出費と合わせ、異常な支出により国庫にかかる負担を不安に感じている者も少なくない――――クロム殿はこの度の戦に対する大公殿下のご采配をどう思われる」
「別になんとも思わんが。まあ、何もおかしな話ではないのだろう。望む物があれば人はその見返りを渡すもの……だ……から…………だから……」
言いながら、クロムは徐々に大きく目を見開く。
ターフェスタで、蛙の占い師から天啓を受けた際、そしてその結末として自らが放った必殺の矢を受け止められた瞬間、クロムは自らの運命をその人物に見出し、身命を賭けて仕える事を決めていた。
しかし、人並にクロムにも不安はあった。
その不安の正体は、捧げる忠誠を受け入れてもらえるか、という事である。片思いは不幸の源であり、一方通行の感情は引き返す事もできず、愚直に直進を続ける羽目になる。
当然、クロムは自らが願う未来を成就させたいという想いがあった。が、相手は現在、ターフェスタが敵国として睨み合う関係にある国の人間なのだ。
この戦を気に、どさくさでムラクモへ寝返る腹づもりは決めていても、その後の事については、しっかりと根の張った計画を立てることが難しい。そうした不安から、のんびりと眠る気にもなれず、日がな一日歯を摺り合せては、あてのない苛立ちに身悶えしてきたのだが、クロムはようやく、その悩みを解決するための糸口を、会話のなかで掴み取った。
「そうだ……土産だ……我が君にこのクロムの覚悟を知っていただくためには、相応しい土産を用意しなければ……こんな簡単なことになぜ気づかなかった……」
横にいる男がまた、混乱した様子で聞いた。
「なにを言っておられる……?」
事を決めてから、クロムの思考は光が通り抜けるよりも早く動いた。
敵国から参上する身の上、裏切りに信憑性を持たせたうえでの実を伴う土産となれば、それは相応に名のある人間の首を獲り、持参するのがいい。
「ならば、特上の代物を用意せねば――」
独り言ちたクロムへ、男がまた尋ねる。
「だから、いったいなんのことを……」
クロムは男へ猛烈な勢いで振り返り、獲物を見つけた猛禽のように鋭く凝視した。
「隙間風くん、君の階級、これまであげた成果などはいかほどに?」
男は焦りながら、
「あ、いや……お恥ずかしいが、私は正輝士となって以降、これといった武勲をあげたこともなく……」
真剣な顔で話を聞くクロムは、うんうんと頷いて、
「なるほどなるほど……それで、例えばその他になにか取り柄などはないのかね。そうだな、父母や祖父母にご高名な方がいるとか」
男は頭に手をおいて笑った。
「うちは代々の平凡な家柄。晶気の質も並、輝士として挙げた実績も並。カルセドニーのような名門とは、いやはや、まったく比べるのも恥ずかしい話で――」
クロムは男の話の途中で席を立ち、階下へと足を向ける。
「――と、どちらへ行かれる?」
クロムは髪をかきあげ、颯爽と告げる。
「することができたのでね、これで失礼するッ。君のどうでもいい話のおかげで妙案が浮かんだのだよ。心からの感謝を贈ろう、隙間風くん!」
言って、突風のように去っていったクロムを見送った男は、一人深々と嘆息した。
「いやァ……あれは噂以上の変人だ。名門カルセドニー家の生んだ汚点だな…………お気の毒に」
*
夜の始まりは大抵、匂いが告げる。
香りを伴う赤い灯り。焼く匂い。煮る香り。
食卓を前に居並ぶ聖輝士の面々は、手を合わせ、目を閉じ、思い思いに祈りの言葉を呟いた。
「夕食、開始! 一片でも残した者は、我が隊、及び神の御恵みに対する冒涜とみなし、公開処罰とする!」
ミオトの号令により、祈りを解いた面々は、前に並んだ食事を前に喉を鳴らし、緩やかで幸福な一時に取り掛かった。
ミオトは副長を横に伴い、隊員達から離れた卓に席をとっていた。正面に仏頂面で座るのは、要塞アリオトの実質的な司令官、ゴッシェである。
「おい、冬華のゴッシェ。お前、まともな服を着ていればそれなりに見られるじゃないか。もう決めた相手はいるのか? 家の遠縁に一人適齢期の娘がいるのだがな、興味があるなら見合いの場を設けてやってもいいぞ。聖称はお前と同じログだ、きっと良い子を授かるに違いない」
やたらによく動く色違いの双眸で、ゴッシェを見つめるミオト。美しい顔に、どこか性格的な難が浮かび、本来持ち得た魅力には若干の影が落ちている。
「誘いには応じたのだ……黙って食わせろ」
突き放すようなゴッシェに対し、黙々と食事を口に運ぶルイがぼそりと呟いた。
「ダーカ隊長は黙らんぞ……」
ミオトは言った副長を見ることなく、
「その通りだ――」
と同意した。そしてまた快活に口を開く。
「――しかしな、六家、なのだろう?」
ゴッシェはパンを齧る作業を嫌々止め、
「……それがなんだ」
「なぜ、最前線たるアリオト門に六家のうち一家しか居ない? 私は知っているぞ、六家には年少にして風術を使いこなすという天才がいただろう。それに、あのプラチナ様の直弟子もいたはずだ。両者とも、望めば聖輝士として即、リシアに迎えられるほどの逸材だとか。この目で見られるのを楽しみにしていたのだがな」
ゴッシェは杯を満たす濁り汁を飲み干し、叩きつけるように机の上で拳を握った。
「ナトロ・カデンは負傷した傷が癒えていない。そのため、ワーべリアム准将と共に待機中だ。ユーカ・ネルドベルは……現在は六家の役からははずれている」
好奇心に満ちた目が、ゴッシェを凝視した。
「なぜだ?」
「……知らん。何事か、自信を喪失するような事を経験したらしいが。もとより、あれは幼すぎた。冬華の重責に耐えられなかったということだ」
「ほう――なるほど、なるほど。つまり、任命した主が愚かだったと言いたいのだな、よろしい」
ミオトの言葉に、ゴッシェは気色ばんだ。
「そういう意味では――」
畳み掛けるようにミオトは愉快そうな顔で前のめりに詰め寄る。
「同じ事だろう? あえて隠すこともない。ミザール門の総督バリウム侯爵を見捨て、ムラクモに剣を向けたこと。そのせいで姉である夫人の怒りを買い、夫人は太子を連れてバリウムへ里帰り。領民へは重税を課し、国宝の白木をあらかた売り払い、金で買えるカトレイの〈華金兵団〉まで用意した。そうまでしてムラクモの領土切り崩しを目論見ながら、ターフェスタが有する燦光石は隠すように影に置く。これではまるで、駄々をこねる子供が、自分の力を証明するために手足をばたつかせているようにしか見えん。リシアよりここへ来るまでの間に聞いた噂だけでこれだけの情報が耳に入ったのだ、酷い有り様じゃないか? お前が主と崇める大公殿下様は。実のことろはすでにボケ――」
ゴッシェが卓を打った拳の大音で、食堂は突如静寂に包まれた。
「黙れ――それ以上言えば、この場でお前を切らねばならん」
しばらくの間、重く視線を交わし、ミオトは鼻息を落として微笑した。
「……皆、気にせず食事を再開しろ。こちらとは若干、神学について意見が食い違ったにすぎん」
しかし、終わらぬ静寂に対し、自ずから立ち上がったルイが酒瓶を片手に威勢よく、先の戦への意気込みを語りだした。それをきっかけとして、同調する者らの声が上がり始め、食堂の雰囲気は、元の賑やかなものへと回帰する。
視線を片時もはずさないゴッシェへ、ミオトは戯けて笑みを浮かべた。
「気にするな、ただの戯言だ。ここへの任務を言い渡されたとき、私はてっきりあの御方のお側で戦に挑めるものと思い込んでいた――」
ミオトはうっとりと、憧れの眼差しを遠くへ向けて両手の指を絡め合わせる。
「――ああ……プラチナ様、あのお美しいお姿、御石をこの手に乗せ、口づけをし、かの銀星石の前にひれ伏してみたかった…………と、そんな期待が裏切られたのだ。腹いせに少々口が過ぎた、というだけの話。この程度のことでいちいち腹を立てているようでは、到底人の上に立つことなどできまいよ」
ゴッシェは瞼を深々落とし、尖らせた気を落ち着かせて嘆息する。
「口の立つ女だ……」
笑んだミオトは明碧色の輝石を出し、
「立つのは口だけではないぞ、見たいか? ん?」
「……うるさい、黙れ」
ゴッシェは仏頂面で鼻を鳴らし、半身をずらして座り直し、ミオトから顔を背けた。
「おや――」
唐突に鳴った腹をさすり、ミオトが無邪気に自身の細い腹を撫でる。
「――よろしい、今すぐ食べ物をそっちへ送ってやろう」
言って、すでに温かさが消えつつある食事へと手を伸ばし、黙々と夕食にありついた。言動の激しさからは以外なほど、食べ物を口へ運ぶミオトの所作は上品である。
身体向きを横へずらしたゴッシェは、先に見える食事にがっつく聖輝士隊を眺めながら、そっと呟くように声を漏らす。
「若いな――」
並んで談笑に興じる男女は、ゴッシェの言う通り皆若く、なかには未だ幼さを残す輝士も混ざっている。
ミオトは口に含んだ物を品良く飲み下し、
「多く、代替わりをしてそれほど間がない。引退した先代達は師となり、次代の輝士を育んでいる。愛しいだろう、伝統と共に受け継いできた武の連鎖は連綿として未来へ続いていくんだ」
「……が、その伝統がために、北方の剣はムラクモの身を切り削ぐことができん」
ミオトは一閃、弾けるような笑みを浮かべた。
「ムラクモの宝玉院とやらを羨んでいるのか。無差別に彩石を持つ者をかき集め、自国の戦力として強制的に組み込む仕組みのなにが良い? 本意ではない子供達を集め、無理矢理に戦場へ送り込むなど、野蛮の極み。いかにも神を持たぬ国の考えるような事だ」
「そうだ。だがそれ故に奴らは強い。我らが束になろうと追いつかない数の輝士を前に立たせ、そのうえでさらに後方に余力を残している。年が巡る事に、絶えること無く新たな輝士が輩出される。白道の上でいくら東方輝士を屠ろうとも、根本的に数を減らすことができん」
「であるからこその我ら聖輝士隊だろう。加えてお前の主は身銭を切ってしっかりと頭数を揃えたじゃないか。深界戦で投入できる輝士の数には限りがある。最後に物を言うのは結局の所、質。ムラクモの連中はな、ターフェスタなんぞに負けるはずがないと思っているぞ。そこへ颯爽と、このミオトが参上! 輝石の御業を持って慌てふためく不信心な奴らを蹂躙してみせるッ」
立ち上がり、腰に手を当て胸を張って宣言したミオトへ、周囲の者たちが拍手喝采を贈った。
気分よく称賛を受けるミオトは、ふと目をやった先にいた一人の男に注目する。皆がミオトへ羨望の眼差しを向けるなか、その男は何事か必死な様子で他の輝士達に聞き込みのような事をしている。形相に余裕はなく、歯を食いしばり、目を剥いた様は異様だった。
「おい――」
ミオトは側にいた若いターフェスタ輝士を捕まえ、男を指さして聞いた。
「――あれは誰だ、何をしている」
輝士は差された男を見て、顔を苦しそうに歪めた。
「ああ、あれは……監察隊のクロム殿ですよ……その……カルセドニー家の。なんでも、皆の経歴や家についての功績を聞いて回っているらしいですが、理由のほうはさっぱり」
聞いてミオトは、ほう――と呟いた。そのまま黙して仏頂面で座るゴッシェへ、
「カルセドニーとな? どこかで聞いた名だぞ……」
ゴッシェはちらとクロムへ視線をやり、
「あれの兄は冬華の一、ネディム・カルセドニーだ」
「そうそう、それだッ――思い出したぞ、ネディム・カルセドニー。風の噂に聞く優れた知恵者だとか。各地でやたらに評判の良い男だが、病弱であると聞いた。あれがその弟か……面白い」
ミオトは色違いの双眸を輝かせ、期待を込めてクロムを凝視する。そのクロムへ向けて一歩を踏み出した瞬間、ゴッシェが苦い声で横槍を入れた。
「どこへ行くつもりだ」
「武勇伝と家格に興味があるのなら、この場で、このミオト以上の者などいない。挨拶ついでに聞かせてやろうと思ってな」
「……兄とは違うぞ。奴は生粋の狂人――関わるのなら覚悟しておけ」
ミオトは色違いの目を見開き、
「ふ――ますます面白い」
そう、嘯いた。
*
夜になり、輝士達が集う食堂に入ったクロムは、飢えた獣のような目で人物調査に夢中になっていた。
「ふむふむ――なあるほど――つまり、君のご先祖にはかつてのターフェスタ軍准将がいた、と。それは素晴らしい――」
一人ずつ経歴や家系の事を聞いてまわり、それを記憶の中に整然として残していく。普段、ほとんど他人に割くことのないクロムの頭脳は、このとき一切の障害なく、その力がいかんなく発揮されていた。
聞いてまわった一人ずつの顔と経歴を一致させ、その価値に順位をつけて上下の位置を入れ替える。
クロムは離れた場所に席をとる、童顔の男輝士を見た。
――十代で剣技大会の準優勝、父母は共に現役の役職付き重輝士、祖母はオトエクル派の主教。
彼は有力候補の一人だった。話をしたところ、品行方正かつ謙虚で、これから出世をするだろうという空気をこれでもかと醸し出している。
――しかし、アレには及ばん。
クロムの視線は、アリオトの実質的司令官、ゴッシェ・ダイトスへと向けられる。
彼は冬華の印を受ける、ターフェスタにおいて上位に位置する輝士だ。先祖代々ダイトス家に伝わる伝説の鉱物で造られたという巨大で鋭利な剣を持ち、それを自在に振り回す膂力も併せ持つ。
クロムは、兄ネディムの同僚ともいえるゴッシェを、手土産の第一候補に挙げていた。だがしかし、彼を選ぶにあたってはなにより多くの問題を孕んでいる。
ゴッシェは、その華々しい立場がため、当然のように目立つのだ。彼の周囲には腕の立つ直卒の輝士達が控えている。どさくさで仕留める事が出来たとしても、その証明を手に入れるのは簡単な事ではない。
――アレに並ぶほどの価値を持つ者が他に……。
得られぬ答えに苛立ち、唇を噛んだその時だった。
左から細身で鼻の下に髭を生やした狐のような顔をした男が現れクロムへと声をかける。
「やあやあ、クロム殿!」
その男はやたらに快活で、安っぽく酒に飲まれた態度で人懐こい笑みを零す。みるからに平凡で冴えない風采に、クロムの彼に対する興味は早々に消え失せた。
「なんだね、狐顔くん」
クロムの言いように気を損ねた様子もなく、男は爽やかに笑った。
「はっは、評判通りの失礼な男だな君は。私はボリス・カダバー、またの名を――」
話の途中で、クロムは遮った。
「興味はないよ、狐顔くん。私はね、今非常に重要な――」
クロムの話の途中で、こんどはボリスがそれを遮った。
「わかっているとも! 君は今、皆の経歴や先祖の功績を聞いてまわっているのだろう。だからこうして足を運んだんじゃないか。私、ボリスと、華々しいカダバー家の栄光をお教えしようと思ってね!」
濁っていたクロムの目に、瞬時に輝きが灯された。
「おおお――それは是非聞かせてもらいたい」
ボリスは満足そうに頷いて、
「いいだろう。まず、私ボリスだが、師はかの有名な――」
ボリスの身振りを加えた口上は長々と続いた。高名な師を持ち、優れた才を見込まれて誰よりも早く聖輝士隊へと誘われたが、運悪く怪我を負って辞退。乱暴者が揃うバリウム家の若造達を懲らしめ、紛争地域に立っては南方の異教徒を一度の戦闘で五十人屠った。先祖は過去に各地各門の総督や将を務め、その功績からターフェスタ、リシアより勲章を授かった事は数え切れないほどである。
絶え間なく語られる武勇伝。一つずつの話を聞くたび、クロムは喜びに咽びつつ、明朗な相槌を打ってボリスの言葉を称賛した。
次第に張っていく胸、天井へと突き刺さりそうに上がる鼻先。誇らしげに語るボリスへ拍手を送るクロムは、口内に溢れる唾液がこぼれないよう、何度も喉を鳴らしていた。
「おい、お前。ネディム・カルセドニーの弟なんだってな。なにやら皆の家の事を聞いてまわっているようだが、喜べッ、当家、ダーカの由緒は半端ではないぞ――」
背後に突如現れた女輝士にそう言われ、クロムは彼女を一瞥してうんざりとした調子で言い放った。
「今私の耳は忙しい! 独り言なら壁に向かって勝手に喋っていてくれたまえ――」
ぽかんと、口を開ける女は勢いを削がれた様子でその場に立ち尽くす。その無言の視線すらを煩わしいと感じ、クロムはボリスの背を押した。
「――こんなうるさいところでは話に集中できん。もっと落ち着いた所で最初からじっくりと聞かせてくれないか。できれば一つずつ、きちんと紙に書いて残したいのでね」
「お? おおう……もちろんだとも、当家の纏わる話はまだまだこんなものではないぞッ、ちなみに私の剣は、過去の戦において曾祖父が敵将から奪い取った名剣で――――」
「あ、おい――行ってしまった、ぞ……」
二人、去って行った男達を見送ったミオトは、呆然としてその場に立ち尽くしていた。なにより、ここまで他人に興味を持たれないという経験はしたことがなかったせいもあり、呆けて所在なく、なんともいえない情けない心地に、次の行動をとることができずにいた。
ふと、立つ背後から漏れ聞こえる声に、ミオトは耳を誘われた。
「さっきの、変人に話しかけてたのはボリスだろう」
「ああ……悪い奴じゃないんだがな……ただ病的な見栄っ張り、虚言癖の持ち主というだけで……酔うとそれがまた一段と酷くなる」
「いいのか? あの変人殿、聞いた話を真に受けた様子だったが」
「俺たちが心配することでもあるまい。嘘つきと変人、互いに良き友を見つけたというだけの話さ。なんの害もない話だよ」
「それは……まあ、そうだな。似た者は互いを引き合うというが、まさにソレ、か」
名も知らぬ彼らの会話を聞き、名だたる変人に一片の興味すら持たれなかったという事実は、喜ぶべきことなのかもしれない。が、ミオトはどこか寒々しい敗北感に苛まれ、
「ふん!」
負け惜しみの鼻息を落とし、元いた席へと大股で戻っていった。
狂人に選ばれた彼がどうなるのか……言うまでもないですね。
開戦までは、もうあといくつかのエピソードを挟む予定で、現在書き進めています。
*
西日本豪雨災害により被害を受けた方々へ、心よりお見舞いを申し上げます。
命に関わるほどの酷暑が続きますが、どうかお身体に気をつけてお過ごしください。