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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
66/184

控えめな虜囚

 控えめな虜囚






 朝陽が香る。


 光の明滅と、はためく窓掛けの音。


 内と外を分ける境界から冷気が流れる。


 暖められた空気は程よく熱を下げ、柔らかな寝台に横たわる眠り人を緩やかな覚醒へ誘った。


 季節の終着に淀む冷めた空気へ、身を投げるように上半身を持ち上げる。大きな肩幅に筋骨たくましい身体を軋ませながら、起き上がったクモカリは、重く張り付いた瞼を懸命にこじ開けた。


 「いったァ――」


 脈打つように激しい頭痛に頭を押さえる。手入れを怠っていたため、指先で摘めるほど髪が伸びていた。顎から首筋をくすぐるヒゲの長さを感じ、かつてないほど堕落した日々を送っていたことを思い出す。


 「おはようございます」


 背後から清水のように透明な女の声がして、驚きに振り返る。そこには一人、若い女の軍人が品よく椅子に腰掛けていた。抱えるように持った湯呑から、冷気に抗って一筋の湯気が立ち上る。


 従士の軍服から受ける地味な印象からは不釣り合いなほど、彼女は美しかった。柔らかく微笑みながら、手にした茶をそっと差し出す。


 「あなた、は……」


 女は整った微笑みに一滴、木漏れ日のような優しさを落とし、


 「ジュナ、と申します。アデュレリアであなたに助けていただきました。あの時はありがとうございます」


 クモカリは思わず首を傾げた。頭を揺らしたことで一層、頭痛が激しさを増す。


 「っ痛――ごめんなさい……ぜんッぜん覚えてないわ……それに、ここはいったい……」


 頭を抱えつつ、クモカリはゆっくりと視線を動かし、周囲を探る。部屋の広さは二等の宿泊部屋といった程度。壁や床の色は薄暗く灰色に覆われ、壁には一面、飾られた無骨な装具や紋章を刺繍した軍旗等が並んでいた。そしてなぜか、部屋の片隅に大きな酒樽が置かれている。


 ジュナはクモカリの視線を追い、呟くように言う。


 「ここはムラクモ王国、領地ユウギリに属する深界の拠点、ムツキです」


 クモカリは息を忘れ、ジュナを凝視した。


 「やだ、ちょっと……ムツキって……あの、国境の……?」


 「はい、そのムツキです。ここは私の弟のために用意された上級輝士のための部屋とか。ここでは上から数えたほうが早いくらい上等な場所みたいですけど、まわりが厚い壁ばかりで少し息が詰まりますね。きちんとした窓があるだけ、贅沢は言えないのだけれど」


 矢継ぎ早に送られる情報に目眩を覚え、クモカリはジュナへ向けて両手の平を突き出した。聞き得た情報のうち、縁遠い言葉に注意を向ける。


 「まって……深界の拠点にある偉い人用の部屋って……あなたの弟さんって……」


 「ジェダです――私の弟の名前は、ジェダ・サーペンティア」


 その名、特に家名に驚き、クモカリは聞き返した。


 「サーペン、ティア……? あなたが、その……お姉さん?」


 ジュナは微笑を浮かべ、おもむろに髪に手を当てる。こめかみのあたりを掴み、ずるっと持ち上げると、たっぷりとした黒髪がごっそりとはがれ落ち、その下から、真昼の清流のように透明感のある淡い黄緑色の長い髪が現れる。


 少し湿った髪をかきあげ、僅かに首を傾けながら目を細めるジュナは、ぞっとするほど、造り物めいた美しさを漂わせていた。


 「改めまして、ジュナ・サーペンティアと申します」


 言いながら、ジュナはすっと、用意していた茶を再び差し出した。事態を未だ飲み込めぬまま、それを受け取るクモカリは、ジュナの左手甲に見える輝石の色に気づき、声を漏らす。


 「え……」


 茶を受け渡し、ジュナは自身の左手を撫でながら、若干の寂しさを混ぜた影のある顔で視線を流した。


 「サーペンティアにとっての私は、忌むべき落とし子なんです」


 「…………ごめんなさい」


 深くは聞かず、クモカリはただその言葉を伝えた。

 ジュナはまた、笑みを作る。今となっては、この美しい表情がどこか無機質なものに見えていた。


 「あなたが謝られることはありません。本当に、シュオウ様が言っていた通り、とてもお優しい方」


 その言いように、クモカリははたと目を見開いた。


 「そう、シュオウッ。あたし……アデュレリアで……彼に会った――」


 クモカリの独り言に、ジュナが首肯する。


 「不思議なご縁でした。あの時、あなたは中心街にある路地の片隅に。私達は人混みに疲れて、休憩のできる所を求めてあの路へ。人気のない路地はたくさんあったのに、偶然あそこを選び、あなたはそこに居た。とても悲しそうなお姿で」


 クモカリは自身が辿った経緯を朧気に思い出す。酒に溺れ、その魔力に頼り堕落していたこと。忘れかけていた逃避の根因が頭を掠めた瞬間、悲しみを伴う激しい頭痛に襲われ、喉の奥に焼けるような乾きを感じ、激しく咳き込んだ。


 「いけない――早く、それを飲んでください」


 ジュナに言われ、クモカリは渡されていた茶を喉へ流し込んだ。すっかり熱が冷めているが、今はそれが程よく、喉を潤すことに役立つ。


 呼吸を落ち着け、心配するジュナへ空になった湯呑を渡したクモカリは、頭に腕を当てながら大きな身体をベッドの上に横たえた。


 ――そう……そうだったわ。


 父の死という辛い現実を思い出し、目の奥を湿らせる。

 顔を覗き込むジュナが、クモカリの肩へそっと細い手を置いた。 

 無言の触れ合いから伝わる微熱が、ふと心を詰まらせていた瓦礫を押し流す。


 溢れ出た涙が顔を伝い、頬を濡らした。


 「……シュオウ様が言っていました、あなたが自分を呼んだのではないか、と」


 涙を拭い、クモカリはそっと微かな微小を零す。


 「そう……なんだか、その台詞が彼の声で頭の中から聞こえるみたい。前にもね、あったのよ。本当なら死んでてもおかしくなかったのに、そこには彼がいて…………。やっと飲み込めてきた。あたしがここにいるのは、彼が連れてきたから、なのよね」


 「そうです。アデュレリアに置いていくようにと言われても、心配だからと反対の声を押し切られて」


 クモカリは寝かせていた身体を起こし、

 「また助けられたのね……あたし。すぐ彼に会いたいわ、近くに居るんでしょ」


 ジュナは黒髪のカツラをかぶり直し、側に置かれていた敷地内の見取り図のような物へ、上半身だけを向け、窮屈そうな体勢で手を伸ばした。その不自然な仕草から、クモカリは彼女の足が微動だにしていない事に気づく。

 よくよく見れば、彼女の背後には足の不自由な人間が使うための支えの杖が二本、立てかけてある。


 「今頃はきっと中庭の隅にある訓練場に――この辺りのはずです。ひょっとしたら、雑用を言いつけられて忙しく足を動かされているかもしれません。きっと、弟も一緒に居るはずです。もし中庭に居なければ、西側の城壁のどこかにいると思います――朝食作りを手伝うと言っていましたから」


 どこか困り顔で言うジュナに首を傾げつつ、クモカリはジュナに礼を告げる。重い身体を揺らしながら部屋を出る寸前、部屋のどこかから視線を向けられているような感覚を覚え、振り向いた。


 「……なにか?」


 不思議そうに尋ねるジュナ以外、ここに人がいる気配はない。が、たしかに一瞬感じた何かに対し、酔いが残っているのだろうと、クモカリは自身を納得させ、部屋を後にした。




     *




 ムラクモが擁する重要な国境防衛の拠点〈ムツキ〉は、広大な深界の領域に巨木のようにずっしりと根を張り、佇んでいる。


 重々しい空気が漂う軍事拠点にあって、華やかな装いで勇ましく長剣を腰に下げる輝士達とすれ違う度、刺さるような視線を投げられ、クモカリは大きな身体を縮めて肩を落とした。


 早足で廊下を抜ける。広々とした中庭までたどり着くと、訓練に勤しむ従士達の掛け声が聞こえてきた。


 「あ……」


 目的の人物に、クモカリはすぐに気づいた。すらりとした身体に茶色い従士服を着て、黒く大きな眼帯をつける姿は遠目にも目立つ。なにより、東地には珍しい一色に染まった灰色の髪がひと目でそうと気づかせる。


 軍隊という場所で、従士として務めるシュオウの果敢に訓練に勤しむ姿を想像していたクモカリは若干、出鼻をくじかれた。


 シュオウは中庭で輝士や従士が訓練に励む横で、重そうな荷物を担いで忙しなく往復を繰り返している。


 その彼の様子を遠慮がちに周囲の者たちが気にしている。クモカリはすぐに、その原因に気づいた。


 「まあ――」


 シュオウと同様に、せっせと汗を流しながら下働きに従事している人間がいる。透明を思わせるほど淡い黄緑の髪を流しながら、造り物のように端正な顔立ちをした若い輝士の男だ。遠目にもわかる、目覚めた時に側にいた、あのジュナという娘と特徴を同じくする人物だった。


 「――どこの王子様よ……」


 立ち尽くすクモカリへ、荷を下ろして振り返ったシュオウの視線が合わさった。シュオウは控えめに破顔して大きく手を上げ、合図を送る。屈託なく再会を喜ぶ態度に、思わず目の奥がじわと熱を持った。


 指で示された廊下の片隅へ向かう。駆けてきたシュオウはすぐにクモカリの様子を伺った。


 「もう起きて大丈夫なのか」


 ほっとして目をうるませながら、クモカリはうなずいた。


 「……ええ、ごめんなさい、なんだかすごく迷惑かけちゃったみたい」


 シュオウは頭を横に振り、

 「なんでもない。それよりも、悪かったな、確認もせずにこんなところまで連れてきてしまった」


 クモカリは周囲を見渡し、難しく顔を歪ませた。


 「いかにも、これから戦争しますって雰囲気よね……縁のない世界だったから、ちょっと新鮮。正直、落ち着かないけどね」


 シュオウは頷いて、

 「いつでも出られるよう、話は通してある。運搬用の小規模な馬車隊の行き来も多い。その時がきたら、乗せてもらえるよう俺から頼む」


 アデュレリアに置いていくこともできたのに、シュオウがここまで自分を連れてきたのは、言葉通り、友の身を案じての事なのだろう。


 「ええ……ありがと……シュオウ」


 幾重にも意味を重ねて、そう礼を告げた。

 表情を和らげるシュオウの後ろから、あの見目麗しい輝士が顔を出した。


 「僕一人に雑用を押し付ける気なのかい」


 シュオウは不機嫌そうに眉を歪め、黙したまま溜まった汗を拭った。


 黄緑色の髪をした輝士の視線が、じっとクモカリを捉える。薄っすらと、降ったばかりの新雪のように張られた微笑が、その奥にある熱を隠している。まるで表情を持たない肉食動物のようだと、クモカリは感じた。


 「あなたがジェダ、様ね。あなたのお姉さんから――」


 言いかけで、ジェダが指を二本立て、前に突き出した。


 「そのことは秘密なんだ。彼女が君にそれを教えたのは、救ってくれた相手への礼を尽くしてのことだろう。人前では発言に配慮をしてもらえると助かるよ」


 クモカリは咄嗟に自身の口を塞ぎ、

 「――ごめんなさい、気をつけるわ」


 ジェダは首を振り、彩石の光る左手を差し出す。


 「ジェダ・サーペンティアだ。君の事は彼から多少聞き知っている。アデュレリアで、僕の大切な人を守ってくれたことに感謝している」


 出された左手を握る。ジェダの手からずっしりとした重さを感じ、クモカリは唇を濡らして礼を返した。


 シュオウは足を下げ、元いた場所へ親指を向ける。


 「この作業を終えたら俺の隊の朝飯を用意する。腹が減ってるだろ、味は保証できないが、食べていってくれ」


 シュオウの後に続くジェダが、意地悪そうに口を曲げ、

 「やれやれだよ。それも、僕が手伝うことになっているんだ」


 シュオウは不満げに口角を下げ、

 「ただ側に突っ立って味を見るだけだろ」


 「千年前の泥水に落ちた物でも平気で拾って食べる君にはわからないんだろう。君の料理の毒見役にどれほど勇気が必要か、少しは自覚するべきだよ。荷運びへの協力も含めて、僕の献身をもう少し評価してもいいんじゃないのかい」


 「俺がいつ手伝えと頼んだ――」


 二人、顔を突き合わせて言い合う姿は、まるで幼い兄弟喧嘩を見ているようだった。


 「ぷ――」


 クモカリは二人が交わす不毛なやり取りに笑いを漏らした。彼らの後を追いながら手を振り、


 「――待って、あたしも手伝うわ」


 天上から降りる日差しが頭を照らす。微かな暖かさは心地良く、優しい母の抱擁のように、身体全体へと伝わった。


 幾日ぶりか、覚えていないほどひさしぶりに心から笑ったクモカリは、言い合いをやめない二人を諌め、重い荷を軽々と持ち上げた。


 激しく頭を打っていた傷みは、いつのまにか消えていた。




     *




 「ふぐ――う、うう…………」


 厚い外壁に囲まれた日影の中で催されたシュオウ主催のささやかな朝食会は、やたらに通る野太い嗚咽に塗れていた。


 「食べながら泣くな、うっとうしい……」


 これ以上ないほど機嫌悪く、シュオウは目を潤ませながら零れ落ちる涙を調味料に食事にありつくシガを注意した。


 シガは筋骨隆々の腕で目を擦りながら、尖った犬歯を剥いて、


 「うるせえッ、勝手に涙が出てくるんだ。こんなまともな味のもん、食うのがひさしぶりすぎて俺の腹が泣くほど喜んでやがる――」


 言い切って、ずびっと鼻水を吸い上げ、残った湿り気を肩で拭き取った。


 「もぉ、汚いわね……」


 シガの隣に席をとっていたクモカリは、幼子を叱る母のような顔で、唾液で濡らした手巾で汚れたシガの肩を拭った。


 「うわ――俺にツバをつけるなッ、ぶっ飛ばすぞ、オカマッ」


 暴言を浴びせられたクモカリは動じた様子なく、シガの服に手巾を当て続ける。


 「あーら、頑張って美味しい料理を作った相手に随分な言いようじゃないの、礼儀がなってないんじゃない」


 言われ、シガは喉を鳴らしてきょろきょろと視線を迷わせる。


 「ぐ――」


 そんな彼らのやり取りを、半眼で口を曲げながら見ていたシュオウは、そのまま視線を自身の仲間達へと向ける。

 シガほどではないにしろ、彼らもまた幸せそうにクモカリの用意した朝食にがっついていた。


 「拗ねるなよ、君は料理人に向いていないというだけのことさ」


 横から半笑いを浮かべるジェダに言われ、シュオウは顔を背けた。


 「拗ねてない」


 シガの服から手巾を離したクモカリが、ひっそりとむくれていたシュオウへ困り顔を向ける。


 「ごめんなさい、悪気はないのよ。見てたらついつい手を出したくなっちゃって」


 シュオウは視線を広範囲に向けながら、

 「いや……おかげで皆喜んでる」


 シュオウが日課としていた食事の用意を始めて間もなく、その手際の悪さと食材の取捨選択の無知蒙昧さを見たクモカリは、食べ物に対する冒涜であると断罪し、料理人の権利を即座に奪い取ったのだ。


 シュオウが適当に買い集めていた食材を巧みに活かし、まるで別物の料理として完成させていく様を見て、超常的であると評したのはジェダだった。


 飲食店を経営していた実績もあり、クモカリの手際は、素人の目から見ても明らかに達人の領域にある。側溝に生えた得体の知れないキノコや雑草を嬉々として鍋に放り込んでいたシュオウでは、到底太刀打ちできるような相手ではなかった。


 クモカリは料理を喜ぶ集団のなかで、一部に固まって楽しげに談笑している村娘達に視線を投げる。


 「あなたのところにいるあの子達。手伝ってもらったけど、皆それなりに料理上手だったわよ。どうして彼女達にお願いしなかったの」


 不思議にそうに聞くクモカリへ、シュオウは後頭をかきながら応える。


 「……料理ができるかなんて、聞いてなかった。それに、皆俺のために集まってくれたんだ。だから、食わせるのが俺の役目だと……」


 「むしろ、士気を下げる結果になりかねないね」


 嫌味っぽく、ジェダが言った。シュオウは横目で一瞬睨み、すぐにそっぽを向いた。


 「足りねえ、もっと寄越せ」


 空になった食器を雑に突き出すシガへ、クモカリは手を突き出して拒絶した。


 「もうないわよ。あなた一人で十人分は食べたんだから、そろそろ満足したらどうなの」


 シガは顔中に苦い皺を溜め、

 「く――こんなんじゃツマミにもなりゃしねえ。くそ、おまえらッ」


 シガは食器を手に食事中の傭兵達へ歩を向ける。標的にされた彼らは互いに顔を見合わせ、勢いよく残りの食事をすべて胃袋へ放り込んだ。


 叫びながら怒りを向けるシガの声を耳に入れながら、シュオウが盛大にため息を落とした。


 「あいつの食欲は異常だ」


 「頭からつま先まで、全部胃袋が詰まっているんだろう」

 とジェダ。


 クモカリは困り顔で笑い、

 「きっと、あの身体を動かすのにたくさんの栄養が必要なのよ」


 「だとしても、食費がかさむ。与えれば、一日で百人分は平気で食べるからな」


 暗く落としたため息は、霧散することもなくシュオウの周囲に重く澱んだ。


 「それは……さすがに食べ過ぎよね……ううん」


 クモカリは額に指をあて、目を閉じて何事か深く考えを巡らせた。


 少しして、食事を終えた者たちが満足げな顔で各々に立ち上がり、仕事へ戻るとシュオウへ告げ、去っていく。


 「皆どこへ行くの? 訓練?」


 聞いたクモカリへ、シュオウは無表情に応じる。


 「ここ全体の雑用をやらせている。物品、装備の記録。物資の受け入れ、馬の世話。常にやることがあるからな」


 「そういえば、さっき見たとき、あなた達も荷運びなんてしてたわよね……ひょっとして、嫌がらせでもされてるんじゃ……?」


 心配そうに言うクモカリへ、ジェダが返す。


 「彼が自発的にやっているんだよ。ユウギリからムツキへ、部隊の移動に参加するのが遅れたことへの反省としてね」


 シュオウは黙したまま、クモカリへ頷いて見せた。


 「そう……そういえばあなた達、アデュレリアにいたんだものね。忙しい頃だったでしょうに」


 シュオウがジェダと目を合わせる。微かに頷きが返り、シュオウは最近の出来事をクモカリに説明し始めた。


 サーペンティアという家で、ジェダの置かれていた状況。ジュナの救出とその後のアデュレリア訪問。そして、すべてが片付き、ユウギリに戻った頃、すでにリーゴール将軍は残していた部隊を率いてムツキに入っていた事を聞かされる。


 シュオウの説明に、ジェダが言葉を付け加えた。


 「僕の顔とアデュレリアからの詫び状もあって、リーゴール将軍は不問にすると言っていたんだ。僕が見た所、将軍は怒っていた様子もなかった、わざわざ苦労を背負う必要はないと言ったんだけどね」


 「お前が説明している間、俺はずっと睨まれてた」


 「それは――」


 ジェダは視線を上げ、


 「――気づかなかったな」


 シュオウはクモカリを見て、

 「移動が遅れたついでにユウギリにあった物資の輸送を手伝ったんだ。その流れで、そのままここの雑用係を引き受けた」


 クモカリは二度、三度と頷き、

 「反省していますって、態度に示すのは悪くないけれど、必要以上の貧乏くじを引いている気も少しするわね」


 「……面倒な事は多いが、悪いことばかりじゃない。集団を支える底にいるからこそ、見えてくることもある。それに、ちょうど良く仕事を用意できた。集まってくれた全員を戦場に連れ出すつもりはなかったからな」


 シュオウは言って、汚れた食器を並んで片付ける娘たちを見る。か細い腕に華奢な身体。彼女らはどう考えても戦地で戦いに挑めるような者たちではない。


 「そう、ね……」


 娘たちの背に視線を投げるクモカリは、納得したように深く一度だけ頷いた。


 ジェダが冷めた顔で水を用意しシュオウへ差し出す。


 「君が私費で雇う労働力を無償で提供するのは、過剰な奉仕だと思うけどね」


 シュオウは何も言わず受け取った水を喉へ流し込んだ。


 クモカリは重く顔色を落とし、視線を下げる。

 「戦争、か。きっと、たくさん人が死ぬわね……」


 シュオウは空になった容器を置いて拳を握りしめた。


 「……死なせない。俺の隊は、一人でも多く生きてここへ戻らせる」


 瞬きもせず強く言ったシュオウへ、ジェダが冷めた声をかけた。


 「高速で駆ける輝士や広範囲を砲撃する晶士の力で戦場は埋め尽くされる。無力な歩兵に求められるのは精々敵の足止めと、数の不利を消すことくらいだ。戦場に立てば、兵の多くは死ぬ。輝士だって例外じゃないんだ、今からそれを受けいれられないなら、この後、心を乱す羽目になるぞ」


 「決めつけて、最初から何もしなければな。ただ黙って皆を死なせるために連れて行くつもりなんてない。生きて戻るために必要なことがあれば、すべてをやる」


 ジェダは肩を竦め、

 「君が直々に彼らを鍛えでもするつもりか。なるほど、十数年もかければ、それなりに使える戦力になっているかもしれないな」


 ジェダの言う皮肉をシュオウは理解していた。付け焼き刃で彩石を持たない兵を鍛えた所で、輝士や晶士を前に出来ることなど限られている。


 「――まずは装備を整える」


 「それって、防具なんかを用意するってことよね」


 クモカリの問にシュオウは首肯する。


 「腕を守る丈夫な装具、刃や矢を防ぐためのまともな盾も持たせたい。体力のある男達には重くて頑丈な鎧を着せてもいい」


 表情を変えず、ジェダがまたシュオウの考えに異論をかぶせた。


 「個々にそれらを持たせた所で輝士に狩られるだけさ。君やあの獣男、それに僕が守ろうにも必ず手に余る。だいたい、戦場で守ることにだけ心血を注いでいれば勝ちは遠のく。守勢より攻勢を意識させるべきだ。一人でも多く敵を殺せば、それだけ早く戦いは終わる」


 即座にシュオウは反論した。


 「自分で言っていただろ、輝士や晶士には抗えない。優れた武器を持たせても、相手に刃が届くよりも先に殺される」


 難しい顔で黙りこくるクモカリ。ジェダは微かに唸って深く瞼を落とした。


 シュオウはおもむろに空を見上げた。城塞の屋根の裏に鳥の巣がある。巣には三羽の小鳥がいた。口を開け、巣に足をかける親鳥に餌をねだっている。そこへ、大空から舞い降りた一羽の体躯の立派な大鳥が現れ、巣にいる小鳥達へ鋭い爪を向ける。


 現れた敵に対し、親鳥は即座に迎え撃つ姿勢を見せる。が、あまりに差のある力量の違いに、親鳥は外敵の攻撃を受け、巣から退いて空中へと身を投げた。


 その時、近くの屋根の裏から次々に、親鳥と同種の鳥たちが押し寄せ、小鳥達を狙う敵へと襲いかかる。二羽、三羽と次々に戦力が増えていき、数で圧倒された大鳥は、堪らず苛立たしげに鳴き、狩りを諦めて再び大空の彼方へと退いた。


 一部始終を観察していたシュオウは、ふと呟く。


 「……彩石を持っていても、同じ人間であることには変わらない。集団で当たることができれば、彩石を持たない人間でも、輝士を倒せるはずだ」


 「鈍足で固まっていれば、晶士の餌食になるだけだ。広範囲に平らな地面が確保されている深界戦で、現在のような戦い方が基本となったのには、それなりに理由と歴史がある」


 どっしりと鼻息を落とし、シュオウは立ち上がった。


 「機嫌を損ねたのかい」

 とジェダ。


 シュオウは前を見つめ、

 「残してきた仕事を片付ける。荷運び、掃除、物資の管理。やることは山積みだ」


 「仕方ないな……なら僕も――」


 立ち上がったジェダへ、シュオウは制するように手のひらを向けた。


 「言っただろ、皆に装備を用意する。お前にはその調達を頼みたい」


 ジェダは若干の戸惑いを見せつつ、

 「それは、かまわないが。ここにある物でよければ、僕からリーゴール将軍に貸してもらえるよう頼んでおくよ」


 シュオウは首を横に振り、

 「確認したが圧倒的に数が足りない。もともと正規の従士のために用意されている物だし、どれも古くて質が悪かった」


 「……つまり、外から買い付けろということ、か。今からの用意には骨が折れるな。この時勢だ、確保できたとしてもきっと足元を見られるぞ」


 シュオウはジェダに向き合い、頬を上げ強く凝視した。

 「――なんとかしろ」


 微笑を消して目を見開いたジェダは、再び頬を上げて笑み、

 「――ああ、わかったよ……まかせておけ」


 流した外套を翻し、威勢よく片腕に巻き付けたジェダは颯爽と駆け出し、城塞の奥へと姿を消した。


 「あの人、あたしから見ると少し怖いんだけど、あなたには良い相棒みたいね。あなたも頼りにしているみたいだし」


 温かい表情と声音で、クモカリが言った。


 「かけた手間の分は返してもらう。それだけだ」


 そう言った言葉の端々に、隠しきれぬ気恥ずかしさを漂わせているシュオウは、顔を見られぬようなにもない遠くへ視線を逸した。


 「それにしても、あなたの言う物を揃えたら相当な支払いになりそうだけど……お金は大丈夫? ぶっちゃけ、半端な金額じゃないと思うわよ」


 心から心配そうに聞くクモカリへ、シュオウは首を傾げつつ聞き返した。


 「覚えて、ないのか?」


 「えと……なんのこと?」


 きょとんとしている髭面のクモカリへ、彼の行った英雄的行為を聞かせるかどうか、迷った。


 「……あとで教える」


 「え~、なによ、気になるじゃないッ」


 戯けてシュオウの腕に掴まるクモカリの追求を躱しつつ、シュオウは中庭へ向けて歩を進めた。その腕を引くクモカリが、そっとシュオウを呼び止める。


 「ねえ」


 「ん?」


 「あたし、もう少しここに居てもいいかしら」


 返事に詰まり、シュオウは確認するように聞く。


 「ここは……戦場になるところだぞ」


 クモカリは眉を潜め、しかし微笑した。


 「あたしには人間を殺すことなんて考えられない。だけど出来ることもあるわ。ちょうど料理人としては貢献できそうだし……そう、節約だって得意なのよ」


 「……王都の店はどうする」


 「大丈夫、あたしが居なくてもちゃんと回ってるし、きちんと連絡もしておく。ここにいると…………いいえ、あなたの側にいるとなんだか落ち着くから。それに日常から離れた別世界に居るからかしら、気が紛れるのよ……」


 悲しさを押し殺したような、そんな顔をクモカリはしていた。

 シュオウはクモカリの正面に立ち、


 「さっきの料理、皆心から嬉しそうに食べていた。悪いが、夕食の支度も頼めるか」


 目に雫を溜めたクモカリは、ふさふさとした髭面で破顔した。


 「ええ、まかせといて」


 自信たっぷりに言うクモカリに礼を言って、シュオウはこんどこそ、自身の仕事場へと歩き出した。




     *




 地方、地域に根付く独自の文化があるように、所属する国によって戦い方にも個性は生じる。


 東方の輝士は速さを好み、重さを嫌う。

 纏う装具は最小限に。選ぶ馬は頑強さではなく、なにより瞬発力を重視する。


 戦場を縦横無尽に駆け抜け、素早く敵を蹂躙する。俊敏さこそを大事とするその心情は、ある種の信仰心にも似ていた。


 深界、灰色と白が支配する無情の世界において、縦列を成して行進する集団が在る。


 青黒い輝士服を纏い、硬い胸当てを揺らしながら馬を駆る輝士達。

 腰には長剣、一体となった人馬。その様相は輝士という名の下に存在を確立した者たちにとって、欠いてはならぬ不可欠な要素である。


 群れて進む輝士達の後ろを、足の太い四頭の馬が牢馬車を引き、その周囲を武装した従士達が厳重に取り囲んでいる。


 さらに後方、無数の荷馬車に紛れて行進する人の群れ。彼らは皆、茶色い従士の軍服に身を包んでいた。


 ムラクモ王国軍が組織したこの一団は、近衛軍と、各地方拠点に配属されていた従士、及び一部の輝士達によって構成されていた。


 識別のために与えられた名は第二軍。しかし、実際には指揮官の名をとり、アガサス隊と呼称されていた。


 縦列の中心にある牢車の側近く、ゆったりと馬を進める三人の輝士がいる。壮年の輝士を中心に、左には若い女の輝士、右には同じ年頃の男の輝士がつき、馬の頭一つ分ほど下がって追随していた。


 三名、それぞれに容姿は違えど、皆同じ家名を持っていた。

 アガサス家の当主バレン・アガサスを筆頭に、長姉テッサ、その一つ年若の弟レオン。家の名の下に、三人は常日頃、親子姉弟の間柄からくる強い結束の下、近衛軍での任に従事していた。


 「ご不便はございませんか、バリウム公」


 指揮官たるバレンは、悪意を持って獲物をなぶる、質の悪い肉食獣のような面構えで虜囚へ問うた。


 薄黒い牢馬車の奥から、くたびれて枯れた男の野太い声が返る。


 「上辺だけの配慮に感謝する、アガサス重輝士。とくにない、と言いたいが、今朝方にいただいた塩辛い干し肉のおかげで喉が乾いてしかたがない」


 バレンは息子のレオンへ目配せをした。

 レオンは刺々しく、睨みつけるような顔で父へ頷き返し、馬の背に下げていた水筒に手を伸ばす。が、振って中身を確認するレオンは、棘のある顔相をさらに暗く歪め、悔恨を口にした。


 「しまった……」


 奥から突如、レオンに向けて水筒が放り投げられる。慌てて受け取ったレオンは、隣で騎乗する姉のテッサを睨みつけた。


 「レオ、支度を怠るのはあなたの悪い癖よ。確認はかならず二回、可能なら三回してもいい。ずっと言ってるでしょ」


 姉弟で同じく有する青い髪は、父親譲りの血の特徴である。テッサは片目に落ちた髪をかきあげながら、鋭い眼光で弟を睨めつけた。前にした者をひるませるほど、その目が放つ禍々しさは凄まじい。


 「気をつけるよ――父上、これを」


 暗く目つきの悪い顔で、レオンは父へたっぷりと水の入った水筒を手渡した。


 三人それぞれ、互いを見る目は険しい。が、そこに一切の悪意はない。それはアガサス家の血の特徴の一つだった。代々、領地を持たず輝士として戦場に参戦する生粋の軍人家系であるアガサス家に連なる者たちは、恐ろしく人相が悪かった。


 面を合わせれば怒られていると感じ、遠目に見られれば恨まれていると思う。あまりに醜悪な人相のため、アガサス家は彼らが本来生まれ持つ誠実さ、実直さからは程遠く、他家からの評価は著しく低い。


 互いをそれぞれ睨み合うように視線を交わすアガサス親子にとって、この顔はいたって平素の、ただの真顔にすぎなかった。


 「バリウム公、どうぞ――そのままお持ちください。暗くなる前までにはムツキへ入ります。もう一時、ご辛抱を」


 言って、恭しく、バレンは牢の中にいる虜囚へ輝士の礼をとった。

 水筒を受け取ったバリウム侯爵、ショルザイからの礼はない。沈黙の虜囚から視線をはずし、バレンは深界を行く自身の部隊全体を俯瞰した。


 「まるで亀の群れだ。このままでは到着が日暮れを越える」


 「陣頭はシオサ家です。噂話に夢中になり、馬の腹を蹴るのを忘れているのでしょう」


 レオンの言いように、おしゃべり好きの血筋である貴族家を思い浮かべ、バレンは喉の奥で唸り、曖昧な返事を渡した。


 天上を見上げつつ、バレンは後方に控える輝士へ呼びかけた。


 「――モートレッド輝士」


 馬の歩を早め、参上を告げた輝士、アイセ・モードレッドはバレンの強面を前に、唇を噛み、裏返った声で喉を鳴らした。


 「は、はい……あの……なにか……」


 ちらちらと視線をそらしつつ、顔色を伺うように見る顔に、バレンは慣れた様子で淡々と駆け出しの輝士へ指示を飛ばす。


 「我々は先頭につき歩速を上げる。その間、バリウム公につき、なにかあれば即座に知らせにくるように」


 アイセは緊張した面持ちで頷き、

 「は、はい――しょ、承知致しました、アガサス重輝士ッ」

 そう告げて輝士の礼をとり、ぴたりと牢馬車の横に馬をつけた。


 「レオ、テッサ、のろまな前足に活を入れるぞ――」


 子ども達の名を呼び、バレンは威勢よく馬を走らせた。

 小気味よく承知を告げるレオンとテッサもまた、風を切って父の背を追いかけた。




     *




 昼と夜の境に、無事深界を渡りムツキへ到着したアガサス隊は、出迎えたムツキ司令官、ニルナ・リーゴール将軍からの歓迎を受けた。


 薄雲に覆われた空はすでに暗い。灯された火から音が弾け、焦げの匂いが爆ぜるように四散する。季節の風が熱と臭気を連れ去る一瞬の後、人の生み出す鉄と汗の匂いだけが停滞し、中庭に澱んだ。


 「無事な到着、ご苦労であった、アガサス重輝士、各方」


 将の衣に身を包み、出迎えたニルナに対し、バレンは輝士の礼で応じ、深々と頭を垂れる。背後に控えるテッサ、レオン、そして参戦した各貴族家の当主達やその名代が前に立ち、一様に礼をとった。


 「ムツキ司令官、ニルナ・リーゴール将軍閣下。近衛、第二軍、各家からの参陣輝士、晶士。そして我がアガサス家一同、馳せ参じました。第二軍はムツキに合流、以後、我軍は東征王の名にあやかり、北伐軍ライサリアを尊称します」


 バレンの目配せで、レオンが恭しく細長の木箱を持ち出した。

 王家の紋章が刻まれるその箱を前に、ニルナは立ち上がり、掲げられた箱の前で礼をして跪く。同時に、この場に出席する者たち全員が膝を折った。


 掲げた木箱をニルナの前に差し出し、レオンは硬く声を張った。


 「王家より、敵を打つ剣を――ヴラドウ元帥閣下よりのお言葉です――剣を持ち、北風を薙ぎ払え――」


 「はッ、御命を拝し、必ず敵を打倒するとお誓い申し上げます――」


 ニルナは頭を上げ木箱の蓋を開けた。青の軍旗に包まれた剣を取り、拝むように頭上に掲げる。


 口々に皆が祝いの言葉をニルナにかける。一見華々しい儀式の空気に包まれる雰囲気にあって、しかし、居並ぶ諸家の代表者たちには、心からそれを喜んでいる様子の者は、ほとんどいなかった。




     *




 最高司令官の執務室にて、息子と娘を連れたバレンは、背をもたげて椅子に腰掛けるニルナと向かい合っていた。


 横に控える若い輝士が一礼してバレンに左手を差し出す。


 「お会いでき、光栄です、アガサス重輝士。私はニルナの子、アスオン・リーゴール、このところ重輝士としての格をいただきました。どうぞお見知りおきを」


 手を合わせ、互いの石の重みを感じつつ、バレンは丁寧に礼を返す。


 「ご挨拶、感謝を。バレン・アガサス。後ろにいるのは娘のテッサ、息子のレオン。共々、よろしくお願い致します……しかし、この若さで重輝士とは、先が楽しみでありますな、将軍」


 ニルナは片頬をあげて笑み、それを即座に消した。


 「なにぶん、まだまだ若輩ゆえ未熟者にすぎない。過分な階級をいただいたと、親としては身が縮まる思いがしている」


 厳しく言うようでいて、アスオンを見るニルナの顔は、母の慈愛に満ちていた。


 「さて――」


 改まって社交辞令に幕を落としたニルナは、中庭で出迎えた勇ましい姿はどこへやら、軍服をゆるく着崩し、肩肘に体重をかけるように身体を崩す。そのままの姿勢でバレンに向け、言葉をかけた。


 「――バレン・アガサス重輝士、副官としての着任を認める。遠路、ご苦労であった」


 言われ、バレンは頭を垂れた。


 「は。閣下の手足となり、命を賭して役目を果たす所存。元帥よりお預かりした捕虜を含め、帯同した兵に消耗はありません。存分に力を発揮することでしょう」


 「捕虜、か……グエン様はまた、おかしなものを持ち込まれたものだ。北の田舎領主バリウムがなぜ、単身ムラクモで囚われの身となったのか」


 バレンは一瞬、言葉を詰まらせる。


 「……詳細は把握しておりません。が、推測を申し上げるならば、恐らくターフェスタ大公の意を伝えるための使者として王都に来ていたのでは、と」


 ニルナは傾げた頭を中指で支え、

 「ふむ――具体的な処遇について、グエン様のご意向は」


 「は。いかようにも、と」


 ニルナは瞼を落とし、天井を見上げた。

 「それは、一番難儀なご命令だな」


 バレンは険しい顔で、前のめりに進言する。


 「バリウム公はターフェスタ次期国主の叔父であり、武将としての名声も得たお方。いずれにせよ無碍に扱うべきではないと考えます」


 薄く目を開いたニルナは、皺を溜めた顔に嘲笑を貼り付ける。


 「とはいえ、その身柄を相手に抑えられていながら、ターフェスタは国を挙げての戦を申し込んできたのだ。人質としての価値は皆無に近い。開戦の日取りをもって、景気づけに相手方の前で首を跳ねてやるか、それとも、見せしめに石を落とし手首を焼き付ける、か……使いみちなど、その程度しか思いつかん」


 バレンは一層険しく眉を下げ、

 「失礼を承知で言わせていただきますが、現場での指揮を執る者として、そのような行いは承服いたしかねます」


 バレンの言いように、怒るでもなく、ニルナは若干顔に影を落とした。


 「……それなのだがな、少々、役割に変更を加えることとなった」


 椅子から身体を起こし、姿勢を正したニルナに、バレンはため息を漏らすように聞いた。


 「はあ……?」


 ニルナはアスオンへ目配せをした。微かに頷いたアスオンは一歩を踏み出し、姿勢を正して屹立する。


 「このアスオンを司令官代理として、前線での指揮を執らせるつもりでいる。アガサス殿には、実質的にその補佐についてもらいたい」


 バレンは一瞬、なにを言われたか理解に苦しんだ。背後から息を飲む気配がして、ようやくニルナの言葉の咀嚼を終える。


 「……は。ご子息が戦で指揮を執られる、という話でありますか」


 ニルナは頷き、再び身体を仰け反らせる。


 「貴殿も存じているだろうが、私は主に内務において力を発揮し、結果として現在の階位をいただいた身。戦場での機微、流血の作法は持ち合わせていない。が、アスオンは若く、親としての目を抜きにしても文武に長ける。経験豊富なアガサス殿の協力があれば、この戦を糧としてその本領を発揮できると期待している」


 「……統率者の立ち居振る舞いは全軍の士気に影響します。ご子息では若きにすぎる。戦場を経験してきた歴戦の輝士であるほど、不満を持つ者が増えましょう」


 バレンの言葉に、アスオンが気弱な顔で頭を下げる。


 「お気持ちは重々理解しているつもりです。が、どうか、お怒りを収めていただきたい」


 「……は?」


 宥めるように言われ、バレンは疑問を抱いた。


 「――父上、お顔が」

 斜め後方から小声でテッサに指摘され、バレンは即座に自身の顔面をこね回す。


 「ご無礼、お許しを。この顔は生来のもの、決して怒っているわけではないのです」


 咳払いをしたニルナは言葉を急かした。


 「これは最上級指揮官からの命令と受け取ってもらってかまわない。アガサス重輝士、できれば何も言わず受けほしいのだが」


 目を合わせたアスオンは、瞼を落とし僅かに頭を下げる。バレンは睨むように凝視するニルナから視線をはずし、床に落ちた影を眺めながら頭を下げた。


 「……承知、いたしました」




     *




 部屋を出て、人気のない廊下を歩きながら、レオンが苛立ちのまま声を荒げる。


 「話が違いますッ、戦に疎いリーゴール将軍は象徴として、戦場での実際の指揮は父上が執るという話であったはずッ」


 「声を落として、レオ」

 テッサの注意を受けても尚、レオンは鼻息荒く強く足を踏みしめる。


 「元帥に直接訴えましょう、私が単騎でまいりますッ、今ならまだ――」


 「ならん――」


 野太く重い声が一本に伸びる無骨な廊下に響き渡った。

 驚いて足を止めた息子へ、バレンは諭すように言葉をかける。


 「――我らアガサスは弱小の家。リーゴールは大家であらずとも他方に顔が利き、この度の戦においてはかのサーペンティア家が後ろ盾となっている。睨まれればこの後、お前たちの立場にいらぬ障害を設けることになりかねん」


 「ですが、ことは面子の問題ではありません。多くの兵の命、国防に纏わる大事ですッ」


 重く、深い溜息だった。息を吐ききったバレンは、音もなく胸を膨らませ、

 「流れに身を任せよう。我らが力を発揮し、アスオン殿を上手く補佐すればいいのだ。勝てば、大概の諸問題は些末な事として片がつく」


 「……聞く耳をお持ちであればいいのですが」


 不安げにそうつぶやいたテッサ。レオンは黙り込み、怒りに満ちた醜い形相で歯を食いしばって顔を落とす。が、父であるバレンにはわかっていた。レオンのその表情は、怒りではなく不安なときに見せる顔である、と。


 「若いが、穏やかな気性と実直さは見て取れた。御母上の言うように、将としての才もお持ちであればよいが」


 寄る辺のない期待に身を任せるには、この戦は大舞台にすぎる。バレンは無言のまま、心中に湧く不安を押し殺した。


 「お三方、仏頂面を並べて、なにかご不快な事でもありましたか」


 廊下の先から、意地の悪い猫のように、鼻の奥を詰まらせたような高い声が響く。先から現れた輝士、イレイ・シオサは、にやついた顔で片手を腰に当て、つんと顎を突き出した。


 金髪の巻き毛を指にからめながら、長い足の踵で大げさに靴を鳴らしながら歩み出る。西方出身の血統には珍しい浅黒い肌をした男で、軽薄な雰囲気はそのまま、彼の性格と人間としての出来を、根本から如実に表している。


 「シオサ硬輝士――先の相談をしていたにすぎません」


 応じたテッサに、イレイは片眉を吊り上げて、

 「それはそれは。アガサス家は代々戦場を住処とし、弾け飛ぶ血肉を浴びるのを好むのだそうで。そのためのご相談とあれば、このイレイ・シオサにも、その手法をご伝授いただきたいものでありますな」


 鼻息荒く足を踏み出したレオンを、バレンが腕を出して押し留めた。


 「深界を行く行軍は人馬ともに疲弊する。今日のところは早々に食事を済ませ、休むのがいいだろう」


 「たしかに、道中急かされたおかげで体力を使いました。お言葉通りにしたいところですが、私はリーゴール将軍主催の夜会に招かれておりまして――――ところであなた方、アガサス家にも当然、招待状は届いているのでしょうな」


 わざとらしく聞くイレイに対し、テッサが冷たく言い放つ。


 「私達はしなければならない事で手一杯ですので。戦を控え、勝利を得るより先に美酒に酔いしれる余裕はありません」


 テッサの皮肉を浴びてもなお、イレイは余裕の笑みを崩さない。


 「いや、それは申し訳ない。私などに時間をとらせてしまって。では、これにて失礼をさせていただきますよ――」


 まるで扉を押し開くように、イレイは三人の中に割って入り、強引に廊下の中心を押し通る。

 斜めに身体を除けながら、見送った三人は、しばらく無言でその背を見つめていた。


 「リーゴールの夜会…………お誘いはありませんでしたね」


 ぽつりとこぼしたレオンに、バレンは神妙に頷いた。

 「うむ」


 ため息を落としたテッサは、

 「今に始まったことではないでしょう」


 咳払いをしたバレンは、

 「これより、城塞内部を見て回る。レオン、お前には人探しを頼みたい」


 「はい……? いったい誰を」


 「グエン様に最後にお会いした際、とある従士について言われたのだ……その者を上手く使え、と」


 レオンと隣で話を聞くテッサは不思議そうに首をひねった。


 「グエン様が、一人の従士を使え、とおっしゃったのですか」


 バレンは深々、首肯する。


 「なにげなく、という調子ではあった。あまり深く語られてはおられなかったが、気になってな」


 「はい、父上がそうおっしゃるのなら。それで、名前や特徴は」


 バレンは口を開きかけ、喉を詰まらせた。


 「……名を聞いたはずだが、失念した。私も歳だな……」


 苦笑いをする子どもたちの前で、バレンは頭を掻いた。


 「あのグエン様が気にかけるような人物なのでしょう。なら、いずれか目に留まるはずです」


 言ったテッサに、バレンは頷き返す。


 「一晩眠れば思い出すかもしれん。今はひとまず、出来ることことから片付ける。さあ、軍の現状把握に努めるぞ」


 「お供いたします、父上」


 伸びた姿勢のまま歩みだすバレンに、勢いよくレオンとテッサが後に続いた。




     *




 「はッ――ひさしいな、アスオンッ」


 快活な笑声と共に打ち合わせた互いの手の平を強く握りしめる。

 イレイは旧友の名を呼び、再会を喜ぶ気持ちを全身から伝えた。


 「イレイ、変わらないな、君は」


 アスオンは宝玉院時代の友と強く手を重ねつつ、過去の思い出のいくつかを紐解いていた。


 イレイ・シオサは対する相手を圧倒するほど、ギラついた快活さを秘めた人間だった。有する彩石の能力が身体能力を大幅に向上させるものであったことも影響している。彼はある種の乱暴者という区分に属する人間であり、同時に貴族としての彩り豊かな華を持つ人物でもあった。


 遠く、シオサ家に取り込まれた南方人の血が影響して、赤みを帯びた色の濃い肌をしているが、その色調は輝くような金髪と相まって、美しく重厚な貴金属を連想させた。


 「俺より先に出世するなと、あれほど言っておいただろッ」


 イレイはアスオンの首に腕を回し、拳で頭をこねくりまわした。


 「――やめてくれ、君の力でそれをされると洒落ではすまないんだ」


 「他人より良い思いをした分のツケを安全に先払いしてやっているんだ、黙って受けろッ――」


 アスオンを拘束したまま、イレイは苦笑いで様子を伺うニルナに願う。


 「――リーゴール将軍、アスオンをお借りしてもよろしいか。旧交を温めるついでにムツキを案内させたいのですが」


 ニルナは片手の指四本を二度払い、

 「わざわざ用意させた最上級の食材を無駄にしないのなら、好きにしなさい」


 イレイは歯を剥いて笑い、

 「御母上の許可がでたぞ、アスオン――」

 言って、アスオンを引きずったまま部屋を後にした。




 「まったく、君は本当に乱暴者だ……これでも僕は上官なんだぞ」


 廊下を歩きながら、アスオンは首の付根を抑えて苦い顔をした。


 「言っていろ。この戦で功を上げ、すぐに追いついてやるさ」


 互いに顔を合わせて笑みを浮かべる。似たようなやり取りを、候補生時代に数え切れないほどしてきたと、アスオンは思い出していた。


 「しかし、御母上は流石だな――上手くやったものだ」


 上階をぐるりと回りながら、受け取ったその一言に、アスオンは顔を暗くした。


 「この戦の旗手がリーゴールとなったこと、過分な事ではないかと、正直落ち着いた心地はしないよ」


 「当然だろう。ここへ来るまでの間、どれほどお前の家の名を聞いたかわからん」


 アスオンは苦笑し、聞いた。

 「きっと、良い話ではなかったんだろう」


 イレイは鼻で笑い、

 「言うまでもない――先程、執務室近くの廊下で醜いアガサス家とすれ違ったが、お前のことを愚痴っていた様子だった」


 アスオンは微かに顎を引き、

 「やはり……そうか……」


 イレイはアスオンの肩に手を乗せ、

 「気にするな、アスオン。アガサス家は代々の戦争屋。物事を型に押し込め、そこからはみ出す事を嫌っているだけだ。あの手の連中は結果を見るまで口をつぐむことをしない。名誉ある役を得たリーゴールへの嫉妬もあるだろう。そのような者共のことなどいちいち心配していては身が持たんぞ」


 「ああ、わかっては、いるんだけどね……」


 イレイはアスオンの肩に乗せたてを強く握りしめる。


 「案ずるな、アスオン。このイレイ・シオサがお前の補佐をしてやる。先の小石を払い除け、お前に剣を向ける者の腹を殴り、口を開けて跪かせてやるさ」


 「……僕は重輝士だ、まだ副官を持つ身分にはないよ」


 苦笑して言うアスオンから手を離して、イレイは頬を上げて前を見る。片手で広げた手のひらへ、強烈な自身の拳を叩きつけた。


 「お前からの手紙で、事を知ってからすぐ、シオサに連なる者の中でも退役したかつての猛者達を引き連れてきた。連中は未来のシオサ家当主の命令には忠実だ。アスオン・リーゴールの躍進に多いに役に立つ事だろう」


 アスオンは瞼を落とし、肩を竦める。


 「シオサ家の貢献は忘れないよ、副官殿」


 イレイは高らかに笑い、

 「ハッ、それでいい、殊勝な心がけ、気に入ったぞ」


 昔話に花を咲かせつつ、広いムツキの城内を回っていた二人は、階段を降り、一階の長廊下に足を下ろした。


 前を向くアスオンは突然に足を止めた。訝るイレイがその行いを問いただす。


 「なんだ、突然」


 緊張した面持ちで、アスオンは喉を鳴らして視線だけを前へ投げる。


 「ジェダ様だ――サーペンティアの……」


 小声で言った名を聞き、イレイが息を飲む気配が伝わる。


 先の廊下から歩いてくる三人の男たちの姿があった。

 先頭を行くのは灰色の髪に大きな眼帯をした従士服の青年。背後から仏頂面でその後を行く巨体の南方人と、従士服の青年に付かず離れずの距離で何事か語りかけている様子の輝士、ジェダ・サーペンティアの姿がある。


 一瞬言葉を失ってその様子を伺っていたイレイはアスオンに強く言う。


 「お前のほうが立場が上だ、堂々としていろッ」


 アスオンは硬直して動かない。石のように硬くなった身体で立ち尽くしていた。


 やがて、前から来る三人と、互いの息を感じられるほどの距離に近づく。アスオンは壁際に引き下がり、頭を下げた。直ぐ側で同様に一歩身を引いたイレイから、苛立たしげな舌打ちが微かに聞こえる。


 距離がさらに縮まり、三人が交わす会話が耳に届いた。


 「――いくらなんでも高すぎるんじゃないのか」


 従士服の青年が言うと、ジェダが冷ややかに反論する。


 「言っただろ、圧倒的に売り手が有利な時なんだ。多少ふっかけられるくらいは当然の事と思っておいたほうがいい。だいたい、用意が間に合うという保証も得られない話だ。間に合わせる、という名目でさらに金額を上乗せしてくるのは目に見えている」


 背後にいる巨体の南方人が声を荒げ、

 「一発ぶん殴れば半額くらいにはなるんじゃねえのか」


 「それをしたければ好きにすればいいさ、ただし、ここを出て一人になってからにしてくれ。僕は忙しい、これから再交渉と別の可能性も探りたい。眠る間も惜しいんだ。くだらない言葉で耳を汚さないでくれ」


 すれ違う間際になり、不遜な態度を見せていたイレイが突然頭を下げて喉を鳴らした。友人の変化に戸惑う間もなく、道を譲ったアスオンは頭を垂れながら挨拶をかける。


 「ジェダ様、ご機嫌はいか――」


 伺いの途中で、ジェダら三人は会話を継続したまま、アスオンの前を素通りしていく。


 存在に気づかれた様子すらなく、先へ歩き去っていく背を見つめるアスオンは、ただじっとその様子を見つめていた。


 三人の姿が消えた後、隣に佇むイレイが頭を下げたままなのに気づき、アスオンは首をかしげる。


 「どうしたんだ、もう――」


 震える声で、イレイの言葉がアスオンの心配を遮った。


 「あの南方人……あんなの、どこから沸いて出た……」


 「あれは、あの灰色髪の従士長が個人的に雇っている傭兵という話だったが。どうしたんだ……?」


 脂汗を滲ませながら顔を上げ、目を震わせるイレイ。返事をせず、ただ黙って前へ足を向け、早足で歩を進める。


 事態を飲めぬまま、アスオンはその後を急ぎ追いかけた。何事か理解に及ばなくとも、ただ、旧友が酷く怯えていることだけは、アスオンにもわかっていた。




     *




 監禁、拘束といった目的のために作られた部屋。いわゆる牢獄には、ある一定の臭い、色が付きまとう。


 不潔なままの人間を長期間押し込めておくことで発生する強烈な体臭。不衛生な環境が生み出す不浄の物。それらが放つ臭いと共に、囚えた者を逃さないという目的のため、堅固な造りを求められるそこには、必然的に光が届きにくい環境となりやすい。


 暗く、灯りは最小限。自然、その空間を占める色のほとんどは闇が落とす黒となる。


 シュオウがそこへ足を踏み入れた瞬間、場の空気が一変するのを感じ取った。目の届かぬ黒で塗れた光景と鼻の奥を抉るような臭気が漂っていたのだ。


 奥から複数人の気配を感じ、シュオウは帯同するシガを下がらせ、自らも入り口の脇に戻って待機した。


 下卑た嗤いを交わしながら、三人の若い輝士達が現れる。彼らはシュオウとシガに気づかぬまま、背を向けて廊下の奥へと消えた。


 改めて牢獄へ足を踏み入れたシュオウに対し、背後からシガが嫌気に満ちた声で不満を述べた。


 「クソみたい臭いだぜ、鼻が曲がりそうだ。囚人の世話なんてよ、どうして俺らがやらないといけない。お前はここに戦いに来たんじゃねえのか。あの男女の件にしてもだ……くだらねえ寄り道ばかりしやがって。俺がお前の隊を鍛えてなきゃな、今頃は連中、戦を前に怯えて尻を並べてぶるぶる震えてたはずだ。一言くらい感謝を言ってもバチは当たらねえぞ」


 前後左右から反響して届くシガの声に、シュオウは軽く重みのない声音で応じた。


 「お前にまかせていたら、いつか全員で殺し合いになる。誰が感謝なんてするか」


 アデュレリアからユウギリに戻った際、シュオウが最初に見たのは縄を四方に張り巡らせた檀上で、隊の男たちが拳で殴り合う光景だった。互いに血反吐を垂らしながら拳で打ち合い、それを見守る者たちは歓声を上げて囃し立てながら、誰が勝ち残るかを賭けていた。その悪辣な賭博の胴元は、言うまでもなくシガだった。


 ほらみろ、と言わんばかりのジェダの視線に傷みを覚えつつも、シュオウはシガを責めることはできなかった。彼は一応、シュオウの留守中、誰一人欠くことなく隊の維持はしていたからだ。しかし、皆のなけなしの食事を回収してまわったりと、シガの悪行は数知れず、素直に褒める気分に至れなかったのは、仕方のないことだという自負がある。


 進んだ先に無数の檻が並ぶ部屋があった。極端に薄暗いその部屋の奥にある牢の一つに、その人物はいた。


 伸びきった髪と髭、薄汚れた服を纏い、黒々とした地面に尻をつけて座り込む、一人の男。痩せた身体で、僅かに見える胸元には骨とたるんだ皮が伺える。


 備え付けの灯りを持ち、シュオウが前に立つと、囚人は重そうに顔をあげ、疲れ切った顔で気だるそうに目線を上げた。


 「あいつら……俺に小便をひっかけていきやがった――」


 第一声の内容に似合わず、重く、威厳を感じる声だった。

 シュオウはこの男が誰か、聞いていた。

 北方の領主、ショルザイ・バリウムは、自身の服を顎で指し示す。そこは灯りを受け、てらてらと濡れたような痕が残っていた。


 ショルザイは尚、不満げに唸り、


 「――王都からここまで、礼節を持って俺を気にかけてくれてた兄ちゃんだったんだがな。ここへ来て、昔なじみとやらに会ってから、まるで人間が変わったみたいに嗤いながら、連中と一緒に俺をゴミみたいに扱いだした。まったく……群れた途端調子に乗るやつはどこにでもいるもんだが…………。神を信じぬ国だから、と言うのはたやすいが、こればかりは他所のことばかり言ってられんだろうな。俺も、若い頃には覚えがないわけでもない」


 饒舌に語るショルザイの言葉を聞き終え、シュオウは淡々とシガに指示を出す。


 「シガ――桶一杯、持てるだけの水を汲んでこい。掃除道具一式と、余ってるまともな寝具もだ」


 言われたシガはあからさまに嫌がった。


 「あ? なんでこんな奴のためにそこまでしなきゃならねえんだ。こいつは敵の捕虜だろ、どうせ拷問されて殺されるだけだ。大事にしてやる価値なんざねえだろうが」


 シュオウは正面からシガを見据え、

 「囚われて、一方的に相手の自由にされる人間の気持ち……理解できるだろ」


 黙って目を合わせるシガは、歯をむいて舌打ちをして、出口へ足を向けた。


 「――――待ってろ、一回じゃ全部用意しきれねえ」


 渋々といった様子でシガが道具の用意に向かった間、シュオウは新しい衣類と食事の用意をクモカリに頼むため、一人部屋を後にした。




 鍵を開け、牢部屋の中に入る。

 足元に転がった傷んで黒くなった芋を拾うと、側で座り込むショルザイが皮肉な笑声をこぼした。


 「それが俺の晩飯だとよ。後ろ手に縛って、俺に獣のように這いつくばって、腐ったイモを食えとのお達しだ」


 怒りと、僅かな悲しみを含む声。シュオウはしかし、


 ――十分食えるな。


 などと真顔で算段していた。


 ショルザイの両腕を縛る拘束具をはずしたシュオウは、正面に立ち、疲れ切った虜囚へ睨みを効かせた。


 「身体を拭くため、手袋をはずします」


 ショルザイは驚いたように顔を上げた。


 「いいのか、若いの…………絶対に抵抗をしないと、口ではなんともでも言えるぞ」


 シュオウは首肯し、


 「約束は必要ありません。なにかされれば、そのときは遠慮なく対応させてもらいます」


 ショルザイは鼻の穴を膨らませ、笑った。


 「たいした自信だ。が、不思議と舐められているのだとは感じない。いいだろう、長いこと風呂にも入れていないから、願ったり叶ったりだ。好きなようにしれくれ。一応言っておくが、俺には自殺願望はない。血に飢えた輝士だらけのここで暴れるつもりなど毛頭ないからな」


 ショルザイの服を脱がせ、シガの用意した水桶に布を浸し、丁寧に汚れを拭う。それなりに老いの気配を漂わせる身体は、痩せて尚、彼本来の頑強さの面影を強く感じさせた。


 「俺に親切にするのは、同郷の好というやつか」


 ショルザイは振り向き、シュオウの髪を見つめた。


 「物心ついた頃にはムラクモの王都に一人でいました。北の人間を見ても、同郷だなんて気持ちはわきません」


 ショルザイは目をシュオウの手へ滑らせる。白濁した石を一瞥した後、ため息を落として前を向いて俯いた。


 「ならこれは、心からの親切というわけか。同情かなにかだろうが、なんにせよありがたいよ。自分が落ちているときほど、他人の親切というやつは身にしみるな――」


 シュオウは黙したまま、作業に従事した。


 「――気になってたんだがな、あのデカイ兄ちゃんは南の人間だろう。見た所、とびきり上等な戦士と見たが、どうしてここで囚人の世話役なんてやっている」


 「あいつは……俺が雇っている傭兵みたいなもので」


 ショルザイは赤い筋が無数に浮かんだ目を見開き、

 「あれを、お前さんが雇ってるっていうのか」


 頷いたシュオウへショルザイは関心したように息を漏らした。


 「ほお……あんなのを金で雇えるなら、いくら積んでも惜しくはないんだがな――」


 言って、ショルザイは自嘲した。


 「――とはいえ、こんな体たらくじゃあ、虚勢にしか聞こえんか」


 直後に掃除道具を大量に担いで戻ってきたシガへ、シュオウは矢継ぎ早に指示を飛ばす。


 「ここをくまなく掃除しろ。風穴も塞いで、寝床も整えるぞ」


 だらだらと不満を漏らすシガは、ショルザイのために用意した食事を見つけると、物欲しそうな顔で凝視して腹の虫を一帯に轟かせた。


 「全部終わるまで飯はなしだ――」


 そう言い切ると、シガはぶつぶつと文句を言いつつも黙って指示に従い、慣れない手付きで牢部屋の掃除を始めた。


 一部始終を見ていたショルザイへ、シュオウは綺麗な着替えを手渡す。受け取りつつ、ショルザイは問うた。


 「若いの……あんたの名前を聞いてもいいか」


 「――シュオウ、です」


 ショルザイは二度、三度と頷き、

 「――シュオウ殿……バリウムの領主、ターフェスタの一将として、温情に心から感謝する。何かを返せそうにもないが、せめて礼だけでも受け取ってくれ」


 恭しく礼をするショルザイへ、シュオウは戸惑い、ただ、

 「はい……いえ……」

 と、ぶっきらぼうに答えるに終わった。




 シガの整えた寝床に身体を横たえたショルザイは、疲れ切っていたのか、あまり時も立たないうちに大きな寝息をたて、眠りについた。すぐ側に置かれたままの食器はすべて空となり、汁一滴も残さず綺麗に平らげられている。


 牢部屋から去り際、別の檻の側にしゃがみ込むシガへ、シュオウは問うた。


 「どうした?」


 シガは大きな拳で檻を握り、ぐりぐりと鉄棒を回しながら、

 「念の為、今のうちに細工しておこうかと思ってよ」


 呆れてため息を漏らし、シュオウは言う。

 「いったいなんの念の為、だ……」


 怒り顔で犬歯を見せるシガは、

 「わからねえだろうが。俺にとっちゃムラクモだろうがターフェスタだろうが同じようなもんなんだよ。なにかのきっかけで、また檻に放り込まれないともかぎらねえ」


 「そんな――」


 そんなことがあるものか、とシュオウはシガの懸念を一笑に付すことができなかった。


 「…………ばれないようにやれよ」


 笑ったシガは、

 「へ、簡単だ、こんなもん」


 自信たっぷりに、シガはショルザイが入れられた牢以外のすべての檻に、せっせと細工を施した。




     *




 「にょっきにょっき――」


 ジェダに割り当てられた部屋、その天井の一部をずらし、そこから頭を覗かせたリリカは、自らが発するおかしな擬音と共に蜘蛛の巣をつけた髪を逆さに流しながら空中に飛び出し、くるりと一回転を決め、音もなく華麗に着地した。


 「しゅたッ――ふきふき」


 適当な着地音を口にしたリリカは、丁寧に折られた手巾で、汗を拭う音まで無駄に再現しつつ、迎えたジュナへ一礼した。


 「ただいま戻りました、お嬢様――ぺこ」


 ジュナは、

 「おかえりなさい――」

 と迎えつつ、苦笑をし、リリカへ問う。


 「――あなたのその、不思議な音の表現はわざとしていることなのかしら」


 リリカは擬音を口にしつつ頷いて、左手の甲にある彩石を見せた。


 「父母の石は彩石ではありません。父の家系に何代か前に彩石を持った女性がいたそうですので、おそらく、その血がひょっこり頭を出したのだと。でもそのせいか、私は上手く力を操ることができません。常日頃、無意識に力を使ってしまっているらしく――」


 リリカは話を止め、部屋の中で突然派手に飛び跳ね始めた。両足を浮かせて床を踏み、狂ったように手をばたつかせ、頭の上で弾く。外に人がいれば飛び込んできてもおかしくない、それほどの騒音があがるはずの現状で、しかし、ジュナの耳に届く音は平素のまま、なんら変化がない。


 「音を消している……の?」


 リリカは動作を止め、自身でも要領を得ないといった表情で首を傾ける。


 「よくわからないです。おっしゃる通り、騒いでも音がたちません。でも、誰かの近くを思い切り走り抜けても風が起こらなかったりもするんです。そして、遡ること十数年前、私のこの能力がある悲劇を生みました」


 ジュナは唇を噛んで頷いた。


 「いったいどんなことが……」


 リリカはどこを見ているかよくわからない目を遠くへ向け、


 「あれは夏の暖かい空気が高い空に飲まれ消えていく頃の事。心地よい秋を迎える一時のとある晩に起こりました。幼かった私は仕事から帰った父がひさしぶりに家に泊まってくれることに大喜び。嬉しくて父母の後ろで飛び跳ねて抱っこを要求していたのですが、生来の癖のおかげで私という存在に気づいてもらえませんでした。父母は二人きりと思い込み、お仕事の事など、難しい話をしています。そこで、私は聞いてしまいました、とんでもないお話を……」


 ジュナは瞬きも忘れ、喉を鳴らした。

 「それで」


 リリカは重い表情で顔色を暗くし、


 「父が何かを言いかけ言葉を飲みました。一瞬の静寂、家の外からは夜の虫がうるさいくらい鳴いている声が聞こえてきます。母が何か察したように小さく笑い、あることを言いました。幼い私は意味がわからず、父母の背後から質問をします――それ、どういう意味――と。娘がそこにいると知らなかった父母は大慌て。なんでもないとごまかされ、そしてそれ以来、日常で音もなく生活をすることを止めるよう言われました。でもわざと音を立てる事は大変だったので、だったら、自分が本来たてているはずの音を声として出してしまうのが手っ取り早いのでは、と。そういうことです」


 ジュナは深く頷きを繰り返し、

 「そう。そういう事情があったのね…………でも、一つ気になるのだけど、あなたがその時に聞いたご両親のお話ってなんだったの?」


 リリカは感情の見えにくい顔で、

 「夫婦が交わす夜の約束です。その日からしばらく後、母は元気な赤ちゃんを生みました」


 「え…………と……あの……」


 言葉を詰まらせたジュナの白い肌が、首筋まで真っ赤に染まる。


 「この話、終わりにしますか?」


 ジュナは無言のまま、二回頷き、わざとらしく咳払いをした。


 「話してくれてありがとう。少しあなたの事がわかったみたいで、嬉しい」


 「そよそよ――」

 リリカは両手をぱたぱたと扇ぎ、ジュナに風を送る。


 「なに?」


 聞かれたリリカはぽつりと呟いた。


 「――まだお顔が真っ赤なので、暑いのではないかと」


 ジュナを顔を隠すように俯いて、

 「恥ずかしい、顔に出やすいのなら、これからは気をつけないと――」


 言って、ジュナは自身の頬を強く叩いた。


 「――ごめんなさい。本題に入りましょう。お願いしていたこと、聞かせてもらってもいいかしら」


 頷いたリリカはムツキの見取り図を取り、線を引いて目印をつけていく。


 「やはり、無数の抜け穴、塞がれた古い通気口や、改築のときに閉鎖された謎の部屋がたくさんありました」


 ジュナは見取り図を覗き込みながら関心したように首を振る。


 「やっぱり、流石に歴史が長いだけのことはあるみたい」


 リリカは現在の部屋から城塞の外壁の内側にある厩舎へ線を引く。


 「この部屋から直通でここまで出られます。軍の偉い人のために用意されていた抜け道だと思いますが、長い間整備がされているような様子がありませんでした。そのせいか、排水が流れ込んでいたような形跡が見られたので、おそらく、雨の日は使い物になりません」


 知り得た情報を頭に刻みながら、ジュナは首肯してリリカへ礼を告げた。


 「ありがとう、知っているのと知らないのとでは、大違い。大事な情報だわ」


 リリカは照れたように笑み、

 「にやり――――あの、さらに探るべきでしょうか。おそらくまだ未発見の通路や部屋があると思われますが」


 「それもお願いしたいのだけれど、あなたにはもっとしてほしい事があるの。とても、あつかましいのだけれど」


 「はあ……お嬢様のご命令とあれば。私は御館様の主命によって貸し出されているので、どうぞ、リリカをご自分の手足と思ってこき使ってくださいませ」


 しゃべる声に抑揚が少なく、目から受け取れる感情の色も薄いリリカは、どこまで心を持って発言しているか、わかりにくい。しかしそれでも、彼女は現状をそれほど嫌ってはいないと、ジュナは自身の感覚を頼りに信じていた。


 「このムツキという場所にいる人々について、出来る限りの情報を集めてきてほしいの」


 「……本気でしょうか。すごく面倒くさいし、時間もかかるのですが」


 ジュナは頷き、

 「とても大切な事だから」


 「お嬢様の下を離れる時間が増えます。私に与えられた第一の任務は護衛ですので。失礼ながら、御家から命を狙われる可能性があることをご自覚なされていたと思いますが」


 「ええ、だからなおのこと。サーペンティアはジェダがここにいることを知っている。なにかしてくるなら人間をここへ送り込まないといけない。だから、普段からここにいる人たちのことを把握しておきたいの。そうでなければ変化に気づくことができない、相手の手の内で動くような事は、絶対にしてはいけないから」


 「まあ、そこまでおっしゃるのでしたら……了解です。ですが、やっぱり護衛が手薄となることは避けるべきかと。弟君はよくご存知と思いますが、蛇の家には裏の事を担う組織が二つあり、それなりにねちっこく、面倒な連中ですので」


 ジュナは首肯し、

 「わかったわ、きちんと考えておきます」


 「……それで、集める情報の種類はどの程度でしょうか。顔の特徴と名前、役職程度でよければ、早くすむのですが」


 リリカはその場で走るように肘を曲げ、音もなく足踏みをする。

 ジュナは顎に手を当て、目線を天井へ向けた。


 「そう……あなたが今言った事に加えて、例えばその人が好きな事、誰とどんな関係があって、なにに不満を持っているのか。どんな夢を持っているのか。そういう情報があれば嬉しいわ」


 リリカは眉を下げ、

 「それ、性格や人間関係まで探ってこいと言っているのですよね。途方もない作業になるのですが……きっと、終わる頃には終戦を迎えているかと」


 薄くとも、うんざりとした調子が伝わり、ジュナはリリカの顔を面白がって笑った。


 「出来る限りでいいの。でも特に、この集団の中で他人を多く動かすことのできる人に関しては、今お願いした情報を集めてきて欲しい」


 「それって、なにか意味がありますか? ただの好奇心から知りたいだけではないのでしょうか。無為な作業を強要するのは、ただのイジメと思います」


 ジュナは寝台の脇に積まれた本の山を見た。すべて退屈しないようにとジェダがムツキ中からかき集めてきた物だ。


 「私ね、時間だけはあったから、たくさん本を読んできた。派手な恋や冒険をしたりする物語は面白いけれど、私が一番好きなのは一人一人、登場する人物を見ること。皆個性があって、他人との関係があって、それが物語の出来事に密接に繋がってる。多彩な本を読んで、知って、それで外に出た時に少し、思ったの」


 言葉を切ったジュナへ、リリカが続きを催促した。


 「……なにをでしょうか」


 「人を見ること、見たことについて考えること。私はそれが他の人より得意なんじゃないかって。ジェダには戦う才能がある。私は同じ卵から生まれた双子。だからきっと、私にもなにか得意なことがあるんじゃないかって――ただの自惚れと、虚しい願望なのかもしれないけれど」


 苦笑するジュナへ、リリカは淡々と告げる。


 「御館様とのやりとりを伺っておりましたが、ご安心ください、決してただの自惚れではないかと思います…………了解しました、お嬢様の願い、すべてこのリリカにお任せください――しゅぱッ」


 しゃきっと、彩石を前に掲げて謎の立ち姿を披露したリリカへ、ジュナは改めて感謝の意を伝えた。


 「とても楽しみ。実際に会って話すことができない人たちのことを知ることができる。そこからなにか得るものがあるのなら、ジェダやシュオウ様に、なにかのお役に立てるかもしれないから」


 リリカはよれた衣服を整えつつ、

 「まさか、ターフェスタの拠点までいって、敵方の人物を探ってこい、なんて言わないですよね」


 ジュナは息を呑んで、首を傾げ天井を見ながら、

 「考えてもみなかったけど、それってとても良い提案かも――」


 視線を下ろした時、そこにあったはずのリリカの姿は消えていた。

 くすりと笑むジュナは、一人、リリカが書き残していった見取り図へ目を落とした。




     *




 深界の拠点、ターフェスタの管理下に置かれる国境防衛の要、要塞アリオトの食堂にて、白い弓を背と胸で挟む一人の軍人の姿があった。


 「あれは、たしか……」


 配膳された食事を前に、食器に手を伸ばしたターフェスタ輝士の一人が、クロムを見て不思議そうに声を漏らした。


 「カルセドニー家の次男殿だ」


 応じた隣席に座る輝士がそう説明する。


 「カルセドニー……あの六家の……だがたしか、次男といえば、輝士にはならず、進んで監察隊に入ったとかいう有名な変人だったろう」


 「ああ、その変人殿で間違いない。見ろよ、夜の食堂だっていうのに、まるで戦に臨む寸前のような出で立ちだ」


 両者はそう言葉を交わし合い、じっと席につき、食事に目もくれず、武器の手入れに余念のない姿にため息を漏らした。


 「すごい気迫だな……ここまで緊張感が伝わってくる」


 二人に限らず、周囲にいる者の多くが、クロムのその並々ならぬ様子に目を奪われている。


 「なんでも、この度の戦が告げられてまっさきに、最前線での戦いに志願したとか」


 「憎きムラクモを打倒するため、並々ならぬ覚悟で臨んでいるのだろう。多少風変わりなところがあっても、やはり名門の血、か」




 関心する輝士達の奥、皆が囁く噂話などかけらも気にした様子もなく、手にした刃物を布拭きし続けている。この男の名はクロム。ターフェスタ公国の名門カルセドニー家の次男である。


 置かれた食事を前に、背を丸めて座り、凄まじく血走った眼光で、ただ愚直に武器を磨くその姿。


 感嘆と好奇の視線を送る皆が、口々に彼のやる気を称賛し、これまでの行いを噂する。だがしかし、この男がこの時、胸の内に秘めた思いを知る者は誰もいない。


 「ぐぬぬぬ――」


 目を見開き、上下の歯を強く噛み合わせ、尋常ならざる気配を漂わせるクロムの思考は、母国を捨て、敵国へ渡るという暴挙への企て一色に塗れていた。






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― 新着の感想 ―
ジェナさん怖かわえーとか思ってたら、 オチの変態にフフってしちゃった
[良い点]  「にょっきにょっき――」  ジェダに割り当てられた部屋、その天井の一部をずらし、そこから頭を覗かせたリリカは、自らが発するおかしな擬音と共に蜘蛛の巣をつけた髪を逆さに流しながら空中に飛…
[気になる点] ここのイレイはなんでシガに怯えてたんだ?
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