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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
64/184

二色のキセキ <前>

 二色のキセキ 1






 ジュナ・サーペンティアという人間にとって、人生とは失う事の連続だった。


 誕生してすぐ、父の家に連なる資格を失った。幼くして母を失い、その事が原因となり、双子の弟と共有できる時間を失った。時折会いにきていた父を失い、家族と過ごすささやかな団らんを失った。


 弟のジェダは貴族の一員になることを選んだ。

 姉を守るため。それはジェダが自ずから選んだ選択だった。

 しかし、現実は大人の手の平の上で転がされているだけにすぎなかった。


 ジュナはサーペンティア一族から存在そのものを憎まれていた。

 白く濁った石を持って生まれたこと。それはすなわち、高貴な血を継いできた者達の顔に泥を塗ることと同じだった。


 希少な身分に生まれた者達にとって、名誉とは、その日の食べ物や家族に向ける愛よりも尊いものだ。


 自分の石にも色があれば。

 そんな思いに、自らの手の甲を何度見つめたかわからない。

 憧れとも違う。ただ、皆とは違うのだという現実が、寂しかった。


 同じ時に生まれた双子の弟は石に色を持っていた。ほんの僅か、嫉妬に似た感情を抱いたこともある。だが、ジェダはまるで幸せとは縁遠い人生を送った。


 家から負わされる汚れ仕事に従事し、半分の血を同じくする異母兄弟達からいびられる日々を過ごすうち、ジェダはその性格を酷く歪めていくことになる。


 いつからか、弟は心の底の柔らかな部分を隠すようになっていた。

 外で経験したこと、見たこと、思いも、話す内容はほとんどが嘘だ。

 勇敢で綺麗な物語の裏には、いつも血と死に纏わる現実が隠されている。それは彼に課された義務であり、仕事だった。


 ジュナは弟がとくに有能な人間として生まれたことを知っている。周囲の出来事に細やかな配慮ができる目を持ち、武芸の素質も高く、輝士という特別な存在が用いる力を使いこなす才に秀でている。


 なにより、彼は本質的にとても利口な人間だ。ジュナにはそれがよくわかる。双子であればそれも当然のことといえた。


 ジェダは、狭い世界に閉じ込められた姉に対して、若干の幻想を抱いていた。か弱く、ただ世の流れに身を任せるしかない女人である、と。


 だが、彼は一つ忘れている。自らが持つ資質の多くを、同じ卵から生まれ落ちたジュナも持ち合わせているという事を。


 ――逆だったらよかったのにね。


 自らの輝石を眺めるジュナの表情には、曖昧に正負の感情が入り交じる。


 ジェダは多くの不幸を背負いながら、そして汚泥の中に放り込まれ、石を投げられても、どこかで微かに希望を残して生きてきた。それは無防備な従順さを生み、そこから絞り出した忍耐は、辛苦に悶え苦しむ時を残酷に引き伸ばした。


 もし、自分の輝石に色があったなら。父であるオルゴアはきっと、片割れの娘にも貴族としての教育を与え、輝士としたはず。不自由なく歩きまわることができ、異母兄弟達にもひけをとらない石の力があったなら。母を死に追いやり、大切な弟に地獄を見せた彼らを…………


 ジュナは妄想を止め、瞼の上に手の平を当てた。

 標のない闇に意識を投じる。

 暗い欲望は果てしなく、残酷な方法を用いた復讐という名の凶事を求めて乾きを訴えた。


 強固に薄暗い感情の出処が、先祖から流れる血にあると、ジュナは自覚していた。石に色がなくとも、彼らがそうと認めなくとも、ジュナはサーペンティアの血を継ぐ者なのだ。


 一族の者達は知らない。彩石を持たない母の生んだこの双子が、他の誰よりも、家の血の特徴を濃く受け継いで生まれたことを。


 ジュナは汚れた思いに蓋を乗せ、目を開けた。


 腰から下にぶら下がる、不自由な足を床に降ろす。それはまた、ジュナが失った物の一つだった。

 

 しばらく前まで、この家には不自由を補う支えがあった。ジェダが雇っていた、若く、誠実で気立ての良い家政婦だ。


 当分の間、ジェダに会うことができなくなる。その知らせと共に家を見張る看守が増員され、そして生活の助けをしてくれていた家政婦の少女は強制的に追いやられてしまった。


 また、ジュナは失ったのだ。


 見張り人たちは家の中には入ってこない。彼らは当然、ジュナの生活を助ける手とはならなかった。


 静まりかえった家の中。

 掃除をする手もなく、積もった埃は時と共に層が厚くなっていく。


 サーペンティア領主の城から届けられる食べ物は、みなどれも黒ずんで傷みかけた古い物ばかり。ジュナは無事な部分をどうにか探し、必要最低限だけを口に入れていた。贅沢を望んでいるわけではない。ただ、状態の悪い物を腹に入れれば、体調を崩してしまうという懸念からだった。


 ジュナは厚手の服を羽織り、水桶を手に、腰を擦って床の上を這う。やっとのおもいで外に出ると、扉の前に張っていた男達の視線が集まった。その中にいる一人は彩石を持つ女。以前からここの見張りとして勤めていたサーペンティアの遠縁に連なる人間だ。


 女は軽蔑に満ちた眼差しで床を這うジュナを見下ろした。前に立ちはだかり、下卑た笑みを辛うじて隠しながら、じっと言葉を待っている。


 ジュナは極めて冷静に、柔らかな顔で女を見上げた。

 「水を切らしてしまいました。汲みに出たいのですが、よろしいでしょうか」


 女は愉快そうに笑みを零す。なんらか、この行いに小さな自尊心が満たされるらしい。


 ジュナにとってはどうでもいいことだった。弟の安否を知るまで、なにがあろうと死ぬわけにはいかない。そのために、水の用意も食事の支度も、すべて自分一人でやらなくてはならない。


 女は道を開けた。ジュナは軽く頭を下げ、前へと身体を擦る。直後に、女はその手元に向けて足を突き出し、どうにかここまで持ってきた水桶を、離れた場所まで蹴り飛ばした。


 周囲で眺めている男達のなかから、冷めた笑いが聞こえてくる。

 ジュナは微笑の奥に感情を隠していた弟の顔を思い出していた。あの造られた仮面を嫌いだと思っていたが、今このとき、ジュナはその仮面を顔に貼り付けて生きていたジェダの気持ちに深く同調していた。


 井戸がある方向とは真逆の方へと飛ばされた水桶に向かい、無様に腕をかき、身体を擦って地面を這う。誰を見るわけでもなく、ジュナは顔に冷めた微笑を貼り付けた。みじめに弱った顔など、彼らに微塵も見せたくはなかったのだ。




     *




 地面を這って移動するジュナ・サーペンティアを見ながら、女は口元を曲げて、その背を睨みつけていた。


 名誉を傷つけられ、生活の助けの手も奪われ、自尊心を大いに傷つけられているはずのジュナは、しかし見る度になにも問題ないという態度を崩さず、涼しい顔で柔和な仕草を崩さない。


 下衆な男達の視線を受けても、嗤われても、薄く微笑を貼り付けた顔は、彼女の弟の姿を思い出させ、不愉快だった。


 やはり、彼らは双子である。女はそう思った。

 性別の違い、立場の違いの結果に生まれてきても、同じ一つの人間であり、別の可能性が同時に存在しているだけにすぎないのだ。


 女は自らの境遇の不幸を、この双子のせいだと思っていた。

 人生の時間を、森の奥に隠れ住む彩石を持たない貴族の娘の監視に費やしてきたのだ。その恨みは日々、膨れていた。


 ジェダとジュナは当主家の人間。恵まれた生まれながら、しかし、彼らの血は汚れている。そんな出来損ないのために、自分という存在がただ浪費されていく現実は、筆舌に尽くしがたい苦しみを生んだ。


 が、ある時突然に状況に変化が訪れた。

 女に監視の命令を下した当主に代わり、サーペンティアの実質的最高権力者であるヒネア・サーペンティアから命令が上書きされたのだ。


 ジュナの監視が強化され、サーペンティア家に命運を握られた如何わしい私兵達が増員として送り込まれる。そのうえ、もし彼女の弟が現れれば、力づくで排除してもかまわない、という許可が下った。


 女は信じてもいない神に感謝した。

 弟の監視がなければ、ジュナに意地悪をしようとも、止める手は入らない。


 女は理由をつけ、彼女の身の回りの世話をしていた家政婦を脅し、追いやった。足の自由が効かないジュナにとって、それがもっとも苦しいことであるとわかっていた。


 女は、ジュナが追いすがり、泣いて助けを求めてくる様を夢想した。

 呪わしい血を持って生まれ、他人を巻き込んでのうのうと生きてきた事への罰を与えられる。そう考えていた。


 しかし、期待したほどの結果は得られなかった。


 ジュナは一日の大半を自らの生活のために費やしながらも、そのことに音を上げてはいない。憎らしかったが、腰や足を地面にこすって移動するジュナの様を見下ろすと気分が良くなり、一応の満足感は得られた。


 少しして、ヒネアの元から一人の男が派遣されてきた。

 強面で顔に深い傷をつけた彩石を持つ男だ。

 明らかに名誉ある輝士といった雰囲気ではない。裏の仕事に従事する日影で生きる人間だ。


 所作に惑いがなく、男の視線は常に何かを探るように鋭い。


 女はこの男が苦手だった。


 他の見張り役達は、定期的に交代の人員と入れ替わるのに、この男だけはずっとこの家に張り付いている。


 この男がなんのために配置されたのかは明らかだった。

 万が一にも、ジェダ・サーペンティアがここへ現れた際に、確実に撃退するためだろう。


 それほど武芸に興味のない女にも、この男が並の者ではないことはわかった。帯びた気配が、嫌味を伴うほど達人である事を示している。


 ジェダ・サーペンティアに対し、これほどの人間を守りとして置くほど、彼がいったい何をしでかしたのか。女はそれが気になっていた。




     *




 夜が負う森の気配は静寂と平穏のなかにある。


 ここは人界の森。生える植物も、生息する生物も、すべてが人の手の内に収まる世界。


 その森はサーペンティア領主の城から離れた深い場所にあった。そこに質素な家がひっそりと佇んでいる。

 しかし、その家本来の性質からは不釣り合いな、重々しい警備が張り巡らされていた。


 ――裏手に二人、左右に巡回が一人ずつ。


 シュオウは暗い森の茂みに隠れながら、配置された警備の様子を探っていく。巡回をする者たちは白濁した輝石を持ち、一人は弓を、もう一人は小ぶりな斧を腰に二本下げている。


 家の裏手を固める二人の左手甲には彩石があった。身なりのよくない風貌からして、まっとうな輝士という立場にない者達であることがわかる。


 また、まわりこんで正面を観察する。三人のいかつい男達が武器を傍らに置いて地面に座り込み、そこから離れた場所で、彩石を持つ人相の悪い女が柵の上に腰掛けていた。


 「正面は彩石持ちが一人と、他が三人。すべて合わせて彩石が三人、濁石が五人、か……。かなり警戒してるな」


 シュオウの意見にジェダは同意した。


 「ああ……僕を近づけさせないためだけにしては、少々大袈裟にも思える」


 ここは深界の砦や貴人が詰める城ではない。これほどの警備に割く人員は、ただジュナを監視するためだけに用意されている。彩石保有者が計三人も配置されていることを考えると、ここを取り仕切る人間が、ジュナ・サーペンティアという存在をどれだけ重要視しているかがわかった。


 「外を制圧して逃げ道を確保する――」


 シュオウは家の左手を固める弓兵を指差す。


 「――あれを押さえた後、裏手の二人を片付ける。そうしたら、お前は中に入って姉の無事をたしかめろ。俺はわざと音をたて、残りの番人をおびき寄せる」


 ジェダはくまを貯めた顔で頷き、

 「援護をする――」

 言いながら身体をふらつかせていた。ここへ来るまでの道程で疲れきっているのだ。


 「いらない」


 シュオウの拒絶に、ジェダは険しく眉根を寄せた。


 「無駄に危険を増やす必要はないだろう」


 「お前が力を使えば、ここにジェダ・サーペンティアが来たという証拠を残してしまうかもしれない。疑われるとわかっていても、あえて証明をしてやる必要はない」


 ジェダは驚きに目を瞬かせた。


 「まさか、奴らを生かしておくつもりなのか」


 シュオウは重く首肯した。


 「不必要に殺す必要はない。皆、命令でここにいるだけだ」


 シュオウは半分の本音を告げた。実際のところ、かかるかもしれない追手に恨みを持たせたくなかったのだ。


 「甘いな……向こうはこちらに気づけば全力で殺しにくる。加減をすれば自分の身を危険に晒すことになるぞ」


 シュオウは一閃、冷めた笑みを返した。


 「俺はこういうことが得意なんだ」


 淀みなく自信を主張する。

 ジェダは降参の意を示し、溜め込んだ息を吐き出した。


 「わかった。やりかたは計画の発案者に委ねよう。だが、もし家の中にも人が配置されていたら、そのときは僕のやり方で排除する」


 すっと色を消したジェダの顔に、シュオウは微かに頷きを返した。


 「行く――」


 シュオウは黒い覆面をかぶり、茂みから躍り出て弓兵に飛びかかった。左腕をひねりあげて動きを封じ、即座に口を塞いで音を押さえる。封じた腕を不可逆的に折り曲げ、喉を締め上げる。苦しげに震えていた弓兵は、まもなく意識を落とし、その場にだらりと身体の力を失った。


 音をたてず、そっと裏にまわる。


 裏手を守る彩石を持つ二人は雑談に興じていた。手近な石を茂みの奥へ投げ、彼らの注意を逸らす。シュオウは即座に一人を拘束し、腕をとって顔面を地面に叩きつけた。掌握した腕から伝わる力が消失し、対象が無害になったと確信する。


 残された一人は事態の異常に即座に対応した。

 驚きを隠し、適切な反応を示す。すなわち、奇襲を受けたと数瞬のうちに判断した。

 シュオウから間合いをとり、身を低くして、腰に下げた短剣を抜き取る。直後、空いた手で徒手を薙ぎ払った。


 ――晶気。


 シュオウは前方へ眼を凝らす。

 予想に反し、特別な力は起こらない。が、代わりにシュオウの眼前に薄く、細い釘のような形をした武器が迫った。眼は状況を捉え、回避への道筋を思考から行動へと実証する。


 上半身を斜めに屈めて前進。前から迫る武器とすれ違いながら、対象へ手を伸ばす。掌握までの寸前、足元から吹き上がった圧の強い風にシュオウは半歩、その場で退いた。その隙に、相手は手にした短剣をシュオウの胸目掛けて突き出す。


 突き出された短剣を、シュオウはその眼で軌道を捉え躱した。体勢が崩れ、不利を解消するため、一度距離を置く。


 ――手練、だな。


 シュオウはそう確信する。目の前の男は腕の良い経験豊富な戦士だ。大味な晶気の力に頼らず、あくまで全身を用いた戦いの補助的な役割として彩石を利用している。隙あらば相手を殺しにかかる技には淀みがなく、ただ愚直なまでに対象の死を求めて繰り出される。こうした戦い方は、裏の仕事に従事する者達に見られる特徴だ。彼らは見た目の良さよりも、不格好な実を選ぶ。


 初手をしくじった男は不快そうに口元を歪めた。

 じりじりと足を擦り、シュオウの周囲で半円を描いて間合いを図る。

 男は指先を地面に向け、逆さに手を合わせた。強く力を込めた合掌の隙間から爆風が起こる。


 片腕を上げ、シュオウは眼前に盾を張った。

 晶気の風は鋭利に研ぎ澄まされてはいない。ただ重く、圧力のある暴風が押し寄せる。一点に強化された力ほどの脅威はなくとも、圧と範囲のある風の力を躱すことはできない。


 守勢に甘んじて、シュオウは次の手を待った。この風に殺傷力はない。この相手ならば、かならず致命傷を狙う真の一撃を隠しているはずだ。


 男が身を屈め、足を蹴った。自ら起こした風を背負い、猛烈な速さで迫りくる。男は再び短剣を突き出した。シュオウは回避のための予備動作に入る。


 徒手に見えた男のもう一つの手から、鋭く伸びる刃が視えた。それは服の袖に隠されたもう一つの武器だ。突き出した短剣を囮に、男は隠していたもう一つの刃を薙ぎ払う。その狙いはシュオウの首筋だ。


 喉元を狙った一撃は、皮一枚破ることなく空を斬った。


 「俺じゃなければな――」


 戦いの最中、シュオウは冷たく対戦相手へ告げる。

 そう、相手がシュオウでなければ、この男は奇襲をかけてきた侵入者を確実に屠っていただろう。


 男の攻撃を躱したシュオウの手には、男が持っていた短剣があった。もう一方の手で、隠されていた刃の腹を掴み取っている。


 「――なッ?!」


 想像を超えた出来事に男の動きが無防備に停止する。それは自ら敗北を認めたに等しい行いだった。腕が良いからこそ悟ったのだ。対戦者が、絶対に勝てない相手である、と。


 シュオウは短剣を後方へ放り捨て、空になった男の手を掴み、勢いまま背後に移動して腕を捻り上げる。背後から足を払い、体重を乗せて地面に倒し、完全に自由を奪った。


 シュオウは背後の暗がりに向け、首を捻って合図を送る。すぐに、顔を隠したジェダが飛び出て、裏手の扉をこじ開けて突入した。


 シュオウはまだ意識の残る男の耳元で語りかけ、

 「力のかぎり鳴き喚け――」


 男の指を一つ、真逆の方向へと折り曲げた。口も喉も遮ることなく開放されている。男は耐え難い激痛に周囲一帯を貫くほどの大きな悲鳴を上げた。


 ほどなくして、周囲に物々しい足音が響く。

 集ったのはそれぞれ、武器を手にした五人の番人達。

 敵意を剥き出しに視線を寄越す彼らの前で、シュオウは拘束した男の腕を強烈にへし折った。意識を残している男は言葉にならない叫声をあげ、目鼻から液を零し、悶絶躄地の苦しみに気絶した。


 ゆったりとした動作で立ち、対峙するシュオウ。

 向き合う五人は数の有利も忘れ、顔をひきつらせて後ずさる。


 子供のように怯える彼らの姿をおかしく思い、口元に不敵に浮かぶ笑みを押さえられず、シュオウは自制を促すため、意図して深く溜息を吐いた。


 彩石を持つ三人目の女。顔相が悪く鋭い目つきに漂う気配は、しかし怯えの色しか窺えない。


 「――くるなッ! わ、私はサーペンティアの――」


 その要求に反し、シュオウは前のめりに地面を蹴る。


 女は構えた武器を捨て、小さく悲鳴を漏らして尻をついた。そのまま片腕を折り、くるぶしを踏んで動きを封じる頃には、苦悶の表情を浮かべ、意識を手放していた。


 残る四人はすでに戦意を失っていた。体躯の良い男達が甲高い声をあげて逃げ惑う背を逃すことなく、シュオウの手が伸ばされた。




     *




 部屋の戸を押し開けると、上半身を起こしたジュナが毛布に身を包み、身を縮めて身構えていた。


 「ジュナッ――」


 ジェダはジュナの無事な姿を見て、かぶった黒い覆面を剥ぎ捨てた。

 ジュナはジェダに気づくまで一瞬の時を要したが、すぐに弟であると知り、夏の日差しを受けて咲く花のように笑んだ。


 「ジェダッ――」


 ジュナは手を大きく広げて前へ出す。が、ジェダは感情を押さえ、周囲を警戒するように見回した。


 「――大丈夫、家の中までは入ってこないから。私しかいないわ」


 ジュナに言われ、ジェダはほっと安堵する。ベッドまで歩みより、手を広げるジュナと身を寄せ、互いの熱にたしかな安寧を思い出した。


 腕の中で、ジュナの痩せた身体の感触が悲壮を持って伝わってくる。


 「ごめん……一人きりにしてしまって……」


 「…………いいの。わかってる……私達には仕方のないことでしょう」


 「ああ…………でも、もう違うんだ。ここから姉さんを連れ出したい。そのために無理をしてここまで来たんだ。父上にも、一族にも逆らう、とても危険な行いだけど、やってみたいんだ」


 互いに抱きしめあったまま、ジュナは一度、小さく頷いた。


 「……あなたの思うようにして。でも、本当にいいの――あなたはいつもお父様のご意思を大切にしていたのに」


 ジェダは身体を離し、はにかんだ顔でジュナに言う。


 「僕一人ではここまでの覚悟は持てなかった。助けになってくれた人がいる……シュオウというんだ。今、外で待っている」


 聞いたジュナは驚いたように口元に手を当て、

 「もしかして、おともだち……?」


 ジェダは少し視線を迷わせ、ジュナとしっかり目を合わせた。

 「ああ、友人だ。僕にできた初めてのね。少し変わっているけど……まあ、ひとのことは言えないからね――」


 ジュナは柔らかく破顔した。

 溜めた涙を拭い、ジェダの腕に手を伸ばし、そっと撫でた。


 「行こう、姉さん――大変だと思うけど、今すぐここを出る」


 ジュナは首肯した後、部屋を見回した。

 「荷物は、持っていけないのよね……」


 「ああ、かさばる物は無理だ。衣類は行く先でどうにかする、だから――」


 ジェダの心配はジュナに否定された。


 「違うの……買ってきてくれたお土産物、置いていかないといけないのが寂しいと思っただけだから」


 ジュナの視線の先を追う。ジェダは一つずつをしっかりと思い出すことができた。父に言われるまま、家に言われるまま、行く先々で手に入れてきた土地の物ばかりである。


 同じ時に生まれてきた双子にとって、それは互いの立場を明確に区分けする証明でもあった。

 外を歩くことができるジェダと、一つ所に閉じ込められたジュナ。


 姉弟の思いは重なる。


 贈る者と受ける者。立場は違えど、これは二人で築いてきた思い出であり、人生の軌跡でもある。


 「……また、手に入れるよ」


 二人はそっと、寂しげな微笑を交わす。


 頷いたジュナは自分で不自由な足を抱えて寝台の外へ落とし、薄い外着を羽織って寝間着のままジェダの背に乗った。


 「緊張する……」

 ジュナが囁くように小声で言った。


 背中越しに伝わる、脈打つ大きな鼓動が、その言葉が大袈裟な物言いではないと告げている。

 ジェダは姉へ問うた。


 「外へ出るのが?」


 「それもね……でも一番は、あなたのお友達に会うのが。せめて格好を整えるくらいの時間があればよかったのだけれど」


 部屋を出て正面口に向かいながら、ジェダは笑いを零す。


 「大丈夫だよ、とても優しい男だから気にしないさ。側にいると心配になるくらいのお人好しでもあるんだけどね――」


 ジュナを背負い、ジェダは廊下を歩く。途中、差し入れと思しき食料を入れた箱があり、そこにある黒ずんだ品々を見て、姉に悟られないよう歯を食いしばった。


 正面扉を開けて出ると、そこに張り付いていた見張りは誰もいなくなっていた。

 外へ出た二人が最初に目にした光景にジュナは息を殺し、怯えたように身を固くする。


 天から降りる淡い光を受け、屈強な男の背を踏みつけて、腕を捻り上げる様。組み敷かれた男の足はあらぬ方向へ折れ曲がり、気絶した顔からは、泡のような涎がこぼれ、白目を剥いている。片手の爪で地面をかきむしった跡が見え、どれほど苦しんでいたかが容易に想像できた。そんな有様を晒す者達の身体が、累々と横たわっている。


 それをする男、シュオウは黒い覆面を剥がし、汗を含んだ灰色の髪をかきあげ、鋭く尖った隻眼でジュナを見つめ、口を開いた。


 「――はじめまして」


 ジェダの背に掴まるジュナの腕が、強く力を込めて締められた。




     *




 ジェダと合流したシュオウは、熱で少し蒸れた覆面をはがし、涼しさに心地良さを感じながら、ジェダの背にいるジュナに向けて初対面の挨拶を送った。


 ジュナを見て、ジェダと姉弟であると一目でわかった。二人は色濃く面影を重ねている。淡く明るい黄緑色の髪に、創作物のように整った美貌と、華奢な身体だが魅力的な女性らしさも垣間見える。ジェダとよく似た双子の姉は、弟よりずっと柔和な気を帯び、落ち着いた大きな銀色の瞳は理性と理知を思わせる。身長や男女の違いの他に、ジェダとの大きな差異は、その手甲にある輝石の色が、シュオウと同じ白濁した色であることだけだ。


 白いドレスのような寝間着に身を包むジュナは、シュオウの挨拶を受けて、なにかに怯えたように身を縮めた。


 「あ、の……こんにちは……いえ、こんばんは……」


 辛うじて聞こえる程度の小さな声で、ジェダの肩から目鼻だけを見せ、ジュナはそう応えた。

 ジェダは若干の困り顔をシュオウへ向け、

 「姉は控えめな人でね――」

 と言って肩を竦める。


 ジェダはジュナを背負ったまま、シュオウが倒した者達を一人ずつ確かめる。地面に伏した者達の状況をたしかめ、そして青ざめた顔でシュオウを見やった。


 「……もしこの先、これを僕にやろうと思うときがきたら、頼む……ひとおもいに心臓に剣を突き立ててくれ。生かされるより、そのほうがずっとましだ」


 冗談か、と思うような言いようではあったが、真剣な顔で言うジェダは、横たわる者達の様を再度見て喉を鳴らした。


 ジェダは奥に横たわっていた彩石を持つ男の顔を確認して、

 「この男、見覚えがある。これは……伯母の……ヒネアの配下の者だ……」

 言って、息を飲んだ。


 「重要なことか」


 ただならぬ様子に、シュオウは問いかける。

 ジェダは何か深く考えを巡らせている様子で、首を横に振った。


 「――いや、いいんだ」


 シュオウは置き忘れがないことを確認し、ジェダを促した。


 「のんびりしている暇はない。ここにまともな詰所はない。きっと交代の人間が来るはずだ。気づかれるのは時間の問題――今のうち少しでも遠くへ離れたい」


 ジェダは首肯し、ジュナをしっかりと背負い直した。


 三人は家を離れ、深く森の中へ分け入る。

 ジェダの背に揺られるジュナは、身体をひねり、見えなくなるまでじっと遠くなっていく自身の家を見つめていた。




     *




 流れる雲が夜の空を覆い、月の明かりを隠した。


 一行は暗いサーペンティア領の森を抜ける。

 ジュナを背負うジェダの足は、異常なほど速かった。


 「まて――」


 呼び止めるシュオウの声にも応えず、ジェダは険しい山道を無謀な足取りで下っていく。背負われるジュナは怯えたように身を固く縮めていた。


 「ジェダ――急ぎすぎだ、どうしたッ」


 シュオウの声に応じる事なく、ただ駆けるように前を行く。


 ここに来るまで、シュオウとジェダはろくに休息をとっていない。

 体力に自信のあるシュオウに比べ、ジェダのそれは並である。山を登る過程ですでに足は疲れ切り、頼りない状態であったにもかかわらず、現状はまるで別人のような足取りで駆けている、しかも人を一人背負ってである。


 「きゃ――」


 ジュナが甲高い悲鳴を上げる。ジェダの身体は足元から崩れ、盛大に前へと転がった。


 二人は硬い木の根が脈打つ坂の上を転がり落ち、その先にあった小さな段差を飛び越え、下にある小広場へと落下した。


 「大丈夫かッ――」

 慌てて後を追い、先を見下ろしたシュオウは、二人の無事をたしかめ安堵した。


 ジュナは自ら上半身を腕の力で支え、顔をあげている。ジェダは伏せているが、肩が呼吸で揺れていた。


 先へ降りたシュオウはジュナの手を取って座らせ、伏したままのジェダの前に立つ。


 「いったいなにがあったんだ」


 らしくない理性を欠いた行いに、シュオウは心から問いかける。

 ジェダからの反応はない。ただ、顔を落としたまま小さく肩を揺らすだけだ。


 様子を訝り、シュオウは膝を折ってジェダの身体を揺する。

 「おい、大丈夫か……」


 僅か、顔をあげたジェダの顔は土で汚れていた。その目から一筋、濡れた跡が目に映る。


 「――どこか痛めたの?」

 神妙な顔で心配そうに、ジュナが身体を這ってジェダを覗き込んだ。


 ジェダは肩を揺らし、小さな笑声を零した。

 「違うよ……痛いんじゃないんだ……」


 寝そべったまま肘を立てて顔をあげ、枯れた声を絞り出す。


 「怖くなった……あの家を捨て、外へ出ることが。もうジュナの身を案じて命令に従わなくてもいい。自由がある。それが嬉しいのに、恐い。でも、同じくらい喜びを感じる。心と身体が一致しないんだ。今の気持ちに、身体がついていけない――情けない……な……」


 言って、顔を歪め、ジェダはそれを隠すように頭を落とした。


 想いを聞き、シュオウは安堵してその場に腰を落とした。彼の異常な行動の原因が、状況が大きく変わる事への不安や希望からきているのなら、その身を案じる必要はない。


 空を覆う雲が抜け、僅かな隙間から一条、月光が降り注ぐ。

 広場を囲むように、黄色い冬の花が咲いていた。


 座り込んだシュオウに、突如ジュナが覆いかぶさった。

 慌てるシュオウへ、ジュナは涙を浮かべた顔で微笑みかけ、


 「はじめまして、ジュナ・サーペンティアと申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。初めて見た時、あなたの事を恐ろしいと思ってしまいました――」


 震える唇で、しかしシュオウと合わせた目を一時もはずすことはない。


 「――ありがとう、私の大切な弟を……ジェダを助けてくれて。いつも笑っていた。辛くても苦しくても、どんなときでも……。ずっと、ずっと無理をしてた。心配だったのに、私はなにもできなくて――――」


 嗚咽を漏らしながら、シュオウの身を労るように、ジュナは優しく抱擁をする。

 甘い髪の香りと、冬の花のそれとが入り交じり、現と夢の境界を曖昧に織り交ぜた。


 夜の冷めた風が吹き抜け、心地よい彩りのある香を連れ去って行く。


 シュオウは一瞬の戸惑いの後、震えるジュナの背にそっと自身の羽織る毛皮の外套を乗せた。


 姉弟は静かに涙を落とす。


 空を泳ぐ気まぐれな雲が、再び夜の灯りを遮るまでの間、シュオウはただ黙って時が過ぎるのを待っていた。








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小説の表紙
― 新着の感想 ―
ジュナが救われてよかった、、
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