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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
開戦編
63/184

紅界の遭遇

 紅界の遭遇






 深界を語る時、ある人間はこう言った。ここは死の世界である、と。

 実態は違う。深界は命の坩堝であり、生きようとする者達がひしめき合う、生命の世界だ。


 深界へ踏み入れた足を絶え間なく動かし続ける二人の人間、シュオウとジェダはひたすらに前進を続けていた。


 空にある陽光は灰色の森に遮られ、生い茂った枝葉の隙間からようやく微かな光が地上に届く。それは木漏れ日などといった優しげな性質のものではない。その雰囲気はまるで、地下にある牢獄のように暗鬱としていた。


 高い木々の間から伸びる蔦を避け、先にいる狂鬼の気配を察知して道を変える。シュオウの尽力により、深界に入ってから一度も目立った驚異には遭遇していない。


 「思っていたよりは、たいしたことはないな」


 ジェダの言葉にはどこか失望にも似た色が混じっていた。入れば狂鬼に追い回され、腹をすかせた巨大な虫の間をこそこそとくぐり抜ける。そんな深界に対するありがちな想像を膨らませていたのだろう。


 言ったジェダの袖を掴み、シュオウは静止を促した。


 「そこの足元の平らな石、踏むとあれが降りてくる」


 ジェダはゆっくりと天を見上げた。

 灰色の大木からぶらさがるそれは、薄黒い色をしているため、影に紛れて視認が難しい。しかしよく見れば、硬い外殻に身を鎧う巨大な虫の姿がそこにある。


 「あれは……」


 「テンガン――上からくる天敵を警戒し、目が尻についていて、上しか見ていない。丈夫で細い糸を身体から伸ばし、置いた罠から振動が伝わると、落下して一気に地面の獲物に襲いかかる。大抵こんな平らな石を罠にしている、つい踏みたくなるからな――――なにも起こらないのはそうなるように歩いているからだ、油断するな。行くぞ、ここからもできるだけ俺が踏んだ後を選んでついてこい」


 ジェダはしかし、指示を聞かず近くにあった枝を取り、平らな石の上に投げ置いた。途端、がさりと木々が揺れ、巨大な虫が直上から石の上へ目掛け、四本の鋭利な角を地面に突き刺さす。その速度は強烈で、落下の衝撃と合わせ、受ければ人間の柔らかな身などひとたまりもない。


 「勝手なことをするなッ」


 シュオウは声を荒げた。ジェダは若干青ざめた顔で、地面に何度も角を突き刺す虫の姿をじっと見つめている。


 「好奇心に負けたんだ……前言は撤回するよ。ここはやはり、人が居ていい場所じゃない」


 以降、ジェダはとくに注意してシュオウの踏んだ足跡の上だけを歩いた。




     *




 森が発する命の音は雑多だ。遠くから聞こえる獣の鳴き声。ざわつく木々の枝の音。捕食され絶命へと至る悲鳴。

 

 だがなにより耳につくのは、同行者のジェダの声だった。森を行くときのシュオウはほとんど一人でいたことが多かった。そのため、話し相手がいる現状は、やはり新鮮な心地がする。


 「よかったのか。君が大切にしている物をあの男にまかせてきて」


 「シガはあれでも面倒見がいい」


 「そんなふうには見えなかったが、まあいいさ。ただ、理由は用意してきたが、あまり長く留守にするのは不自然だ。上から問われて、うまくやり過ごせればいいが、そうなった時、あの男がきちんと対処できるかどうかは疑問だよ。ムツキへ向かう第二陣に君の隊が選ばれる可能性は高いだろうからね」


 ジェダの言いように反論は浮かばない。


 「そうだな……だから急いで森を抜ける。睡眠も休憩もなしだ。歩き続けるから覚悟しておけ」


 ユウギリから最寄りの砦を抜け、そこから森に入り、すでに半日。誰にも見られることなくサーペンティア領へ入るための強行軍だが、森を歩くことに慣れているシュオウにとっては、早歩きの行進もそれほど難しい事ではない。


 同行者のジェダは、当然灰色の森を行く知識などないが、きちんと指示を守らせればそれもどうにかなる。


 重要なのは狂鬼との遭遇、そして戦闘を避けること。襲われれば怪我を負う可能性は常にあり、体力も大きく消耗する。それだけは避けたかった。


 「すべてが上手くいったとしても、やはりサーペンティアを敵にまわすことになるだろうな」


 シュオウの速度に懸命についてくるジェダは、若干息切れをおこしながら、そう言った。


 「迷ってるのか」


 周囲を警戒しながら、シュオウは前を向いたまま問を返す。


 「いいや、そうじゃない。ただどんなことをしてくるだろうかと思ってね。知らないかもしれないから親切心で教えるが、サーペンティア一族の人間は根性がねじ曲がっていて、他人の不幸がなにより大好きだ。そう、僕の家系はみな酷く性格が悪い。僕を含めてね」


 「よく知ってる――」

 シュオウは即答した。


 頭の中で、アデュレリア公爵邸でジェダに足をかけられた夜の事を思い出す。あれほど嫌悪感を持って接していた相手へ、こうして手を差し伸べている今が不思議であり、なによりおかしいと思った。


 ふと、沸いた疑念をジェダへぶつけた。


 「――サーペンティアってことは、お前の姉も性格が悪いのか」


 問いかけに、背後からついてくるジェダの足が止まった。振り返ると、どこか呆けた顔で、ジェダはぼうっとシュオウを見つめる。


 「君は……おかしなことを聞くんだな……」


 シュオウもまた、ジェダの反応がよくわからず、首を傾げる。

 「そうか?」


 「ああ、ジュナの性格の善し悪しなんて考えたことがなかったよ。僕の知る限り、姉は気立てがよく優しくて温かい心を持っている。会えばきっと君も気に入るさ、ちなみに容姿も飛び抜けて美しい。僕たちは双子だからね」


 シュオウは生返事をして、行進の再開を促した。

 ジェダはその後、幾度か視線を迷わせながら首を傾げて何事か考えにふけっている様子だった。


 「でもそれなら、アデュレリアに預けても安心だな」


 「なんだ、そんなことを心配していたのか。たしかに、アデュレリア公爵に拒絶されれば僕たちの計画は頓挫するが」


 計画では件の人物を助け出した後、アデュレリア公爵家に匿ってもらうことになっている。が、行き当たりばったりの行動であるため、アデュレリアへの根回しはなにもない。


 「どんな状況であっても、アデュレリア公爵なら必ず手を貸してくれる。だから、正直あまり心配はしていない」


 「……たいした信用だ。言っておくが、サーペンティアの人間が性悪だと教えたが、アデュレリアの連中もそれにひけをとらないぞ。彼らは狂犬の一族、頭のなかでは他者を追い落とすことばかり考えていて、暴力や戦い、競うことが大好物だ。常に強弱の境界を引き、弱者は死んであたりまえだと考えている」


 恩ある人物の家をけなされ、シュオウは機嫌を損なった。


 「あのひとは、そんな人間じゃない」


 「……そうだな、それは否定しないよ。おそらく、あの一族で最もまともな人物が当主の座にある。その点においては羨ましいかぎりだ」


 「言いたかったことは、なんとなくはわかる。けど皆そうだ、完璧はない。ムラクモへ来て、たくさんの人間たちを見てきた。酷い奴もたくさんいたが、でも、だからこそ人は面白い。良いも悪いも、どっちも同じ人間だ」


 ジェダは笑みを零す。


 「ユウギリでも思ったが、君は人間が好きなんだな」


 皮肉っぽい口調に、シュオウは問う。


 「まるで、それがおかしいことのような言い方だな」


 「それはそうだろう、僕は人間が心底嫌いだからね。真剣に呪ったこともある。子供は生まれる家を選べない。自分ではどうしようもないことで、辛く、苦しいことが重なれば、運命を恨みたくもなるし、そこへ導いた者や、助けてくれない誰かへの憎悪と疑念は深まっていく」


 シュオウは視線を落とし、

 「……少しはわかる。俺も誰かに捨てられ、一人で生きていた時期がある」


 「それでも君は人を愛し、理解しようと努めている。それは君の強さだ。僕は逆だった。自分や他人を俯瞰して眺めていた。そこに友愛の心や希望なんてない。傍観者として眺めていただけだ、自分の想いも、願いもない。辛苦に立ち向かうためには賢明でいるより、愚鈍であるほうが楽なんだ。ただまわりに合わせて、委ねて生きていればいい」


 「今もそうなのか」


 「いいや……少なくとも、僕は自分の意思でここにいる。父に見放された時、ジェダ・サーペンティアは一度、ターフェスタで死んだんだ。人生観を変えるにはこれ以上ないきっかけだろう。今は自分の目で前を見ている。君が差し出した救いの手を取ることもできた」


 ジェダから返った言葉には強い覇気がある。

 振り返って見たその目には、たしかな光が宿っていた。


 「ならいい。でも、救いの手なんて言い方は大袈裟だ。聞いてると背中がむずむずする」


 ジェダは笑った。


 「大袈裟なものか。君は目の前の可哀想な誰かを助けずにはいられないんだ。でなければ、ターフェスタでもユウギリでも、憎たらしい僕に手を差し伸べたりしなかったはず。ただ、一つ忠告しておくよ。そうして無闇に他人に手を差し伸べるのは僕で最後にしたほうがいい。君のその性分はいつか、手酷い痛みとなって返ってくる。人の本性は友情や愛といった綺麗な箱に収まるものばかりじゃないからね」


 シュオウは足を止め、ジェダに振り返り仏頂面を向けた。


 「ひとを勝手に聖者みたいに決めつけるな。言っただろう、完璧はない。俺にだって打算くらいある。戦場に初めて出たとき、無力を感じた。一人で足掻いても仲間は生き残れない。強い奴がいる。一人じゃ足りない、二人いても不安だ。なら三人目がいれば、もっといい」


 「それは、僕がその一人に選ばれたと考えていいんだろうな」


 シュオウは不敵に笑みを作った。


 「憂いを取り除いてやる。だからその分は返してもらう。弱みを握ってお前を利用するんだ。その価値があると思ったから、こうして自分の隊を置き去りにして深界を歩いている――これ以上の無駄話は体力を使う、黙って歩け」


 ジェダは肩を竦め、

 「本当に他人を利用してやろうと思っている人間は、そんなことを相手に伝えたりはしないんだけどね」


 シュオウは背を向けたまま、

 「うるさい」

 とだけ返した。


 ジェダは軽く了解を告げ、

 「君みたいなのをお人好し、と言うんだろう」




     *




 辺りは夜を迎えていた。

 揺れる夜光石の明かりだけが頼りの闇が支配する。


 夜行性の狂鬼が活発に動き始めるこの時、通常であれば、不慣れな人間を連れているため、身を隠して安全を確保しなければならないが、現状それをしている暇などない。


 休みなく歩き続け、ジェダはすっかり肩で息をするようになっている。体力的な心配はあるが、ここが踏ん張りどころだ。


 このまま順調に行けば、翌昼過ぎにはサーペンティア領近辺の大きな白道へたどり着くはず。そこを誰にも見られないよう横切り、また森へ入ってしばらく行けば、サーペンティア領内の安全な山中へ上がることができるだろう。


 先程からジェダの荒い息がやたらに耳につく。大丈夫かと聞くのはたやすいが、それを否定されても現状で歩みを遅くしている余裕はない。


 また歩き続ける。


 ジェダの漏らす息が耳障りに感じた。が、よく聞いてみれば、別段彼は大きな音をたてているわけでもない。


 ――なんだ。


 違和感は急な雷雨のように突如降って沸いた。

 そこで気づく。ジェダの呼吸音がやたらに気になる原因に。


 「音が……」


 胸の奥がざわりと跳ね、冷え冷えとした感覚が全身を貫く。


 「どうしたんだ」


 足を止めたシュオウへジェダが不思議そうに聞いた。


 シュオウは無言で耳に手をあて、周囲を探る。


 「音が……なにもない。虫の気配も、獣の声も、植物が揺れる音も、なにも聞こえない」


 「なにかまずいのか」


 「ここまで静かなのは異常だ」


 ここは灰色の森の深い場所。通常、そこかしこで命のやりとりが行われ、生存をかけた過酷な争いが繰り広げられている戦場なのだ。


 シュオウは緊張に肩を怒らせ、手に持つ夜光石の明かりで天上を覆う木々を照らす。


 そこにはなにもない。が、木々の枝葉はすべて、僅かに前方に倒れるようにしなっていた。周辺一帯、ほぼ風がない。経験に含まれない未知の現象に、シュオウのなかの違和感は、確信へと変わった。


 そっと囁くようにジェダへ伝える。

 「後退するぞ、ここは、何かおかしい……」


 未だ要領を得ないジェダは顔を顰めつつ、

 「よくわからないが、承知した。君の判断に従おう――」


 ジェダが了解を告げた直後だった。

 ずるりと、なにかに誘われるように二人の身体が前方へと倒れ込む。

 なにもないはずの背中から押し込まれるような感覚。抗おうとして力一杯後退するが、前へと引き寄せる力はさらに強さを増す。


 「なんだッ――?!」


 理解不能な事象に考えを巡らせる間もなく、シュオウとジェダは、飛翔するようにその身を前に投げ出されていた。


 ――感覚が。


 身体が宙に浮いている。が、飛んでいるのではない。

 常識という壁をとっぱらい、瞼を落として目の当たりにしている事象に、剥き出しの感覚で応じる。


 ――落ちている。


 上から底へ。高所から身を投げ出す感覚だ。


 必死に手足を藻掻きながら側にいるジェダへ手を伸ばし、掴んだ。


 「ジェダ、風を使え、前に向かって強く噴きつけろッ」


 一瞬、ジェダは理解に苦しむ表情を見せた。が、指示の通り、晶気を操り、前方へ向かって強風を発生させる。


 二人の身体はふわと前進を緩めた。

 シュオウはすかさず、近くにある木の幹へ腕をかける。手の痛みに耐え、ジェダの身体を引き上げながら、大地から生えて伸びる大木の幹に腰を降ろした。本来、そこは木の腹、真横にあたる部分である。


 「なんなんだ、いったい……どうなっている……」


 絶え絶えの息で木に捕まるジェダが周囲を見渡した。


 「わからない。が、たぶん、天地の向きがおかしい――」


 シュオウは言ってこれまで来た道の後方を指差し、


 「あっちが上。これまで進んでいた方向が下」


 腰に下げていた携帯袋から、乾燥した木の実を一つ取り、指から離す。すると木の実は、大地に落ちることなく、まるで空を飛ぶようにするすると本来の前方向へ進んでいく。実際は、進んでいるのではなく落ちているのだ。シュオウは自身の仮説が正しいと確信した。


 ジェダは木に掴まったまま、

 「こんなこと、ありえるのか」


 シュオウは首を振って、

 「知らない、聞いたこともない」


 そう、この異常事態はあきらかに深界だからこそ起こっているに違いない。が、そもそもの原因になにひとつ思い当たる節がない。森をよく知る師匠からも、関わるような情報を聞いた覚えがなかった。


 周囲を見渡そうにも、深界は真の闇に包まれている。昼であれ光の少ないここでは、当然月明かりも届きにくい。手持ちの小さな夜光石で照らせる範囲は僅かであり、事態を把握しようにも、極身近な範囲しか視認することはできない。


 シュオウは木の上に腰を落ち着かせ、息を整える。そして入れ替わった常識をもとに、新たな天上を見上げ思案した。


 木々はまるで絶壁から真横に伸びるように生えている。一本ずつ、着実にそれを登っていけば、この現象が起こっている地帯から抜け出すことができるかもしれない。


 道具はある。森を行くために持ち込んだ丈夫で長い縄を使えば、時間はかかっても、二人で上へ登っていくことができるはずだ。


 縄に重しをくくりつけ、上を見上げる。次の木まではそこそこの距離があった。


 「これを上の木に巻きつける。風を起こして後押ししてくれ」


 シュオウの願いにジェダは即答した。


 「ああ、まかせておけ」


 投げた縄はジェダの風に巻き上げられ、一瞬、木の幹に絡みつく。が、狙いが悪く完全にかかるまでには至らない。失敗を自覚し、回収した縄をもう一度投げようとした時。グン、とそれはたしかな音として耳に届いた。


 全身にまとわりつくような重さに引きずられ、落ち着いていた木の上から激しく身体が揺さぶられる。


 「しま――」


 突発的な事象にジェダはよろけて木から足を滑らせた。シュオウの左手がジェダの服をかろうじて掴み引き止める。が、あきらかに腕に伝わる重さが、本来の人間一人分の体重よりも遥かに重い。


 「く――」


 腕がちぎれそうなほど、ジェダの重みはさらに増す。シュオウは苦悶の顔で必死にその身を繋ぎ止める。


 シュオウは叫んだ。

 「風をッ」


 「やってるが、抗えないッ――まるで底からなにかに足を掴まれているみたいだッ」


 ジェダが発した力が強風となって下から舞い上がる。圧は十分にあるが、それをもってしてもなお、その身体を引き上げられないほど重いのだ。


 見下ろす底から上がる風に煽られながら、シュオウは髪をなびかせ、歯を食いしばった。

 徐々に、左手にまいた包帯がめくれ、風に巻き上げられてはがれおちていく。ついには隠れていた手の甲が顕になり、それに気づいたジェダの顔色が、この状況を憂うものとは別種の負の方向へと変わった。


 「なんだ、それは……どうして黙っていたッ」


 ジェダが凝視する先にあるのは、割れた輝石。

 歯をむき出しに、シュオウはふんばりながら返す。


 「今はいいッ」


 最後の力を込めジェダを引き上げる。が、ほんの僅か身体が持ち上がった程度に終わった。


 ジェダは黙したままじっとシュオウの輝石を見つめ、なにかを決意したように瞼を下げた。ジェダの腕を掴む手の周囲に、爆ぜるような突風が起こる。掌握を維持できず、シュオウの手からジェダの身体が零れ落ちた。


 秒よりも細かく世界を視るシュオウの眼に、落ちていくジェダの様子が刻まれる。その顔に恐怖や焦りはない。


 「く、そッ――」


 シュオウは即座に身を投げ出した。思考を置き去りにした、ただ反射的に行った行動である。時が開くほど落ちていくジェダの様子がわからなくなる、それを避けたいと思う直感からの選択だ。


 高速ですれ違う木々を、ぶつかる寸前で蹴り、避けていく。まもなく、ジェダを視界に捉えた。風の力を用いて多少なり落下速度を緩めている。


 「これをッ」


 シュオウは落ち続けながら、ジェダを呼び縄を投げた。

 気づいたジェダは何か強く言いたげな顔でシュオウを睨み、縄を手に取る。


 縄を引き、互いの腕を掴み、身を固定した。


 「本当に君は後先を考えないなッ」


 ジェダの声には怒りの色が含まれる。シュオウはそれを無視した。

 手繰り寄せた縄をまとめ、足の底にある木とすれ違う間際に投げつける。しかし、一投目はくくりつけた重しがはじかれ失敗に終わった。


 二投目の支度に取り掛かる間もなく、それは視界に入った。


 足元に広がる光景に、生え伸びる木々はない。そこは本来の崖っぷち。紅界という赤い岩壁に覆われた地の底へ通じる巨大な谷だ。


 この崖を越えてしまえば、もう身体を引き止めるための物がなにもない。一本ずつ木々を頼りに、元いた場所まで這い昇ることも不可能になってしまう。


 シュオウは急ぎ縄を投げた。崖を抜けるまでの最後の一本に縄の先端についた重しがたしかにからみつく。


 掴み取ったと、手応えがあった。だが、人間二人分、謎の引き寄せる力も加わり、落下する体重をシュオウ一人の手で固定するのは不可能だった。


 強い摩擦が起き、手の平に焼けるような痛みが走る。切れて肉が剥き出しになった手から縄は抜け落ち、シュオウとジェダの身体は、全方位なにもない空間へと投げ出された。


 前方に広がるのは月が輝く夜空。


 木々に遮られることなく目に映る夜の光は、しかしそれを美しいと思う余裕など皆無である。


 落下する速度が徐々に弱まっていく。

 空中の只中で、落下はほぼ静止に近い状態となっていた。


 ――また。


 再び、シュオウは異常を感じた。平衡感覚が狂い、正しい向きがわからなくなる。


 腹の中がひっくり返ったような心地。天地の向きはまた異常をきたす。身体は突如、崖底へと引きずられた。


 二人は闇の中を落ちていく。


 かつて、紅界の探検を試みた人間はいた。深界に存在する地の底への入り口は、しかしそこへ入った者達を飲み込み、返したためしはない。そこになにがあるのか、なにがいるのか、知る術はない。


 ジェダは力を使いきり、酷く消耗していた。顔には覇気がなく、玉になった汗が浮かんでいる。


 ――ここまでか。


 ジェダへ向け、シュオウは顔を見ずに謝罪した。


 「すまない。俺のせいだ。ここへ来たのは間違いだった」


 固定して組んだジェダの腕から、ぐっと強い力が加わる。


 「許すも許さないも……後悔はない。理由もわからずに死ぬことだけが心に残るけどね……さすがの深界、か――」


 深く落ちていく。

 月明かりはもう、その残滓すら見えなくなっていた。


 暗闇のなか、忘れそうになる平衡感覚をどうにか維持できたのは、手に持つ夜光石の明かりのおかげだ。


 流れゆく赤い壁を見つめながら、シュオウは自身の視る力を最大限に用いていた。硬い岩壁から生える植物はない。針を突き立てようにも、壁に手が触れるまではかなりの距離がある。抗える手段はなにもなかった。


 間もなく、見える景色に変化が現れた。


 まるで雲がかかっているように、底に濃い霧が絨毯のように漂っている。その先になにがあるのか、なにも視ることはできない。


 霧の膜を破り中に入る。ふと、独特な香を感じ、シュオウは鼻を鳴らした。生命の臭いだ。植物や菌類、濃厚な土の香りが漂っている。


 霧のなかに、突如巨大ななにかが現れた。赤くぶよぶよとした大きな傘。それは巨大な茸だった。高所から落下を続けた二人は、勢いをそのままに、茸へ突っ込み、肉厚のある傘を貫通してまた落ち続ける。


 その下にまた、巨大な茸が生えていた。赤と黒い斑点を混ぜた傘に身体が当たり、また突き破る。その後も同様の事が続き、落下の速度はしだいに弱まっていく。


 とうとう、茸の身を貫通できないほど力は弱まり、厚い傘に弾かれ、二人の身体は宙へと投げられる。


 そこから下には、もう茸はなかった。代わりに、一面に張られた湖があり、音を立てて水中へと打ち付けられる。衝撃は強かったが、落下速度は十分に落ちていたため、命に問題はない。


 「ジェダ、生きてるか――」


 水面に出て足をばたつかせながら、シュオウはジェダの名を呼んだ。


 すぐに頭を出したジェダは、

 「ああ、とりあえずは――」

 と水を吐きながら、

 「――ぺ、ここの水、なんでこんなに塩気があるんだ」


 口のまわりについた水を舐めると、たしかに強い塩分を感じた。


 立ち泳ぎをしながら、周囲を見渡す。

 辺り一帯は洞窟のように暗いが、湖の底から昇る青白い光があるおかげで、どうにか周囲を把握できる程度には明かりを確保できていた。


 まるで巨木のように、辺り一帯に巨大な茸が生えている。見たこともないような光景に、状況を忘れて見入っていた。


 「向こうに地面が見えるぞ」


 ジェダが指さした方向に、なだらかな白い砂地が見えた。

 力をふりしぼって泳ぎきり、二人はようやく、大地の上に身体を横たえる。そこで気づいた、何者かから送られる強い視線に。


 息を止めて身体を上げる。そこには、輝くような純白の体毛に覆われた一匹の巨獣がいた。黄色に鈍く光を帯びる双眸で見下ろし、四足で佇む姿。ふさふさと美しい胸毛の奥には、黄と紫が入り交じる美しい輝石がある。その輝きの力強さは尋常ではない。


 「な――」


 ソレに気づいたジェダは絶句した。

 シュオウにもその心地が理解できる。

 抗っても無意味。そう、目の前の獣は告げている。


 だらりと腕を下げたシュオウとは反対に、ジェダは突如構えをとって風を生み出した。


 「やめろッ――」

 止めた言葉は、もはや手遅れだった。


 ジェダの生み出した風刃は、常の威力には及ばずとも殺傷能力は十分にある。白毛の獣の足を狙い放たれた風刃は、しかし即座にそよぐ微風となって霧散する。その原因がジェダの体力切れか、判断はつかない。しかし、シュオウの恐れた通り、この敵対行動は獣の怒りを買った。


 ジェダが突如、その場に伏せて苦しげに声を漏らした。自らの行いではない。明らかに、見えない力で重しをかけられているのだ。


 ――こいつか。


 これまでの謎の現象の原因に思い当たり、シュオウは腰から針を抜いた。大地を蹴り、目指すは獣の胸に見える大きな輝石。針の切っ先が届く間もなく、シュオウの身体は巨大な岩の下敷きになったように、地面に押し付けられた。


 「がッ」


 指一本動かす事ができない。頭も上がらず、目で獣を見上げる事しかできなかった。


 横たわりながら見た先の景色にあるものが見えた。それは巨大な虫の狂鬼だ。身体がへしゃげたように潰され、一目でわかるほど、完璧に死を迎えている。


 ここがこの獣の狩場であるならば、ここへ引き寄せられた時点で、すでに死は確定していたのだ。


 獣は這いつくばるシュオウの前でおもむろに爪を出した。鋼のように鋭く、強靭な爪だ。一突き受ければひとたまりもなく死に至るだろう。


 「くっそ、やめろおッ――」


 同様に地面に伏したジェダが歯をむいて獣へ怒鳴る。獣はジェダを一瞥した後、再びシュオウへとにじり寄った。


 シュオウの眼前に鋭い爪を見せる獣は、そこでふと足を止める。シュオウへ顔を寄せ、しきりに鼻を鳴らし始めた。

 まるで台風のように強い風がおこり、シュオウの臭いをひとしきり吸い込んだ獣は、爪を隠し、そっと一歩身を引いた。直後に、身体にまとわりついていた重さが消え、ふわと身が軽くなる。


 急な事に理解が及ばぬまま、シュオウは跳ね起きて身を引き、ジェダの元まで駆け寄った。

 ジェダは未だ身体を地面に貼り付けたままだ。引き上げようとしても、磁力で引き寄せられているかのように、地面から身をはがすことができない。


 シュオウは獣を睨めつけた。黄色の大きな瞳と視線を交わす。なにかが通じたのか、ジェダの拘束はそこで突如解けた。


 互いにずぶ濡れの身体で、二人は身構えた。


 対峙する巨獣は前かがみに身を低くし、頭を下げて上目遣いで視線を寄越す。その仕草は獲物を前にした狼というより、撫でてくれとせがむ犬のようにも思えた。


 シュオウはジェダの前に手を突き出し、

 「手を出すな、敵意を持たれたら勝ち目がない」


 「……この獣はなんだ。狂鬼、なんだろうが」


 シュオウは答えを用意できなかった。たしかに、見た目の上では狂鬼だ。ただし、やたらに綺麗でどことなく品の良い雰囲気を帯びている。その時点で凶暴な狂鬼とは一線を画すうえ、目の前のこの巨獣は、不可思議な力を使うのだ。それはまるで、彩石を持つ人間が使う、晶気のような性質を想起させる。


 巨獣はひとつずつ前足を交互に擦り、距離をつめてくる。


 「こっちにくるぞッ」


 ジェダは緊張して足に力を込めるが、シュオウはもう、この巨獣から敵意を感じなかった。身を低くしたまま近寄ってくる様も、そうした意思を伝えようとしているからでは、と感じるのだ。


 シュオウは緊張に固くなった身体を弛緩させ、自然体で立ちつくす。


 巨獣はゆっくりと歩を詰め、おもむろに左の前足を突き出し、ジェダとシュオウの間に差し入れた。直後、前足を払い、ジェダの身体を吹き飛ばす。


 ジェダは身体を回転させながら投げ出される。勢いは強いが砂地であるがゆえ、見た目ほど痛手を負った様子はない。


 巨獣は残ったシュオウを、まるで抱き寄せるように両前足で包み、大きな舌で顔をそっと舐める。味わっているというより、子を想う母のような優しさで、シュオウの濡れた水滴を取り除いた。


 口に入った砂を吐き出しながら、ジェダはおもむろに立ち上がる。


 「……どうして僕だけはじきとばされる――」


 立ち上がったジェダを巨獣が凝視する。ただそれは、無闇に敵意を剥き出しにする様ではなく、ただじっと黙して相手を制し、観察するような気配があった。


 「――近寄るな、と言っているのか」


 「わからない。けど、そうしたほうが無難だ」


 シュオウをひとしきり舐め尽くし、巨獣は立ち上がって周囲を見渡した。突然巨体で軽々と飛び上がり、湖の中へ飛び込む。盛大に上がった飛沫がジェダを直撃して降り注いだ。


 「……わざとやっているんじゃないだろうな」


 さらにびしょ濡れになったジェダは、張り付いた前髪を避けながら、どこか恨みがましい視線をシュオウへ向ける。


 その様がおかしく、シュオウはそっと笑みを零した。




     *




 少しして巨獣は戻ってきた。陸に上って濡れた身体をふり、水をはじきとばして、開けた口からぼとぼとと見たこともない魚や水草を落としていく。


 「食えってことか……」


 声の返らない相手にシュオウは人語で問いかける。微かに、巨獣が頭を振ったような気がした。


 シュオウは手頃な大きさの魚を取り、ジェダへ投げた。ジェダは露骨に嫌そうな顔をする。


 「生はごめんだ。どんな虫がついているかわかったものじゃない」


 シュオウは携帯していた黒い丸薬を一つ、ジェダに渡す。


 「これと一緒に食えば大抵のものは腹の中で死ぬ――よく噛めよ」


 「……どうしても食べないといけないのか」


 ためらうジェダを見た後、じっとこちらを凝視している巨獣を見る。


 「……きっと、これはもてなしだ。一口も口にしないのはまずいだろう」


 言って、シュオウは自らの発言の適当さをおかしく思う。この世のどこに、人をもてなす獣がいるというのだろう。


 シュオウはまだ生きて跳ねている魚に食らいついた。皮をやぶり肉を噛みちぎる。塩辛い水分がついていて風味を感じるが、なにより生臭さが鼻についた。適当に噛んで飲み下し、その後に黒い丸薬を歯ですり潰して腹に収めた。


 ジェダはうんざりした様子で、魚の背を少し齧る。すぐに丸薬を口に含むが、その苦さによりさらに苦しげに悶えた。


 満足したのか、巨獣はぺたりと座り込み、身体を落ち着けた。


 溜息をつき、ジェダが砂地に座り込む。


 「やれやれ……だな。とりあえず殺される危険はなさそうだが、これからどうしたものか」


 シュオウも腰を落ち着け、一連の騒動からようやく一息つく。


 「上からこの底まで、かなり長い間落ち続けていた。とても自力で上に上がることはできないな」


 シュオウは天を見上げる。が、濃い霧がかかるそこは、高く伸びる茸の足が見えるだけだ。


 「さっきからなにかおかしいんだ。ここへ落ちてから、風を上手く掌握できない気がする」


 ジェダは両手を見つめ、不快に顔を顰めた後、突然くしゃみをした。


 「疲れているせいもあるだろう、まずは少しでも体力を戻そう」


 濡れた服を脱ぎ、よく乾くよう砂の上に広げて置く。

 シュオウは顔にある眼帯に触れた。水を吸って重く、ぐしゅぐしゅと不快な感触が伝わる。


 一瞬のためらいの後、眼帯をはずし、砂の上に置いた。

 露わになったシュオウの顔を見て、ジェダは視線を逸らし、なにも見ていないという風を装った。


 シュオウは正面からジェダを見据え、

 「酷いだろ。物心がついたころからこうだった。自然にできた傷じゃない。たぶん、親か、育てていた人間か、誰かがこれをやったんだ」


 ジェダは目をそらさず、シュオウの顔の傷痕を見る。


 「ともかぎらないだろう。なんらか、君の庇護者が暴力沙汰に巻き込まれ、その影響でそうなったのかもしれない」


 「……そうだな、かもしれない。だけど、どっちにしてもこれは明るい、幸せな話にはならない。嫌だったんだ、深界を出て、人の世界に戻ってからずっと。これを誰にも見られたくないと思っていた」


 ジェダは肩を竦め、

 「僕ならいいのか」


 「……思ったより気にならない。ターフェスタでお前の情けない姿をたっぷりと見たから、そのせいかもな」


 「言ってくれるな――」

 苦笑したジェダは周囲を見渡し、

 「――しかし、ここは奇妙な場所だな。深界とも雰囲気が違う」


 「紅界という、一応の名前はあるが、そこがどんなところか、語られた情報はなにもない。ただ赤い岩壁に覆われた底の見えない崖っぷちをそう呼んでいる。紅界は世界各地の深界に点在するらしい。過去に探検に挑んだ者がいたとは聞いている。でも、なにも情報がないことを考えると、きっと誰も帰ってこなかったんだろう」


 「へえ……ということは、僕たちは得難い貴重な体験をしているということになるな」


 貴重であろうとも、まったくありがたくはない、とシュオウは思った。


 「そうだ――」


 突如、ジェダはなにかを思い出したようにシュオウの左手首を掴み、持ち上げる。


 「――色々なことがありすぎてすっかり失念していた。この輝石、いったいどうしてこんな状態で放っておいた」


 ジェダはシュオウの割れた輝石を観察し、怒りを込めた声で言う。


 「一応、王都の医者には見せた」


 「それで……?」


 「対処法があるか聞きに行ったんだ。そうしたら、なんで生きてるのかと逆に聞かれた」


 ジェダは重く、鎮痛な面持ちで石を見つめる。


 「おそらく、命核は無事だったんだろうな。そうとしか考えられない」


 シュオウは首肯し、

 「ああ、医者もそう言ってた」


 「だが、放置していていい問題じゃないだろう。随分と負担をかけていたが、なにかのきっかけでこれ以上に割れが大きくなる事もありうるんだぞ――」


 二人で輝石について話していると、巨獣が立ち上がり、シュオウへと歩み寄る。ジェダは反射的にシュオウから距離をとった。


 巨獣は感情の色が見えない顔をじっくりとシュオウの左手へ寄せた。


 「おいッ」


 ジェダが慌てて手を伸ばす。シュオウはそれを止めた。


 「いい。したいようにさせる」


 巨獣はシュオウの左手甲に鼻を当て鼻を鳴らす。まるで石の様子を窺うようにじっと見つめ、また臭いを嗅ぐ。それを繰り返した。


 巨獣がゆっくりと顔を上げる。目元に力が入った、次の瞬間。左手首の周囲に、あの不思議な力を感じた。だが、上から下へ押さえつけるようなこれまでの力と違い、まるで左右から圧迫されるような感覚。直後、シュオウの左手から硬質な音が鳴り響いた。


 「ッ――」


 突然の事に驚き腕を引く。慌てて音の鳴った手を見ると、そこにあった割れた輝石が再び合わさり、元の形に戻っていた。割れていた箇所がひび割れとして残っているが、それでも、石は丁寧に接がれたように見える。


 呆けるシュオウに歩み寄るジェダが、シュオウの輝石を覗き込んだ。


 「治っている、ように見えるな――」


 シュオウはジェダの指摘に黙って頷く。


 「――奇妙な力を使い、割れた輝石を治した……本当にこの生物はなんなんだ。食べ物を調達してきたりと、やたらに親切なようだが」


 巨獣は言ったジェダを睨み、微かに口を開けて牙を剥いた。


 ジェダは手を上げて一歩、シュオウから身を引き、

 「訂正する。親切なのは君にだけ、だな」


 起こっている現象や状況のほとんどに理解が追いつかないが、しかし目の前の巨獣がたしかな心を持って助けてくれたことはたしかだ。


 シュオウはじっくりと自らの輝石を観察した後、巨獣に向きあい、歩を詰めた。ゆっくりと手を差し伸べ、豊かな白い毛に触れる。巨獣は目を細め、身をかがめて頭を差し出した。


 「ありがとう……助かった」


 額を撫でながら、シュオウは巨獣に礼を告げる。すると、巨獣は嬉しそうに喉を鳴らし、シュオウの顔を念入りに舐め上げた。


 「もういい、止めてくれ、息ができない――」


 シュオウが言うと、巨獣はぴたりと舐めるのを止める。


 「――言葉がわかるの、か……?」


 巨獣からはなんの反応もない。


 「さすがに無理だろう」

 とジェダが言うが、シュオウは諦めなかった。


 「もし話しがわかるなら聞いてくれ。俺達は元の場所まで帰りたい」


 天を指差して言うと、巨獣は前足を伸ばしてシュオウを胸元へ抱き寄せ、抱え込むようにして力を込めた。

 一連の行動はまるで要求を理解し、そして拒絶したように思えた。


 シュオウは強引に巨獣の拘束から逃れ、黄色の双眸と深く視線を合わせる。


 「頼む――ここは俺のいる世界じゃない。上にはやり残した事がたくさんあるんだ。待っている人達もいる」


 じっくりと、一言ずつ、重く語りかける。

 巨獣は一時でも視線をはずすことなく、静かに声に耳を傾けていた。

 しばらくの間、シュオウは静かに視線を向ける。やがて、巨獣のほうから痺れを切らしたように、ふいと顔を背け、ゆったりと巨体を持ち上げた。


 「……ジェダ、支度をしろ」


 シュオウの言にジェダは首をかしげる。


 「それは……」


 「了承してくれた。たぶんな」


 白毛黄眼の巨獣は、思いにふけるような顔で天を見上げる。その横顔はどこか、曇った夕暮れのような不安や寂しさを帯びているようだ。この生物にはたしかな知性がある、という考えは、シュオウの中で、もはや疑うに値しない事実となっていた。


 生乾きの装備を整え、シュオウは巨獣に告げる。


 「準備はできた――」


 巨獣は身体を低く屈め、横目でシュオウを見た。


 「――乗れってことか」


 そっと毛を掴み、巨獣の背に跨った。ジェダが同様に毛に触れた途端、巨獣は怒りに満ちた声で唸り、首を捻って剥き出しの歯を見せる。


 「まさか、僕だけここに置き去りにするつもりじゃないだろうな」


 シュオウは巨獣の背から首筋に触れ、

 「頼む」

 と願う。


 巨獣は唸り声を弱め、前を向き、ふんとひとつ大きく鼻息を落とした。


 「許しがでたぞ」


 シュオウはジェダに手を伸ばし、その身を引き上げる。


 「気位が高いのか、僕が嫌われているだけか。神のように崇めてかしずけば、もう少しましな態度をみせてくれるかな――」

 ジェダが言うや、巨獣は突如跳躍した。


 大地を蹴って飛び上がり、伸びる茸の傘を一つずつ蹴りながら、高く天へ向けて飛翔する。一番高所に伸びる茸の傘を蹴り上げた後、再びあの天地の向きが入れ替わる感覚に襲われた。天は前方に、大地は後方へと向きが変わる。巨獣は紅い岩壁を四足の爪でがっしりと捉え、舞い上がる風を置き去りにして、目にも止まらない速度で駆け抜ける。


 その背で激しく揺られる二人は、言葉を交わす余裕もなく、じっと巨獣の背に掴まっていた。


 あまりの速さに振り落とされてもおかしくないのに、あの不思議な力が前後左右から身体を支え、見た目ほどに負担はかからない。


 しばらくの間、巨獣の疾走は続く。やがて、前方から暖かな陽の光が差し込んだ。


 光に向かって紅い岩壁を疾駆する巨獣。その先に、ついによく知る深界の面影が見えてくる。抜けるような空、崖の端々から見える灰色の木々。紅界と深界との境目に差し掛かった瞬間、巨獣は寸前で足を止め、シュオウとジェダはそのまま空中へと放り出される。


 また、天地は向きを変え、投げ出された二人はそのまま深界の空中を滑り落ちてく。


 実際の速さとは真逆に、緩やかに眼に映る巨獣は、じっとこちらを見つめている。その顔には、強い憂いの気配があった。


 ぴたりと、寸前で足を止めた様子から、まるでその先に入ることを拒んでいるようだ。


 見える巨獣の姿は遠ざかっていき、やがて見えなくなった。


 シュオウとジェダは空を泳ぐ。

 向きの変わった天から地へ落ち続けていた。


 「――このままってことはないだろうな」


 ジェダに問われ、シュオウは唸った。

 シュオウはこの事象を起こしているのはあの巨獣であると思っている。証拠もなく、当人から答えを得られたわけでもないが、なんとなくの確信があった。


 当初、シュオウらが落ちた紅界へ通じる崖から、現在はそこを真っ直ぐ越え、灰色の森、木々の上すれすれの空をさらに前へと進んでいく。


 ――方角はいい。


 観察する周囲の様子から、まさにそこは目指していた先であるとわかる。サーペンティア領へと通じる進路を維持している。その速度は真っ直ぐ綺麗な道を駿馬で駆けるよりも早い。


 やがて、深界の切れ目が視界に入る。

 そこは人間が引いた境界線、巨大な白い道、白道だ。


 シュオウはジェダに向け、叫んだ。

 「風を起こせるかッ」


 ジェダは自身の手を数回握りしめ、

 「ああ、問題ない、手応えがあるッ」


 「できるかぎりでいい、前に向けて強く風を起こせッ」


 ジェダは首肯し、その通りに実行する。巻き起こる強風が落下の速度を緩めた。すかさず、シュオウはジェダを掴んだまま、灰色の木の枝葉を掴み取る。


 密集した木々の枝に身体を当て、落下は緩やかに停止する。そこで突如、また天地が向きを変えた。陽が昇る空を上として、土が敷き詰められた大地を下とする。正常な状態となり、シュオウとジェダはそのまま地面へと落ちて身体を打ち付けた。


 「――つッ」


 背や腰を打ち付け、痛みに身体をさすりながら、シュオウはジェダの無事をたしかめ、安堵した。


 ジェダは打ち付けた身体の無事を確かめながら言う。

 「ここまで計算ずくで僕らを放り落としたのか」


 「わからない」

 と、シュオウは思うままに返答する。


 「そうだな、わからないことばかりだ。気になることはたくさんあるが、僕らが見たこと、経験したことを話しても、きっと誰も信じないだろうな」


 シュオウは鷹揚に頷いて、

 「言う必要もない」

 自身のヒビが残る輝石を改めて見つめた。


 「さてと……なんだかすでにひと仕事終えた後のような気分だが」


 ジェダは立ち上がり、腰を叩いた。


 シュオウも立ち上がり、服についた土を払って、

 「考えている時間が惜しい。やることがたくさんある。行こう、もうすぐそこだ」


 強い疲労感と、生乾きの服から伝わるべたついた不快感。そして、紅界で出会った、あの不思議な巨獣についての大きな疑問への答えを得られぬまま、二人は再びたしかな足取りで大地を踏みしめた。






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小説の表紙
― 新着の感想 ―
姉ちゃんの性格w こんなところにも伏線が
[一言] 最新話まで読んでシュオウにおこるいろんな変化、そしてこの話での経験などこの作品はまだまだ底が知れなくて面白い! これからも頑張ってください!
[良い点] シュオウの体臭に魅了される3番目のキャラクターかわゆす
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