鞘のない剣 2
鞘のない剣 2
冬の空気に乗って漂う火と焦げの臭いが、夜の始まりを知らせる。
広場の枯れた芝の上に数多くの天幕が張られている。
焚き火を囲んで座る皆から少し離れた場所で、シュオウは簡易の調理場に立ち、ボロボロの鍋のなかに黒ずんだ野菜を投げ入れ、木べらでかき回しながら火を通していた。
「僕の記憶がたしかなら、ここに入っている野菜は全部皮を剥いて調理する物だったはずだが……」
ジェダはシュオウのかきまわす鍋を覗き込み、疑わしげにそう聞く。
「皮も芽も、根まで全部食える。捨てるところなんてない」
シュオウが言ったその横で、げんなりした調子でシガがうなだれた。
「だからって、なんでも入れりゃいいってもんじゃねえだろう」
溜息を吐いたシガの横で、シュオウは冷めた顔で眼を細めた。
「俺の隊には一人で大量に食べるやつがいるからな。薄皮一枚分でも無駄にはできない」
皮肉に反応したシガは、
「あの程度の量じゃ一人前にも足りやしねえ――」
と悪態をつき、話を逸らすように苛立ちの矛先をジェダへ向けた。
「――そんなことより、なんでまたこいつがここにいる」
聞かれたシュオウは鍋をかき混ぜながら返事に窮した。なぜか、と聞かれれば、自分も同じ疑問を抱くからだ。
ジェダは涼しい顔で片手を腰に当て、胸を高く張り上げる。
「どこにいようと僕の勝手だ」
シガは厳しく眉を釣り上げて灯りの漏れる邸のほうを指差した。
「てめえみたいのがいるのは向こう側だろうが。どうせ恵まれた坊っちゃんの立場から、こっちの糞不味い飯を見下して嗤いにきやがったんだろ。相変わらず性格のねじ曲がった胸糞悪いやろうだぜ、男女」
自身が懸命に調理する物を糞と評され、シュオウは口角を下げて食材を混ぜる手に力を込めた。
巨体で凄むシガへ、臆することなくジェダは一歩を詰める。ジェダは長身ではあるが、それでも並ぶと見上げるほど身長に差があった。
「僕の居場所について指図されるいわれはない。それと、他人の食事を見て嘲笑うような趣味もない。よく知りもしない相手のことを、決めつけで物を言うのは控えたほうが身のためだ、粗野で卑しく、食い意地の張った獣男」
シガは怒りで武装した硬い笑みをつくり、
「俺に向かって……よく言った。おもしれえ、今からやるか」
合わさって散る雷光を錯覚してしまうほど、両者は強烈に睨み合う。
「それでもかまわない、と言いたいが、君が雇われ者の身であるうちは手を出すつもりはない」
「ああ? どういう意味だ……」
「現状、君の身分は雇い主の所有物。許可なく傷をつけ、使い物にならなくなれば雇用主に不利益を与えることになる。だからそれは避けたいと言っている。ここまで丁寧に説明すれば、石が詰まっていそうなその頭でも理解できただろう」
シガはこめかみのあたりをぴくぴくと震わせる。
「こんのッ――よし、それなら俺が一人になればやるっていうんだな」
ジェダはにたりと、涼しく完璧に整った笑みを返す。
「ああ、ちょうど彼に奨めるつもりでいたんだ、君を解雇しろとね」
シガはぎらついて尖った犬歯を見せジェダを威嚇する。その様はまさに、歯を剥いて唸る獣そのものだった。
「……安くみるなよ、俺みたいのがそのへんに転がってるもんか。格安の賃金で働いてやってんだ、それをてめえにとやかく言われる筋合いはねえ」
ジェダは笑みを消し、険しい表情でシガを睨めつける。
「働いている……か。それほど自分に自信があるのなら、ターフェスタではいったいなにをしていた」
ジェダの指摘に、シガの表情があからさまに曇った。激しかった怒りの炎がしぼみ、下唇をつきだして、きょろきょろと視線を動かす。
「俺は、あれだ、その――」
シガの言い訳を待たず、ジェダは更にたたみかける。
「敵地にある主人を守るのが君の務めだった。命令を受け、手足となって動くのために同行していたはずだ。彼が一人で駆け回っていた間、君はどこでなにをしていた」
シガは自身の不手際を自覚しているようだった。喉を奥をぐぐっと鳴らし、拳を握りしめて身体を震わせる。
「ぐぬ――いや、ちょっと待てよ、そもそもの原因はてめえだったろうがッ、ぐじぐじした態度で連中の罠にまんまとはまりやがって」
「……言ったはずだ、よく知りもしないで軽はずみな発言は慎めと」
周辺一帯はほぼ無風である。しかし、ジェダの髪、衣服が、そこにあるはずのない風に流され、微かに揺れ動いた。
シュオウは二人の隙間へ割って入った。地面に汲んで置いていた井戸水を入れた桶を取り、熱を帯びた大きな鍋のなかへ中身を注ぐ。
「シガ、手伝わないなら夜食を減らす」
「ぐぐ……アアッ、こんなやつぁどうでもいい!」
シガはくやしそうにジェダから視線をはずし、水を貯めた桶に渋々手を伸ばす。が、先を越して素早くジェダの手が水桶を掴んだ。
「おい、それは俺のだッ」
「名前が書いてあるわけじゃないだろ」
睨むシガの視線を交わし、ジェダは粛々と桶の水を鍋へ注いでいく。
尖った犬歯と敵意を剥き出しに、シガは桶四つを同時に掴み、こぼれることも厭わず鍋の中にぶちこんだ。
「へッ」
勝ち誇って、シガはジェダへ嘲笑を向けた。
乱暴に水が注がれた鍋からこぼれた汁が顔にかかり、シュオウは張り合う二人を前にそっと溜息を落とした。
――邪魔だ。
そう、宛もない愚痴を頭の中でつぶやいた。
完成した料理は大きな鍋二つをなみなみと満たす汁物。具材は古くなった野菜を中心に、シュオウが周辺で拾い集めてきた得体の知れない生物や、キノコ類、格安の香辛料などが加えられている。
シガが叫んで皆を呼び集め、それぞれに配給を終えた後、シュオウは自分のための一杯を確保して、シガと共に丸太の椅子に腰掛けた。
一口目を喉に流し込もうとするも、すぐ側で所在なく佇むジェダが気になり、手を止める。
「俺たちは食事にする」
気を使うな、という意味で言った言葉だったが、ジェダは、ああとだけ返事をして、その場で立ったまま落ち着き無く視線を泳がせ、これみよがしに咳払いをしたりと、挙動不審な態度を繰り返す。
ジェダが腹を押さえながら、ちらちらと鍋を見る様を観察し、シュオウはまさか、と思うことを試みに聞いた。
「食っていく、か……?」
問われた途端、ジェダは跳ねるように椀を手にとり、
「そうまで言われたら、断るわけにはいかないな」
輝士が寝泊まりする邸の中で、いくらでも豪華な食事にありつけるであろうジェダが、嬉しそうに黒ずんで濁った汁をすくう姿を見て、シガが呆れた顔でぼそりと呟やいた。
「物好きなやろうだ……」
言い方に、勇者へ贈る賛辞の色が含まれていたことに気づいたシュオウは、僅かな苛立ちを持ってその失言を聞き流した。
*
「嘘偽りなく、これまで食べたなによりも不味かったよ」
食事を終え、各々がのんびりと炎を囲んで過ごす頃になり、相変わらず側を離れないジェダが、焚き火で温めた白湯を吸いながらそう言った。
「食ってくれと、頼んでないからな」
「貶して言ったわけじゃないさ。薬だと思えばそう悪くない。それになにより、食べているときの時間は、とても楽しかったよ」
シュオウは横目でジェダの顔を眺めた。彼という人間が持つ特有のすれた鋭さはそのままだが、明らかにターフェスタにいた頃までの顔つきとは別人のような気配を帯びている。そもそも、シュオウの知るこの男の性格上、楽しい、などという言葉を自然に口にするような人間ではなかったはずだ。
シガはシュオウの料理にぐだぐだと文句を言いながら、十人分をたらふくたいらげ、すでに一人で側の天幕で寝入っている。
「ウゴッ……フゴッ」
静かな夜の空気に水を差すシガの寝息が聞こえ、ジェダは片耳を軽く押さえてうんざりと溜息を吐いた。
「あいつが嫌いか?」
シュオウの問いかけに、ジェダはゆったりと天を見上げる。
「そう言われれば、嫌いだと言うしかないが。本来なら別に興味を抱くような相手でもないだろう。好きも嫌いも、そんな感情は沸かないさ」
「そのわりに、喧嘩を売るようなことをしてたな」
「のうのうとした態度で、当然のように君の側にいる姿が滑稽でね。少しくらい考えさせてやりたいという意地悪な感情が芽生えたんだ」
静かにそう語り、ジェダは白湯を一口飲み下す。
「責めていたが、あんなやつでも、役に立つ時はある」
「それはどうだかわからないが……たしかに、彼自身が言っていたように、どこにでも転がっている人間ではないことは認めよう。制御不能であれば、本気で関係を絶つことを奨めるつもりだったが、どうも向こうは君との雇用関係を終わりにするつもりは今のところはないようだ。望めば待遇の良い雇い主などいくらでもいるだろうに、それでも君の側にいるのは、彼なりに思う所があってのことなんだろう。君が使えると断言するのなら、これ以上なにも言うつもりはない」
「あいつはたぶん、細々としたことにむいていないんだ。でもそれでいい。戦場でのシガは絶対に役に立つ。ターフェスタの分は、今回の戦いで返してもらう」
ジェダはその話に黙って耳を傾け、
「君の隊にお呼びがかかれば、それが事実かどうかたしかめられるだろうな――」
言って、その話は終わりだとばかりにシュオウの胸の階級章を指さした。
「――従士長、か。大出世じゃないか。おそらくグエン公に直接いただいたんだろう。こんな強引な決定は、あのひとでなければ無理だろうしね」
ジェダはシュオウの胸についた階級章を見つめながらそう聞いた。
「ああ……しかたなし、という感じだったけどな」
ジェダは軽く笑った。
「それはそうだろう、なにせ君は計画をぶち壊した張本人だ。状況によっては理由をつけて罰せられていてもおかしくなかったはず。だから、先手を打って君のしたことが良い噂として広まるよう、手配をしておいた」
「……お前だったのか」
ジェダは目をそらし、薄く瞼を下げる。
「ムラクモへ戻ってまっさきに、金を使って君の噂をばらまくよう依頼を出した。哀れなサーペンティア家の子息を敵国から助け出した英雄の武勇伝が広まれば、おおぴらにその人物を罰する事ができなくなるかもしれない、と踏んでね。確実ではなかったけど、それが今の僕に出来る精一杯の予防策だった」
「それは――」
礼を言おうとしたシュオウに、しかしジェダは言葉を遮った。
「急ぎだったからそれなりに金がかかった。緊急時のために寝かせておいた貯えが大分溶けてしまうほどにね。しかし、礼には及ばない」
どこか懐かしくすら感じる、若干の嫌味を含む言い方だった。シュオウは対抗するように口を開く。
「俺も、お前を助け出すために死にかけた。でも、礼はいらない」
僅かな沈黙の後、どちらともなく吹き出すように笑っていた。
「しかし、狙った効果以外の事も起こったみたいだな。これは、副作用というべきか」
ジェダは前に広がる人の波を前にそう零す。
「まあ、な」
「君の名を慕ってこれだけの人間が集まった。民衆は英雄を好む。とくに、彩石を持たない英雄は、多くの人々に夢を抱かせるだろう。彼らは皆、その夢に憧れて肌でそれを感じたいと思いここへ集ったのか。もしくは、噂が真実かどうかたしかめにきた、というところか」
「皆、俺のために……俺と一緒に戦いたいと言ってくれた」
それぞれが囲む炎のゆらめきの一つずつ、上がる煙の一つずつが、シュオウにとっては愛おしかった。
「見た所、若い娘や老人、子供に近いようなのも混ざっているじゃないか。まさか全員を雇った、なんて言わないだろうな」
そうなのだ。シュオウの名と噂を聞きつけた者達のなかには、およそ泥臭い戦場に不釣合いともいえる者達までもが集っていた。なかにはジェダが言ったように、とても前へ出て戦えるとは思えない、細身の村娘や老人、十五にも満たないような男子も複数人入っている。
シュオウは一瞬、返事に詰まりながら、
「だからって、帰れとは言えなかった……」
「まったく…………あれほどの我を押し通す人間が、こんなことで他人に気を使うなんて――」
ジェダは白湯を残した椀を置き、
「――だいたい、彼ら全員を手元に置いて、雇うための金があるのか?」
シュオウは痛いところを突かれた心地で地面を見つめる。
実際のところ、彼らのほとんどは金をくれといって集ったわけではない。多くは興味と好奇心からで、食べ物の確保も各々でやるという条件で隊に加わることを認めたのだ。
そうした事情をジェダに説明するも、彼は納得した様子はなかった。
「そう言いながら、君は食事の用意をしているじゃないか。彼らから金はとってないんだろう」
「ああ」
シュオウはぶっきらぼうにそう言い、頷く。
いくら必要がないと言われても、やはり自分の下に集った者達へ、なにも提供せずにいる、ということは出来なかったのだ。
加えて、やはりジェダの指摘は正しかった。シュオウの手持ちの金は、すでに底が見えるほど痩せている。
「報酬をなにも受け取っていない集団は、ただその場にいるだけの無能の群れだ。ひとは貰える物があってはじめて他人に従う。君の下に集っているのが、非力な老人少年少女だけならまだしも、いかにもなその道の人間もいる。いざというとき、連中が君の命令を無視して勝手な行動をすれば、それは君の名に傷をつける事になる」
ジェダの言うことは耳に心地よいことではない。が、彼が嫌がらせでそれを言っていないのは、シュオウにも理解できていた。
「金は……払うつもりだ」
「その金はどこにある? 僕が知る限り、君は大富豪というわけではなかったはずだが」
「俺だって、なにも考えていなかったわけじゃない。アデュレリアに相談に行きたいと考えてはいたんだ。多少なり、預かってもらっているものもある」
「アデュレリアか。たしかに、君が頼る先としては妥当だ。しかし、隊を放り出して金策へ走る気なのか。上にはどう報告するつもりだ」
そう、この指摘もシュオウの悩みどころだった。
先発の部隊に選ばれなかったとはいえ、ここから距離のあるアデュレリアまで往復するには、馬を飛ばしても少なくない時を消費する。
「…………」
難しい顔で押し黙るシュオウへ、ふと柔らかな風が吹き付けた。
ひとの営みが生む、炎や煙の香りを含む温かな風だ。
おそらく、その風の発生源であろう男を見ると、たしかな視線が返ってきた。
「一人の考えに籠もる必要はない。君は僕に言えばいいんだ、なんとかしろ、とね」
「なんとかって……」
「今日中に、僕の名で指示書を用意しよう。君を担当につけ、遠方への物資の輸送と書簡の送り届けを頼む、とかね。理由はなんとでもなるさ」
シュオウは怪訝な顔でジェダを見つめた。
「そんな権限があるのか?」
「ないといえばないし、あるといえばある」
「なんだ、それ」
「僕はサーペンティア当主家の人間だ。とはいえ異国へ売り飛ばされる程度の価値しかないが、実際の家での地位を知らない者達にとっては、たしかにサーペンティア当主の子なんだ。とくに、昔から父は僕を側に置いて人前に出ることが多かったから、ジェダ・サーペンティアは当主の一番のお気に入り、そう見る者も多い。つまり、僕の言動には一定の配慮がされる。ここを仕切るリーゴールは父から名誉の花道を貸し受けた。そこへ、家から貸し出されている僕が頼めば、この程度のことは簡単に通るだろう、ということだ」
自信を持って言いながらも、ジェダの表情はどこか寂しげに見えた。
「それは……本当にできるなら、助かる」
「ああ、まかせてくれ。ターフェスタのことで君には大きな借りがある。今後も、なにか困ったことがあれば僕に言え。程度にもよるが、兄弟達の目を盗んで出来る範囲なら、可能なかぎり力を貸すつもりだ」
きょうだい――――その言葉が、シュオウの記憶を蘇らせる。
それは黙って彼らからの暴行を受け入れていたジェダの姿。
なんでもない、と言ってはいても、突かれ、殴られ、蹴られて痛くないわけがない。そのような理不尽を黙って受けるジェダの姿は、不快だった。
「どうして逆らわない」
強い眼で、なかば睨むように聞いた。物言いに責めるような色合いが混ざるのを止めることはできない。なぜなら、この男の力を多少なり知っているからだ。
ジェダは遠くを見つめ、少し言葉を詰まらせる。
「ターフェスタで言っただろう、僕には彩石を持たない姉がいる。彼女は父の庇護下にあるが、実質は囚われの身だ」
「自分が反抗すれば父親が娘を殺すと、そう思っているのか」
シュオウの問に、ジェダの顔は苦く歪んだ。
「……わからない……いや、そうじゃないと信じているから、こうして大人しく耐えていられるんだろうな、僕は。なにより恐いのは父よりも兄姉達だ。父は蛇紋石を継いでいるが、天分にはめぐまれていない。老い方からみても、おそらくそう長くは生きられないだろう……。当主が死ねば、その石を継ぐ者が現れる。そして、その後継に選ばれるのは兄姉の誰かだ。そうなったとき、僕がもし彼らの不興を買っていたら……その時、ジュナはどんなめにあわされるか……」
ジェダの目は、厚く覆われた雨雲の底にあるかのようだった。
今の彼の表情を見て、ターフェスタですべてを諦めていた、あのときの姿が僅かに重なる。
「そんなのッ――」
拳を握ったシュオウが、前のめりに身体を持ちあげたときだった。突如、一帯を貫くような痛みを伴うほど冷たい突風がゴオと音をあげ、吹き抜ける。
強風に炎を蓄えた薪が散らばり、穏やかな夜を過ごしていた皆の間に混乱が広がった。
ジェダは風が来た方向へ顔を向け、ふ、と鼻息を漏らす。
「噂話が呼び寄せてしまったようだ――」
ジェダの視線の先、邸の側に佇む複数人の男女の影がある。
「――もう行くよ、兄達が僕をお呼びだ。顔を合わす機会はめったにないから、きっと思い出話に花が咲くことになろうだろうな。ああ……さっき言った物は誰かに預けて届けさせる、心配は無用だ。君は自分のやるべきことだけ考えろ」
力なく歩き、去っていくジェダ。その身が彼の兄弟達の下までたどり着いたとき、ひとりが力いっぱいジェダを小突き、地面に身体を打ち付けた。その姿をみて、彼らが愉快そう零す嗤い声が、離れて様子を見ていたシュオウの耳に、風に乗って届けられた。
*
薄暗い邸の裏へ連れ込まれたジェダは、そこで兄姉達から取り囲まれていた。
「ジェダ。リーゴール将軍への挨拶の場になぜ同行しなかった。この兄に恥をかかせたな」
長兄のゼラン・サーペンティアは力を込め、片手に握った短剣の柄頭でジェダの腹を痛打した。
みぞおちに直撃を受けたジェダはうずくまって倒れ込む。勢いで、食べたばかりの不味い汁を吐き出しそうになるのを懸命に堪えた。
「ぐッ――もうしわけ、ありません、兄上」
ジェダは顔を上げ、汗をにじませながら薄い微笑を返した。
顔を上げたジェダの髪を、長姉のフキサ・サーペンティアがぐいと掴み上げる。
「あんな汚らしいところでなにをしていたの?」
髪を掴まれたまま、ジェダは姉と目を合わせ、微笑したまま答える。
「リーゴール軍の内情を探っておりました、姉上」
フキサは不快そうに眉を怒らせ、
「嘘おっしゃい、のんびりと休んでいたくせに。ジェダ、あなたとても臭うわよ、酷く卑しい、あなたの母のような汚らわしい下民の臭いがする。きっと妙な物でも口にしたのね――」
くすくすと、他の兄姉達が嘲笑を零す。
「――気持ち悪い、側にいるだけで吐いてしまいそう。臭いを消してあげるわ」
フキサは言って髪から手を離し、手元から発した突風で、ジェダを側にある木に向けて猛烈に吹き飛ばした。
背中から木の幹に身体を強く打ち付ける。ジェダは意思の力で痛みに漏れそうになる声を押し殺した。
腹と背、両面を痛めつけられ、立ち上がれないまま、その身を地面に預けたままにする。
ゼランはジェダの前に立ち、横たわる弟へ冷たく言葉を吐きかける。
「不肖の弟よ、あまり兄達を甘くみないことだ。ターフェスタでお前がしでかしたこと、父上は未だお許しになってはおられん。もしわずかにでも己のしたことを悔いるなら、自らの行いによって招いた戦で責任をとり、最前線にてその身を打ち捨てるがいいだろう。いいか、もしこの戦が終わってもなお、お前がのうのうと生きて顔を見せたなら、その時は私が父上に代わり、その汚らわしい半色の石を切り落としてやるからな――」
ゼランはそう吐き捨て、ジェダの頭を踏みつける。
「――承知したなら返事をしないか」
土と泥で汚れた靴で踏みつけにされながら、ジェダは薄い微笑と共に、いつもと同じ言葉を兄へ返す。
「はい、兄上」
いくらかの間を置き、ゼランは鼻息を落として足をどけた。
「明朝、我々はここを立ち後陣を整える。万が一にもリーゴールの間抜け共が戦に敗れればサーペンティアが出陣せねばならないからな。いいか、ジェダ。もしそうなったとしても、無様に生き残り、父上に恥をかかすことだけはするなよ」
背中越しに強く睨まれ、ジェダは再び兄へ了解を告げた。
*
深く、夜は更け。
寝室で傷の手当をしていたジェダは、扉を叩く音に首を傾げた。
――誰だ。
兄姉達であれば戸を叩くような配慮を、見下している弟のためにするはずもない。つまり、来訪者は彼ら以外の誰かということになる。
「鍵は開いている」
扉の奥にいる誰かに向かって告げる。
重々しく開いた扉の先から現れたのは、黒い覆面をした従士服の男だった。
爆ぜるように立てかけておいた剣に手が伸びる。が、
「俺だ」
聞き覚えのある声が聞こえ、ジェダは剣に伸ばした手を止めた。しかし、疲労と負わされた怪我が元でふんばりがきかず、そのまま床に身体を投げ出してしまった。
「つ――冗談にしては、少したちが悪いぞ……シュオウ」
「すぐにばれると思った」
そう言ったシュオウの声には、らしくない悪戯を楽しむ少年のような軽快さを帯びていた。たしかに、よく見れば覆面の片方の眼は眼帯で黒く塗りつぶされている。落ち着いて観察すれば、すぐに誰か見当がついただろう。
ジェダは尻をついたまま、シュオウを見上げて呆れ気味に問う。
「なんなんだ、その格好は」
シュオウは目と口の部分だけが空いた黒い覆面をかぶったままだ。
「ジュナ、だったな」
期待した答えとはまるで関係のない姉の名がでて、ジェダは戸惑った。
「いったい――」
シュオウは覆面の奥に見える口元で、小さく笑みを浮かべた。
「これは予言だ。近日中、ジュナ・サーペンティアは正体不明の賊に拐われ、行方不明になる」
そう言って、自分の顔へ向け包帯を巻いた手で指さし、覆面をはずした。
僅かな間を開け、彼の言わんとしている事を理解したジェダは吹き出した。
「やけに小規模で具体的な予言なんだな」
「居場所はわかっているんだろうな」
真面目に問われ、ジェダは頷いた。
「ああ、わかっている。サーペンティア領内、街外れの森の中だ」
「だったら問題ない。行くぞ、そこまで案内しろ」
「本気で言っている……んだな」
そう、シュオウという人間の内面をすべて理解していないジェダでも、彼がこうしたことで冗談を言うような人間でないことは承知している。
ジェダは俯いて、冷めた微笑を零した。
「気持ちには感謝する。けど、僕がこの時、サーペンティアへ向かった直後にジュナが姿を消せば、当たり前のように強く疑われる。戦地での任務も控えた現状、仮にジュナを救い出せたとしても、側にいて守ることもできないんだ――だめだ、軽はずみな行動は……とれない」
頭の上から、シュオウが即座に反論する声が聞こえる。
「サーペンティア領内に入ったと、記録されなければいいんだろ」
ジェダは顔を上げた。
「それは……」
シュオウは、はっきりと強く首肯した。
「深界を行く。近隣の砦を通り、そこから斜めに灰色の森を突っ切って直接サーペンティアを目指す。関所砦を回避すれば、だれも俺たちがサーペンティアへ行ったとはわからない。俺は深界を生きて踏破するための経験も自信もある、必ずうまくやる」
シュオウの言うように、危険な深界を行くことができるのか、という疑念は、当然のようにある。しかし、彼が言う以上できるのだろうという漠然とした信を得ることができた。それは、これまで彼がやってのけてきた多くの活躍が裏打ちしていたからだ。
「……だが、それでも」
残る不安を口にしかけたとき、シュオウは強く言葉を重ねた。
「お前の姉を連れ出した後、アデュレリア公爵に預かってもらう。あの人なら必ず匿ってくれる」
――アデュレリア。
急遽、頭のなかで計算を始める。
アデュレリアはサーペンティアを最も敵視する一族だ。本来、その血に連なるジェダが助けを求めた所で信用を得ることは難しい。が、シュオウは王女の失踪に絡んだ事件の際、その身を守りぬき、アデュレリアを危機から救った恩人だ。その恩人からの頼みならば、間違いなく氷狼の長は願いを聞き入れるだろう。
シュオウの言うように、痕跡を残さずジュナを無事に救い出し、アデュレリア公爵の庇護下に置くことができれば、サーペンティア家の手は、もはやジュナに身に届く事もない。
――勝算が、ある。
この提案には、そう思わせるだけの魅力が、たしかにあった。
しかし、直後に疼いた腹と背の痛みが、差しかけた陽光に厚い雲をかぶせる。
――だめだ、現実はそれほど甘くはない。
湧きかけた希望を、ジェダは自戒して破棄した。
「それでも、やはりジュナがいなくなれば、僕は疑われる……」
「証拠は残さない、サーペンティア近辺の砦を通過した記録も残らない。拐われた者の姿もどこにもない。そんな状況でかけられる疑いなんてないのも同じだ。責める材料がなにもないのなら、なにを言われても知らないと言い張れる」
「そのうえでも、サーペンティアは武力を持って僕を拘束にくるかもしれない」
シュオウはジェダの吐き出した不安の直後、片足を踏みしめ、胸を張った。
「全部、けちらしてやる」
言い切ったシュオウの顔に、気負いは一切ない。
「…………まったく」
ジェダは心底呆れていた。シュオウの強硬で能天気な思考にではなく、けちらすと宣言した彼が、真実そうするだろうという強い確信を持ててしまう自分と、一瞬でもそれに期待した自分にである。
「いいのか……大変な面倒を背負い込むことになるかもしれないんだぞ」
問に、シュオウは軽く頷いた。
「問題ない。ちょうどアデュレリアには用事があった」
サーペンティアが長年、蓋をしてきた暗い箱をこじ開けようとしている。その重大な現実を控え、冗談のように軽く言ったシュオウを前にして、ジェダは呼吸を忘れて口を開けた。
「僕の人生に張り付いて消えない悩みを、金策のついでに解決しようと言うんだな――やはり、呆れるよ」
目の前に、包帯を巻いた手が出される。
初めてこの手が差し出された時、取る事ができなかったのを思い出す。
埃が落ちる音すら聞こえそうなほどの静寂。部屋を照らす儚い炎が微かに揺れ動く。
ジェダはゆっくりと自らの手を差し出し、
「あのとき言っていたな、命を他人に委ねるなと――」
怪我の事など忘れ、指先から力を込める。
「――運命を掴み、己の足で動けとも」
それは自らの命が消えるより恐ろしいこと。
愛する者の運命を握られ、生かすも殺すも、その者の心ひとつで決められてしまうこと。
身体を縛り付けていた恐怖という名の鎖に、怯えることなく過ごす事の出来る生き方。これは夢に見ることも忘れていた自由へ通じる道であり、なにに阻まれることもなく燃える太陽へ手を伸ばすことと同義である。
傷を負った手と手が、たしかに合わさる。
「行こう――力を貸してくれ」
「ああ――ついで、だからな」
言ったシュオウは、強い力でジェダの身体を引き上げた。