序 ハザマの事
開戦編 序 ハザマの事
メトの実の種を抜く、という言葉がある。主にムラクモ地方一帯で、人生経験を積んだ老人が好んで使う諺である。
メトとは、古来より東地で好まれる木の実であり、その実は強烈に酸味が強く食えたものではないが、実に埋まっている苦味の強い種と合わせて食べると、独特な味わいが生まれ美味となる。
柔らかい実だけを望んで、固くて苦い種を抜いてしまうと、メトは食用として耐え難いほど味を損なう。これにかけ、二つの物が合わさることで、完成したモノとして存在し得ることを、男女関係や、相性などに例えて使われる事が多かった。
男女の事、人間関係以外においても、この言葉が当てはまる事は多くあった。その一つとして、一個の人間を形作る心と身体の関係がある。
心と体は一対のもの。両者は密接な繋がりを経て、人という形を現実の物として安定させ、存在させている。
その形が安定した状態に在るために、どちらが欠けても駄目なのだ。
心は体を水のように満たし、体は心を受け入れるための器となる。一方が足りずとも、欠けていても、やはり人は安定を失うことになる。
東の大国ムラクモの王女サーサリアは現在、心と体、どちらの安定も著しく欠いていた。
医術による見立ても裏付けも不要だった。痩せ細った身体と、寝室から物を投げ、破壊する騒音が四六時中鳴っていれば、そうと判断するのに一瞬の熟慮すら必要ではない。
「子供の癇癪であっても、こうも長続きはせんであろ」
ムラクモの王都より遠く離れた異国の公主ア・シャラは、冬を間近に控えた冷たい空気など意に介さず、薄く身軽な運動着姿で、破壊音の鳴るサーサリアの私室を眺めて言った。
「シャラ様、またそのような……お風邪を召されでもしたら」
その格好をたしなめるようにサーサリアを守護する親衛隊の長、シシジシ・アマイは顔を顰めた。が、これがただの見せかけの心配なのだと、ア・シャラはしかと見抜いている。
「お前の薄っぺらい心はあのバカ女に向けておけ。いったいいつまであのままにしておくつもりか」
問いかけの直後、またサーサリアの私室から物が壊れる音がした。
アマイは気弱な顔で眉間を摘み、頭を小さく振った。ア・シャラには、その姿が手に負えないと頭を抱えているのに等しく見える。
サーサリアが酷く荒れている事には理由がある。それは単純明快かつ、至極幼稚な理由。すなわち、欲するモノが手に入らないからだ。
サーサリアは、このムラクモという国おいて、最も稀有な存在だ。国を背負って立つための王の石を継ぐ事ができる唯一の人間だからである。
しかし、担う重責に見合うほどの能力は、欠片ほども見い出すことができなかった。
この愚か者を玉座に置くくらいなら、いっそ雌鶏に王冠をかぶせて置いたほうがましであろう、とア・シャラは思っていた。であれば、毎朝新鮮な卵が玉座の上に乗る。
サーサリアは、多くの生まれ持った宿命を果たすことより、恋する男の心を案じている。それは一羽の鳥が産み落とす一個の卵より価値のない、愚者の思考というものだ。
「いっそ、願いを叶えてやったらどうだ」
試みに、ア・シャラはアマイへ問うた。
アマイは訝りながら険しく首を振る。
「とんでもない。ただ、息女が共に任務に出たというだけで、その家の者すべてに罰を与えるなど……そのようなことをすれば、殿下の御名にどれほどの傷がつくことになるか。ありえないことです。そのような行いは、我が身をかけてもお止めせねばならない」
サーサリアが強く要求している事は、酷く幼く残酷なものだった。
恋する男と遠路へ旅立った二人の娘達の親族一同を痛めつけたいというものだ。これを諌められ、行き場を無くした不満の噴出先として、多くの私物がその害を受けている。
アマイの言に、ア・シャラはにたりと片頬を上げた。
「身をもって愚行を止めようとするお前のような人間が側にいることが、あのバカ女にとって唯一の救いであろう」
アマイは険しくア・シャラを睨みつけた。
「御身の身分を考慮し、あえて見逃してまいりましたが……いい加減、我が主に対し、不快な蔑称を用いること、ご遠慮願いたい」
ア・シャラは、かっかと快活に笑声をこぼす。
「バカはバカだ。面と向かって真実を口にする者に感謝の念を持て、愚か者」
アマイが口を開きかけた時、サーサリアの私室から悲鳴があがった。
「殿下!?」
爆ぜるように、アマイが部屋へ飛び込む。
後に続いたア・シャラは、反射的に鼻を手で押さえた。
鼻孔をつんざくような、きつい香に目眩がする。
曇り空の下、重く暗い部屋の中には投げ捨てられた物が散乱し、部屋の中央で無残に割れた香水の瓶が、ぬめりけの強い液体のなかで粉々に散らばっている。
不快なほど強い花の臭気が漂う部屋で、サーサリアの側仕えをする女の輝士と、彼女に抱きかかえられ、意識を失った様子のサーサリアがいた。
アマイは急ぎ駆け寄り、主の身を寝台の上へ横たえた。
「暴れていた最中、突然意識を――ただちに医官を呼んでまいりますッ」
そう言い残し、側使えの女輝士が走り去っていく。
ア・シャラはサーサリアの顔を見て、呆れたように嘆息する。
目の下には大きな隈、痩せこけた青白い顔にあるのはひび割れた紫色の唇、首から下は肉がなくなり骨ばって筋が浮かんでいる。
「痩せすぎだぞ。これ以上は命が危ない」
アマイは曖昧に頷いた。
「彼が旅立って以来、ろくに食べ物を口にされていない……」
「……大国の姫が、男一人のために嫉妬に狂って餓死を選択するなど、情けない心地を通り越して不可解ですらあるな。こうまで己を見失えるものか」
どこか上の空で、虚空を見つめながらアマイは口を開く。
「殿下は努力をなさっていた。以前とは違い、周囲の者に力を行使することもなくなった。近頃は多くの事に対して学ぼうとする意欲も持っておられた。それが……」
ア・シャラはサーサリアとその想い人、両者の出会いや顛末について、聞き知っていた。
「そうやって甘やかすからバカが治らん。このバカを指して成長しているなどとよく言えたものだ。こいつがなにかを頑張っているように見えるのはすべて男のためだ。見栄え良く、努力しているような姿を見せて点数を稼ぎたいのだ。だからな、想い人の側に別の女の影が見えた途端、こうして簡単に身を持ち崩す――」
言いながら、ア・シャラはとある老人の姿を思い描いた。
――あのジジイ。
シュオウという青年を、彼を慕う娘達と共に遠方での任務につかせたのはグエンの指示によるもの。実質、ムラクモを骨の髄から牛耳るほどの高位にある人間が出す指示にしては、あまりに細かく不可解な内容であろうが、実のところ、グエンの狙いはサーサリアの心を乱すことにあったのかもしれない。
あまりに稚拙でくだらない手法だと一笑に付していたア・シャラだが、こうまで覿面に効果が現れているのであれば、ただの笑い事ではすまされない。
――この肥え太った国の事情など、他人事ではあるが。
と、思いつつ、ア・シャラは不敵に笑みを作る。
「どけ」
ア・シャラはアマイを軽く蹴り飛ばし、横たわるサーサリアの隣に腰を置いた。
「なにをッ――」
ふらついた体勢のまま、アマイが慌てて腰の剣に手を置く。
「控えよ、慮外者。殺したければとうに殺している。このア・シャラが直々に事態を改善してやろうとしているのだ、黙って見ていろ」
芯を据え、一心にアマイを見つめる。偽りのない思いが伝わったのか、アマイは酷く惑いながらも、剣から手を離した。
ア・シャラは傍らに置かれた水容れの中身をサーサリアの顔に浴びせかける。驚きに声をあげるアマイを無視して、咳込みながら覚醒したサーサリアへ語りかけた。
「目が覚めたか、バカ女」
側にいるア・シャラに驚き、サーサリアは這いずって身をひこうとするが、力が入らず、その場でただ手足をかくだけに終わった。
「食べず眠らず、消耗を続けるからそうなるのだ」
ア・シャラはベッドの傍らに置かれた食事を差し、アマイへ寄越すよう指示を出す。
それは、まだ湯気の昇る卵を落とした粥だった。
「食え。生きること、すべてはここから始まる」
ア・シャラは熱を持った粥を差し出す。しかし、サーサリアは顔を背けて拒絶した。
「いやッ――」
粥を手にしたまま、ア・シャラはわざとらしく声を張り上げる。
「愛しい男が、他の女と共に旅に出て心が落ち着かず、食欲がない、か。なるほど、あの娘達は色に鮮やか、顔立ちもよく麗しかった。不安になるのも仕方がない、か」
水の滴る髪の隙間に覗く、充血したサーサリアの目から涙が溢れ、流れて落ちる。
本当に、ただの幼子のようだ、と年上のサーサリアに対してア・シャラは思う。
本人の資質によるものか、と思えば、ただただ情けない娘としか思わないが、やはり、ア・シャラの頭にはあの悠久の時を生きる老人が頭に浮かぶのだ。
人並みに経験を積み、学ぶ機会を奪われてきたのだとしたら。もしそうだとしたらそれは、生まれた時からカゴのなかに閉じ込められ、飛び方を知らぬまま大人になった、哀れな愛玩用の鳥のようなものだ。
ア・シャラは笑み、空いた手でサーサリアの濡れた頭を撫でた。
赤くなった目を見開いて呆けたサーサリアへ、柔らかく言葉をかける。
「お前は愚かで救いようがない。が、存外ひとを見る目はある。命懸けで恋をする様も、見ようによっては気骨がある。褒めてやるぞ」
呆然と見返すサーサリアの身体から、徐々に強張った力が抜けていく。
「え……」
ア・シャラは手を離し、再び粥を差し出した。
「西方の女は特に見目に麗しい。髪は色鮮やか、整って彫の深い顔立ち、透き通るような白い肌に豊かな体つき。あいつはそんな女達を二人もはべらせているのだろ。対抗するにはそれ相応のものを身に着けねばな。そのように痩せた身体、荒れた肌で勝負になると思うか、その足りない頭でよく考えろ」
呆然とア・シャラを見つめるサーサリアは、恐る恐る、自らの骨ばった手をみつめ、頬や唇の状態をたしかめるかのようになぞっていく。
サーサリアの虚ろな瞳に、たしかな淡い炎が灯った。割れた唇を小さく開き、自らの力で匙に乗った粥を飲み込んだ。
傍らに控えるアマイが、露骨に安堵の溜息をこぼした。
一口、二口と、差し出されるまま、サーサリアは粥を腹におさめていく。そうして、ふっと糸が切れた人形のように、背中から倒れるように意識を落とした。
「殿下!?」
駆け寄るアマイを手で制し、ア・シャラは小さな声で言う。
「騒ぐな、眠っただけだ」
どたばたと騒がしく、老医官が部屋に入ってきた。
医官はずぶ濡れのサーサリアを見て、素っ頓狂な悲鳴を挙げて駆け寄る。止めることなく、ア・シャラはその場を退いた。
「心配ありません、久方ぶりに食事をされ、疲れて眠ってしまわれたようです」
アマイの説明に、医官はなにより安堵した様子を見せた。
「シャラ様――」
アマイは改まって正式な輝士の礼をとり頭を下げる。
「――我が国の臣民を代表し、心より感謝いたします」
ア・シャラは腰に両手を当て、大樹のように足を広げて屹立した。
「礼には及ばん。それよりも、急ぎ旅の支度をせよ」
「は? 旅、とは……」
「このバカ女を連れてムラクモ各地を視察する。手始めに温泉の湧く保養地でも探しておけ。美容に良いとでも言っておけば、滋養に良い食べ物も口にするだろう。こいつの思いは強い。放っておけば、またいつ不満が外に漏れ出すか。であれば、一度王都を離れ、別のことに意識を向けさせればいい。嫉妬から生まれる憎悪は、己を磨く向上心に転化させる」
「し、しかし……あまりに急な……」
ためらいを見せるアマイ。ア・シャラはその場で腕を組み、足を踏みしめた。
「力づくで凶を滅っさんとすれば傷が残る。陰と陽は連なって円を描くのだ。何事も正面突破だけが解決策ではない。私はお前達の大切な姫を穏便に救ってやろうと言っている。つべこべ言わず計画を立てろ」
「ですが……その……許可が下りるかどうかも――」
か細い声で言うアマイの声を遮り、ア・シャラはその場で強く足を踏み鳴らす。
「先を担う王がため、それを守護する貴様が、自国のなかをうろつくことすら他人に許可を求めるとは、なんたる軟弱か! あの老いぼれがそれほど恐ろしいか。この程度のこと、押し通せぬようであれば、今すぐ親衛隊長とやらの座から降りる事を奨めるぞ」
アマイは一瞬、瞳の奥を揺らした。熟考する様子で眉間に皺を溜め、
「……可能なかぎり、善処、いたしましょう」
と、頭を落とした。
「よし」
と、まるでこの場を取り仕切る勢いで、ア・シャラは見下ろすように頷いた。
医官や控えの者達に濡れた頭を拭われるサーサリアに対し、ア・シャラは邪悪に睨みを効かす。
――程よく王都には飽いていた。
多分に暇つぶしの目的が含まれるが、この機会を利用して軟弱なムラクモの王女を鍛えてやってもいい、とア・シャラは目論んだ。
周囲の心配をよそに、深い眠りに入ったサーサリアの顔は、まるで邪気のない子供の寝顔そのものだ。
――こいつの精神は腐りきっている。
自らが安全な場所に立ち、気に入らない存在の不幸を願い求める様は、己の身を労ることなく磨き上げてきたア・シャラにとって、なによりも醜悪な姿に見えた。
――いや。
しかし、と思い直す。
食べる事を拒み、自らが醜く衰えていくことも厭わぬ姿は、ある意味では捨て身の行動といえなくもない。
――お前にとって、あいつは実であり種であるのだろうな。
合わせて食べることで一個の食物として価値の生まれる東地の果物を思い出しながら、ア・シャラはじっくりと嘆息する。
一身の物としてこの世界に生まれ落ちるそれとは違い、人と人は別個の物として独立して存在する。一方が必要としていても、もう一方も同じとは限らない。
それが現実の事として突きつけられた時、果たしてこの脆弱な姫は、耐えられるのだろうか、と考えずにはいられなかった。
「……覚悟しておけ、バカ女。その腐った性根、心身共に叩き直してやるからな」
ぎょっとして静まり返る周囲を僅かにでも気にした様子もなく、ア・シャラは寝入るサーサリアに向け、その一方的な約束を交わした。
サーサリア・ムラクモという一人の人間の不和と暴走を食い止めた、この時のア・シャラの功を知る者は、広い王都にいる大勢の人々のなかでも、この部屋にいるわずか数名の者達しかいなかった。
この事より三日後、親衛隊長アマイは、サーサリアを連れ、ムラクモ王国領内各地への視察という名目で王都を出立した。
大国と運命を共にする王女の想い人、シュオウがターフェスタに囚われたサーペンティア家の公子を救い出した功績と共に王都へ凱旋したのは、サーサリアが旅立って数日後の事となった。
*
グエン・ヴラドウの執務室へ、入室を促したのは褐色の肌をした女の輝士。声はなく、首を振る仕草のみであったことから、この呼び出しがあまり好意的なものではないことが読み取れた。
軍事、及び内政の最高責任者たるグエンの前に立ち、シュオウはただ黙って屹立する。
「名、階級を」
固い声で女輝士が促し、シュオウはその指示に従った。
「従士曹、シュオウ」
「……任務、ご苦労」
意外な言葉がグエンから出て、シュオウは眉を上げた。
「はい……」
「この度の外交任務、ことの仔細はすでに責任者であるベン・タールより報告が上がっている――」
シュオウは頷き、次の言葉を待った。
グエンは一つ間を置いて、深く息をつく。
「――余計なことをしてくれたな」
場の空気が硬く、重みを持って緊張を帯びていく。
「俺は……自分は、今回の任務に護衛役として同行するように言われました」
グエンは顔色を変えぬまま喉の奥で唸った。
「そうだ。が、現地ついて以降、事のなりゆきを見て状況が新たな局面を迎えた事は理解できたはず、そうだな」
シュオウははっきりと頷きを返す。
「はい」
「ならば問う――件の輝士は貴様に命乞いをしたか」
シュオウは起こった事のすべてに思いを馳せる。
「……いいえ」
「そうだ。すべてを理解し、己の行く末を受け入れていたはず。今回のこと、高度に政治的な交渉の末、すでに結末は決まっていた。関わる者らが納得の末の至極簡単な、人の輸送を見届けるだけの任務であった」
シュオウはジェダという人物について、彼の言動を噛みしめるように脳裏に浮かべた。
――納得?
シュオウは奥歯を食いしばる。
――違う、諦めていただけだ。
反論を求める心を閉じ、合理に基づいた行動を選択する。それは沈黙、だった。
「…………」
「今回のこと、万事をうまくとりなしていれば、この先百を越える年月、北方との無駄な争いを回避することができたかもしれん。それを、貴様はふいにした」
「生贄を捧げて、ですか」
言ったあとに、それが余計な一言だったとすぐに自覚する。
傍らに控えていた女輝士が、腰に下げる剣に手をかけた。瞬間、シュオウは片足を引き、もしも、に備える。
褐色肌の女輝士が、鋭利な視線をシュオウに向ける。その一瞬、女の双眸が、赤みを帯びて光を放ったように見えた。
執務机を強打する音が轟き、シュオウと女輝士の視線はグエンに引き寄せられた。
「申し訳ありません」
女輝士は謝罪して一礼し、顔を伏せて身を引いた。
直前に見たはずの違和感を置き去りにして、シュオウは再びグエンと向き合う。
「自分は罰を受けるのでしょうか」
この無駄な時間が早く終わって欲しい、とシュオウは切に願う。
結論を求めたのは、その結果により、今後の対応を考えなければならないからだ。もし、今回のことでグエンから与えられる罰が命の危険に及ぶ場合、その身の置き方を真剣に考えなくてはならない。
グエンは自らを落ち着かせるように、椅子の背に身体を預ける。
「……極刑に値する。だが、貴様のしたことを裁く軍法は存在しない。そのうえ、誰が流したか、すでにターフェスタに囚われたジェダ・サーペンティアを救いだした英雄譚が広まりつつある」
言って、グエンは立ち上がり、シュオウへ歩み寄る。
重そうな拳が前へ出て一瞬身構えるが、グエンは握っていた階級章を出し、シュオウの従士服へ雑に取り付けた。
「ターフェスタの卑劣な謀略より、我が国を支える有能な輝士を救い出した事、その優れた功績は従士長への昇級が妥当であると判断する」
呆けていたシュオウは、その場に足を揃え、背筋を伸ばして頷いた。
「は、はい……」
グエンは席に戻り、
「現時点で知るものは極小であるが、ターフェスタは此度の事を理由に正式な対戦を申し込んできた。一人の犠牲を拒んだ結果、多くの血が流れることとなる大きな戦となるだろう。前線にて、その力を存分に発揮するがいい」
それは皮肉であったのかもしれない。が、シュオウの耳には期待している、と華を持った言葉として届いていた。
*
迷いなく、はいと頷いたシュオウが退室する間際、グエンはその背を呼び止めた。
「ターフェスタで見たこと、知ったこと、すべて他言を禁じる。破れば任務に関わった者すべての連帯責任とする」
シュオウは無言で頷いた。
ふと、その手にまかれた大仰な布に目がいき、グエンは尋ねる。
「その手は……どうした」
シュオウは自身の左手を覆う布を見て、
「ターフェスタで行動中、ちょっと」
なにげなく、グエンはその手に負った傷の様子が気になった。
目の前にいるこの青年は、間違いなく稀代の手練の戦士である。そんな人間が、どれほどの手傷を負ったのかと、子供じみた好奇心が湧いたのだ。
しかし、グエンは即座に平静を取り戻した。手を払い、副官であるイザヤにシュオウを退出させるよう指示を出す。
見送りをすませたイザヤが部屋に戻り、窺うようにグエンに問を投げた。
「罰をお与えになるはずでは?」
グエンはイザヤに背を向け、椅子に深く身体を預ける。
グエンには初めからわかっていた。罰を受ける者がいるとすれば、それは自分自身である、と。
繊細な配慮が必要となる任務に、なんの指示も与えないままシュオウを同行させたことは、失態の最たるもの。恋愛という幼稚な感情に振り回されるサーサリアを弱らせることができる。その思いから、目の前にあった遠方への外交任務につかせたが、結果、彼はグエンやその他の者達の思惑を破り、すべてを無事なまま、それこそ、護衛という任務を忠実に果たして凱旋したのだ。
描いた計画として、シュオウを含む、ジェダ・サーペンティアに同行させた者全員、ターフェスタの手で亡き者になったとしてもなんら問題はなく、そうした意図も伝わっていたはず。が、ターフェスタの主は、国という単位の力を持ってしても、それにしくじったのだ。
この場で罰を受けるにふさわしいのは、ターフェスタの間抜けな領主であり、その領主の間抜けぶりを見抜けなかったグエンである。
加えて、今回の出来事がすでにムラクモ領内において噂話として広まり始めていることも事実。誰が見てもその功が明らかな従士に罰を与えたと知られれば、疑念を抱くものも増えるだろう。疑念が膨らみ、事の裏側を探られるのは望む所ではなかった。サーペンティアに息子を贄として差し出させる条件として、その事実を絶対に表沙汰にしない、という密約があったのだ。
グエンにとっても、今回の行いは他人に知られてはならない類いの謀である。
結局、シュオウに対して罰を与えるどころか、昇進という褒美を与えるに至った理由は、そうしなければ不自然なほど、表向きの功績が大きすぎたため。もみ消す前にその活躍が周知の事となった時点で、必然の事となっていたのである。
――あの眼。
呼び出されたシュオウと対峙したとき、グエンは己のしようとしていたことを、この若者に軽蔑されていると感じた。
一瞬でもはずれない強い視線は、まるで失望を感じた相手を責めるような色を含んでいた。そう感じたとき、グエンの心には侮られることを嫌う感情が芽生えた。それは血の通った生の青臭い感情である。
――否。
それだけが理由ではない。あの時、自分に罰を与える気かと訪ねたシュオウの顔には迷いや怯えがなかった。もし自らに害が及ぶなら、力づくで対抗することも辞さない。そう、覚悟をしている男の顔だった。
――乾ききったこの身が、気で押されたか。
南山への押さえとして呼び寄せたア・シャラの入れ知恵により、サーサリアはその身を癒やすための旅へ出た。
頻発する小競り合いが国庫に負担をかけていた北方との問題は、解決を目前にして以前より状況が悪化した。
思うままにならないことばかりである。
――だが。
グエンは養女に悟られぬよう、頬の肉を僅かに上げる。
――時はある。
グエンの心に、焦りは微塵も生じない。
体内で蠢く深紅の蟲が、血を欲して律動を始めた。
文字通り、腹の虫を押さえるため、グエンは餌場へと足を向ける。部屋を出る前に、副官に向け、現時点で最も重要な命令を告げた。
「蛇と狼を呼び出せ――四石を招集する」
この後〈ユウギリ戦争〉という名を得る事となる大戦。その最初の一歩が、この瞬間に刻まれた。
開戦編を始めます。
更新間隔は不定期となります。
楽しんでもらえる物語になるよう、がんばって書きますので、応援よろしくお願いします。