回廊の二姫 2
2
同族を殺すことへの嫌悪はなく、意外なほどに事は軽くすむ。
どんなものでも溶けるように切り落とせる、幻想の刃を振るだけでいい。
対象となる女達は皆、色のついた輝石を見ると油断する。
奴らは脆弱で間抜けな存在だ。
人間が日頃、生物を殺めて腹に収めているように、ある日突然に、その対象に自分が選ばれるとは考えない。
衝動の根は飢えだ。殺人という禁忌を侵すには、理性を消すほどの強い飢餓が不可欠となる。
欠けた心を埋めるため、自らを慰めるための贄が必要だった。
暗がりの路地の影。
標的の背後で、夢幻の刃を振り上げる。
――僕は、狂っていない。
やり方はいつも同じ。整然として秩序を内包している。そんなことをできる人間が狂いのはずはない。
――僕は、正常だ。
刃を振り下ろす。
胴を斜めに切り離すために、通された一筋の線。
身体は別れ、崩れて落ちる。死の臭いは常に温かい。
めざわりな白く濁った石を切り離し、不義の証を懐に忍ばせる。
美酒のように、多幸感が全身に巡った。
これでまた、生きられる。
少しだけ、忘れることができる。
健全な心の在り方を計るために、善悪という尺度を用いるのならば、人間の身体を真っ二つに切り分ける、この線は、その境界だ。
セレス・サガンという人間は、境界の上に佇む者だ。己が正常なのか異常なのか、その判別がつかず、どちらへ足を置くべきか決め兼ねている。
醜く命を落とした女の死体を眺め、セレスはほくそ笑んだ。
これは正真正銘の愉悦。美酒であり、葉巻であり、恋する人と結ぶ逢瀬であり、ひとときの眠りの、その合間に見る理想の夢なのだ。
もし今、楽しげな演奏でも流れていれば、この殺人という行為も、きっと喜劇として収まりよく落ち着くにちがいない。
だが急変は、文字通り突然に訪れた。
セレスの描く愉悦の一時へ、土足で踏み込む者達が現れる。
あってはならない異物が紛れ込んだのだ。
現れたのは二人の少女。
計算の外にあった彼女達の存在は、セレスにとって、夢からの覚醒を促す家禽の一声だった。
*
正常な心とは、誰にも踏み荒らされていない真新しい雪のようなものだ。
頂にあって、訪れるモノはなく、溶けて流れるまで一切の汚れを負うことはない。
現実の世界に降り積もる雪には、それが叶う余地もあるが、人の世は違う。
人間が創造し営む世界にあるかぎり、完全な孤独は望めない。
ときに、ある者が放つ成功を輝きを眩しいと感じ、また理が生む無常な闇に飲まれた者を目の当たりにして、起こりうる未来を思い、嫌忌する。
他人とは常に、己の心を踏み荒らす足跡そのものだ。
その触れ合いが増えるほど、新雪は形を醜く歪め、純白は土や泥に汚れ、黒と茶色を混ぜていく。
セレス・サガンにとっての足跡は、創造主たる両親だった。
貴族家に生まれるも、父は当主家とは離れた傍流の人間。輝士としての地位も実力も並以下で、領地もない。予備役として支給される僅かな給金で、小さな邸と僅かな使用人を抱えるだけの生活、そんな枯死した状態にあるのが、セレスの生家だった。
多くを望んでいたわけではない。地元の平凡な司祭から石名をもらい、師を得て、輝士のはしくれとして軍に所属する。北方で貴族として生まれた者にとって、夢ともいえないような些細な願望は、しかしセレスには与えられなかった。
師も石名も得られぬまま、歳だけを重ねていく。父に何度頼んでも、返事はいつもはぐらかされる。
同じ年頃の若者たちは、皆それぞれに新たな可能性に身を投じていく。その光景は眩しさを超え、妬みと憎悪を育んだ。
前触れ無く、日常に突如訪れた、サガン一族血統の頂点にある家の当主によりセレスは答えを得る。去り際に挨拶を交わした後、馬車に乗り込んだ当主は、セレスに触れた手を拭いながら小さく呟きを残した。
「混じりものめが……」
全身を巡る血が、すべて足の底から抜けていくような心地がした。
セレスは父を問い詰めた。
子を産んですぐに死去したと聞かされていた母について、父は存命であることを明かし、そして真実を告げた。
お前の母は白濁した石を持つ者なのだ、と。
だから師を得られないのか、だから石に名を授かれないのか、とセレスは父を問い詰めた。
実際に聞かずとも、答えはわかっていた。
真実を知った瞬間から、白い雪に覆われた風景に、大きく汚れた足跡が一つ、落ちた。
存命である母の居所を聞き出し、惑う心のまま会いに行った。
物心がついて初めて見た母は、みすぼらしい、どこにでもいるような平民の女だった。
粗末な住まい、衣服、食事、白く濁った石。父から送られる僅かな生活費で食いつないでいるだけの母は、セレスを見るなり怯えるような目つきで、必死に頭を下げ、機嫌取りの言葉を紡いだ。
母がセレスを見る目は、まるで失敗品を前にして、罪悪感で頭を抱える創作者のようだ。
セレスのなかで、なにかが音をたてながら崩れていった。それは、自尊心であり、自信であり、僅かに残っていた小さな希望だったのかもしれない。
卑屈な態度で応じる母に罵声を浴びせ、家のなかの物を手当たり次第に破壊した。
どうして自分を産んだのか、という呪いの言葉を吐き、その結果として生じた苦しみのすべてを吐露する。
涙を流して崩れ落ちるセレスに、母は泣きながら許しを請い、かならず父に願って石名を得られるようにすると約束した。
震える指に呪をかけ、母はセレスと小指をからめ、自らの約束を誓いへと昇華した。
セレスはその誓いと、言葉を信じた。
それからしばらく後に聞いたのは、母が自ら命を絶ったという知らせだった。
心象の雪景色に、もはや白雪は微塵も見当たらない。
美しさ、清らかさが正常であることを示すのであれば、セレスの心はこの時、完膚なきまでに汚れきっていた。
*
「酷い話だろ、あの女は僕に誓ったんだ、かならず石名をくれるって。それなのにッ――」
セレスは木棚の上に立てて置かれていた死臭を放つ女の小指に触れながら、冷たくなったそれを強く握りしめる。幾重にもついた血の痕が黒く濁ったその木棚に、再び指を戻した。
「実際に体験してみて初めてわかるんだ。他人へ抱く恨みってやつは、ただじっとしているだけじゃ消すことはできない。必要なのは行動だ、苦しみを生む、恨みを消すには、源を絶たなければならない。相手が人間なら、それは殺しだ。でもあの女はもういない。なのに僕の苦しみは消えないんだ。だからためしに、あの女が過ちを犯した頃と同じくらいの女を消したんだ。すっとした、心が楽になった。嘘をついた罰に指も奪った。でもとった指はいつか消えてしまう。その頃にはまた僕の心は苦しくなっている。だからまたやらないと。そうでなければ僕は生きていられない。外を歩けない。僕はかわいそうだ。輝士の誰よりも力があるのに。誰も僕を見ない。誰も僕の話を聞かない。相応しい職を与えてくれない。僕はかわいそうだろ? だから頼むよ、頼むから――」
セレスは床に寝そべる少女の髪をハヤブサの刺繍がついた手袋で掴みあげ、涙に濡れた目をじっと見つめる。
「――あの子がどこへ行ったのか、いい加減に教えてくれないか」
涙を溜めながらも、勝ち気な目に宿した炎を灯したまま、少女はセレスの顔にツバを吐きかけた。
「だれが言うもんか……何度も何度も、くだらないことをべらべら聞かせやがって、あんたの生い立ちなんかどうだっていいんだよッ」
セレスは汚れを拭い、少女の頭を床に叩きつけた。硬い音がして、折れた歯が床に残る。もう一度上げた少女の口や鼻から血が零れた。
「教えてくれなければ困るんだ。アレが誰かの手に渡れば僕がしてきたことが知られてしまう。困るんだ、父が知れば悲しむ。きっと怒る。それは困るんだ。絶縁されれば、サガンの名まで失ってしまう。まだ誰も気づいている様子がない。だからきっと、まだ間に合う。頼むよ、僕は忙しいんだ、任務がある、仕事の合間を縫ってどうにかここへ来ているんだ。もう何日もまともに眠れていない、疲れているんだ。だから頼む、お願いだ……」
少女は口のまわりの血を舐めながら、鋭利な視線でセレスを見つめる。目が合うと、セレスは一瞬、目を揺らして視線をそらした。
「みんなあんたがしてきたことのせいで怯えたり、不安な毎日をおくっていたんだ。そんなやつの願いなんて聞くわけないさ。あんたは頭がおかしい、異常者だ。見た目は普通なのにね。不思議だったんだ、その目、顔つきには覚えがある。下街のなかであんたみたいなのをたくさん見てきた、ぐだぐだと言い訳をしながら、本音では全部をあきらめた奴の顔だ。強いやつに食われるだけの人間さ。あんたは貴族の家に生まれただけのただの負け犬、そんなやつに脅されたって、少しもこわくないんだよ」
セレスの頬が引きつり痙攣を起こす。
左右ばらばらに歪んだ口元から、憎しみをこめて擦り合わされる歯が覗き、喉の奥から怨嗟の声が漏れ出した。
「お前なんかになにがわかる。輝士としての地位を得た連中の誰より僕は出来るのに、僕を産んだ女が屑だったというだけで、あんな醜い連中を押し込めるだけの部隊にしか居場所を与えられないッ。みんな大嫌いだッ、猛禽の醜い獣みたいな奴らもッ、名家に生まれて好き好んであんな部隊にいるクロム先輩もッ、国を捨てたのに輝士になれたムラクモのあいつもッ! 僕に相応しい職をくれれば、僕はその瞬間からまともになれる、今すぐ全部やめられるんだ、僕は異常じゃない、まだ戻れるんだ――」
腰から短剣を抜き、刃先を少女の喉元に当て怒鳴る。
「――言え! あの子はどこへ逃げた! 家はどこだ、お前の親はどこに住んでいるッ、いますぐ言わないなら……」
力を込める短剣の刃に、少女は自ら身体を押して刃先を喉に押し付ける。
「なにをされたって絶対に教えない。殺しなよ! できないんだろ、あんたのガキみたいな怯えた目が、ずっとそう言ってるんだよッ」
セレスは醜い形相で短剣を握る手に力を込めた。刃の先が首の皮膚の表層を破り、わずかに鮮血が零れ、刃を濡らす。
自らの行いに驚いて、爆ぜるように身を引いたセレスを、少女が嘲笑った。
「怖いんだろ、子供を殺すのが。若い女は殺せても子供はやれないのか? つくづくあんたはおかしいやつだ」
「うるさい……だまれ!」
足を踏みながら怒鳴り声をあげると、少女は身体を震わせ、両手の拳を強く握りしめた。
「お前は嘘つきだ、怖いくせに、痛いくせに。大人の真似をして、嫌な言葉ばかり吐く。いいさ、どうせいつまでも続かない」
セレスは短剣を腰に戻し、床下にある空っぽの食料庫の扉を開いた。
少女の髪をつかみ、頭から穴のなかに小さな身体を放り込む。
闇の底に落とされた少女が大きく悲鳴をあげた。
セレスは真っ暗な穴のなかへ向け、声を張る。
「どれだけ騒いでも無駄だ、ここの声は外に漏れない、ここを知っているのも僕だけだ。誰もこない、助けはない。僕はもう行かないと、仕事があるんだ。直接手を下す必要なんてないんだ、ほうっておいたってお前は死ぬ。生きていられる間に、次にここへ僕が戻ってくるときを精々祈って待っていればいい。もし反省して協力する気になったら、餌くらいは与えてやる。だからよく、考えてくれ。僕になにかあれば、どっちにしてもお前は死ぬんだ。生きていたいなら、協力することだけを考えるんだ」
少女を落とした食料庫の扉を閉じて鍵をかける。床下から少女の怒鳴り声が、篭った音になり、響いていた。
*
セレスは急ぎ足で部屋を後にした。
上街の中腹、民の暮らしを支える拠点として機能する住まいが集中している区画。その一角、日当たりが悪く、急な階段を降りた先にある立地条件の最悪な、安くて狭い部屋を密かに買い取り、避難所として使っていた。
暗い夜空を孤独に飾る、一点の月がある。
セレスは羨望の気持ちを込め、その月を見つめた。
――羨ましい。
この夜は静かだ。
上街を彩るのは月光と風の音だけ。人気はない。
懐から地図を取り出し、招集のかけられた地点へ向かった。ここからはそれほど離れていない。
呼び出しのかかった地下へ通じる水門には、すでに隊長をはじめ、猛禽の面々が、黒いフードをかぶった姿で集合していた。新入りのセレスには、初めて見る顔も多い。
「遅い、お前が最後だ。置いていくところだったぞ」
隊長のハゲワシに叱られ、セレスは慌てて駆け寄り頭を下げた。
「す、すみません。カルセドニー監察官がなかなか離してくれなくて」
クロムの名を出すと、ハゲワシは鼻息を吐いて怒りを和らげた。
「奴はどうだ、きちんと任務についたか」
セレスは気まずい心地で視線をそらした。
「さあ、わかりません。無理やりあやしい店に連れていかれそうになって逃げてきたので」
ハゲワシは大仰に溜息をつき、
「あのバカめ、こんなときまで……。まあいい、やつのことはしばらく忘れろ。こっちが猛禽にとって最重要任務となる」
「いったい、何事ですか。随分と物々しいですね……」
明らかに尋常ではない雰囲気だ。皆の目が殺気立っていることを考慮するまでなく、荒事になるのだという予感がある。
「地下のどこかで潜伏している標的を始末する」
「それはムラクモの……?」
ハゲワシは険しい顔で否定した。
「違う、標的は重要な機密情報を知り得たまま逃亡している小娘だ」
セレスの瞳は大いに揺れる。
「むすめ……標的は子供、ですか」
ハゲワシは頷き、待機する猛禽へ手を振って指令を出した。
「各々、散開しろ。標的は小娘一人。が、それに関わった可能性のある者すべてを目標に含める。現時点より地下で遭遇した動くモノすべてを敵とみなし、確実に消せ。死体でかまわん、身元の確認は俺がする。陽が昇るまでに片を付けるぞ、いけッ」
指示を受け、それぞれが蠢く虫のように、地下へと潜っていく。
ひとり取り残され、セレスは慌てて後を追いかけようとした。その背を、ハゲワシが呼び止める。
「待て、お前はいい」
「どうしてですか、招集されたのに。僕にもできますッ」
「新入りを戦力として期待しちゃいないんだ。俺はお前がどれだけ出来るのかも把握できてねえからな」
「そんな……ならどうして」
「顔色は悪いが、お前は猛禽でも一番小奇麗だ。そちらの御方の補佐、警護役をまかせる、命令に従え」
奥の暗がりから、フードで姿を隠した細身の男が現れた。フードをはがした先に現れた顔を見て、セレスはそっと息を呑む。
「あ、あなたは……」
その男は親衛隊をまとめる冬華六家の長、デュフォスだった。猛禽という影の組織に身を置くセレスにとって、雲の上の存在だ。
デュフォスは眼鏡を指であげ、人差し指を口元にあてた。
「見たこと、聞いたこと、すべて他言無用だ。いいな」
セレスは定まらぬ瞳でデュフォスへ頷きを返した。
「では、我々も続く。この任務、失敗は許されないぞ」
一歩を踏みしめたデュフォスに、腰を低くしたハゲワシが続く。
事態を飲めぬまま呆然とするセレスは、手で促され、慌ててその後に続いた。
*
「さて、どうするか」
地下の休憩所のなかで、ユーニが持ち込んだ手袋を眺めながら、アイセは難しい顔でまなじりに力を込めた。
ナトロが扉に手をかけ、皆を促す。
「行くしかないだろう。てか早く行こう……どんどん気分が悪くなってきてる、なんとなく吐きそうだ」
「お前の体調を基準に行動を決められるもんか」
とは言いつつも、ナトロの言う通り進むしかない。拐われたという少女の安否も気がかりだ。
アイセはシトリにへばりついたユーニへ優しく声をかけ、手を差し伸べた。
「一緒に行こう、君のお姉さんを探すのを手伝う」
ユーニはアイセをちらと見つめ、頷いた。が、差し出された手はとらず、変わらずシトリに身を寄せている。
出した手を持て余して握り、アイセは愚痴った。
「シトリのどこに懐く要素があるんだ……」
いち早く扉を開けたナトロが、ぼそっと呟きを残す。
「子供は柔らかそうなのが好きなんだよ」
アイセは鼻息荒くナトロを押しのけ、ついでに足を踏んで部屋を出た。
*
ユーニを見つけた部屋にあったランプを用いることで、夜光灯はその役目を譲ることになっていた。
青白い光の代わりに、温かい赤の光が周囲をよく照らしてくれる。
「こっちでいいのか?」
道順を聞いたアイセに、ナトロは首を傾けながら返事をした。
「あ、ああ、そうだな」
頼りない声がアイセの不安をかきたてる。
「……まさか、道を知らないんじゃないだろうな」
「知ってる……」
「実際にここを歩いたことがあるんだろうな」
「……ない」
アイセは呆れ返って足を止めた。
「威勢よく案内をすると言ったじゃないかッ、前提から嘘が混じっているのなら、あの約束は反故にする!」
「しかたないだろッ、俺みたいな人間がこんな汚いところにわざわざ入るもんか。ただ案内をすると約束したのは嘘じゃない。城の方角はわかってるんだから、下街へ下っていく事くらい楽勝だろ」
「それなら私と同程度じゃないか。まったく、これだから温室育ちのおぼっちゃんは……」
やれやれと首を振るアイセに、ナトロは反発して口喧嘩を始めた。
そんな二人にはおかまいなしに、シトリがアイセから明かりを奪い、周囲を照らして見回した。
「ねえ……なに、ここ」
静かに言ったシトリの声に、二人は口論を止め、その視線の先を追った。
広々とした空間に、美麗な模様が刻まれた壁や柱が林立している。
中央には古井戸があり、そこを取り囲むように長大な回廊がうねっていた。
埃をかぶった床には、幅広で深い排水溝が無数に刻まれている。その溝のなかを、場違いなほど新鮮で綺麗な水が流れていた。
無表情で顔が欠けた女の彫刻が崩れて転がり、塵や埃のなかで横たわっている。かつての生活の名残である道具の数々も、無造作に散らばっていた。
「大昔の教会、だな……」
ナトロは小声で言って、転がる女の彫像の前でひざまずき、祈りの言葉を紡いだ。
「神殿の回廊に囲まれた、ここは中庭みたいだな。地下にこんなものまであるのか」
祈りを終え、立ち上がったナトロは汗を拭って頷いた。
「昔はな、地の底が民の暮らしの中心だった頃があったらしい。その頃には、この教会もさぞ立派な佇まいだったんだろうぜ。まあ、神を捨てた連中の子孫に言ったって、ぴんとこないだろうが」
黄ばんだ灰色に汚れた石材と、薄茶色の砂埃に覆われた廃教会に、かつての面影はない。
「行こう、観光をしにきたんじゃない」
皆が頷き、前進を再開しようとしたときだった。
赤い光が落とす影を、一匹のネズミが踏み、走り抜けていった。
続けてもう一匹、また一匹と増えていき、しだいに数が増え、無数のネズミたちが群れをなしてアイセ達の足元をすり抜けていく。
誰が言うでもなく、異常なことであると皆が理解していた。
「いったいなん――」
ナトロの右腕に、突如短剣の刃が突き刺さった。
直後にナトロは絶叫して膝を折る。
アイセは慌てて周囲を見渡す。何者の姿も見えない。が、音は聞こえる。無数の足音だ。ひとつずつは小さくとも、それが数多く重なることにより独特な厚みのある響きを奏でている。
ついに、ターフェスタからの追手がかかったのだとアイセは思った。
「シトリ、明かりッ」
アイセの声でシトリは慌てて炎を消した。
突然の暗闇に目が慣れず、身動きをとることができない。
――何人だ。
耳障りなほど鼓動が大きくなっていく。
さらに、無数の気配が近づいてくるのがわかる。
――先制攻撃を受けた。
すでに位置は敵に知られている。明かりを消し、次にすべきことは、体制を整えられる場所まで退くことだ。
だがアイセの足は動かない。
なにも見えない状況で、ひとりは負傷し、ひとりは幼い子供を抱えている。現状で有効な対抗手段が、なにひとつ浮かんでこなかった。
――囲まれている。
全方位から感じる音が、その事実を示唆していた。
闇のなかで、なにか重たい物が水に投じられ、ざぶんという低い音が四方から聞こえた。
周囲を巡る排水溝が、青白い光を放ち、光の筋をつくりだす。投げ込まれたのは無数の夜光石だ。闇を打ち消す青の光は、隠れていたアイセ達の姿を晒す。同時に、夜光石の光は、気配の主達の姿も浮き彫りにした。
フードを目深に被った男たち。彼らはそれぞれ回廊を取り囲むように陣取り、中央で固まるアイセ達を鋭く観察している。
敵に囲まれているという事実とは別に、アイセは彼らが帯びた独特な雰囲気に息を呑んだ。
彼らは皆、容姿になんらかの欠損を抱えていたのだ。はっきりと色まではわからないが、全員の輝石は、あきらかに白濁したものではない。剣を持たず、全員が同じような黒い手袋をはめている。尋常ではない様子からして、彩石を持ちながらも彼らがまっとうな輝士ではないことが窺えた。
「猛禽……」
腕に刺さった短剣抜きながら、ナトロが言った。
その部隊名を聞き、アイセは自身が預かっている手袋を思い出す。
「ということは……」
ナトロはよたよたと立ち上がり、取り囲む男たちへ呼びかけた。
「お前たち待てッ、俺は冬華の――」
しかし、言い終えるより早く再び短剣がナトロ目掛けて投げつけられる。間一髪それを躱して、ナトロは歯を剥いた。
「くそ、聞く耳持たずかよッ」
「シトリ、そっちは何人いるかわかるか」
「たぶん一人……もっといるかも……よく見えない」
アイセの顔はますます険しくなっていく。
見えるかぎり、前方に二人、左右にも複数人が取り囲んでいる。
逃亡という選択肢は捨てるべきだ。現状のままで逃げるのは難しい、と判断する。
「なら、開き直るしかないな」
アイセは虚空を掴み、晶気の剣を創造した。
「やるのか?」
ナトロが聞いた。
アイセは首肯する。
「逃げて事態が好転するような状況じゃないだろ。お前も手伝え、私達と一緒にいて、その青の輝士服を着ている姿を見られたんだ、すでに敵として認識されている。怪我をしていても晶気を使うくらいできるだろ」
「無理だ……」
「なんでッ、アリオトでみせていたあれでいいんだ」
「俺の力は強すぎる。こんな古びた地下施設のなかで使えば、崩落を起こすかも。下手をすればその瞬間に全滅だぞ」
「く、役立たずッ」
「死ぬほどむかつくが、否定できない」
アイセは歯を食いしばって正面を見た。
「シトリ、ほどほどの大きさでかまわない、水球を用意できるな」
「できるけど……小さな的に当てるの苦手なんだけど」
「とにかくやってくれ、突破口が開けば、そこから逃げられるかもしれない」
シトリは頷き、両手の平を合わせ、半眼で深呼吸を始めた。その手のなかに、じわりじわりと小さな水の塊が生まれつつある。
正面から一人、背後から一人、猛禽が動き出した。
「後ろはまかせたぞッ」
迎え撃つため、アイセは足を踏みしめて前出る。
「おい、せめてなにか武器をくれ! なんでもいいッ」
意識はすでに前から迫る敵に集中している。武器を没収されたことで、完全に丸腰状態となっていた事を忘れ、アイセはいつも腰に下げている剣を想像し、それを掴んで放り投げた。
投げて渡された物を見て、ナトロは叫び、すぐにそれを投げ捨てる。
「気色悪い人形でどう戦えっていうんだよッ――くそ、これでいいッ」
ナトロは床に転がったほうきを蹴り上げて回転させ、こなれた所作で掴み、構えた。
「よし、こいよ……手負いのうえ武器はボロボロの木の棒。それでも刺し違えるくらいはやってやる」
しかし後方からの敵はナトロの前で動きを止め、距離を開けたまま間合いを維持した。
アイセの眼前に迫りくる猛禽は、片手で短剣を構え、全身を低く屈めて距離を詰めてくる。
間合いはさらに縮まる。
勢いを利用して放ったアイセの突きに対して、猛禽は身体を流して身を躱す。唸る風の刃が、黒のフードをかすめ、大きく切り込みを入れた。
――おしい。
すかさず、猛禽はアイセの胸元目掛けて短剣を振った。確実に命を狙った鋭い一撃だ。
瞬時に、アイセは晶気による防御術、晶壁を張り、その一撃を受け止める。
面として抑え込まれた風の壁は、鋭い刃を完璧に受け止め、力強くはじきかえした。
攻撃を防がれた猛禽は一瞬、怯んだ様子で後ずさった。
――こいつ。
いかにもな見た目から想像していたほど、強さを思わせる気配がない。一瞬の所作に高い練度を感じなかったことで、そうした考えが浮かんだ。
勝てるかもしれない、とアイセのなかに僅かな慢心が芽生える。
対峙する猛禽の左手の指先が赤黒く光を帯びた。
「しまッ!?――」
猛禽は光る指先で地面を掻いた。五本の指それぞれに地面が削り取られたように消え、鋭く尖った石の矢弾となってアイセを襲う。
顔と胸を目掛けた二つの石矢は咄嗟の晶壁により防ぐことができた。が、うち一本は守りが間に合わず、脇腹の端を鋭く抉り、突き破った。
痛みに悲鳴をあげる余裕すらなかった。残りの二本は後方へ流れている。
ほとんど倒れ込むように上半身を回転させ、後方を見る。二本の石矢は真っ直ぐユーニに向かって流れていた。左手を突き出し、アイセはユーニの前に晶壁を張った。
ユーニの直前にまで迫っていた石矢が晶壁にぶつかる。急なこと、そして負傷したことにより、晶壁の強度は不完全だった。石矢は風の守りを突き破らんとし、晶壁はまだその威力を殺しきれていない。しだいに威力に負け、晶壁が薄布のようにたわんでいく。
アイセに緊張が走った。
――抜かれる。
壁が破られるその寸前に、ナトロが飛び込んでユーニを射線からはずした。直後に石矢は壁を突き抜け、奥の柱に直撃し、粉砕する。
少女の無傷に安堵する余裕もない。
左右で待機していた猛禽達が投擲用の短剣を構えていることに気づく。アイセは彼らの狙う先を目で追った。
――ナトロ、いや。
彼らの視線はユーニをかばったまま、地面に伏すナトロに向けられている。だがアイセは違和感を覚えた。見るからに手負いであるナトロを狙うのは理解できる、が今まさに彼らの目の前で力を溜めているシトリこそ、仕掛けるには優先度の高い相手のはず。
猛禽という部隊、そしてユーニの話が重なり、ひとつの考えが浮かんだ。
――狙いは、まさか。
アイセは急ぎ晶壁をナトロとユーニの周囲に展開した。
猛禽達により、左右から計四本の短剣が投げられる。晶壁は刃が食い込む余地もないほど、堅固にその役割を果たした。
「アイセ、前ッ!」
シトリの叫びに、気をそらしていたアイセは、はっとして前を向く。
発光する指で、再び前に陣取る猛禽が地面を抉った。すぐさま五本の石矢を想定し、新たな晶壁を準備する。が、削り取られた石材から作り出されたのは、矢弾ではなく、無数の破片だった。一つずつは細かく、重さもないが、小さなその破片は各々に刃の先のように尖った形状をしてばらまかれる。
石矢に対応するため、小さく強度の高い防御を準備していたアイセは、尖った小石の雨を浴びた。晶壁の用意が間に合わなかった身体の部位に、細かな石の破片が突き刺さり、破れた服の奥で、皮膚が裂かれ、血が滴る。
一つずつの怪我は軽いが、アイセは感じたことのない痛みに気を弱らせ、腰を引いた。
好機であるにもかかわらず、前にいる猛禽はそれ以上攻めてこない。左右後方に陣取る者達も同様に、僅かずつ距離をつめながらも、一斉に襲いかかってはこない。
――試しているのか。
あくまでも様子を窺っているのだ。アイセらの戦力を計るため、小技で揺さぶりをかけている。出来ることがあるのなら、それをすべて見せろといわんばかりの、消極的で、安全に獲物を狩る群れの戦法だ。
アイセ達にとって彩石を持つ彼らが脅威であるように、猛禽にとっても、得体のしれない彩石の力を持つアイセ達は怖いのだ。
――なら、見せてやる。
アイセはシトリを見た。彼女の手のなかで唸る水球は、子供の頭ほどの大きさになっている。
シトリと目を合わせ、頷いてみせる。
シトリは球技のように水球を振りかぶった。
「放つッ」
水球はシトリの手を離れ、前方にいる猛禽へ向かって投じられた。
威力は十分だ。彩石を持って生まれた者のなかでも、その力を高密度、高威力に練り込み、放つことのできる者は希少な存在だ。
シトリの生み出した力は猛禽の想定を超えていた。その威力を前に怯えの色が浮かぶ。
アイセは自らを追い越していった水球の後を追い、突撃をかけた。
猛禽は迫る水球を必死に飛び込んで躱す。当たりそこないの水球は回廊の壁を穿って爆風を散らし、周辺の砂埃をすべて舞い上げた。廃教会は土煙に包まれ、視界は著しく悪化する。
当たらずとも、シトリの水球は勝利を得るための隙を確実に生み出した。かろうじて水球をかわした猛禽の一人は、次の動作への対応をとれずにいた。舞った土煙に紛れ、アイセは風の剣で猛禽の胸を穿ち、肉を裂いて心臓を貫いた。
絶命する間際、光が消えていく目を見つめながら、アイセの呼吸は荒くなる。震える手から風の剣が消え、胸に空いた穴から、泡を伴って鮮血が溢れ出た。
手が震え、目が揺れる。感触や音が耳にこびりついて消えず、死に絶えた男の顔がいまもまだそこにある。
土煙が霧のように舞う暗い空間に、音もなくもう一人の猛禽が姿を現した。その男は片目が白く濁り、上唇がない。その不気味な顔をした男は、仲間を殺され、怒っているように見えた。
――逃げないと。
咄嗟の状況に、惑うアイセの心は攻めの思考を失っていた。
手も足も動かない。
猛禽が片手に握った短剣を逆手に握り、振り上げた。
アイセは晶壁を展開しようと意識する、が、興奮状態にある頭は、うまく力を創出することを拒んだ。
――だめだ。
間に合わないと悟り、アイセは無意識に両手で頭をかばう。
猛禽の短剣が振り下ろされる瞬間、その手は不自然に動きを止めた。
重く砕くような音を漏らしながら、あらぬ方向へ肘が曲がり、腕がひとりでに捻りながら後ろへ回る。直後、猛禽は辞儀をするように頭を下げた。まるで一人で踊る操り人形だ。
痛烈に悲鳴をあげた猛禽の頭を、見覚えのある靴が強烈に踏みつける。
土煙のなか、いままで男が立っていた場所に、赤い輝士服を纏った銀髪眼帯の青年が、鈍い青の光を受け、眼光鋭く佇んでいた。