蛇尾
Ⅷ 蛇尾
1
民衆の怒りがターフェスタを焦がす夜より、時は遡る。
「囚われ人とは、じつに退屈なものですね」
図らずとも同居人となった老人へ向け、ジェダは言った。
冷たい鉄格子にもたれ、空気穴から漂う冴えた空気を嗅ぎながら、こぼれる月の明かりを手ですくう。
――こんなものですらすでに懐かしい。
当たり前に降りてくる一夜の月光を見て、こぼれて落ちた微かな自由を想う。
「失って初めて知る。こんな僕でも、なにも持っていなかったわけでは……」
すぐ側の牢に入れられたターフェスタ宰相ツイブリは、ここへ入れられてからの良い暇つぶし相手となっていた。求められるまま、彼の知りたがる人物について語っているうち、無為にすごすはずだった時間に多少の潤いを持たすことができたが、ジェダが知るかぎりの短いその話が尽きると、途端に空虚で退屈な現実が押し寄せてきた。
――余計なことばかり考える。
暇、とはやっかいな存在だ。閉じたはずの箱の封が、不意に開いてこぼれてくる。
――少しくらい、後悔をしていますか。
息子を手放した父、オルゴア・サーペンティアを思い、自嘲した。
オルゴアは手にする地位、力を御すことのできない小心な人物だ。横暴な姉に怯え、家族の顔色を気にし、自らの権力を上回る相手、同等の相手に立ち向かう勇気もない。
今回の事、裏で絵を描いたのは、ムラクモを実質的に支配するグエン・ヴラドウだろう。曲がりなりにもサーペンティア家当主に対し、子を差し出せと強制できるのは、かの人物をおいて他にいない。
かねてよりジェダを憎む伯母ヒネアの耳に入り、強行にオルゴアを説得したことが容易に想像できる。
ターフェスタがジェダを求めた事のかわりに、グエンに何を差し出したのか気になった。
――この身の値段はいかほどか。
ジェダは誰に向けてでもなく吹き出した。置かれた状況を冷静に俯瞰できていることがおかしかったのだ。
怖くないのか、そう自分へ問う。次の瞬間、掛け値なしの親愛を送る姉、ジュナの顔が浮かび、心の奥で爆ぜるように冷気が漂った。
震える肩を抱き、身を固くして縮こまる。
心に余裕があるのは、一番の恐怖から逃げているからだ。
数多の悪意に対して身を守る術を持たないジュナ。ジェダ亡き後、彼女のことを守る手は頼りない父ひとりしかいなくなる。オルゴアが僅かにでも弱気をみせれば、ヒネアを筆頭とした悪意あるサーペンティア一族の者達は、ジュナを存在もろともに消すだろう。
ジェダは暗がりで座り込むツイブリに質問する。
「聞かせてください、この計画の詳細と目的を。それくらいのこと、聞く権利はあるはずだ」
「…………」
返答はなく、微かなうめき声すら聞こえない。
「……ご老体?」
何度呼びかけてもツイブリは微動だにしない。
ジェダは左手を封じる錠で鉄格子を叩き大きな音を立てた。
「おいッ、同居人の様子がおかしい、誰か!」
呼びかけに牢部屋の中に輝士の格好をした男が二人、入ってきた。
ジェダはツイブリを指差す。
「様子が変だ、急いで見てやったほうがいい」
しかし指摘は流され、輝士達はジェダの牢を開けた。
違和感を覚え距離をとる。
輝士の一人が顔にかぶせる布袋を差し出し、告げた。
「大公殿下の命により、別の部屋へ移送する。できれば、自発的に行動してもらえると助かるが」
ジェダは脱力し、両手を軽くあげてみせた。
――はじまるのか。
なにが起こるにせよ、きっとこれからの事にすべての理由がある。
促されるまま牢を出て、外へ向かう最中に、横目で一瞬ツイブリの容態を確認する。酷く弱っている様子だが、ツイブリの肩は呼吸をして揺れていた。
――気を失っているだけか。
我が身に起こる不幸より、奇縁が元で同居人となった首謀者の一人である老人を案じている自分が、妙におかしい。
布袋をかぶり視界が暗く閉ざされ、両脇を抱えられながら、ジェダは牢部屋を後にした。
*
塞がれた視界のまま、錆びた鉄と古い水の臭いが充満する部屋へ通される。
拘束を解かれ、布袋をはずされた。
部屋の四隅にかかるランプがおぼろに照らす部屋には、壁に固定された赤茶色に錆びた拘束具と、使いみちのよくわからない拷問器具が無造作にかけられ、並んでいた。
窓もなく、冷たくて湿気を含んだ重い空気から、ここはおそらく地下にある拷問部屋の類いであろうと予想する。
その陰気で悪趣味な部屋には三人の先客がいた。
一人はターフェスタの領主ドストフ・ターフェスタ。一人はムラクモの輝士ベン・タール。最後の一人は、ジェダには心当たりがなかった。
骨ばって皺だらけの顔。薄い頭に宝石のついた冠を載せ、体を包み隠す大きなローブを纏っている。そして手にした錫杖が決定打となり、ジェダはこの老人が北方の宗教組織に属する人間であると理解した。
脇を固める二人の輝士に膝を折らされひざまずく。
両腕を捻り上げられ、体を動かすことができない。
ターフェスタ大公ドストフを差し置いて、老人が一番に口を開く。
「この時をどれほど待ち焦がれたか。会いたかったぞ、ジェダ・サーペンティア」
「お目にかかるのは初めてと思いますが。あなたは僕を知っているようですね」
ジェダの声音は状況に似つかわしくないほど落ち着いていた。
老人はしわがれた声で不快そうに、ひざまずくジェダを見下ろした。
「リシア教会オトエクル主教ヴィシキである。きさまに一つ問う、戦場においてむごたらしく殺めた者達のことを少しでも覚えているか」
ジェダは端正な顔でヴィシキを見上げた。
「たとえば」
「エリミオ・シフ・ヴィシキ、美貌と知性を兼ね備えた我が自慢の孫娘であった――」
ヴィシキは孫娘の特徴をジェダに語り聞かせた。
日常での癖や性格にまで話が及び、ジェダは思わず吹き出していた。
「なにがおかしい!」
「いえ、申し訳ありません。ただあなたの語る言葉を聞いても、なにひとつとして記憶にないことばかりで」
ヴィキは眼を血走らせ、ジェダの頬を思い切り叩いた。
「痴れ者め!」
衝撃で切れた口内から血をしたたらせ、ジェダは再び笑みを浮かべた。
「おかげでようやく理解できましたよ。あなたが、この身を欲したのですね。理由は戦死した孫女殿への手向けのため、ですか」
「は? え――」
部屋のすみでおろおろとしながら状況を見守っていたベンが素っ頓狂に声をあげた。
「――ど、どういうことなのですか、これはいったい」
事情を飲めぬまま、慌てふためくベンを、ヴィシキが怒鳴りつけた。
「黙っておれ小童! 同席を願ったゆえ我が好意でここに置いておるのだぞ」
「で、ですが、市街地で起こった殺人行為に対しての取り調べをするという名目であったはず。このようなこと、私は聞いておりませんでしたぞッ」
ターフェスタ大公ドストフがベンの腕を引いた。
「タール特使殿、猊下に対し失礼は許されん。黙って見ていられないのなら強制的に退いてもらうが、いかがする」
ベンは額に汗を溜め、そのまま押し黙ってヴィシキへ一礼した。
ヴィシキは錫杖を置き、壁にかかった拷問器具の一つを選び取った。
「これより審問を開始する。罪人はジェダ・サーペンティア、罪状は神への冒涜である。きさまは自らの残虐非道なる行いを悔いているか、答えよ」
「一片たりとも悔いてなどいませんよ」
言って、ジェダはヴィシキに微笑んだ。
ヴィシキの顔が醜悪に歪んでいく。
「これほどの美に恵まれていながら心の中は糞溜めよりも醜く腐っておるッ」
ヴィシキは手にした拷問器具でジェダの人差し指の爪をはさみ、力をこめて捻り上げた。
白く長い指の爪が剥がれ、真っ赤な肉が剥き出しになる。
指先から走った激痛に、ジェダは拘束されたまま体をよじった。
「ぐァッ――」
「どうだ、自分のしてきたことを、善良なる者達へ与えてきた痛みの一端に触れた心地は」
「……たいしたことは、ありませんね」
脂汗をにじませながらも、ジェダは笑みを絶やさない。
苦悶に満ちた顔をみせたのは、むしろヴィシキのほうであった。
「こやつの服を剥き、壁に吊せ!」
ヴィシキの指示でジェダを押さえつけていた二人の輝士が壁の拘束具へ押し当て、纏っていた輝士服をはぎとった。
剥き出しになったジェダの上半身をみて、困惑を含むどよめきがたった。
白い肌についたいくつもの傷。深いものから浅いものまで、大小様々に刻まれている。
「なるほど、伊達に戦場を駆けてきたわけではないということか」
憎々しげに、しかし若干の関心も含んだ様子でヴィシキが感想を述べた。
ジェダはまた笑って返す。
「少なからず、自分でつけたものもありますが、ほとんどは兄や姉達からいただいたものですよ。戦場で受けた傷など僅かなものです」
ジェダの話にヴィシキは不思議そうに首をひねった。
「血の繋がった兄弟達からこれほどの傷を与えられたと申すのか」
「嫌われ者でしてね」
ヴィシキは見下したようにジェダを嗤った。
「さもあろう、このような出来損ないでは」
「おっしゃるとおりです」
僅かでも動揺をみせないジェダの態度を挑発ととったのか、ヴィシキは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「そのにやついた顔、いつまで保っていられるか」
ヴィシキは控える輝士たちへ合図を送る。
「痛めつけよ、だが殺してはならぬ。目立つ場所も避けろ、同情を誘ってもつまらぬ。こやつには殺人の罪により、衆目の前で正当なる裁きをくださねばならんからな」
言って、ヴィシキは懐から出した手巾でジェダの口についた血を拭った。
「ふん、女として生まれていれば、さぞや寵愛を受けたであろうに」
その言葉をかけられた瞬間に、ジェダは初めて笑みを消した。
口の中にたまっていた血を唾液にまぜてヴィシキの顔に吐きかける。
ヴィシキは怒り狂った。さきほど口にした自身の言葉すら忘れジェダの顔面を殴打する。
肩を揺らして呼吸しながら、置いていた錫杖を取ってジェダの腹を繰り返し殴り、叩く。
老体に限界をきたし、ヴィシキはふらついて輝士に体を支えられた。
顔から血を滴らせながら、ジェダはヴィシキを嗤った。
「リシアの神に仕える者を聖職者というそうですね。たいそうな呼び名だが、あなたの形相はどちらかというとクオウの鬼神像のようでしたよ」
「なにを、きさまァ! この私を蛮族共の汚らわしい偶像に例えるとは――」
再び錫杖を振り上げたヴィシキは動きを止め、地の底を這うような重たい笑い声をあげた。
「――そうか、そういうことか。私を挑発して怒らせ、早々に楽になろうという魂胆なのだな。いかに余裕なふりをしてみせても、所詮はきさまも人の子なのだ。怖いのだろう、恐ろしいのだろう? これから自分の身に起こることを想像して恐怖におののいているのだ。残念であったな、これから時が許すかぎり、苦しみを刻んでやろう、生きたまま業火に焼かれる痛みに悶え苦しむがいい、エリミオが受けた苦しみには、それでもなお届きはせぬ」
ヴィシキは早口でそうまくしたてた。
「ご希望にそいたいところですが、痛いだけで、あなたの拷問は少しも怖くないのですよ」
ジェダは変わらぬ微笑で静かに言い返した。
ヴィシキは再び輝士達に命令を下した。死なないように痛めつけろ、と。
回数がわからなくなるほど、ジェダは体中を殴られた。腹にはいった拳のせいで呼吸が止まり、意識を失ったのも一度や二度ではない。
その行為が始まってからどれほど時間がたったのか、もはやわからなくなっていた。
時折顔をあげた先に、ベンの怯えた顔と、必死に眼をそらすドストフの姿が目に入った。
朦朧とする意識のなか、ベンが行為を止めるよう声をあげたのが聞こえた。
「お止めください、このようなあまりに非道な行い……サーペンティア家の公子へこれほどのコトをしたと我が国が知れば、どれほどの騒ぎとなるか、わからぬはずがございますまい」
すでに顔をあげるだけの力を失っていたジェダは、その会話にだけ耳を傾けていた。
「お前のような木っ端が知らされていないのも無理はないが、これはすでに話がついていることなのだ」
「そ、そんなはずは! みくびってもらっては困りますぞ、このベン・タールは特使代表として、この件をムラクモへ持ち帰り、ただちに報告させていただきますッ」
ヴィシキが鼻で笑う音がした。
「誰の許可を得てターフェスタを出るつもりなのだ」
「……まさか、私を帰国させないとおっしゃるつもりか」
「その必要はなかろう。そこにおるターフェスタ大公殿は派遣されたムラクモ特使団を大層気に入っておられる。ついてはしばらくのあいだ賓客としてもてなし、若人達には遊学の機会としてもらいたいという意向である。そうであるな、ターフェスタ殿」
「……は、そ、その通りで」
「なんと……まさか初めからそのつもりで私にこれを……。このような暴挙が許されるのかッ」
ベンの嘆きが暗い部屋にこだました。
ヴィシキは項垂れるジェダの髪を掴み、顔を持ち上げた。
「ふん、すでに意識を失いかけておるわ。今日のところは休ませることとする。次からも覚悟しておれ、その指を一本ずつへし折るか、すべての爪を剥がして剥き出しの肉に針でも刺すか。いずれにせよ発狂するほどの苦しみを与えてくれよう」
部屋にいたものたちが一人ずつ出ていき、重い扉が閉まって鍵をかける音が響く。
覗き穴からヴィシキの勝ち誇った声が、かろうじて保たれていたジェダの意識へ語りかけてきた。
「せいぜい安穏とすごしていた日々を思い出すがいい。死にゆく定めの貴様にとって、二度と訪れることのない日々を想い、己のしてきたことを悔いるのだッ」
ひとの気配が消えた地下部屋のなかで、壁に拘束されたまま、ジェダは聞き拾ったヴィシキの言葉を反芻していた。
――愚かな老いぼれにしては気の利いたことを言う。
自らの命を終わりを目前に控えたこの時こそ、昔を思い出すには良い頃合いであると、そう思ったのだ。
*
思い出せるかぎりの記憶、その最も深い部分。
それはいつも鮮血の雨を浴びる場面から始まる。
はじめに家の戸を開けた。そこには大好きだった母の背中があった。嬉しくて飛びつくと、母の体がバラバラに崩れおちる。血しぶきが舞い散り、むせるほどの血の匂いが漂う。幼い身体に浴びた母の血は火傷をしそうなほど熱かった。
母の体が崩れ、肉塊となって床に散らばる。その先にいたのは、時折自分たちの前に姿をあらわす、父、オルゴアの姿だった。
呆然として佇む父は、虚ろな目で我が子を見るなり、倒れ込むようにその身を抱き寄せる。
「すまない、ジェダ……わたしは……わたしは……」
そのとき、父に浴びせられた言葉は思い出せない。大人にしかわからない難しい言葉でなにか言っていたのかもしれないし、ただ、意味もなく泣きわめいていただけかもしれない。
ただ自分がしたことだけは覚えている。震える父の身体を抱きしめて、背や頭を撫でていた。
一転、記憶は闇の中に落ちる。
その後どうなったか、覚えがない。
きっと意識を失ってしまったのだろう。
それがジェダ・サーペンティアという人間にとっての原初の記憶だった。
*
幼いジェダが目覚めた時、そこは薄暗い牢のなかだった。
なにも食さず、水も飲まず、干からびたようにただ痩せていく。
焦点の定まらぬ目を薄く開き、ただ呆然と前を見つめるだけのジェダを、オルゴアの姉ヒネアが忌々しげに罵倒した。
「このようなマガイモノ、早々に処分してしまわねば」
「約束が違います、姉上ッ」
死人のように痩せこけたオルゴアがヒネアにすがった。
「とはいえ、これではもはや死んでいるのと変わらぬ」
「生きています、呼吸をして心臓も鼓動しているではありませぬか」
「コレも生きたいとは思っていないでしょう」
「わたしのせいです、あまりに……あまりにむごいものを見せてしまった」
伏して嗚咽するオルゴアの顔面を、ヒネアは靴で踏みつけた。
「仮にも蛇紋石を持つ身でありながら、ゴミ粒のような市井の女ひとりのことで右往左往と」
「お願いします、姉上、どうかッ」
伏して手をつき、頭を下げるオルゴアへ、ヒネアは侮蔑の視線を落とす。
「ああ、なんと情けない。お前のためを思って言っているというのに……いいでしょう、このまま野垂れ死ぬまで好きに飼うがいいわ、ただし、決して外に存在がもれぬよう、重々気をつけるのですよ。まったく、よりにもよって濁り混じりの落とし子をつくってくるなんて」
一人残ったオルゴアは牢に入り、ジェダが残したスープをすくって口へ運んだ。
生気を失い、半開きのままの口へいくら食べ物を入れても、壊れたバケツのように零れてしまう。
「お願いだ、食べてくれ……このままでは死んでしまう。わたしはなんといってあの人に詫びればいい、わたしに託して逝ったお前の母になんと……」
虚ろな瞳で、ジェダはオルゴアを見つめた。
「お、かあさん」
口をきいたジェダに驚きながら、オルゴアは懸命に首を振った。
「そうだ、母上だ。母上はお前の死を望んではいない。食べて力を取り戻すのだ。生きてくれ、ジェダ」
泣きはらした真っ赤な目で、鼻水を垂れながす顔で、オルゴアが差し出すスープを、ジェダはゆっくりと口に入れた。
*
一日に僅かばかりの食事を腹に入れ、どうにか命を繋ぐ日々だった。
小さな身体が空腹に悲鳴をあげている。
しかし心の深い部分に刻まれた闇が、生きようとする活動を全力で阻害していた。
幼く経験も少ない子供に、自らの身に起こる不和の原因を知る術はない。
ただわかるのは、毎日自分に生きてほしいと願い食事を運んでくる父が、愛する母を殺したという事実だけ。
――おまえのせいだ。
いつしか心を蝕みはじめた呪いの言葉。
それは、幸せを奪い、美しかった母を醜い姿へ変えた男へのささやかな復讐だった。
毎夜、眠るたびに悪夢にうなされた。
あの匂い、熱、音が、明るい陽の光を、黒く淀んだ紫に染めていく。 暗く濁った病魔が心を侵食していく。
そうして目を覚ますたび、己の身体が酷く汚いもののように思えた。
その日、いつものように食べ物を持って現れた父が悲鳴をあげた。
「なんということをッ」
ジェダの手は赤い血に濡れていた。
手に握るのは父の置いていった木製のスプーンだ。が、その先は剣ようのように鋭く尖っていた。
その尖ったスプーンは、ジェダの身体に深々と線を引くように傷をつけていた。鍵のかかった牢のなかで、それができたのは己自身しかない。
木製とはいえ、硬いスプーンを鋭利な刃物のように削ることは、弱った子供の腕力で一晩でできるようなことではない。
ジェダがどうやってそれをしたのか、オルゴアには検討がついていた。
「そうか、お前は……もうサーペンティアの力に恵まれていたのか。それを、自らを傷つけるために用いてはならん」
傷口へ薬を塗り、包帯をまきながら、オルゴアはそう言い続けた。
ジェダの自傷行為はそれが最後にならなかった。
食器を片付けられれば、果物を入れたカゴをばらして細工し、カゴがしまわれれば、残された果物の芯を鋭く尖らせ、やがてすべての物が片付けられても、不慣れに操る風の力そのもので自らを傷つけた。
その日の晩、鎮痛な面持ちの父が一人の少女を連れてきた。
ジェダはここへ連れてこられて初めて自ら父の元へ駆け寄った。
オルゴアのその手に抱いていた少女は、ジェダによく似た双子の姉であるジュナだった。
彼女はジェダに気づいて破顔した。
「あいたかったッ」
身体の不自由なジュナを抱きかかえ、オルゴアはジェダの寝ているベッドの上へそっと置いた。
ジェダはジュナに抱き寄せられ、縋るように泣きじゃくった。
母の死を目の当たりにしたあの日から、残されたもう一人の安否を気にするような余裕は、小さなジェダにはなかったのだ。
無骨な父の手がジェダの背に触れた。
「ジュナの命を狙う者達がいるのだ」
ゾッとするようなその言葉に、ジェダは泣くのを忘れて振り返る。
「我らが一族の者達だ。ジュナにはサーペンティアの石がない。だが、お前がもし輝士として力をつけ家のために役にたつ者だと証明できれば、彼らを黙らせることもできよう」
ジェダは初めて強く父を睨めつけた。
が、背に触れる手が絶え間なく震えていることに気づく。
ジェダとジュナを見るオルゴアの顔に貴族家当主の覇気はない。青ざめていまにも崩れ落ちてしまいそうな顔。許しを請う哀れなひとりの男がそこにいた。
「ぼくを、輝士にしてください」
ジェダのその一言は、父に与えた許しに等しかった。
「おお、そうか……よく、よく言ってくれた」
オルゴアは子供達の前ではばかること無く涙を流した。
「それでは約束してくれるな、もう自分の身体を傷つけないと」
「はい…………父上」
ジュナの不安げな顔をよそに、ジェダは喜びと悲しみを複雑に入り混ぜた、父の情けない顔を目に焼き付けていた。
息子を生かすため、娘の首に鎌をかけた男の顔を。
*
年月が過ぎ、ジェダはサーペンティア家当主の住まう本邸に置かれるようになっていた。
それはオルゴアのジェダを家族として認めさせたい一心からの行いであった。だが、ジェダにとっては文字通り、地獄のような日々となった。
輝士としての教育を受ける日々のなか、専属の教師がジェダの作り上げた木工細工をオルゴアに見せたことがある。
オルゴアはそれを受け取り狂喜した。未だ子供にすぎないジェダが、晶気だけを用いてつくったそれは、熟練の職人でも難しいであろう、精巧な花の形をして完成していたのだ。
「姉上、見てくださいこれを! ジェダが晶気で造ったのです、この子は天才だ。歴代サーペンティアでもこれほどの才の片鱗を見せた者がいたかどうかッ」
興奮してヒネアに語り聞かせるオルゴアは、ひとりの子煩悩な父の姿であった。が、その場には他の多くの子供たちや妻もいた。
ジェダを認めさせることばかりに考えがいき、彼らがどう思うかを、愚かなオルゴアは想像できなかったのだ。
その翌日。
「弓の練習をするぞ、ジェダ」
腹違いの兄の一人が、皆を連れ立ってジェダを強引に外へ連れ出した。
彼が手にしているのは練習用の弓矢だ。矢の先は尖ってはいないが、強く引けば藁束に突き刺さるほどの威力はある。
兄は他の兄弟達がにやついて様子を見守るなか、ジェダを一人庭に立たせ、的にした。
矢が腹に当たるたび、めり込むような痛みを感じ、ジェダはうずくまって腹を抑えた。
それを見て兄弟たちは曲芸でも見ているかのようにゲラゲラと大笑いをする。
「おまえたちもやってみろよ」
苦しむジェダを前に、兄はそう言った。
無理やりジェダを立たせ、立てなくなると横たわる身体に向けて、彼らは矢を放ち続けた。
気を失うまで、兄弟たちのそうした行いは続いた。
意識を取り戻したとき、ジェダは自分の部屋に寝かされていた。
傍らには目を覚ましたことを喜ぶ父の姿があった。
「ジェダ、だいじょうぶか」
「はい……父上……つッ」
声を出すと腹に激痛が走った。
「ゼランがお前を運んできたのだ。皆で遊んでいたとき、お前が木から落ちて怪我をしたといってな。本当にそうなのか」
自らを痛めつけた首謀者である兄の名を聞かされ、ジェダは頷いた。
「兄上の、おっしゃる通りです」
「……そうか。皆が心配している、お前は少し暗いとな。その気がなくとも、皆の前でもう少し笑みを見せなさい、愛想が悪ければ、兄弟たちもお前と打ち解けることを諦めてしまうかもしれぬ」
「はい父上、そうします」
また日が変わり、ジェダは大人たちの目がない裏庭へ、兄弟たちに連れてこられた。
兄弟たちがジェダを円形に取り囲み、兄のゼランが前へでジェダを突き飛ばした。
「父上になにか言っただろう」
「言っていません兄上」
ゼランは形相を醜く歪め、ジェダの肩を何度も小突く。
「嘘をいうな! 父上に言われたんだ、お前が怪我をしないように見守るようにと。誰がお前なんか。母上が言っていたぞ、お前の母は生ゴミほどの価値もない女だって。父上を謀ってお前を産んで貴族の仲間になろうとしたんだって」
母を侮辱されたことをジェダはなんとも思っていなかった。悪口を言われる程度のことは、身体をバラバラに切り裂いて殺されることに比べれば大したことではない。
ジェダは父に言われた通り、兄に微笑んでみせた。
ゼランは戸惑った。
「なにがおかしいんだ……」
「なにもおかしくありません」
「ならなんで笑うんだ……」
「父上がそうしろと言ったので」
そうしてまた笑みをみせると、逆に兄弟たちから笑みが消えた。
ゼランを筆頭に、兄弟たちがジェダの身体を殴り、蹴りはじめた。
ジェダは痛みに耐えながら、それでも微笑を絶やさなかった。
やがて、兄弟たちは何か不思議なものでも見るように首を傾げた。
「きもちわるい」
姉の一人が不快そうに言った。
いじめる対象が笑みをみせるのは、加害者の側からすれば楽しくないのだと、ジェダは学んだ。
「服を脱がせろ」
ジェダの微笑を挑発ととったのか、ゼランが冷酷な命令を兄弟たちへ告げた。
季節は冬、外は寒い。
ジェダは丸裸にされ、ゼランに髪を掴まれた。
ゼランは裏庭の奥にある枯れ葉に埋もれた古い井戸の前へ行き、兄弟達へ蓋をはずすよう命令したあと、その中にジェダを放り投げた。
命の危機を感じ、無意識に力を行使して衝撃をやわらげる。
古井戸の底には立てる程度の水がたまっていた。
地下の空気は外の寒空よりも凍えるように寒い。
腹まである黒い水は、痛みを伴うほどの冷たさだった。
頭上から兄弟たちの嗤い声が聞こえる。
差す明かりが徐々に減っていき、異母兄の「じゃあな」の声を最後に、古井戸は完全に閉じられた。
暗闇の中、ジェダは裸で震える身体を必死に支えた。
古井戸は深く、子供の力だけで這い上がるのは不可能である。
思考は、ここを出るためではなく、このまま死ぬことを考えていた。
毎日が辛くないわけがない。
兄弟からのイジメ、その母達からの罵倒、使用人もジェダに対してだけよそよそしい。
食べ物にはいつもジェダの物だけゴミや虫の死骸が入っている。それも父が邸にいない日は、ひとかけらのパンですら運ばれない。
森の中で遊んで家に帰り、美味しい母の手料理を食べていたあの日々は、もはやおとぎ話に等しい夢の世界となっていた。
死にたいと何度も願った。
だがその度双子の姉の顔が浮かぶ。
オルゴアがジェダの首にはめた鎖は、なにより強固で太かった。
井戸に落とされてどれほど時間がたったかわからなくなっていた。
身体は、もはや指の先を動かせないほど寒さに悲鳴を上げている。震える身体を自らの意思で押さえつけることもできない。
ふと、天から差す一条の月光に気づく。古い井戸蓋に隙間でもできていたのだろう。
無意識に暖かさを求め、ジェダはその光に震える手をかざした。
外から微かに父の声が届く。
どこにいるのかわからないまま、懸命に息子の名を呼び続けている。
――このまま。
気づかれなければ、ここで死ねる、そう思った。
だが、ジェダは晶気の風を生み出し、頭上へと放った。
木の蓋が大きな音をたてて割れ、月明かりが古井戸のなかを薄く照らす。
「ジェダ! こんなところにッ」
オルゴアはためらうことなく、ロープをつたって古井戸に飛び込んだ。
そして、震えるジェダを抱きかかえる。
「すまない、すまない……私が弱いばかりに、情けないばかりに、こんなめにあわせて」
顔が見えずとも、父が泣いているのがわかった。
ジェダは父に抱かれ、その肩に顔をうずめて泣いた。
母を殺した憎い男であるはずなのに、たしかにその男からの愛を感じるのだ。
その日以降、オルゴアはジェダに対しておおぴらに優しさや愛情をしめすことをしなくなった。
日がすぎ、輝士の候補生となり、正式に輝士となる過程で、なにかと側にジェダを置き、各方面の有力者へ顔を繋ぐような気遣いをみせながらも、日増しにオルゴアのジェダに対する態度は硬化していった。
初陣に臨むとき、大貴族の子息にはふさわしくない危険な任務を言い渡されたとき、そのたびにオルゴアは息子の命の危機に怯え、その繰り返しのなかで、心を動かすことに疲れたのかもしれない。
初陣を果たしたその日、ジェダは人を殺めた。
晶気を用いて身体を裂き、腕を落として抗うことをさせず、首を切って息の根を止める。
一瞬のうちにしてみせた殺人の方法は、父が母を殺めたあの時のやりかたによく似ていた。
血しぶきが舞う。腕が落ち、胴と腰が離れ、首が飛んでいく。
それを見る他の者達の嫌悪の眼差しと向けられる恐怖の色。
その方法は効率よく、安全に戦場を駆ける術となった。
戦場での行いは思いのほかしっくりときた。
生き残るため、絶対に死ねない状況を理由に、他人を殺めることにこれほど罪悪感を感じないものかと、感心してしまう。
父はなにを思って、こんな残酷な方法で母を殺したのだろうと、幾度となく考えてきた。
本人にそれを聞いたことはない。が、あの日、あの時、母の鮮血に濡れたジェダを抱きしめるオルゴアは、その理由を言っていたのかもしれない。
閉ざされた記憶にかかる鍵を開ける術はなく、こじ開ける必要も感じない。そこにどんな理由や言葉があろうとも、起こったことを変える力はないのだから。
*
夢を見ていた。
囚われた部屋の扉を蹴破って現れる一人の男の夢を。
その男はなにごともなかったかのように、帰るぞと軽く言って手を差し伸べる。
鎖がこすれ合う音で意識は覚醒する。直後に全身に激痛が走った。
直前まで見ていた夢の中の人物を思い出し、力なく首を振る。
――冗談じゃない。
期待しているのか、とジェダは自嘲し恥を感じた。
この世で唯一の庇護者に見捨てられたということ。敵国の懐深くにいるということ。それが現実である。
ジェダという人間の生はすでに終わっているのだ。生きろと言ったオルゴアが、手放すと決めたその時から。
ひとり拘束から逃れ脱出したシュオウのことを考えた。
――いまごろは。
逃げていればいい。あの騒がしい娘達を連れ、下品な大男と共にターフェスタを離れる。彼ならそれが可能であると思えた。
この世を支配する力の理の外にありながら、堂々とした佇まいで常識を打ち壊すその姿に、英雄の気を感じた。立場や階級の壁を打ち壊し、人々を魅了する様に憧れに似た思いを抱いた。
横に並んで会話を交わした時間、対等で壁のない態度に、感じたことのない友という幻想を見た。
――シュオウ、か。
おかしな名前だと密かに笑む。だが、唱えるたび、その言葉は妙な心地よさを伴った。
「……くるなよ」
ひとりきりの部屋の中で、ジェダはそう呟いた。