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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
小休止編
40/184

水火の遭遇

     Ⅹ 水火の遭遇











 「ワナトキ・エイが、元帥閣下に拝謁いたします」

 床に鼻をこすらんばかりに低頭する老人に、グエンは丁重に声をかけた。


 「老師、楽にされよ」


 宝玉院の統括者であるワナトキ・エイは、感謝を述べつつかすかに顔をあげた。だが両の手は床にへばりついたままである。イザヤが起立をうながしても、ワナトキは床に埋め込んだ根を抜こうとはしなかった。


 グエンにとっては慣れたものである。このワナトキ・エイとは立場上一年に数度の会見の場を持つが、毎度のことで神像に礼拝するかのような大仰な態度をとるのだ。そのワナトキが、急な謁見を求めるのはめずらしい事だった。


 「私も暇をもてあましてはいない。老師、用向きを聞こう」

 「……はい、まずは先日当院に侵入したモノの件についてでありますが……」

 「報告は聞いている。二体目が出て以降、音沙汰はないということだが」


 「まさしく。ですが、いまだ正確な進入経路の特定には至っておりませぬ。それゆえに、いましばらく近衛からの助力をいただきたく、お願いにあがったしだいであります」

 「無用な心配だ。当面のあいだ宝玉院は重警護下におき、期限を設けず継続する」


 ワナトキは顔を深く落とし、恭しく息を吐いた

 「ははァ……ありがたきお言葉、ワナトキ・エイ、感謝いたします──」

 ですが、と続ける。

 「──じつはそれほど心配はしておらんのです」


 グエンは一つ相づちをかえして聞く。

 「なにゆえだ」


 「独自に調査を依頼した者の言葉によれば、後には続かないだろうという見立てでして」

 「当てになるのか」

 「深界によく通じた者の言葉、信憑性はあると信じております」

 「その者は?」


 ワナトキは顔をあげた。心なしかさきほどより顔つきに緊張の色が濃さをましているように見える。


 「シュオウという名の、臨時採用された師官であります」

 「……なるほど」


 グエンは椅子に身体を預け、立てた拳に顎を乗せた。


 「じつは、もう一点お願いしたき事がありまして。いま申しました者の配属について、ご検討していただきたく──」


 身を縮め、ワナトキは深く叩頭する。必死な様子が見て取れ、これが彼の真の目的であったのだろうと、グエンは当たりをつけた。そして何を言い出すかも大方の予想がつく。


 「なにごとか不満でもあったか。かの者の配属に関しては、事前に老師の快諾あってのことだったはず」


 ワナトキは顔をあげぬまま、ぶるぶると顔を振った。


 「不満など、めっそうもありませんッ、いただけるものならこのまま当院の師官として正式な配属を望みたいところです。が、本人が望んではおりません」


 少し予想がずれたことで、グエンは眉間に皺を寄せた。


 「不服を申し立てたのか」

 「いえ……そこまでは」


 グエンは語気を強めた。

 「では、なにゆえにひと一人の人事に老師自らが申し立てをする」


 「は……グエン様、お言葉ながら、適材適所でございます。望まぬ場所で朽ちていく若者の姿を見るにはしのびなく。そのうえ、かの者は優れた才の持ち主。本人もそれを活かせる場を望んでいるようですし、その……」


 グエンは執務机を拳でたたきつけた。


 「黙れ、王括府旗下の人事について直言は許さん。立場をわきまえろ」


 ぶるりと、ワナトキは肩を縮み上がらせた。

 間が悪く、扉を叩く音がした。応じたイザヤは耳打ちで報告を受け、扉を閉める。手には質素な書簡が握られていた。


 「閣下」

 イザヤはグエンに目配せをする。

 グエンは立ち上がり、平身低頭に謝罪を述べるワナトキの元へ歩みよった。


 「老師、話は聞いた。去るがいい」

 「ははァ……」


 恭しく目も合わさぬよう腰を折って退出していく老体を前に、グエンはその背を呼び止めていた。


 「話については一考する」

 むせぶように礼を言って、ワナトキは部屋を後にした。




 老師が退出したのを待って、イザヤは早々にグエンに書簡を差し出した。

 見たところ差出人を示す紋章がなく、グエンは怪訝に眉をひそめる。


 「例の件です、裏がとれたらしく、その証明としての書簡だとか」


 未開封であることを示す薄紙と蝋の封をやぶり、グエンはなかをあらためる。

 「概ね、あの男の話通りということか」


 ターフェスタ聖大公の名のもとに書かれた書簡には、むこう数年間にわたるムラクモ領土への侵攻を一切停止するとの約束、武器や軍馬、兵糧の譲渡と、ターフェスタの国宝である希少な木材〈雪虎〉の献上が約束されている。その代価としてムラクモが支払わなければならないのは、ただ一人の輝士の命だという。


 グエンは一読した書簡をイザヤに投げて渡した。目を通したイザヤは喉を鳴らす。


 「どうおもう」

 「破格の条件であると」

 「然り……」


 腕を組んで口角を歪めるグエンに、イザヤが問う。


 「ご不満がおありでしょうか」

 「あまりに都合の良い話……交渉の域にすら達していない」


 一を渡して十を得るような取引に、いまさらに警戒心が深まっていく。だが、ターフェスタが求めているのは大国でいちにを争う大家の子息の身柄だ。みようによっては、その命は万金に勝るとも劣らないのかもしれない。


 「お疑いはごもっとも、ですが、私はこの話を受けるに値すると考えます。理由は三つあります」

 イザヤは胸に手を当て、足をそろえた。

 「聞こう」

 グエンは頷いて発言を促した。


 「第一に、軍事拠点を統括するほどの立場にある義弟を使者としてつかわしたこと。第二に、人質として太子を差し出す約束をしていること。そして第三に、この書簡に書かれた貢ぎ物の目録です。これら三つの条件はある事実を如実に表しております。すなわち、ターフェスタの領主はこれほどの条件を差し出してまで、彼の者の命を欲している。そうしなければならないという切迫した状況に置かれているのです。つまり主導権は全面的に我が方が握っていることになります」


 グエンはじっくりと頷きながら、組んだ腕で自身の指を小刻みに揺らした。

 「ターフェスタは蛇の子を切願している。渡せば大きな貸しとなるか……」


 熟考するグエンに、イザヤはさらにたたみかけた。

 「お考えください。この件に不手際がおこったとしても、我々が被る損害は軽微なものにすぎません」


 大家の子息を無防備に敵国に差し出すなど暴挙に等しい。それを要求したとて、身分ある良家が子を差し出すわけもなく、強引にそれをしたところで、国内に大きな不和の種を残すのは必定である。だが、それは並の君主が治める国であればの話だ。実質ムラクモの支配者の座に君臨するグエンは、その手のうちにサーペンティア一族をも掌握している。


 「よかろう、どのみちこちらが折る骨などなきにひとしい」

 言って、グエンは席を立つ。

 「それでは……」


 「正式に事を進める。まずはサーペンティアに子を差し出させるため、征北のための演習を名目に、サーペンティア領に関わるすべての交通を遮断する。イザヤ、お前が指揮をとれ──復唱しろ」


 「サーペンティア周辺拠点を封鎖後、白道に布陣。その後、水面下にてサーペンティアの領主と交渉、ジェダ・サーペンティアの身柄を差し出させます。イザヤ・ヴラドウは粛々と司令官に着任、作戦を実行いたします──御意に」


 「よし、あの男に決定を伝えに向かう」




 使者としてターフェスタから秘密裏に使わされたバリウム侯爵を軟禁してある部屋に入ると、中は充満した酒の臭いで満たされていた。


 北方諸国の一つターフェスタの諸侯、ショルザイ・ラハ・バリウムはグエンの突然の来訪を知るや、慌てて手にしていた酒杯を放り出し、膝をついて出迎える。


 「これは、元帥……急なことゆえに不作法をどうかお許しに……」


 謙遜ではなかった。バリウム侯爵は寝間着なうえ、酔った赤ら顔でグエンに対している。

 一軍の将である身にあるまじきだらしなさに、グエンは嫌悪を抱き、手にしていたターフェスタ大公からの書簡を床に投げ捨てた。


 バリウム侯爵は、慌てて書簡を拾い、中をあらためる。表情にはどこか必死な様子があった。


 「……安心いたしました、無事に確認をとっていただけたようだ」

 バリウム侯爵は不健康に濁った眼で、グエンをじっとりと見上げた。

 「それで、お答えはいただけるのでしょうな」


 グエンは微動だにせぬまま、一言告げる。

 「申し出、受ける」

 バリウム侯爵は突如、卑屈な顔を壊し満面の笑みをみせた。


 「いやッ、ありがたいッ、いやいや──ありがたき幸せ! 我が主が知ればどれほどにお喜びになるか。さっそく私自らがこのことをご報告に。約束通り、太子をお連れして戻ります。失礼ながら、さっそく旅の支度を──」


 バリウム侯爵が嬉々として腰をあげた次の瞬間、グエンは人間離れした脚力で距離を詰めた。バリウム侯爵の首を掴みあげて重い身体を宙に浮かせる。


 「な、に……をッ……」


 錯乱し、首を押えて足をばたつかせるバリウム侯爵に顔を寄せ、グエンは鋭利な歯をむき出しにして凄む。


 「たやすく他国へ引き渡すような太子に価値などない。人質は身柄の確認がすんでいる貴様で十分だ。万事、すべて約定通りにすすめばよし。だが万が一にもくだらん策を講じるような真似をすれば、貴様も、そして貴様の愚かな主も塵芥になるまで我が手で握りつぶしてくれる──その旨、よくしたためたうえで主に書簡を用意するがいい。誰を相手に交渉をもちかけたのか、とくと言い聞かせておけ」


 グエンはバリウム侯爵の身体を堅い床のうえに投げた。青ざめた顔で喉を押え、怯えて身を縮める姿に将としての威厳などない。


 グエンが一歩詰め寄ってみせると、バリウム侯爵は震え、咳き込みながらも必死に平伏してみせる。


 「お、おつたえ、いたします……」

 グエンは鼻を鳴らし、入り口で控えていたイザヤに退出を告げた。




 「閣下、お手を」


 部屋をあとにしてすぐ、イザヤが差し出した手巾で手をぬぐいながら、グエンは険しくそりあがった眉根をさらに尖らせた。


 「愚かな主、愚かな従。一国の政の天秤に、ただ一人の命を乗せるとは」

 追従するイザヤも同意する。

 「はい、おっしゃるとおりです」


 首を握ったときについた皮膚の脂をぬぐいおとして、廊下を歩く道すがら、今後の相談を始めた。


 「風蛇が子を差し出したと仮定して、あちらへの引き渡し方法はいかに」


 イザヤに問われ、グエンは瞬間思考する。


 「公式の体裁は繕う、ターフェスタはそれを望んでいるのだからな。正式な外交特使を用意し、件の輝士を帯同させろ」


 ターフェスタ領主からの書簡には、穏便にことを運ぶために、外から見た限りでは計画の全貌を悟られぬような配慮を、と強い願いが書かれていたのだ。グエンはそれも当然のことであろうと承知している。事情はあれど、一国が多くの見返りとともに贄を欲することも、またそれを裏で承知して差し出すことも、対外的に知られれば威信を揺るがしかねない恥ずべき行為となるからだ。


 「それでは、名目は一時停戦のための交渉ということでよろしいかと」

 イザヤの提案にグエンは首を縦に振った。

 「よかろう。彼の者の帯同理由には、特使の護衛という理由をつけくわえろ」

 「は──では、肝心の人選はいかに」

 「現在の待機者は」


 イザヤは即答した。


 「ケイン・ローズ重輝士が待機中です。任務回数五十三回、うち成功達成四十五回、経験豊富なうえ古参で有能な外交官です。適任であるかと──」


 しかし、グエンは快諾しなかった。喉を鳴らし、不満を表明する。


 「──ご不満でしょうか?」


 「この一件、特使として送り出す者には子細を伏せておく。臨機応変に対応できる熟練者は不要だ」


 ターフェスタからの申し出がすべて滞りなく成就する確証などない。この件が相手方のはかりごとであった場合、特使として送り出した者の命も危ぶまれる恐れがある。そうした状況で失ってしまうには、功ある者は惜しいのだ。


 「他に手すきは」


 「即座に対応可能ということであれば五名が待機中です。クロサカ・アギリ重輝士、ステブ・ハーグ重輝士、ミーサン、ヨセル、ゴウエン重輝士兄弟……」


 イザヤは四人をあげたところで口を止めた。


 「あとの一人は」

 「は、それが……」

 グエンは足を止め、背後に向き直る。

 「かまわん、言え」

 イザヤは気まずそうに一礼して口を開いた。


 「ベン・タール、階級は輝士。請負任務回数は三十にとどきますが、うち達成は十に満たず。四十路を過ぎていまだ昇級は一度のみ、ここのところは礼室で古文書の整理をまかされております。本人は外交任務への復帰を希望しておりますが」


 グエンはあごに触れた。


 「ベン・タール輝士。この件への適性をいかにおもう」


 「不適当です。応用力、人望、知識、礼節のすべてを欠き、難事にあたらせるにはあまりに実力不足。できることといえば、せいぜい物を運んで渡すこと……くらいで……」


 言いつつ、イザヤは目を見開いてグエンを見た。


 「ベン・タールを特使とする。言われたまま愚直に命令を実行させるだけでいい。この一件にかぎっては愚か者こそを適任者とする、今後の反論は禁ずる」


 なおも物言いたげな様子だが、それを押し殺してイザヤは御意を告げた。

 執務室へ通じる階段にさしかかり、グエンは副官に問うた。


 「今日の対外予定はすべてすませたな」

 「はい、すべて滞りなく」

 「ならば、お前は事の準備にあたれ、単独での行動を許す」

 「はッ、命令を実行いたします。それと、一点お伝えしておきたいことが」

 「言え」

 「明後日、早ければ明日にでも、サンゴの姫君が王都に到着予定とのこと。ア・シャラ姫は、到着したその日のうちに閣下との面会を希望されているとか」


 グエンは首肯する。

 「よかろう」

 一礼したイザヤをおいて、グエンは一人執務室へと引き上げた。






          *






 中庭を枯れ茶色に染めた落ち葉を見て、季節が変わるのだとサーサリアは思った。


 長らく部屋に閉じこもる生活をしていたため、季節の移り変わる区切りの頃を目の当たりにする機会は滅多にあることではなかった。中庭に植えられた木々の葉の緑が、徐々に赤く浸食されていくさまが、目に新鮮に映ったのも当然のことだった。


 サーサリアはいま、中庭に置いた丸いテーブルを前に、ゆったりとした椅子に腰掛けている。銀細工の胸当てをして、ごてごてしい装備を身につけた輝士達が幾人もはべったこの状況を、優雅な午後の一時とはとても形容できないが、人肌に冷めた朱色の茶を味わいながら、夏の終わりの空気を肌に感じることができる日光浴は、このところのお気に入りの時間となっていた。


 蝶の羽ばたきのような柔らかな眠気に誘われ、サーサリアは小さなあくびをこぼした。


 「殿下、私の話はそれほど退屈でしたでしょうか」


 親衛隊長アマイの棘のある声をあびせられ、サーサリアはぼやけた眼に力を込めた。


 「そんなことはない」

 アマイは小さくため息をつく。


 「学ぶ時間を、と望まれたのはご自身だったはず。私とて、すでに教職者からはしりぞいた身ですが、御身のためこうして職務外の任務に従事しているのです。きちんと聞いていただけないのであれば」


 小言を聞かされ、サーサリアは唇を尖らせた。

 「ちゃんと聞いていたわ」


 アマイはしたり顔で眉をあげる。

 「では、ムラクモ現王国の初代建国王の名は」


 サーサリアは目をそらした。枝葉の先程度ですら答えが思い浮かばない。

 言い淀み、降参を告げるために顔をそらしたまま、アマイに視線を送った。


 「やはり少しも聞いてはおられなかったようですね」

 叱られた心地に、サーサリアは子供のようにすねてうつむいた。


 「いいですか、建国王の名はいかなる記録にも残されておりません。名前はおろか、性別も不明。わかっていることは、ただ一つ。王家の石、天青石を用いて東方諸国を統一し、東地に安寧をもたらしたことです」


 サーサリアはアマイを睨めつける。名前を聞いておいて、わからないなどと、意地の悪い質問だ。


 おもむろに、サーサリアは立ち上がった。

 「今日は気分が乗らない。続きはまた明日にして」


 一歩踏み出すと、眼前にアマイが立ちはだかった。

 「殿下、席へお戻りください。お教えするはずだった事の半分も終わらせておりません」


 感情の色が見えづらい細い目に見つめられ、サーサリアは声を荒げた。

 「明日にすると言った」


 「明日には明日の事があります。今日できることを今日やらねば。捨てた時間は消えてなくなりはしません、積み重なっていつか我が身にふりかかるのです。御身はそれを知っているからこそ、努力を望まれたはず」


 目を合わせたまま、サーサリアは黙り込む。内面はいざしらず、主に向かって説教を言い放つアマイは涼しい態度を崩さない。むしろ険悪な空気にうろたえているのは、まわりを固める親衛隊の輝士達のほうだ。


 不意に、さしていた陽光が遮られ、辺り一帯が暗がりに包まれた。急な天候の変化か、厚い雲がかかったらしい。


 サーサリアは得意顔になった。雨が降るかもしれないとなれば、中庭での授業の中止をなし崩し的に押し切ることができるかもしれない。


 やがて、顔をあわせていたアマイの眉がわずかに上がった。それは、親衛隊長がわがままを押し切られたときに妥協をしめすときの表情である。


 勝利を確信したのも束の間、足早に伝令が現れ、アマイを呼んで耳打ちする。話に頷くアマイの口元が、一瞬険しくなった。


 「あの人の、こと?」


 アマイは返事を濁し、気まずそうに顔をそむけた。

 懸念は確信へと変わる。いつも明瞭な態度で接するアマイが、サーサリアの思い人の事になると曖昧な態度をとり、ごまかそうとするのだ。その瞬間に漂わす独特な空気を、このところは察知できるようになっていた。


 サーサリアはアマイに詰め寄った。

 「教えなさい──嘘は許さぬ」


 若干のためらいの後、アマイは一礼して観念した。


 「彼がここへ訪れているらしく、その報告を聞いたのです。隠すつもりはありませんでした」

 言い訳をつけくわえるアマイの声は、すでにサーサリアには届いていなかった。


 思い人が近くに来ているのだ。心が躍らぬわけがない。本当なら毎日でも呼び寄せたいくらいだが、迷惑になると諭され、たまの訪問だけで我慢してきたのだ。それも、ここのところは自らの多忙が原因で機会が激減していた。


 遠くない場所にいる。同じ王都にいるのだからいつでも会える。アマイのそうした言葉を頼りにどうにか耐えてきたが、彼のほうから会いに来てくれたのかと思うと、もはやいてもたってもいられなかった。


 サーサリアが駆け出すと、慌ててアマイが止めにはいった。


 「殿下、おまちをッ」

 「とめないで」


 「お気持ちお察しいたしますが、形式というものがございます。会うにしても招くのは殿下の側。衆人の目があるなかで、ムラクモの王女がいち従士を出迎えれば騒ぎになります。私が話をつけてまいりますゆえ──」


 アマイの言葉を待たず、サーサリアは走り出した。中庭の出入り口を塞ぐ親衛隊を、仕草でなぎ払う。


 「どかねばムラクモの名において裁く!」


 彼らはアマイとは違う。主の命には忠実だった。

 自分を止める声も、背後から追ってくる輝士達の足音も、もはやサーサリアの耳には届いていなかった。




 切れかかった息すら気にならない。

 生きるためのすべての力は、足を動かすことだけのために回されている。

 いまこの瞬間だけ、生まれ変わったようだった。


 ──会いに来てくれた。


 思いはその一言で染められてゆく。

 彼が呼ばれることなく水晶宮へ訪れたのは、これが初めてのこと。なぜか、などと考えるまでもない。自分に会うためなのだとサーサリアは少しも疑わなかった。


 長い廊下を駆け、中央広間へと抜ける。

 サーサリアはせわしなく視線を泳がせた。特徴ある銀髪隻眼の青年の姿を当てもなく探す。見つからなければ王宮の隅まで見て回ってもいい。


 幸か不幸か、サーサリアは直後に目的の人物を見つけた。静々と階段を降りてくる彼は、右手でうなじを触りながら、険しく眉をひそめていた。


 無意識に笑みをうかべ、サーサリアはその名を呼ぼうとして胸をふくらませる。しかし、代わりに誰か別の人間が彼の名を呼んだのだ、シュオウと。


 咄嗟に、サーサリアは柱の陰に身を隠した。


 親しげにシュオウを呼び止め、彼に近寄っていく輝士の格好をした二人の女達。うち水色髪の女はなれなれしくシュオウの腕にだきつき、もう一人の金髪の女も媚びるような笑みをみせて、なにごとか楽しげに話しかけている。


 はじめ、迷惑そうにしていたシュオウも、すぐに機嫌を良くして、かすかな微笑みをうかべていた。優しげで、緊張をほぐした優しい表情。自分の前で見せたことは一度もない顔だった。


 サーサリアの顔から笑みは消え、左手は心臓の真上をわしづかむ。


 ──痛い。






          *






 グエンは椅子に身体をおとし、苦い顔で腕を組んでいた。険しく睨めつける視線の先は、閉じた執務室の扉がある。つい今し方退室した者を思い、鼻から深いため息をついた。


 「まさか直接不満を言いに来るとはな」


 呆れ気味に言ったグエンに、副官は怪訝に問いかけた。


 「お会いにならなければよろしかったのでは」


 宝玉院の老師ワナトキの申し入れから翌日。まさにその話に出てきたシュオウが、直接の会見を申し込んできたのだ。立場上、会わずしてこれを拒絶することは簡単なことではあるが、ワナトキの言葉が頭に残っていたグエンは、言葉を耳に入れるためにわずかばかりの時間をさくことにしたのだ。


 最後に会ったときから変わらず、かの者は平然とした態度を貫き、しゃあしゃあと自らの配置換えを望んだ。そして彼の希望は、前任地のオウドに配置を戻すことだった。


 「氷長石にはじまり、その後は親衛隊、オウドの司令官、そして宝玉院。行く先々で、あれを欲しがる者が手をあげる」


 「それだけの者達から求められるだけの力があるのでれば、いっそ近衛に置いて我々のために尽力させてはいかがでしょうか。それだけの実力があることは、すでに証明されていますので」


 「ふむ」

 グエンはまんざらでもない態度であごを引いた。


 彩石のない身でありながら巨大な狂鬼を屠ってみせたと聞いたときから、並の者でないことは重々わかっていた。苦難に立ち向かい、正面からそれを打ち破ってみせる腕っぷしと胆力。それはまさしく、彼に英雄の資質をみたグエンの目が間違いではなかったことの証明でもある。


 ときに図抜けて優れる者は不慮の事態を引き起こしかねない。制御不能に陥るような者は不用であると、一度は意識の外に捨て置いたつもりだったが、事ここにいたり、迷いが生まれていた。


 「利用すべきか……」

 独り言だったが、側に控える副官は即答する。

 「すべきと存じます」


 しばしの沈黙の後、グエンは組んだ腕をほどいて卓を叩いた。

 「決断は保留する」


 使い道を熟考する必要があるとグエンは考える。いまとなっては、どこにくれてやるにも惜しいと思う気持ちが強くなっていた。


 突然に扉が開き、伝令が息を切らせて飛び込んできた。

 許可のない入室に、イザヤが怒声をあびせた。


 「なにごとか!」


 伝令はくずれるように膝を折って声を張った。

 「サンゴ王国ア・シャラ姫が王都にご到着ッ! すでに溜め息橋まで到達しているとのこと。火急の知らせゆえ、ご無礼お許しください!」


 叩頭した伝令にグエンは了承を告げ退室させた。

 「事前の通達は来ていなかったのか」


 焦った様子で、イザヤは首を振った。

 「申し訳ございません。側に置いた者には密な連絡を命じておいたのですが」


 ア・シャラの到着は早ければ今日にも、という報告は聞いていたが、まさか予兆なく突然現れるとは。甚だ予想外のことだった。先遣隊が露払いをかねて報告を寄越すのが慣例である。


 「出迎えの用意は」

 イザヤは怯えるように一礼し、

 「大規模なものをいますぐに、というわけには」

 と苦々しく告げた。


 「正装を用意しろ──」

 いって、グエンは立ち上がって刀剣を腰に差す。


 「閣下御自らが向かわれるのですか。ここへ呼び寄せればすむことでは」

 イザヤは不満そうに喉を鳴らした。


 「南への蓋になるかもしれん貴重な娘だ。この程度の手間は惜しまん」

 イザヤから元帥の黒衣を受け取り、グエンは部屋を後にした。




 一階へ通じる大きな階段を前にしてグエンは立ち止まる。


 ──サーサリア。


 中央広間のすみっこで、柱の陰に身を隠しながらある一点を凝視するその姿。グエンは自然と王女の見る先を追った。


 ──あれは。


 そこには、ついさきほどまで対していた青年の姿があった。年若い女二人にかこまれて、楽しげに会話をしながら去って行く背を、サーサリアは必死の形相で見つめている。


 「閣下?」

 足を止め、じっと下を見つめるグエンに、イザヤは首を傾げた。


 グエンは副官を無視し、サーサリアを観察する。こっそりと覗うように男の背を見つめる姿。悲しげでいて激情に駆られた我を忘れた顔がそこにある。


 手すりを握りしめ、グエンは独りごちる。

 「そうか……」


 ──愚かだった。


 親衛隊長のアマイがシュオウの配属に対して暗躍していたことの理由を、王女救出の功にむくいるための行いであると決めつけていた。だがグエンは、いま目の前に在る王女の顔をみて、それがまったくの誤りだったと得心する。


 ──なぜ気づかなかった。


 これ以上ない簡単な理由だったのだ。シュオウを王都にとどまらせるため、宝玉院への配属を裏で手引きした真の思惑。それはサーサリアが望んだこと。これ以上なく単純で崇高な目的。グエンが遙か彼方に捨て去った、人間が抱く飛沫が如き恋心。


 シュオウを見つめるサーサリアの顔はひどい有様だった。愛憎を抱え、それをどう処理してよいかわからないまま、あがき苦しんでいる。


 ──男が欲しいか、ムラクモ。


 心の中の問いかけに答える者はいない。

 グエンは手すりを握り、強靱な握力で石材を握り崩した。

 ただならぬ様子に、イザヤは半歩後ずさる。


 「イザヤ」

 「は、はい」

 「あれの側にいる二人の娘はだれだ」


 グエンは首をふって去って行くシュオウに注意を向ける。


 「……おそらく、前年の宝玉院卒業試験の合格者達かと」

 どうりで、と思う。容姿にどことなく見覚えがあったのだ。


 グエンはサーサリアから視線を外し、灰色髪の従士の背を凝視した。


 ──使い道、か。


 握って粉々になった石材を捨て、グエンは何事もなかったかのように手を払う。


 「あの三人を例のターフェスタへの外交任務に同行させろ」

 「は……?」


 意味が飲み込めず、イザヤは口をあけてかたまった。


 「言ったままだ。かならずあの三人をまとめて送り出すよう調整をつけろ。誉れであり、先を期待しての研修任務とでもしておけ。このこと、内外によく喧伝せよ」


 要領を得ぬといった様子ながらも、イザヤは聞き返すことなく命令実行を約束した。

 再び視線を戻すと、苦しげに胸のあたりを握りしめるサーサリアの姿があった。






          *






 黒いカーテンをおろした意識のなかで、サーサリアは自分の背後に置き去りにしたはずの親衛隊がまとわりついていることに気づいた。


 「殿下──」

 アマイの言葉はもはや頭に入ってはこない。

 シュオウは二人の女たちと会話を重ね、そのまま王宮の外へと歩を進めていく。


 「だれ──」


 「といいますと」

 聞き返すアマイの声が、猛烈に不愉快だった。


 乾いていた唇を濡らし、サーサリアは振り返った。

 「あの二人はだれッ」


 語気を跳ね上げたサーサリアの周囲には、青黒い霧が漂い、徐々に濃さを増していった。控える輝士たちが怯えて唾を飲み下した。


 「殿下、どうかご冷静に。彼も組織のなかで勤める者です、友人くらいいても──」


 サーサリアはアマイに詰め寄り、怒りにまかせて銀の胸当てを突き押した。


 「聞いたことに答えなさい。あのふたりはだれ、どこの家の者か」


 油汗を滲ませるアマイは、一言ずつゆっくりと言葉を紡いでいく。

 「殿下、お考えのことお察しいたしますが、おやめください」


 サーサリアは奥歯を食いしばり、憤怒の表情でアマイを睨む。

 「知っていて隠しているのなら許さぬ」


 アマイは膝をついて叩頭する。

 「私は存じません。何度聞かれても、そうお答えすることしかできません」


 サーサリアは他の輝士たちに視線を移した。


 「誰でもいい、いますぐあの二人の身元を調べて。本人と家の主はもとより、一族すべてを私の前に引きずり出しなさいッ」


 重い炎にあぶられるような空気を、不意にかかった涼やかな声が吹き飛ばした。

 「くだらんことはやめろ、ムラクモの姫」


 全員が声のしたほうへ向く。広間の奥の通路から向かってくる一人の少女。褐色肌に異国のドレスをまとって、跳ねるような軽い足取りでサーサリアへと近づいていく。


 立ち上がったアマイが、即座に手を振り上げ無言で輝士たちに号令をくだした。親衛隊の面々はサーサリアの前に立ちはだかって壁となる。うち、ひとりの輝士が少女に向かって声を荒げた。


 「きさま、何者だッ」

 少女は不敵に笑む。


 なお歩みを止めない少女に、呼びかけた輝士が詰め寄った。

 「止まれ、さもなくば──」


 手を伸ばして拘束に動いた輝士をするりとかわし、少女は輝士の銀の胸当てを一瞬の動作で蹴り飛ばした。


 輝士は糸でひっぱられたかのように吹き飛び、床に転がって胃液を吐いた。サーサリアの目にうつる輝士の顔は、白目を剥いて生きているかも定かではない。派手派手しい銀細工の鎧には、くっきりと少女の靴跡の形にへこんでいた。


 瞬間、輝士達は不意に現れた少女を敵として認識する。抜剣して身をかがめた。

 少女は敵意の眼を一身に受けてなお、涼しげな顔を崩さない。突き出された剣の前で立ち止まり、腕を組んで胸を張り上げた。


 「ア・シャラである!」


 なにかしらの宣言のように少女が言うと、アマイが意味ありげにその名を呼んだ。

 「ア・シャラ……サンゴの」


 背後からぬるりと前へ出た巨体に、サーサリアはぎょっとして胸を押えた。

 「グエン……?」


 サーサリアへは目もくれず、グエンは群れた輝士たちの間に割ってはいり、ア・シャラの前に膝を折った。

 輝士達の間にどよめきがひろがる。


 「遠路はるばる、ようこそおいでくださった。グエン・ヴラドウが、ア・シャラ姫殿下に拝謁いたします」


 ア・シャラは腕を崩し、腰にあてた。やたらに育った胸を強調するようにさらに背筋を伸ばす。


 「貴様がかのグエン公か。噂に違わぬジジイであるな」


 完全にこの場の空気を飲み込んだア・シャラは、誰もが畏怖の念を抱くムラクモの重臣を相手に、下僕の老人でも相手にしているかのような態度で応じた。


 正門側から輝士たちが大挙して現れる。彼らはサーサリアを守るために現れたというわけではないようだった。息をきらせながら、ア・シャラに駆け寄って抗議する。


 「公主、おふざけも大概にしていただきたい、正門の直前で我らをまくなど──」


 ア・シャラはあっけらかんとそれに返す。


 「この城の表裏を把握しておきたかったのだ。忠告しておくが裏門の警備が薄いぞ。番兵を三人のしたが、増援がくる様子がまるでなかった──」

 ア・シャラは言ってサーサリアを見ながら、口角をあげる。

 「──だがおかげでそこな女の馬鹿面が拝めた」


 サーサリアは驚いて口をぽかんと開く。

 「ば!? おまえ、誰にむかって」


 「男ほしさに権力を振りかざすのはまさに馬鹿の行いだ。真に欲するものは自力で手に入れてみせろ。与えられた力で他者を操り、一方的に邪魔者を消し去っても、あの男の心は動かんぞ。なぜ忠告するか知りたいか? 教えてやろう──それはアレが並の者ではないと、このア・シャラが見知っているからだ。強国の姫であろうと、やすやすと手中に収めることができるような器ではない」


 サーサリアは微動だにせぬまま、一言も返すことができなかった。


 大人びてはいるものの、自分よりいくらか年下であろうア・シャラは、なにを恐れることもなく、拝礼するグエンに部屋の案内をするよう願い出た。


 ア・シャラは去りゆく途中に、棒立ちするサーサリアの側で、

 「またあとでな」

 と、旧知の気安い言葉を残していった。


 さきほどまで身の内に巣くっていた激情をもてあまし、サーサリアはどっと膝をおとした。






          *






 グエンとア・シャラの会談は、時間も相まって夕食会をかねてのこととなった。

 厳かで広い晩餐の間に、細長いテーブルをおき席に案内されると、ア・シャラは即座に抗議を口にした。曰く、もっとくだけた場所がよいのだという。


 外の空気を吸いたいという彼女の願いのまま、グエンは王都を一望できる上階のテラスに卓を用意させた。


 「お気に召したか」

 「うむ、よい。これぞまさしく、民を睥睨する王者の視界である」


 ア・シャラは気勢良く手すりの上に立ち、腰に両手をあてて涼秋の空気を吸い込んだ。


 即席に用意させたテラスの食堂には、夜光石の明かりを配置し、テーブルのうえには、彼女の願い通り、形式張って少しずつ料理を運ぶようなことはせず、雑多な料理を少しずつ皿に盛って置く、市井の酒場の酒のつまみのような方法がとられていた。


 ア・シャラは手すりから降り、席につく。しかし料理に手を伸ばすことなく、傍らに置いていた布で包んだ小箱を取り出した。封をあけると、中から小さな木駒の山と、マスをしいた盤があらわれる。


 「闘棋という、知っているか?」

 グエンは首肯する。

 「南山僧兵から起こった駒取りの遊びですな」


 ア・シャラは頷いて、盤のうえに駒を並べていく。


 「暇つぶしにと渦視から持ってきたのだが、間違えて子供の練習に使う駒おちしたものを選んでしまった。少々思惑がはずれてしまったが、グエン爺、私と勝負をしないか」


 絢爛豪華な食事に目もくれず、勝負を挑んで目を輝かせるア・シャラに、グエンはあごを引いて了承した。


 「お受けいたしましょう」


 ア・シャラはひざを小気味よく叩いた。

 「よしッ、そうと決まれば賭をしよう。失うものも得るものもないのは勝負とは呼べないからな」


 グエンは喉を鳴らし、

 「望みがおありか」

 と聞いた。


 「よくぞ言った。我が身が勝利したあかつきには、ムラクモの従士を側仕えとして配置してもらいたい」


 グエンは奥歯を噛み、口角をさげた。それを見てア・シャラが笑う。


 「その顔、心当たりがあるようだな。おそらく爺の思うとおりの者だろう。我が父将の城をひとりで落としてみせた隻眼銀髪の武者、名はシュオウだ」


 グエンは盤上に指を滑らせ、不揃いな駒を整列させた。


 「ここのところ、よく耳に届く名でありましてな」

 「さもあろう」

 「では、私が勝てばなにをいただけるのか」

 「好きなものをいうがいい。当然、身を切るような内容でも異存はない。でなければ面白くないからな」


 グエンは駒に触れつつ、ではと口を開く。

 「二度と同じ要求をしないこと、というのは」


 ア・シャラは吹き出してグエンをのぞき込んだ。

 「優しすぎるが、いいだろう。乗った」


 突き出した拳に応じ、グエンも握った拳で当てた。

 「持ちかけたのは私だ、先手は譲ろう」


 ア・シャラの申し出に従い、グエンは初手を選んで駒を進めた。


 「守りを捨て初手から攻めてでるか。うむ、私好みの打ち手だ」

 言って、ア・シャラも同様に駒を前へと進めた。


 闘棋はいくつかの役割を担う駒を操り、対戦相手の駒を討ち取りながら、最後に王の駒を奪うことで勝利を得られる。似たような決まり事のある遊びはムラクモや世界各国に存在するが、この闘棋には特徴的な決まり事があった。それは、相手より一つでも多くの駒を討ち取っていないかぎり、王駒を差せないということである。


 ア・シャラの言うとおり、このゲームに本来必要な駒である僧兵や将の位を持つ上級な性質を持った駒がなく、下級に分類される、投、打、蹴の三つの駒と王の駒だけがあった。勝負としては若干物足りないが、しかし三すくみの性質を持つ三種の駒だけでも、熟練した者同士であれば相当な読みあいを演じることができるだろう。


 互いに駒をすすめながら、どちらともなく二人は会話をかわしはじめた。


 「ムラクモ王都をいかにおもわれる」

 「でかい都だ。町並みは美しく、気風もよい」


 ア・シャラは駒を弾くようにおいた。


 「私もひとつ聞きたいことがある」

 「……なんなりと」


 グエンはいって駒を一つ持ち上げる。

 「爺、おまえムラクモが憎いのか」


 下ろした指の下でぱちんと音が鳴る。しかしグエンはもくろみとはまるで違う場所へ駒を置いていた。


 ア・シャラはしたり顔で笑みをつくり、グエンの置いた駒を指さした。

 「これは反則だ。許せば私が圧倒的に不利におかれる」


 グエンは一礼し駒を置き直した。


 「お許しを、指が滑りました──ですが、心外でありますな。なぜそう思われる」


 「私があの馬鹿女を罵倒していたとき、あの場でほんの僅かでも怒りをみせなかったのは、グエン爺、おまえだけだ」


 ア・シャラは軽やかに指を滑らせ、グエンの駒を一つ奪った。

 グエンは仏頂面で深く息をつく。


 「見当違いであると申しておきましょう」


 まるで意に介していないような態度で、ア・シャラは話題を継続する。


 「あの王女個人がきにくわんのか? たしかに、ただ一人のムラクモ王家の血筋があそこまで頭足らずとはおもわなんだが」


 「嫌っておられるのは姫殿下のほうであるとお見受けする」


 グエンは話題の中心点をずらし、はぐらかした。


 「初対面だぞ、嫌うほどあれのことを知らん。それに、いうほど嫌う要素もない。むしろ可愛いじゃないか、頭のなかはただ一人のことで一杯。そのことのみに心を乱され、たやすく我を忘れてしまう。あれはな、紛うことなき弱者の目だ。己を知らず、ただ寄りかかるものを求めて幽鬼のごとく彷徨い生きているだけ。鼻息で吹き飛ばせる者を相手に嫌う理由があるわけがなかろう」


 いまだ十代中頃であろうア・シャラの物腰は、すでに熟達して優れる将の風格があった。それどころか、グエンの見立てでも間違いなくこの娘は王の器である。


 ア・シャラを人質にとって以降、頑なだったサンゴの国主が猛烈に弱腰になったことにも合点がいく。サンゴの王は間違いなく、孫姫のア・シャラを後継に座らせたいのだろう。


 「なるほど、同意はいたしかねますが、筋の通ったお話ではありました」

 「ごまかされた気もするが、まあいいだろう」


 盤上の戦いは続く。


 無言のやりとりが続き、グエンはついに王手への道筋を見いだした。そこへ至るまでの道は遠いが、ア・シャラの腕前からして、すでに彼女にも同じ道が見えているだろう。


 「なるほど……無防備な王を囮とし、最後の一駒まで奪い尽くしたうえで勝負を決める、か」


 グエンはテーブルに拳を置いた。

 「ここまでに」

 ア・シャラもうなずき、盤上に手のひらをのせた。


 「だまされた。初手で極めて攻撃的な打ち手と思えば、まるで真逆ではないか。慎重を極め、勝利を確実なものとするため、粘りに粘る。私がもっとも苦手とする打ち手だ」


 グエンは駒をあつめてすくっていく。

 「語る口を与えられるのは常に勝者のみ。ゆえに勝利に華は不要」


 「劇的でなくとも勝てばいい、か。なるほど、この闘棋は演者の心をなによりもよく表すとは、よくいったものだ」


 盤と駒を粗方片付けてしまうと、ア・シャラは立ってグエンを見下ろした。


 「グエン・ヴラドウ。三百年以上前の我が国の古文書のなかに幾度かその名が刻まれていた。おまえはどれほどの時を生きている」


 「国事にかかわること、もうせません」


 ア・シャラは鼻で笑う。

 「おまえに負けたことを恥じはせんぞ。同じ時を生きたなら、私は決して負けはしない」


 勝ち気な大きな瞳はまっすぐにグエンを見つめている。

 グエンはおもわず、目を背けていた。ア・シャラの聡明な眼に、身の内に巣くったものがあばかれてしまうのでは、という根拠のない不安が湧いたのだ。


 「だが惜しい。やはりあの男を私にくれぬか」

 「かの者の配属はすでに決定したことゆえ」


 そう断じると、ア・シャラは未練ありそうに溜め息をおとした。


 「あれをはべらせて、ムラクモの王女をくやしがらせてやりたかったがな──ちなみに、どこへやるつもりだ?」


 グエンがその問いへの答えを渋ると、ア・シャラは媚びるように全身をしならせる。


 「いいだろう、数百年と生き続ける大木のような化物を相手に健闘したのだ。慰めの褒美くらいはよこせ」


 「他国へやる特使の付き添いとして配置いたす」

 ア・シャラは素っ頓狂に声をあげた。

 「つまり、外交任務ということか」

 「然り」


 頷くと、ア・シャラは消沈して顔を陰らせた。


 「つまらん事をさせるのだな。あれがオウドにおいてただの雑兵に甘んじていたことも合わせ、ムラクモはシュオウという人間を過小評価しているぞ」


 「……おなじようなことを言った者がおりました」


 「グエン爺、あいつを重用しろ。あれは我が身一つで城を落とすほどの男だぞ」


 ア・シャラはすっかり冷めた料理の皿から、骨付きの肉を手づかみで取り、直接ほおばった。

 グエンはア・シャラの物言いにかえすことなく、冷たくなった汁物を喉へ運ぶ。


 ──シュオウ。


 その名をおもえば、あの眼光鋭い仏頂面が頭に浮かぶ。

 ア・シャラのいうことはいちいちもっともである。だが、わずかに芽生えていた彼の者に対する執着は、すでに霧散していた。

 グエンにとってその名は、サーサリアの心を乱していたかつてのリュケインの花と等しく、勝利のために使い潰すだけの盤上に踊らせる雑兵の一つに数えられていた。






          *






 骨の折れる任務を片付け、父オルゴア・サーペンティア公爵の本領へ帰還したジェダは、いつものごとく持参した土産を片手に、姉の元へ向かって馬を進めていた。


 領主の城の周辺を覆う森のなかに、ひっそりと隠すようにおかれた姉と暮らす家は、しかし、いつもの静かな様子を一変させ、物々しい重警護下におかれていた。

 平素から見張り役として駐屯している女をみつけ、ジェダは理由を問いかけた。


 「なにがあった」


 しかし、女は険しい表情のまま明確な返答を寄越さない。


 「ご当主さまのご命令です。何人であれ、この先の邸へ立ち入ることを禁ずると」

 「なにを言って──」


 ジェダが一歩詰め寄ると、女は剣を抜き、周囲で様子を覗っていた者達も一斉に攻撃態勢にはいった。


 「もう一度いう、すべて蛇紋石さまのご命令。抗うのなら容赦はしません」

 「姉は、ジュナは無事なのか」

 「なにもお答えできません」


 力なく両手をたらしたジェダの顔からは、すっかり笑みが消えていた。




 サーペンティア公爵が住まう風蛇の城は、まるで戦時下のごとく城門を硬く閉ざし、物々しい数の警備兵を配置していた。

 門前に陣取り道を塞ぐ一隊に声をかけると、彼らは険しい表情で手にした短槍を突きつけた。


 「とまれ!」

 「ジェダ・サーペンティアだ、当主に用件がある、道をあけろッ」


 公爵の息子であると名乗っても、彼らは得物をしまわなかった。


 「通すなといわれております!」

 ジェダは余裕を消した顔で歯をむき、左手で自らの髪を掴んで見せた。


 「僕をサーペンティアに連なるものと知ってもか」

 「まさに、あなたを通すなとの命令をうけているのです」

 「なんだと……」


 体中の血が凍えるように冷え下がっていく。

 一瞬完全停止した思考を取り戻す間もなく、城門の側の小扉を押し開き、覚えのある人間が姿をみせた。ジェダは慌てて彼の名を呼ぶ。


 「エルデミア! どうなっている、これはいったい」


 父オルゴアの側近の名を呼ぶと、彼はまるく剃りあげた頭をなでながら、顔色一つかえることなくジェダに歩み寄った。


 「お父上からです」

 エルデミアは書簡をたずさえ、それをジェダに手渡した。


 むさぼるように封をあけ、ジェダは紙に書かれた文字を目で追う。

 「ターフェスタに向かう特使の護衛……なんだ、これは」


 北方諸国の一つターフェスタは、ムラクモと頻繁に小競り合いを繰り広げてきた国である。ジェダはその防衛戦に幾度も派遣され、そのたびにそれなりの武功をあげてきた。だが、自他共に認める残虐な方法が元となり、ジェダ・サーペンティアの名は悪名として知られるようになっていた。


 ひかえめにいっても、ジェダはターフェスタの人間、とくに輝士階級にある者達からは蛇蝎のごとく恨まれている。そんな身の上で講和のための特使の護衛にいけなどという命令は、荒唐無稽を通り越して、自殺を促されたことと同義だった。


 ジェダが書簡を読み終えたのを確認し、エルデミアは手の内からするりとそれを取り上げた。止める間もなく、そのまま手の中で紙をちぎり、粉々にして風のなかにまき散らした。


 「なにをする」

 ジェダの問いに、エルデミアは岩のように微動だにしない顔で告げる。


 「密命でございます。口外は無用、そして受諾の後は早々に王都に向かわれたし、と」


 柄になくジェダは激高した。

 「父上から直接の説明を受けることなく、このような命令を受けられるものか!」


 エルデミアは冷たく返す。


 「さらに言伝がございました。お父上はこうおっしゃっております、姉君のこと一切の心配は無用であると」


 ジェダは口を閉ざし、ふらつく足取りで一歩二歩と後ずさった。吹き下ろした風に誘われ、父の住まう風蛇の城を見上げる。


 「……命令、たしかに受けたとお伝えしろ」


 「は」


 乗ってきた馬を引くのも忘れ、ジェダは単身、城に背を向けて歩き出した。

 その顔から笑みは消え、これまでどうやって笑っていたのか、思い出すこともできなかった。






          *






 枯れ葉が舞いはじめた王都で、シュオウはシガを伴って水晶宮を目指し歩を進めていた。


 「じゃあなにか、リシア教圏の国にいって紙切れ一枚渡してこいってことか」


 新たな配属と任務について、シュオウが話すとシガは呆れ口調に吐き捨てた。

 自身が所属する第一軍からの正式な命令書に記されていたのは、隣国ターフェスタに向かう特使の付き添いという、シュオウの望みとは遙かに異なる内容だった。いまはちょうど、その任務へ帯同する者達の顔合わせをするため、待ち合わせ場所へ向かう最中である。


 シガは大きなあくびをして、じゃあと言葉をつないだ。


 「お前みたいな下級軍人が外国にいってなにをするんだよ」


 シュオウはむすっとして返す。

 「……荷物持ち」

 シガは吹き出して笑った。


 「うすうすわかっちゃいたが、この国の軍部は阿呆揃いだな。おまえみたいなのを雑用係にするなんて。俺の育てのじいさんが言ってたぜ、名剣で大根の皮を剥くやつは救いようのない阿呆だってな」


 シガの物言いはぶっきらぼうだが、遠回しに褒められたような気もして、悪い気はしない。

 シガは両手で首をささえながら天を仰いだ。


 「北か……悪くねえな。いもしない神を拝む間抜けどもの面をおがんでやるか」

 「ついてくるきか?」


 シュオウの問いに、シガは目をまるくして立ち止まる。


 「なんだよ、契約を解消したいってのか」

 「いや、宝玉院を出てもいいのかと言いたかったんだ」


 シガは不思議そうに眉を歪める。

 「どういう意味だよ」


 「……あそこに残りたければ、たぶん残れるぞ。正式に雇ってもらえるかもしれない」


 あの事件以来親しく話をするようになったワナトキは、シガのことをたいそう気に入っていた。乱暴にみえるが、案外生徒達を束ねるのがうまく、いまとなっては望んで彼の跡をついてまわる弟子の数も増えている。


 「冗談だろ、あんなガキどもで溢れてる場所、いつまでもいられるかよ」

 「本当にいいのか」


 「何度もいわせんな、それにな、お前についていったほうがうまい話にありつける気がするんだ。ちまちま稼ぐのはごめんだし、金もからっぽになっちまった」


 シュオウは絶句する。アイセの父親から譲り受けた品を売りさばいた金は、一朝一夕で使い切れるような額ではない。その半分も受け取っておきながら、それを使い果たしたという。


 「あれだけの金、なにに使ったんだ」

 「馬を買った」


 自慢げに歯をみせて笑うシガに、シュオウは仏頂面で聞き返す。


 「何頭の馬を買えばあれだけの金が一瞬で消える」


 「一頭に決まってるだろ。俺の体格を支えてまだ余裕のある上等な軍馬だぞ、これでも値切るのに五日も通ったんだ」


 嬉しそうに五本指を立てるシガに呆れると同時に、シュオウは背筋に寒気を感じていた。


 「また、おまえの食費をださないといけないのか」

 「そのかわり、給金は出世払いにしてやるよ」


 堂々と言って歩き出した大きな背を見つめ、シュオウは嘆息する。

 そもそもシガの同行が許されるかも定かではないが、そのことの決定権をもつだれかに、拒否してほしいと願わずにはいられなかった。


 「ところで、お前が持ってるその本、なんだ」

 シガはシュオウが懐に抱えた二冊の古書のことにあごをむけた。


 「仕事の報酬にもらった」

 「古ぼけた本を二冊、か?」


 シガは訝って鼻をならした。


 「ただの本じゃない」


 意味深に口元をにやつかせ、シュオウは本の中を開いてみせた。

 「なんだよ……よめねえぞ」


 シガは屈んで本をのぞき込み、目を細めて顔を近づけた。


 「呪いの本、だからな」

 言うと、シガは慌てて顔を遠ざけた。

 「うえ?!」

 青ざめた顔で目元をひくつかせるシガを、シュオウは笑った。




 すこしして城門の先に佇む者の姿が見えてきた。

 「あいつらか」


 シガに問われ、おそらくそうだろうとうなずき返す。


 一人は神経質そうに親指の爪を噛む中年の輝士。そしてその隣に佇む見覚えのある人物が三人。アイセ、シトリの二人と、アデュレリアで見かけて以来の男の姿。


 シュオウは意外な人物の姿を見つけ、目を見開いた。

 「あいつ……」


 麗しい薄黄緑色の長髪をたなびかせ、佇むジェダ・サーペンティアの顔に、いつも浮かべていた微笑はなかった。






          *






 ワナトキ・エイは主師のマニカを伴って、宝玉院のなかをゆるりと歩いていた。


 「行ってしまったね」

 しわがれた声でしみじみと言うと、マニカもそれに続く。

 「ええ、なんだか静かになってしまったような気がします」


 広い中庭にさしかかり、シガが時間をかけて少しずつ持ち込んだ奇妙な訓練道具や、特製の長椅子が、そのまま置かれている。


 「あの灰色髪の子はね、よくそこの木陰に体を預けて本を読んでいた。私はあの姿が好きでね。不思議なんだ、彼のまわりだけ、まるでゆっくりと時間が流れているような気がして、見ているだけで心が和んだ」


 「ええ、たしかに形容しがたい空気を持っていました。鋭くも、おだやかで」


 生徒達の授業もあらたか終わり、彼らが帰路につく夕暮れ時。しかし集団となって訓練場へ向かう一団があった。


 「すっかり定着してしまったね。南方人の彼が残していった置き土産は」


 シュオウが連れ込んだガ・シガという名の若者は、自身が得意としていた南山仕込みの拳闘術を、教えを望む生徒達に与えた。それまで華麗な所作で剣を振るっていた彼らは、薄着でたくましく拳を振り、心なしかその態度にも自信がみなぎっているように思う。


 「苦情も届いているんですよ、跡取り息子におかしなことを教えるな、などと」


 「放っておきなさい。己の肉体一つで苦難に立ち向かうという異郷の理念。けっして悪いものではない」


 平素ではありえなかったこの状況。柔軟さに欠ける輝士教育に生じた新たな芽吹きを、ここで絶やすのは惜しかった。


 「後を継ぐ者を探してもいいかもしれないね」


 ワナトキがそう言うも、マニカはまだ若干の抵抗があるようだった。

 和気藹々と訓練場へ向かう子供達に手を振って、ワナトキは茜色の空を見上げた。






          *






 一夏のあいだ、ムラクモではいくつかの風変わりな出来事がおこった。

 宝玉院を中心としたいくつかの不可思議な現象は、その出所も定まらないまま、しばらくの間、界隈を賑わす話題の一つとして人々を楽しませた。


 そしてなにより、それまでまるで存在感の薄かったモートレッド伯爵家の当主が、突然の王女サーサリアからの招きを受け、小躍りしながら水晶宮を歩き、見送りまで受けていた様は、当分の間語りぐさになったという。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] ジェダは姉という弱みがあるのになんであえて人に恨まれるような残虐の殺し方をするんだろう 能力的に仕方ないことなのかそもそも彼の人格が歪んでるのか…
[一言] あの事件から歩みを再開したんだろうと思うけど、まだまだサーサリアの根は子供な感じですね
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