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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
小休止編
37/184

碧い滴

     Ⅶ 碧い滴











 あまおとがきこえる。


 とぎれとぎれに弱々しく、少しずつ強く。まもなく、厚い音の壁で世界を覆い尽くす。


 雨の音が好きだ、わたしを一人にしてくれる。


 夜の学舎の長い廊下を踏む。ひかえめにおとした靴の音は、雨の音がかき消した。


 灯りのひと欠片もない、暗いトンネルの中を歩いているようなきがする。


 夜の闇が好きだ、誰の眼からも逃げられる。


 暗い廊下、雨の音。少しして、中庭にさしかかる。濡れた緑の香りが、風に乗って通り抜けた。


 雨の臭いが好きだ、一時の間、現の世界を壊してくれる。


 曇り空を抜けて、かすかに届く月光は、夜の学舎の中よりも明るく世界を照らしている。


 水の色が反照し、こぼれおちた微かな月明かりと溶け合っていた。


 目に映る、雨降る夜の色彩は、よどむことなき一色の碧だった。






          *






 窓を打つ雨音が聞こえ、眠りに落ちていたシュオウはハッキリと目を見開いた。


 片手に持ったままだった本は、無意識のうちに眠りにおちていたせいで、読みかけのページが折れ曲がっている。灯りが消えてからどれほどの時がすぎたのか。


 本の折れを直し、身体を起こした。暗いまま、灯りを付ける気にはならなかった。


 ──もう、眠れそうにないな。


 雨音は郷愁を呼ぶ。人界から遠く離れた灰色の森。雨が降るたび四方から鳴り響く虫や獣の咆哮。いまはなくとも、身体は隅々までそれを覚えている。


 雨の日の夜は、意識するにおよばず感覚が研ぎ澄まされる。見上げた窓に打ち付けられた滴が爆ぜるように四散する様が、月下の夜に緩慢に咲き乱れる花びらのように、はっきりと目に映った。


 なにもない、夜の世界はゆっくりと時を刻んでいく。


 醒めた気分を持てあまし、退屈を感じた。靴のヒモを結び部屋を出る。


 思えば、夜の学舎をじっくりと歩いたことはない。明るい頃とは違い、人気が皆無であるこの時間の空気は、新鮮だった。


 暗がりの廊下には、中庭のほうから聞こえてくる激しい雨音と、湿気を多分に含んだねばっこい風が届く。


 闇の中にあって、しかしシュオウは歩く事に難儀しなかった。夜目が利くのだ。廊下に積まれた雑多な置物に足をとられることもないし、古めかしい石壁の隙間を這う小さなトカゲの姿を、はっきりと把握できる程度には見えていた。


 少し歩き、中庭の近くまできた。


 自身の足音がかき消されるほど、雨は激しく打ちつけている。ふと、外を歩きたい衝動にかられたが、足を止めた。使える傘を探すのは面倒だし、わざわざ濡れにいくのも馬鹿馬鹿しい。


 再び廊下を歩く。中庭を眺めるように通り過ぎ、学舎の北廊下に入った時、低く風鳴りを轟かせる迷宮の入り口の前に立った。闇の中、洞窟の入り口のようなそれは、窪んだ箇所に真っ黒な影が落ち、一歩引いて眺めていると、口を開いた人の顔のようにも見えた。


 いっそう不気味だが、中がどうなっているか、一寸の好奇心も湧く。先は山向こうの訓練場へと繋がっているらしいが、きちんと準備をして入れば、抜ける事くらいはできるだろう、という根拠のない自信があった。


 シュオウは自嘲するように、くすりと笑った。無意味な事だ。この迷路を攻略できたとして、それにどんな意味があるというのか。


 無謀へと誘う、口を開けた迷宮に背を向ける。

 シュオウはまた、長い廊下を歩き出した。


 角を曲がり、西側の廊下を歩いていた時だった。とある一室に、強く関心を引かれたのだ。


 それは違和感だった。


 どの教室もきちんと戸締まりがされているのに、そこだけが僅かに戸に隙間が生じていた。そこから、ほんの少しだけ暖色の灯りが漏れていた。


 中を確認すべきかどうか一瞬迷う。好奇心に突き動かされた者が、見なくてもよいものを見たがため、不幸な末路を辿ったという教訓めいた物語を数多見てきた。面倒事を引き寄せるかもしれない扉に手をかけるべきか否か。結局、シュオウは迷いを振り払った。中に誰かいたとして、それが不届き者である可能性と、誰かが病などの不意の出来事に見舞われている可能性が捨てきれない。仮にでも、この宝玉院で仕事を請ける身として、やはり見過ごすことはできなかった。


 その部屋には、左右に二カ所の入り口があった。シュオウは手前の戸を引き、声をかけた。


 「誰かいるのか?」


 途端、激しくモノが落ちる音がして、中にいた何者かが、走りだす気配がした。有無を言わさず逃げ出した時点で、やましいことがある相手と判断してもよいだろう。


 「おいッ、待て!」


 威嚇の意を込めて、シュオウは怒鳴った。

 走り出した何者かは、素早い動作で入り口の戸に手をかけた。シュオウは不審者の後ろ姿を凝視する。


 反対側の戸を勢いよく開けて廊下へと飛び出した相手を追いかけようとしたその時、鼻の奥を焦げ臭さがついた。


 逃げ出した人間が置き去りにしたランプが倒れ、零れた少量の油に火が移っていたのだ。

 シュオウは追跡を諦め、窓にかけてある厚いカーテンを引き、ランプにかぶせて火を消した。


 無駄と知りつつも、逃げ出した者の姿を探して廊下へと出る。当然、人の気配はすでにないが、かわりに一冊の本が無造作に捨て置かれていた。おそらく、慌てるあまりに落としてしまったのだろう。


 拾い上げてみて、本の題名を見たシュオウは首を傾げた。


 「秘伝、だれにも負けない、罵倒術……?」


 この本の持ち主が逃げる間際、戸に手をかけていたその後ろ姿をじっくりと思い出し、シュオウは突然の閃きに声を漏らす。

 「あ──」

 明るい黄緑色の髪を左右に結んだ後ろ姿。それは見覚えのある、女生徒のものだった。






          *






 翌朝。

 宝玉院の玄関前にて、学舎に入っていく生徒達の視線をちらと受けつつ、シュオウは通り過ぎて行く者達の姿をじっと観察していた。


 ──いた。


 目当ての人物は、集団に紛れつつ肩を狭めて、早歩きに前へと歩を進めている。左右に結った目立つ黄緑色の髪を揺らしながら、つんと目尻の上がった双眸はおどおどとして定まっていなかった。


 シュオウが一歩前へ足を踏み出すと、相手が不意に視線を合わせ、即座に泳がせた。人の流れに溶け込むように、さらに身を縮めて通り過ぎようとしているその後ろ姿に、シュオウは大きく声をかけた。


 「アズア・サーペンティア──」


 アズアはぴたりと足を止めた。離れていても聞こえてきそうなくらい、はっきりと喉に唾を通す。

 彼女の瞳が横目にシュオウを捉えたとき、昨夜の逃亡者が落としていった一冊の本を掲げ、左右に振った。


 「──話がある」

 その一言で、アズアは観念したように項垂れた。




 「返しておく。俺が間違っていたら、そう言ってくれ」


 場所を人気のない学舎の裏に移し、シュオウは本をアズアに差し出した。

 アズアは躊躇いつつ、ゆっくりと本を受け取って、上目遣いにシュオウを見る。


 「あの、昨日のことは、もう……だれかに?」


 消え入りそうな声だった。ユウヒナと対していたときの、良家の子女然とした態度もなく、今ここにいるのは、餓えた肉食獣の前に立つ負傷して身動きのとれない小動物だった。


 「だれにも言っていない──」

 聞くや、アズアは張り詰めていた緊張をほどき、胸に溜めていた息をすべて吐きだした。

 「──でも迷ったんだ、主師に報告しておくかどうか」


 すると、アズアは怯えたように青ざめる。

 「言わないで、ください……」


 勝ち気に跳ねたアズアの瞳に、たっぷりと涙が湧き上がる。ふと、いわれなき罪悪感に駆られ、シュオウは手を泳がせた。


 「脅してるんじゃない。俺も、なにか事情があるのかもしれないと思ったから、誰にも言わなかった」


 アズアは俯き、零れる涙を拾いながら何度も頷いた。

 「ごめんなさい、私……」

 「夜の教室でなにをしてた」


 アズアは充血した目を上げた。感情が高ぶっているのか、頬が紅色に上気している。


 「探しもの、です」

 「なにか無くしたのか?」

 アズアは首を振った。

 「いいえ」

 「じゃあなにを」

 「本、です。古い……とても古い本を探していて」

 「それだけか」

 「はい……」


 その本とはなにか。聞こうとして、シュオウは口をつぐんだ。深夜の学舎で一人で古い本を探すことがはたして、それだけ、という一言で済まされるような簡単な事情であるだろうか。人目を避けて行動している以上、アズアにはなんらかの目論みがあり、そしてそれは隠しておきたいような後ろ暗い事なのだろう。


 ふと、頭の中に一条の稲光が差した。発光する光景の後に浮かび上がってきたのは、とある師弟の姿だった。


 ──なにも聞くな、聞いたら。


 目の前にいるのは面倒事を運ぶ風だ。そしてアズアが本を探しているという事情は、面倒を芽吹かせる種なのだ。水をやれば最後、後には引けなくなってしまう。


 「わかった、もういい」

 背を向けると、アズアから戸惑い秘めたか細い声があがった。

 「あの……」

 「信じて黙っておく。主師に報告されたくなければ、おかしな事はするな」


 返事はなかったが、衣擦れの音からして、アズアが頭を下げている気配が感じられる。

 すっきりとしない心地を抱えながら、シュオウは黙ってその場を立ち去った。






         *






 学舎の廊下を歩きながら、あさぎ色の布にくるまれていたパンを囓る。ここのところ、昼食のとりかたといえば、部屋にじっとこもっているか、こうして軽く散歩をしながら軽食を頬張るかのどちからになっていた。


 無遠慮な関心をなかなか捨ててくれない生徒達の視線は煩わしい。しかし、だからといって毎度部屋にこもりきりでは、逃げているような気がして、それも収まりがわるい。結果、シュオウはうろうろとあてもなく、学舎や庭を歩きながら食事をする事が多くなっていた。


 明かりとりから入る日差しの間を縫うように歩く。長い廊下に人気はないが、どこからともなく、楽しげな生徒達の喧噪が聞こえてくる。まだ幼い生徒らの無邪気な笑い声は、不思議と耳に心地良かった。


 廊下の角を曲がろうとしたとき、死角になっている奥のほうから、諍いらしき話声が聞こえてきた。先へ行かず角の手前で足を止めたシュオウは、ひっそりと聞き耳をたてた。聞こえるのは、二人の少女の声だった。


 ──ユウヒナ。


 冷たい声音の裏に激しい炎を隠しているようなそれは、覚えがある声だった。


 「その干物みたいな色の靴、どこの安物かわかりませんけれど、気をつけたほうがいいのではありませんかアズアさん。ただでさえ、いつも一人ぼっちで本を抱えて歩いているあなたの薄暗い後ろ姿が、より強調されてしまいます」


 ユウヒナの言葉に、対する相手は憤った様子で声を荒げた。


 「こ、この靴はお母様からお誕生日の贈り物にいただいたものですッ」

 「へえ、そうですか……趣味がお悪いのはお母様譲りなのね」

 「取り消してッ……ください」


 アズアの声が一段低くなった。


 「とりけす? あら、ごめんなさい、事実を指摘されて傷ついてしまったのね。その事についてでしたらあやまります」


 すでに軽い言葉の応酬などではなく、両者は戦闘状態に入っているようだった。


 「どうして──いつもいつも」


 声の調子だけで、アズアの苦渋に満ちた顔がありありと浮かぶ。一方のユウヒナは、勝ち誇ったように嘲笑った。

 虚勢を張ったように、アズアが声が硬くなった。


 「そう、わたくしが母から贈り物をもらったのが妬ましいのでしょ、ユウヒナさん」

 「どういうこと……ですか」

 「だって、ユウヒナさんは養子だという噂を聞きましたもの」


 語尾を跳ね上げて、アズアはわざとらしく高笑いをする。ユウヒナからの返答はなく、相手が黙っていることを優位と捉えたのか、アズアはさらにたたみかけた。


 「アデュレリアの姫君方のなかで、その黒い御髪は珍しいのでしょう。謝らなければいけないのはこちらのほうでしたのね。さぞお辛かったでしょう、わたくしが生母からお誕生日を祝福されたというお話しは──」


 言葉が切れる直前、アズアの口が止まり、かわりに小さな悲鳴が聞こえた。よからぬ気配を察知し、シュオウは咄嗟に重い咳払いを鳴らし、角の奥を軽く覗き込んだ。


 「──忘れないから」


 服を乱して壁に寄りかかるアズアに、唸るように低く言い残し、ユウヒナはその場から逃げるように立ち去った。


 暴力沙汰にならなかったことだけ確認し、シュオウは来た道を引き返す。関わるな、と自分に強く言い聞かせながら。




 あらたか授業も終わり、生徒達が寮へと帰る夕暮れ時。

 シュオウは一人、中庭の木陰に寝そべって軽い眠りのなかにいた。


 背後にある廊下を誰かが走り抜け、それを師官が怒鳴って注意する声に目を覚ますと、中庭の反対側、奥に植えられた体格の良い木の側に、ユウヒナが佇んでいるのが見えた。


 ──なんだ。


 ユウヒナはシュオウに気付いていない。あたりをきょろきょろと見回したかと思うと、手にしていたなにかを、密集した木の上部に向けて放り投げた。直後、涼しい顔で立ち去る。


 その行動の意味もわからないまま、シュオウは早々に興味を捨て、再び目を閉じた。




 次に目を開いた時には辺りは暗くなっていた。りいりいと虫の音を奏でる庭に、一音おかしな音が混じっていた。それは、めそめそとすすり泣く女の泣き声だった。

 音を辿ると、暗い廊下にへたりこんで泣く女生徒の姿があった。一瞬ぎょっとして足が重くなったが、よくよく見てみれば、その女生徒はアズア・サーペンティアだった。


「……どうした?」


 さすがに見過ごすこともできず、シュオウはアズアに声をかける。アズアはぴくと肩を奮わせ、ウサギのように赤くなった眼でシュオウを見た。


 「大切なモノが、なくなってしまって……探したのですけど、見つからなくて」

 言葉を詰まらせ、アズアは再び俯いて涙を落とした。


 「なにを無くした、ものによっては探すのを手伝えるかもしれない」


 「本、です。お父さまから、入寮のお祝いにいただいた詩集で、とても大切なものです。馬術の時間にすこしだけ目を離していた間に、なくなっていて」


 「本、か」

 なくなっていた、とアズアは言った。つまり、失せたというよりは盗まれた、とでも言いたげである。そう考えて、シュオウは即座にユウヒナの姿を思い出していた。


 「そういうことか……」

 納得したように一人声を漏らしていた。




 中庭にある一本の木を見上げ、シュオウは推測が間違っていなかったことを確信する。


 ──やっぱり。


 寝ぼけながらに見た、あのときのユウヒナの行動。木の枝の間に挟まった古めかしい本が、それを如実に物語っている。


 シュオウは軽い身のこなしで木の幹を蹴り、高く飛び上がって枝を掴んだ。体重をかけてかるく揺らしてやるだけで、枝の間に挟まっていた本はばさりと地面に落ちた。


 アズアは迷子の子を見つけた母親のように本を愛おしそうに抱きしめる。

 手をはなして地面に降り立ったシュオウは、そんなアズアに一言告げた。


 「俺じゃないぞ」


 たっぷりと涙を溜めたアズアの瞳が、シュオウを見上げた。


 「はい──はいッ、もちろんです。誰がやったのか、わかっていますから」


 ありかを知っていたがため、あらぬ疑いをかけられないかという心配はするだけ無駄だったようだ。


 「無事にみつかったんだし、もう帰ったほうがいい」

 言って立ち去ろうとするシュオウの背に、消え入りそうな少女の泣き声が届く。

 「こんな顔で、帰れません……」


 止めてしまった足を、一歩踏み出す。だが、二歩目はでなかった。

 シュオウは振り返って腰を折り、ゆっくりとアズアに手を差し伸べた。


 「──俺の部屋でよければ、休んでいくか」


 泣き顔で唇を震わせるアズアは小さく頷いた。

 白く柔らかい小さな手を掴み上げ、シュオウはアズアに見えないよう苦笑いを浮かべた。結局、遅いか早いかだけの違いだったのだ。






          *






 べそをかくアズアをベッドに座らせて、シュオウは小さな椅子の背を前にして腰掛けた。


 「話せるようになるまで休んでていい」


 アズアはごしごしと眼をこすり、おそるおそる顔をあげた。眼と鼻がしらを真っ赤にして、感謝と謝罪の言葉を口にした。


 「ありがとうございます……ごめんなさい──」

 言って、抱えた本を強く抱きしめる。

 「──大切な物がなくなってしまった事への不安と、ずっと我慢していたことが重なってしまって、おさえきれなくて」


 「我慢していることは、ユウヒナのことか」


 アズアは小さく頷く。


 「ユウヒナ・アデュレリア、あの人は餓えた狼です。幼学年の頃からしつこくからんできて、高圧的に接してきて。そのせいで他の子たちからも距離をおかれるようになってしまって」


 「サーペンティアとアデュレリア、要するに原因はそこなんだろ」


 それぞれ、蛇と狼を紋章に掲げる二つの公爵家は、蛇蝎の如く互いを憎み合っている。そのことについての話は、これまで幾度か耳にしてきた。


 「仰るとおりです、でもッ、私はサーペンティアの血統の中でも末席、最下位にかする程度の存在。御当主様にお会いしたこともないのに、あの人はサーペンティアの名と私の容姿だけで決めつけて攻撃してくるんですッ」


 意外な告白に、シュオウは眉をあげた。

 「サーペンティア公爵の娘じゃない、のか」


 アズアは拗ねたようにアゴに力を込めて頷いた。


 「父は黒髪、母は金髪。二人とも輝石の色は黄緑色ではありません。私は、母方の祖母によく似ているのだそうです。言葉がおかしいかもしれませんが、あまりにもサーペンティア的な特徴をもって生まれたので、公爵家の血統に連なるよう、主家から申し入れがあり、父がそれを快諾しました。大家の名を受けるだけ損はない。そう言って……」


 結果的に、娘が宝玉院でねちねちとアデュレリアの姫から嫌がらせを受け続けるはめになるとは、考えが及ばなかったのだろう。


 「ユウヒナはその事を?」

 「知っている、と思います。隠していることでもないですから」


 アズアは、つまりサーペンティアの名とそれに相応しい容姿をしているため、あらぬ対人関係の摩擦にみまわれてしまったのだろう。


 「はじめてあの人に呼び止められた時から、こわくてこわくて。誰もいないところで会うとものすごく睨むんです。毒薬みたいな紫の瞳でじっと……そして言うんです、強い言葉を。私も自分を守るために少しずつ努力しました。サーペンティア一族に相応しい威厳をだせるよう、言葉つかいに気をつけたり、口げんかであの人に負けないよう、ひとを傷つけるような単語を覚えたり」


 アズアに返した本の題名を思い出し、シュオウは一人納得していた。


 「そのことが、夜の学舎の本の捜索に繋がる、か」

 独りごちるように言うと、アズアはきまずそうに顔をおとす。


 「宝玉院は古い施設ですから、不可思議な噂話は枚挙にいとまがありません。そのなかにひとつ……他人に呪いをかける方法が書かれた古書がある、という話があって」


 「呪い……? じゃあ、探していたのは」


 アズアは首を傾げ、曖昧な態度をみせる。

 「じつは、もう見つけたんです。図書室の棚に高く積み上げられた本のずっと奥にあったものを、偶然」


 「まちがいないのか」

 「なかは恐い絵がたくさんありました。消えかけていた題名には、呪詛百技と書いてあります」


 シュオウは後ろ頭をかいた。

 「なら、もう目的は達成したんじゃないか」


 アズアは神妙に首を振る。


 「百技とかいてあるのに、本にはその半分の五十の例が載っているだけでした。それに、呪いの結果のほとんどは相手を死に至らしめるようなものばかりで……」


 聞くうち、ようやくアズアが夜の学舎でなにを探していたか、理解できつつあった。

 「つまり、あとの半分が書かれている書が、どこかにあるはず、か」


 「そうです。あの人は嫌いだけど、死を望むまでは思いません。ただちょっとこらしめたいんです。お腹が痛くなるとか、すぐに眠くなってしまうとか。残りの本に、もしかしたらそうした方法が載っているかもとおもって」


 近頃、似たような状況に置かれた生徒と関わりがあったことを思い出す。その生徒は正面からの解決を臨み、やり遂げたが、アズアは搦め手で攻めることに思い至ったのだろう。


 シュオウは呪い、などという曖昧なものは信じていなかった。正確にいえば、信じていないというよりも見たことも感じた事もないそれを、現実の事として実感することができないのだが。


 アズアには、本人には自覚がないかもしれないが、誰に恥じることもない気品が備わっている。しかし話して見れば存外気弱な性格をしているらしく、ユウヒナと接しているときの高飛車な態度や仕草はすべて演技だったのだと、今ならわかる。


 彼女なりに、現状を変えたいと願っての行動を無碍に否定する気はおこらなかった。むしろその逆である。ここまで話を聞かされて、そうですかと追い払うこともできまい。


 「探すのを手伝おうか」


 聞くと、アズアはきょとんとした。


 「でも、呪いの書、なのですよ。私はとても後ろ暗いことをしています──」

 シュオウは異存はないと頷いてみせた。

 「──あなたは、アデュレリアのご身内も同然だと」


 シュオウはしかめっ面で苦笑いした。


 「すこし、あの一族と関わりがあっただけだ──」

 そもそも、アズアのいう呪いがユウヒナに降りかかるなど思ってもいないのだが。

 「──身内なんて、そんなことがあるわけないだろ」


 シュオウは左手の甲を見せ、右の口角を真横に引き延ばした。


 「じゃあ──」

 アズアの泣きはらした顔に、瞬間花が咲いた。

 「明日の夜からでいいか」


 嬉しそうにはにかんで頷くアズアを見て思う。それが一時の慰めになるのなら、モノ探しなど、たいした苦労でもないと。






          *






 翌、夕方。


 完全に主催者となってしまったシガの拳術教練に付き合い、集まった生徒達を帰して後片付けをすませる頃には、もう外は暗くなりかけていた。


 授業を終え、付き添って離れないユウヒナを従えて、シュオウは先を行くシガと、彼の一番弟子として馴染みつつあるアラタの後を歩いていた。


 シガとアラタはずいずいと先へ進み、すでに話声が届かないほどの距離を空けている。

 少し後ろを着いてくるユウヒナを見ると、心底不愉快そうに歪んだ顔があった。


 「そんなに嫌なら、もう来なくていいぞ」


 立ち止まり、声をかけると、ユウヒナは唇を噛みしめる。


 「嫌じゃありません。あなたに恩返しをできる機会を喜んでいると言ったのは真実です。やれといわれれば、荷物運びでも、訓練場の後片付けでも、なんでもいたします」


 「それだけ嫌そうな顔で言われてもな。真実味がない」

 「これは──そうじゃなくて……」


 足を止めて話していると、不意にユウヒナの顔の前を拳大の黒い蛾が舞った。ユウヒナは声もなく、背中から倒れ込み、頭を手で押さえて震えあがる。


 なお、大きな羽をぱたつかせてユウヒナのまわりを飛ぶ蛾を手で追い払い、シュオウはしゃがんで彼女の肩に触れた。


 「虫がこわかったのか」


 ユウヒナは呼吸浅く、額に脂汗を浮かべていた。


 「虫なんて、なんでもなかったのに──あ、あの時から、羽音を聞くと、か──からだが、ふ──ふるえて……しまって……」


 しだいに血の気がひいていくユウヒナを前に、同情心が湧いた。知らなかったとはいえ、彼女の態度の意味を決めつけていたことを後悔する。


 たしかにここは暗い山道だ。今の時期、辺りには虫が多く、その生を謳歌している。

 シュオウは外套をはずしてユウヒナの頭にかぶせた。屈んだまま背を向けて、おぶさる姿勢をみせる。


 「帰ろう」


 少しして、無言のままユウヒナは身体をシュオウに預けた。




 夜、部屋の戸を叩く音は軽やかに聞こえた。


 「こんばんは、せんせい」


 戸を開けると、そこに立っていたアズアは、古ぼけてあちこちすり切れた古い本を脇に抱え、片手に籐で編んだカゴを持って微笑んで会釈した。


 呼ばれ慣れていない呼称を無視して、シュオウはアズアの抱える本を指さす。


 「それ、例の本か」

 「はいッ」

 「そのカゴは?」

 「お夜食ですッ」


 アズアは元気よく言って照れ笑いをした。

 シュオウは後ろ首をさすった。他人に呪いをかけるための本を探しに行く、という後ろ暗い行いをしにいく夜にしては、アズアの態度は奇妙なくらいに明るい。


 「遊びに行くんじゃないんだぞ」


 アズアはかあっと顔を紅くしてうつむいた。


 「なんだか友達と一緒に悪戯をしにいくみたいで、楽しくて……こういう経験、ほとんどなかったので」




 ランプを手に廊下に出て、歩きながら後をついてくるアズアに小声で話しかけた。


 「いないのか?」

 「え……?」

 「ともだち」


 アズアから重い溜め息が漏れた。


 「皆さん良くしてくれています。けど、サーペンティアという家名は、やはり特別みたいで。あの人に対抗するために自分を偽っているうち、本音で接することができる友人をつくる機会を逸してしまいました。学年の監督生も、私の夜の外出を知っていて黙認しています。皆さん、恐いのでしょうね、アズアという名のあとにつく家の名前が」


 「サーペンティアか。一人、そこの人間と間近で話したことがある──」

 黄緑色の髪で、にやついた笑みを浮かべる男を思い出し、シュオウは眉を歪めた。

 「──いやなやつだった」


 アズアは吹き出すように笑った。足を止めて振り返り、抗議を込めて彼女を見つめると、だって、と切り出す。


 「本当にお嫌そうでしたから、つい。それに、サーペンティアの者を指して、嫌な奴という評価をくだせるような方に、アデュレリアの人間以外で初めてお目に掛かりました」


 アズアは言って、必死に押し殺したような声で笑い続ける。


 「そんなに笑えるようなことを言ったか」


 「はい、でもわかったきがします。アデュレリアがあなたを特別扱いしている事。彩石なく師官でいること。そして、私に自然に接してくださっていることが」


 見守っていたつもりが、いつのまにか逆に見透かされているような心地がした。

 行くぞ、と告げて足を踏む。


 「あの、いまはどちらに向かっているのでしょうか」

 「とりあえず、あのときの部屋に向かってる」

 「あの夜調べましたが、あの部屋にはなにもありませんでした」

 「それなら次に探す場所の見当はついているのか」


 問いかけに、アズアは揺らがぬ視線で頷いた。




 案内された場所は図書室だった。目的の古書を探す場所としては、一番にそうしているであろう場所を訪れたアズアにそのことを指摘すると、広い部屋の隅にある、床の穴を塞いだ鉄蓋のところへ誘導された。


 「地下書庫です。宝玉院のなかで探していないのは、もうここと迷宮だけで。きっと、もう一冊はここにあるとおもいます」


 いかにも、と言いたくなるくらいの場所だった。アズアの態度からしても、おそらくここが本命なのだろう。学舎のなかをかけずり回ることを想像していたシュオウとしては若干拍子抜けである。


 「ここから探したほうが早かったんじゃないか」


 「だって、こわくて……なかは暗いし、入ったあとに蓋をされて塞がれてしまったら出られなくなってしまうので、一人で入るには勇気と、ほんの少しの無謀さが必要でした。それに、師官方ですらここに入るような人はほとんどいないというお話で」


 聞いてみれば、納得がいく言い分だった。アズアにとって手伝いを申し出たシュオウの存在は降って湧いた助け船だったのかもしれない。


 「そういうことなら、まず俺が入って中の様子を見てくる」


 アズアは胸の前で拳を握った。

 「私を信じてくださるのですね」


 なにやら一人で感動している様子だが、シュオウは背筋に悪寒を感じていた。言われて気付いたことだが、たしかに先に入ってアズアに蓋をされ、重しでもかけられてしまえば、生きて外に出られなくなる可能性もある。


 自分がここへ来ていることを知っているのは彼女だけ。


 ──しまった。


 後先を考えず、先に入ると言った事を後悔する。が、瞳を潤ませてじっと見つめてくるアズアに、いまさら先に入れなどと言えるだろうか。安全のためとはいえ、それではあまりに体裁が悪い。


 「……先に行く」


 観念し、シュオウは鉄蓋をずらして、直下に続くハシゴに足を乗せた。


 ランプを照らしながら、一段ずつハシゴに足を下ろしていく。二十回ほど足を降ろしたところで床が見えてきた。


 周囲を照らしてみると、そこは層になった埃を溜め込んだ書棚がずらりとあたり一面を覆い尽くす、カビ臭い書庫だった。


 危険がないことを確認し、シュオウはアズアを呼んだ。返事がした後、ハシゴを踏む音が聞こえて、こっそりと安堵する。


 「すごい──古い本がたくさん」


 足をつけたアズアが言った言葉は地下の部屋に反響する。


 部屋は中央の小部屋を中心として、そこから東西南北に枝葉のように狭い通路が続いてる。それぞれの奥は、小さなランプ一つでは先まで見通すことは難しい。


 シュオウはなにげなく、近くの書棚にあった一冊の本を抜き取った。途端、たまっていたホコリが盛大に舞って、煙たさに思い切り咳き込む。


 アズアが、あ、と小さく声をもらした。かと思うと、どこからともなく柔らかい風が生じる。部屋の中心に、ぼんやりとした緑色に鈍く発光する風の渦が現れた。


 「このあたりのほこりをすべて集めてしまいます」


 アズアは左手を虚空へ向けて突き出している。

 「晶気の風か」

 アズアは風の渦をじっと見つめ、頷いた。


 「私、風を送り出すことより、こうして内へ吸い込む渦をつくるのが得意なんです。授業以外で、許可なく晶気を扱ったことが知られると怒られてしまうので、内緒にしておいてくださいね」


 シュオウは同意したことを告げて、部屋の中心に生じた緩やかな竜巻を観察していた。周囲のホコリがじわじわと吸い込まれていく様は美しく、そして面白かった。


 アズアが集めたホコリは小山となって地面に積もった。音もなく静かに生じた風の渦は、また音もなく浄化されるようにふわりと消失する。


 拍手のかわりに、シュオウはさてと切り出した。

 「これだけの本から一冊を探し出すのは大変だな」


 アズアは抱えていた古書を差し出した。


 「この本、装丁がなにかの動物の皮で出来てるんです。赤くてざらざらしていて、見た目も手触りも特徴があるので、そこを頼りに探すのがいいんじゃないかと思うのですが」


 シュオウは本を受け取り、その手触りと色を記憶に止めた。




 しばらくの間、二人は無言で本の捜索にあたった。


 並ぶ書物は多種多彩で、古文字で記された相当に古い年代のものから、現代に使われる文字で記された本まで様々である。ゲテモノ料理の方法や、なにを目的として書かれたものか曖昧な内容が多く、実用に耐えない内容であったがため、人目に触れることのないこうした地下書庫に追いやられることになったのだろう。


 「あの、休憩にしませんか」

 アズアに聞かれ、シュオウは堅くなっていた肩をまわした。

 「そうだな」


 二人、本棚を背に座り、アズアが用意した軽食にかじりつく。

 肩が触れ合うぎりぎりの位置に座るアズアは、つま先を揺らし陽気に鼻歌を奏でていた。


 「不思議ですね。この部屋はすごく暗くて怖くて、探しているものも恐ろしいものなのに、楽しくて、わくわくする気持ちを抑えきれません」


 シュオウは生返事をかえし、夜食をかじりながらも、ぼんやりと並ぶ書物の山を眺めていた。

 服の袖を引っ張られ、シュオウはアズアを見た。


 「せんせいは、呪いの実在を信じていませんか?」


 「その呼び方はやめてくれ──呪いはそうだな、信じてないよ」


 アズアは拗ねたように唇をとがらせた。

 「やっぱり──だから、こうして手伝ってくださっているのですよね」


 夜食をすべてたいらげて、シュオウは腰を深くずらし、両手で枕をつくって寝そべった。


 「うまくいかない事があるなら、自分の手と足でどうにかする。気に入らない人間がいるなら口で言えばいい。それでだめなら、手も足も頭でも、使える物は色々とある」


 「……そのどれも、上手に使えないひとだっているんです」

 「その捌け口が、呪いか」

 「それは……」


 アズアは瞳の色を暗くする。


 「責めたつもりはない」

 「いえ、後ろ暗い行いであることは否定できませんから。でもやっぱり、私はそれが実在すると思います」


 「実際に見たことがあるとか、根拠があってのことなのか?」


 アズアは自信ありげに頷いた。


 「だってこの世には、私も含め、彩石を持つ人間が扱う力、晶気があるじゃないですか」


 「それは、現実に存在するものだろ」


 「存在はしています、でも、私たちはこの力がなにを根源としているか、まるで理解していません。ある者は輝石こそが力の発生源であるといいます。そしてまたある者は、輝石は事象を引き起こす鍵でしかない、とも。無から有を生む力。それに比べたら、だれかを呪うことが、それほど難しいことであるとは思えなくて」


 シュオウは反論する言葉が浮かばず、息を吐いて唸った。


 「北の人々は、彩石の力を神の恩寵であると言います。では神とはなんなのでしょうか。神が実在するとして、なぜそれぞれに違う石を人に与えたのか。色のある石を持つ者のなかでも、行使できる力には個性があって、燦光石の存在はもっと不思議です。大災害に及ぶ事象を扱うそれが、なぜ存在するのか。そしてその特別な力は、どうして血族者の間に引き継ぐことができるのか。この世界も、私たち人間に関しても、わからないことばかりです。人々は知ろうとしない、そもそも自分達が何を知らないのか考えようともしない。私の父は学者肌な人で、小さな頃からよくそうした言葉を聞きました」


 シュオウは黙って彼女の言うことに耳を傾けていた。

 下からアズアの顔を覗くうち、シュオウは彼女の頭の後ろにある一冊の本が気になり、それを注視した。


 「あの、私の話、退屈でしたか」


 生返事をしてそっと手を伸ばすと、アズアは緊張した面持ちで肩を強ばらせ、きゅっときつく目を閉じた。

 シュオウの手はアズアの頬の真横を通り過ぎ、背後にある赤い装丁の本を抜き取っていた。


 「見つけた」

 「──え?」

 身体を起こし、ランプの明かりに当てたそれは、まぎれもなくアズアが探していた本の片割れだった。






          *






 次の日の晩は、重い雨音に覆われていた。

 前日に続き、戸を叩く音を合図に部屋を訪れたアズアは、シュオウが見つけた古書の片割れの一ページを広げ、興奮気味に指さした。


 「せんせい、見つけましたよ、ほらこれッ」


 アズアが示すページを眺めてみると、茶色い紙のうえに綴られた不気味な絵や図、それを解説しているかすれた文字がいっぱいに書かれていた。その中の目立つ部分に、大きく描かれていたのは、初老の男が腹を押さえて苦悶の表情を浮かべている様子だった。


 「ひとを腹痛にする呪い、か」

 「必要な物はもう揃えましたよ」


 昨日と同じようにアズアはカゴを持参しているが、今日の中身は、どうやら食べ物ではないらしい。




 アズアの希望で地下書庫に場所を移し、シュオウはアズアが始めた呪いの儀式に立ち会った。


 「ここにくる必要、あったのか」

 「はい、だってこの本には儀式は暗くて深い地下の部屋で行うようにと書いてあります」


 単に、あやしい行いを誰かに見られないためではないのかとも思うが、シュオウは黙っていた。

 アズアは用意した道具を一つずつ取り出していく。


 「まず、小さな水瓶。ひとつかみの土。乾燥させた香草。古い雨水に、それと鶏の血、蜘蛛の死骸──」


 妖しげなものを平然と取り出すアズアに、シュオウは驚いた。


 「──それと、呪いをかける相手の体の一部」

 アズアは言って一本の黒い髪の毛を取り出す。

 「ユウヒナのか? よく手に入ったな」

 「この日のために、すれ違い様に肩に落ちていたのを拝借しておきました」


 アズアは小さな水瓶に用意したものを一つずつ入れ、呪いの方法が記述された本のページを破いた。


 「それも必要なのか」

 「呪いを行使するさいには、それが書かれた紙を用いるのだそうです。だから、この本に書かれている呪いの儀式を行える回数は、それぞれ一度きり」


 シュオウは破れたページを催促し、受け取った。ランプに当ててみると、たしかにアズアが言った通りの方法が記されているが、あちこち文字が滲んでいて、内容が把握できない箇所も散見された。


 「これ、紙のなかになにか混ざってるぞ」


 シュオウはランプを高くかかげ、ページを灯りに透かしてみせた。紙に、あきらかにインクではない黒い二つの粒のような影が見える。


 「薬品、でしょうか? それなら、ページを破いて呪いに用いる、という説明にも合点がいきますね」


 ふと、不安がよぎった。

 まるで無意味な行いであると思っていた儀式に、初めて得たいの知れない材料が紛れ込んだのだ。


 しかし中止を促すか迷う間もなく、アズアはシュオウからページを取り返し、水瓶の中に放り込んだ。雑多な材料でごったがえす瓶のなかに、濁った水を注いでいく。


 「できました。上手くいけば、少しして水瓶の中から黒い霧が出て、呪いをかけた相手のところへ向かう。そんな風なことが書いてありました」


 アズアはカゴのなかから、見覚えのあるモノを取り出した。虫の足をした不気味な象の置物だ。


 「それ……」

 「あまりにも不気味だったので、ご利益があるかとおもって。ごめんなさい、お代は後でかならず」


 言って、アズアはそれを水瓶の前に置き、瞼をおとし、手を合わせて祈りはじめた。


 時は無意味に過ぎていく。しんと静まり返ったまま、水瓶になんら変化はない。当然といえば当然の結果だった。


 「もう、目をあけていいんじゃないか」


 おそるおそる目を開いたアズアは、水瓶を覗いて嘆息した。


 「そうです、よね……こんなに簡単にひとに呪いをかけられるなら、この世界はもっと大変なことになっているはずです。わかってました、なんとなく。わかっていたけど、なにか少しでも、いまを変えられるかなって……」


 アズアは閉じた口のなかで奥歯を噛みしめる。

 心配するように顔を伺うシュオウと目を合わせたアズアは、ぎこちなく笑みをつくってみせた。それは、相手を安心させるための作り笑いだった。


 残念だった、と一言告げ、夜の探険を終わらせるのは簡単だ。が、変化を求めた少女の願いは成就することなく、ささやかに足掻いた結果はただの虚無である。


 シュオウは、わずかに唇を濡らした。そうさせたのは、少女への同情か、接しているうちに湧いた情か。


 「もっと簡単に、いまを変えられることもあるかもしれない──」


 疲れた顔でじっと見上げるアズアに、シュオウは、とある虫の羽音が苦手な少女の話を語って聞かせた。

 暗示として名をぼかして語る話に、アズアはじっと耳を傾けていた。






          *






 あさの雨は好きだ、さめた空気に水気がまじって心地いい。


 当校時間、色彩にぎやかにたくさんの傘が並んでいる。


 色とりどりの傘の下で揺れる、色とりどりの髪。そのなかに、艶やかな長い黒髪を見つけ、アズアは軽やかに駆け出した。


 こっそりと手をあてて、黒髪の間からのぞく耳に近づける。耳元で、ぶうんと虫の音を真似てみた。


 黒髪の彼女は、小さく悲鳴をあげて、濡れた地面にへたり込む。


 アズアは彼女を見下ろして、ほんの少し意地わるく笑ってみせた。


 だいきらいだった紫色の強い瞳が、迷子の子供のように怯えている。


 あの人の言ったとおり、たった一言で世界が変わることもあるらしい。


 そっと差し出した手を、彼女はじっと見つめていた。


 がんばれば、仲良くなれる道もあるのだろうか。


 なんとなく、自分に聞いてみた。


 あの人はなんと言うだろう。


 きっと、呪いを証明するよりは簡単だと、そう言うに違いない。



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