表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
初陣編
29/184

第十一話 逃げ腰の奪還作戦

     XI 逃げ腰の奪還作戦











 蒼天をさえぎる灰色の木々で埋め尽くされた深界へ一歩を踏み出した瞬間、頭の中でなにかが切り替わったような気がした。

 ふと、郷愁にかられる。


 母なる自然の包容力が醸し出す、あのむせるような緑の臭いがない。無機質な同色に塗り込められたここは、常に転がる死の香りすらも、その存在に霞をかけて不明瞭にぼやかしてしまう。すぐ間近にあったにもかかわらず、ここへ足を踏み入れたのはいつ以来だろうか。記憶をさらわなければならないほどに、時が過ぎていた。


 耳をすませば、猛獣の咆哮が遠雷のように鳴り、なにかが木々の間を横切っていく音がして、またどこからか、生き物の断末魔の咆哮がこだましてくる。

 無慈悲な死と、暴力的な生の混在する場所。何人をも拒むはずの魔境にあって、胸いっぱいに吸い込んだ空気は、自由の味がした。


 「おい」


 唐突に背中からかかった声に、シュオウは驚きに飛び上がった。瞬時に追っ手がかかったのでは、という考えがよぎったが、聞こえた声は若い女のもので、落ち着きを取り戻した頭が、この声には聞き覚えがある、と告げていた。


 「おまえッ」


 振り向きざまに見るその姿。艶やかな銅色の肌に薄紅色の簡素な修練着をまとった少女、ア・シャラは不思議そうに眉をあげて佇んでいた。


 「どうして──」

 最後まで聞く間もくれずに、ア・シャラは矢継ぎ早にこの状況の説明をはじめた。


 「敗者の背中でも見送ってやろうかと思って、こっそり後を追ってきたんだ。でも姿を見つけたと思ったら、森に入って行こうとしていたので首をかしげた。敗北の恥辱で自棄になり命を捨てようとしているのだとしたら、多少の縁があった仲でもあるし、一言止めてやろうと思ったが……」


 シャラはかがんで下からのぞき込むようにシュオウの顔を見上げ、

 「どうにも、考え違いだったようだ。目は死んでいないな……というより、怒っているみたいだ」


 シュオウは眉間にこもった力を抜いた。

 「どうでもいいだろ──とにかく帰れッ」


 シャラは困った顔で首を真横に傾いだ。

 「……それはいいが、お前はどうするつもりだ」

 「ほっといてくれ」


 シャラはシュオウの足下に視線を落とした。

 「ムラクモへ、帰らないつもりか──靴の先が森の方を向いている」

 シュオウは曖昧に頷く。

 「今は、な」


 シャラは目線をあげてアゴに手をあてた。やがてなにかの決意をかためたように、まっすぐシュオウを射貫く。

 「わかった。とりあえずお前に付いていく」


 シュオウはぽかんと口を開けた。

 「なん──」

 シャラは即答する。

 「気になるからだ。理由はそれで十分だろう」

 はきはきと自信に満ちた声で言うこの少女に、シュオウは当惑した。


 「はっきり言うぞ、俺はこれから森の奥へ向かう。ただの森じゃない、この先は瞬きをしている間に命を落とす世界だ」

 脅して言うが、しかしシャラは動じた様子なく軽く頷いた。


 「そんなこと子供でも知っている。でもそこへ入ろうとしてる自分はなんなんだ。様子を見るに、自死を望んでいるとも思えない。つまり、お前は深界で生き延びる術を知っているか、ただの馬鹿のどちらかという事になる。短いつきあいだが、一応後者ではないと信じてやったんだ。礼はいらんぞ」


 「ありが──じゃない! そうじゃなくてッ」

 シュオウは頭をかいた。苛立ちを感じ、鋭い視線でシャラをにらむ。

 「もっとはっきり言うと、俺はお前についてきてほしくない」

 「却下だ。私はお前についていきたい」


 シュオウは脱力感に肩を下げた。この押し問答には出口が見えない。相手がこの娘である以上、説得や脅しは通じないと、どこかで悟ってしまったのだ。それこそ、身体の自由を奪うか、極端なはなし、息の根を止めでもしないかぎり、ア・シャラは自分の意思を曲げようとはしないだろう。


 煮え切らないシュオウを前に、シャラはじれったそうに口を開く。

 「こっちもはっきりと言っておく。私はお前の行動に興味がある。瞬きをしている間に命をおとすかもしれない場所に入ってなにをしようとしているのか、単純に知りたいんだ」

 その淀みのない澄んだ瞳と視線を交わして、シュオウは観念して目をそらした。

 「いい、わかった、好きにしろ。だけど、きっと後悔するからな」




 奥へ行くほどに森の中は暗く、道は険しくなっていく。並の人間なら、人の世界の面影を失っていくその様子に恐怖するのだろうが、シュオウは辺りの様子を窺いながら逆に安堵していた。


 灰色の森、と多くは一言に呼ぶが、その実は各地域によって、地形や生息している動植物にも大きな違いがある。だが幸いなことに、この辺りの森の環境は、自身がその半生を過ごした森とそう違いは感じられず、周辺に生息する植物にも見覚えのあるものがほとんどだった。


 「これほど間近に、灰色の森の内を見るのは初めてだ」


 遊楽地にでも遊びにきたような気楽さで、シャラは声を弾ませていた。ふらふらと落ち着きなく視線を泳がせたかとおもうと、近場の木々の間から垂れ下がった絹糸の束のようなものに興味を持ち、急に手を伸ばした。


 シュオウは咄嗟に伸ばされたシャラの腕を掴む。

 「やめろ」

 好奇心を満たす寸前に止められたシャラは、きょとんとした顔で見返した。

 「美しい物に興味をもつのが気に入らないか」

 「…………」


 ──口で言うよりは。

 シュオウは手近なところに落ちていた枝を拾って、絹糸の束のようなものをつついた。すると、糸束のように見えたそれは、どろりと溶けながら粘りけのある液体へと様相を変え、意思でもあるかのように枯れ枝をねっとりと包み込んだ。


 「狂鬼の残した粘糸なんだ。輝きで獲物を誘い、触れたものにからみついて麻痺毒で体を侵す。人間くらいの大きさの生き物なら、触れた瞬間に死ぬまで身体が動かせなくなる」


 シャラは胸に抱え込むように素早く手を引っ込めた。いつも余裕のある顔には汗をにじませ、顔色を低くしている。


 「ここにあるものに気軽に触れるな。ついてくるなら俺が歩いたところを踏め。なにかあっても、手は貸さないからな」

 返事はなかった。ただ生唾を飲み込む音を鳴らしながら、シャラはこくんと小さく頷いた。




 注意深く辺りの様子をたしかめながら歩を進める。望むところではないが、ずっと後をついてくるシャラのため、シュオウは予め気づいた危険を避ける術を説明しながら歩いた。


 乱雑に木が立ち並ぶ森の中で、ふと開けた場所に出た。空が見える開放感からか、シャラは強ばらせていた顔に少し余裕を取り戻していた。だがあれだけ言ったにもかかわらず、一人先行してその広場へ足を踏み入れようとしたのを見て、シュオウは呆れつつ肩を掴んでそれを止めた。


 シャラは振り返り、いたずらを叱られた子供のような顔でごまかすように笑う。

 「ここも、だめなのか」

 シュオウは頷いて屈み、その先にある土をつまんで感触をたしかめた。

 「土に不自然な粘りがある。ここは〈サルノミ〉の巣、だな」

 「サル、ノミ?」


 なにかと便利の良い手頃な枯れ枝を拾い、広場に向かって投げ入れる。途端に地面の土が波紋のようにざわめき、枝に無数の小さな虫が群がった。枯れ枝は土の中に飲み込まれでもしたように、その姿を一瞬のうちに消した。


 「狂鬼の一種で、この巣は幼虫達の食事場になっている。今は米粒並の大きさだが、成虫になると人間の大人くらいの大きさになるらしい」


 シャラは話を聞きながら、かがんで先にある地面を凝視した。

 「開けた場所はみんなこいつらの巣か?」

 「いや、そういうわけでもないな」


 「ならどうやって見分ける? 土をつまんでたしかめていたな。私にもわかるだろうか」

 シャラは先にある地面の土と手前の土とを左右それぞれに摘まみ、感触をたしかめるように指を動かした。

 「わからない……まるで、同じ…………」

 シャラはがっくりと肩をおとした。


 シュオウは広場の手前の土を僅かに摘まみ、それを鼻に当てた。

 「サルノミは動物を引きつける独特な甘い臭いを土に染みこませている。人間にはほとんど嗅ぎ分けられないけど、つまんだ土を強くこすると、ほんの少しだけ臭いがわかる。俺もはじめの頃はこの方法で見分けてた」


 シュオウにならって、こすった土の臭いを嗅ぐシャラは嬉しそうに破顔した。

 「わかる! 甘いような、酸っぱいような。人の世界にこんな臭いはない」


 無邪気に喜ぶシャラに影響され、思わず微笑みを返したシュオウは、慌てて頭をふった。

 ──こんなことしてる場合じゃないだろ。

 「行くぞ。完全に陽が落ちる前に、少しでも歩いておく」




 昼が終わり、夕刻を迎え、うっすらと森を照らす赤い日差しの中を歩き、まもなく世界は夜を迎えた。


 夜陰のなかにある深界はより活気を増していた。甲高い声で鳴く猿や、人語でもしゃべり出しそうなくらい饒舌な鳥の声が、絶え間なく周囲からあがっていた。だがこのうるささこそは、安全の証明でもある。彼ら小動物達が活発になっているということは、このあたり周辺に主だった危険がないことを告げる印でもあるからだ。


 「少し、怖くなるくらいうるさいな」

 暗闇の中、肩を抱いて後をついてくるシャラが、柄になくおとなしげな声で言った。

 「春、だからな」

 意味が違うことを理解していながら、シュオウはそう生返事をした。


 辺りは暗闇につつまれている。だというのに、シュオウは夜を照らす灯りを持っていなかった。手持ちの道具の一切は囚われたときに奪われ、そのまま放逐されてしまったせいで、あるものといえば無意味に腰にぶらさがった剣が一本かぎり。


 空に雲がないおかげで、木々の隙間からは月明かりがこぼれてくる。夜に慣れた目であれば、歩く事に支障はなかった。が、それもこの世界に長く身を置いてきた自分にこそできる事であり、人の世の姫であるア・シャラは、水も食料も休息もとれないこの状況に、さすがに衰弱した様子をみせはじめていた。


 「あッ──」

 平坦な地面で転んだア・シャラを見て、シュオウは足を止めた。

 ──限界か。

 無理矢理にでも置いてくるべきだった。その後悔が頭の中で反響した。

 「休むか」

 手をさしのべながらに言うと、土埃で汚した顔を見上げて、シャラは唇を噛みしめながら頷いた。




 深界で生き延びるうえで重要な事の一つが、休息場所の選定である。地形、気象、季節や周囲の状況を的確に見極めなければ、少し眠っている間に命を失う事になる。


 シュオウは無限に立ち並ぶ木々の中から特に太い一本を選び、その上に登って休む事を決めた。この大木は、枝や幹にほとんど傷みが見受けられない。つまり木々の間をこすり抜けて行くような巨大な狂鬼は、このあたりを通り道にはしていないと判断ができる。次いで地面に猿の糞が多く落ちていた事も選んだ理由になりえた。動物が多く泊まっている木は、それだけ安全を証明している。


 人の臭いを消すために、拾い集めておいた枯れ葉を服にこすりつける。これはとくに臭いのきついものを選ぶが、その正体は通りすがりの狂鬼がおとしていった排泄物のしみこんだものだ。一見してその他にちらばる枯れ葉などとは区別がつきにくく、ほどよい効果を期待できるものを選ぶには、それなりの知識と経験がものをいう。


 深界についてのあれこれを口で説明していると、シャラは感心したように熱心に耳を貸していた。

 「こんなこと、どこで覚えた」

 幅広な太い枝に腰を落ち着けて、ようやく人心地ついたシャラがそんな事を聞いた。

 「深界のことか?」

 「うん」


 視線を少し泳がせてから、シュオウは大雑把に自身の生い立ちを話した。孤児であった自分を拾った人間がいたこと。その人物から生きる術を教わった事などを説明すると、シャラはうわずった声をあげた。


 「それを教えたという人間は、きっと世捨て人かなにかだったのだろうな」

 「どうして、そう思う」


 「深界に関してそれだけの知識を蓄えておきながら、世にだすことはなかったのだろ? 私が知る限りでも、ここと深く関わりのある商売はいくつもある。これだけ森の奥深くまで無傷で入り込める術、売ればいかほどになるか……相手によっては、城がたつほどの金がでるかもしれない」


 シャラの話に、シュオウは目を丸くした。

 「そんなにか?」

 シャラはくすりと笑う。

 「私もこの世界では赤子も同然だが、お前も人の世に関しては少し無知に見えるな」

 シュオウは馬鹿にされたと思い、むすっとしてそっぽを向いた。


 唐突に、頬に冷たい手のひらの感触が触れた。柔らかく誘われるまま、視線を戻した先には、柔和に微笑みを称えるシャラの眉目の整った顔があった。


 「はじめてお前を知った時から、どこか他人には思えないという気がした。居場所を求めてさまよい歩く、不浄の幽鬼のように哀れで醜い。お前を知れば知るほどに、目が離せなくなっていく…………でも、執着する事は嫌いだ」


 頬に優しく触れていた手に力がこもり、シュオウは突然に頬をつねられて声をあげた。

 「いッ──」

 「あは」


 幼さと、老練さが混ざり合う悪戯な微笑みに一瞬魅入られる。だが、ぽわぽわとすぐ頭上で大合唱を繰り広げている小動物達のおかげで、平常心が揺らぐことはなかった。


 ──居場所、か。

 「俺にはもう、居場所がある」

 「ムラクモの事を言っているのか」

 つねられた頬を撫でながら、シュオウは頷いた。

 「顔見知りもできた。兵士になって仲間ができた。帰る場所ができた……」


 指を折って数えれば、ほんの短い期間だが、ここ最近を思い起こすだけでも、多くの人間の顔が浮かび、あった出来事が脳裏に去来する。旅の足がかりの一つにすぎないと思っていたそこで、自分はすでに多くの根を下ろしてきた。それこそを居場所といわず、自分という存在は、いったいどこに在るというのだろうか。しかし、シャラの言った一言が、そんなシュオウの思いに冷や水を浴びせた。


 「だけど、家族はいない」

 咄嗟に開いた口から、言葉は生まれなかった。


 「きっと、お前は自分が思っている以上に身軽に生きる事ができる。それだけの才と知識があれば、どこでだって羽ばたけるだろうに。戦の前線に晒されて、あげく置き去りにするような国が、お前の居場所なのか。もしそうでないと思うなら、私に身を預けるのも一つの未来かもしれない」


 「サンゴに来い、と言っているのか」


 「国じゃない、私の下にと言ったんだ──」

 シャラは膝を抱え、うずくまって視線を落とす。

 「──このア・シャラという肉の塊は公主なんだ。人一人くらい、言葉一つで不自由なく養うことだってできるさ。お前にその気があるのなら、私の師になってお前の知る事を教えてくれればいい。ちょうど興味を持てるものがなくて飽き飽きしていたところだったんだ」


 シャラの言葉は誘惑に聞こえた。相手が誰であれ、必要とされる事に悪い気はしない。だが同時に、自分を安く見られたようで不快だった。


 「調子にのるな」

 シャラは強ばった顔をあげる。

 「気にいらないか」

 「敵の中にいる人間の言葉になんの保証がある。もう少し自分の立場を考えろ。今、お前を生かしているのは俺のほうなんだ」


 シャラは挑戦的に眼を尖らせた。


 「そんなに私が気に入らないなら、置き去りにでもしてみるか?」

 挑発を受け、シュオウも強くにらみ返した。

 「できないと思っているのか」


 視線を交わした後、シャラはふっと表情を和らげる。

 「ああ、できないだろう──お前は、南山でも高みに立つ随一の剣士との真剣勝負に手を抜くような人間だ」

 「……そんなこと、できるような相手じゃ──」


 「勝負の終盤、あの老将の首筋を撫でた刃が、剥きだしの命に触れたのを、私はたしかに見た。その一瞬にお前の勝ちを確信したが、次の瞬間にはあの御仁がぴんぴんした様子で動き回っていたのを見て、首をかしげたんだぞ」


 「…………」


 「はじめは何かを計算しての事だと思った。でもお前のバ・リョウキ殿への接し方を見て違うとわかった。お前は、あの老人を敬っていた。結果的にであれ、我が父ア・ザンの手から救い出したのは、あの人だ。その恩にほだされて命を奪えなかった。手を抜いたんだ」


 なにも。シュオウはなに一つ言葉を返すことができなかった。

 シャラは勝ち誇ったように笑う。


 「私がなにも考えなく、よく知りもしない男についてきたと思うか。お前は情によわい。恩のある相手には遠慮が生まれる。勝負の時まで復讐者の手から守り、食事を与えたこの私を、お前は見捨てていけない。強く望まれればそれを拒むのに罪悪感がうずく。そういう人間だと思ったからこそ、深界の森の中を歩くという奇行に付き合ってみたいと思ったんだ。安っぽい脅しになど、いまさら怯えたりはしないからな」


 燃えたぎる炎のような双眸を向けて言うシャラを見て、一つわかったことがある。この娘は、ひどく負けず嫌いだ。

 シュオウは暗闇の空を見て仰いだ。

 「わかった、もういい。少し眠ろう」

 それは就寝を促す言葉であると同時に、降参をしめす言葉でもあった。

 



 まだ朝ともいえないような時間に起き、寝息をたてるシャラを揺すって無理矢理起こした。口からこぼしたよだれを慌てて拭う姿は、普段超然としている彼女にはめずらしく、なんとなく得をしたような気分になる。


 夜の湿気を溜め込んだ葉から露をいただき、喉を潤した後、眠そうに半分目を閉じたままのシャラを急かして再び歩きはじめる。

 狂鬼の縄張りを主張する印を見つけて避けたり、息を止めながらでなければ歩けない道を駆け抜ける。険しい深界の道程において、小走りに近いくらいの速度で進んでいくが、慣れない道を緊張したままついてくるシャラは、音を上げたように休憩を求めた。


 「すこしだけ休まないか……」

 「休まない」

 聞く耳を貸すことなく、シュオウは足を止めずに木々の間をすりぬけていく。


 「どうして、そこまでして急ぐ必要がある」

 きれかかった息でシャラはそう抗議の声をあげた。

 シュオウは思っていたことを素直に話す。

 「残してきた仲間に、お前の父親がなにかするかもしれない。だから急いでいる」

 「父は────そうだな、あれはそういう事をする人間だ」

 「……かばわないんだな」

 「相手が誰でも、盲目にはなりたくない。父、ア・ザンは惰弱な人間だ。身の丈に合わない出世を望み、それを手に入れてしまったがために苦しんでいる」

 「その憂さ晴らしに利用される側は、たまったものじゃない」


 シャラは自嘲気味に笑った。


 「そうだな。世界には加虐行為に悦に入る人間もいるのだろう。だが私の父は本来からしてそういう類いの人間ではなかったとおもっている。心根は弱く、他人の心の機微には異常なほど敏感だ。そうして溜め込んだ疲れや苛立ち、総帥という立場を担う心の負担のはけ口として弱者をいたぶるという恥ずべき行為を選択してしまった────でも、無能な人間だと思うかもしれないが、金勘定は得意なんだ。拠点の運営を不自由なくこなせるだけの頭はある。商い人としての人生をおくっていれば、どれだけの金をためたかわからないくらいにな」


 責めるような言葉の奥に、小さくくすぶった温かいなにかを感じた。意識的かどうかわからないが、シャラなりに父親をかばっているのだろう。敵として忌み嫌う自分に対して、理解を求めている。そう感じた。

 「なにを聞いても、俺はあいつが嫌いだ」

 シャラは、うんと一つ返す。

 「正直な言葉をきいたほうが、よほどすっきりとする」


 足を止めることなく進みながら、シャラは独り言のように言葉をつなげた。


 「あれは、娘の身である私自身、心底父であると思えないんだ。身体を動かす事を嫌い、飽食を好み、常に上を目指しているようで、その裏では鬼畜染みた趣味を捌け口としてようやく心の均衡をたもっているような弱い人間。普段からして私は父親の事を父将、と呼んでいる。父である事、そして一国の将たる身分であることを口で言わねば、あの人間を敬うことができそうにないからだ……」


 シュオウは、なにも言わなかった。そもそも、生みの親への記憶がない自分は、父親への思いを零すシャラの話を聞いていても、書に記された物語を目で追っているような感覚しかないのだ。自分にとって父母という存在は、それこそ幻想物語にも等しい。


 シャラの愚痴や吐露される思いを聞きながら、雑念のなかにあるシュオウの眼は、不意にある違和感を察知した。咄嗟に屈み、シャラを制した。

 「あった──」

 地面についた、巨大な引きずったような痕跡を見つけ、シュオウは声を弾ませた。


 「なるほど……お前の目的にも薄々見当がついてきた」


 シャラの言葉を無視して先の茂みにそっと顔をつっこむと、赤黒いキノコが群生する広場があり、そこに巨大なダンゴムシのような形をした狂鬼がいた。この狂鬼は、一度獲物とさだめれば、相手を腹に収めるまでどこまでも追いかけてくる猪突猛進の特性をもっている。硬くて伸縮性に富んだ甲羅に丸まるその姿から、シュオウはこの狂鬼を丸虫と呼んでいた。


 「聞くまでもないのだろうが、あれを連れていくつもりか」

 シュオウは首肯した。

 「あれは突進力があるわりに足が遅い。急な地形の変化にも弱いから、追われても、小回りのきく人間の足なら逃げ切るのにそれほど苦労はしない」


 復讐に興味などない。ただ囚われた仲間達を救い出すために、いくつか考えていた方法の一つがこれだった。思いがけず自由の身になった時、ムラクモへ戻り救出の助力を求めることもまっさきに考えたが、敗戦からいままでろくな反撃行動にもでてこないところをみるに、大国に傭兵まじりの少数の平民達を救い出す事を期待するのは無謀であろうと予想した。つてのあるアデュレリアの公爵を頼るという選択もあったが、それには時間がかかりすぎる。


 「渦視にあれを誘き入れ、混乱に乗じて仲間を救うつもり、か。そうまでして取り戻したいものか、お前の言う、仲間──というものは」

 シャラの言葉にはトゲがある。受け取りようによっては、馬鹿にされたようにも感じた。


 「共に居るから仲間なんだ。離ればなれになってしまったものを、取り戻そうとしてなにがわるい」

 シャラはなおも食い下がる。

 「その仲間とやらは、ムラクモに戻ればたくさんいるんじゃないのか。自身を囮の身にさらすような危険をおかし、敵陣のど真ん中に単身で舞い戻るほどの価値があるのか」


 「……ある」

 「その根拠はなんだ」

 「…………俺の仲間だ。俺が自分で取り返す」

 シャラは呆れたような溜息をこぼす。

 「お前は馬鹿か、と言われたことはないか?」


 シュオウは顔面のすべての部位を下げ、シャラを横目でにらんだ。

 「なにが言いたい」

 「お前は馬鹿だと言いたいんだ。計算のたつ者なら、有象無象のためにこんな危険はおかさない。これが、ムラクモへの安全な帰路を離れ、若くて麗しい公主の誘いを断ってまですることなのか、と呆れている」


 じっとりとしめった視線をおくられて、シュオウは言い訳をする子供のように唇をとがらせた。

 「俺だって、いつもこんな事を考えてなんかいない。ただ、あそこで……敵の中で動物のように檻に閉じ込められた、あいつらの姿を見たら、たまらなく腹が立ったんだッ。取り返してやろうと思ってなにがわるい。常に自分の心に答えをもって生きていないとだめなのか」


 小声での応酬に、互いにムキになっていくのがわかった。尚もシャラが口を開こうとしたのを見て、シュオウはその腕を強く掴む。

 「俺がしようとしている事を止めたくて、言葉を並べているのか」

 ──答えによっては。

 一定の覚悟を持って視線を合わせると、シャラは凜とした微笑みを浮かべ、首を横に振った。


 「いいや。正直にいって、そんなことをやれるものならやってみろという心境だ。猛者がひしめく巨大な砦を、本当にたった一人でどうにかできるというのならやってみせろ。結果がどうであれ、私はそれを見てみたい」


 その言葉に嘘はない、とシュオウは信じた。口元を引き締める。

 足下に転がっている体格の良い石を拾い、颯爽と茂みの中から身を乗り出した。

 「おいッ、腹が減ってるんじゃないか!」


 意味を解さないとわかっていながらも言い放ち、シュオウは持っていた石塊を、丸まった硬そうな背中に投げつけた。岩と岩がぶつかったような鈍い音がして、狂鬼はその身を震わせる。振り向きざまに丸めた背を伸ばしたその姿を見上げて、シュオウはぽかんと口を開いた。どこにしまわれていたか、体の内から長々と手足が伸びていく。左右十本ずつのすらりとした足と、胸から伸びた鎌状の前足は、巨大な灰色の木のてっぺんに届こうかというほど高々と持ち上げられた。

 背筋から、スっと冷や汗がつたう。


 ──成虫。


 今まで愚鈍で与し易いと思っていた丸虫は、子供だったのだ。深界について知識を与えてくれたアマネは、いつも実地での経験を促していたが、あえてこのことを教えてくれなかったのだとしたら、今はそれを恨みたい。


 甲羅の中から不気味な威嚇音をあげながら、ハエに似た頭がもちあがる。赤黒く光を放つ虫固有の器官である複眼が、じっとこちらを見据えていた。巨大な断頭台のような歯は、シャッシャと小気味よい音をあげながら上げ下げされている。これから行う捕食行動への準備運動をしているように見えた。ゴウと音をあげながら、狂鬼がその巨体を前のめりに突っ込んだ。


 ──まずい。


 シュオウは駆けた。茂みに身をつっこみざま、待機していたシャラに向けて叫ぶ。

 「逃げるぞ!」

 「あッ!?」


 背後から迫り来る豪雨にも似た狂鬼の足音が、手を引いている余裕など微塵もないことを警告していた。ついてこられなければ死ぬだけ。シュオウは爆ぜるように茂みを突っ切った。置き去りにしたはずのシャラは、しかし尋常ではない脚力を活かして一歩前に躍り出る。


 茂みを猛烈な勢いで突破してきた狂鬼は、林立する木々に体をぶつけて轟音をあげながら猛進して迫り来る。

 前を走るシャラは振り返り、抗議の声をはりあげた。


 「私じゃなかったら死んでたぞ!」

 「わかってる。足には自信があると自慢してただろ!」

 「瞬発力には、だ! この足は長く走るのには向いてないッ」

 「知るか、どのみち足を止めたらおわりだ、死にたくなかったらとにかく走れッ!」


 巨大な岩陰も、複雑に立ち並ぶ木々も器用に避けながら、狂鬼はなお迫り来る。狭い場所でもくぐり抜ける事ができる人間の足で、全力で走ってようやく少しだけ距離を置いて逃げ続ける事ができているという、じり貧な状況だった。一歩でも踏む先を間違えば、次の瞬間には胴体が狂鬼の口の中で真っ二つに引き裂かれていてもおかしくない。


 「話が違うぞ──ものすごく機敏じゃないかッ」

 いくつかの言い訳を思い浮かべ、シュオウはそれをすべて飲み込んだ。すでに悲鳴をあげかけている脚で、危険に満ちた深界を全力疾走しなければならない怖さを思うと、これ以上無駄に息を乱すのは得策とはいえない。なにかしらの言葉を期待して併走しているシャラに、シュオウは一言だけ、捨てるように言葉を吐いた。

 「だから、後悔するっていっただろ────」






          *






 ムラクモの敗残兵達が囚われている牢部屋の中は、一種殺伐とした空気が漂っていた。先日に行われていたお祭り騒ぎの日から、ぱったりと水と食料の配給が途絶えてしまい、誰一人様子を窺いにくる者もいなくなってしまったのだ。


 食料と水は、生きるのにぎりぎりの量を供給されていたこともあり、丸一日なにも口に入れる事ができなかった囚人達の不安は頂点に達していた。


 「おい! 飯はどうしたよッ!! ふざけんなよ、おい! 聞いてんだろうが!」


 傭兵あがりの男が我慢に耐えかね、頬のこけた顔に血走った眼で、牢部屋の外にいるはずの看守に向けて声をはりあげた。やがてそれに同調する者らが現れ、鉄格子を叩いて怒号をあげた。


 ボルジは空腹と渇いた喉をなぐさめるため、転がっていた小ぶりな石ころを口に含みながら、ただじっと身をかがめ、彼らの様子を窺っていた。

 しばらくして、あまりの騒音に耐えかねてか、一日ぶりに看守の男が姿を見せた。歓声にも似た声が牢部屋からあがる。


 「ぎゃあぎゃあとうるせえぞ! 昼寝もできゃしねえ」


 短槍を片手に現れた看守が、鉄格子を思い切り叩くと、先頭をきって抗議の声をあげる者が現れた。見ればそれは、周囲の者達からサンジと呼ばれている、シュオウの隊にいた傭兵の男だった。


 「おい、飯と水はどうなってやがる!」

 看守は品なく笑った。


 「お前達に食わせる飯も飲ませる水も、もうない。総帥閣下は近日中にお前達を処分される事をお決めになった。酒会の出し物の一つとして、生かしたまま、総帥自らが生皮をはぐらしい。えっぐいよなぁ……飯がまずくなるから、俺は別に見たかないがね」


 牢部屋はどよめきに包まれた。ボルジは咄嗟に声をあげ、看守に聞く。

 「シュオウは──バ・リョウキと戦うことになっていたとかいう、あの灰色髪のでかい眼帯をした男はどうなった?」


 ざわめきがぴたりと止み、皆が答えを待った。看守はおもしろがるように口を歪める。

 「あの男はな、バ・リョウキ様の寛大なご処置で解放されたよ」


 不安、疑問、怒り、様々な感情の入り交じった喧噪があがった。ボルジは叫び、彼らを制した。

 「うるせえ! …………解放されたって事は、あいつは勝ったのか」


 「はッ、当然負けたさ。あの剣聖バ・リョウキに勝てる剣士なんざそういるもんじゃない。だが良い勝負だったぜ、あの男の腕前は本物だと、あの勝負を見たやつらの間じゃ評判だ。濁り石を持ってる身にしてあれだけの腕があるなら、許しをもらうだけの資格は十分にあるだろう、てめえらみたいな糞の塊とは違ってな」


 看守の男は嘲笑しつつ言って、背を向けた。


 「今頃は無事に逃げ帰ってる頃だろうさ。せいぜい、ムラクモの連中にバ・リョウキ様と我々サンゴ兵の寛大さをといてまわってるだろうよ」


 看守がげらげらと笑いながら部屋を出ると、皆途端に糸が切れた人形のように脱力した。

 誰も口を開こうとはしない。ただ一人生きて外に解放されたシュオウへの、目に見えない嫉妬の炎が揺らめいているのを、ボルジは感じ取っていた。


 突然、牢部屋の中から冷めた笑い声があがった。皆の視線がその笑いの主へ釘付けになる。

 「へッ、ほらな…………あいつはそういうやつなんだよ……」


 憎々しげに顔を歪めて言うその男は、ハリオという名の、あの怠け者二人組の片割れだ。

 ハリオは力なく立ち上がり、痩せこけた顔に影をおとしながら、黄色く濁った目をむいた。皮肉なことに、その表情はここへ入れられてから一番活き活きとしている。


 「俺たちを心配するみたいな事をいっておきながら、一人だけのうのうと生き延びるようなやつなんだよ! どうせバ・リョウキとかいう将軍の靴でも舐めたに違いない。俺たち全員の命をやるから、自分を助けろとでも言ったんだ!」


 根拠のない支離滅裂な言いがかりだった。しかし平素であれば誰も相手にしないであろうその戯れ言に、死刑を宣告された飢えた虜囚達はじっと耳を傾けている。中には同調するように強く頷いて合いの手を入れ始める者までがいた。


 「いつもそうだったんだ! まわりを陥れて、なんでも自分の手柄にして、のうのうと出世までしやがった。いいか、お前らよく聞けよ、おれはな──」


 ハリオが言葉を続けている最中に、その顔をボルジの拳が強烈に殴りつけた。前歯を折りながら汚い地面の上に倒れ込んだハリオは、白目をむいて気絶した。相棒であるもう一人から、心配する声があがる。


 強烈な一撃でハリオを殴り飛ばしたボルジに、皆の視線が集まった。ボルジは血で汚れた拳を握りながら、気絶したハリオに言う。


 「あいつがてめえの言うような野郎ならな、俺は今、生きてここにいねえんだよ」


 ボルジは押し黙って様子を窺う皆に向け、怒鳴り声をあげた。


 「みっともねえ泣き言を喚きたいやつは前へでろ、俺がしばらく眠らせておいてやる! あいつは待ってろと言ったんだ。てめえらは黙って待ってりゃいいんだよ、ばかやろうどもが」


 飢えた猛獣のような眼で睨みを利かせるボルジと、目を合わせようとする者は誰もいなかった。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。




物語の続き、最新話と限定エピソードの連載は…

✅ FANBOXで先行公開中!

※ぜひチェックしてみてください!





コミカライズ版【ラピスの心臓 第3巻】2025年7月16日発売予定!

小説の表紙
― 新着の感想 ―
ボルジ、本当にいい男だ
[気になる点] 誤字報告です。 便利の良い→利便の良い [一言] この面白さをうまく形容できないのがもどかいです。一話が非常に長く飽きさせない描写が続くのが好きです。
[一言] やっぱこのデブとガリ嫌いだわぁ〜 コイツらだけなんか無理なんだよなぁなぜか 極限状態だからってのはわかるんだけど、だからこそ本質が見える?それが汚いからかも?まぁ人間自分が一番可愛いってのは…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ