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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
初陣編
28/184

第十話 剣聖バ・リョウキ

     ⅹ 剣聖バ・リョウキ











 両親はともに彩石を継ぐ血統の生まれではあったが、家柄は並以下だった。


 母は没落して散り散りとなった一族の出で、結婚で持参した僅かばかりの嫁入り道具を売りながら子を育てた。痩せた体に貧相な服を着て家事にいそしむその姿は、遠目には下民と区別がつかないほどみすぼらしかった。


 財産は、ぼろ屋敷と実入りの少ない痩せ細った土地だけという、弱小部族の嫡子として生まれ落ちた父は、禄を期待して志願した僧兵としての道で早々に出世をあきらめ、果ては道ばたにしゃがんで臭いのきつい野草をつみ、家族の食い扶持として持ち帰る事に執心するような、ぼやけた人生を送っていた。


 腕っ節より金勘定の才が欲しかった、とは困窮する一族の長である父の口癖だった。

 バ・リョウキはそうした家、両親の下、生まれながらに次代の長としてこの世に産声をあげたが、幼少時から既にその気性は並外れていた。


 泣かず、怯えず、動じず。一度でも興味を持ったものがあれば、まぶたを落とす暇も惜しんで執着した。ことさらおもちゃの剣への興味は、ほとほと両親をこまらせるほどだった。風呂に入る時、便所へ行くとき。寝るときも飯を食う時も、ところかまわず一時たりともそれを放そうとはしなかった。


 自身の足で立てるようになったバ・リョウキは、水を得た魚も呆れるであろうというほどの暴れっぷりだった。一日中、起きている時間は常に剣をふりまわし、獰猛どうもうな動物や年上の悪がき達に戦いを挑んでは、叩きのめしてまわった。


 気弱だった父は気性の激しい息子の相手に苦慮した。結果、なかば放り出すような形で剣術道場へと預けられる事になったが、幼くして家族から放されても、バ・リョウキは一切動じはしなかった。


 一応の師を得てその力をさらに伸ばし、十になる頃に参加した幼年者を集めた剣術試合の場にて、一太刀も浴びる事なく大勝してみせたことで、当時国でも随一の評を得ていた剣士に見初められ、門弟として迎え入れられた。


 卓越した才気が奮う技は、武を極めんと修練を積む年長者達ですらを圧倒した。師は早々にバ・リョウキを後継に据えると宣言したが、しかし、それが元で兄弟子達の嫉妬をかうはめになり、バ・リョウキは執拗に繰り返された嫌がらせの果てに、闇討ちを受けるほどの緊迫した状況を迎えるに至った。

 死闘のすえ、命からがらに二十人近い兄弟子全員の頭をかち割った後に待ち受けていたのは、しかし理不尽な破門処分であった。




 むき出しの肌に刻まれた無数の傷跡に触れ、老いたるバ・リョウキは過ぎ去りし日々の記憶を掘り起こしていた。


 自らが望んだ対戦の日の朝を迎え、止まない高揚感に急かされるように目を覚まし、心を落ち着けるために深い呼吸を繰り返す。

 腕の筋は盛り上がり、胸筋はふくれ、腹は硬く割れている。その有様はあまりにも実年齢とはかけ離れていた。


 過ぎた時は不利とはならない。その分、積み上げてきた経験が、自分にもっとも相応しい肉体のあり方を教えてくれたのだ。若さゆえにがむしゃらだった頃とは違う。今の自分こそが、バ・リョウキという人間の極地であると自負していた。


 対戦者は若く、そして強い。ほんの一時剣を交えた時の手応えを思い出すと、体の芯から熱湯のように沸き立った血が体中に行き渡った。


 バ・リョウキは耐えきれず身震いに肩を揺らした。

 ──待ちきれん。

 堪えきれずに笑みをこぼした。






          *






 勝利を祝う宴の日。ア・シャラは渦視の主である父と共に、観覧用に特設されたやぐらの上で、用意された席に座って膝を組んでいた。


 酒を片手に、はめをはずして陽気に騒ぐ者達の声が城塞の中庭を埋め尽くし、赤ら顔で宴会芸を披露する者らに歓声をあげては、天地を逆さにしたような大騒ぎをしていた。


 どん、どん、と規律正しい太鼓の音が響くと、周囲の喧噪はざわめきにかわった。それは、この宴で一番の催し物が近い事を告げる音だった。


 「ぶふッ」

 隣に座る父、ア・ザンは突然ニヤケ面で吹き出した。シャラはそんな父に対して、少しうんざりした調子で聞いた。

 「……どうされた」


 「ん? いや、聞いた話を思い出していたのだ。なんでも、老将殿とあの男の勝負で賭勝負を開催しようとした者がいたらしいのだが、いざ始めてみれば皆が皆、老将に金を出すもので賭けが成立しなかったようだ。残念であるな、この私も財産の半分を老将殿に賭けてやってもよかったのだがなッ」


 高笑いする父に、シャラは冷や水をかける。


 「残念という部分には同感だ。知っていれば、私はムラクモ兵に手持ちをすべて賭けてもよかった」


 ア・ザンは娘の言葉に呆然とした。


 「なん、だと? まさか本気であのバ・リョウキ将軍が負けると思っているのではないだろうな」

 「無意味な戯れ言は嫌いだ」


 ア・ザンは面白くなさそうに鼻息を吹いた。


 「ふんッ、まあ見ていろ。優れていてもお前もまだ子供、あのバ・リョウキという人間がどれほどのものか知らんのだ。国を違える者達がその名を聞いて声を高くするのには、それなりに理由があってのこと。南山の誉れたる英雄が、ほんの少し腕の立つ程度の若造に負けるはずがないッ」


 むきになって話す父に、シャラは静かに、そうか、とだけ返した。実際父の言うことも的外れな事ではないのだろうと思う。あのシャノアの老将の実力は、間近で見てきたシャラもよく知るところである。


 ──それでもだ。


 ひっそりと笑みを浮かべる。シャラにはそれでもバ・リョウキの圧勝にはならないという確信があった。それは数日前の出来事。あのムラクモの男が、目の前でほんの少し見ただけで、シャラの技の欠点を指摘してみせた、あの時。その内に秘められた才気の一端を、たしかに見たのだ。あれは、ほんの少し腕の立つ程度の人間には、到底できる事ではない。


 ──この気持ちはなんだ。


 胸の内でざわめくこの感情を、なんといえばいいか、とシャラは迷った。

 あの男の本当の実力を、父を含むこの場にいる多くの者達は過小評価している。そして本当の所を知るのは、自分をのぞけば対戦を熱望した張本人であるバ・リョウキくらいなものだろう。


 ──優越感、というのだろうか。

 シャラは持てあましたこの感情の正体の謎に、そう決着をつけた。


 日々生きるほどに、シャラは他人という存在に飽いていた。皆、言うこともやる事も、なにもかもが想像の内に収まる凡庸な存在だ。刺激を求めて参加した戦場でも、想像を超えるような体験、感動は得られなかった。


 あの男は何かが違っている気がした。遙か高みにいる人間を噛み殺してでも生き残ろうとした男。彼であればなにかしてくれそうな予感がした。そう、誰もがその勝利を信じて疑わない、当代屈指の剣士であるバ・リョウキを破ってみせるのではないか、と。


 その思いの出所には、それぞれの色があれど、シャラもまた時を待つ大勢の者達と同様に、はやくこい、と願いながら、太鼓が奏でる音に耳を傾けていた。律動が少しずつその間隔を早めていく。






          *






 太鼓の音が短く二度鳴ると、中庭に設けられた会場に詰める人々のざわめきがぴたりと止んだ。明るい赤や黄といった色の段幕があちこちから吊され、周囲一帯はこれでもかと、祭り一色の様相を呈している。


 ──みせものになったか。


 酒やつまみを片手にじっとこちらに視線を送る者達を見て、バ・リョウキは今更に実感を強めた。剣聖とあがめられても、その称号に胡座をかいたつもりはないが、一国の将たる身が真剣勝負をする場としては、ここはあまりに低俗な場といえる。が、それも自分がまいた種である以上は仕方のないことだった。


 そうまでして望んだ勝負。その相手が両手両足に拘束をいただいたまま、腰につけられたヒモを引かれて勝負の場へと引き出された。北方の民が持つ銀色の髪が風に揺れると、観衆達の怨嗟に満ちた怒号が飛びかった。


 彼をつれてきた男が、こちらに確認を求めるように視線を送った。頷いて返すと、男は虜囚の身である銀髪のムラクモ兵の拘束を解き、引き返していった。


 晴れた空には極々薄い雲が張り、適度に陽光の強さを加減している。真昼の空気は乾いている。上空を流れる風は強いが、壁に守られるここではそよ風が流れる程度にすぎない。勝負の日として、これ以上の条件を望むのは贅沢であろう。


 バ・リョウキは手にしていた一対の剣を投げ渡した。受け取った相手は若干の戸惑いを見せていた。


 ──名は……。

 一瞬つっかえた記憶をさらい、バ・リョウキはこれから殺し合いを演じる相手を呼ぶ。

 「シュオウ、といったな」

 「……はい」


 「私なりにできることはしたつもりだ。手前勝手に付き合わせるが、どちらにせよ落とすはずだった命。惜しくはなかろう」

 勝つことを前提とした言葉だった。意味を汲んでか、対戦者は視線を尖らせた。


 「俺が勝ったら、どうなりますか」

 一歩も引き下がる気のない言葉に、バ・リョウキはこぼれそうになる笑みをこらえた。


 「勝ってから考えろ。元より国を違う者同士。そこから先まで用意してやる義理はない」


 背負った剣を引き抜くと、シュオウは受け取った剣のうちの一本を引き抜き、鞘ともう一本の剣を地面に置いた。バ・リョウキは訝る。


 「遠慮は無用、二本とも抜け」

 シュオウは、ばつがわるそうに苦い顔をした。

 「これしか使えません」

 「……嘘ではない、か」


 対戦者が持つ得物は双子剣だ。どちらも同じ重さ、長さに造られており、それは両方を同時に扱う事を前提として用意されている物であると、多少の心得がある者ならば、そう想像するだろう。


 ──おかしなはなしだが。

 扱えない物をどうして腰に下げていたか、知りたいと思っても、それを聞く時は逸している。


 「いいだろう──」


 宝剣岩縄の長い柄を右手で持ち、前へ向けて構えると、間の抜けた打楽器の音が盛大に鳴り響いた。無粋なその演出を不快に思いつつも、剣を手にして腰を落とした対戦相手にすべての注意を注ぎ込む。


 先手をとり、バ・リョウキはその身を前へ投じた。詰めた間合いは三歩分。あらゆる挙動を短縮した神速の突きは、相手の腹を突き刺す間際に空を貫いた。上半身をひねって躱したシュオウは、そのままの勢いを利用し、体を回転させて首元を狙った振りを見舞う。


 ──みごと。


 その一連の所作には説得力があった。勘に頼るのではなく、考えたうえでの行動。回避と攻撃を一つの動作に組み込んだ、必殺の一撃というに不足はない。だが──


 ──しかし!


 バ・リョウキはあらんかぎりの力で踏ん張り、強靱な足腰をもって半歩後ずさった。刃の短い剣の薙ぎ払いは、長く伸びた白髭をかすって空に投げ出される。間を置かず、両者とも即座に距離をとった。


 互いに手応えのない剣撃を交わし、この時になって初めて、目の前の男の挨拶を聞いた気がした。


 ──手段は見た。


 得意は後手の技。見て躱し、相手の体勢が整わないうちに一撃で急所を狙う。確実を求め無駄を嫌う手法だが、その分相当に危険を伴う戦い方でもある。しかし相手に気負いはない。汗一つ流さず、冷静に呼吸を繰り返し、瞬くことなくこちらを凝視している。


 ──なにか、ある。

 予感がした。なにか決定的な事を見逃している。


 対戦者は細身に見えるが体幹に不安はなく、足腰の健常さも申し分ない。全体の身体のつくりをよくよく見れば、相当に厳しい環境に身を置いてきたとわかる。が、それはすべて並の人間に許された範囲を逸脱するようなものではない。この男は彩石を持っていない。生まれもっての肉体の強化という恩恵にあずかる自分とは、根底から違うのだ。


 ──なにがある。

 鎧をも貫く威力と、飛ぶ鳥を落とすほどの速度と正確さを合わせ持った自身の一撃をなんなく躱してみせるだけの能力。それは肉体を鍛えた程度で補えるような差ではないはずだ。


 戦場で、なかば奇襲するような形で剣を交えた時とはあきらかに違った。

 空いた手で下がった前髪をかきあげる対戦者は、静かだった。小さく開いた口をわずかにすぼめながら、じっと佇んで、つぎのこちらの動向を探っている。


 難攻不落の要塞に挑んでいるような心地がした。

 ──攻略法を。

 バ・リョウキは切に願った。この男を殺すには、それが必要になる。


 緩慢な動作で前足を擦る。試みに八双から振り上げた岩縄を見舞うと、相手はそれを右足をさげて体を僅かに仰け反るだけで躱してみせた。憎らしいほどに無駄な動きがない。


 空気を斬った音だけがして、バ・リョウキは左下に流れた剣身を寝かせて横払いに胴体を狙った。ただ、今度は単純な一撃ではない。刃が相手に届こうかという一瞬に、柄の握りをゆるめ、攻撃と同時に間合いを変化させるという狡い技を繰り出したのだ。握りが甘くなる分威力は落ちるが、際どく攻撃を躱す事を心情としている相手にとっては、それが致命傷になりうるはずである。


 ──とった!

 ほんの一瞬沸いた勝利への確信は、しかしきっちり伸びた切っ先の分だけ身体を引いて躱してみせた相手を前に霧散した。


 ──見えて、いるのか。


 身を引いて距離を置いたバ・リョウキの頭には、もっとも単純なその答えが巡っていた。勘でもなく、並外れた四肢の力もなく、超常に頼る彩石もない。つまりは、見えている。隻眼だという先入観で頭からすっぽりと抜け落ちていたが、力強く闘志を称える左目が、もし物の動きを捉える力に優れていたとしたら。これまでしてみせた一つ一つの神業にも納得がいく。


 「眼、か」

 正眼に構えたまま言うと、シュオウははっきりと表情に感情の色を明滅させた。


 対戦者はまだ若い。武芸に優れていても、心を隠す術には未熟とみえる。しかし、おかげでバ・リョウキは答えを得た。わかってみれば単純なもの。得体の知れない力を相手にするのは収まりが悪いが、なにに優れているのかがわかってしまえば、それに準じた対応策をとればよいだけだ。そこから先は、それこそ力と技の比べ合いである。


 バ・リョウキはシュオウめがけて飛び込み、剣を高く振り上げた。躱されるのをわかっていながら振り下ろした剣は、その通りの結果をたどるが、勢いをそのままに、バ・リョウキは切っ先で夜光石が敷き詰められた地面を叩き割った。


 宝剣と称される岩縄は、岩を砕き鋼を貫くほどの強靱さをもって、バ・リョウキの技と力を加えて硬い石畳を叩き割ろうとも、刃こぼれ一つおこしはしない。

 その頑強なる宝剣をもって砕いた地面は幾重にもヒビがはいり、粉塵を巻き上げながら砕け散って、見るも無惨な姿をさらしていた。


 バ・リョウキは反撃を警戒し、あらかじめ腰を引いている。狙い通り、相手は獲物を見失って手を出す事なく身を引いた。

 相手は戸惑うような表情をみせるが、無理もない。これまで雷光の如き鋭さで命を狙っていたバ・リョウキの攻撃が、突然に緩慢になり精細を欠いたのだ。が、当然これも狙いの内である。


 バ・リョウキは続けざま、同様に振り上げた剣をシュオウの頭上に落としつつ地面を打ち砕いた。それを数度続けて、ほんのわずかな間に砕かれた箇所が散見する足場の悪い場ができあがっていた。

 薄暗い粉塵が辺りを舞うなか、シュオウは眼に汚れが入る事を嫌い、これまではっきりと見開いていた瞼をわずかに落としている。こちらの狙いを悟ってか、その額には初めて焦りの汗をにじませていた。


 バ・リョウキは自らが作り上げた勝つための好機を見逃しはしない。舞った粉塵の中に身を投じ、渾身の力を込めて八双から相手の胴体をめがけて切り払う。だがこれで仕留められるとは思っていない。予想通り、シュオウは足をすり、身体を流してこれを躱そうとしたが、砕けた地面に足をとられて身体の均衡を失った。その身が背中から土煙の中に消えるの見て、バ・リョウキは岩縄を逆手に持ち、長い切っ先を地面に向けた。


 ──勝機!


 豪腕にさらに体重を乗せ、横たわる相手に目がけて前のめりに剣を下ろす。が、うっすらと視界が晴れるその先に、こけて無様に死を待つ者の怯えた顔はなく、代わりに巣に獲物がかかるのを待つ、酷薄に満ちた狩人の視線がバ・リョウキを射貫いていた。


 ──しまッ!?


 体勢良く向けられた狼の紋が刻まれた剣の先が鈍く光った。予測を大きくはずした自らの剣は、あさっての方へ向けて振り下ろされている。相手から見れば、バ・リョウキは急所たる心臓を無防備にさらしている状況だ。


 あらゆる思考、雑念をバ・リョウキは捨て去った。ただ、死から逃れようとする肉体の動きにのみまかせ、無茶な姿勢のままに片足をあげて身をよじる。すべての体重と勢いを背負わされたもう片方の足は悲鳴をあげたが、常人ならば正気を失いかねないその痛みの代償に、シュオウが突き出した剣の一撃を辛うじて躱すという神業を成し遂げた。よじった身体に無茶な勢いが加わり、バ・リョウキは地面の上を盛大に転げ回った。


 見守る観衆達の唾を飲み込む音が聞こえそうなほどの静寂のなか、舞った土煙が微風に洗い流される。

 涼やかに立ち尽くすシュオウを前に、無様に地面に転げて足を押さえるバ・リョウキは、笑った。

 「ふ──ひゃッ!」

 犬歯をむき出しにして、口の端から唾をこぼす。剣聖という称号には、あまりにそぐわない下卑た笑みだった。


 「搦め手までつかうか。勝つための場を整えたつもりが、すべてを見破ったうえで逆に利用するとは。この身でなければ、いまので終いであったろうが──」


 激痛を越え、支えにした右足首にはもはや感覚がないが、立つためにはむしろ都合がよい。胸を押さえると、心臓が陸にあげられた魚のように激しく脈を打っていた。それはひさしく感じていなかった、まさに胸の躍る感覚だった。


 ──これほどの武者が、名もなく埋もれていようとは。


 冷静に汗を拭う対戦者は、冷徹なまでに研ぎ澄ました視線で、じっとこちらを視ている。バ・リョウキはその立ち居振る舞いを前にして、さらに笑みを濃くした。立ち上がる途中、自らが砕いた地面の小石を握り、手の内で揉み込んだ。


 足を痛めた事を好機とみて、シュオウが初めて先手をとった。剣を後ろへ流すように持ちながら、間合いを詰めて迫り来る。払い抜くように喉を狙った一閃に襲われ、バ・リョウキは岩縄の剣腹を盾とし、それを防いだ。初めて互いの得物が重なり、硬質な金属の悲鳴が鳴った。その瞬間、バ・リョウキは左手の中で粉になるまですり砕いた夜光石を相手の顔に振りかけた。


 「うぁッ!?」

 シュオウは悲鳴にも似た唸り声をあげ、顔を押さえて後退した。


 対戦者はその強さの根幹を眼に頼っている。視る事にこだわるがゆえに、このあまりに単純な下策にかかったのだ。しかしそれは、一国の将たる身が自ら望んだこの勝負の場においては、あまりに卑怯な手段だった。


 バ・リョウキのとったその行動に、見守る観衆からどよめきがわいた。

 ──笑うがいい。


 多くの者達は自分という人間に対して思い違いをしている、とバ・リョウキは常々思っていた。礼節を重んじて武の道に生きる剣聖。そんなものは人々の理想から生まれ出た幻にすぎない。多くの者達同様に、おそらく父や母ですら自分に対して思い違いをしていたはず。バ・リョウキは別に剣を振るう事に命を賭けてきたのではないのだ、ということを。


 眼をこすりながら必死に距離を置こうとする相手めがけ、バ・リョウキは負傷した足にもかまわず、必死の形相で剣を振り上げながら、その背中を追いかけた。


 ──勝てる!


 それこそを目的として生きてきたのだ。なにより他人を負かすこと、その身を下に敷き、先へ行く権利を得る。自分にとって生きることは、すなわち勝ち続ける事だった。剣はそのための道具であり、もっともその意思を体現するために、手に馴染む物だったというだけにすぎない。


 シュオウは地面を這うように逃げまどい、中庭に鎮座した半身を欠いた像の前で立ち往生した。

 勝利がもたらす快感と恍惚を思い、口の中に唾液があふれ出る。


 名をあげた事が弊害となって、もはやバ・リョウキを前にすると大概の者は勝負を捨てる。剣を扱う同等の獲物にも恵まれず、強者を破った時に得られるあの喜びも、もはや自分には得難いものになった事を、悲しいとも思わなくなっていた。


 ──ありがたい!

 これほどの強者を、老いたる我が身に与えてくれた事を、崇める鬼神に感謝した。


 バ・リョウキは両手に構えた剣で、未だ体勢の整わない相手に斬りかかった。シュオウは格好も気にせず、その身を横たえて転げ回り、バ・リョウキの落とした剣は、後ろにあった石像の腰から台座までを一刀両断に切り落とした。


 わずか一瞬の事。しかしそれが相手に立て直すだけの時間を与えた。時を追うごとに痺れが増していく右足のふんばりが利かず、振り下ろした剣にわずかに身体を流される。視界を取り戻したシュオウは、真っ赤に充血した左目から涙をこぼしながら、低い体勢で崖底から舞い上がる突風のような勢いで、バ・リョウキの左首筋めがけて斬りつけた。


 「ぬぐうッ!」


 あえて逃げの選択を捨てる。足を踏ん張り、左から襲い掛かる相手目がけて自ずから間合いを差し出した。首に冷たい氷が触れたような感覚がしたが、即座に肩に当たった感触のみを頼りに、無我夢中でそれを押し飛ばす。たしかな手応えがあった。

 見れば、シュオウは完全に体勢を崩した格好で地面に背をつけて倒れ込んでいる。その隙を狙って、渾身の力を持って岩縄を振った。硬い音がして、狼の紋が刻まれた剣は宙を泳ぎ、カランと音を立てて地面に転がった。


 完全に無防備となった相手の首に、剣の刃を突き当てる。

 声もなく、音もない。ただ互いに視線を交わしながら、肩で息をしていた。


 「ころせええ!」


 わずかにおりた静寂を打ち破る、耳慣れた怒鳴り声が轟いた。思い出すまでもない、その醜い言葉をまっさきに吐いたのは、この渦視を取り仕切る男、ア・ザンであろう。わずか間を空けて、追随するようにあちこちから低い声があがりだす。


 「コロセ……」

 「ころせッ」

 「殺っちまえ!」


 意味を同じくする言葉が、四方八方からあがり、やがれそれらは一つの束となって繰り返された。

 ふと、首に感じる痛みに誘われて、バ・リョウキは手を当てた。ぬるりとした生温かい手触りした手のひらを見ると、真っ赤な鮮血にじっとりと濡れていた。震えるような怖気を感じ、のぼせ上がっていた頭の血がゆっくりと下がっていく。

 赤くなった眼でこちらを睨み続けるシュオウの顔は、敗者のそれではなかった。


 「しずまれいッ!!」


 敗者の死を望む耳障りな観衆の声を、バ・リョウキは一喝した。即座に静まった観衆に向け、声を張り上げる。


 「このバ・リョウキは長く生きたが、これほどの勝負は久しく覚えがない! これを共に味わった諸君らはどうかッ!」


 問われた観客達は、左右に首をふって顔を合わせてうなずき合う。どこからともなく、喝采の意を込めた拍手と歓声があがった。

 騒ぎが静まらぬうちに、バ・リョウキは続けざま声を張り上げた。


 「よき勝負はそれに相応しい相手があってはじめて叶うもの! そこであらためて問う。この者は、この場で死ぬに値するか!」


 拍手が止み、ざわめきがおこった。答えなきまま、バ・リョウキは続けて言う。


 「私は否と答えよう! この勝負を命を賭して演じた若き強者を寛大に許してこそ、我らが南山同盟は初めてムラクモに勝利したといえるのではないかッ!」


 誰からも答えなく、静寂が場を包む。しかしどこからともなく、そうだ、と小さく声があがりはじめた。賛同するように手を叩く者が現れ、そうした空気が波紋のように広がっていく。一回、二回と瞬きを重ねていくごとに、それは大きくうねりのように広がっていった。


 バ・リョウキはシュオウの首にあてた剣をひいた。

 「立て」


 シュオウは物言いたげな視線を投げつつ立ち上がる。眼が充血している以外は、勝利を収めたバ・リョウキよりよほどその様は健常にみえる。


 「……ッ」

 口を開きかけたシュオウに、バ・リョウキは首を横に振ってそれを止め、近くに転がった狼紋の剣を拾った。


 「命の代わりにこれを勝利の証としてもらう。もう一つを持って、皆がのぼせている今のうちにここを去れ、外までは配下の者に送らせる」


 しかし身動きをとらず、その場に根を生やしたように立ち尽くすシュオウに、バ・リョウキは怒鳴った。


 「急げ!」


 その身に視線を浴びながら剣を拾いに向かった背を見送って、近くに待機させていた部下に手で合図を送り、その意を告げた。シャノアの星君に送られて門があるほうへ姿を消したのを確認し、バ・リョウキは出血が増していく首筋を押さえて顔を険しく歪めた。

 目を合わせた甥のリビの顔は、ひどく青ざめてみえた。






          *






 「約束がちがうではないかあッ!」


 ア・ザンは怒りにまかせて叫んだが、そこかしこであがる歓声と拍手にかきけされ、側に控えていた者達にしか届かなかった。


 ア・ザンは蹴って立ち、興奮して赤くなった顔で拳をつきあげた。


 「今すぐ兵を送ってあの男を殺せ!」


 しかし側近の一人が咄嗟に諫めた。


 「どうか、ご自重を……。あの者は観衆の許しを得ました。それを即座に覆すようなことをすれば興醒めとなるでしょう。閣下のお名前に傷をつけるやもしれません」


 「だが、私は許しをだしてはいなあい! いないのだ!」


 「試合にほだされ、皆の心はいま英雄たるバ・リョウキに寄っております。その老将が直々に許しを求め、大勢がそれに同調しております。今はこの空気に水をさすべきではありません」


 ア・ザンは、爪で禿頭をかきむしった。


 「渦視の城主はこの私、ア・ザンだッ! なにが英雄、なにが剣聖か! 他国の政に勝手な口をはさみおって! ええい、許せん!」


 叫び、腰の剣に手をかけると、側近達が慌てて平服した。


 「閣下! どうかお心をお鎮めください。バ・リョウキはシャノアの顔、その身になにかあれば周辺国すべてを巻き込む火種となります!」


 剣を握ったまま、引き抜くことなく、ア・ザンは拳を震わせた。


 「みくびるな! その程度の計算ができぬほど、と、取り乱しては──お、おらんのだぞ!」


 頭を下げる側近の一人が、静かにこぼす。

 「ひと一人の命です、どうか……どうかお忘れに」


 ア・ザンは歯を食いしばり、首に当てた包帯をはがした。


 「見るがいい、このどす黒く濁った首の傷を! 無様に歯形を残され、それをした者をみすみす放免にする阿呆がどこにいるというのだ! ああああああ!」


 半狂乱になって椅子を蹴り飛ばすと、頭を下げる側近らは怯えて肩を縮めた。


 「いいだろう……利得を優先してあの男の命は忘れてやる。だがあの老いぼれには責任をとらせるぞ! 陛下に言上し、国をあげてこの事をシャノアに抗議してやるのだッ、そうだ……どうせなら王族たる者の名であげたほうがより確実ではないか──」


 急に思い出したように娘のいる席を見たア・ザンは、その目を瞬かせた。


 「娘は──シャラはどこにいった!?」







          *






 リビを連れて急ぎ足で部屋に引き上げたバ・リョウキは、戸を閉めるなり膝をついた。


 「叔父上?!」

 「騒ぐな。それより急ぎ血止めの用意を……針と糸がいる」


 手で押さえる首筋から垂れる血は、とどまることなくむしろ勢いを増していく。それに気づいたリビは慌てて応急処置のための支度にとりかかった。

 寝台に寝そべって水で傷を洗い流し、出血の勢いを押さえる粉薬をかけて、リビはバ・リョウキの首に針を通した。


 「まさか、これほどの傷を受けておられたとは……」

 痛みに堪えながら、バ・リョウキは鼻の穴をひろげて返した。

 「見えなかったか」

 「見えてはいましたが、入ったというような印象はなかったので」

 「……そうか」


 不意に部屋の戸を叩く音がして、処置をほとんど終えていたリビが応対した。戻ってきたリビは、険しい顔をして口を開きかけたが、おおよその内容に見当がついていたバ・リョウキは先んじてそれを言った。


 「ア・ザン殿からの呼び出しだな」


 リビは重々しく頷く。


 「さすがに、許可なくあの男を解放したのはやりすぎですよ。我々は余所者です、この件で処罰を求めてくるような事が、もしや──」


 甥の心配を、バ・リョウキは一笑に付した。


 「あれは狡い人間だ。怒りにふるえていても、結局は損得勘定にふりまわされて、口で喚くのが精一杯だろう」


 真実そう思って言ったことだが、リビはそれを慰めの言葉と受け取ったらしく、気は晴れない様子だった。


 「あのムラクモ兵は渦視の外にでたか?」

 「ええ、北門を出て見届けた旨、いま報告を受けました」

 「追っ手がかかった様子は」

 「いまのところ、そうした動きはないようです」


 バ・リョウキは神妙に頷いた。

 「よし」

 リビは不満そうに唇を歪めた。

 「わかりません、なぜ生かして解放されたのですか。叔父上は敗者に情けはかけないお方だと、常々そう思っておりました」


 言われ、バ・リョウキは顔に険しく陰をおとす。


 「勝ったという実感が湧かんのだッ。この首の切り口、あとほんの少しの力が加わっていれば、間違いなくこの命に届いていた」

 「まさか……あの男が加減をしたと言うつもりでは──」


 バ・リョウキは力強く首を横に振った。


 「いや……いやッ、ありえん。私は剣士として持てる全力で臨んだ、相手もそうであったはずだ。だがどうにも心が沸かぬッ、勝ったはず、強者を地に伏せたはずッ! なのに……おかしいのだ、なにかがおかしい……」


 決着のつかぬ思いを抱え、苛立ちを隠せないバ・リョウキを見て、リビは静かに言った。

 「お心が……みえました。あの男との再戦を望まれているのですね」


 バ・リョウキは血走った眼をあげ、一つ大きな息を吐く。

 「生かしておけば、いずれまみえる機会もあるやもしれんッ」

 「……あまりに、身勝手な行いですよ」


 甥の責めるような視線を受け、バ・リョウキは口をつぐんだ。言われた通り、自分のしたことはあまりに無責任な行いだったからだ。

 バ・リョウキは、ふらつく足に活を入れて立ち上がった。


 「行ってくる」

 リビは慌てて止めた。

 「お待ちください、護衛を──」

 「いらん。自分のしたことだ。この身一つをもって膝をついてくる。せめてそのくらいの誠意を見せねば収まりもつかんだろう」


 返事を待たず、バ・リョウキは部屋を出た。






          *






 ムラクモ領であるサク砦に通じる白道の上に一人、シュオウはじっと佇んで、先ほどまで囚われていた渦視城塞を見つめていた。

 眉はつり上がり口を硬く引き結んだその姿に、普段の余裕と穏やかな空気は一片も残ってはいなかった。


 ──ぜんぶ、取り戻してやる。


 意思強く渦視から視線をはずす。その先にあるのは、人が在る事を拒む深い灰色の森だった。






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