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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
初陣編
23/184

第五話 銀髪の虜囚

     Ⅴ 銀髪の虜囚














 血に猛った男達があげる怒号は、飢え惑う猛獣の雄叫びにも似ていた。


 戦での敗北を喫し、死に場所も得られぬまま、敵国に捕らわれた者達が、後ろ手に縛った縄を首にまわされ、屠殺を待つ家畜のように行列をなして、渦視城塞の中庭を歩いてゆく。


 惨めな行進を続ける虜囚となった敗残兵達を、引き留める声がした。

 声の主は線を引くように、一団の中心に剣を差し込み、ここまでだ、と短く告げる。


 それは死の宣告だった。

 線より前にある者達に、この場での処刑が言い渡される。


 ある者は途端に狂ったように抵抗をはじめ、またある者は、達観した胸像のような態度で、ただ訪れる運命を静かに待った。


 この後におよんで、両者にたいした違いなどない。ただ前者は、自身に降りかかる運命を、ほんの少し先取りすることとなった。違いがあるとすれば、その程度のことだ。


 屈強なる戦士達、あるいはまだ若く幼さを顔に残した従士達が、急所に槍を受け、絶命していく。


 その生々しく、一方的な殺戮行為を前にして、しかしシュオウは引かれた線の後ろに居たことを幸運だ、などとは微塵も思ってはいなかった。




 首筋に引いた鋭利な剣線。そこから噴き出す赤い霧。喉奥が泡立つ不気味な音。

 閉じたまぶたは意味をなさず、勢いのままに行った血なまぐさい行動の数々が、焦げ付いた記憶のように平静な思考を犯していた。


 シュオウは捕らわれた者らと共に、城塞内部の地下牢の中に放り込まれ、抱えた膝に顔をうずめながら、ただじっとしたまま、目をつむっていた。


 あの激しい戦いから時も過ぎ、外はもう暗くなりはじめている頃だ。

 味方に置き去りにされ、剣を投げてから、まともに仲間達の顔を見ていない。だれが生き残ったのか、きちんと把握すらできていなかった。


 ただひたすらに前を見て、襲い掛かる者達を切り伏せた。押されるまま進み続け、気がつけば自分は牢獄の中にいる。


 膝を抱えて目を閉じていても、意識はこわいほど明瞭としていた。ただ、ぽっかりと思考は消え、真っ白でなにもない空間を落ちていくような感覚と、人を殺したという記憶が、疲れた肉体を支配していた。


 それは、これまで生きてきた経験の中で、未知の感覚だった。


 同族を殺したという不快感とは違う。ただその行いは、糧を得るための狩りで、動物を殺した時の感覚ともあきらかに異なっていた。


 伏せることのできない耳は、絶え間なく周囲の音を拾っている。とくに、空気のよどんだ部屋の中で、過剰に詰め込まれた敗残兵たちの溜息は耳についた。


 そんななか、聞き覚えのある声が、突然に言葉を発した。


 「全部あいつのせいだ!」

 途端、場の空気がぴたりと雑音を消し、静まりかえる。


 「やめなよ、ハリオ……」

 言った声の主を止めるその声もまた、シュオウには聞き覚えのあるものだった。


 「やめるかよッ、なんでみんな黙ってんだよ、おまえらだってわかってんだろ、こいつが一人でのこのこ前に出て行ったせいで俺たちが敵陣のど真ん中で孤立するはめになったんだ。そうだろ? え? 違うかよッ、おい、聞いてんのかよ、シュオウ!」


 「おい、いいかげん黙らねえと──」


 さび付いた牢の扉が引きつったかなきり音をあげながら押し開かれる音がして、騒ぎになりかけていた牢獄内は、再び落ち着きを取り戻した。


 「人を探している。白っぽい髪をした若い男だ。多数の星君兵を殺めたという証言があり、総帥閣下直々の出頭命令が下された。この中にいたら今すぐ前へ出ろ。お前達のなかでは目立つ特徴だ、隠れようとしたところで無駄なことだぞ」


 その言葉に、牢獄の中はざわめきで埋め尽くされる。だが、即座に熊のような大声を張り上げた者がいた。


 「そんなやつは知らねえな」

 太くてよく通る、これもまた聞き覚えのある声だった。


 「だまれ、誰が立っていいと言った、今すぐ膝をつけ! 他の者達は一列に並んで壁に手をつけ!」


 「わかった、わかったよ。それをやったのは俺だ。糞みてえな臭いの星君を十人ばかり叩き殺してやったんだ」


 「おまえがぁ? ……いや、嘘をいうな。証言からあまりにかけはなれている」


 「わからねえやろうだな、自分で名乗り出たんだ、これ以上なんの文句があるってんだ。俺を連れていけ、総帥だか雑炊だかしらねえが、面をおがんで俺の高貴なツバでも浴びせかけてやるぜ」


 「きっさま……かまわん、こいつを連れて行け! 報告者に面を通せばわかることだ。嘘をついていたら──」


 シュオウは、膝の中にうずめていた顔を持ち上げ、咄嗟に立ち上がった。

 「俺だ」


 目を見開いて言うと、薄暗い牢の中に詰められた人間たちが、一斉にその視線を自分に釘付けにしていた。その時、ようやくこの部屋の中に見知った者達が多くいることを知る。ジン爺をはじめ、自身の預かる五十五番隊の男たちは皆無事に、そしてボルジと彼が率いる隊の人間たち。その中には、先日シュオウが叱りつけたあの二人もいて、ハリオは骨張った顔にトゲのある視線でこちらを凝視していた。


 シュオウは自ら歩み出て、サンゴの兵にくってかからんばかりに前のめりに立ち尽くしていたボルジの前へと出た。


 「おいッ」

 なお、引き留めようとするボルジに、シュオウはきつい調子で言う。

 「帰りを待つ人間がいるだろ、軽はずみなことをするな」


 「おまえ、自分がどうなるかわかって言ってんのか。やつら、北の出身者には容赦しねえぞ」


 必死に説明するボルジを前に、シュオウはそれを場違いなほどうれしく思っていた。心底身を案じてくれていると、皺を刻んだ厳つい顔は言っている。


 シュオウは堅くなった顔に力を込め、ぎこちない笑みをつくった。

 「──行ってくる」

 両手をきつく結ばれ、腰に剣を突き立てられながら、シュオウは仲間たちを残して牢獄を後にした。






          *






 「おのれぃッ」

 汗で蒸れた兜を脱ぎ捨て、バ・リョウキは忌々しい口調でそう吐き捨てた。


 渦視城塞の中を大股で闊歩する間、周囲の者達から送られる尊敬のまなざしと、賞賛の声も、今の自分にはただの雑音でしかない。


 背後から早足で、リビとシャラが後を追ってくる。バ・リョウキは勢いのまま、城塞の借り部屋に飛び込み、おかれていた家具や調度品を蹴り飛ばして盛大な騒音をかき立てた。


 「叔父上、おちついてください!」

 リビは血気に猛った叔父に冷静さを求めた。


 「落ち着いていられるか! あのムラクモに対してあれほどの大勝を得ていながら、一切の追撃を行わないとはッ」


 戦の終局において、圧倒的な不利に追い込まれたムラクモが退却行動に移った際に、本陣から出された命令は、追わずに速やかな撤収を、と告げる腰砕けな内容だった。


 兵力の大半を損耗することなく、砲撃を主とする星君の多くを無傷で残していたサンゴ軍は、敗走するムラクモを追撃した後も、砦を強襲し、そのまま制圧できていた可能性は十分にあった。反撃を警戒するにしても、試みるだけの余地はあったはずだ。なにしろ、相手が相手なのだ。今回のような機会は、千載一遇であったと言い切れる。


 「ですが、サンゴにも事情はありましょう」


 リビはサンゴをかばうように言うが、バ・リョウキはすべてを承知していた。

 全軍の指揮をとっていた渦視城塞総帥のア・ザンは、今回の戦の功労者でもあるバ・リョウキの、再三の面会要請に応じようとしない。それはことの顛末に対する後ろ暗さを抱えている事への、なによりの証明となっていた。


 「はじめからだ。ア・ザン殿は、すべて織り込み済みでこの戦のための支度を調えていた」

 「それは、どういう意味であろうか」


 部屋の中にまでついてきていたシャラが、バ・リョウキの言葉に問いかけた。彼女は戦装束のまま、あちこちに返り血を受けた姿で立ち尽くしている。


 「ア・シャラ殿、初陣を見事に飾った事、言祝ぐ余裕すらなかったことをお詫び致す」


 汚れた格好で、汗で前髪を額に貼り付けた少女の姿を見て、バ・リョウキは小さじ一杯ほどの落ち着きを取り戻していた。


 「どうでもよい。それよりも、剣聖殿のいまのお言葉の意味を知りたい」


 まっすぐこちらを見るア・シャラ。しかし応えるには若干の躊躇があった。それを察してか、彼女は明朗な声で告げる。


 「偽りのない言葉を。身内とて遠慮は無用、くだらん告げ口をする口は持ち合わせてはいない」


 よどみなく言い放つア・シャラの言葉には、不思議な説得力がある。彼女であれば、いわないと言ったことは頭をかち割れても貫くだろうと、根拠なく信じる事ができた。


 「……はじめから、この戦に先の展望などなかったのです」

 「勝利後の撤収が決まっていたと言いたいのであろうか」


 「御意に。自らけしかけた争いで、万全の状態を維持したまま敵を圧倒したにもかかわらず、敗走する相手を追うこともせずに、ア・ザン殿は撤収を号令した」


 「なるほど。自らの意思で相手を殺しにかかり、とどめをささなかったというわけか」


 「結果として、とどめを刺す事ができなかったということであれば、それはままあることであり、問題にはあらず。だが、ア・ザン殿は、とどめを刺そうとする素振りすらしなかった」


 ア・シャラとの対話に、リビが割って入った。

 「それでは、この戦に意味はあったのでしょうか」


 バ・リョウキは甥の問いかけに頷いてみせる。


 「あったのだ、少なくとも今回の仕掛け人である総帥殿にはな。あの方の望んだモノはただ一つ、ムラクモに勝利したという武勲そのもの。それは奪われた自国の領土を取り戻そうという屈強な意思ではなく、内に向けた武勇伝欲しての行為に他ならん。戦に勝利した後は、さらなる打撃を加えてムラクモの怒りを買うことを忌避した。それは弱者の思考、負け犬の所作にすぎん。我が剣をこのような無意味な戦でふるったことが口惜しい。今回の件でよくわかった、この渦視を預かる男が、自分の椅子を温めることしか考えていない小人だったと」


 吐き捨てて言ったバ・リョウキを、リビが咄嗟にいさめた。

 「叔父上ッ、ご息女の前です!」


 しかしア・シャラは鼻で笑う。

 「気にするな、我が元となった男とはいえ、中身はよく理解している。剣聖殿は事実を述べたのだ、侮辱されたと怒るつもりなどない」


 父を嘲る他国の人間を前にしても、ア・シャラは冷静さを保っている。老いたる自分よりよほど完成された人格を有しているように見える彼女に、バ・リョウキは恥じ入る思いを感じ謝罪のために腰を折ろうと向き直った。が、扉をたたく音がそれを寸前で止めた。


 「なんだ」


 訪れた者に用件を尋ねると、バ・リョウキとリビの本国であるシャノアからの使いが届けた書簡を渡しにきたのだという。

 受け取った書簡の中を見て、バ・リョウキはしかめっ面をさらにひんまげた。


 「叔父上、宮廷はなんと」

 「サンロの地に謀反の気配あり。単身帰国の途につき、禁軍を率いてこれを鎮圧せよと、主上のお達しだ」


 シャノアの現王はまだ幼い。実質的な実権を握っているのは、みまかった前王の后一族で、本来継承権の上位にいた前王の別子や血族者達は、権力争いに敗れ、命を落としたか、サンロというシャノア国内の貧相な小領地に軟禁されていた。


 話を聞かされたリビは、険しい顔で胸を叩いた。

 「ならば、私も共に向かいます」


 勇ましく言った甥に、首を振る。

 「おまえは残れ。シャノアを代表する者が二人とも席を立てば、礼を失する。この文だけでは詳細はわからぬ。私は指示に従い国に戻って状況を見定めた後、指示を出す。形だけでも我らはこの戦で成果を残した。ここでは当分の間、邪魔にはされまい」


 バ・リョウキは改めて、じっとたたずんで様子をうかがっていたア・シャラに向き直った。


 「さきほどは失礼をした。急ぎの事ゆえ、お父上には挨拶にうかがえなかった事をお許し願いたい、と」


 ア・シャラは力強く一度頷く。

 「私から説明しておこう」


 挨拶もそこそこに、バ・リョウキは宝剣岩縄を担いで出立の支度を整えた。立ち上がって後に続こうとするリビに向け、言葉を残す。


 「見送りはいらん──」

 言って部屋を出る寸前、ある事を思い出し、バ・リョウキは足を止めた。

 「──リビ」


 「あ、はいッ」


 「敵陣にいた銀髪独眼の男を捜せ。どさくさで気が紛れてしまったが、あれは名を聞くに値する武人だった。おそらく捕らわれの身になったはず。無事を確認できたなら、ア・ザン殿に、シャノア樹将バ・リョウキの名において、保護を申し出よ」


 「保護を……ですが、敵兵ですよ」

 ためらう甥に、バ・リョウキはきつくにらみを効かせる。

 「二度言わせたいか」

 「……いえッ、かならずそう致します」

 



退室した叔父の背中を見送り、リビは溜息をこぼした。


 「これほど感情をあらわにされる方だとは思わなかった」

 室内に残ったままのシャラは、部屋に散乱した卓や、砕け散った調度品を見て言った。


 「剣聖という呼称がそう思わせるのか、叔父上のことを冷静沈着な人間だと思う者が多いが、実際のところ、あの方が感情にまかせて怒り狂う姿は、憤怒に猛る鬼神よりも恐ろしい」


 身震いをする仕草でリビが言うと、シャラは愉快そうに一笑した。

 「さて、私も行く。身を清めて、あほう僧将殿の面でも拝むとしよう」


 去ろうとするシャラの背に、リビは慌てて声をかけた。

 「あの、おめでとうございます。あなたの戦場での武勇、このバ・リビ、心底見ほれました」


 顔を傾けて、横目を送るシャラは、すっと伸びた姿勢で微笑みを浮かべていた。完成された一つ一つの所作にリビが見とれていると、シャラは思いつきに言葉を残した。


 「そうだ、剣聖殿の言っていた件の男が見つかったら、私にも一報を。あれほどの方が執着する人間だ。直接話をしてみたい」

 「……あ……はい」


 そうさらりと言い残して出て行ったシャラに、リビは生返事で応えた。

 ──なんだ、これは。

 もやもやと不快感が漂う心根に触れようと、リビは胸に手を当てた。




 城塞の中はいまだ興奮冷めやらぬ男達がひしめき、血と汗の混じる独特な異臭に包まれていた。


 雑兵達の行き交う細長い兵舎を訪れたリビの目の前では、疲れた様子で廊下に背を預け、座り込む者や、血気盛んに勝ちどきの声をあげる者など、そこは場末の酒場のような喧噪に包まれていた。だが、それも無理はない。まだ戦が終わって一日もたっていないのだ。


 リビは疲れを押して方々歩き回り、捕らわれた敵兵達の居場所を聞いて歩いた。


 城塞の端から端までを歩き、捕らわれた者達のうち、一部は早々に処刑されたと聞かされ肝を冷やしたが、しめられた鶏のように地べたに放り捨てられていた死体の山を見たところ、そこに目的の人物と合致する特徴は見当たらず、ほっと胸をなで下ろした。


 あたりが暗くなり、各所から賑やかな宴会の声が届き始める頃になって、ようやく地下牢の存在と場所を突き止め、そこを管理する人間から、リビの探し求めている人物が、総帥の命令によって連れ出されたのだとわかった。


 低く鳴った腹に忍耐を求めながら、リビはア・ザンの詰める部屋に向け、足を運んだ。


 ア・ザンの部屋を訪れるまでもなく、リビはその途中に目的の人物を発見した。叔父が銀髪と評した髪は、暗がりのなかにあって、くすんだ灰色にしか見えないが、やたらと大きな黒い眼帯は、自分も遠目にそれを見ていたので、間違いないはずだ。


 バ・リョウキが身柄の保護を命令した件の男は、両手をきつく縛られながら、四人の屈強な兵に囲まれ、リビ達が最初にこの城塞の中を案内された際に紹介された、薄暗い牢獄の中へと連れられていく最中だった。その後ろを、うれしそうに手をこねながらついて行くア・ザンの姿がある。


 リビはその光景を前に、一瞬で銀髪の男が置かれた状況を把握した。


 英雄と名高いあの叔父が、名指しで戦いを挑むような人間だ。考えるまでもなく、戦場にあっては相当に活躍したに違いない。つまり、サンゴの側からすれば、あの男は札付きとなってしまい、悪目立ちしてしまったのだろう。一般の虜囚達から隔離されているところを見るに、より苛烈な状況に置かれようとしているのだ。


 リビは咄嗟に片足を前に出し、手を伸ばして、牢部屋の中に消えていくア・ザンの名を叫ぼうとした。


 だが、声が出ない。


 保護を求めるために動くべき状況にあって、熱を帯びた叔父の視線や、幼子のような純真な顔で興味を抱くシャラの顔が頭に浮かび、泡沫のように湧いたそれらの記憶が、意味もわからないままに、リビの行動を阻害した。


 銀髪の男と、随伴する兵達、そしてア・ザンの姿が闇の中に溶けていくのを、硬直した姿のまま見送る。


 リビは、暗がりの廊下で一人、たたずんだまま動く事ができなかった。






          *






 「とりもとったり、二十人に届こうかという我がサンゴの精鋭を、こんな細身の男が一人でやったとは」


 あごにたまった贅肉を揺らしつつ、言った男を、シュオウは強く睨みつけた。


 「この期に及んでまだそんな顔をするのか。なるほど、よしよし。いいぞ、強い人間であるからこそ、私の欲求も満たされる」


 こぼれそうなよだれを舌をまわしてぬぐい取るこの男は、ここ渦視城塞を取り仕切る立場にあり、周囲の者達の間から漏れ聞こえた話によれば、名はア・ザンというらしい。


 いやしい顔つきで手をこね、自分を見下ろすその姿に、気品や威厳といったものは、欠片すら見いだすことはできなかった。


 あの粗末な地下牢より、一層不潔で薄暗い牢獄に移され、天井から垂れる鎖で両腕をつり上げられながら、シュオウは完全に無防備な状態で、ア・ザンのまとわりつくような視線にさらされていた。


 「それに、よりにもよってリシアの民とは──」

 ア・ザンのふくらんだ指で髪をかきむしられ、シュオウは抵抗して頭を振ってみせた。


 「ふッ威勢の良いこと、だがそれもいつまでもつか。これも何かの思し召しであろう。楽に死ねると思うな、苦しみのたうちまわる姿を楽しませてもらわねばならんのだからな。おまえは、この戦で得た私の大切な戦利品の一つだ」


 古酒を愛でるような仕草であごに手を当てられ、胃が爛れ落ちてしまいそうなほどの不快感にさいなまれた。


 ア・ザンが牢を出て鍵がかけられた。彼はそのまま去るでもなく、向かいの牢の鉄格子を思い切り蹴り飛ばした。


 「なにをのんきに眠りこけている! 貴様の代わりがきたのだ、私もそろそろ遠慮はせんぞ。明日から覚悟しておくがいい!」


 下卑た笑いを残し、ア・ザンはようやく牢獄を後にした。


 明かりもなく、そとの空気もろくに届かない劣悪な環境に置かれ、シュオウはただ疲れにまかせ、ようやく静けさが訪れた事に安堵していた。


 目をつむり、腕をつられたまま首を落とすと、正面からかすかに、人の発する寝息のようなものが耳に触れた。




 かすかに聞こえる小鳥の声で目を覚ます。


 天井の隅に開いた小さな換気口から漏れる朝日が、暗い牢の中に一条の光を差していた。精白な朝の光は、同様に向かいの牢の中にも、かすかな光を届けている。


 「よう……」


 両手を鎖につながれ、やせた体をしながらも、精悍な巨体には隆々たる筋肉が、雄々しく連なる山脈のように波打っている。

 褐色肌をしたその男は、あまりにも強い獅子のような眼力をもって、こちらをじっと見つめていた。






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― 新着の感想 ―
[一言] シュオウがここでア・ザンに歯向かう選択を取ったのは理解できない
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