第三話 掃き溜め
Ⅲ 掃き溜め
早朝、誰よりも早く起きたつもりでいたが、傭兵達がいるはずの天幕に、その姿を見つける事はできなかった。
地面に転がる樽や、食べかけの食事など、昨日見たときから中の様子はそのままで、なに一つ変わった様子がない。
――帰らなかったのか。
シュオウは踵を返し、従士用の兵舎にいるはずのジン爺を探した。
一般の従士達に与えられている部屋は仕切りもなく、一部屋に五人から六人ほどが雑魚寝をするだけの簡素な空間で、歳のいった傭兵達とは対照的に、まだ若く、シュオウと大差ない年齢の青年達が、心細そうに体を丸めて眠っている。
ジン爺は兵舎の一番奥にある部屋の中で、片隅に置いた荷物を枕にして、慣れた様子で大の字に眠っていた。
骨張った肩を揺さぶって彼を起こすと、目にクマを溜めた気怠い瞳がシュオウを見た。
「……なんでい」
くちゃくちゃと開いた口から饐えた酒の臭いが漂う。
「飲んでたんですか」
「自分の金で飲んでなにがわるいってんだ――」
ジン爺は体を起こし、窓の外を見て不機嫌そうに唸った。
「――まだ真っ暗じゃねえか。なんで起こしやがった」
「隊の人間の姿が昨日から見えないので、居場所に心当たりはありませんか」
「あいつらが行くとこなんざ決まっとるわぃ、飲み屋だ」
「だけど、昨日から一度も帰った様子がなくて」
ジン爺は天井を仰いで大あくびをかました。
「連中にとっちゃ向こうが住処みたいなもんだ。心配するな、仕事が入れば稼ぐために、来るなといったってあっちから戻ってくる」
言って再び寝に戻ろうとするが、シュオウはそれを止めた。
「その店まで行きたいんですけど」
シュオウの言葉に、ジン爺はゆるんでいた瞳を大きく開いた。
「行ってどうする」
「連れ戻します」
暗闇の中を歩いて辿り着いた街の片隅にある小さな酒場の入口には〈掃き溜め〉と書かれた看板が下がっている。自虐的なその名前に首を傾げたくなったが、よく見ると、看板には元々書かれていた名の断片があり、うっすらとかつての面影を残していた。
「連中は中にいるはずだ。おれは入らねえぞ、くせえからな」
そう宣言して入口で足を止めたジン爺を置いて、シュオウは一人で店の両開きの戸を押した。
たしかに、店の中は強い酒臭と獣小屋のような臭いが充満していた。だが、幼少期を汚水溜めのような場所ですごしていた自分にとっては、だからどうした、という程度の問題である。
店内には丸い卓がいくつか置かれ、こんな時間だというのに、中央の卓には男達が集まってわいわいとカード遊びに興じていた。
彼らの背中に向けて、シュオウは声をかけた。
「五十五番隊の人間はいるか」
喧噪が止み、男達の視線がこちらへ集まる。うち一人が威嚇するように唸った。
「ああ?」
見覚えのあるその顔は、ジン爺から紹介を受けた際に、自分をハズレと評したあの傭兵の男だった。
視線の重なったその男に、落ち着いた声音で言う。
「兵舎に戻ってほしい」
しんと静まった店内に、男の重々しい声が返ってきた。
「戻ってどうするんだよ」
「訓練をする」
一瞬の間を置いて、男達から爆笑が巻き起こった。
「おもしれえが笑えねえな。普段なら一発かましてるとこだが、今日は勝ち続きで気分がいいんだ、聞かなかった事にしてやるから出ていきな」
そういうと、傭兵の男は再び卓に注意を戻した。賭けで得たのであろう金をじゃらじゃら弄んで談笑を始める。
他の男達は、出来の悪い子供を見る親のような顔でこちらを見やり、嘲笑っていた。
ここで引き下がれるはずもなく、次の言葉を言ってやろうとした、その時――
「んお? おい、お前! シュオウじゃねえか」
片隅の卓で前のめりに眠りこけていた細身の男が立ち上がり、歩み寄ってきてバシバシとシュオウの肩を叩いた。
「ハリオ、さん?」
ハリオの後からよろよろと寄ってきたもう一人の見知った人物、サブリはしゃっくりをしながら、にへらと笑った。
「おまへのせいでひどいめにあってるんだぞ!」
「そうだそうだ、なのにひとりだけ出世なんてしやがってよぉ」
相槌を打ったハリオ共々、目が座り、頭が落ち着きなく揺れて、泥酔一歩手前の状態だ。
ハリオは、自分達が助けてやらなければ今頃お前はどうなっていたか、等と力説しながら、酒に付き合えとしつこくからんでくる。
サブリが別の店へ行こうとシュオウを引きずり、ハリオもまたお前のおごりだと言ってシュオウの腕を掴んだ。
思いがけない顔見知りとの遭遇により、気持ちの持って行き場を失ったシュオウは、きちんと断る事もできないまま、彼らの思惑通りに店外へ引っぱられていく。さきほどまで自分を笑っていた男達は冷めた視線を寄越して、興味を失ったように、ほとんどの者が見向きもしなくなっていた。
「ちょっと、待って!」
店の外に出て、シュオウはようやく落ち着きをとりもどし、両腕にからみつく酒臭い二人の先輩従士をふりほどいた。
「なんらよ」
赤ら顔で睨むハリオに、シュオウは向き合った。
「まだやらないといけない事があるので、話はまたこんど」
「あ、おいッ」
シュオウは二人を置き去りにして、元いた店へと駆け出した。後ろからぶつくさと文句をたれる二人の声が聞こえるが、かまってなどいられない。
すぐに〈掃き溜め〉まで戻ると、ジン爺が店の前に置かれたぼろぼろの長椅子に、一人ぽつんと腰かけていた。
「なんだ、戻ってきやがったのか……まだやる気か」
「やりますッ、絶対に連れて戻る」
ジン爺は長い溜息を吐いた。
「あのなあ、さっきのあの二人が、あんたとどういう関係かは知らねえけどよ、ありゃだめだろ。下の階級のやつにヘコヘコしてるようなやつの言うことを、荒くれどもが聞くわけがねえ。俺に対しても随分丁寧に言葉をかけてくれるがな、いくら年に差があろうが、軍じゃ階級がすべてだ、人の上に立ってそいつらを従わせようってんなら、お坊ちゃんみたいに丁寧に話しかけてたって埒があかねえ。さっきのあれで、連中の中でのあんたの格付けはもうすんだ。いいかげん諦めて帰るんだな」
諭すように言われても、シュオウはまったく意に介してはいなかった。諦めるどころか、逆に突破口を見せてもらったような気がする。
深く息を吸って、背筋を伸ばして胸をふくらませた。
「そうだな……その通りだ」
シュオウの頭の中に、シワス砦を切り盛りしていたヒノカジ従曹の怒鳴り声が轟き、残響していた。あそこで働く従士達の、あの老兵を見る目には親愛と共に畏怖の色も同時にあった。幾度か横暴に見えるような振る舞いも見かけたが、今はそれが意味のある行動だったのではないかと思える。
「おいッ!」
引き留めようとする声を無視して、シュオウは再び店内に飛び込み、腹の底から声を張り上げた。
「五十五番隊の人間は今すぐ兵舎に戻れ! これは命令だッ」
一瞬で店内が静まり、苛立ちを抱えた顔で振り返った先ほどの男が睨みをきかせてきた。傷だらけの顔にギラつく二つの瞳は、今すぐここから出て行け、と無言の圧力をかけている。
中央の丸卓まで歩み寄り、座ったままの男を見下ろす。一瞬たりとも視線をはずさず、向けられるすべての感情を真っ正面から受け止めた。
男は黙ったまま、同様に視線をはずそうとはしない。しだいに顔面の筋肉がぴくぴくと痙攣をはじめるが、怒りに我を失わず、いまだ手をだそうとしてこないあたりに、まだ対話の余地があるとシュオウは考えた。
「何度も言わせるな、その椅子から立ち上がって兵舎に戻れ」
男はどう猛な肉食獣のように歯を剥いて大声をあげた。
「何度も言わせるなってな、それは俺の言葉だ! ここはな、俺達の唯一の休息所なんだよ。昨日今日来たような糞ガキが、俺達の流儀もわからないで隊長ごっこか? ざけんじゃねえぞ。てめえの言う訓練ってやつで遊びたいならな、一人で勝手にやっとけ、ボケ」
長年戦場に身を置いているだけあり、脅しをかけてくる男の態度には相応の迫力があった。新任の若い従士であれば震え上がっていたかもしれないが、ある意味そうした枠の外にいる自分には、男の脅し文句は子犬の遠吠え程度にしか響かない。
「遊んでいるのはお前のほうだ。雇われの身で酒場に入り浸っている人間に罵倒されるいわれはない」
男はシュオウを鼻で笑った。
「雇われてる、だ? なるほどな、ものを知らないからこんなあほな真似が出来るってわけか」
男は咄嗟に腰に差した短剣を抜いた。シュオウは警戒して身構えたが、引き抜かれた短剣は真っ直ぐ木製の丸卓に突き刺された。突き立てられたその短剣は、刃にギザギザとした加工が施された見慣れない妙な形をしている。
「軍のお抱えで、いるだけで金が入るおまえらと違ってな、おれたちは、殺した敵の手首一つと交換で飯を食ってるんだ。この剣も服も靴も酒代も、それを買うために人一人を命がけで殺した見返りに受け取ってるんだよ。だからな、あの糞みてえな場所でごっこ遊びをする分までの金は、そもそも勘定に入ってねえ」
この言い分には、すぐにうまい言葉を返せなかった。心のどこかで納得をしてしまったのだ。他人に雇われて生活を送る人間は、労働の見返りとして糧を得ている。その当たり前の構図も、しかし傭兵という立場にある彼らには完全に当てはまるわけではないのだろう。
「わかった……なら、そのための金さえ受け取れば、大人しく訓練に参加するんだな」
少し熱の下がった声で言うと、傭兵の男とその取り巻き達は、なにを言い出すのだという顔をした。
シュオウは腰に下げていた銭袋を取り出して、丸卓の上にすべてぶちまけた。
アデュレリアから持参した真新しい銀貨が、盛大な音を立てて卓の上に広がっていく。一通り袋の中身をすべて出し切り、沈黙する男達に言う。
「お前達を俺が雇う、それで文句はないな」
沈黙。
空気の流れすら止まってしまったかと錯覚するほど、男達はすべての動きを止めて卓の上の銀貨に視線を釘付けにしている。
背後から突然、店の扉を開く音がしたその瞬間、男達は大声をあげながら一斉に銀貨に飛びついた。
互いに罵りながら奪い合い、殴る蹴るの大乱闘を繰り広げた後、すべての男達をのして一人銀貨を手中におさめたのは、シュオウと対していたあの男だった。
男はちらばった銀貨を拾い集め、両手で抱えこみ、顔に青あざをうかべて鼻血をたらしながら、シュオウを見て笑みを見せた。
「あんたも人がわりいな、金を持ってるなら最初から言えばいいんだ。だがまあ、話に乗ったぜ、今からあんたに雇われてやる」
あまりにも急な態度の変わりように呆れつつ、シュオウは忠告した。
「それは一人分として渡したんじゃない」
「わかってるさ、こいつらは俺が仕切ってんだ。ちゃんと取り分を決めて分けるから心配すんな」
男は銀貨を抱えたまま、床で気絶した男達に向けてあごをしゃくった。
たしかに、観察していたかぎり、この男より前へ出ようとする者は、これまで誰一人いなかった。彼らを仕切っているという言葉に偽りはないのだろう。
「わかった。昼までに全員を起こして兵舎へ戻れ。準備ができしだい、今日から全員で訓練を始める」
男はぎこちなく頭を下げる。
「あいよ、隊長どの。俺はサンジってんだ、いまさらだが、雇い主の名前くらいは聞いておきてえな」
シュオウは去り際、背中を向けたままそれに答えた。
「シュオウだ」
店の入口で様子を窺っていたジン爺を連れて、シュオウは兵舎へ戻る道をのんびりと歩いた。
「あんたやるじゃねえか。札付きの男共を前に一歩も引き下がらんとはな。しかし、奴の言いようはもっともだ、金があるなら最初からそうと言やあいんだ」
ジン爺はシュオウの背中をぽんと叩いて小気味良く称賛を述べた。
「そうだな。でも、出来れば自分の力だけで言うことを聞かせたかった」
金の力を借りてサンジを屈服させたシュオウとしては、いまいちすっきりとしない。
「金だって立派な力だろうが。お高い貴族様だってそれがなきゃ、ただ石に色がついた人間でしかねえんだ――それで、どうやってあんだけの金を手に入れた? うまい話があるなら噛ませてくれや」
ジン爺は指でわっかをつくり、目を輝かせた。
「別に……ちょっとした仕事の……報酬で」
あの金を手に入れる事になった切っ掛けは、あまり愉快な出来事とはいえない。雪山の中で一人の人間を看取った、あの時の苦い気持ちがよみがえり、ちくりと胸に突き刺さった。
しつこく話をねだる老人をごまかしの態度で躱しながら、シュオウはそっと奥歯を噛みしめた。経緯はどうであれ、隊長としての仕事を、これでようやく始める事ができるだろう。
少し小腹が減る午後の一時。
分厚い従士服を脱いで薄手の短衣を纏ったシュオウは、木剣を肩に担ぎながら練兵所に赴いた。
予めジン爺には指示を伝え、ふらふらの体で兵舎に戻ったサンジ率いる傭兵達と共に練兵所に向かうように指示は出してある。
練兵所と言っても、そこは大袈裟な場所ではなく、ただ単純な囲いが設けてあり、丸太にボロ布を巻いた稽古用の人形が二、三個置いてある程度の場所である。ただそこは、汚れた天幕でごったがえす狭い兵舎の敷地の中でも、他に気兼ねなく体を動かせる場所という意味では貴重な空間だった。
目的地に辿り着くと、なにやら物騒な掛け合いが耳に障った。見れば入口にむさくるしい男達がごったがえし、口汚く罵り合っている。外側から怒鳴り声をあげているのは、自身が率いる五十五番隊の人間達だった。
「どうした?」
聞くと、狂犬の如く吠えていたサンジが地面に唾を吐いた。
「こいつらが縄張りだとかほざいて中に入れねえんだよ」
血走った眼で戸を閉ざす男達を見るサンジは、どうみても交渉役としては向いていない。シュオウは彼の肩を叩き、代わって落ち着いた声で相手に質問を投げた。
「俺がこの隊を預かっている。出来れば、ここを使いたいんだが」
相手方の男達も、サンジ達と同様にあきらかに従士ではなく傭兵として雇われている風体だが、問いかけてみるに、彼らは意外にも冷静さを保っているとわかった。むしろ、なにかに怯えて縮こまっているようにすら見える。
入口を塞いでいる男は、困り果てた様子でシュオウに応じた。
「悪いけどな、ここは通せないんだ」
「ここの使用に、なにか取り決めでもあるのか」
「いや……ただ、俺達も隊長にここを死守しろといわれてんだ。察してくれよ」
「死守って――」
さらに掘り下げて聞こうとしたその時、よく通る野太い声が背中から聞こえた。
「おい、なにしてやがる」
その声がした途端、入口を守る男達は肩を竦めて頭を下げた。なかには小さく悲鳴を上げている者までいる。
「か、頭……すんません、こいつらがどしても中に入れろって」
突如現れた男は部下から事情を聞き、怒気を孕んだ唸り声を上げた。のしのしと肩を怒らせて向かってくる男に目を合わせた途端、怒りに歪んでいた男の顔が、突如柔らかくほぐれた。
「おまッ、シュオウ……か?」
名を呼ばれ、シュオウも目の前にいる見覚えのある顔を見て、声をあげた。
「ボルジ?」
深界の踏破試験中に、シュオウが自らその身をかついで歩いた男、傭兵あがりで後にムラクモの従士となったボルジは、大声で笑いながらシュオウの肩に両手を乗せて歓喜の声をあげた。
「会いたいとは思ってたが、まさかこんなところで顔を見るとは思わなかったぜ」
屈託のないその顔を見て、シュオウも微笑んだ。
「元気そうだな」
「ああ、この通りだよ。お前のおかげで嫁も持てたんだ。その報告がしたくてな、自分なりに行き先を調べては見たんだがさっぱりわからなくてよ。てっきり軍を辞めて旅にでも出たのかと思ってたぜ」
結婚を報告するボルジは、照れくさそうに頭をかいていた。
「おめでとう。でもいいのか、こんな所まで……」
「ああ、俺は志願して来てるんだ。嫁さんが自分の店持ちたいっていうんだが、深界踏破で貰った金はガキが出来たときの蓄えに残しておきたかったんでな。それでまあ、出稼ぎがてらにここにいるっつうわけだ。ここは危険で働きたがるやつも少ないってんで、平の従士でもそれなりに金がでるんだ――ところでよ、お前はこんなとこで何してたんだよ」
シュオウは問われ、おおまかに事情を説明した。するとボルジは形相を変え、戸を押さえつけていた男達を思い切り蹴り飛ばした。
「てめえらッ、俺の恩人をよくも閉め出してくれやがったな」
地面に背中から転がった男達の一人が、抗議の声を漏らした。
「そんなあ、あんたが誰も通すなって――」
ボルジはそれを遮って怒鳴り声をあげた。
「うるせ! どんなことにも例外はあるんだよ」
「そりゃねえよ……」
ボルジは入口に転がる男達を足でどけ、シュオウに手招きをした。
「ささ、好きなだけ使ってくれ」
状況に未だ戸惑ったままのジン爺やサンジ達を促し、シュオウは練兵所の土を踏んだ。それを確認して、部下達を引き連れて外に出ようとするボルジを止める。
「どうした?」
「広く使えるほうが都合がいいだろ。俺は他に適当な場所でも見つけるから、ここは気にせず使ってくれや」
「全員が使えるだけの広さは十分ある。一緒に使えばいい」
「……そうかい。なら合同訓練といかせてもらうか。しっかしよ、もう隊を一つまかされるなんざ、さすがだな」
「そっちも同じだろ」
「俺は経験を買われただけだ。クズ共のお守りには慣れてたからな。でもな、入ったばかりの新入りには初日から逃げられちまうし、胸を張って隊長やってますとも言えねえよ」
ボルジは苦笑いを浮かべつつ、シュオウの後ろで所在なく佇む男達を見やった。
「お前のとこの隊の人間はこれで全部か?」
ボルジは五十五番隊の男達をなめるように見渡してから、サンジの前に立った。
「な、なんだよ」
ついさっきまで怒鳴りあいを演じていたサンジも、強面で体格に優れるボルジを前にして、蛇に睨まれたカエルのように大人しくなっていた。彼のほうからは決して目を合わせようとしないところを見ても、シュオウも気づかないうちに互いの格付けがすまされているらしい。
「てめえが頭だな、他のやつらの目を見ればすぐにわかるぜ」
ボルジはサンジの肩を握り、しだいにその力を強めていった。
「俺も傭兵あがりだ、てめえらの考えてる事はよくわかるし、似たような苦労もしてきた。だが調子に乗るなよ、お前らの隊長は若いが並の男じゃねえ。それになにより俺の命の恩人だ。こいつになめた真似したらただじゃおかねえからな、よく覚えとけ」
地響きを起こしそうなボルジの声は、それを聞く者達を恐怖させるだけの効力を十分に発揮していた。
サンジは小さな声で理解した事を告げ、背中を丸めて媚びた笑いを浮かべていた。
荒くれ者達を完璧に手玉にとるボルジの初めて見る一面に感心しつつ、シュオウはその方法を一つの手本として観察していた。それと同時に、やはり人の上に立つ事の難しさも実感する。自分はまだ、上官という立場をうまく使いこなす事が出来ていなかった。
*
甥のリビを連れ立って、シャノアの老将バ・リョウキは、渦視城塞の中庭にある広々とした調練場を訪れていた。
ア・ザン総帥の申し出により、サンゴの兵士達の慰問をかねての事だったが、個人的にも技を磨く若者達を見るのは嫌いではない。
バ・リョウキの訪れを知るや、調練に励んでいた兵達の浮き足立ちっぷりは凄まじい。緊張した面持ちで武器を握る彼らの振るまいをじっくりと眺めた。
「これといって見所はありませんね」
帯同しているリビが小声で言った。
「たしかに、全体としての練度も並といった様子ではある」
バ・リョウキは全としてよりも、むしろ個に対しての期待を秘めていた。世界は広く、未だ世には名も知らぬの猛者達が燻っている。多くの強者と対してきたバ・リョウキは、そうした相手を的確に察知する鋭い嗅覚を備えていると自負していた。しかしそれは決して高尚なものではなく、むしろ即物的であり、低俗な欲望を満たすための行為に近かった。
「戻りましょう、これ以上は時間の無駄です」
年若いリビは、早々に飽きてこの場を去りたがった。平素と変わらぬ退屈な空気にそう思ったのも無理はない。が、バ・リョウキはこの場で一人、周囲の空気が一変した事に気づいていた。
「濃厚なる殺気――」
一言漏らすと、リビは戸惑いに声をあげた。
「え?」
それは一陣の突風を思わせる鋭敏な圧力であった。目の前に猛烈な勢いで突き出された足は、その標的をリビに定めている。狙いはアゴであり、当たれば命を危険にさらすほどの勢いがあると、経験を基に積み上げてきた直感は告げていた。
バ・リョウキは掌底を繰り出して足の軌道をずらした。強烈な蹴撃に当てた手から伝わる衝撃は、その威力が並の人間に許された範囲を逸脱している事を示唆していた。
闇討ちの主が足を引いたことを確認し、背に負った宝剣岩縄を抜きはなつ。
バ・リョウキは切っ先を向けた先にある姿を確認して、二の足を踏んだ。
薄桃色の髪を左右に結い、艶やかな銅色の肌が眩しい顔にある黒光りする双眸が、武人としての強い力を持って一点にこちらを見つめている。見た目にまだあどけなさがある小柄な肢体は成人にはほど遠く、しかし胸や尻といった女を強調する部位の発育は著しい。にもかかわらず、この女の放つ気迫は熟達した武芸者のそれに匹敵する圧力があった。
あらゆる意味でちぐはぐなその人物は、バ・リョウキとリビを視界に捉えつつ、吠えた。
「戦場を前にしてその油断、惰弱の一言につきる!」
よく通るその声は、はっきりとリビに向けて言われていた。
「なッ――」
大怪我を負う寸前だった甥は、未だ混乱の中にあってろくに頭が回っていない様子である。
女は早々にリビへの興味を捨て、バ・リョウキに目を向けた。
「シャノアの将、バ・リョウキ殿か」
バ・リョウキは構えた岩縄を微動だにさせぬまま、答えた。
「いかにも。そのほう、いずこかの刺客であるか」
年若の女は笑い、ふくよかな胸を張り上げて名乗りをあげる。
「連山武館、夏蜂会師範代、およびサンゴ国現王が孫にして破戒僧ア・ザンの娘、ア・シャラである!」
その宣言に、この事態を傍観していた周囲の兵達の間にどよめきが走り、彼らは波をうつように膝を折り始めた。
「公主様であられたか……」
バ・リョウキが岩縄を収めると同時に、背後から怒声が響いた。
「だれが破戒僧だあああ!」
ふくよかな贅肉を揺らしながら駆けてきたア・ザンを見ると、シャラは無表情に視線を逸らした。
ア・ザンは息を切らせながらシャラの前に立ち、バ・リョウキに向かって頭を下げた。
「いや、申し訳ない、本ッ当に申し訳ない! ひょっこり顔を出した娘に、リビ殿と話をしてみてはどうだと言ったのだが、まさかいきなり襲いかかるとは」
謝罪する父を前に、シャラは目を尖らせて怒声をあげた。
「父将よッ、このリビという男、見合いの相手としては論外であるぞ。井戸端で話にふけるばば達よりも呑気だ!」
あしざまに言われ、リビは激高した。
「なん、だとッ」
バ・リョウキは前へ出ようと試みた甥の足を転ばせ、地面に頭を押さえつけた。
「公主様を前に剣を向けた事、まこと恥じ入る思い。この愚かな甥共々お許し頂きたい」
謝罪して低頭すると、ア・ザンが慌てふためいてバ・リョウキの肩を持ち上げた。
「なにをおっしゃるか、老将殿はただ身を守ろうとなさっただけではありませんか」
事を始めた張本人であるシャラは、父親の背にあってそれに同調した。
「その通りだ。バ・リョウキ殿の身のこなし、あの一瞬の判断は見事であったぞ。英雄としてのその名が、幻ではなかったのだと教えてもらった思いがする」
特有の猛々しい物言いに、ア・ザンは額に汗をためながら娘を諫めていた。
「お褒めにあずかり、光栄の至り。しかし先ほどのお言葉は聞き捨てできませぬ。リビとの見合いなどという話は、私が呆けたのでなければ今初めて聞いた事」
これにも、ア・ザンは慌てた様子で受け答えた。
「いやいや、ごもっとも。こちらも思いつきの話を娘に伝えたばかりでの、これでして。まま、ここではなんですから、話は中で――」
促されるまま、バ・リョウキ一行はシャラと共に城の中へと移動した。
派手な装飾品を並べる総帥の私室に通され、くつろぐ事のできる長卓に腰かける。ア・ザンは自らに高価な茶器を並べ、最高級の茶葉を湯で蒸して振る舞いながら、事情を説明し始めた。
「妻は王陛下の娘、つまりは王族の身分でありましてな。娘のシャラは世に落ちた瞬間から第六位継承権を与えられております」
「でありましたか……ご事情は理解いたした」
同時に、この男がこれほどの高位にある理由にも薄々予想がついた。
「しかしまあ、神のきまぐれでもないかぎり、シャラが玉座に座ることはまずありますまい。しからば相応の相手へ嫁ぎ、国家安寧の礎となるのが上策というもの」
「その相手にリビを、ということにござるか」
深く頷くア・ザンを見て、バ・リョウキはそれを悪い話ではないと思っていた。サンゴとシャノアが関係を深めるには、サンゴで公主という身分にあるシャラと、シャノアで軍権を預かる自分の後継者であるリビが結ばれるのは、両国の関係を強める良い材料になるかもしれない。
しかし人と人の間に生じる感情は、外の人間が望んだからといって簡単に結ばれるものではない。形だけの結婚を整えたところで、両者の間に子が生まれなければ結局は無意味に終わるのだ。そしてバ・リョウキの見立てによれば、シャラとリビの関係には、すでに埋めがたい溝が生じているように思えた。
大衆の面前で醜態を晒す結果となったリビは、口では黙っていても正面に座るシャラを睨みつけ、鼻の穴を広げて血走った視線を送っている。一方の公主のほうはといえば、涼しい顔で茶をすすり、向けられる敵意をそよ風のように受け止めていた。
「失礼だが、公主様はおいくつになられる」
「今年で十四になった」
年齢を聞き、リビが驚きに声を漏らした。
「じゅう、し……」
シャラは驚くリビを前に、満足気に言葉を繋ぐ。
「十を迎える前に、葉山、三叉会の円拳を習得。後三年で連山、夏蜂会で皆伝を受けた」
誇らしく言う若き公主が、まさしく誇るに足りるだけの才を有しているのは、先ほどの身のこなしを見れば間違いないのだと確信できる。
その腕が長き経験を積み上げ、修羅場を潜ってきた自分に届くほどではないにしろ、年齢を思えば驚異的な才といえるだろう。
そしてシャラが体得したという円拳は、足運びを重視した体術であり、連山で広く伝わる蹴術は、軽快な足技を主体とした戦い方を信条としている。おそらく彼女の左手の甲に光る小豆色の輝石は、脚力の強化を果たす力を持っていると見て間違いない。その生まれ持った特性をこれ以上なく活かすための道筋を考えたうえで、各流派を修めてきたのだろう。
彼女が男であり、そしてア・ザンの娘ではなく自身の血統に連なる者であったならば、バ・リョウキは早々に跡目を譲って隠居していただろう。
バ・リョウキがシャラを見る目には、惜しいという思いと同時に、羨望の色が隠されていた。
「父将よ、私は行くぞ。じっとしても退屈だ、ここの男共の腕をためしてくる」
シャラは飲み干した茶を置いて、立ち上がった。
「お、おい――」
引き留めようとするア・ザンにシャラは服の内から美しい髪留めを取り出して、放り投げてみせた。
「こ、これは……」
「ここへ来てすぐこの部屋で見つけた。色使いが派手すぎるゆえ、どうみても母君たのめに用意したものではないな」
ア・ザンは途端に顔色を青く染めた。存外、正直な男である。
「あ、いや、それはだな――」
「慌てなさるな、黙っているさ。その代わり直近の戦での、私の席を用意していただきたい」
「おまえ、なにを言い出す!?」
「十四年生き、それなりに武を修めたと自負しているが、そろそろ殺し合いの空気を肌で感じておきたいのだ。女人であるこの身には僧兵への道は閉ざされているし、今更、星君として生きるのも窮屈だ。だが父将であれば人一人のためにそのくらいの融通は利かせられるだろう」
ア・ザンは血なまぐさい戦への参加を望む娘を必死に諫めた。
「突然来たと思ったら、そんなことを目当てにしていたのか。だめだだめだ! 女である前に、おまえはまだ子供だぞ」
シャラは不敵に笑みを浮かべる。
「わかりました。しかし、渦視から早馬が出て、事の子細を母君が知って後も総帥の座についていられるかどうか、今のうちにたっぷりと妄想されるがいい」
その脅し文句が決定打となり、ア・ザンは降伏を表明する言葉を連呼した。
「まさか実の娘に地位を脅かされるとは……我ながら情けない」
なにを思ったか、ア・ザンはバ・リョウキに顔を向けて両手を合わせて拝み始めた。
「どうか! シャラを老将殿の部隊に加えていただきたいッ」
「なにを――」
「あなたほどの武人であれば、安心して娘を預ける事ができる。この場に居合わせた縁と思い、ここはどうか……」
前に立つシャラも、戯けた表情で片眼を開けながら、こちらに手を合わせている。
この渦視ではあくまでも客人であり、そして互いの国はそれぞれに金を貸している側と借り受けている側である。後者の立場におかれているバ・リョウキとしては、この非常識な申し出をおいそれと断ることはできなかった。
「……承知、いたした」
シャラは歓声を上げて喜び、足をはずませながら部屋の扉に手をかける。
「感謝するぞ剣聖殿。去る前に言っておくが、さきほどの父将の戯言はなかったことにしてもらおう。見よ――」
シャラは服の上から自身の胸を片腕で持ち上げて、瞳を半眼に、科を作って妖艶に微笑んだ。
「――十四にしてこれだ、私は良い女になる。そこのリビとかいう名の小物に、この体はもったいないだろう」
「こいつ、いいかげんにしろッ!」
怒りに立ち上がるリビに背を向け、シャラはかっかと笑って部屋を後にした。
汗のしたたる禿頭をこすって平謝りするア・ザンを慰めながら、バ・リョウキはア・シャラという面倒を背負い込んだ事を後悔していた。