第一話 南の剣聖
Ⅰ 南の剣聖
人類世界が灰色の森に隔離されて後、人は魑魅魍魎が跋扈するその世界を白道という名の新たな可能性で貫いた。
敷いた道は物品交易を活発化させ、文化交流を促進させた正の面を持つ一方で、国家間に緊張を生じる、負の一面も合わせ持っていた。
長い時が流れ、話す言葉は共通のものとなり、西の端から東の端まで、食料や物資が安定して行き交うようになっても、領土問題を発端とする争いの火種は常に世界中で燻っていた。
狂鬼という天敵に囲まれて生きる生活の中でも、やはり人間の最たる敵は同種同属だったのだ。
*
中央にそびえる大山を中心に、人類社会は四方へと繁栄していた。そのうち、東側一帯を統べる大国ムラクモの王都では、主要な執政機能を抱える水晶宮の評議室に、早朝から輝士服を纏った官吏達が詰めていた。
長卓の左右それぞれには十人ずつが座り、上座には執政の長であるグエン・ヴラドウが、副官である褐色の肌をした女性輝士、イザヤを背後に置いて鎮座していた。
平時であれば、各部署の責任者達がグエンに必要事項を伝え、淡々と指示を受けるだけに終わるこの場には、いつも以上に緊張した空気が張り詰めていた。
颯爽と部屋の扉を開け放ち、常の空気をぶち壊した張本人である、ムラクモの次期国主、サーサリア・ムラクモは、親衛隊の長であるシシジシ・アマイを帯同してグエンに堂々と向き合っていた。
「いま、なんと」
グエンは重たい声でサーサリアに問うた。
「この場に参加すると言ったの」
サーサリアは王者の風格を纏いつつ、この国で誰もが頭を落とす人物に向かってそう言い放った。
「必要ありません」
端的に告げるグエンは、昼寝に誘われる午後の一時のように、ぼんやりとサーサリアを見つめている。
「私がそれを望んでいる。国の重要な決め事をする場に、興味を持つ権利くらいはあるはず」
サーサリアは負けじと語気を強めた。
左右に居並ぶ官吏達は、皆目を見開いて突然に訪れたこの奇妙な状況に戸惑っている様子だ。
「この場は小事を片付ける場にすぎません。国の大事に関わるような決定事を話し合う場は、四石会議があります。が、殿下はその場に出る資格もお持ちではない」
グエンのこの言には、サーサリアの背後で控えていたアマイが即座に反応した。
「いいえ、サーサリア王女殿下はムラクモの名を継ぐただ一人のお方であり、ありとあらゆるものに干渉するだけの資格をお持ちです。あなたのおっしゃりようは、越権行為と受け取られても仕方のないものですよ」
アマイの挑発の籠もった言葉に、居並ぶ官吏達の視線が鋭くなった。そのうち、気の強そうな女が、グエンよりも先に不快感を表明した。
「先生、グエン様に対して越権行為だなんて……言葉がすぎるのではありませんか」
アマイはメガネを中指で押して、アゴをあげた。
「私はもうあなたの先生ではありません。そして私の言った事は何一つ間違ってはいないはずです。サーサリア様はムラクモを統べる君主となるお方。それ故に、私はあなたたちにこう言わねばならない――――いったい誰の許しを得て、殿下の御前で着座を続けているのかと」
居並ぶ者達に、一気に動揺が走った。
彼らは慌てて席を立ち、片膝をついて輝士の礼の姿勢をとった。
グエンはその様子をゆっくりと眺めた後、席を立って一人平伏した。しかし、背後に控えていた副官のイザヤはぴくりとも動こうとしない。視線はどこを見ているかわからず、額にはじんわりと汗が滲んでいる。
「副官殿は、なにか思うところあっての行動でしょうか」
アマイが指摘すると、当人に代わってグエンが応対した。
「これは先日より熱を煩っております。無理をしてこの場に連れてきたので、どうか不敬をお許しいただきたい」
アマイがこちらを窺うのを合図に、サーサリアは小さく頷いて言葉をかけた。
「許す、皆も立ちなさい」
まずグエンが立ち上がり、その他の者達もそれに続いた。
「私の席をお使いください、殿下」
アマイの言葉が効いたのか、グエンはサーサリアの要求を受け入れる姿勢を見せる。席を一つずらして、上座を勧めてきた。
グエンの副官がぎこちなく立ち位置を変えている間に、サーサリアは中央奥の席に腰を落ち着けた。
サーサリアは、しんと静まりかえる一同に言った。
「いつも通りにして」
その指示を受けて、彼らの視線は一心にグエンへと集まった。
――これが、現実……。
王女を前にして、次の行動を窺う相手はグエンなのだ。彼らのこの行動こそが、王族たる自分が置かれている状況を如実に表している。
グエンは配下の者達の視線を受けて、小さく頷きを返した。それを合図に、サーサリアの急な登場で中断していた会議が再開される。
老朽化した白道の交換を検討する話や、最近増えている失業した者への配給など、たしかにグエンの言うように、一つ一つの決め事は大事な事ではあるが、国家の命運を左右するほどのものでもなかった。
話を聞くうち、グエンがこれほど事細かな案件を、他人まかせにせずに自らの判断で裁定していたという事実に、サーサリアは驚きを隠せずにいた。
一通りの話が纏まって、僅かに生まれた沈黙を縫うように、ある一人の官吏が書簡を差し出した。グエンはそれを見て眉をひそめる。
「なんだ」
「アル・バーデン准将からの増派と予算拡大の要請です」
グエンは重い息を鼻から吐く。
「またか。時を置かずに出された同内容である嘆願は排しておけと言ったはずだ」
責めるように言われ、報告を上げた官吏はばつの悪そうな顔をつくった。
「はい、承知しております。ですが、今回は将官としての名義ではなく、〈オウド〉の代官としての要請になっていて」
オウドと聞いて、サーサリアは内心で強く反応した。そこは、自身が狂鬼に襲われて遭難をした際に、命を救ってもらった恩人である平民の青年、シュオウが新たな軍務として配属された地であると記憶していたからだ。
説明を受けたグエンは、書簡に目を通し、それを卓の上に丸めて放り投げた。
「浅知恵を……。却下する、オウド防衛は現有兵力を以って継続と――」
言いかけたグエンの言葉に、アマイが割って入る。
「なぜですか?」
官吏達の視線がアマイに注がれた。
「なぜ、とはどういう意味だ、アマイ硬輝士」
「いえ、増派の要請を蹴る理由が、私には見えなかったものですから。近衛、第一軍共に抱える余剰兵力はかなりの数が燻っているはず。それ以外にも、左右の硬軍に派遣を要請する事もたやすい。オウド防衛軍の編成は、そのほとんどが質の悪い傭兵で構成されているとか。武器を与えずに属領を守れというのは、あまりにも酷というものではありませんか」
余裕の笑みを浮かべて指摘したアマイに、グエンは心を動かした様子なく語る。
「剣も盾も、必要な分は与えてある。事実、それだけでかの地の防衛に支障はなかったのだ」
「どうにも、あなたは守る事にのみ執心のご様子ですが、敵に打撃を与える事を考慮に入れるのは極当然の事と言えるのではありませんか。おそらくバーデン准将も、突破口を欲しての要請でしょうし」
「オウド奪還を念願としている〈サンゴ〉は南山同盟の一つ。奴らは同盟を謳っているわりにはまとまりに欠けるが、ムラクモが侵攻を始めたと認識すれば、硬く手を握り合うだろう。すべての物がそうであるように、国家もまた一面の物ではない。戦となれば、失われる民と金の分、この国は無駄に痩せ細る。それだけの決定を勢いだけで出すほど私はもうろくしていない」
アマイはその言を一笑に付した。
「民に金、どちらもムラクモは潤沢に持っている。ひと思いにサンゴを落としてみせれば、北方との間にある小競り合いも収まるというもの。ここは王女殿下の号令という事で、近日中に大規模な軍をオウドに派遣するのが賢明であると提案致します」
グエンはアマイに向かい、威嚇するように睨みつけた。
「一硬輝士の身分で戦の是非を語るとは、それこそが越権行為だろう。サーサリア様はまだ王位にあらず。軍の派遣に名を冠するだけの資格はない」
「では、一硬輝士ではなく親衛隊長として言わせていただきます。早々に天青石継承の儀を執り行うべきです」
アマイが力強く言い放つと、グエンはすぐには返事を用意できなかった。
アマイは皆の関心を惹いたまま、続ける。
「そもそも、天青石の所在を知る人物が、あなた一人だけというのがおかしい。あの石こそは比喩ではなく正真正銘、王の石。その扱いに関しては前女王陛下の遺言によりすべてたくされたという事になっていますが、そもそもからして、女王陛下の死に立ち会ったのが、あなたお一人だという所からして、この話は雲を掴むように不確かなものなんですよ」
がたりと椅子がなり、数人の官吏がいきり立った表情で立ち上がった。
「アマイ親衛隊長、いいかげんにしてください。あなたのおっしゃりようはまるで――」
おかしな方向へ流されつつあった空気を引き戻すため、サーサリアは咄嗟に手を叩いた。
「アマイ、もうやめて。ここへは言い争いをしにきたのではない」
アマイは命令を受けて一歩退いた。
立ち上がって興奮する者達にも落ち着くように言おうとした時、サーサリアは激しく咳き込んだ。
グエンはその様子を見て、サーサリアに手巾を差し出した。
「殿下、筆頭医官よりお体の事は聞いております」
サーサリアは長年、心を惑わせ恍惚状態に陥らせる〈リュケインの花〉に溺れていた。体を蝕んでいたその花をやめれば、すぐに健常な状態に戻れるものだと考えていたが、体は急な変化についてこられず、気分の激しい浮き沈みや、頭痛、吐き気、そして突発的におこる激しい咳などの症状に見舞われていた。
受け取った手巾を口に当て、ひとしきり咳を吐いてから、サーサリアは涙を溜めた瞳でグエンを見た。
「グエン、私は天青石の継承を急ぎたいと思っている」
グエンは渋い顔でアゴに手を当てた。
「燦光石の継承は、肉体と精神に強烈な負担を強いるのです。殿下の今のお体で、それに耐えられるとは思えませぬ。今は安静にして体調を整えられるのが、最も必要な事であると具申致します」
サーサリアは確認をとるようにアマイを見た。彼は不機嫌そうにだが、納得の意を示して頷いた。
「わかった。耐えうるだけの体を取り戻したのなら、継承を認めるのだな」
「……はッ」
サーサリアは席を立ち、出入り口へ向かった。部屋を出る間際、振り返ってこちらを見る者達に向かって柔らかく声をかけた。
「邪魔をした。けれど、今後もこうした場には時折参加したいと考えている。じっとしているだけでは、なにも変わらないから」
グエンは、立ち上がってサーサリアを凝視した。
「アデュレリアに立つ前からは別人のように思えます。なにが、あなたをそこまで変えられた」
しかしサーサリアは返事をせず、ただ薄く微笑んで見せるにとどめた。
*
「もうしわけ、ありま、せん……」
誰もいなくなった評議室の中で、イザヤは呼吸も浅く養父に謝罪した。
「かまわん。司令虫に犯された身で、意識を保っているだけで奇跡に近いのだ」
養父の秘密を知り、体内に虫を寄生させられたイザヤは、ほどなくして意識を取り戻し、違和感を抱えつつも以前のように仕事につける程度には、この状況に慣れつつあった。
グエンの言うところによると、体を内から蝕む寄生虫を心底受け入れてしまったがために、おかしな共存関係が形成されてしまったらしい。普通であれば、虫の支配から逃れようとして自我は崩壊し、精神的な意味での死を迎えて、生ける屍としてグエンの操り人形と化していたはずなのだ。
イザヤは狂鬼と交流を持つ得体の知れない存在となってしまった養父を、それでもなお信じていた。彼のする事のすべてを受け入れられるだけの心構えが、現状を作り出したのだろうと、自身で納得を得ていた。
「私の正体を知ってなお、のこのこと側にいるとはな」
「あなたが誰であれ、私を拾って育てていただいた事実は変わりません。むしろ、始めから話していただければ、私は何も言わずにお手伝いを致しました」
グエンはめずらしく溜息をこぼした。
「幼い頃から変わらず難儀な娘だ。だが、その身に虫を宿している今、私もはじめてお前を信じる事ができる」
娘と言われ、イザヤは喜んだ。笑みをつくろうとしたが、虫との共生を始めたばかりの体では、うまく表情をつくる事ができなかった。
グエンは体をまわし、さきほどまでサーサリアが座っていた上座を見つめていた。
「王女殿下は、本当にお変わりになられましたね。何度もお近くで拝見してまいりましたが、あの方と目が合ったのは今日が初めてです」
「……ああ。だが人の本質はそう簡単には変わらない。あの娘には何か強い目的があるのだろう。でなければ、これまで何ら興味を示さなかった王位の継承を望むはずがない」
「あの男を親衛隊長に抜擢したことと関係があるのではありませんか」
グエンは鼻の穴を広げた。
「シシジシ・アマイ。面倒な男が王女の側に付いた。今後、軽はずみな手出しは難しくなるだろう。一つの失敗が次々に膨らみ、下手をすれば取り返しのつかない事態を招く事になる。最後の詰めを残すだけのこの状況で、私はどこで間違えたのだ……」
グエンは独り言のようにそう呟いた。
これまで望んでいても見る事ができなかった養父の素顔が、目の前にある。なにより恐ろしい体験をした自分が、その出来事に感謝している今が、奇妙なほどに愛おしいとイザヤは思った。
*
東地の覇者であるムラクモと国境を面する国、サンゴは、南の小国が寄せ集まって手を組んだ南山同盟国の一つである。
赤みのある褐色の肌をした人々が治めるその地は、鬼神を信仰する教義が社会の根幹をなしていた。
そのサンゴの国境守護の要である、白道に置かれた古城、渦視城塞には、大勢の兵士が詰め、過去にムラクモとの戦で奪われた地、オウド奪還を夢見て日夜訓練に明け暮れていた。
サンゴと同盟関係にある国〈シャノア〉の老将バ・リョウキは、二十人にも満たない数の部下を引き連れ、渦視城塞の門をくぐった。
二重に編んだ皮の間に薄い木の板を入れた軽い鎧を纏い、額から天辺まで禿げ上がった頭をつるりと光らせ、胸まで伸びた白ヒゲを撫でながら、世に知られる名剣〈岩縄〉を背負って眼光鋭く入城する。その突端、出迎えに並んでいた兵の間から歓声が上がった。
「バ・リョウキ様だ!」
「本物だ! 剣聖バ・リョウキだ!」
並んで入城した腹心の部下である、甥のバ・リビは興奮気味に声をかけてきた。
「さすがですね、叔父上」
「ふんッ、過去の名で持ち上げられているだけだ。調子に乗るな」
浮ついた同行者に、バ・リョウキは律するよう言葉をかけた。
列の伸びる先には、恰幅の良い僧兵が両手を広げてこちらを出迎えている。
バ・リョウキは早々に馬を降り、礼儀を重んじて徒歩で出迎えに応じた。
「やあやあ、遠い所をわざわざ。かの老将殿にお越しいただき、まっこと感謝のいたり。私は渦視城塞総帥、黒僧将ア・ザンであります」
二重にたるんだアゴを揺らし、そう名乗った男ア・ザンは、ひらひらとした官服の上から黄金の胸当てをつけて、肩から僧兵の階級を示す〈階布〉という長布を掛けている。その色は、序列一位を表す黒色に染められていた。
「このような歓迎をいただけるとは恐縮でござる。樹将軍バ・リョウキ、シャノアよりの使者として助力役を仰せつかった。勇敢なるサンゴの兵の末席に加えていただければありがたい」
バ・リョウキがへりくだって言うと、ア・ザンは機嫌良く破顔してみせた。
「ご謙遜を。そのお歳で未だシャノアでは、あなたに並ぶ剣士はいないと聞いておりますぞ」
ア・ザンはこちらを立てての物言いだったが、しかし甥のリビはそれが不満だったようだ。
「南はもとより、世界広しといえど叔父将に敵う剣士はおりません!」
バ・リョウキは、即座に甥を諫めた。
「やめんかッ」
非礼を詫びようと、バ・リョウキはア・ザンの顔色を窺った。しかし彼は爽快に大笑いをあげた。
「若い若い! いやいや、たしかに控えめに言いすぎました。どうかお許し願いたい」
大勢の兵が見守る中で、ア・ザンはむしろ自分に非があった事を主張して頭を下げた。すると、周囲から熱の籠もった拍手が沸く。
――こすい男だ。
バ・リョウキは内心で毒突きつつも、甥の頭を押さえつつ、深く頭を垂れて謝罪した。
バ・リョウキは下位僧の家に生まれながらも、剣の腕で名を馳せ、敵対する北方の名のある輝士達を幾人も討ち取ってきた名剣士である。
数々の武勲を上げ、王の直属である〈禁軍〉の長を務めて後、南西の覇者である大国の王から爵位、領地と共に迎え入れたいとまで請われたが、バ・リョウキが忠誠を盾にこれを断ると、その事に感動を得た南西の王から、宝剣である岩縄を下賜された。この事で、知る人ぞ知る存在であったバ・リョウキの名は、英雄として世界に轟いたのだ。
名の知れた英雄を迎え、活気づいた兵達の歓迎を受けた後、バ・リョウキはリビを伴って応接間に腰を落ち着けていた。
茶と共に出された、透き通るような香りがする木の根を、細かく擦って生地に練り込んだ甘味を食べ終えると、ア・ザンは下唇を突き出して不満気な態度を見せた。
「バ・リョウキ殿自ら禁軍をお連れいただいたのはありがたいが、思っていたよりも数が……ちと物足りませんな。たしか、千騎に匹敵するだけの戦力をお貸しいただけるとの約束で、我が国の財庫から金の融通がなされたと記憶しておるのですが」
バ・リョウキは茶器を置いてア・ザン総帥を見据えた。
「禁軍でも有数の才を持つ十七人の星君を選んで連れて参った。それにこのバ・リョウキを加えれば、お約束に違わぬ成果を残せるものと信じてはせ参じた次第」
〈星君〉また〈星兵〉とは、西から北、東に渡って広く存在する、輝士に相当する兵科、階級である。
正直なところ、バ・リョウキは自身が連れてきた十七人の星君兵達が、千騎に相当するなどとは到底思っていなかったが、そのような本音など微塵も見せずにア・ザンの目を凝視してみせた。
「いや、まあ……たしかにバ・リョウキ殿直々においでいただけるとは思っておりませんでしたからな。おかげで士気は上々。これならにっくきムラクモ軍に打撃を加えてやれる事でしょう。今回は本国をせっついて星兵の増強もすませてあります。連中の慌てふためく顔が目に浮かびますわい!」
にやけ顔でほくそ笑むア・ザン。彼の頭の中では、きっと戦勝に沸く兵に称えられている自分でも見えているのだろう。
南山連合に属する国の多くは現実を直視するだけの脳がないのではと常々考えていた。バ・リョウキの見立てでは、サンゴとの間に頻発している争いも、ムラクモはまるで本腰を入れているようには思えなかった。
――下手な刺激にならねばよいがな。
「それにしても、シャノアはご苦労が絶えませんな」
妄想の世界から帰ってきたア・ザンは、突然にそう言った。
「人も国も、良きときと悪きときはある」
「ごもっとも。しかし〈猫睛石〉をお継ぎになられた姫は、いまだ十にも満たない幼子。守護者たる貴殿の心配は察して余りありますな。ご老体に無理を強いるとは、いやまったく」
一々かんに障る物言いをするア・ザンに対し、隣で静かに座していたリビが拳に力を込めた。バ・リョウキは甥を諫めるため、こっそりと足を踏みつけ、リビの不満げな流し目を受け止めた。
「ご心配に感謝する、総帥殿」
初対面となるア・ザンの性格は、すでに透けて見えつつあった。その態度は一見して謙遜の色が強く腰も低く見えるが、胸につけた派手な胸当てと同じく、自己顕示欲が強く、さりげない言葉によって他者を下に置くのを好む。
生粋の武官であるバ・リョウキから見れば、狡猾な官吏文官としての色が濃いこの男は不快な部類に入るが、高位にある者の中ではさしてめずらしい性格というわけでもない。
そして一連の不快な発言は、的外れなものではなかった。
自国、シャノアは前王の金使いの荒さと、長く続く不作によって借金に喘いでいた。国力は低下し、没した王の後継者として選ばれたのは、まだあどけなさしかないような幼い姫だった。他家から嫁に来た姫の生母は宮中の実権を握り、なんら力のない娘を後継者に据えた後、同盟関係にあるとはいえ、二心を胸に秘めたサンゴからあっさりと金を借り受ける決定をした。
バ・リョウキは今、少ない手勢のみを与えられて、借金の見返りとして送り出されていた。
「近いうちにムラクモとは一戦交える事になりましょう、まあ、まずは旅の疲れを癒していただきたい。その前に老将がよろしいようであれば、私自らが城塞内を案内いたしますが」
器に残った茶はすでに冷めている。席を立つには丁度良い頃合いだろう。
「ありがたく、案内をお願い致す」
総帥自らに志願したわりに、城塞の内部は取り立てて見所もなかった。だが一カ所だけ、片隅に設けられた牢獄に、ものものしい数の番兵が見張りをしているのを見て、興味を持った。
「あれは、なにごとか」
足を止めて聞くと、ア・ザンは待っていたとばかりに胸を張った。
「老将は〈ガ族〉をご存知ですかな」
「三脚を使う一族でしたな。血統は絶えて久しい」
〈三脚〉は深界で独自に進化を遂げた狂鬼の枠に属さない生物で、敏捷性に優れた二脚を駆使して深界を四六時中走り、胸の下に折りたたんだ三本目の副脚は跳躍を得意とし、悪路をものともしない。人が騎乗する生物としては馬に並ぶか、それ以上の存在だった。
小さな里を領地としていたガ族は、その三脚を手なずけて戦場に用いる術を代々受け継いできた優れた部族だったが、それが仇となり、ガ族を取り込もうとする各国の思惑に晒されるなか、最終的には全滅の運命を辿ったのである。
ア・ザンはにやりとほくそ笑んだ。
「それが生き残りがおりましてな。食べるために各国を練り歩いて裏の仕事を請け負っていたという話ですが、性格が難しく雇い主をころころと変えている間に恨みを溜めてしまい、路頭に迷いかけていたところを私が招き入れたのです」
バ・リョウキは眉をひそめた。
「この様子を見るに、矛盾しておるようだが。牢に閉じ込める事を招き入れるとは言わん」
非難の意味を込めた言葉は、しかしア・ザンには届かなかった。
「なあに、ちょっとした機転を利かせましてな。酒に酔わせてその間に石を封じ、拘束したのですよ」
ア・ザンは手をこねながら、卑怯な手段を自慢気に語った。
「見てもよろしいか」
「ご随意に――お前達、老将をお通しするぞ!」
同行したがったリビを置いて、ア・ザンの案内に従った。
牢の中は換気が悪く、豚小屋のような臭いが充満していた。件のガ族の生き残りは、一番奥の暗い部屋に、両手を鎖でつるし上げられた状態で座り込んでいた。
浅黒い肌に青黒い髪。ゆっくりと持ち上がった顔には、虎のように猛々しい目が光る。すっきりとしたアゴには一点のホクロが刻まれていた。座っていて全体像は明瞭ではないが、たくましい筋骨とすらりと伸びた長い足からして、相当に背は高いだろう。本来左手にあるはずの輝石は〈石封じ〉と呼ばれる、彩石を有する者が駆使する力を弱める効力がある特別な皮手袋がはめられていた。
その男は光の届かない薄暗い部屋で、鷹揚に顔を上げて睨みをきかせ、鋭い犬歯の目立つ歯を剥き出しにして笑みを浮かべた。
「じじい、てめえが剣聖とか祭り上げられてる糞野郎かよ。見張りのやつらがさっきっから女みたいにワアワアうるせえったらねえ」
咄嗟にア・ザンは鉄格子を蹴り飛ばした。
「口に気をつけんか、貴様のような無頼の輩が軽々しく口をきける相手ではないのだぞ」
バ・リョウキはア・ザンを制し、囚われの男と正面から視線を交わした。
「ガ族の生き残りと聞いたが、まことか」
「あ? だったらなんだよ」
「ここにこうしている今が、おしいと思っただけだ。関わる人間を間違えたな、小僧」
言うと、男は口角を下げて険しさに顔を歪めた。
「わかんねえ事をいってんじゃねえよ。それより、あんたがあのバ・リョウキっていうんだろ。ガキの頃からその名前はなんども聞いた事があるぜ。剣の腕でのし上がった英雄、そして戦闘狂いだってな」
たしかめるように言われ、バ・リョウキは頷いた。
「否定はせん」
男は不敵に笑う。
「じじい、俺と戦えよ。あんたみたいなのを倒して名を上げてえんだ」
バ・リョウキは、これに即答した。
「断る」
「なんでだ! おれはつえーぞッ!」
「侮って言ってるのではない。貴様のその手、一目でわかった。剣でも槍でもない、拳を技として使う者だと」
男の両の分厚い拳は、治った跡のある傷跡が無数に刻まれていた。
バ・リョウキを含め、南方の〈星術〉と呼ばれる晶気に相当する力を有する者には、その性質に肉体強化を持つ者が多い。
この男の場合、十中八九その力は腕力に関係したものであると推測できる。
男の言うように、バ・リョウキは強者との対戦を好んできた。だが、その相手に得物を使わない人間は、あえて望むほどのものでもない。
男は決闘を拒んだバ・リョウキを前に、それを嘲笑った。
「言い訳をつけて逃げてるだけじゃねえか。相手を選んで戦ってりゃその歳までのこのこ生き残ってるのも納得がいくぜ」
不意に横から棒が伸び、男の顔面を打ちのめした。
「野良犬の分際で、黙っていれば不遜な事をッ!」
刃のない槍の先で突かれ、男の顔には青紫色の痣が浮かんでいた。
バ・リョウキは棒を掴み、それを止める。
「弱者を一方的になぶるのは好かぬ」
ア・ザンより先に、囚われの男が吠えた。
「俺は弱くねえ! クソが、取り消せッ!」
鎖を引き千切らんばかりに身体を前に倒し、血走った目で闘争心を剥き出しに叫ぶその姿は、野獣のそれである。
「老将、まいりましょう。ここは英雄の立つ場所ではありませんぞ。なあに、こいつはこれから私が直接可愛がってやる予定でしてな、不遜な物言いの分は、その時にたっぷりと後悔させてやりましょう」
下卑た笑みを浮かべているア・ザンに言う。
「口を出す立場にはないが、戦士には相応しい最期を与えてやるべきであろう」
「ええ、そうしますとも。三脚の捕獲や飼育法について聞き出した後にね」
ひっきりなしに怒鳴り声をあげ、自分を煽る男の声を背に受けながら、バ・リョウキは牢獄を後にした。
口汚く自分を罵るその男よりも、バ・リョウキはア・ザンへの嫌悪を募らせていた。本人曰く、囚人への拷問を趣味としていると言う総帥が、自国の同胞でなかった事を、真剣に神に感謝していた。
*
灰色に染まる深界は、春を迎えてもなお陰鬱とした空気が支配しているが、温かくなった気候に誘われるように、商いに従事する者達が、荷をどっしりと積んだ馬車と共に、せっせと白道を進んでいた。
シュオウは、新たな任地であるオウドの地へ向かう隊商に小銭を渡し、荷を積んで揺られる馬車に便乗して目的地を目指していた。
「おい兄さん、そろそろ大山が見えるぜ」
御者の男に呼ばれ、馬車から頭を出すと、前方の遙か彼方に巨大な山がそびえ立っていた。
「でっかいな」
霞む空気の奥にある〈金剛大山〉は、山というより壁と形容したくなるほどの重厚感を持って存在している。天高くまで伸びる頂上付近は、雲に隠れてどうなっているのか確認ができないほどだ。
「冬から今くらいの季節は霞んでてぼんやりしてるけどな。夏になるともっとよく見えるようになるよ」
雲をかぶり、大地を睥睨する金剛大山を前にして、気分は高揚していた。
自分は今、見た事もない異境に、たしかに足を踏み入れたのだ。