簒奪 2
簒奪 2
ジ・ホクの目に映る光景は、さながら異民族に攻め込まれ滅ぼされた街だった。
城壁の外を巡回する兵士たちの隙をつき、運び込まれる軍隊の荷馬車に紛れ込みながら、ターフェスタ中央都の市街地へ潜入を果たしたジ・ホクは、その目に映る街並に気を取られる。
そこは労働者階級の平民たちが暮らしていたであろう地区で、そこにあった建物の大きくは、焼けて醜く崩れ落ちている。
雪のように風に舞う粉のような灰を見送りながら、ジ・ホクは進む道の先に集団の気配を感じ、身を隠した。
「エヴァチ司祭、この地区の遺体はすべて回収を終えました」
聖職者と思しき男が呼ばれ、荷台の上で折り重なるように置かれた遺体を前に、悲しげに祈りの所作を繰り返す。
「死者たちを教会へ――合同の葬儀を行いましょう」
エヴァチ司祭、と呼ばれた男が促すと、
「黒焦げの遺体の中に、たぶんあの余所者連中のも含まれてます。省いてからにしましょう」
エヴァチは痛ましげに首を振り、
「死した者を罰するのは生者である我々のすることではありません。石を砕き――善なる者と、そうではない者も、等しく神の下へお返しします」
言い出した者は、エヴァチの言葉から耳を背けるように顔を背けた。
他の者が手をあげ、
「周辺の後始末にもっと人手が必要です、これじゃいつまでたっても、死んだ者たちの見送りも終わりません。それに……食い物だって、こっちは一日中体を使ってるのに、ほんのちょっとしかまわされないんじゃ……城に行って、あのシュオウって人になんとかしてもらえないか、俺たちのほうから頼んでみるというのはどうですかね?」
――シュオウ、あいつだ。
その名を聞いた途端、ジ・ホクは奥歯を強く噛み合わせる。
エヴァチは渋い顔で首を傾け、
「お忙しい身であられる。この大変な時に、あまりお手を煩わせないほうがいいでしょう。今の話は、私のほうからヴィシャ殿に相談しておきます」
別の者が忌々しく唾を吐き、
「ヴィシャ……なんであいつが俺たちの代表者面で上にいるんだ。俺の知り合いはあいつのとこに縄張り代を徴収され続け、最後には店まで奪われた。皆が重税で苦しんでた時だってあそこだけが無事だった。あの悪人め、こんなときまで上手く上に取り入りやがって……ッ」
その発言が秘めていた感情に火を付けたのか、集う者たちがヴィシャという人物について、悪し様に声を吐き始めたその時、
「やめなさい――」
エヴァチ司祭が強めの口調で言った。
「――人は時に一面だけで評価できないこともある。ヴィシャ殿は自らの財を取り崩しながら、餓える人々に施しを続けてこられたお方です。昨日の騒動のときにも、命懸けで一人でも多くの者たちを救おうと奔走されていた」
「だからって、他の悪事を全部許せと言われるのですか?」
エヴァチ司祭は首を振り、
「それを他者に強要するつもりも、その資格も私にはない。ただ今は、無駄な争いに力を消耗させてよいときではないと、皆もわかっているはずだ。私たちに出来る事を黙々とこなすのだ。それが、すべてを賭けて、弱き者たちを守ろうと立ち上がられた、あの御仁の意気に報いることにもなる」
群れのなかで一定の尊敬を得ているらしいエヴァチ司祭の言葉に、愚痴を零していた者たちは、口を止めて黙々と作業をこなし始める。
そんな集団の中からぼそりと、
「無駄だ……どうせ、すぐに他から軍隊が攻めてくる……あの銀星石様が、大公を捕らえた人間を許すはずがないんだ……」
小さく言ったその人物に、他の者が諫めるように肘で小突いた。
遺体を積んだ荷車を慎重に押しながら、集団がとぼとぼと去って行く。
周囲から人の気配が消えたことを察知し、
――城、シュオウ。
頭の中に置く、その二つの言葉を道標にして、ジ・ホクは新たな目的地に向け、再び前進を開始した。
*
ターフェスタ公国の前宰相ツィブリは、城内の通路を左右に何度も往復を繰り返すという奇行を見せていた。
「どうされたのですか」
耳元から突如フクロウの声が鳴り、
「ひゃあ?!」
ツィブリは驚いてその場で跳びはねた。
「……申し訳ありません、驚かせてしまいました」
ツィブリは飛び跳ねる胸を押さえつつ、
「まったくだ……もう慣れたと思っていたが、不意をつかれると……いやいい、たいしたことはない」
「あのお方にお会いになられるのでは?」
フクロウに言われ、ツィブリは誰もいない通路で一人頷いた。
「そうなのだが……」
「まだ、迷われますか?」
「そうたいそうなものではないがな……地位に未練があるわけではない、ただ、ドストフ様に冷遇されたために公国への謀反に加担をしたと思われるのだけは、どうにも心が収まらん」
「共感、いたします――しかし他人の目を気にしたところで事はなにも成せません。私が言えることではありませんが」
自虐気味に言ったフクロウに、ツィブリは静かに笑みを零す。
「お前の言うとおりだ。跪いて素手で馬糞を集め、多くの家や血族に関係を断たれてもなお、まだ私は我が名の名誉を気に掛けている。人間とはまさしく度し難いな」
ツィブリは意を決して迷いを捨て、通路の奥にある部屋の扉を叩いた。
すぐに扉が開き、
「お待ちしておりました」
ネディムが出迎えた。
応接室は、暖かな茶の香りに満たされていた。
東方系の特徴が濃い給仕の若い娘が、軽食を盆に乗せ、湯気の立つ茶の側に配膳する。
奥の部屋から姿を現した者を見て、ツィブリは全身を緊張させた。現状、この中央都、そして大公家の城の新たな領有者となったシュオウである。
ツィブリは深々と辞儀をして、
「ターフェスタ公国元宰相――そして現在は馬丁として勤めております、ラビ・ツィブリが、准砂将閣下にお目通りをいたします。面会の申し入れを受け入れてくださり、心より感謝を申し上げます」
シュオウは駆け寄るようにツィブリの肩を支え、
「こちらこそ、ありがとうございます」
折り曲げた体を上げさせた。
ふと、鼻先をくすぐるように、強い匂いを感じる。
――これは。
ツィブリは悟られぬように目を剥き、鼻孔を通るその強烈な匂いに目眩を感じた。
それは高価な香水とも、生物から漂う臭気とも違う。およそ人間の者とは思えないような独特な匂いに、頭の中を根幹から掌握され、抗うことのできないほどの、強い興味に突き動かされる。
男の匂いに執着するなどという癖は持ち合わせていない。が、たしかに感じるこの衝動は、紛れもなく現実にツィブリの思考を汚染する。
「――殿」
「――ィブリ殿」
ふと、気がつくと、周囲にいる者たちが自分を心配そうに凝視していた。
いつの間にか隣に立っていたネディムが、
「どうかなさいましたか、ツィブリ殿」
「ああ、いや……」
いつからそうしていたのか、ツィブリは立ったまま硬直し、そのままの状態を維持していたらしい。
シュオウは不思議そうにツィブリを見つめつつも、
「どうぞ、座ってください」
丁寧に着座を促した。
ツィブリは鼻を強くこすり、意識して口からの呼吸に切り替える。
ひさしく飲んでいなかった高級な茶を前にして、その香りを楽しむことが出来ないことを悔やみながらも、この目の前の人物に対しての、自分自身で説明のできない異様な匂いへの執着を抑えるには、この方法しかなかった。
ツィブリは茶と軽食を勧められながら、首を振り、
「お忙しい時でしょうから、本題に入りましょう。おそらく、私に関してはカルセドニー卿から勧誘と雇用を進言されているはず」
シュオウはちらとネディムを見た後、ツィブリの言葉を証明するように首肯した。
ツィブリは飄々としてシュオウの側に佇むネディムを一瞥し、
「それは、まったく正しい判断と言えるでしょう。私はこの国の内政に長く関わり、多くの事物、事情を把握しております。ですが、私は一度主を裏切った者として烙印を受けた身です。そのような者を側に置けば、あなたの評判に大きな傷をつけかねません」
シュオウは小さく笑みを浮かべ、
「俺がそんなことを気にしているなら、こんなことにはなっていない。俺がしたことを、誰かのためにやった、と言うつもりはない。自分がやりたいことをやった結果が今だ。それを続けるために必要な物、人材なら、それが何でも誰でも必要とする。手を貸してほしい、見返りが必要なら話を聞く」
迷いのない強い視線だった。
この国でも随一の名門家の当主を当然のように側に立たせ、率直な言葉をかけてくる。初めて見た時からその雰囲気に異彩を感じていながらも、司令官として戦場を駆けて戻った現在の彼の姿は、以前よりも遥かに威風を増していた。
長年仕えた主からは、微塵も感じられることのなかった、覇気に満ちた人間を前にして、ツィブリはここに至るまで僅かに残していた迷いの気をすべて忘れ去っていた。
「このような老骨を必要としてくださるのであれば、この身を尽くしてお仕えいたしましょう。これよりは、このツィブリを配下と思い接していただきますよう」
椅子を降りて平伏しようとしたツィブリを、シュオウが手を当てて押し戻した。
「あなたは優秀な人間だと聞いている、助けてくれるなら心強い」
ネディムが微笑んで手を叩き、
「さっそくです、ツィブリ殿のお考えを聞かれてみるのはいかがでしょう」
シュオウはツィブリの目を見たまま強く頷いた。
ツィブリは再び席に腰を落とし、
「大小に関わらず、この中央都を滞りなく運用するには、各室の担当官吏たちの協力が不可欠です。しかしながら、本来の主である大公からその座を奪った、となれば、協力を渋る者が大半を占めることになりましょう――実際の内心に関わらず、ですが」
シュオウは、
「どういう意味だ?」
「公国に在るすべての貴族家が、大公家に心からの忠誠を誓っているわけではありません。中には現代の大公より冷遇を受け、かつての冬華の地位を剥奪された家などもあります。そうした事例は枚挙に暇がないほど、大公家に冷めた視線を向ける者は数多潜んでもいる。そうした者たちであれば、あなたに対して内心では協力をしても構わない、という者たちもおりましょう」
ネディムが、
「問題は、彼らにどう協力させるか、です」
その時、
「脅せばいい――」
部屋の入り口の扉が開き、ジェダ・サーペンティアが姿を見せた。ジェダはシュオウの隣にすっと腰を落とし、誰も口につけていなかった茶を一口で飲み干した。
汗を拭う仕草から一仕事してきた様子だが、顔に僅かな堅さを浮かべたネディムの様子を見るに、この登場は予定外のことであったらしい。
シュオウが、
「ジェダ」
名を呼ばれたジェダは、
「予定よりも早く片付いたんだ。僕も参加させてもらってもいいかな」
シュオウがあっさりと頷くと、ジェダは微笑を浮かべた顔をツィブリに向け、語りかける。
「こちらにはボウバイトという圧倒的な武力がある。目の前に兵をちらつかせれば、誰であろうと強制的に働かせられるだろう、そうは思いませんか、元宰相殿」
ツィブリは、
「そのお言葉には異を唱えます。強行に従わせたところで、人はまともな働きをしないもの――ですが、お言葉も一部に利はあります」
ジェダは眉をあげ、
「ほう?」
見られる視線に威圧的なものを感じつつ、ツィブリは一つ咳払いを挟んだ。
「たしかに人は脅されれば意志を曲げて従うこともある。それを利用し、外から見たときに脅迫されていたように見える状況を作ってやればよろしいのです」
シュオウは小さく首を傾げ、
「嘘をつけ、ということか?」
ツィブリは頷き、
「各家々から人質をとり、それを理由として協力に消極的な者たちに、いざというときのための言い訳を与えます」
ジェダは声を硬くし、
「僕の言ったことと大差ないように思えるが」
「いいえ、まったく違います。重要なのは誰を人質として引き取るか。本当に人質として価値がある者を集めれば、協力を仰ぐどころか恨みをかうことになりかねません。そこで、その家にとってさほど重要ではない者たち――絶妙な立ち位置にいる者たちを選定し、そこから人質としての人選を行います」
ジェダは顔から笑みを消し、
「無駄な手間をかけるだけのやり方に聞こえるが。こちらは力で上位に立った新たな支配者だ、それらしく振る舞うほうが、内外に権威を示すこともできる」
ツィブリは静かにジェダを睨み、
「力だけで、すべてが上手くいくとは限りません――」
視線をシュオウに移し、
「――この作業は繊細さを極めます。私に一任いただけるのであれば、必ずや上手く事を成してみせましょう」
シュオウは、
「そのやりかたで協力者を確保できるのか?」
「はい、必ず」
シュオウは誰とも目を合わせないまま、静かに頷いた。
「わかった、まかせる。誰か手伝える人間を――」
「いいえ、私一人で十分です――あ、いえ、一人だけお借りしたい者が」
「誰だ?」
「元監察であるフクロウ――あれは良き目を持った者です。お許しをいただけるのであれば、私の手伝いをさせたいと思いますが」
シュオウは頷き、
「本人がいいなら、俺は構わない」
「ありがとうございます、それではさっそく――」
挨拶もほどほどに、ツィブリは立ち上がり部屋の外へと足を向ける。しかし、飲み損ねた茶が気になり、不意にその場に足を止めた。
心を察したように、ネディムが茶と軽食を手に、
「お忙しくなられるでしょうから、せめてこれだけでも」
と気を遣って差し出した。
脳天を満たす豊かな茶の香りを口いっぱいに頬張り、軽食を懐に忍ばせ、ツィブリは部屋を後にする。
――忙しくなる。
これからの手順を忙しなく頭で流すツィブリの表情は、久方ぶりに若々しく輝きを放っていた。
*
人混みのなかで雑用に従事するセレスは、猛烈な勢いで駆け込んでくる少女の姿を見つけ、慌てて背を向けて距離をとった。
「おいッ」
後ろから強く声をかけられても、セレスは足を止めず、通路を出て中庭に繋がる回廊へと出て、先の通路へ逃げ込もうとする。しかし、大きな荷箱を抱えた兵士に道を塞がれ、横向きに進路を変えて中庭へと入り込んだ。
「待てよ、こらッ」
また、後ろから柄の悪い声を浴びせられながら、セレスは何重にも折り重なる暗幕のように、並べて干された洗濯物の間をすり抜ける。しかし、体中に負った無数の怪我が災いし、追跡者にあっさりと追いつかれ、腰のベルトを掴まれた。
「なんでそっちが逃げるんだよッ」
セレスは恐る恐る振り返り、
「レイネ……その……合わせる顔が、ないというか……」
言った通り、視線から目一杯に顔を背ける。
「この気弱な意志薄弱男ッ、そんなだから、あんたは生きるのが下手糞なんだ」
年下の少女から言われた言葉に強く納得し、セレスは足腰の力を抜いて、ゆっくりとレイネと顔を合わせた。
「なんでこんなとこでふらふらしてるんだよ、てっきり牢屋にでも繋がれてると思ったのに……」
セレスは頭を掻き、
「いや、僕もそうするべきだと思うんだが、あの人が来て、人手が足りないからと言われて解放されてしまったんだ。それから、なんとなく雑用を――」
セレスは首から下げたポケット付きの作業着を見下ろした。
「ばかッ」
突如、レイネが強くセレスの頭をはたいた。
セレスはきょとんとしながら叩かれた頭を撫で、
「レイネ?」
レイネはセレスの作業着を掴んで無理矢理に腰を折らせ、
「なんであの人に自分を売り込まなかったんだよ!」
「売り込むって……」
レイネは顔を寄せてセレスを強烈に睨み、
「あんたは天性の殺し屋だ、あれだけの力を使えるのに下っ端がやるような仕事で満足してるなんてばかじゃないのかッ」
殺し屋、という言葉に、セレスは痛みに耐えるように俯いた。
「処刑されていないだけでも奇跡のような状況なんだ、売り込むなんて、そんなこと図々しいこと……だいたい、僕のような人間が、仲間として受け入れられるはずもないだろう」
レイネは身を低く屈めて、俯くセレスの顔を見上げ、
「弱い奴を殺して喜んでるような奴は軽蔑される、でも戦争で敵を殺すやつは尊敬されるんだ」
「戦争……」
「あの人はここを馬鹿大公からぶんどった。取り返そうとする奴らと必ず戦争になる。こんなときにあんたみたいなのが、その力を売り込まなくていつやるってんだよ。強い奴の役に立てば守ってもらえる、あの馬鹿大公がまた力を取り戻したら、あんたは確実に殺される。自分を守るために、上手く立ち回るんだよ」
「自分を、守るため……いや、僕にそんな資格があるとは、思えない……」
レイネは苛立たしげに嘆息し、
「もういい、わかったッ」
胸を張って城の上階を見上げた。
セレスは嫌な予感がして、
「なにが、わかったんだ?」
「わたしが行って、シュオウ様にお願いしてくるッ」
セレスは慌てて、
「無理だッ」
「パパはあの人を手伝ってるし、わたしだって助けてもらったよしみで顔見知りなんだから、会おうと思えばいつだって――」
「違う、そういう意味じゃ――」
レイネは不思議そうに首を傾げている。時に異常なほど大人びて見えるときもあれば、まったく子どもらしさを露わにすることもある。今にも飛び出して行きかねないレイネを前にして、セレスは食い止めるために慌てて思ってもいないことを口走る。
「――わかった、売り込みを……認めてもらえる方法を、なんとか考えてみるから」
「本当だな?」
セレスは何度も首を上げ下げし、
「本当に……がんばるから、見守っていてほしい……できれば遠くから」
最後の一言を消え入りそうな小声で呟くと、レイネはじっとりと目を細め、
「まあ、パパにはここに近づくなって言われてるから、ばれたら面倒だけどさ――」
その時、洗濯物の奥から不意に話し声が聞こえてきた。自然と、セレスとレイネは声を潜め、気配を殺す。
「――まったく、連中はシュオウシュオウと同じ名前ばかり繰り返して、いい加減耳に蓋をしたくなってきた」
「――いい気なものだろう。中央都を占拠して大公殿下を拘束するなどという大罪を犯してまで、濁りの下民どもに餌を与えたところでなんになるという。あの公国に忠実なる銀星石様が黙って見ているはずがないのに」
「――その通りだ。近く、近隣の諸侯たちから兵を集めて、ワーベリアム准将がここを攻めてくるのは間違いない。寄せ集めの余所者どもが、国をとったつもりで粋がっていられるのも今のうちだ」
「――なにが砂将軍だ、カビの生えた称号をあんな者にお与えになられ重用したのは殿下の大いなる失態だろう、大公家はこの件で消せぬ汚点を背負うことになるな、また外国の連中に良い嗤いのネタにされる」
「――そんなことを気にしていられる余裕などないぞ。このまま下手に立ち回れば、簒奪者の一派と誤解されてしまいかねない」
「――今のうちに一暴れでもして、牢にでもぶちこまれておくほうが安全かもしれないな」
「――いや、まじめに悪くない方法かもしれないぞ」
「――しかし、カルセドニーやボウバイトはなにを考えているのか」
「――あの冬華のネルドベルですら、やたらに協力的に振る舞っている。名家大家であろうと、世情を読む力がなければ、この程度のものということだ」
「――あのシュオウとかいう輩の死に方を賭けないか?」
「――いいだろう、賭けに乗ろう」
二人きりのつもりで本音を語り合っていた声が遠ざかっていく。歯を剥きだしたレイネが、地面に転がる尖った石を掴んだ。
セレスは静かにレイネの手を押さえ、
「だめだ」
小声で止める。
「聞いただろ? あいつら、敵じゃないってふりをしながら、平然とここに紛れ込んでるんだ――許せないッ」
「この状況なら珍しくもないはずだ。それに、彼らはそれほど的外れなことを話してはいなかった。銀星石――ワーベリアム准将が黙ってこの状況を見ているはずがない。燦光石を持つあの方に攻め込まれれば、どうなることか……」
レイネは眦を尖らせ、
「だからあんたみたいなのが必要だっていってんだろ!」
「レイネ……」
「銀星石がなんだよ、私たちが餓えて苦しんでいたときに、なにもしてくれなかった奴なんてどうだっていいッ。どんなのが相手だって、あの人なら絶対なんとかしてくれるさ」
レイネは空の色を見つめ、
「もう行かないといけないけど、次に来たときになにもしてなかったら、今度こそ私が直接あの人にお願いにいくからねッ」
烈火の如く喚き散らしたレイネは、ふんと息を吐いて去って行く。
セレスは疲れを感じてその場にへたり込み、
「プラチナ・ワーベリアム……か」
その名を口ずさむ。
公国で最強を誇る守護の盾にして、大恩ある大公家への忠誠を誓う家の当主。その手にある銀星石は、巨大な都市をひと飲みにするほどの銀の雪を降らせるという。
セレスはレイネの言っていたことを思い出しつつ、
「そんなに簡単な話じゃないんだよ、レイネ……」
この不安定な状況下に、これから起こる未来を思い、感情の下に不安を隠しきれないまま、セレスは乱れた作業着を整えた。
*
ターフェスタ公国、北方防衛の要、北門メラックの総督を務める銀星石、プラチナ・ワーベリアムは、早朝の執務室にこもり、一通の文をしたためていた。
高級な紙に美しい文字を綴り、丸めて蝋を垂らし、ワーベリアム家を表す印章を押して封をする。
封蝋が固まったのを確認し、プラチナは姪であり補佐役であるリディアを呼び寄せた。
「ホランド王への返信です、届けさせるように」
リディアはうんざりとした調子で、
「またですかぁ? もういい加減無視なさればよろしいのに……」
リディアの視線は、プラチナの執務机にまとめて積まれているが、そのすべては同じ内容――会食への誘いである。
「一国の王からの申し出を、無視なんてできるはずもないでしょう」
しかし、そう言いながらプラチナの表情にはリディアと同じ感情が浮かんでいる。
かねてより、ホランド王はプラチナに対して熱のこもった感情を内外に隠すことなく表明している。曰く、銀星石を所有するのに、ターフェスタ大公家はふさわしくない、というのが常套句なのである。
過去から現在に至るまで、何度も対面での食事や茶飲みに誘ってくるが、その目的は明らかに勧誘であり、しかもそれを隠す事なく表だって仕掛けてくる行いは、プラチナがホランドとの国境を睨む北門に再着任してから頻度をさらに増していた。
リディアはプラチナの用意した返信を窓から差し込む光に照らし、
「しかししつこい男です、伯母上様が何度断っても諦めずに誘い続けてくるんですから。噂通りのすけこましですね」
プラチナはリディアに対する視線を強め、
「どこでそんな言葉を覚えてくるの、人前では絶対に使わないように」
リディアはつんと鼻をあげ、
「本当のことですから。あの王家の人間は、見目の良い男女を収集品のように側に並べて侍らすそうですよ。まるで物扱いではありませんか」
プラチナは澄ました顔で、
「他国の事情には干渉しません」
リディアはむすりと、
「とはいえ、自国の事にだってろくに干渉はできていませんけど。中央都から追い出されてからここまで、大公様の当家への無関心ぶりは過去最大級に達しています」
文を送っても返信はなく、北門での勤めを気にする素振りすらない。戦争にかまけて重税をかけ民を苦しめているという話を聞いても、プラチナはその主君に対して、諫言を届ける手段すら失っていた。
黙り込んだプラチナを前に、リディアは失言を自覚して慌てて取り繕い始めた。
「あー……あの、例の人物が東方の領地の一角を落としたということですし、大公様のご機嫌も回復されているころかと。改めてお祝いの言葉を送るついでに、お目通りを願ってみるというのはいかがですか」
プラチナはさらに顔を暗くし、
「なにも祝えるようなことなどありません。大国の所領を奪ったということは、戦がさらに延長される可能性もあるということ。結果を見通すことなく目先の戦果に一喜一憂などしていればどうなるか――」
説教語りが始まったことを察知したリディアは素早く、立てかけられていたプラチナの愛用する武器である不動棒に手を伸ばす。
一瞬、その重さに倒れそうになりながらも、両手で抱えるように持ち上げ、猛るプラチナへと手渡した。
「伯母上様! ご気分が優れないようですので、訓練で汗を流されてはッ」
リディアが大声で言うと、部屋の外からがたりと不穏な音が鳴る。
プラチナは不動棒を強く握り、
「ナトロッ」
扉の奥に向かってその名を呼びかけた。
まるで死に向かって萎み行く花のようにしおらしく扉が開き、暗い顔で冬華六家の一人、ナトロ・カデンが顔を出す。
「プラチナ様……なんでしょう、か……俺はたまたま、明日の献立の相談にきただけで……」
プラチナは不動棒を軽々と持ち上げ、
「また情けない顔をして――訓練を付けます、今すぐ着替えて中庭に」
ナトロは口元を大きくひん曲げ、
「き、昨日やったばかりですよ……それも朝晩にたっぷり……」
顔についた生傷を撫でながら訴える。
「その程度のことで音を上げているから、たった一人の相手にびくびくと怯えをみせるのです」
ナトロは抗議をするように足を踏み出し、
「怯えてるのではなく! ただ、あいつのあの眼……俺のことをどうとでもできたのに、まるで道具を壊すみたいに軽々しく扱われて……もてあそばれたような気持ちがして……それを思い出すたびに体が……ッ」
言いながら徐々に語気を弱め、最後には青ざめた顔で口元を押さえる。
リディアが口元を手で覆い、
「まあ……」
ぱちくりと瞬きを繰り返す。
プラチナは不動棒の先でナトロの頭を軽く小突き、
「それが怯えでなくてなんなのですかッ。その軟弱さを師として叩き直します。早く準備をしてきなさい」
弟子を鍛え直すという、その言葉は半分真実で、半分は偽りだった。
ターフェスタ大公であり主君であるドストフとの関係に不満が募る現状、プラチナは度々、体を動かすことでその鬱憤を晴らしている。
運動着に着替えてきたナトロが恐々と棒を構えた途端、プラチナは弟子の隙だらけの腹部を狙って、不動棒を突き出した。
最大限の加減をしながらも、プラチナの並外れた膂力によって繰り出される一撃は、ナトロをひざまずかせるのに十分だった。
しかし、プラチナは間髪入れず、思いきり不動棒を高く振り上げる。
直後にリディアが、
「床材を壊さないでくださいよ! もう代えが尽きているんですからッ、節約を心がけくださいッ」
プラチナは振り下ろそうとしていた手を一瞬止める。ナトロはその隙に気づき、回転をつけて体を捻りながら棒術を叩き込む。
プラチナはナトロの一撃をさっと払いのけ、
「教えたやり方とは違うッ」
ナトロは腹を押さえながら、
「克服するためですッ」
仕込んだ棒術の型をあえて崩す弟子を前に、
「減らず口を――」
プラチナは次の一撃を牽制するために、体の周囲で不動棒を回転させ、次の一撃を見舞うための”しなり”を加える。だがその時、
「准将――准将ッ!」
中庭の奥から、逼迫した声がプラチナに呼びかける。
プラチナが手を止めると、リディアとナトロが、守備につくように、声の主が走り込んでくる方向に身を置いた。
「准将! ご、ごほうこ――」
声の主はメラックの兵士複数人を引き連れながら、プラチナの前で激しく咳き込み、膝を折る。
プラチナは、
「水を用意して」
報告人は手で不要の意を示し、
「緊急で、ワーベリアム准将に、バリウムからのご報告を――」
懐から一通の書簡を取り出した。
プラチナはリディアを経由してそれを受け取り、
「バリウム……」
近隣に領地を置くバリウム家の名が出るが、しかしその封に差出人を示す紋章はどこにも見当たらない。
常にないほど焦った様子の報告人の態度から、嫌な予感を感じつつ、書簡に目を通したプラチナは、思わずその手から書簡を零れ落としていた。
大きく目を見開いて硬直するプラチナを前に、落ちた書簡をナトロが拾い上げ、
「見てもよろしいですか?」
間を置き、プラチナが頷くと、ナトロとリディアが食い入るように書簡に目を通す。両者はすぐに息を飲み、
「中央都が、陥落――?!」
ナトロがその一言を発した瞬間、一帯に轟音が鳴り響く。白煙が舞うほど強く、プラチナの持つ不動棒が、床材を奥深くまで叩き割っていた。
*
主なき玉座が置かれたターフェスタの城、その謁見の間に、多くの者達が集っている。
片側には東方出身の者たち、それに加えてボウバイトを代表した数名が列に加わる。もう片側にはターフェスタ公国の元宰相を筆頭に、国の中枢に携わる一部の文官輝士たち、それに貴族家の代表者たちが参列していた。
押し開かれた扉を抜け、シュオウが姿を現すと、この場にぴり、とひりつくような緊張感が漂う。
玉座の前で出迎えるのはネディム・カルセドニーと、その弟であるクロム、そしてジェダである。
「准砂、どうぞ――」
ネディムが玉座へ促すと、クロムが自らの服の袖を使い、玉座をごしごしと磨いて見せた。
シュオウは玉座の前に立ち、周囲にいる者たちに視線を回した。
クロムがシュオウの前に跪き、
「我が君、どうぞこの城の主の椅子にお座りくださいッ」
そうするのが当然であるという態度で、ジェダが微笑を浮かて頷いた。
この場に列席する者の多くは好意的な感情を向けてくる仲間たちである。しかし、集う者たちの半数以上は、玉座の前に立つシュオウへ、不快感を滲ませた暗い視線を向けてくる。
シュオウは玉座を一瞥した後、背中を向けた。そして、羽織っていた外套を勢いよく、玉座を隠すように投げつける。
惑いの空気が流れる一同に向け、
「食糧がまったく足りていない――」
立ったまま、そう切り出した。
「――誰も餓えさせず、家や財産を失った領民たちが、当たり前の日常に戻れるように、出来る事をやっていく。その話をするために、俺の仲間たち、それと一時的にでも協力を申し出てくれた者たち全員に集まってもらった」
集う者たちが互いに顔を確かめ合う。
出身国、立場、階級や年齢、性別、あらゆる雑多を織り交ぜた集団を前にして、シュオウはさらに方針を声に乗せる。
「こうなった経緯は全員が知っているはずだ。俺はこの国を取りたいわけでもないし、王になるつもりもない。そうとしか見えなかったとしても、やるべきことをやっていく」
言って、シュオウはさらに一同を俯瞰する。
「城内にあるすべての金目の物を売って食糧と交換する――クモカリ、各商会との交渉を進めてくれ。向こうが欲しいと言うものならなんでも、芸術品、武器や馬、それに後ろにある玉座でもいい、すべて金か食糧に換えてくれ」
クモカリは一歩前に出て、
「まかせて」
強く頷いた。
シュオウはネディムに視線を送り、
「公国各地の領主たちに支援を要請する」
ネディムは表情暗く、
「おそらく、良い反応は期待できませんが」
シュオウは頷き、
「それでもいい」
「手配いたします」
ネディムは深々と辞儀をして、承知を告げた。
「ディカ・ボウバイト」
シュオウがその名を呼ぶと、
「は、はいッ?!」
予想していなかったのか、ディカが裏返った声を上げて進み出た。
「都内全域の治安を一括で管理する組織を立ち上げる。警邏隊を編成するために、ボウバイト軍の協力が欲しい」
ディカは、
「あ、あの……お、お望みのままにいたしますッ」
大勢から視線を受けるディカは、不慣れな様子で受け答えた。
シュオウは一度深く息を吐き、
「石を積み、木を切らせ、大工たちに家を建てさせる。その警護にも兵を当て、食糧、水、輸送の確保と維持も必要になる。他にもやらなければならないことが山積みだ。俺一人では到底手が足りていない。ここにいる全員の力が必要だ――手伝ってほしい」
温度差はあれど、シュオウの心からの言葉に、集う者たちはそれぞれの方法で同意を示す。
シュオウは数段高い位置に置かれた玉座の前から進み、階段を下りて、その場に雑に腰を下ろした。
「内側のことも大変だが、それ以上に問題が多くある。そのなかでもとくに、多くの人間が気にしている銀星石――」
その名を語ると、途端に場の空気が凍えるような緊張を纏った。
シュオウは各々をじっくりと見つめ、
「――捕らえている大公のことも含めて、これからの最善を考える。それぞれの思っていることを聞かせてほしい」
各々が徐々に口を開き始め、思い思いに意見を述べる。
この日、不完全で一時的な絆によって結ばれた者たちが集う、この新たな集団の立ち上げ式は、夜が更けるまで続けられた。
◇◆ 銀星石攻略編――前編 完
【今後の投稿についての大切なお知らせ】
銀星石攻略編前編は今回の投稿により完結を迎えました。
続きとなる後編は、新たな試みであるサブスク参加者向けの先行配信に引き継がれます。
週一更新を継続し、その他にもサブスク参加者限定のエピソードなどが、今後コンテンツとして提供されていくことになります。
次回の無料更新の再開は後編終了後を予定しております。期間としては半年かそれ以上、しばらくの間は期間が空くことになると思います。
※先行分はすでに次話1話分が公開中です
詳細は”活動報告”または下記のFANBOXリンクよりご覧下さい。
■8/30追記
※現在公開中※
・後編1~6話まで先行配信中
・アマネ、シャラ、サーサリアの3人の冒険を描く「毒姫の章 天井の虫」サブスク限定で1話公開中
※2話は9月中配信
・シトリをテーマとした限定小エピソード「水色の誘惑」