流転 7
流転 7
それはデュフォスにとって、耳を疑う一言だった。
「ボウバイト将軍……?」
その言葉を聞いていた全員が、エゥーデの態度に戸惑いを見せる。
「どういう意味だ?」
シュオウが問うと、エゥーデはしかめっ面を維持したまま、
「言葉の通りである――すでに蛇の子と話はついている、四の五の言わず、ただ我が軍への要望を伝えよ」
ボウバイト家は長らくターフェスタ大公家に仕える忠実な臣下の一族である。その現当主が吐き出した裏切りの言葉に、デュフォスはそのまま現実として受け入れることはできなかった。
「将軍……これは、なにかの意図があってのことなのでしょうな、まさか、ボウバイトがターフェスタを……」
「時が過ぎれば変わることもある。これは当家固有の問題に起因することだ。公国に二心あってのことではないとだけ言っておく」
その態度、そしてエゥーデの副官やその後ろに淡々と控える軍隊を見て、デュフォスはようやくこの現実を正面から受け止めた。
「裏切るというのか……大恩ある大公家に対して剣を向けると……ッ」
エゥーデは強く鼻息を落とし、
「そうとしか言えん」
当惑は怒りへ変化し、その感情が頂点に達したとき、デュフォスは形相激しく歯を剥き出しに激怒する。
「これまで長きに渡る契りをすべて反故にするというのか……ただ一人の何者でもない人間のために?! よくもそんなことをこのような状況で言えるものだ、辺境の獣臭い牛飼い風情がッ!」
エゥーデは老獪に口元を歪めて笑み、
「ほう、我らのことをそう思っていたか、貴公の本音が聞けて喜ばしいかぎりだぞ」
デュフォスは糾弾するようにエゥーデを指差し、
「神に仇なす行いだ! 天は必ずその愚行を見過ごしはしないッ」
エゥーデはここに至り、ようやくその視線をデュフォスに向ける。
「信仰で大家は動かせん。貴公も心当たりはあるはずだ」
思いつくかぎりの罵倒を浴びせたい。全身の穴という穴から負の感情が溢れ出しそうになっているとき、突然背後から声があがる。
「ボウバイトに要請する――その男と部下の輝士たち、それに前線で民衆に手を出しているすべての兵士たちを取り押さえろ」
まるで当然のことであるかのように、そしていかにも慣れた口調で、シュオウはエゥーデに向け、その意向を淡々と告げた。
その言葉を聞き、デュフォスは息を止めて振り返る。
エゥーデは深く息を吐き、
「了承した――」
エゥーデは振り返って副官を見やり、
「――アーカイド、聞いた通りにやれ」
副官、アーカイド・バライトは神妙に首を縦に振り、その手を高々と突き上げた。
後方に控えるボウバイト軍の兵士たちが一斉に武器を構え、片足を踏み鳴らす。
デュフォス、それに部下の輝士たちが警戒して身を寄せるなか、エゥーデが僅かに馬を進ませた。
「降伏する者は傷つけず、捕虜として収容する。それでどうだ? 准砂将殿」
自らの考えを述べつつ、シュオウへ許可を求めた。
シュオウは、
「それでいい」
短く了承を告げる。
この局面で次に起こることを、デュフォスはよく理解していた。
後方に展開するボウバイト軍は、デュフォス救出作戦のために急場で集められた兵士や輝士とは比べものにならないほどの戦力を有している。
戦場で他国と一戦交えてきたばかりの戦士たちを相手に、抵抗をしたところで結果は見えていた。
「おまえたちまで、なのか……」
デュフォスの部下としてこの場にいた輝士たちが、次々と馬を下り武器を投げ捨てて、無抵抗を示すように両手を掲げながら両膝を落としていく。
輝士の一人が、
「デュフォスさま……この場では勝ち目がありません、一時降伏した後に交渉を――」
「黙れ、裏切り者め」
他人は常に自分を裏切る。
ある者は国を裏切り、主を裏切り、神にまで背を向けて、己のことのみを優先する。
国に仕える者は盤上の駒であり、駒が自らの意志によって行動することは許されない。
勝手に動く駒は不良品であり、手元に置いておく価値など一片にも存在しないのだ。
デュフォスはやつれた顔で空を見上げ、
「天上に御座す神へ乞う――我が敵を呪縛するための力を――」
一瞬、空気が爆ぜるような音が鳴った。硬く冷たく、人知れず凍り付く水たまりのように、孤独な音色を奏で、無機質でありながら散華の瞬間を思わせる。
デュフォスは自らを中心として、足元に晶気を出所として、白く発光する巨大な紋様を創出した。
紋様は渇いた地面を濡らす雪解け水のように、一帯を這うように広がり、本来の手の届く範囲を大きく超え、広域に白陣を張り巡らせる。陣のなかに身を置く者たち全員が、一瞬にして地面の上に体を落とした。
紋様として描かれているのは、デュフォスにしか読むことのできない連なりで意味を成す文字である。そこに記された言葉は制約を生み、陣の上に置かれた者を見えない縄に縛り付ける。
本来、複数の言葉を組み合わせて利用するその力も、かつてないほど広域に創出された現状では、複雑な組み合わせを用いることは難しい。デュフォスはこのとき、自らの力によって描く紋様に単純な一つの言葉だけを刻み込んだ。
「動くな」
白陣のなかに捕らえた者たちを睥睨し、デュフォスは紋様に刻み込んだその一言を口にする。
エゥーデとその副官、彼らが乗る馬、跪く裏切り者の輝士たち、そして敵として突如現れたシュオウという男と配下の南方人たち。すべてが陣のなかに囚われ、まるで絶命したかのように力なく地面に倒れ伏す。
デュフォスは狼狽するボウバイト軍に向け、
「主人の無事は我が手中にある。全員その場を動くな、一人でもおかしな素振りを見せれば、その瞬間に将軍とその副官の命はない」
宣言した直後、デュフォスは胸を鷲掴みにして、
「ぐ――」
苦しさに耐えるように口元を歪めた。
見た目の地味さとは桁外れに、この力の行使は消耗が激しい。特定の内容を定め、他者の行動を完全に抑制する。そのために常に一定の力を行使し続けなければならないこの能力は、創意工夫と持続力を融合する高度な晶気の使い方でもある。
本来の限界を超えた広さにまで拡大した白陣を維持するため、消費され続ける力が災いし、デュフォスの視界は徐々に赤く染まり始めていた。
ふと、目から涙がこぼれ落ちる。同時に鼻や耳からも体液が滴り、手で拭ったそれを見ると、手は赤色に染まっていた。
白陣のなかで身動きができなくなった輝士が、
「デュフォスさま、それ以上の無理はお体に――」
デュフォスは怒りを露わに、
「裏切り者が心配など、見え透いている……」
動けなくなった輝士から剣を奪い取り、デュフォスは淡々と輝士たちの首に剣を突き刺していく。
「お、お許しを――」
命乞いを最後まで聞くこともなく、急所に刃を突き通し、無抵抗の降伏を選択した輝士たちすべての命を無慈悲に刈りとる。
そのぎらついた視線は、直後にエゥーデへ向けられた。
「大公殿下直属である冬華からの助力を拒み、裏切り行為に手を染めたのは大罪に相当する。しかしながら、その身が負う様々な位とこれまでの貢献に報い、最後の機会を差し上げましょう」
エゥーデは地面に伏した状態で、
「命令に従わなければ私を殺すか? 安くみられたものだ」
デュフォスは目を細め、
「御家について事情があるとおっしゃっていました。そこの男に事情とやらが関係しているのなら、その根幹を私の手で断ってご覧にいれましょう。この愚行に至るまでの事情とやらが真実であるのなら、ターフェスタ大公殿下の前で弁明されるがよろしい」
デュフォスは剣先から滴る血を払い、白陣の上で膝を落とすシュオウを見やる。
「きさまが元凶なのだな。私が不在の間にネズミのように入り込み、公国の土台を卑しくかじっていたようだが、それもここまでだ」
異常な強さで晶気を使い続け、その反動がデュフォスの体を蝕んでいく。徐々に自由を失っていく体に鞭を打ち、一歩ずつ慎重に足を動かしながらシュオウの前に立ち、見上げてくる強烈な視線を睨み返しながら、首元目がけて剣を突いた。
刃の先が首の皮膚に到達する寸前、シュオウはしかし、首を捻ってずらし、デュフォスの刺突を回避する。標的をはずして流れた剣の刃を片手で力強く掌握され、デュフォスは困惑を露わにした。
「なぜ動ける?!」
命懸けで行使する晶気の力は、他の者たちが微動だにすることなく死を受け入れたことでも証明されている。
この男はしかし、行動不能に陥らせる白陣の上に身を置きながら、剣を躱したうえ、それを掴んで力強く掌握していた。
黙したまま強烈な睨みを効かせるシュオウが、剣を握ったまま手の平から血を滴らせる。その姿勢のまま足腰を震わせている姿を見て、立ち上がろうとしているのだと悟り、デュフォスは思わず半歩後ずさった。
満身創痍で倒れるセレスを見やり、
「あのくずといい……私の陣のなかにありながら、なぜ縛を無視して動くことができる……ッ」
剣の刃を握るシュオウの力は強く、監禁生活で弱ったデュフォスの力で、それを振りほどくことは出来なかった。
デュフォスは剣を手放し、その手の中に、氷結の刃を創出する。
晶気を武器として扱う最も汎用的な晶気の使い方を、デュフォスは苦手としていた。血によって受け継がれてきた晶気の型は、範囲に巡らせる罠として使用し、氷結という概念を複雑に応用する特殊な方法が主であり、近接や遠隔に晶気を攻撃の手として扱うことは型に含まれていないのである。
しかし、咄嗟に武器を失った今、デュフォスは苦手とする方法をあえて選択する。
著しく力を消耗している現状、手元に生やした氷結の刃は、子どもが造るような不出来なものにすぎず、酷く歪な形をしていた。それは地面に落ち、馬車の車輪に踏まれた枝のように無様で頼りなく、冬華の隊長という華々しい役職を持つデュフォスにとって、自尊心を自傷するほどの不格好さである。
誰に嗤われたわけでもなく、デュフォスは羞恥心に怒りを感じ、
「お前のせいで――」
シュオウに氷結の刃を振り下ろした。
その直後、目の前に一条の閃光がほとばしる。
それは遥か遠くから放たれた晶気のようだった。突如として目の前まで迫り、咄嗟に頭を逸らしたデュフォスの左耳を根元から抉り、地面に深々と穴を穿つ。
「ああああッ?!」
突然の一撃に襲われ、片耳を完全に喪失し、焼けるような痛みと衝撃でデュフォスはその場に膝を落とした。不意打ちをくらった恐怖心に我を忘れそうになりながらも、無意識のなかで自らの白陣を維持し続ける。
倒れた姿勢のまま、必至に視線を巡らせても、攻撃を仕掛けてきた者の姿は見当たらない。それが、逆にデュフォスに圧倒的な恐怖心を与えた。
「くぅ――」
這うように身を低く屈め、陣のなかで伏すように膝を下ろしていた馬に跨がり、縛から解放して急速に走らせる。
背後を撃たれる恐怖に怯えながら直線を駆け抜け、
「そこをどけえ!」
前方に集うボウバイトの兵士たちに強く叫んだ。
状況が整理できないまま戸惑う兵士たちは、デュフォスの勢いに気圧されたように道を空け、デュフォスは大群を割くようにその奥へと駆け込む。
仕留め損ねた裏切り者たちをその場に残し、デュフォスは一心不乱にこの場からの撤退を選択した。
*
デュフォスの姿が消えたのと同時に、足元に広がっていた白い紋様が消失する。直後に全身に軽さを感じて、シュオウは折っていた膝を伸ばし、立ち上がった。
横たわる複数体の亡骸を一瞥し、その視線を仲間たちへ移す。
「大丈夫か?」
ロ・シェンとビ・キョウはぎこちなく立ち上がり、体の状態を確かめて、シュオウからの問いに同時に頷く。
エゥーデは抱き起こそうとするアーカイドの手をはね除け、
「大人しく捕まっていれば命までとるつもりはなかったものを。もう少し打算的な男だと思っていたが、悪あがきをしてくれる……」
主を人質としてとられていた状況が解消し、ボウバイト軍の前衛が駆けつけてくる。
「お婆さまッ」
ディカが声をあげ、馬を下りてエゥーデに駆け寄った。
エゥーデは頷き、
「大事ない」
アーカイドが深刻な顔で、
「逃亡したデュフォス卿をどうなさいますか」
エゥーデに問う。
「公国の内外に強い影響力を持つ男だ、放置するのが得策とは思えん。が、決定を下すのは私ではない」
言いながら、エゥーデはシュオウに視線を投げる。
シュオウが口を開こうとしたその時、
「ワァガァキミィ――」
後方から大声をあげ、両手をぶんぶんと振り回すクロムが駆け寄ってきた。
先ほど、デュフォスを退かせた一撃の出所に大方予想がついていたシュオウは、特に驚くことなくクロムを出迎えた。
「我が君に拝謁いたしますッ」
薄汚れた格好をしたクロムは、破顔しながら挨拶を述べ、深々と頭を下げる。
「さっきは助かった」
クロムは嬉しそうにシュオウを見上げ、
「あれしきのこと造作もありません。逃げた小鳥を追って高所に昇り周囲を観察していたところ、我が君を狙う愚かな敵の姿を見つけ、手を出したしだい。しかし、あの巨大な白陣の上を我が風の矢が通過した際、その動きがありえないほど鈍くなり、奴を仕留め損ねました。どうかお許しを」
頭を何度も下げるクロムを見ながら、シュオウはデュフォスが逃げた方向を見つめ、
「逃げた奴を追跡しろ」
クロムは途端に鋭く目を光らせ、
「はッ、手段はどのように……?」
「可能なら捕縛しろ――」
シュオウはその視線を無抵抗に殺された輝士たちの亡骸を見て、
「――無理なら、手段は問わない」
クロムは口角を上げて奥歯をぎらつかせ、
「仰せのままにッ」
シュオウはエゥーデを見やり、
「クロムに支援を付けたい、足の速い兵を借りられるか」
エゥーデは即座に頷き、指示を送って数人の騎兵を用意させた。
クロムは用意された馬に跨がり、シュオウに一礼して全速力で馬を走らせる。
風のように去って行ったクロムを見送り、シュオウは命令を待つ下っ端の軍人のように屹立するエゥーデを見た。
今もなお、市街地はデュフォスの残した兵士たちが武器を手に行き交い、ロ・シェンの部下である武人たちと交戦している。
シュオウは胸を張り、
「周辺の住民たちをすべて保護する。抵抗する者たちは敵とみなしていい。都内のすべてを巡り、全域を制圧するぞ、指揮は直接俺が執る」
本来、不可能なほど大規模な作戦も、ボウバイト軍の兵力があれば可能となる。
エゥーデは難しい顔でひとつ間を置き、
「……意に従おう」
これまでの態度からは信じられないほど従順に承諾を告げた。
矢継ぎ早に、エゥーデからアーカイドへ、アーカイドから各隊の隊長たちへと、命令が伝えられていく。
小隊ごとに整えられた兵士たちが前進を開始するなか、シュオウは馬に乗り直したエゥーデに向け問いかけた。
「どうしてだ?」
長く語らずとも、その意味は伝わる。
エゥーデは返事を濁し、
「……あとにしろ」
そう言って、視線を逸らした。
そのすぐ側で、蒼白となった顔を沈めるディカの姿がある。シュオウは彼女に向け、
「手伝ってほしいことがある」
その真意を即座に理解した様子で、ディカはびくりと肩を震わせた後、許可を求めるようにエゥーデを見た。
エゥーデは、
「こっちの手は足りている」
そう言い残し、アーカイドを伴って前進する兵士たちの後に続く。
許可を得ながら、ディカはその場に留まりつつ、シュオウと視線を合わせようとはしなかった。
そのときビ・キョウが、
「この男はどうする? 状況を察するに、この場においての英雄的行為をした者であると推察するが」
倒れ伏した一人の人物の前にしゃがみ込んで、そう聞いた。
倒れているのはセレスである。ぱっと見には呼吸で体が揺れることもなく、まるで冷たい石のように微動だにしていない。
シュオウはセレスを見やり、
「生きているのか?」
ビ・キョウはセレスの首に手を当て、
「生きてはいる、まだな――処置をするのなら、急がねば危なそうだ」
シュオウは倒れたセレスをじっと見つめる。目の下の皮膚を黒くしながら、全身は傷だらけで、腕もおかしな方向に折れ曲がっている。そんな有様でありながら、記憶のなかの同人物とはまるで一致しないほど、その顔は穏やかで安らぎに満ちていた。
「回収して、治療する……危険な奴だ、拘束して石も封じる、油断するな」
そう指示を伝えた。
向き直り、まるで叱られる前の子どものように直立するディカに、
「聞きたいことがある」
ディカはようやく視線を合わせ、
「はい……あなたがお望みであれば、私はすべてお答えいたします」
怯えた様子で頷き、厳かに一礼をした。
*
ターフェスタ中央都を目前に控えた暗い森のなか、百刃門の武人たちが後ろ手を縛られ、一箇所に固め置かれていた。
その集団は一門の幹部ジ・ホクを中心として、ロ・シェンの意に背く一部の少数者たちである。
ジ・ホクは縛られた腕を揺らし、
「おい、はやくしろッ、奴らがいつ戻ってくるかわからねえんだ」
脱走を試みる者の一人は他の者たちの手をかり、指の関節を強引にはずした。苦悶の表情を浮かべながら、きつく縛り付けられている縄から手をはずし、地面に落ちていた尖った石を当てて縄に切れ目を入れる。
縄にしっかりと切り傷を付けたところで、全員が別々の方向に力をかけ、縄を無理矢理に引き千切った。
指関節をはずした男が直後にうずくまり、二度と元のようには使えないであろう手を持ち上げてすすり泣いた。
ジ・ホクは、
「泣くな! 仇は取ってやる、あの裏切り者どもを殺す前に、奴らの腕の骨を粉々に砕いてやるんだッ」
威勢良く復讐を口にするジ・ホクに、しかし回りの者達は冷ややかな視線を送っていた。
「ホク……もういいだろう。大師範に逆らった者は処されるのが掟だ。我らはこの機に乗じて逃げるべきだ」
ジ・ホクは歯を剥き出し、
「もういいだと? なにもよくねえ、裏切り者は奴らのほうだ! 敵にのうのうと頭を下げた男が一門の大師範なわけがねえ。やつらを皆殺しにして一門の誇りを取り戻すんだ」
他の者たちは一様に冷めた表情で目を合わせ、
「その腕で……か?」
雑な治療がほどこされたジ・ホクの両腕は、シガという名の南方人の傭兵によって、再起不能な大怪我を負わされていた。
ジ・ホクは顔に憤怒を浮かべ、
「腕が使えなくても足がある! 口もあるし、頭もある。どんな手を使ってでも一門の誇りを取り戻す。ごちゃごちゃ言ってねえでお前らも手を貸せッ」
武人たちの気持ちは暗い表情と、後ずさりする足に表れていた。
「お前ら……ッ」
ジ・ホクの怒りの表情に、明らかな敵意が宿る。
「……我らはわざわざ自死するために火の中に飛び込むつもりはない。命を捨てたいなら一人で勝手にやってくれ。強制するつもりなら、我ら全員でお前を潰す」
「お前らも裏切り者かッ」
まともに使う事ができない両腕をだらりと下げ、ジ・ホクが足を広げて戦闘の構えをとった。
武人たちは一斉に徒手を構え、
「手負いの昔馴染みであろうと容赦はしない――」
明らかな不利を悟り、ジ・ホクは肩の力を抜き、渋々と構えを解いた。
「……逃げたいなら好きにしろよ。ただ、お前たちも一門に背を向けた裏切り者だ、次に見かけたら必ず殺してやる、覚えとけ」
ジ・ホクは苦々しく言い残し、山中の上層へ向けて進み、林立すぐ木々の間に姿を消した。
「いいのか、一人で行かせて……」
「放っておけ、因縁に巻き込まれれば身を滅ぼすことになる」
残された武人たちはジ・ホクが向かったのとは逆方向、山の麓に向けて、痕跡を消しながら下り始めた。
坂道の途中、せり出した地形を飛び越えて着地した途端、一行は湿った地面に足を取られた。
その時、近くから激しく地面を叩く馬の蹄の音が聞こえてくる。
武人たちは誰からともなく口を閉ざし、柔らかい地面にべたりと体を押しつけて低く身を屈めた。
馬の足音は徐々に近づき、
「姿はなし――だがこの近くで痕跡が途切れている」
その声の主は鼻を強く鳴らし、
「一度はこの目で捉え矢を射ていながら取り逃がしたとあっては、我が君に申し訳がたたない。一帯を捜索しろ、手傷は負わせてある、血が落ちていないか地面をくまなく観察するのだ!」
言った者を乗せた馬の足音が遠ざかっていく。だが、その場にはまだ数人の気配が残されていた。
「なんであのおかしな奴に命令されなければならない……」
「気にするな、従っているふりをしておけばいい」
「デュフォス卿の捜索はどうする?」
「雲上のいざこざに下手に関わって、冬華に顔を覚えられても面倒なだけだろう。下手に見つけないほうが我が身のためというものだ」
「おい、そこの木の根に血がッ」
「……あの変人が気づく前に隠せ」
ごそごそと音が聞こえ、やがて集団は馬に乗り、この場を去って行く。
息を殺して潜んでいた武人たちは泥まみれになった顔を上げ、思いきり息を吸い込んだ。
「我らを追っていたのではないな?」
一人が言うと他の者たちが頷き、
「話しぶりからして、高貴な身の上の逃亡者がいるらしい。上ではいったいなにが起こっている……?」
そのうち、一人が地面に目を配らせ、
「おい、微かだが、血痕が――」
自然、その跡を目で追った武人たちは息を飲む。
柔らかく黒い土をかぶり、地面に一体化するように横たわる片耳を欠いた人間の顔が在る。
血走った目が瞬きを繰り返し、怯えた様子で揺れる様から、死者ではないことは明らかだが、突然の遭遇に驚いたまま、一行は謎の人物と顔を合わせたまま硬直していた。
武人の一人が、
「……こいつは」
その時、盛り上がった黒い土の中から血が滴る手が伸び、武人の一人の足首を掴んだ。
その絵面の強烈さから武人は小さく悲鳴を上げ、
「ひ――」
掴まれていた手に握られたまま、倒れるように後ずさりする。
その勢いに引きずられるように、身を隠していた人物の上半身が露わになった。
その人物は痩せこけた一人の男だった。酷く汚れているが、見るからに高価な軍服を身に纏い、左手には泥まみれの彩石が見える。
状況と様相から、誰が言わずとも、さきほどの集団が追っていた者であることは一目瞭然である。
武人たちは男の彩石を睨みつつ、腰を落として距離を取り、
「我らも事情ある身分なのだ、そっちの事に首を突っ込むつもりはない――」
万が一にも戦いになることを想定しつつも、穏便にすませられるようにと距離を開けていく。
しかし、
「ま、て――」
男は絶え絶えの息で、
「――私を、保護、しろ」
震えながら上げた右腕は、一部が欠損し、酷い重傷を負っていた。
武人たちは誰からともなく足を止め、
「いや、だから、首を突っ込む気はないと言って――」
男は顔を上げて歯を食いしばり、
「私を、ここから連れ出せ、そうすれば、欲しい物は、なんでもくれてやる……ッ」
今にも死にそうな男の言葉には一定の説得力があった。その高貴な身なり、そして追跡者たちが語っていた内容からして、彼が本来、相当な高位の立場に就く者であることが窺える。
先の見えない逃亡生活が待ち受けている現状、この男の言った報酬は、無視できない響きを持っていた。
武人たちは集団の意志を確かめあうように顔を見合わせ、全員が同時に頷いた。
武人の一人が男を見やり、
「どこへ行けばいい?」
男は泥まみれの顔を上げ、
「私の名はウィゼ・デュフォス……私を、バリウム領へ連れて行け、そこにはこの国の……ターフェスタの……太子殿下が……私を……そこへ……銀星石、の庇護を――」
その言葉は途切れ途切れに伝えられ、言い終えるより早く、男は気を失った。
武人たちはデュフォスと名乗ったその男を抱え上げ、その場に残る痕跡をすべて消し、周囲を伺いつつ深い森のなかに姿を消した。