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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
銀星石攻略編
178/184

流転 5

流転 5






 自らの意志を持たずに行動を起こす集団は質が悪い。善し悪しの区別なく、ただ一人の意志決定に依って起こされる行動は多くの欠陥が付きまとう。


 デュフォスの命令を受けて行動する兵士たちに、個人の意志が僅かにでも残されていれば、目の前にいて、武器ともいえないような瓦礫やぼろ道具を握る民衆が、いかに脆弱であり怯えているのかがわかったはずだ。


 だが、彼らは止まらない。ただ一人止めに入ったセレスを邪魔者のように避けながら、一心不乱に上官の命令をまっとうしようと武器を掲げて猛進している。


 セレスの網膜に映るのは無数の敵、彼らは一つの意志に統一されて機能する武力であり、その有り様はまるで知性を持たない虫の群れのようだった。


 ――やらせない。


 雷光のように鋭く、風を駆使して速攻を仕掛ける。


 相手は彩石を持たない兵士である。その背中を捉え晶気を振るう瞬間に、もはや加減をしていられるほどの余裕はない。


 一人を難なく切り伏せ、側にいた馬上の輝士に狙いを定める。輝士が狙われたことを察知した直後、その体はセレスの創出した風の大鎌に突き刺さり、ずるりと地面に倒れ落ちる。


 三人編成の輝士隊がセレスを指差した。精鋭と思しき彼らは狙いを絞り、連携するように隊形を整える。先頭の男が攻撃を指示しようと口を開けた直後、その胸をセレスの大鎌が貫いた。


 圧倒的な力量差を目の当たりにして、残りの二人が逃げ出していく。


 乱れた呼吸に肩を揺らしながら、セレスは一帯を俯瞰する。すでに前線に到達した兵士や一部の輝士たちが、民衆たちに向けて武力を行使し始めていた。


 セレスは歯を食いしばり、

「やめてくれッ――」

 前線に向けて踏み出そうとした直後、突如全身に重さを感じ、その場に膝を落とす。


 手元にあった大鎌は跡形もなく消え、全身に纏わせた晶気の風は散り散りに離散する。


「く……ッ」


 制御不能なほど呼吸が乱れ、腹の奥からこみ上げてくるものに抗えず、セレスは嘔吐きながら胸を押さえた。


 手の震えが治まらず、全身の節々が絞られているように痛みを訴えている。


 それは力を行使し続けていることによる消耗だった。今まで経験したこともないほど長く、そして強力な力を行使しているセレスは、


「こんなに……苦しいものなのか……」


 自らも知ることがなかった、力を振るうことのできる限界が近づいていることを、身を持って思い知る。


 だが、絶えず一帯に響き渡る人々の悲鳴が、セレスの足に再び力を取り戻させた。


 セレスは震える足に活を入れるように叩き付け、

「まだだッ」


 立ち上がったその手には、再び暴風を一点に凝縮する、風の大鎌が握られていた。




     *




 一瞬のうちに姿を消し、その次の瞬間には別の場所へ現れ、人体を砂のように突き通す、切れ味鋭い大鎌を振るう。


「ばけもんじゃねえか……」


 人間離れした強さを誇る輝士という存在を、さらに上回る力で圧倒する個人を前にして、ボ・ゴは死の領域に踏み込む直前で踏みとどまった。


 まるで色をつけたように、青白く発光する風の流れがはっきりと視認できる。セレスという男は晶気の風を鎧のように身に纏い、人智を超えた速さで技を振るう。標的にされた者は一瞬で斬り伏せられ、あるいは全身を高々と吹き飛ばされる。


 目の前で繰り広げられる一方的な戦いに、ボ・ゴは寒さを堪えるように肩を震わせた。


 ボ・ゴの背後から、勢いよく団員たちが通り抜けていく。知ってか知らずか、この先にばけもの染みた晶気の使い手がいたとしても、戦闘を生業とする彼らは、考えもせずに直進を続ける。


 一人残った補佐役の男が、

「団長……行かせちまっていいんですか」


「行かせろ、これ以上遅らせると後ろのおっかねえのに目を付けられる――」


 ボ・ゴは集団を成して、今まさにこちらに向かってくるデュフォスを見やる。


「――前にはばけもんみたいに強い奴がいて、後ろは後ろで怖えのが睨みを効かせてる。くそめんどくせえ仕事を引き受けちまったな」


 結果として、一国が大きな動乱に見舞われる時期に身を投じてしまったのは、簡単で美味しい依頼を引き受けたつもりでいたボ・ゴにとっては大きな計算違いだった。


 先に突撃を仕掛けた兵士や輝士たちは、すでに群れる民衆たちのもとへ到達している。抵抗する領民たちと、制圧のために力を振るう兵士たちを前にして、ボ・ゴは頭のなかで素早く計算をはじき出した。


「うまい仕事だと思ったが、とんでもねえ。はした金で強者の餌にされるのはごめんだ、適当なところで逃げるぞ」


 補佐役の男は眉根を下げ、

「ですが、契約があるんじゃあ」


 ボ・ゴは馬上の輝士を一瞬で斬り伏せたセレスを見やり、


「あんなのの相手をさせられるなんて聞いちゃいなかったんだよ。ここらで仕事ができなくなっても、無駄死にするよりゃましだ。適当にやってるふりをして、頃合いを見て撤退だ。ついでに取れるもんは取っていく、消耗するだけして手ぶらで帰るなんざごめんだからな」


 前方で暴れるセレス、そして後方から迫り来るデュフォスを交互に見つめた後、ボ・ゴは慎重に死の領域へ至る一歩を踏み出した。


「笛を吹けッ」


 ボ・ゴから指示を受け、補佐役の男が首から提げた小型の角笛に口を当てる。胸に息を溜め、一気に吐き出したそこから、キィンと強い高音が鳴らされた。


 その笛の音色は声や指示の通らない戦場で使われる意志伝達の手段である。予め定めておいた音の鳴らし方から、素早くボ・ゴの指令が一帯に散らばった団員たちへ伝達されていく。


 ボ・ゴの出した指令は”略奪と撤退”その指示を汲みとった団員たちは、戦士の顔を捨て、がめつく利益を追求する死肉漁りのそれになる。


 比較的頭の悪い者たちを切り離し、傭兵団の戦士としては使える者たちを集めていたことが幸いし、ボ・ゴの意志は的確に団員たちへと伝わった。


 団員たちは適当に戦いに参加しながら、制圧という目的を捨てて、奥へとじわりと入り込み、近くの商店や人々から価値のありそうな物品を強奪していく。


 ふらふらと四方を駆け回る輝士たちがいい囮となり、セレスの注意は団員たちにまで間に合ってはいない。


「よしいいぞ、うまく入り込んだ――」


 思い描いた展開になっていることに安堵しつつ、ボ・ゴは団員たちに続いて前線の奥深くへと侵入する。


 そこには武器を持ちながらも、普段は戦いなど縁がない者たちばかりだ。強面のボ・ゴが武器を振り回せば、民衆は怯えて道を空ける。


 すでに深くへ入り込んだ団員たちは、慣れた様子で厚手の袋を広げ、そこに集めた金目の物を次々と乗せていく。


 ボ・ゴは周囲の建物を眺め、価値のある物が置かれているようなところはないかと視線を巡らせた。


 そうしていると、

「あん?」


 民衆のなかに混じる一人の少女が、その手の中に価値がありそうな装身具を握っているのが見えた。


 唇を舐めながら、ボ・ゴはにたりと笑みを浮かべる。


 少女に向けじわりと距離を詰めると、周囲にいた大人たちが、武器を構えつつ後ずさった。彼らと一緒に距離をとろうとした少女に向けて、ボ・ゴはその行く手を遮るように棍棒を突き出す。


「いいものを持ってるなお嬢ちゃん、どこで拾ったんだ?」


 少女は震えながら首を振る。

「ち、ちが――」


 ボ・ゴは濁った色の舌を晒し、

「そいつをおじちゃんにくれねえか? くそ仕事を引き受けちまってな、このままじゃ大赤字もいいとこなんだが、多少の報酬は自分たちで集めたってばちはあたらねえくらいは働いてんだ。お嬢ちゃんの持ってるそれもありゃあ、ちったあ懐が温まって助かるんだがなぁ」


 少女は涙を浮かべながら首を振り、

「これは、だめ……おかあさんの……」

 手にしていたものを隠すようにしゃがみ込んだ。


 素直に渡そうとしないその態度に苛立ち、

「めんどくせえ――」

 ボ・ゴは舌打ちをして棍棒を高く振り上げるが、

「――なッ?!」


 何者かに上げた手が後ろへ弾かれ、軸足が強く払われる。体の両端が同時に流された結果、ボ・ゴはその場でひっくり返り、強く背中を打ち付けた。


「ぐあッ?!」


 不意に地面に落とされ、強い痛みを感じながら、ボ・ゴは怒りに歯を剥いた。


「誰だァッ?!」


 体を起こした先には一人の男が立っていた。


 銀髪に大きな黒眼帯をしたその男の隻眼から放たれる強い眼光に、ボ・ゴは一瞬怒りを忘れ、上半身を仰け反らせるようにして喉を詰まらせる。


 眼帯男はボ・ゴを睨みつけたまま、

「制圧しろ」

 短くそう声を出した。


「承知――」


 褐色肌の女が姿を現し、その手を高く振り上げる。直後、同じく褐色肌をした武人たちがぞろぞろと姿を現し、一帯で暴れていた団員たちに襲いかかった。


 周囲にいた仲間たちから、次々と悲鳴が立ち上る。


「団長ッ!!」


 駆け寄ってくる補佐役の男が叫んだ直後、その顔面に女の武人が強烈な一撃を叩き込む。男はボ・ゴの目の前で倒れ、気を失った。


 ボ・ゴは突如現れた者たちの身体的特徴を見て、

「南山の奴らか?!」

 上擦った声をあげた。


 歴戦の傭兵たちを相手に、南方人の武人集団が武力で圧倒していく。


 ボ・ゴを引き倒した眼帯の男が、

「抵抗するか?」

 と、短く言い放つ。


 若く、手の甲に彩石はない。しかし、その立ち居振る舞いからは、非凡かつ、強者が放つ有無を言わせない独特な存在感を溢れさせていた。


 生唾を飲み下し、

「お、俺は……」


 長年の経験から、ボ・ゴは素早く武器を捨て、真横に倒れていた補佐役の男の首から角笛を抜き取り、降伏を告げる高音を吹き鳴らした。




     *




 多数の人間と関わるとき、人は思い通りに動かず、常にその運用は理想とはほど遠い。


 デュフォスにとって最も信頼できるものは自分であり、これまでも常にそうだった。


 セレス・サガン、そのたった一人の存在によって、暴徒の制圧作業は目も当てられないほど遅々として進まない。


 これが劇の一幕であれば、ここは最大の見せ場であり、華々しい命令によって、国の基礎を揺るがす愚者の群れを劇的に粛正するところである。


 だが、


「馬鹿どもめ――」


 大勢の兵士たち、それに精鋭である輝士たちが、ただ一人の男を相手に苦戦を強いられている。


 ある者は戦いを挑んで討ち死にし、ある者はあからさまに戦いを避けていた。


 セレスは一人であるが故に、そして民衆を守るような動きをみせていることもあり、その手は明らかに足りていない。だが、狙われれば確実に敗北を喫するデュフォスの部下たちは、着実にその数を減らしていた。


 もはや人任せにもできず、放置もできない。それがただ一人のせいであるという屈辱的な理由を飲み込み、デュフォスは自らの手で決着を付けるために馬を進める。


「デュフォスさま、危険です。あの男の力は――」

 随行する輝士たちが怯えを声に滲ませる。


 デュフォスはしかし、冷静にセレスの戦い方を分析していた。


 風を操る力を根源として、それを強力な威力を持つ幻想の武器として行使し、さらに風力を巧みに利用して、自身の動きを極限にまで早めている。一個ずつを分けてみれば極単純な能力ではあるが、その一つずつが、あまりに洗練されすぎているのだ。


 だが、人が人である以上、なにごとにも欠陥は存在し、完璧であることは常にない。


 セレスの動きは目で追えないほどの高速だ。一瞬で間合いを詰め、狙われた者は回避や防御の余地なく敗北を喫する。だが、その動きはあくまでも直線上でのみ発揮されている。それは明らかな能力行使の定型であり、明確な弱点を露呈していた。


 デュフォスは胸を張って、

「見つけたぞ――」

 距離を縮めつつ、セレスを強烈に睨めつけた。




     *




 大鎌で輝士を斬り、その体を二つに分けて落馬させる。


 圧倒的な力を見せつけ、対峙する一部の者たちが、はっきりと恐れを成して後退し始めた。


 戦意を失った者たちを視界の外へやり、セレスは民衆たちに攻撃を仕掛けている他の者たちに意識を移す。そのなかには一部、異国の傭兵たちも混ざり始め、場はさらに混沌の度合いを深めていた。


 次の標的を定め攻撃を仕掛けようとしたセレスは、

「ぐ……」

 胸を押さえて、落ちそうになる足腰を寸前で踏みとどまる。


 直後に咳き込み、赤みの混じった唾液を手の甲で拭い取った。


 すぐにでも倒れ込んでしまいたいほどの疲労を感じる。しかし目の前で繰り広げられているのは惨劇への入口である。これを見過ごせば、その先に待ち受けるのは、人々の凄惨な死である。


 ――だめだ、そんなの。


 震える足も、手も、まだ動かすことができる。燃え尽きることを選択したセレスの心中に、諦めの言葉は浮かばない。だが、


「……ッ?!」


 背後から突如、水の晶気に狙われた。


 反射的に自らを風で引き飛ばし、その反動で硬い地面の上を転げ回る。


 激しい痛みに身を震わせながら顔を上げると、戦意を失って逃げていたはずの輝士や兵士たちが足を止め、再び前へと向き直っていた。そのすぐ側には、ウィゼ・デュフォスの姿がある。


 デュフォスは部下たちを冷たく睥睨し、

「私の許可なく後退は許さん。進めッ、賊を一人残らず討伐せよ!」


 高らかに下された号令のもと、戦意を失っていた者たちが、再びその目に力を宿した。


 彼らの目指す先にあるのは力なく戦いに挑む人々。すぐに止めに入るべき状況ながら、セレスはしかしその目をデュフォスに釘付けにする。


 現状、一人ではまるで手が足りていない。状況を好転させるために、命令を下している指揮官を叩くのは、戦場においてもっとも効率的で確実な方法である。


 地面に刻まれた石畳の溝を数え、セレスは密かに口内に舌を這わせた。


 ――届く。


 デュフォスはセレスの射程圏内に身を置いている。そこは全力を出して大鎌の刃を当てることができる必殺の間合いである。


 崩れかけていた体勢を整え、再び風の大鎌を構築する。


 輝士たちを従え、馬上から悠然と戦場を眺めるデュフォスを凝視すると、その視線が火花を散らすように交錯した。


 身を低く落とし、標的に向け、風を掴んで走り出した。


 高速で疾駆する最中、その景色は激しく変化を繰り返す。まるで濁流に飲まれたかのように、目に映るすべてが曖昧になったその世界で、セレスはふと違和感を覚えた。


 デュフォスを狙って駆けだした途中に、まるでそれを出迎えるように左右に輝士たちが展開していた。


 刹那、セレスは眼前に迫る晶気の発光を察知する。思考するよりも早く、体は回避行動を選択していた。


 それはセレスが通る間合いを読み、張り巡らされた罠だった。その進路に縄を張るようにして、殺傷力を持つ晶気が設置されていたのだ。


 体を仰け反らせ、不自然な体勢で罠を回避する。無理な動きをした結果、セレスの体は自ら起こした風を踏み外し、地面の上にその身を強く叩き付けていた。


 視界は回転を続け、ようやくそれがとまった時、横たわる地面に、白い紋様が浮かび上がる。


「持って生まれた力がどれほど強くとも、頭が悪ければ意味がないな。自分を勝者の側と信じて疑わない馬鹿を仕留めることほど簡単なこともない……拍子抜けだ」


 馬上からセレスを見下ろし、デュフォスが冷たく見下すように呟いた。


 ――また、これか。


 全身が凍えるように冷気に包まれ、手足の力が抜けていく。これはデュフォスの晶気の力であり、心と体を支配する凍結の牢獄だ。


 絶えまなく耳に馬の足音が響き、輝士たちが距離を詰めてくる気配が伝わってくる。


 デュフォスは冷めた目でセレスを一瞥し、

「いい加減目障りだ、始末しろ――」

 言い捨てるように処刑を宣告した。


 一人の輝士が長剣を手にしたまま、晶気を手中に展開し、殺傷力を高めていく。


 次に起こることを予期して、他の輝士たちが外套を広げてデュフォスの前に壁を作った。飛び散る血肉で主が汚れないようにする育ちの良い貴族らしい配慮をおかしく思いながら、セレスは満身創痍となったうえ、自由を奪われた体を持て余し、ただぼんやりと目の前にある光景を眺めていた。


 ――痛いな。


 もはやどこが痛いのかもわからないほど、全身に怪我を負っている。だが、そのことすらもはやどうでもいいことだった。


 デュフォスの扱う、この白陣の晶気は心を冷たく凍らせる。抵抗の意志も消え、理由も思い出せず、あらゆる感情が端からゆっくりと凍り付いていく。


 閉ざされていく感情と意志――しかし世界はその動きを絶えず、鼓動を続ける。


 横向きに見る景色のなか、その先に恐怖し、叫ぶ人々の姿が映る。そのなかに、いまにも襲いかかられようとしている、少女を連れた母親の姿が見えた。


 子どもを抱え、自らの体を盾にするように覆い被さる。その姿を見ていると、不鮮明な意識が、また醜い記憶を引きずり出すように混濁していく。


 か弱い親子を狙う者の顔に自分と同じ顔を見る。


 ――やめろッ。


 意味のない行為に明け暮れていた日々と後悔、かつての自分を怒鳴りつけ、セレスはまた、全身に風を巡らせていた。


 デュフォスは慌てて、

「こいつまたか?! 早くやれッ、殺せッ」


 輝士の武器が体を貫く直前、セレスは風を起こし、全身を陣の外へ押し出した。周囲を囲む輝士たちに狙われる前に、力を振り絞って人々のいるほうへ駆け上がる。


 体躯の良い傭兵の男が笑みを浮かべながら、子連れの母親に武器を振り下ろす直前、セレスは武器も構えず、傭兵に体を衝突させた。


 傭兵は醜く悲鳴を残し、その体を樹木に打ち付け、その場にぐったりと倒れ伏す。


 セレスは両手足を地面に落とし、呆然として固まる母親と目を合わせ、

「早く――」

 かすれた声で、逃げるようにと目線で促した。


 引きつった顔の母親が、少女を抱えて走り去って行くのを見送り、セレスはぐったりと地面に横たわる。


 その時、


 ――あ。


 まるで糸が切れたように全身の力が抜け、セレスはぐしゃりと横たわった。視線を流して地面を見ても、そこにデュフォスの白陣は見当たらない。


 セレスは現状を鑑み、

「はは……」

 渇いた笑声を喉から絞った。


 ――終わったんだ。


 視界はぼやけ、全身に力が入らない。それが力を使い切ったせいなのか、体に致命傷を負ったせいなのかはわからないが、いずれにせよ、戦う力を失ったことに、違いはない。


 間もなく、誰かが命を奪いに現れるだろう。思った通りに死を迎えることになったこの時、セレスの心は言い知れぬ満足感に満たされていた。


 他人を守るため、出せるかぎりの力を振り絞り、できる限りのことをやった。


 ――これで、僕も。


 仰向けに天を見上げる。そこにいるかもしれない神への祈りは浮かばず、ただ流れる雲をじっと見つめた。


 薄暗く、夜へと向かう空は絶えず変化を続けていく。空を流れる雲は消え、太陽が昇り、風が吹いて、また別の雲が空を覆う。世界は流転し、人もまた絶えず変化を続けている。


 囚われの身になる前の自分が、こんな生き方を選択するとは考えることすらしなかった。


 誰かのために命を使い、誰かを守って死んでいく。自己満足な正義であっても、自らを慰めるために無抵抗の女たちを殺す蛮行よりは、遥かにましな心地がする。


 視界は徐々にぼやけていき、朦朧とする意識のなかで、セレスは天に向けて震える手を差し伸べた。


「お許しを……」


 なにに対して、だれに対してでもなく、ただその言葉を呟いた。


 その時、ふとあるはずのない返事が返ってきた。


『なんで許されたい?』


 遠くに聞こえるその声に問われ、


「……楽に、なりたい」

 セレスは空を見上げたまま、小声で呟いた。


『ここでなにをしてた?』


 声はまた、セレスに問いかける。


「戦って、いた……」


『なんのために?』


「誰かのために……誰かの父や息子、母や娘、祖父や祖母……誰かにとってのかけがいのない存在を、守るために……僕は……」


『なら、なんで寝てるんだ』


 その声はやたらに無神経で、突き放したように言い放つ。


 死の間際に聞く幻聴にしては、妙にさばさばとした言いように、セレスは頬を緩めて息を吐いた。


「もう、出し尽くした。生まれて初めて、本気の本気をすべて絞りきった。これでやっと、よくやったと少しは自分を認める気持ちにもなれる。もうこのまま眠って、二度と目が覚めなくても、もう――」


 だが、その声はまた、

『本当に最後までやったのか?』


「……え?」


 見上げる空の景色のなかに、人の顔が現れる。鋭い眼光に眼帯を付けたその顔が、落ちかけていた意識を強烈に呼び覚ました。


 それは正面から勝負をして敗北を喫した初めての相手。セレスの犯していた凶行を止め、進んでいた道に立ち塞がり、運命を変えた、シュオウという名の、あの男だった。


 最後に見たときと変わらぬ隻眼でじっくりと睨まれながら、シュオウはゆっくりと手を伸ばす。天に向けてあげていた手を通り過ぎ、その手はセレスの胸ぐらを強烈に掴みあげ、力強く上半身を引き起こした。


 ぐったりとその力に身を預けながら、

「なんで……?」


 シュオウは見開いた眼でセレスを睨み、

「手を出したなら、最後までやれ」

 そう強く、言葉を投げた。











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― 新着の感想 ―
ボ・ゴは中々にしぶといがまぁ後々処刑か?百刃門みたいに高い武力が有る訳でも無さそうだし使い道がなぁ。 シュオウ来たー!そして厳しいお言葉w。この感じだとセレスは死ななそうだが、レイネの側で人助けして…
面白かったです ボゴはまあ、死刑かな。 デュフォスは逃げなければおしまいだけど向かってきてほしいですね。 セレスの活躍がよかったです。
しばらく読めていなくてここ70話位を一気に読んだけどあんたやっぱすげえよ、面白いこの一言に尽きる
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