流転 4
流転 4
衣服を捨て、道ばたで拾った粗末なぼろ切れを羽織りながら、ユーカは片足を引きずって荒廃した市街地を歩いていた。
下街を訪れてからたいして時も経たないうちに、経験したこともないほどの傷を負っている。
クロムに先制の一撃を見舞ったあのとき、完全に不意をついたはずの一瞬の間に、ユーカはなんらかの反撃を受けていた。
それによって滞空姿勢は崩壊し、地面に落ちた衝撃で足を痛め、干渉を受けた風の晶気の反発によって体の各所を負傷する。
嫌われ者のカルセドニー家の落ちこぼれ、という評価はユーカのなかではすでに過去のものとなっていた。少なくとも晶気を操る、ということにおいてのみ、クロム・カルセドニーは一流のそれと比較してなんら遜色がない。
人体がまるごと消し飛ぶほどの力をぶつけられながら、あの一瞬に確かな反撃を行ったクロム。ユーカは必殺の一撃を繰り出しながら、その対象となった相手の死を見届けてはいなかった。
――早く。
全身、各所に感じる痛みを忘れるほど、焦る気持ちを抑えきれない。あの不気味な男がもし生きていれば、再びその追跡を受けることになる。
――逃げないと。
ここに至り、前へ進む動機は、もはやただの恐怖心でしかない。ユーカは上街へ通じるであろう覚えのある道を必死に探した。
前方に見えてきた市場が並ぶ大通りから、騒々しい気配が耳に届く。誰かがいる。その誰かが誰であるかも考えぬまま、ユーカはただ、救いと安心を求めて、無我夢中でそこに向かった。
必至に足を引きずり、崩れ落ちそうになるのを耐えながら奥へと進む。
「うう……」
痛みに加え、激しく力を消耗したことにより、歩みがさらに重みを増していく。
あと数十歩ほどのところで痛みに耐えかね、ユーカは膝から崩れ落ちた。
瓦礫や鋭利な破片がちらばる地面に顔から倒れ込みそうになった瞬間、上半身をやさしく受け止める手に抱き支えられる。
「ちょっと、あなた大丈夫なの?!」
救いの手を差し伸べてくれたのは、ひげ面の大男だった。がっしりと筋肉質な体付きをしていながら、その声音と眼差しからは、優しい母のような気配が感じられる。
ユーカは大男を見上げ、
「助けて……ください……」
声を振り絞り、助けを求めた。
*
震える体に暖かな毛布が掛けられる。
「いま温かい汁物を作ってるところなの、もう少し待っててちょうだいね」
優しげな口調の大男は熱い湯に浸して絞った布巾を手に、優しくユーカの汚れた顔を撫でるように拭いた。
毛布をぎゅっと引き寄せながら、ユーカは周囲を見回した。
広い通りの各所に大勢の人々が集められている。彼らは兵士や輝士たちに誘導され、通りの奥から途切れることなく、次々と連れて来られていた。
簡易に設置された天幕の下には横たわる怪我人や、弱った老人、不安げに身を寄せる子どもたちの姿もある。
彼らの世話をやき、食料を準備し、治療を行っている者たちのなかには、異国の軍服を着ている者たちまでが混じっていた。
「ここは……どういうところなのですか?」
ふと漏らしたユーカの言葉に、
「急ごしらえの避難所みたいなものね」
と、大男が答える。
大男は憂いを込めた瞳を揺らし、
「辛いことを聞いてしまうかもしれないけれど、あなたは一人なの?」
正直に身分を明かしてよい状況ではない――そう判断し、ユーカは無意識に毛布のなかで彩石を隠しながら、
「……はい」
と答えた。
大男は悲しげに溜息を吐き、
「そう……ごめんなさいね。たくさん辛かったでしょうけど大丈夫よ、これ以上悪くなることはないわ」
心からの同情心を窺わせる相手に細やかな罪悪感を抱きつつ、
「……なんで、ですか?」
ユーカは思ったことを問いかけた。
大男は悲しさを隠すように微笑を浮かべ、
「あなたたちには味方がいるから、とても強くてすごい人よ」
「それは、この避難所の設置を指示した人物でしょうか? 運用に関わっている者たちは混成されているように見受けられますが、彼らをまとめているのも、その人の意志によるものなのですか?」
見た目から感じられる年齢の雰囲気からはかけ離れた言葉使いに、大男は露骨に違和感を示す。
ユーカは客観的に自分という存在がどう見えているか、ということを忘れていたことを悔い、疑念から逃れるように顔を逸らした。
大男は、
「そう……シュオウっていうのよ、知ってる? ここの人たちは彼の名前をよく知ってるみたいなんだけど」
――シュオウ。
心の中でその名を呟くと、周囲から聞こえていたざわつきのなかに、同じ音が混じっていることに気づく。
「シュオウ――」
「シュオウ――」
「シュオウ様が――」
耳を澄ませるほど、聞こえてくるその音は、喧騒に混じる程度の音ではなく、この場の一帯を埋め尽くす、ほとんどの音を成していた。
ムラクモから輝士たちを引き連れて渡り、大公から直接准将にも相当する地位を受け、戦場の司令官として抜擢された異色の人物。
なにもかもが異例ずくめのその人物が、この国の最高権力者を拘束してまでやっていることが、この目の前の地味な光景なのかと、ユーカは目を見張らずにはいられない。
この場に送られてくる者たちは、おそらく上街に流入していた暴徒たちである。あれほど怒り狂って暴れていた者たちが、まるでそのことを忘れてしまったかのように、怒りを忘れて大人しく腰を落ち着けている。
ふと沸いた好奇心から、
「そのシュオウという人は、どんな人ですか?」
ユーカは大男に質問していた。
大男は屈託のない笑みを浮かべ、
「強い人よ。いつも誰かを助けようとしてるし、絶対に無理だっていうことがあってもなんとかしちゃうの。そのシュオウが、あなたたちを助けるって決めたんだから、なにも心配しなくていい、きっとなんとかなるわ」
大男の言いようからは、件の人物が非凡で高潔な精神の持ち主である、という感想が窺える。だが、大公に背いて頭ごなしに行う人助けは所詮一時の自己満足に終わる可能性が高い。
いたずらに希望を与えられた民が、この後にどのようなめにあうか、くたびれて親の腕に縋り付いて眠る幼子の顔を見ながら、ユーカは複雑な感情を抱いた。
「その人は、いま――」
ユーカが聞きかけたその時、大男のもとに湯気のあがる汁物が届けられた。
大男は両手でそれを受け取り、
「よかった、二回目の食事が用意できたみたい。はい、どうぞ。用意しないといけない人数が多すぎてあまり具を入れられていないけど、滋養のあるものからダシをとってるから、十分体は温まるわ――」
説明しながら汁物をユーカに渡そうとしたそのとき、石畳の歪みにつま先をぶつけ、倒れ込みそうになる。
ユーカは反射的に汁物に手を伸ばし、こぼれないよう両手でそれを受け取った。だが、
「あら……?」
大男の視線は、ユーカの左手にある彩石に釘付けになる。
「あなた――」
ユーカは急ぎつつも丁寧に汁物が入った器を地面に置き、
「ありがとう、ございました――」
毛布を外套のように羽織りながら、全力でその場から走り出した。
「待ってッ――」
呼び止める声に振り返ることなく、ユーカは高鳴る胸を押さえつつ、路地の隙間に逃げ込んだ。
大勢が逆流する人波からはずれ、ユーカは崩れかけた建物の合間を縫うように駆けていく。
短時間の間に染みついた追われる側の恐怖に急き立てられるように、強い痛みを伴う足を止めることなく動かし続けた。
黒く炭のようになった遺体に怯え、壁に背を付けて避けるように歩き、街を成していた建物の残骸に、人々の生活の名残を見つける度、ユーカは足を止めて現状をよく観察する。
次第に、自分自身に降りかかる不幸を嘆く心は鈍くなり、自然、この現状に見舞われた人々の苦しみが心の奥へと染みていく。
追われるような感覚は徐々に消えていき、自分を憐れむ感情はいつのまにか、他者への憐れみへとなっていた。
道なき道を歩き続け、多くの死や悲しみを超えた先に、文字通りの別世界である上街が一望できる地点へと到達し、人波に紛れるようにしてユーカは境界を飛び越えた。
遠くから聞こえてくる怒号、喧騒はそのままに、しかし辺りを見渡してみれば、下街の市場で見たのと同じように、民を誘導し避難させようと働いている者たちが目にとまる。
――私は、なにを。
暴徒と化した民に対しての対応を行っていたつもりでも、その手段は後手に回り、ほとんどなんの効果も出せないまま、ただ時間を浪費していただけだった。
視点を変えれば、上街に流入していた者たちの多くも、そうしたくてしていた者ばかりではないのだと、ここまでに見てきた光景が示している。
整然と、そして当たり前のこととして行われている避難誘導は、兵権を預かるユーカが速やかに行わなければならなかったことの一つでもある。
広場の先に伸びる道は城へと通じる。知りうる限り、その先の惨状も予想がつくが、デュフォスであれば、兵を送り込み流入した民衆を力尽くで制圧しようとするだろう。
荒涼とした風の匂いを受けながら、少しずつその怒りを治めつつある周囲の民衆たちを見つめ、ユーカは東西左右に通じる道を交互に見やる。
左方向には大公に次ぐ権能の持ち主、冬華六家の長ウィゼ・デュフォス。そして右側の道は、元々自分が居た場所、貴族たちの居住区へ通じている。
大きく違う二つの道を前に、何度も首を左右に振っていると、
「おい、大丈夫か?」
軽く見上げた程度では頭も見えないような大男に声を掛けられた。その男は南方人の特徴を持ち、左手には目立つ彩石が窺える。
ユーカは微かに身構えつつ、
「シュオウ、という人の配下のお方、でしょうか?」
自分が再び、平民の子どもらしからぬ態度をとってしまっていることを自覚しながらも、ユーカはぴんと胸を張り、まっすぐ男を見上げて聞いた。
男は目をぱちくりとさせながら膝を付き、
「まあ、似たようなもんだ」
恐ろしげな顔をしているが、声や口調からは不思議と品の良さが感じられる。
膝をつき、視線を合わせた男は、
「生きてると面倒なことばかり起こることがある。嫌なことがあったり、嫌な奴に会ったりな。だが、生きてりゃ少しはましなこともあったりする――こいつは拾いもんだが、どうすりゃいいかわからずに持ってたもんだが、預かっててくれるか」
男は静々と慰めのような言葉を語り、小さなクマの人形を取り出して差し出した。土埃に汚れているが、比較的造りの良いそれを渡そうとする仕草に、彼が傷ついた子どもを慰めようとしているのだと気づき、ユーカは目を細め、クマの人形を受け取って抱きしめる。
「お預かりしておきます……」
男は目を背けたまま頭を掻いて立ち上がり、
「安全なところまで連れて行ってもらえるように手配してやる。下に行けば俺の仲間が休める場所を作ってるはずだ。そこにクモカリっていう体のデカい男がいる。そいつに俺の名前を言え、女みたいな話し方をするヒゲ面の大男だ、見ればすぐにわかる」
さきほど親身になって助けようとしてくれた男と完全に一致する人物像を聞き、ユーカはその偶然をおかしく思い、思わず吹き出した。
男はきょとんとして首を傾げ、
「なにか面白かったか?」
ユーカは首を横に振り、
「いいえ、たいしたことではありません――」
一度下げた視線を上げ、
「――あなたの名前を教えてください」
男は、
「シガだ」
ユーカは人形を抱いたまま辞儀をして、
「ありがとうございます、シガさん。クモカリさんにも、感謝していたとお伝えください」
言って、下街ではない方へと足を向ける。
シガは長い手を伸ばし、
「おい、行くな、そっちはまだだめだ――」
ユーカは振り返り、
「あちらへ行く必要があるのです。私なら大丈夫です、心配しないでください」
人波に紛れ、ユーカは力を込めて走り出した。
*
悲しいほどに痩せた人々が、累々と地面に座り込んでいる。
その姿に心を痛めつつ、クモカリはできることのすべてを行い、彼らの世話に勤しんでいた。
人の流れは絶え間なく続く。
上街へ入り込んでいた住民たちが、怒りを治めて下街へと戻ってくるが、ここに彼らが生活するための場所は、もう存在していない。
水を確保できる市場跡に場所を定め、軍用の食料や衣類、寝具などをすべて吐き出しても、増え続ける難民たちへの提供は到底追いつきそうもなかった。
数え切れないほどの憂いを抱え、上下街の調整役を命じられているレオン・アガサスが、怪我を負った子どもを抱えて駆け込んできた。
「この子の親は?」
もう何度も聞いた言葉をレオンに向けて語りかける。
レオンは、
「……」
無言で首を横に振った。
レオンは子どもを渡し、その場に足を止め、ゆっくりと首を回して惨状を目に焼き付ける。
「まだ始めたばかりで、もうこんなに……」
クモカリは子どもを寝かせ、怪我をした箇所を水で濡らした清潔な布で拭いていく。
「物資も場所も全然足りてないわ。もう遠くないうちに夜がくるし、せめて弱ってる人たちだけでも安全に寝かせてあげたいけど、壁と屋根がある建物のなかじゃないと……」
周囲一帯の建物の多くは焼け落ちている。石造りの土台部分が無事な建物も、その強度は不安定になっており、壁や天井が半端に欠けた状況では、難民たちを安全に収容することなど不可能だ。
レオンはクモカリの言葉に頷き、
「所々無事な場所もあるようですが、その程度では到底足りそうもないですね。上街には無傷の建物がたくさんあるのですが……」
クモカリは子どもの治療を続けつつ、
「どうにかならないかしら。みんなを休ませてあげられる場所があれば、もっとしてあげられることもあるんだけど。このまま夜を迎えるのは心配だわ」
レオンは力強く頷き、
「なんとかできないか、やってみます。他に必要なものがあれば――」
まるで絵に描いたような人相の悪い顔をしていながら、レオンはシュオウに付き従う者のなかでも上位に位置するほど真面目な性格をしている。その話しやすさにも助けられつつ、クモカリは足りていない物資や食料の調達を依頼した。
レオンが去り、子どもの治療を終えて、終わることのない雑用の順序を頭の中で組み立てていると、
「アア……アウ……」
背後から突如、死にかけた野生動物の唸り声のようなものが聞こえ、
「ひぃッ――」
クモカリは小さく悲鳴を上げて背筋を凍らせた。
どさりとなにかが崩れ落ちる気配がして、恐る恐る振り返ると、そこにはボロボロになった服を纏い、全身に怪我を負っている様子の男が横たわっていた。
一瞬、連れて来られた難民の一人かとも思ったが、左手の甲に彩石が光り、赤みを帯びた灰色の髪に覚えがあり、突っ伏した顔を覗き込む。
「あなた……?!」
倒れていたのはクロムだった。白目を剥きながら、頬をぴくぴくと震わせ、少し前までとは別人のように弱り切っている。
半端に踏み潰された虫のように手足をひくつかせるクロムを急いで抱え上げると、
「み……みみ……」
クロムがなにか言いたげに唇を震わせる。
クモカリはクロムの口元に耳を近づけ、
「み?」
「み……水をくれ……ほこりを、吸い込んで、喉がぱさぱさする……」
言って、苦しそうに咳き込んだ。
*
「ぷはッ――」
水桶一杯を飲み干したクロムは、直後にみるみると生気を取り戻していく。
クモカリはクロムの全身についた埃を払い、
「聞いたら後悔しそうだけど、いったいなにがあったの?」
クロムは別人のように鋭く視線を尖らせ、
「狩りの途中だったが、少々しくじってしまってね。獲物を逃がしてしまったのだ」
「狩り……?」
言葉通りの狩猟を想像し、クモカリはクロムの前で首を捻った。
「ふわふわと体の軽い小鳥を取り逃してしまった。あと少しのところだったのだが」
言いながら、クロムは矢を射るような仕草をしてみせる。
クモカリはその話の要領を得ないまま、
「そう……それは残念だったわね、ゆっくり休んでからまた探せばいいじゃない」
クロムの話を真剣に取り合わず、怪我を負っている箇所を調べ、淡々と治療に必要なものを頭に思い浮かべる。
クロムは全身の筋肉を強ばらせ、
「残念ながら、それでは機を逸することになる。我が君の障害となるものは速やかに排除しなければ……」
擦り傷に打撲、腕や顔には鋭利な破片のようなものが複数刺さっている。いったいどんな状況になればこんな傷を負うのか、さらに水を飲んだだけで痛がりもせず平然としている様子も不思議に思うが、相手が相手なだけに、考えるだけ無駄であるとクモカリは慣れた調子で納得する。
――まず破片を抜いて、綺麗にしないと。
最初に着手すべき箇所を定めた直後、クロムの手ががっしりと太いクモカリの腕を掴んだ。
「ところで、もじゃもじゃママに聞きたいことがあるのだが――」
突然おかしな名で呼ばれ、クモカリは目をまばたかせた。
「も、もじゃ……?」
戸惑うクモカリを気にせずクロムは手の平を地面と平行に低く下ろし、
「これくらいの小さな子どもを見なかったかね? 少女で特徴は――」
クロムの口から語られる特徴と、ほとんど一致するような少女が、すぐに頭に思い浮かぶ。
「あ……」
思わず声を出すと、クロムはギンギンになった目で、鼻息がかかるほど近く顔を寄せた。
「どこにいるッ?!」
顔面に唾をかけられ、上半身を押しのけつつ、
「少し前に見つけて面倒を見てたんだけど、急にどこか行っちゃったのよ、突然」
「どこにッ?!」
しつこく顔を寄せて唾をかけてくるクロムに、クモカリは立ち上がって距離を置き、
「あっちのほうよ、呼んだけど止まらなくって――」
次の瞬間、服が浮くほどの風が巻き起こり、クロムは忽然と姿を消していた。
クモカリは呆然とクロムが地面に残した尻の跡を見つめ、
「ええっと……」
クロムは突拍子もない行動が常と化している人物だ。まるで気まぐれな突風のように去って行った後、クモカリは白昼夢でも見ていたような感覚で、
「まあ、いいか」
すぐに次の仕事に気を向ける。だが、
「待って……ちょっと、うそでしょ」
ふと沸き起こった疑念に、血の気が引いていく感覚を覚える。
先に保護された少女、小鳥を追って怪我を負ったというクロム。満身創痍でありながら姿を消してしまった少女と、少女の身元を問いただした直後に去って行ったクロム。
一つずつが線を繋いでいくかのように、頭のなかで記憶と言葉が一つの事実を紡いでいく。
「いや、ない……ないない……さすがに、ねえ?」
独り言ち、引きつった顔で必死に頭を振るクモカリは、自らに言い聞かせるように浮かび上がった自説を否定した。
*
「どくがいいッ、有象無象の雑草たちよ!」
人波を押し分け、立ちはだかる者たちを押し飛ばす。
クロムの頭のなかに敵味方の区別などなく、視界に映る者たちは皆、押し並べて平等な存在である。
意識を占めるのは、忠誠を誓う主のために結果を残すことのみ。それ以外のことは無に等しいが、時に一人ではことを成せないこともある。
標的と定めた少女を探すため、クロムは周囲にいる同陣営らしき者たちに視線を向けた。だが、
「聞きたい事があ――」
言い終えるより先に、問いかけた相手はまるで逃げるように背を向けて去って行く。次の者、また次の者に同じように問いかけても、皆が同様の態度を見せて背を向けてしまう。
「なんという耳の悪さだ……」
彼らのあまりの鈍さに呆れつつ、クロムは人でごった返した上街の広場に、目障りな宿敵の姿を見つけていた。
北方では目立つ褐色の肌に、常人を見下ろすほどの長身、筋骨たくましく鍛え上げられた上腕に、獣のように鋭い目。一際目立つシガの姿を見つけ、忌々しく思いながらも、目的遂行のために歯を食いしばって声をかけた。
「おおいッ――」
大声で何度か呼びかけると、シガは気づいた様子でクロムと目を合わせる。その顔が露骨に引きつった直後、まるで無視するかのように背を向けて、商店を破壊する集団がいるほうへと去って行く。
「なんという頭の悪さだ……」
気づいていながら呼びかけに応じるという簡単なことすらできぬほど能がない。クロムはシガの態度を見てそう評する。
――いずれ、我が君にご迷惑をかけるまえに始末してしまわねば。
無能な配下は主君の足を引っ張るもの。その考えのもとに黙々と殺意を募らせていると、記憶の奥底に死にかけるほど体を打たれた刑罰を受けたことを思い出す。
自身が初めて主君と仰ぐシュオウから怒りを買ったときのことだ。クロムにとってそれは、死よりも恐怖を抱くことであり、どれほどの痛みや苦痛と比べても、敬愛する主君に嫌われること以上の苦しみなど存在しないのである。
――自重するのだ、クロム。
深呼吸をして内向的な怒りを捨て去り、目的を本来のものへと切り替える。
少女の行方を聞き出せないのであれば、あとは自らの判断によって動く以外にない。
場は混沌として、逃亡者の痕跡を見つけることなど不可能だ。
「こうなれば――」
多方に伸びる道の前で佇み、クロムは周囲に落ちていた杖を拾いあげ、
「――我が道を天に問うのみ」
空に向けて垂直に放り投げた。
杖は高々と空に昇り、すぐに地面に落下して、ある一方向を指して横たわった。
「神のお導きに感謝を……我が行く先は左ッ、すべては我が君のために」
目の下を暗く染め、クロムは邪悪な笑みを浮かべて舌なめずりをして、
「待っているがいい、お嬢ちゃん」
頭のなかには一片の迷いもなく、ユーカが選択した方向とは真逆の道へ向け、クロムは自信満々に、力強く地を踏みしめた。
*
一部の兵士たちがネルドベル邸の入り口の前に集っている。
ここに至るまで何度も止められたユーカは、
「冬華六家、ユーカ・ネルドベルッ」
慌てて止めに入ろうとする者たちに向け、先んじて身元を名乗り、彩石を見せた。
ぽかんと立ち尽くす者たちの横を通り抜け、邸の中に戻る。慌てて駆け寄ってくる家宰たちを手で制し、ユーカは応接室の扉を勢いよく開けてなかに入った。
椅子に腰掛けてのんびりと茶をすするネディムが、きょとんとしてユーカを見つめ、その奥で地図を覗き込んでいた父のアレクスが、真顔でユーカを凝視する。
「ユーカ、なのか……?!」
駆け寄ろうとする父を手で制し、
「私は無事です、ご心配には及びません」
深く息をついた後、茶器を持ったまま固まっているネディムの側まで進み、抗議を込めてその顔を強く睨め付ける。
ネディムは怪我を負いぼろ切れを纏うユーカから目をそらし、
「止めたのですがね……一応」
そう言った。
ユーカは鼻の穴を広げ、
「ふん――」
強く息を落とす。
ユーカはその場に立ったままアレクスへ顔を向け、
「お父さま……現地に赴き、現状をこの目で確かめてきましたが、件の人物が指揮を執り、暴徒と化していた民を保護する活動が行われていました。この地区に置かれている全兵力を差し向け、その活動に協力するのが妥当だと思います。今はそれ以外のことに人手や時を浪費すべきではありません」
ユーカが一人で抜け出した理由とは、まるで違う目的を語ったことで、
「そ、そうか……」
アレクスは意表を突かれたように視線を泳がせる。
ユーカは鋭い視線をネディムへ向け、
「私を信じていただけますか? それとも、疑わしいものは、ただ無意味に足止めをしておきたいとお望みでしょうか」
視線を合わせ、ネディムはふと柔く温かな微笑を浮かべる。
「ネルドベル家が協力を申し出てくれているのに断る理由などありません。合わせて物資の提供などもご検討いただけるのであれば、准砂もお喜びになられることでしょう」
ユーカは片腕に抱えたクマの人形を一瞥し、
「それが家や家族を失った者たちの救いになることなら、惜しみません……ただし、家長であるお父さまのお許しをいただけるのであれば、ですが」
視線を送られたアレクスは、ユーカとネディムを交互に見た後、
「ユーカ、お前がそうすべきと感じたのなら、私もそれを信じよう」
ユーカは小さく笑みを浮かべて頷いた。
准砂、という聞き慣れない階級とそれを指す一人の人物を思いつつ、その全容を知らぬまま、この時、実質的に傘下に下る決断を行ったことを、ユーカはよく自覚していた。
不安や疑念、そして義務感。多種の感情をまとめて飲み込み、ユーカは再び、ネディムに詰め寄った。
「もし、あの男がまだ生きていたら、二度と私に近寄らせないでください――生きていれば、ですが」
ネディムは恭しく立ち上がり、
「カルセドニー家当主として、弟の不始末を正式にお詫びいたします。しかし、あなたにとっては残念極まりないことと思いますが、おそらくあれは生きていると思いますよ――」
特に悪びれた様子もなく上辺の謝罪を口にして、苦笑しながらそう言った。
そのなんら根拠のない言葉に、不思議なほど真実味を感じつつ、ユーカは肩を落として溜息を吐きだした。