流転 3
流転 3
痩せ細った体は満身創痍でありながら、輝士や兵士の群れの前に立ち塞がる一人の男、その名はセレス・サガンである。
命令に逆らい、明確に造反の意志を示した裏切り者を視界に入れながら、デュフォスは唾棄すべき存在を軽蔑の眼差しで睨みつけた。
「反逆に加担する罪人たちを守って英雄気取りか、つくづく半端な人間だ――」
殺しておくべきだった――下の者たちの前で大恥をかかされたことも相まって、デュフォスは後悔の念を心中に零す。
だがすべては過ぎたることであり、どうとでもなることだ。生来のエリート気質によって素早く自信を取り戻し、デュフォスは高らかに手を掲げる。
「先に言った通りだ。対象は上街に侵入した賊と加担していると思しき勢力、そのすべてを叩く。歩兵が先行し、輝士隊は後続から一帯の制圧を進める――」
全隊に命令を伝えるための角笛を下げた兵士を見やり、
「――鳴らせ」
直後、地響きのような重い音が吹き鳴らされる。それは突撃開始を告げる合図であると同時に、聞く者に恐怖を与えるための儀式でもあった。
公国軍の歩兵隊が駆け足で突撃を開始するなか、プレーズの用意した傭兵隊は、だらけた態度でゆるゆると後に続いていく。
冬華の長が率いる集団としての気品と威容に欠けるその態度に、デュフォスは人知れず、苛立たしげに舌打ちを奏でた。
*
レフリ・プレーズに雇われているギルド骨喰いの団長ボ・ゴは強い憂いを抱えつつ、命令された地点へ団員たちを行進させる。
元々の雇い主は顔馴染みの輝士だった。それが今や、このターフェスタで王に比する存在である大公の補佐役から直接指示を受けている。
指揮系統があやふやな現状は、雇われ人としての立場を危ういものとしていた。給与や支払いの約束もなく、そのうえ留守番をさせていた身内が粗相をした可能性があり、その責任を問われることになるのではないかという不安が付きまとう。
――居心地が悪い。
それは、長年の仕事勘からくる虫の知らせだった。腹の底が収まりきらず、出そうで出ない気持ち悪さが淀んでいる。
団長であるボ・ゴの消極的な心根は、団員たちの行進速度に反映され、その足を鈍らせていた。
その時、
「団長、連中がさっさと行きたがってるぞ」
補佐役の男からそう声をかけられる。
後ろからせっつかれて振り返ると、のろのろと進行していることに不満そうな態度を見せる団員たちの顔が目に映る。
彼らの多くは統制された国や街であれば、罪人として忌み嫌われるような者たちだ。構成員の多くは混沌領域の出であり、彼らは信仰する独自の宗教観も相まって、流血を好む荒くれ者たちがほとんどである。
団員たちは戦いたがっている。本来それを歓迎すべきだが、ボ・ゴは慎重にことを進めていた。
前に立ち塞がるのは敵として討伐の標的とされているこの国の領民たちだ。そこに一人だけ、内輪もめであちら側についた輝士のなりそこないのような男もいる。
「我慢させろ。このままのろのろと進んで、最初に敵に当たるのはこの国から給金をもらってる兵士様たちにやらせるんだ。俺たちはそのあとでいい」
部下に命令を伝え、戦いたがりの手下たちを押さえ込ませる。あからさまに不満を漏らす声を無視して、ボ・ゴは言い訳の立つぎりぎりの速度で行進を続けた。
まもなく、先行していた歩兵の群れが、敵集団の最前列の目前にまで到達する。だが、その前にただ一人だけ、身一つで一人の男が立ちはだかった。
デュフォスと揉めていたセレスと呼ばれていた男だ。いかに晶気を操れようと、ただ一人きりで圧倒的多勢の兵士を前にしては、勝ち目はないはず。だが、
「おい、あれ……」
後ろにいる手下たちの集団から、大きくどよめきがたった。
始めに接敵した歩兵の集団が、まるで荒れ狂う小さな嵐に吹き飛ばされるかのように、風に飲まれて次々に地面に倒れ始める。
「なん、だ……?」
遠目に見えるセレスという名の男がいたはずのそこに、すでにその姿はどこにも見えなくなっていた。
*
まとまった数の兵士たちが、武器を構えて突撃してくるのを、セレスは最前列で観察していた。
軍隊と呼ぶには少ないが、訓練を受け正式に国に仕える戦士たちが、それなりの数を束ねて押し寄せてくる光景は、背後に控える人々に恐怖を与えるのには十分だった。
所々から小さく悲鳴が漏れ始める。
背後から伝わる恐れの気配を感じながら、セレスは大鎌を手に、押し寄せる暴力の波を待ち構えた。
セレスに気づいた兵士たちが、少なからず足を鈍らせる様子が見受けられるが、足を止める者は一人もいない。彼らが恐れるのは晶気を扱う一人ではなく、国の中枢を牛耳る権力者なのである。
愚直に命令を実行するという、兵士としての習性をいかんなく発揮する彼らは、障害となるセレスを標的とし、明確な敵意を露わにした。
互いの距離が縮まる頃、セレスは心中で数を数える。
一歩ずつ距離が近づき、兵士たちの足が一定の地点へとさしかかる。そこはセレスにとって絶対の勝利を得られる間合いであり、最も得意とする射程の範囲内だった。
「ふ――ッ」
風を掴んで自らの体を爆風と化し、目にもとまらぬ速さで駆け抜ける。目の前にいる者からすれば、消えたとしか見えない速さで突進し、顕現させた晶気の大鎌の殺傷力を極限まで抑え、前列の兵士たちをなぎ払う。
大鎌の形状のなかに、圧を極限にまで押しとどめた風の晶気は、人体を破壊せずとも尋常ならざる威力を持って、兵士たちの体を地面の上へと吹き飛ばした。
突如目の前に現れたセレスに対して混乱が発生する。しかし周囲にいる兵士たちの動きは機敏だった。
素早く武器を突き出し、的確な手順で攻撃を仕掛けてくる。セレスは応戦するため、晶気の大鎌を一閃に薙いだ。
兵士の群れの中から、
「後続から来る輝士隊にまかせろ! 前へ進め! 狙いを絞らせず、各隊散り散りに突撃ッ、足を止めるな、行けッ行けッ!」
隊長と思しき男が叫んだ。
一部を残し、兵士たちが足を止めることなく、街中に向かって走り込んでいく。それは足止めを企てるセレスと、その数が一人きりであることをよく理解したうえでの行動選択である。
散っていく兵士たちに向け、すぐに攻撃に転じようとしたセレスは、背後から迫り来る轟音に注意を引かれ、足を止めて振り向いた。
矢弾のように鋭い晶気の飛沫が向かって来る。飛沫は空中で弾け飛び、周囲一帯に霧のような煙を撒き散らした。
視界を塞がれ、晶気の風を送るが、それぞれが手を繋いで留まるように、晶気で創造された煙は一帯にしつこく滞留する。
霞ががかった景色の奥から、地響きのような馬の足音が聞こえてきた。
馬の歩幅が徐々に縮まり、周囲近辺に気配を留める。
霞の中から騎乗した輝士が攻撃を仕掛けてきた。晶気を用いた攻撃を繰り出し、身を守るための晶壁も巧みに前面へと展開している。
――。
一切の思考を挟まず、反射的に攻勢を仕掛けた。爆風を起こして突進し、晶気の大鎌を振り払う。極単純な一連の動作は神速によって神業へと昇華され、先手を取ったつもりでいた輝士に対して完全な先制攻撃を実現した。
だが、
――通らない。
それは刹那に駆け抜けた直感である。力を加減した晶気では、優れた輝士が張り巡らせる晶壁を破ることは出来ない。
急遽、内に巻いていた暴風の力を外へと向ける。隙間なく噛み合う歯のように、触れるものを一瞬で切り裂く風の刃を形成し、それを晶壁に向けて叩き付けた。
セレスの繰り出した力は、一般的な輝士のそれを凌駕していた。
自分よりも良いもの得て、評価され華々しく輝士としての地位に就く者たち。彼らを見て、自分より優れていると、一度として感じた事はなかった。
それが、敗者が自身を慰めるために他者を妄想のなかで貶める、恥ずべき行為であるかもしれないと思いつつも、長年溜め込んできた消化しきれぬ大きな疑念でもあったのだ。
そのセレスにとって、不当であるとも感じてきた他者との力量の差が、現実のこととなって目の前で展開される。
セレスの創造した大鎌は輝士の晶壁を容易く打ち破った。その手応えは驚くほど軽く、大鎌の刃は止める間もなく、まるで空を撫でるような軽さで、輝士の胴体を真っ二つに切り裂いた。
続けて、背後からまた一人の輝士が躍りでる。セレスは間断なく大鎌を振るい、輝士の体を切り裂いた。
舞っていた煙が晴れていき、周囲を取り囲んでいた輝士たちの顔が、視界のなかに浮かび上がる。
輝士たちはみな無言でセレスを見つめていた。この瞬間に否応なく力の差を見せつけられ、生まれに恵まれながら奇跡の業を操る術を鍛え上げてきた強靱な輝士たちの顔に、はっきりとした怯えの色が浮かび上がる。
一人が焦った様子で馬を走らせ、他の者たちが引きずられるように、セレスに背を向けて去って行く。
彼らが向かう先には、恐怖に慄く人々がいる。
「行かせるわけにはいかないんだ――」
セレスはまた、爆風を纏い、輝士の集団を追いかけた。
*
命令を伝え、兵士たちを差し向けたデュフォスは、前方で起こる様子を見て奥歯を噛みしめた。
「なにをやっている……ッ」
大勢の兵士たち、それに威容を誇るターフェスタ輝士たちが、群れをなして、ただ一人の男を避けるような動きをみせている。
だが、二人の輝士が一瞬にして敗北した様を見せつけられては、正面からの対決を避けようとするのは、身を守るための本能的な行動でもある。
側にいた輝士が、
「あのサガン家の落とし子が、あれだけの力を隠して……」
驚嘆するように声を漏らす。
衆目の前で公然と刃向かわれたデュフォスとしては、この状況は上街に下民たちが流入している現状よりも憂うべき事態だった。
デュフォスは馬上で身なりを整え、
「出るぞ」
輝士は慌てて、
「ですが、デュフォス卿の身に危険が――」
デュフォスは睨みを効かせ、
「あの程度のもの、恐れるにあたわずッ。プレーズが上手くやっていれば、今頃は後方からネルドベルが兵を送っている頃合いだ。全兵力を用いて前後から賊を挟み込み一帯を制圧する。だがその前に――」
抗戦中のセレスを凝視し、
「――邪魔者を速やかに排除する」
*
上街の境に張り巡らされた警備を掻い潜るのは、それを指示しているユーカにとっては簡単なことだった。
平民の服に着替え、身分を悟られないよう徒歩のまま、人目を避けて下街へ潜り込む。
「こんな……」
下街に入り、外界と都を隔てる外壁が一望できる。本来、建物が密集する一帯ではありえないはずの見晴らしの良さは、街が崩壊したことを如実に表していた。
各所から送られてくる話を耳に入れながら事態をおおまかに把握していたつもりでいても、現地で現実を目の当たりにしたユーカは、言葉を失って立ち尽くす。
――ただの火災じゃない。
火が燃え移るにしても、幅のある通りを挟んで、位置の区別なく建物が各所で燃え尽きている。あきらかにそれは人為的な行いによって引き起こされなければ起きえない状態である。
――きちんと調査をさせないと。
思いを胸に、瓦礫をまたいで本格的に下街地区に足を踏み入れる。
その時、
「――ッ?!」
風を切り裂く矢の音が一帯に鳴り響く。後方から向かってきた矢はユーカの顔面すれすれをかすめ、目の前にある建物の壁に深く突き刺さった。
ユーカは身を低くして振り返り、そこに立っていた一人の男の名を呟く。
「クロム……カルセドニー」
無垢ではない髪色に焦点の定まらない目、超然としていながら一貫性のない態度と欠陥だらけの性格。才人と知られるネディム・カルセドニーの悪名高い弟、クロムが、弓を構えて盛り上がった土砂の上から猛禽のように鋭くユーカを見下ろしている。
「一人でどこへ行こうというのだね、お嬢ちゃん」
この出会いが友好的なものではないことはすでに判明している。話しかけられたユーカは、密かに逃げ道になる場所を探し、その視点をさまよわせた。
「……現状視察です。この目で下街の被災がどれほどのものかを見るために」
クロムは弓を構えたまま首を傾げ、
「まだ小さいというのに随分と仕事熱心なようだが、なぜ手下どもを引き連れず、一人でこそこそと隠れるようにここへ来た?」
矛盾を突かれ、ユーカは追及を逃れるために攻勢を仕掛ける。
「こちらからも聞きたいことがあります。警告なく私に向かって矢を射た理由はなんですか?」
クロムはにたりと片頬を上げ、
「的外れなことを言っているぞ、矢を射たこと事態が警告なのだよ。その気があれば、お嬢ちゃんのその顔には、今頃このクロムが放った矢が深々と突き刺さっていた」
語る目の底に、鈍い曇天の光が沈んでいる。まるで人間味を感じない表情からは、言葉にできない殺意のようなものが滲んでいた。
ユーカは必死に怯えを隠しつつ、
「冬華六家に属する者に、たとえ警告であろうと攻撃をしかけることの罪の重さを承知していますか? 酌量の余地があったとしても、よくて生涯を牢獄のなかで過ごすことになるほどの大罪ですよ」
クロムは歯を見せて笑みを浮かべ、
「冬華なんたらという、それは神がお決めになった理ではなく、またこのクロムもなんら認めるところはないのだよ」
それ以上聞かずとも、冬華という称号がこの男に対してなんの抑止力にもならないことは明白だった。
クロムは弓の弦を引き絞り、
「愚かな兄が言うには、お嬢ちゃんにはあそこで大人しくしていてもらうほうが、我が君にっては都合が良いらしいのだよ。兄の言いなりになるのも癪だが、こそこそと隠れるようにしてここにいるお嬢ちゃんを見ていると、よからぬことを計画しているという疑念に信憑性がある。このまま大人しく居るべき場所へと戻ってもらえないだろうか」
会話を重ねながら、ユーカは未だ土台の強度を保っている様子の二階建ての建物に目を付けていた。
――あそこなら。
ユーカは悟られぬように足を擦り、
「断れば、どうなりますか」
クロムは真顔でユーカを睨み、
「お嬢ちゃんは賢いのだろう? 言わずともわかるはずだ」
近くを飛んでいた鳥が低く滑空し、鳴き声をあげて物影のなかに滑り込んだ。クロムがほんの一瞬、鳴き声のしたほうへ視線を向けた瞬間、
「舞って――」
ユーカは発声と同時に、クロムの足元に巻き起こる風の晶気を発生させる。
土砂のうえにかかった灰と砂が巻き上げられ、一瞬にして一帯の視界を奪う煙幕を発生させた。
クロムが視界を失ったその瞬間、ユーカは駆け出し、目を付けていた建物のなかに逃げ込んだ。
煤と崩れ落ちた瓦礫、半端に崩壊した建物の中は、未だ住居としての面影を十分に残している。
瓦礫が陰を作る粗末な食台の下に隠れ、ユーカは荒れる呼吸を手で塞ぎ、気配を殺して身を潜めた。
遠くから咳き込む声が聞こえてくる。同時に、
「げほ、げほッ――小賢しいことをしてくれるではないか。うまく逃げたつもりだろうが、子どもの足でこのクロムの目を盗めるほどの速さで逃げるのは無理だ。となると、この辺りに潜んでいるはず。聞こえているのだろう? お嬢ちゃんは恩情を無下にした。よって、我が君に敵対する者として処分させてもらおう」
声が聞こえていることを前提としたクロムの語りは自信に溢れている。彼の言う通り、ユーカが近場に隠れていることは見破られていた。
クロムの声は徐々に近づき、
「周辺で身を潜めることができる場所は限られる。一つずつ潰していくのは簡単だが、今のうちに出てきてくれると簡単で助かるのだがね」
敵意を持つ者に追われている、そのことで鼓動が早まり、手の平に汗が滲む。
――どうしよう。
姿を隠していながらも状況が不利であると感じられる。相手は大人の男が一人、晶気を操るが輝士の称号も受け取れなかった有名な落ちこぼれだ。
暴力沙汰に慣れていようと、幼くして晶気を操る才を認められ、冬華として召し上げられた自分とは格が違う、とユーカは考える。
――戦えば、勝てる。
逃げ切ることができないのであれば、それは最終的に行き着く必然の答えだった。
ユーカが拳を握りしめ、足腰に力を込めたそのときだった。
「出てくるつもりがないのなら――」
空気が唸り、轟音を伴って晶気が放たれる。風を根源としたその力は、ユーカの目の前をかすめ、分厚い石壁に巨大な丸太のような大きさの穴を穿った。
晶気は石壁を貫通し、さらに奥にある建物の壁に穴を開ける。衝撃と足場を減らした建物は大音を立てて崩れ落ち、一帯に煤と埃を舞い上がらせた。
ユーカは目を開けたまま、眼前の光景を前に身動きをとれずにいた。それは隠れるための行動ではなく、真に恐怖から起こる硬直である。
同じ風を扱う者として、それ以上に晶気の扱いに通じる者として、今目の前で見せられた一撃は、常軌を逸した威力を誇っていた。
時間をかけて力を溜め構築して放つ晶士に相当する力、それを一瞬にして、さらに濃縮して矢のように放つ技は、ただ純粋に破壊と殺傷を目的として磨き抜かれた力である。
晶気の扱いに長け、天才と称されながらも、未だその力を磨くには未熟であるユーカにとって、それは純然たる暴力と初めて対峙した瞬間でもある。
自分を殺すために放たれた力。それに抗い、相手を上回る術が、この一瞬のうちに僅かにでも想像することができない。
「――ッ?!」
その瞬間、全身が総毛立つ感覚に襲われる。
周囲を流れる風からの感覚を頼りに、反射的に汚れた床の上にぺたりと全身を押しつける。うつ伏せの状態になった直後、頭上すれすれをクロムの放った晶気が轟音を残して通り過ぎていった。
「ん? そこがあやしいと思ったが――」
すぐ間近にまで迫った声に恐怖で血の気が引いていく。
――ころされる。
細々とした思考が消失し、ユーカは獣のような姿勢でその場から駆けだした。
背後から、
「やはりそこだったか。逃げても無駄なのだよ、このクロムは狙った獲物は逃さない」
逃げ込んでいた建物の外に出る。ユーカは空を見上げ、風を纏って、逃げるために自身を浮かび上がらせようと集中した。だが、
――だめだ。
空は障害物のない平原と同じ。腕の良い遠隔攻撃の使い手に狙われている現状で空に上がれば、その瞬間に的になるだけである。
ユーカは地を踏み、さらに奥にある建物の壁の奥へと向かう。外からの視線を切り、敷地を抜けてさらに奥にある、ほとんど原型を留めていない小屋の中に逃げ込んだ。
錆びた金属製の仕事道具が詰め込まれたそこに、子どもの体を活かして入り込む。
震える全身を自分の腕で強く抱きしめ、ユーカはその場に身を潜めた。
また、外からクロムの声が聞こえてくる。
「お嬢ちゃんに逃げる時のコツを教えてやろう――痕跡を残さないことだ。特に地面が柔らかい場所では、逃走という行為そのものが愚策となる。粉雪のような塵に、ぼこぼこと足跡を残していては、追跡者に居場所を教えているのと変わらないのだよ」
声はまた近づいてくる。
うまく隠れていたとしても、だいたいの居場所が特定されてしまう状況では、またさっきのように強力な晶気を撃ち込まれるだけだ。
ユーカはクロムが一切の躊躇いなく人を殺める様を目の前で見た。そのような者に狙われていながら、頼れる者もない現状に、堪えようもなく目に涙が浮かび上がる。
残り少ない時間のなか、ユーカは必死に頭を働かせていた。
ここを出れば同じことの繰り返し、じっとしていても殺される。明らかに追い詰められている状況であれば、残る手段は反撃しかない。
だが、戦いの経験に長けた者を相手に、攻撃を仕掛けたところで勝機があるかはわからない。確実に勝つためには先手をとることは必定。しかし、現状のユーカにその余裕はない。
「さて、お遊戯はここまでにしよう」
すぐ近くにまで迫るクロムの声がぴたりと一カ所に留まった。おそらくすでに隠れ場所を特定されている。
最善の手段を見つけられないまま、なによりも惜しい一瞬ごとの時間が無情に過ぎ去っていく。
ユーカはしかし、ふと暗がりの倉庫の奥に、ひとの形をした物体を見つけ、大きく目を見開いた。
それは木像で小柄な人の形を模した人形のようだった。それがなにに使われていたものかもわからないまま、ユーカは道具を掻き分けて人形の置かれている場所まで進み、着ていた衣服を脱いで人形に着せ替えていく。
服を着せて外套を着込ませ、フードを深くかぶせれば、それは一瞬では見分けがつかないほど本物の人間のように見えた。
ユーカが付けた足跡が続く倉庫に向けて、クロムの晶気が放たれる。晶気は倉庫の壁や屋根を吹き飛ばし、さらに奥にある家の外壁までを破壊して、さらにその先へと抜けていく。
崩壊した倉庫から無数の道具が散らばるなか、地面に横たわるユーカの服を着せた人の形をしたものを見て、クロムはにたりと笑みを浮かべた。
「無駄な抵抗をしなければ欠損することなく死ねただろう」
人体の一部が消し飛んでいる残骸を見て、クロムは一瞬だけ神に祈るような所作をした。
徐々に距離を詰め、仕留めた獲物の確認のためにしゃがみ込んだクロムは、
「なにッ?!」
ユーカの死体だと思っていたものが、ただの木像の人形であることに気づき、慌てて腰を浮かせる。
クロムは周囲の痕跡を探るように慌ただしく顔を動かした。その瞬間、
「足跡を、残さなければいいんでしょ?」
晶気を巧みに操り、空中に滞空するユーカが、クロムを見下ろしながら言い放つ。
クロムは空を見上げ、
「な、なんだと……?!」
驚嘆の声をあげた。
次の瞬間、ユーカは細かく分断して構築していた風の晶気を一点に手元へ吸い寄せる。それはクロムに悟られぬように力を溜め込むための工夫であり、なにより自分の体を空中に保ったまま、いくつにも分けて力を操るという高等な手段だった。
複数に分けていた力を一点に集中させ、その瞬間に爆風を内包した晶気の塊は、晶士が操る域にまで達する。
クロムは心底驚いたような顔でユーカを見上げ、
「お嬢ちゃん……まともな食事をとったほうがいいのではないか? 空に浮くほど痩せているとは?!」
以前にも聞いたような的外れな言葉を投げられ、ユーカは顔を引きつらせながら、
「うるさいッ、この――」
知り得る限り、最大の侮辱の言葉を吐き出し、溜め込んだ晶気を地面目がけて撃ち込んだ。