流転 2
流転 2
「なぜ、あの子を殺さないといけないのですか?」
セレスは臆面もなく真顔で聞いた。
ぼそぼそと小声で問うたわけではなく、はっきりと明瞭に喉から出された声はよく通る。
面と向かってデュフォスの命令に疑問を呈したセレスに、待機する輝士たちから困惑する声があがりはじめた。
デュフォスは目を見開いてセレスを凝視し、
「なぜ、だと……わ、私が命令したからだ、きさまは言われた通りにそれを実行すればいいッ、今一度命令を伝える、あの娘を――」
セレスは真っ向からデュフォスの視線を受け止め、
「まだ子どもですよ」
デュフォスは苛立ちを露わに目の下を痙攣させ、
「そんなことはわかっているッ。あの娘は冬華を誘拐し監禁したッ、その罪は万死に値する!」
「あの子が主導したわけではありません。彼らなりに可能な範囲で食料や世話も提供されていました。そこで、ただ世話役をこなしていた少女に対して、死罪を言い渡すほどの理由にはなるはずがない」
すらすらと言葉を述べるセレスに、デュフォスは不意をつかれたように喉を詰まらせる。
「きさま、自分の立場が……自分が何者であるかわかっているのか……?」
セレスは拷問を受けた自らの指の先を見つめ、
「よくわかっています。自分を慰めるために無意味な殺人を繰り返し、弱い者だけを狙い、強い者にはへつらった。僕を排除した父を呪い、洗礼を拒否した神を呪い、母にぶつけることができなかった恨みを、無関係な者たちに吐き出して逃避し、懲りずにまた自分だけが救われようとした、ただの卑怯者だ――」
過去をかえりみて、大勢の前で恥部をさらけ出しながら、セレスは強く視線を上げた。
「――あなたが今僕に命じたことは、僕がしてきたことと同じ、クズで劣った人間がやることに他ならない。しかも、あなたはそれを自分の手を汚さずに他人にやらせようとしている。それが、冬華の称号を受けた者のやることなのでしょうか」
デュフォスは震えながら顔を沈め、
「そうか、よくわかった……捨てずとも使い道のある人間だと期待して拾ってやったが、所詮は混ぜものの血、禁忌の劣等種だったというわけか」
直後、セレスの足元に発光する白い紋様が浮かび上がる。その紋様はまるで水に文字を浮かべたように運動を繰り返し、一定の秩序を持って流れを形成しはじめた。
それが晶気によって起こされた現象であるとセレスが気づいたとき、突如として膝ががくりと折れ曲がり、全身を凍えるような冷気が包み込む。
「ッ……?!」
それは自らの意志に反した動作だった。足に力が入らず、立ち上がろうとしても、まるで糸が切れた操り人形のように、地べたにべたりと足が落ちて動かすことができないのだ。
――動けない。
それが足元に現れた晶気が原因であるとすぐに理解する。だが、
――なぜ、動きたいんだ?
思考は白濁し、立ち上がろうとしていた意志、そして理由が、根こそぎに消失してしまう。意識ははっきりとしていながら、頭のなかを巡る思考に次々と暗幕が下ろされ、世界は溶けていく氷のように、その形に意味を見出せなくなっていく。
デュフォスは言葉を失って首を傾げるセレスを一瞥し、
「この卑しい犯罪人を拘束しておけ――」
輝士たちに指示した直後、必死に父親の元へ駆けていくレイネを見やり、
「――お前、あの娘を処刑しろ」
身近に居た一人の輝士を指名して指示を与えた。
「わ、私がですか……?」
命令を受けた輝士は躊躇いを見せる。デュフォスは輝士を睨めつけ、
「やれ、逆らえばそこの犯罪人と等しく扱うぞ。その顔に見覚えはないが、今この場で家の名を聞かれたいか?」
命じられた輝士は座り込むセレスを見やり、覚悟を決めたようにレイネを凝視して、その手の中に青白く発光する水の晶気で構築された細長い棒のようなものを造り出す。
だが、輝士は晶気を溜めたまま、すぐにそれを放つことができずにいた。
デュフォスは輝士に向け、
「やれといっている!」
醜い怒声を浴びせかける。
びくりと肩を震わせた輝士の手元から晶気が放たれた。
空気をつんざくような高音を響かせ、セレスのすぐ真横を、発光する棒状の晶気が通り過ぎていく。
一直線にレイネの背に向けて突き進む晶気を見つめながら、セレスはぼんやりとその光景を眺めていた。
――レイネ。
この光景のなかにはなにかがある、だがそれを忘れてしまっている。見過ごしてはならないものが目の前にありながら、それを認識することができない。
――なにをしているんだ。
ふと見つめた指先が震えていた。剥がされた爪の痕に施された治療の跡。それは死に値する罪を犯したセレスに与えられた、最後の情であり思いやりだった。
――忘れている、忘れてはならないものを。
ぶつ切りにしまい込まれた記憶を呼び起こす。女たちの悲鳴、悲鳴、悲鳴、命乞い、嗚咽、涙、発狂、怒り、悲鳴、悲鳴、悲鳴。
無惨に殺された者たちの顔が一面を覆い尽くし、鼓膜を突き破るほどの濁声が、耳元で轟音となって繰り返された。
恥辱と憎悪、憐憫と後悔の果てに、醜い思いが一つの感情へと集約されていく。それは、反吐が出るほどの自己嫌悪だった。
――そうだった。
ぞわり、と全身を這うように風が巻き起こった。温かみはなく、ただ凍えるように冷たい風が頭の上から足の先まで、隙間なく循環していく。
――思いだしたよ。
それは直視できないほど醜い過去の記憶と共に、絶対に忘れてはならないこと、自分が誰でありなにをしてきたのか、意識のなかで鮮明に、水を得るように甦生されていく。
足元を見やり、自分を地面に縛り付けている根源を凝視する。対象に向けて紋様を敷き、思考や心になんらかの制限を付けるウィゼ・デュフォスの晶気の力なのであろう。
忘れかけていた自らの意志を取り戻しても、依然として両足だけは骨が抜かれたように力が入らない。
背後から輝士たちが、セレスを拘束するために近づいてくるなか、
――これのせいで。
セレスは行動を縛る足元の紋様を強く睨みつけた。
制限を受けるのが紋様が展開される場のせいだとすれば、ここから抜け出せばいいだけのこと。しかし、どれだけ力を込めても、指一本でも紋様の外へ手を出すことすら叶わない。
輝士たちが駆けつけてくる直前、セレスは深呼吸をして目を閉ざした。
――風よ。
これまでその力に心から語りかけたことなど一度もない。自らの手足に呼びかける者は狂人の類だ。晶気は単なる力であり、彩石を持つ者にとって自在に操ることのできる手足の延長にすぎない。
だが、この場において、セレスは手足の自由を失っていた。それはただの干渉であり思い込みにすぎない。この白亜の牢獄を脱出するために、自らが操る晶気の力を権限の外に置く、と意識付ける。
――風よ、僕をこの陣の外へ。
全身にまとう風が、まるで独立した意志を持つかのように、操られることなくセレスの全身を前方へと吹き飛ばした。
体は横転を繰り返して白く刻まれた紋様の外に押し出され、その直後に手足の自由が自らの意志の下に取り戻される。
「まさか……?!」
驚きの声を上げるデュフォスを尻目に、セレスは四つ足の獣のように両手足で地面を掴み、レイネに向けて放たれた水の晶気を視界に捉える。
「ふう――」
意識を一点に集中し、全速力で前に駆け出す。爆風が環となって残像を残し、暴力的に吹き荒れる晶気の風を足で掴みながら、人智を超えた速さで鈍間な世界を疾駆する。
それは平面を急降下するに等しく、目にも止まらない速度を出し、さらに加速を続け、空中を切り裂く水の晶気を追い越した。
驚くレイネが振り向くよりも早く、その身を抱き寄せ、全身を腕の中に収めた直後、不意に体に乗った重さに風は制御を失い、セレスは前のめりに倒れ込んだ。
「ぐッ――」
レイネを貫く直前だった水の晶気が、セレスの肩を掠め、流血を散らしながら空のなかに飲まれていく。
レイネを傷つけないよう、その身を必死にかばいながら、激しく地面を転がり、全身を打ち付けながらようやく回転を止めたセレスは、
「レイネ……?」
腕のなかにいる少女に向けて、その無事を確認するように名を呟いた。
レイネの視線が、流血するセレスの肩に注目する。すぐに状況を察した様子で、
「なんで……? あんたは、裏切って……」
セレスは気まずさを感じながら視線を空にあげ、
「……なんでだろう、こうなってしまったんだ」
レイネは首を伸ばして輝士たちが群れる方を見やり、
「向こうにいることを選んだんじゃないのかよ……わたしを助けて、もう戻れなくなっても、知らないからな……」
もう戻れない――その言葉を耳に入れ、セレスはふと全身の力を弛緩させた。
「いいんだ、もう。甘い未来に心を奪われそうになったけど、今はもうあそこに戻りたいとは思えないんだ。僕の居場所はどこにもない、ようやくそのことを受け入れることができた――」
言いかけで、レイネの拳がセレスの鼻を強打した。
鼻の奥が焼けるような痛みを感じながら、激しく怒りに満ちたレイネの顔に面食らい、セレスはその体を抱き上げたまま瞬きを繰り返す。
レイネは歯を剥き出し、
「ばかやろう……あんたの居場所を作ってやろうとしてたのに……平気な顔して裏切りやがって……ッ」
目の奥を湿らせたレイネを見て、セレスは申し訳なさそうに顔を下げる。
「すまない……」
謝罪の言葉を口にすると、再びレイネの拳がセレスの顔面を強襲した。
「ばかッ」
殴られる度にセレスは、
「悪かった……」
レイネはたてた爪で額から顎までを手加減なく引っかき、
「くそやろうッ」
「ごめん……」
次に挙げた拳を振るわせながらゆっくりと下ろし、
「ばか……ごみ……くそ……」
思いつくかぎりの罵倒を叫び、力を抜いてセレスの腕のなかに身を預ける。
「レイネッ!!」
ヴィシャの地鳴りのような大声が聞こえ、セレスは道の先へ視線を送った。
ヴィシャは手下の男たちを引き連れ、必至の形相で飛び込んでくる。その怒気に満ちた目がセレスを捉えた瞬間、大きく長い手がセレスの首を目がけて伸ばされる。
ヴィシャの手がセレスに届く直前、
「パパ――」
レイネの声がヴィシャの手を止めた。
「レイネ、無事なのか……?」
レイネは頷いて、
「大丈夫だよ、たいしたことない。セレスが――こいつが守ってくれたからさ」
ヴィシャは再びセレスを睨み、
「てめえ、俺の娘に触るんじゃねえッ」
聞く者を震え上がらせるような怒声を響かせた。
レイネを強く抱き寄せていたことを自覚し、セレスは慌ててその身を地面に下ろす。
ヴィシャはすぐにレイネを抱き上げた。その視線は強くセレスを睨みつけたままだが、肩に負った傷を見て、込められていた敵意を僅かに沈ませる。
セレスはゆっくりと息を吐き、
「輝士たちが攻めてきます」
ヴィシャは険しい顔で、
「見りゃあわかる」
セレスは群れて固まる下街の民たちを見やり、
「みんなを早く逃がしたほうがいい」
ヴィシャは鼻から重く息を吐き、
「連中ははなから逃げる気がねえんだ、ここで命懸けで差し違えると覚悟を決めてる」
暗い顔をした住民たちを見て、セレスは微かに心を痛めた。彼らがどうしてそうまでしようとしているのか、今の自分には少なからず理解できるのだ。
セレスは現状を理解したうえで、
「それでも、一人でも多く逃がしてやってください。できるところまで、どうにか時間を稼ぎます」
決意を伝え、背を向けた。
ヴィシャはセレスの背中越しに、
「これが、てめえ一人でどうにかできるような状況に見えるのか?」
セレスは密かに笑みを浮かべ、背を向けたまま首を横に振る。
「レイネをお願いします、どうか安全な場所まで」
「言われるまでもねえ」
レイネは声を上擦らせ、
「セレス、あんたも一緒にくるんだッ、あんただけで残ったって――」
その声がすぐに遠ざかっていくのを感じながら、セレスはレイネを父親に渡せたことに安堵の心地を抱いていた。
荒れ果てた街並から漂う空気は、不帰の気配に濡れている。
不快なはずの焼けた匂いを、しかしセレスは胸を張ってその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「なんて気持ちがいいんだ――」
思わず心の声が口からでるほど、胸いっぱいに吸い込んだ空気が、心地良く全身を満たしていく。
後方には無力な人々、前方には殺意に満ちた兵士の群れ。間に立って、一人市中を凪ぐ風を受けながら、手中に構築する晶気のなかに、周囲一帯の空気を同化させていく。
セレスはかつて、感じた事のない開放感に頬を緩ませ、
――ここがいい。
手中に造り上げた大鎌を模した晶気を手に、
「やっと、僕の死に場所を見つけた――」
*
ユーカ・ネルドベルはネディムの提案を叶えるために奔走していた。
緊急時に人手が少ないなか、指揮下にある兵士たちに防衛を固めるように指示を伝え、自らの足で避難をしていない貴族家の邸を訪問する。
「人手を貸してはいただけないでしょうか」
丁寧に頭を下げて願うが、貴族家は往々にしてけちなものである。大勢いる使用人のなかでも比較的老いた者たちを、ほんの二、三人程度しか貸し出さそうとしない。
地道な行程を繰り返し、ようやくまとまった人手を確保したところで、
「ユーカ」
近隣の避難を呼びかけるために出ていた父親のアレクスと再会した。
「お父様……」
アレクスは寄せ集めの集団を見やり、
「なにかあったか?」
ユーカは返答を渋り、
「……お父様のほうは?」
アレクスは重く首を振り、
「避難を呼びかけてはみたが、多くは家にこもって財産を守る道を選択した。このあたりではカァヴァ家の邸宅が、古くは要塞として作られていたのを思い出して、避難を希望する者たちをいったんそこへ集めているところだ。さらに山中へ彼らを避難させる必要があるかどうか、判断するためにお前のところへ向かおうとしていたところだったのだが、どうだね?」
ユーカは曖昧に首を傾け、
「いますぐに、その必要があるとは言えませんが、お父様にお話しておかなければならないことがあります。じつは……」
デュフォスから送られた伝令が現れたこと、そしてその後に現れたカルセドニー家の兄弟とことの顛末、大公が彼らに拘束されたことまで、詳細に話して聞かせる。
アレクスは驚いた様子で息を飲み、
「カルセドニー家が謀反に加担しているというのか……?」
小声で呟いた。
ユーカは頷き、
「暴徒と化した住民たちを守るため、という大義名分は、あるのですが」
「お前はどう思う?」
「違和感を覚えます……ネディム様の提案は消極的で、まるでこちら側の戦力を押しとどめておきたい、という意図も感じられるような気がするのです。なにをしたいのか、ごまかされているようで釈然としません」
アレクスは息を潜めて熟考し、
「……おかしなことになっているようだ。下手を打てば、今後のネルドベルの立場を危うくしかねない」
ユーカは喉元で拳を握り、
「お父様は、どうされるべきとお考えでしょうか」
アレクスは冷静に娘を見つめ、
「お前はどう思う?」
一人の責任を持つ大人にするように、意見を求めた。
ユーカはその意図を汲んだうえで、
「ネディム様の言いように筋が通る部分も感じます。やみくもに住民たちを力で制圧するという行為は、軽率に判断していいことではありません。ですが、私が聞いたのは一方からの意見だけ。デュフォス隊長から直接話を聞いておらず、都内で起こっている事態の全容を把握しているわけでもありません」
アレクスは強く頷き、
「私も同じように思う。この状況下で全容を知る前に一方に与するのは危険だ。ユーカ、お前は冬華の一席として、デュフォス卿に対しても面会を望むべきだろう」
ユーカは喉を鳴らし、
「両方に通じておくべき、というお考えでしょうか。ですがそれは……」
「それが正しい行為かどうかを論じる前に、家の存続のために必要な行為であるかを考える必要がある、そして――」
アレクスは常には穏やかな双眸に濁りを混ぜ、
「――都内で起こる騒動の解決とは別の問題が水面下で進行しているのだとすれば、我々はネルドベルという家を守る者として、正しい側ではなく、勝つ側につかねばならない。どちらが勝者か敗者か、わからぬうちは立場を確たるものとすべきではない、お前ならばわかるはずだ」
アレクスは教育者のように処世の裏側に通じる手段を語る。そして、早熟であるユーカには余すことなく理解できた。
ユーカは父に強く頷き、
「私が直接、デュフォス隊長の下へ向かいます。この状況下で使者のやりとりをしていれば手遅れにもなりえますから」
アレクスは逡巡の後、
「……わかった。こちらのことは気にしなくてもいい、連れて行けるだけの者を同行させなさい」
ユーカは首を振り、
「身を隠し、一人で参ります。そのほうが早く確実ですから。ですが、ネディム様のほうが――」
「そっちは私にまかせておけばいい。うまくごまかしておこう」
*
都の上流にある綺麗で造りの良い建物に石塊が投げ込まれ、破壊された扉や窓から人々が侵入し、取る物が無くなれば火が放たれる。
街の深部に達するほどに、そこに流れ込む人々の熱気はより高まっていく。
「いっそのこと、力尽くで制圧してしまったほうが簡単ではないか」
問答無用に襲いかかってくる住民らをいなしつつ、ビ・キョウがシュオウへ提案した。
シュオウは一帯を眺め、
「後ろに任せておけばいい。これがどこまで続いているかを確かめる。最果てを見つけてそこから中に押し込むぞ」
「軽く言ってくれるが――」
ロ・シェンは、声を上げながら突進してくる大柄の男を地面に倒しながら嘆息して、
「――捨て身でかかってくる多勢を殺めずに抑えるのは至難の業だ」
ロ・シェンの配下である武人たちは、指示を忠実に守り、暴徒と化した住民たちを殺す事なく無力化させていく。だが、ロ・シェンの言うようにその行程は簡単なことではなかった。
兵士を殺害し、街を破壊する、奥へ進むほどより暴力的になっていく住民たちを見て、ビ・キョウはさめざめと別の方法を仄めかす。
「ここらの連中は救いを受けるにはやりすぎている。行為は罪人のそれと代わらんぞ。手を下したところで、それを咎める声もないだろう」
シュオウはビ・キョウを睨みつけ、距離を詰める。シュオウが手を伸ばすと、ビ・キョウは緊張して腰を沈めた。シュオウは彼女の手首を素早く取って強く引く。直前までビ・キョウが居た位置に瓦礫が崩れ落ちてきた。
瓦礫の塵とほこりが舞い上がるなか、強く引き寄せられた反動でシュオウの腕の中に身を置くビ・キョウは、きょとんとして細い目を大きく見開き、シュオウをじっと見上げている。そんなビ・キョウをロ・シェンが冷めた目で見やり、
「キョウ……お前、照れているのか?」
珍しいものを見るような調子で言った。
ビ・キョウは一瞬にしてシュオウから身を離し、咳払いをして髪にかかった埃を払い、ロ・シェンに向かって肩を怒らせた、その直後、視線をシュオウのほうへ向け、
「シュオウッ!」
注意を促すように大声で叫んだ。
シュオウは視線の向きから咄嗟の判断でしゃがみこむ。直後、背後から投げ飛ばされた木片が頭の上をかすめていった。
ロ・シェンが投げつけた者を探して視線を巡らせたその時、
「シュオウ……?」
周囲にいた者たちが、口々にその名を口にして、破壊行動を止めてシュオウに視線を送り始める。
「おい、お前ら――」
「シュオウって、あの――」
我を忘れていた暴徒たちが、まるで静寂の雨に打たれたように静まり始め、ひそひそと語るその名と共に、周囲の空気が不気味なほど沈静を帯びていく。
対応に当たっていたロ・シェンは突然大人しくなっていく住民たちに首を傾げ、
「なんなんだこいつら、急に……」
暴徒たちが手を止めてシュオウに注目している状況で、ビ・キョウが馬を連れてシュオウに跨がるよう促した。
ビ・キョウは、
「聞く耳を持っているようだ。馬からのほうが連中に顔と声が届きやすい」
シュオウは頷いてぎこちなく馬に跨がり、
「全員、手を止めて中央通りに行け。俺の仲間たちが住民たちの避難を誘導している。全員を助ける、誰も見捨てない、俺に協力してくれるのなら、大人しく指示に従ってくれ」
多くの者たちが呆然として佇み、一人、また一人と武器として握っていたものを地面の上に落としていく。
そのあまりの豹変ぶりを訝りつつ、ロ・シェンは部下たちに指示を伝え、指示を受けた武人たちが大人しくなった住民たちを穏便に後方へと誘導し始めた。
多くの者たちがゆっくりと歩きながら、なにか言いたげな目でシュオウをじっと見つめている。
ビ・キョウは馬上のシュオウを見上げ、
「その名に、暴徒どもに武器を手放させるほどの威容を持っているようだな」
シュオウは送られる多くの視線を受け止めつつ、
「みんな疲れた顔をしている、早く全員を休ませてやりた……いッ?!」
言い終える直後、シュオウを乗せてからしきりに首を振っていた馬が、振り落とそうとして激しく暴れ出した。
ビ・キョウが手綱を懸命に引くなか、シュオウは振り落とされないよう、全身を使って馬にしがみつく。
ビ・キョウは呆れ声で、
「なにをすれば馬にここまで嫌われる?」
シュオウは歯を食いしばって馬にしがみつきながら、
「俺が、知りたい……ッ」
その無様な様子を静かに眺めていたロ・シェンは、
「締まらんな……」
呆れ口調でそう零した。