流転 1
戻ってまいりました。
休止期間中にも、感想やレビューをお寄せくださった方、変わらず応援の声を届けてくださった方、本当にありがとうございました。原動力と勇気をいただいています。
おまたせしましたが、今日から今章の締めくくりに向かって連載を再開します。
部屋は鮮血に濡れていた。
生まれを問わず、年齢を問わず、ただやみくもに殺された亡骸が横たわる。
それは純然たる悪行でありながら、すすり泣く声もなく、苦しむ声もなく、怒る者も、糾弾する者も、ここにはいない。
ボウバイト家当主、ターフェスタ公国の将軍、ドーペ門総督、そして領地ボウバイトの領主たる侯爵エゥーデ・ボウバイトは、静々と血だまりの中を歩きながら、鋭い眼光を隙間なく張り巡らせた。
その目がすべての死者を捉えた後、
「見事な腕前だ、あの一瞬で討ち漏らしがない……」
傍らに佇むジェダは、上っ面の礼儀正しさで浅く辞儀をする。
「おそれいります。やり方を褒められるのは珍しいことなので、むずがゆいものですが」
エゥーデは憎々しげに鼻を鳴らし、
「この技はまさしく殺しを生業とする者の天性の能力だ。陰のなかを生きる気なれば、いつでも私に言いにくるがいい、当家専属の刺客として高額の報酬を約束してやる」
ジェダは小さく鼻で笑い、
「生憎ですが忙しい身ですので、お気持ちだけいただいておきますよ」
エゥーデは突如すっと表情を消し、
「――約束は覚えているな?」
「もちろん、すべては僕の一存でやったこと。彼らはジェダ・サーペンティアと遭遇し、末に死を迎えた――そう話を広めていただいて構いませんし、こちらからもそのように噂を広めておきます」
エゥーデは目を細めてジェダを睨み、
「その名に生涯洗われることのない汚名が付くことになる。あとになって高くついたと泣き言を聞かせてくれるなよ」
ジェダは柔く微笑を浮かべ、
「そちらこそ、約束をお忘れなく。急かすようで申し訳ありませんが――」
「みなまで言うな――」
エゥーデは扉に向かって、
「――アーカイド!」
大声で副官の名を呼んだ。
部屋に入り、アーカイドは反射的に鼻に手を当てようとする。が、すぐにその手を下げ、室内の惨状から目を背けるように、エゥーデを凝視して敬礼した。
「エゥーデ、さま……」
エゥーデはアーカイドを見つめ、
「終わった。これより、我がボウバイトは都内の乱を鎮めるため、特例として独自の判断で行動する。全隊に知らせ、中央都のすべての出入りを封鎖したまま、余剰の人員を中に入れろ、指揮は直接私が執る」
アーカイドはこみ上げるものを隠しながら、
「はッ――」
承知を告げて、呆然と立ち尽くすディカに目をやった。
「――ディカ様を、外にお連れしてもよろしいでしょうか」
聞きながら、アーカイドはディカを部屋の外へ出すようにさりげなく背に手を当てる。
エゥーデは声を張り、
「ディカ!」
その瞬間ディカがぶるりと肩を震わせた。
エゥーデはディカの背に向け、
「ここに居ることを望んだのはお前だ。思っていたものとは違ったか? この薄汚い光景、反吐がでるほどの悪臭こそ、権力を巡る争いそのものだ。一歩間違えれば、ここに横たわっているのは私やお前ともなりえる、わかるな?」
ディカは背を向けたまま、錆び付いた扉のように頷き、
「……はい」
ふと、エゥーデは肩の力を抜き、
「お前は、身体を張ってまで敵を守るために許しを与えようとした。その勇気と寛大さには、心から敬意を表する。私には出来なかったことをやろうとした。その強さは、まるでお前の母を見ているようだった」
ディカは嗚咽を隠しながら、
「……ッ」
エゥーデを一瞥し、落としていた顔を力強く持ち上げた。
*
不満と怒り、悲しみと憎しみ――負の感情に起因する行動は醜さを極める。
娘のユーニと、エヴァチと共に居た信徒たちを先に逃がし、ヴィシャはエヴァチや部下たちと共に、上街へ足を踏み入れた。
泣き叫ぶ子どもたちを無視し、破壊の限りを尽くす大人たち、その傍らに怪我を負ってうずくまる者たちに、惨い死者の成れの果て。リシア教司祭パデル・エヴァチは醜い現実から目をそらすように天を仰いで神に祈った。
そんなエヴァチを、ヴィシャが厳しく一喝する。
「あんたが逃げてどうする、こいつらのためにどうにかしようって、城にまで押し入るほどの気持ちがあったんだろうが。世の中は常に理想通りに進みやしねえ、国に逆らうってのはこういうことだッ」
ヴィシャの言葉は一言一句、反論の余地なくエヴァチの心に突き刺さる。ただ静かに食料を盗んで運びだすなど、甘い考えでしかなかった。権力に刃向かうことの恐ろしさ、そこにあるのが純然たるただの暴力でしかないという現実を、理想を求める聖職者であるエヴァチは、ただただ無防備なまま理解できていなかったのだ。
「どうすれば……いいのでしょう……」
目の前で繰り広げられる惨状に、エヴァチは頭を抱えて打ちひしがれる。
「やれることをやるだけだ。子どもや怪我人を回収して、上の連中が本格的に手を出してくる前に山中に逃げ込む。連れて行ける奴を一人でも増やせるように手を貸せ、神の使いであるあんたの言葉なら聞く耳を持つ奴もいるだろう」
明確な道を示され、
「わかりました、できるかぎりのことを……ッ」
エヴァチは体の芯に力を込める。
だが、ヴィシャは先に広がる暴徒の群れを見て、あらためて嘆息した。
「しかし、どこまで続いてんだ、こりゃあ……」
上街一帯に、人々が隙間なく行き交う。耳にこびりつく悲鳴、略奪を喜ぶ声。捨て身な怒りや歓喜に怒号、さまざまに血気盛んな音のなか、隠しきれない悲哀の音色が混ざり合う。
空しさと狂気に満ちた宴を前にして、ヴィシャが一瞬の弱気を滲ませたのも、無理からぬことだった。
*
流転 1
馬は馬であり、魚は魚である。両者は明確に異なる存在であり、同じものとして見られることはないが、人間の世界には、同種の存在のなかにはっきりと大きく溝を分かつ境界線が存在している。
彩石と濁石、異なる結晶を持って生まれた者たちが、等価値のものとして扱われることはなく、両者には力という、もっともわかりやすい違いがみられる。
彩石保有者には特定の超常的な能力が発現し、一方で持たざる者たちはそうした特異な性質を欠いていた。前者は社会制度内における上位の存在として扱われ、両者の差異は生涯埋まることなく在り続ける。
彩石を持つ者、持たざる者の間に生まれたセレス・サガンにとって、この世界の理は残酷だった。
上位の存在として扱われる彩石を持ちながら、その階層の人々から仲間として受け入れられることはない。しかし、下位の世界に落ちるには、セレスはあまりにも下位の平民たちとは異なる存在だった。
晶気と呼ばれる超常を操る術もなく、ただ上位者たちから使い捨ての駒として働かされ、日々を生きるのがやっとの稼ぎを得る彼らを、同等の存在として感じられるはずもない。
だが、
――ひどすぎる。
目に映る退廃した街並、その情景にひどく心が痛むのは、ターフェスタの都が醜く欠損したことによるものばかりでは、決してなかった。
この街で日々をやっとの思いで生きていた人々の苦労が、今のセレスにはよくわかる。
ささやかな食料を得るためにどれだけの体力を使い、傷を負いながら地を耕し、収穫し運び、料理され、やっとの思いで口に運ぶことができる喜びと苦労の一端を、身を持って知った今のセレスには、この街の惨状から零れ落ちる民の涙が、どれほどの苦さをもっているか、理解できてしまうのだ。
子どもをかばうように覆い被さり、地に伏せる親子の死体を前に、思わずその光景から目を逸らしてしまう。
――いまさらだ。
何度も頭のなかで吐き出した言葉、それをまた繰り返す。
過去の所業を思うほどに、人々の苦境に同情する自分の愚かしさに吐き気をもよおした。
縛られたまま、引きずられるように歩くレイネは、悲しみや不安を隠しきれない表情で、周囲の光景を見回していた。その姿を見て、セレスは感じた事のない感情に囚われる。
――こんなに、小さかったのか?
山中の拠点で世話を焼かれているときには気づかなかった。レイネはまだはっきりと幼さを残す子どもなのだ。大人びた言動をしていても、それが虚勢や努力から絞り出していたものであったことに、いまさらながらに実感する。
自然と、視線を即席の軍を率いて指揮を執るウィゼ・デュフォスに向けていた。
ターフェスタ公国内においても、絶大な権力を有する家の当主であり、今後のセレスの命運を決定する力を持つ存在。
優柔不断に揺れ動く視線は、レイネとデュフォスの間をたよりなく行き来する。
対極に位置する二つの存在を前に、セレスは自分が本来居るべき場所であると信じる上流の世界に手を伸ばした。
――もう、選んだんだ。
国でも随一の権力者から、許しの機会を与えられた。上手くやればかつて諦めていた輝士という栄誉を得られるかもしれないと聞かされ、その欲に抗うのは難しかった。
その視線はしかし、否応なく傷ついて弱った様子のレイネへと引き寄せられていく。そこには未だ切り離すことができない未練のような心が繋がれていた。
――違うだろう。
セレスは目を閉じ強く頭を左右に振った。
持たざる者たちの苦労を知り、彼らと同じ目線でものを見て様々な経験をした。話をすれば親しみが沸き、希望を語る口、絶望を見る目を知ってなお、やはり彩石を持つ自分とは違う存在なのだという考えも、頭から離れることはなかった。
セレスにとって帰るべき場所、それは彩石を持ち、富と権力を持ち、この街の上流に君臨する貴族という立場。だが、母の血に由来する凡人たちの世界においても、そこに感じた居心地の良さは本物だった。
堂々巡りの思考を繰り返すうち、
「デュフォス卿ッ」
隊の先頭から物々しい声があがった。
兵士たちが身構えるなか、セレスの視界に映るのは、上街西側方面に大挙して押し寄せる、下街地区の住民たちの姿だった。
塊となって蠢く集団が、デュフォスらの存在に気づき、指を指した。彼らは誰からともなく武器を構え、道を閉ざすように列を成して壁を形勢する。
その様を見て、兵士らは驚いたように顔を見合わせた。
デュフォスは呆れ顔で、
「こちらに気づいてなお逃げようともしないか。立場を弁えずに抗戦を望むとは、真に愚かな者たちめ」
デュフォスは振り返って、
「これより先、上街内部にいる暴徒すべてを公国を脅かす外敵とみなす。手心を加える必要は一切ない、見かけた端から始末し制圧する。ウィゼ・デュフォスの名の下に命じる、賊を根こそぎに討伐せよッ」
殺伐とした命令に、重たい空気が流れる。
輝士たちは馬上で武器を構え、晶気を扱う支度を整える。漂う緊張感は、まるで戦場を思わせた。
*
「ヴィシャの旦那、具合の悪いことがあった」
帯同する者たちから深刻な知らせを告げる声が聞こえてくる。
街が焼かれ、大勢が死に、下街の民が貴族の街に攻め入っている状況で、これ以上に大変なものがあるとすれば、それが頭を抱えるほどの事態であることは間違いない。
ヴィシャは覚悟を決め、
「……なにがあった?」
「西の側門のほうに輝士の集団が詰めてきてるって話で」
大方の予想通りの答えを聞き、
「始まったのか……」
ヴィシャは深く顔を落とした。
エヴァチは不安げに、
「もうこれ以上は……」
「あんたは回収した連中を連れて逃げてくれ」
エヴァチは首を縦に振らず、
「あなたも一緒に行くのです」
ヴィシャは周囲を見渡し、
「そうしたいが、この様子じゃこの先にも残ってる連中が腐るほどいるだろう。いるとわかってるもんを見捨ててはおけねえ」
エヴァチは深刻な顔でヴィシャの腕を掴み、
「相手が輝士の集団であるという事をお解りですか?」
ヴィシャはエヴァチの手を掴んでゆっくりと離し、
「考えたくはねえが、いやってほどわかってる。だが、行くしかねえんだ。ここは俺の街だ、下街の奴らと共に生きてきた。ここにいる連中は俺の飯の種でもある、死なれちゃ困るんだ。司祭、あんたの石には色がついてるし学もある、皆のために逃げろ。俺が用意した山中の拠点には色々と揃ってる、しばらくはそこで食いつなげるはずだ。向こうには上の娘もいて現場を仕切っているはずだ、賢いあんたがレイネに手を貸してやってくれ」
まるで別れを告げるような言葉に、エヴァチは手で神への祈りを捧げ、
「お子さんたちが待っています、必ず戻ってきてください。その子たちにも、他の者たちにも、こんな状況下では、あなたのような人が必ず必要になるでしょう」
負傷者や子どもたちを乗せた複数の荷車と共に、エヴァチが下街へ通じる横道へ去って行く。
ヴィシャは屈強な部下たち、それに急場で合流した他の勢力の人間たちを引き連れ、頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「俺みたいなのが、連中に必要だってか……?」
暴力をちらつかせ、不法に場所代や管理費用を取り立ててきた無法者の元締めとしては、あまりに皮肉めいて聞こえる言葉だった。
「ヴィシャの親方、本当に行くんですか?」
部下の一人に問われ、
「逃げ遅れてる連中の尻を叩く。向こうには輝士様がたんまりと御座すらしい、恐いやつは司祭と一緒に山に逃げろ、責めるつもりもねえ」
部下たちは互いに顔を見合わせ、全員が真っ直ぐに道の先を見つめた。
ヴィシャはその先頭に立ち、
「ようし、行くぞ野郎どもッ」
進むほど、徐々に人の流れが逆流し始める。
明らかに状況を知って逃げ始めている者たちを誘導しつつ、ヴィシャはさらに奥深くへと進む。が、深さを増すほどに、逆に人の密度は濃度を増していった。
「上の連中が攻めてくるぞ、てめえら、今すぐ逃げろ!」
大声をあげるが、そこに留まる者たちは微動だにしない。
手には鋭く尖った瓦礫や武器が握られ、全員が暗く思い詰めたような表情で、まるで戦場に向かう兵士のように群れを成して固まっている。
「逃げろって言ってるだろ、輝士相手じゃどうしようもねえんだ、素人が数で押したって勝ち目なんてないんだぞッ」
説得に応じる者はない。集団の中から覚えのある中年の男が近づいてきた。
「旦那さん、もういいんだ……」
「なにがいいっていうんだッ」
男は深く溜息を吐き、
「家もない、食い物も底が見えてる、上の奴らは俺たちから吸い尽くすばかりで、もう生きていたってそのうち飢え死にするだけだ。上街を荒らし回って、どのみち許されるはずもない。俺たちはここで死ぬ、せめて死ぬ前に貴族どもに汚え俺らの血を浴びせてやるんだ」
志しもなく、未来に希望も抱いていない。ただ自暴自棄になって暴動を起こした集団のなかでも、ここにいるのは絶望が沈殿して降り積もった澱のような者たちばかりなのだ。
ヴィシャはすべてを諦め、逃げる意志すら失った者を前に、忌々しく唾を吐き捨て、気持ちを吐露した男の首を掴み上げた。
「誰が仕切ってるッ、お前らをここに縛り付けているのは誰なんだッ」
平民、下民、労働者、どのように呼ばれようと、社会構造の下位に属する彼らは羊のような存在だ。羊は群れをなし、外因によってその行動を決定付ける。
貧相な武器を握って、兵士でもない民衆が集団で輝士と対峙しようとしている。そんな大それた真似をするのは、その意志を伝播させる指導者がいて然るべきだ。しかし、
暗い顔をした集団のなかから、
「誰でもねえよ」
ぼそりと、声があがった。
「なにッ?!」
また別の者が、
「仕切ってる奴なんていない、俺たちは自分らの気持ちでここにいる」
その言葉に偽りがないことを、ここにいる全員の揺らぐことのない目が訴えていた。
これだけの人間たちが集団で死に向かう行動を選んだという事実を前に、ヴィシャは掴んでいた男を降ろし、呆然として一帯の光景を見つめた。
「お前ら……そこまで、か……」
すべてを覚悟した者たちを前にして、もはや吐き出す言葉は見つからない。
ヴィシャは説得を諦め、誘われるようにして集団を掻き分け、前へ前へと進んでいく。
汗と埃、焦げ臭さが充満する大通りを進み、集団の最先頭へと到達する。
視線の先には、威圧するように居並ぶ輝士たちの群れ。赤い軍服と高価な外套に身を包む威風堂々たる輝士たちの姿。そして武器を構えた濁石の兵士たちが整列するなか、そこにいるはずのない者の姿を見つけ、ヴィシャは思わず崩れ落ちそうになるほど脱力した。
「レイネ……?」
遠目にでも家族の姿は一目でわかる、兵士たちの先頭にいて縄で繋がれながら、愛娘が晒し者のように立たされている姿がそこにある。
「どうしてお前がッ――」
取り乱して飛び出そうとしたヴィシャを、部下たちが三人がかりで押しとどめる。
「おちついてくれッ、行ったって殺されるだけだ――」
ヴィシャの視界に、もはやレイネ以外のものは映っていない。大切な我が子はぼろぼろになった服をまとい、酷く傷ついた様子で、まるで家畜のように縄で縛られているのだ。
「よくも俺の娘にッ!!」
理性を喪失し、ヴィシャは自分を押さえ付ける部下たちを吹き飛ばし、近くにいた男から無理矢理に武器を奪い取った。
*
輝士たちがデュフォスの突撃命令を待つその瞬間、
「……なんだ?」
デュフォスはあげかけた手をゆっくりと下ろし、首を傾げた。
群衆の中から、一人の体格のいい男が飛び出し、武器を振り上げて暴れている様子が見受けられる。
その様子に気づいたレイネが呼吸を止め、セレスもすぐにそれが誰であるのか理解し、息を飲んだ。
一際目立つ偉丈夫ぶりと下街の暗部を仕切る親方としての風貌、デュフォスはすぐに記憶からその姿を引き出し、
「あいつだ――」
と低く呟いた。
デュフォスは硬直するレイネの後ろ姿に目をやった後、意味深な視線をセレスに向ける。その顔にしたり顔の笑みが浮かんだ瞬間、セレスは逃げるように顔を沈めた。
デュフォスが、
「ヴィシャ、だったな――」
とはっきりその名を呼ぶと、レイネがびくりと肩を震わせる。
「――この私に生涯消せぬほどの屈辱と痛みを与えた者たちの頭目だ。そして、お前の父親でもある」
語りかけられたレイネは前を向いたまま、
「さあ、知らないおっさんだね。どこにでもいるような奴じゃないか……」
デュフォスは口角を上げて笑み、
「素直に認めるなら、父親の元に返してやってもいいと思っていたが」
レイネはゆっくりと振り返り、鋭い目でデュフォスを睨めつける。
デュフォスは馬上から顎をあげてレイネを見下ろし、
「信じていない、という顔だな――その娘の拘束を解け」
兵士にレイネの解放を命じた。
レイネは痛々しい縄の痕が残る手首を撫でながら、
「なんのつもりだよ……」
「あの暴徒どもに対して、きさまを特使として送り出すことにした。父親のもとへ向かい、今すぐ叛乱に加担する下民どもを下に戻すように伝えろ」
レイネは半信半疑で前後を交互に見やり、
「みんなが下街に戻ったら……?」
デュフォスはそっと顔から笑みを消し、
「私もこれ以上無駄に時間を浪費したくはないのだ。大公殿下がお戻りになられる前に事が収まるのなら、大人しく従った者たちには恩情を与えてやってもいい。無駄な血を流さずにすむのなら、それが最も賢明だ」
暗く沈んでいたレイネの顔に、ほんの微かな希望の光が宿る。
「本当、だね?」
デュフォスは首肯し、
「そもそも、私がその気になれば今すぐにでも奴らを制圧することができるのだ。わざわざ手間暇をかけてこんなことはしない」
レイネはしばらくデュフォスと視線を交わした後、ヴィシャがいるほうへと体を向ける。一歩ずつゆっくりと足を踏み出しつつ、一瞬だけ振り返り、視線を一瞬セレスへ向けた後、勢いをつけて走り出した。
直後、
「ふふ――」
冷めたデュフォスの笑声が漏れ聞こえ、セレスは目を見開いて凝視する。
「デュフォス、卿……?」
一瞬沸いた疑念が間違いであることを願いながら、セレスはデュフォスの顔を覗き込む。
デュフォスはぎらついた目でセレスを捉え、
「セレス・サガン、きさまに最大の栄誉を与えてやる。あの愚かな娘を父親の目の前で殺せ」
「え……?」
セレスの心臓が強く跳ねる。
――ころす?
懸命に走っているレイネを見つめ、
――レイネを?
まだ十分に幼いと言える子どもにすぎない。母親もなく、妹の面倒を見ながら家業を必死に支えている。
――なんで。
ただ必死に生きているだけの少女が、殺されなければならないのか。
――どうして。
父親の目の前でわざわざ死を与えなければならないのか。
――なぜ。
ふと、濁りと雑音に支配されていた思考がぴたりと止んだ。
なぜ――疑念を表すその一言が、頭のなかで繰り返される。
単音に支配された思考は混じりけのない、ただ純粋な疑問を抱かせた。
セレスは真顔で口を開けてデュフォスを見つめ、
「なぜ、ですか?」
不意打ちで単純な質問を受けたデュフォスは、
「……なんだと?」
聞き返し、その顔を引きつらせた。