殺戮 8
殺戮 8
淀んだ死臭を祓うため、部屋の窓が開け放たれた。
白布がかぶせられた死者の前で、ユーカは両手の指を組み合わせ、静かに祈りの言葉を口にする。
「――この者の死に、安らぎをお与えください」
聖職者が葬送に用いる祈りの言葉を諳んじると、クロムがすぐ側で、食べ物を咀嚼しながらその様子を眺めていた。
ユーカは複雑な人型に盛り上がった白布を見下ろして黙祷を捧げ、次にネディムに注意を向ける。
用意された熱い茶を手に、ネディムは淡々と卓の上に置かれた地図に目を落としていた。
カルセドニー家の兄弟は、死者に一片の興味も示すこともなく、それぞれが自分のしたいことをしているだけだ。
ユーカは協力を約束した選択が正しかったのか、不安に思いつつ、ネディムの対面に腰掛けた。
ネディムはすかさず、
「さて、これからのことを決めなければ――現状で把握できていることがあれば聞かせてもらえないでしょうか」
「それほど多くのことは……集結した暴徒が上街全域に流入し、破壊行為と略奪を行っているとの報告を受けました。こちら側に向かう集団は二手に分かれ、一方はここを目指し、分裂した一方は城に押し入ろうとしているようです」
ネディムは真剣にユーカの話に耳を傾け、
「軍が出払い、大公が不在の状況下で、偶然に生じていた隙に見事につけこまれてしまったようですね。ユーカ、あなたはここの指揮官として、この事態にどう対処すべきと考えますか?」
「私は……主導する者を見つけ、交渉を試みるつもりでした」
ネディムは数回頷き、
「なるほど、堅実です。ただし、それは対象とする者が存在していなければ無駄な試みともなりえる」
「主導者がいない、とおっしゃられたいのですか?」
「これほどの規模で領民たちを焚きつけ、操れる者が仮に存在するとすれば、それほど優れた人間が、結果にどのような末路を迎えるかを考えないとは思えない。仮に彼らが叛乱を成功させ、一時的にこの中央都を制圧下に置いたとしても、軍による早期の奪還は目に見えている状況であり、叛乱に加担した者たちは極刑に処されることになる。まったく無意味な行いでしょう」
ユーカは鋭く口を挟み、
「お言葉にも一理あります。でも、それを証明する証拠は存在しないのでは」
ネディムは首肯し、
「それは否定しません。が、この乱によって参加者たちが得られるものがなにもない、という現実こそ、彼らが感情にまかせて起こした行動であることを裏付けているように思えるのです。ですから、いったんは乱の首謀者が存在する、という説を脇に置いておくことを提案します」
ネディムの説を否定する材料が見つからず、ユーカは意見を喉の奥にしまい込む。
「だとすれば、暴徒たちを穏便に下がらせるために、他に手段が思いつきません。ネディム様はどのように対処するのがよいとお考えか、お聞かせください」
ネディムは現在地である貴族の居住区を指さし、
「あなたの言う通り、現有の戦力で大群と化して押し寄せる暴徒を穏便に押さえ込むというのは現実的ではありません。延焼を広げずに押しとどめる意味でも、まずは守勢に徹して現地点の確保を最優先に行動します」
大仰に乗り込んできて、協力するよう説得を試みたにしては、消極的な提案にユーカは首を傾げた。
「なにもせずに、ただ守備を固め続けろと……?」
ネディムは淀みなく頷き、
「有り体に言えば、階級間の衝突を避けるのが狙いです。暴徒たちは捨て身で叛乱という行動に出ている、その決死の心を折るのは容易いことではない。なんにせよ、それを防ごうとして能動的に働きかければ、そこに必ず摩擦が生じる。結果によっては彼らの怒りをさらに増幅させ、こちら側も被害を被れば、その怒りは憎しみへと転化し、結果に死者の山を築くことにもなりかねない。いまはそれを防ぐ事に全力を注ぐべきだと考えます。それに、ただなにもしないというわけでもない、こちらには、志をもって行動をする別働隊が存在します」
ユーカは視線を強め、
「あの者のことですか」
ネディムは視線を和らげ、
「ええ。シュオウ殿であれば、この事態を打開するために全力を以て事にあたるでしょう。いまごろはもう、行動を開始されていてもおかしくない」
ユーカは怒りとも屈辱ともいえない感情を胸に持ち、
「その者を信じて、ただ待てと……?」
「抵抗があるのなら、私の言葉を信じてください。あなたに嘘は言いません、ここへ来たときからずっと、私は真実のみを語っています」
真摯な態度と言葉に、ユーカの心は強く揺らぐ。
ネディムは続けて、
「防壁を集約して配置する地点にさらに人手を集めましょう。各家々には手を余した使用人たちがいるはず。救援を募集し、防衛のさらなる強化を図ります」
都合良く使われることに不満を感じつつも、本来敬愛する相手から送られる指示は、むしろユーカの心に安堵を与えた。
「……働きかけてみます」
言葉を残し、ユーカは指示の遂行のために外へと向かった。
*
「行かせていいのか? 理解者のふりをしてこちらを裏切るつもりかもしれんぞ」
ネディムはクロムの言葉に微笑み、
「彼女は若く、未だ人界の穢れを負っていない。だからこそ、私はわざわざここまで語りかけにきたのだよ」
「簡単に未熟、と言ったらどうなのだ? その程度の人間を引き入れるために、わざわざ時間を食ってまでこんなところへ来たのか。兄の地位はあのお嬢ちゃんよりも上位のはずだな。面倒な事をせずとも、直接この場を仕切ってしまえばよかったのだ」
ネディムは声を潜め、
「ユーカとの敵対を避けたのは、この先のことを見据えてのこと。この中央都に在する力ある家々に対応するのに、カルセドニー家だけの力では弱い。そこに不承不承だとしても、側にネルドベル家を置くことができれば、その後の交渉もやりやすくなる」
「くだらん、役立つかどうかもわからんものだ。裏からこそこそと動き回るばかりでなく、もっと直接的に我が君の力となったらどうなのだ。もしも手を抜いているのだとしたら――兄とはいえ容赦なく排除させてもらうぞ」
「いくら可愛い弟とはいえ心外だ。私はお前の主君のために貢献を惜しむつもりはない。剣を持ち、血を流すばかりが戦いではない。武力での鎮圧を目的として動いているであろうデュフォスと、ユーカが指揮官として包括している都内の兵力が合わされば、その対処は難度を増すばかり。私はこの場で指揮をとり、それを全力で妨害する。とくに彩石を持ち晶気を操る者たちを、この場に釘付けにしておくことこそが重要なのだよ」
クロムはうんざりと息を吐き、
「そうやって舌ばかりぺらぺらと回すばかりで、兄は結局、自分の手足を使わずに座っていたいだけなのではないのか」
ネディムは嫌みを受け流して目を細め、
「それは……私という人間の性分なものでね」
楽しげに、そう返した。
*
シュオウは兵を率いて門をくぐった。
灰燼と化した街並を見て、同行する兵士たちが悲鳴にも似た声をあげる。
煙を吐き尽くし、炭のように黒く燃え尽きた瓦礫が、石畳の地面を埋め尽くす。
散見するひとの形をしたものは死者ばかり、生きた人間の声を聞くこともなく、下街の全域は不気味な静寂に包まれている。
市街地を歩き進める最中、しだいに兵士たちが悲痛な声を上げだした。かつて、そこに並んでいた店の名をつぶやき、住んでいたはずの人々の名を呟く。
子どもの頃に登って遊んだ木々が無惨に焼け落ちた姿に顔を湿らせ、見覚えのある通りの名残を見つけ、口々に叫ぶ。
驚きと痛みを伴う感情が交じり合い、耐えきれず嗚咽を漏らす者もいる。
多くの思い出と心が繋がる景色の変貌ぶりに、心を痛める者たちの様子を見ていると、故郷、というクモカリの言った言葉が深く胸に染みていく。
一団は溜息と共に進行し、上下の街の境に進む。
レオンの報告通りに、境界を挟んで、下街にいるべきはずの領民たちがなだれ込み、暴徒と化した様子が遠目にわかる。
武器を持った集団が、シュオウが率いる一団を見つけ、躊躇なく向かって来る。彼らからは、剥き出しの敵意が溢れ出していた。
隣に立つクモカリが不安げにシュオウを見やり、
「どうするつもり……?」
クモカリの奥に立つシガが、大きな背を伸ばして向かって来る集団を観察し、
「言っとくが、連中話し合いに応じるような様子はねえぞ」
忠告するように言った。
その他、多くの仲間たちから伺うように視線を投げられ、シュオウは目を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返して、後方に連なる遠征隊の兵士たちに視線を送った。
「住民たちを保護する。傷つけるなとは言わない、だが死なせるな。殺傷力のある武器、晶気の使用は禁止する。守れない者はここに残れ、一緒に来る者は命令に従ってもらう。破れば厳罰を与える」
渡り歩いた戦場から、これまでの経験を経て、上に立つ者としての振る舞いを、短い言葉のなかに込める。
武器を突きつけて脅すのでもなく、怒鳴りちらして萎縮させるのでもなく、ただ淡々と目的を伝え、自分がこの場を指揮する者であることを態度で表明するのだ。
堂々としたその様を前にして、遠征隊の下級兵士たちの大半が、シュオウへ向けて敬礼をした。
シュオウはその視線を、遠征隊の輝士たちへ向ける。彼らの態度には迷いがあった。
主であるドストフ・ターフェスタを拘束したと公言する者に、従うか否か。彼らは生粋の貴族であり、余所者であり、彩石を持たない身分でもあるシュオウに従う義理など、微塵もないのだ。
そのとき、
「ん……」
近くで待機するロ・シェン、そしてビ・キョウのほうから咳払いが聞こえてくる。
ビ・キョウがちら、と視線を遠征隊の輝士たちへ滑らせた。それを二度、三度と繰り返す。
その目の動きが言わんとしていることはすぐに理解できた。輝士たちが逆らう前に、決着をつけるべきだと主張しているのだろう。
即座に戦闘に移れるようにと、手下の武人たちが、悟られないよう輝士たちの周囲に展開していく。
一挙手一投足を見逃すまいと、ロ・シェンは瞬きをせず、シュオウをじっと凝視している。その様はまるで、忠実な番犬かなにかのようだった。
シュオウは、
「ロ・シェン――」
その名を呼び、
「――下がらせろ」
こっそりと輝士たちを包囲しつつあった武人たちを指差した。
ロ・シェンは苦い顔をして、武人たちに合図を送り、包囲に穴を開けていく。
状況に気づいた輝士たちは、慌てて警戒心を露わにした。
シュオウは彼らの代表者を見つめ、
「協力する気がなければそれでいい、ただ――手を貸してほしい、今は敵じゃなく味方が必要だ」
輝士はシュオウを見返した後、その視線を荒廃した街並、そして前方から向かってくる暴徒の群れに移していく。
輝士は忙しなく動かす視線のなかに葛藤をみせ、
「……状況を収めるまでだ。一時の間だけ、准砂の指揮下に入る」
シュオウを階級で呼んで敬礼すると、他の輝士たちが次々と輝士の敬礼をシュオウへ送った。
シュオウは頷いて前に向き直り、
「シガは輝士たちと協力して塊になった集団を散らせ。従士隊は分散した住民たちを制圧、拘束して下街へ移送する――」
直後にアマイを見やり、
「親衛隊に手伝いを頼めますか」
アマイは恭しく辞儀をして、
「指示を承りましょう」
シュオウは頷き、
「拘束した住民たちを安全に保護できる場所の確保と、移送を仕切ってもらいたい」
「かしこまりました」
シュオウはさらに、
「バレンは従士隊の指揮を執れ。レオンは前後の連絡役を。クモカリは後方に残り、負傷者と保護した住民たちの世話を頼む」
指示を送った三人が、それぞれ力強く同意を告げた。
どこか不満げなロ・シェンが一歩前に出て、
「我々の役目は? まさか飯を作らせるために解放したわけではあるまい」
シュオウはロ・シェンを鋭く睨み、
「奥に入って状況を確かめる、俺についてこい」
ロ・シェン、ビ・キョウの両名は黙したまま武人の礼の所作をとった。
シュオウは改めて全体を見渡し、
「表面から地道に取り崩す――始めるぞ」
作戦の開始を宣言した。
*
エゥーデ・ボウバイトは、行く道を間違えようとしている、と忠実な配下であるアーカイド・バライトは思わずにはいられない。
ボウバイトは地方の広大な領地を治める領主の家系であり、蛮族の流入を防ぐ防壁として機能してきた一族である。
馬や家畜などを中心として高値で取引される産物も有し、旅商が行き交う都市ほどではなくとも、豊かであり固有の兵力も保持する有力な貴族家である。
長らく従属と同義である同盟関係にあるターフェスタ大公家からも、ボウバイトの当主は一目を置かれる存在だ。
それほどの格を持つ家でありながら、現当主であるエゥーデは、疎ましく思う一族の傍流に属する者たちを外道な方法で抹殺するつもりでいる。
それもすべては、エゥーデの孫娘であるディカが確実に家督を継ぐための手段である。
それはまさしく、傑物であるエゥーデの最大の泣き所だった。
ディカは一族を掌握できておらず、それを支えるアーカイドも力不足である。強力な後ろ盾もなく、虎視眈眈と次の当主の座を狙う者たちを前に、エゥーデはその年齢ゆえに、確実に一族内で敵対する者たちより先に天に召されることになる。
家のことに興味がなく、絵を描くことにばかり執着していたディカに、次期当主としての自覚を持たせようと、エゥーデは悶々として足掻いていた。
だが、ここに来て、エゥーデは提示されたもっとも楽で、短絡的な方法を選択しようとしている。
敵対する者たち、そして直系の孫娘の将来に障壁となり得る者たちを、一網打尽に殺めてしまおうというのである。
「エゥーデ様、どうか話をお聞き下さい」
中央都へ通じる街道を昇る途中、隊列のなかで馬に乗るエゥーデに向け、アーカイドは切に語りかける。
アーカイドが語ろうとしている内容を、エゥーデはよく理解していた。理解しつつ、
「つくまでの間だ――」
拒絶せず、その試みを受け入れる姿勢をみせる。
アーカイドは馬を並べて、食い入るように顔を寄せた。
「お考え直しを」
エゥーデは鼻息を落とし、
「何度同じ事を言う」
「何度でも言います。あの男の企みにのるべきではありません」
エゥーデは舌で唇を舐め、
「勘違いするな、私が奴に利用されているのではない、私が奴を利用するのだ」
アーカイドはまなじりを釣り上げ、
「それほど単純な相手ではありませんッ」
エゥーデは唾を吐き捨て、
「大家の名を背負おうと、所詮は家を捨てた放蕩者、あれがどれほど力に長けていようと、所詮は寄る辺もない駆け出しの糞ガキにすぎん」
エゥーデの言葉に一言一句間違いはない。だが、
「あの一派は不気味です」
そう、言わずにはいられない。
エゥーデは一段、声を落とし、
「アーカイド、餓鬼どものお遊びを真に受けるな。大公を拘束しようとも、ターフェスタには銀製の盾が在る。ワーベリアムがことを知れば、国を蝕む害虫は即刻駆除されるだろう。連中には一時、簒奪ごっこを味わわせておけばいい。私は奴らを利用し、これを期にディカの後継の座を盤石なものとする」
「この件にボウバイトが加担していたと知られれば、ワーベリアム家の矛先がこちらへ向くともかぎりません」
エゥーデは得意げな視線をアーカイドへ投げ、
「言い訳などなんとでもなろう。家族の無事を脅されたとでも言えば、あの慈悲深き銀星石は涙を浮かべて私を労うに違いない。その言葉は疑いようもないほどの説得力を持つ、なぜなら、その頃にはすでに、ジェダ・サーペンティアが、我が一族の多数をことごとく死に追いやっているのだからな」
老獪な笑みを浮かべた。
緩やかな坂道を登るほどに、空の色は暗くなる。
生物の息吹もなく、枯れた景色に一層寒さが増していくなか、先行させていた斥候隊が息を切らして戻ってきた。
「ほ、報告ッ――」
斥候の口から告げられる内容は、ジェダの話と完全に一致していた。
斥候が報告を終えたのを遠目で見ていたジェダが、まるで急かすように馬の速度を一段上げた。
アーカイドから無言で送られた視線に、エゥーデは黙して頷いた。
歴史ある街道を直線で貫き、ボウバイト軍は速度を上げつつ、黙々と進行を続ける。
凪ぐ向かい風に乗り、焦げ臭さい空気が一帯に流れ込む。
ターフェスタ中央都を取り込む城壁が視界を埋め尽くし、その中央に開かれたままの正門が現れた。
エゥーデは振り返り、
「各所に兵を配置して出入りを封鎖しろ――」
その直後、ディカがエゥーデの目の前に馬を進める。
「お祖母さま、お考え直しを……」
エゥーデは一瞬だけ鋭く視線を尖らせ、すぐに和らげた。
「綺麗事だけで家は治まらん。私がそうであったように、お前の母がそのために命を落としたのと同じく。そして生涯忘れるな、お前の弱さが、この流血を招くのだということを」
エゥーデは切った視線でジェダを睨み、
「約束を違えば、我が軍は速やかに都内にはびこるゴミを片付けるぞ」
ジェダは一切表情を変えず、
「約束は果たします。ただし、そちらでうまく集めてもらえなければ。この状況下で一人ずつ探して歩いていては、何日もかかってしまいます」
エゥーデは強く鼻息を吐き、
「アーカイド、分家のゴミどもに伝令を出せ。本邸に集まるようにと」
アーカイドは躊躇いつつ、
「都内は混沌としているとのこと、あの家々の者たちをすぐに見つけられるでしょうか、すでにここを離れている可能性も――」
エゥーデは吹き出すように笑い、
「小心者のくずどもだ。家に張り付き、財産を守ろうと必死に首を引っ込めているはず。ご託はいい、送れ」
アーカイドは、最後の一瞬の間に躊躇いを混ぜつつ、
「……はッ」
承知を告げる。
「時間をとられるが、正面を避けて裏口から入る」
エゥーデの言葉にジェダは頷き、
「異存はありません」
エゥーデはディカを見やり、
「ディカ、お前はここに――」
ディカはすぐに、
「私も、行きます……」
覚悟の上である、とディカの真剣な眼差しが訴えている。
「よかろう……」
本邸へ向け、エゥーデを中心にアーカイド、ディカ、ジェダ、それに側近である少数の精兵たちを同行させる。
城壁の奥から漏れつたわる異様な匂いを嗅ぎながら、
――待っていろ。
エゥーデは獲物たちの顔を思い浮かべ、したたかに唇をなめ回した。