殺戮 7
殺戮 7
「ネディム様が、どうしてこんな……?」
裏切りとは最も縁遠いようなネディムの行為に、ユーカは恐怖に耐えながら、勧められるまま椅子に腰を落とした。
ネディムは対面の席に座り、
「突発的な他人の行為にいちいち心を乱しているようでは判断を見誤る。この状況下では動揺を隠し、まずは自分の立場と意志を明らかにすることを優先すべきです。すなわち、対話をするか、敵対するかの二択です」
これまでもそうだったように、ネディムは教示するように言葉を紡ぐ。
ある種の師弟のような関係でもあり、仕事場での監督者のようでもあった。尊敬できる相手であり、その関係性こそ心地良いと思っていたが、いま、目の前にいる男から聞こえる言葉は、これまでの経験と思いが一致しない。
心に不安を駆り立てるのは、この場に充満した匂いのせいでもある。
血の臭いがする。
さきほどまで、生きて動き、喋っていた男が、すぐ側で目を開けたまま、苦悶の表情を固めて死んでいる。
目の当たりにした人々の怒りと暴力。それに、自らのなわばりとも言える自宅のなかで行われた、醜い殺人行為。
ユーカの心は、目まぐるしく押し寄せる非日常により、著しく冷静さを失っていた。
ユーカは横目で死したプレーズを見やり、
「答えによっては、私も……殺されますか?」
ネディムは正負の判断が付かぬ微笑を浮かべ、
「考えを違う者をたやすく葬る行為は野蛮である、と私は考えます」
私は、という部分にだけ、妙に力を込めながら語った。
ユーカは、右隣にいるクロムに視線を移した。最後に見たときの記憶からは、別人のようにくたびれた様相になっているが、その視線から感じる鋭さは、以前に見たときの比ではない。
クロムは行儀悪く卓の上に座りながら、泥だらけの靴で椅子を踏んでいる。瞬きもせず、見開いた目をじっとこちらへ向けてくる。経験に乏しいユーカでも肌で感じられるほど理解できる。この男が、隙あらば命を奪うつもりでいることを。
剥き出しの殺意に対しての怯えを隠すよう、
「ごぶさたしています、クロム・カルセドニー監察官」
ユーカは日常の一瞬のように、軽く挨拶を口にした。
すると、クロムは鳥のように首を傾け、
「さて、面識はないはずだが」
真顔で言う。
並みの相手であればふざけていると怒りも沸くが、相手はこの男だ。本気で忘れていてもおかしくはない。
ユーカは心中の恐怖心を押し殺し、
「では……はじめまして。冬華六家ユーカ・ネルドベルと申します」
クロムはにたりと笑みを浮かべ、
「お嬢ちゃんがなに者であれ、このクロムにとってはどうでもいいことだ。敵であるなら早めにそれを表明してもらいたい。いつまでも愚兄に付き合って、こんなところで時間を潰していたくはないのでね」
視線をネディムに戻すと、そこから困ったように眉を下げ、まるで愛しい我が子でも見るような目を向ける顔がある。
記憶のなかにはないネディムの態度に驚きながらも、ユーカはなにげない会話を重ねつつ、徐々に冷静さを取り戻しつつあった。
ユーカは静かにネディムを見据え、
「幼くして冬華の席についた私を、ネディム様は温かく見守り、優しく導いてくださいました。あなたはいつも落ち着いていて、正しかった。冬華という位は、あなたのような方のためにあるのだと、そう思っていましたし、あなたは私の目標でもありました。ですがいま、私の目の中に映るのは、主への裏切りを公言し、無闇に他者の命を奪う者を平然と側に連れている賊のような人物です」
ネディムはゆったりと、かすかに首を傾け、
「私という人間は、いまこのときも、過去のいついかなるときも、変わってなどいないのですがね」
その言葉通り、あまりにも日常のなかのネディムそのものの態度が、そこにある。
口内で擦り合わせる歯が、抑えきれない動揺を音に乗せてひずませる。唇の奥にそれを隠しつつ、ユーカは本題を切り出した。
「ここへ来た理由をお聞かせください」
その問いがまるで正答であったかのように、ネディムは満足げに頷いて、
「現場を仕切る指揮官であるあなたに、この乱を鎮めるために協力をしていただきたく、参上いたしました」
ユーカは声に力を込め、
「お断りいたします」
「なぜですか?」
愚かな問いに、ユーカは眉をくねらせた。
「なぜって……あたりまえッ――」
感情を抑えきれず腰を浮かせるが、ユーカはすぐに口元を抑えて続く言葉を押し殺す。
ネディムは、
「おかしなことを願っているつもりはありませんよ。都内で発生している乱は、この国の根幹を揺るがすような大事です。それをなにより優先して、可能な限り被害を抑えつつ鎮めたい。シュオウ殿もそのように考えておられます」
ユーカは声を潜め、
「シュオウ……大罪人を連れ去り、その後にムラクモを裏切って、大公殿下に取り入った者のことですか。そのような輩に、ネディム様が従われるなんて……」
出自も定かではない人物だ。この国で裁かれるはずだったジェダ・サーペンティアを連れ去り、大公の顔に泥を塗ったうえ、その足で舞い戻り、戦争の指揮官という大役を手に入れたという。
「面白くもあり、つかみ所のない人物でもありますよ。あなたも、一度会って話をしてみたらいい」
ユーカは嫌悪の感情を顔に浮かべ、
「考えたくもありません。そのひとが彩石を持たないからではなく、ころころと仕える先を代え、裏切りを繰り返すような人間に敬意を持てるはずもない、ただの卑しい凡俗です」
言うと、隣にいるクロムが鼻の穴をふくらませ、
「口には気をつけたまえよ、お嬢ちゃん。あのお方の忠実なる僕が隣にいることを忘れずに発言したまえ」
ほんの一瞬、発光が漏れる寸前の力加減で風を起こした。
ユーカはクロムを睨めつけ、
「安っぽい脅迫には屈しない」
やり取りを見つめていたネディムはくすりと笑い、
「幼いながらも、その胆力には恐れ入ります」
ユーカは苛立ちをネディムへぶつけ、
「あなたも、その男に忠誠を誓われたのですか」
ネディムは表情を固めたまま、
「弟ほどではないにしろ、手を貸したい、と思わされるほどには。カルセドニー家の選択が正しい、と一方的に主張する気はありません。ですが、あなたの意見に一つ間違いを訂正させていただきたい」
「間違い……?」
「件の人物を指して、あなたは卑しい凡俗だと言った。これは明らかな間違いです。理由の一つ、戦果をあげて立場を確固としつつあった状況で、民を守ろうとして自らの未来をなげうった。このような自己犠牲を行える者が卑しい心根を持つはずがない。二つ、ムラクモから幾人もの人間たちが、国を捨ててまでかの人物に付き添い、未知の世界へ足を踏み入れた。なかにはかの王国で盤石の地位を築いていた者もおり、それをすべて捨てるということを他者に決断させられる者が、凡俗でなどあるはずがない」
整然としながらどこか威圧感のある語り口調は、ネディムが他人を強引に説得しようとしているときのものである。それを初めて自分が受けることとなり、ユーカは耳を傾けつつも、体の芯を硬くする。
「だから、なんだというのです」
ネディムは一つ間を置き、
「ジェダ・サーペンティアという、あなたはこの名をよく知っているはず」
傍目でわかるほど、ユーカは露骨に肩を震わせた。視線を落とした顔を、ネディムは覗き込むように首を傾け、
「希有な才能を認められ、他の候補を押さえて歴史に残る速さで冬華に指名されたあなたを、わずか一手で部屋の奥に閉じ込めた者のはず」
言葉が、あの感覚を引きずり起こす。
発現させた晶気は、本来その者の手足に等しく、現象そのものが隷属する。しかし、ジェダ・サーペンティアは、ユーカが行使している風の晶気を、その権限から根こそぎに奪い去ってみせたのだ。
全身から力を奪い去られていくようなあの感覚は、まるで体中の血をこぼすように、魂に刻まれるほどの寒さを伴っていた。
それは自他共に認める輝士としての才能を根底から打ち壊し、ユーカの心に深い外傷を負わせていた。
ネディムは饒舌に舌を回し、
「私個人として、王石を持たない身でありながら、あれほどの才能を持つ者を見た事がない。風蛇の家サーペンティアの生まれだとしても、あれほど傑出した力を持つ者は、おそらく非常に希な存在だったはず。それだけの圧倒的な力を持っていれば、他人などそのほとんどが無価値に見えているかもしれません。ひと目見てわかるほど肥大化した自負心を持つ者でありながら、それほどの人物が、件の人物のために這いつくばり、頭を踏ませた。あの光景をあなたは自分の目で視ていない。あれだけの力を持った人間が、頭を差し出すほどの人物が何者であるのか、そのことに興味を微塵も持たないのであれば、さきほどあなたが言った凡俗という言葉は、鏡を見ながら言うべきなのかもしれません」
語り口は丁寧でありながら、その言葉は罵声に近い。
この緊急時で一時忘れることができていた心の傷を深く抉られ、ユーカは顔を引きつらせた。
しかし、いま聞いた言葉が頭のなかで繰り返される度に、ネディムの真意が染みてくる。
あれだけの力を持った人間が、いったいどうすれば、濁石を持つ平民出の男に従属するのだろうか。
自然、湧いた興味が、落ちていたユーカの視線を持ち上げさせた。
心中を透かしたかのように、ネディムは笑みを強め、
「大公を拘束したことを隠して、あなたと会うこともできましたが、真実を話したのは、ユーカ・ネルドベルという人物に敬意を払って、誠意を示すためでもありました。ドストフ様がその口から民の虐殺を命じられたのは事実。もしそれが行われていれば、この中央都がどのような末路を迎えていたか、あなたの知性はそれを予想できるはず。私はそれを防ごうと立ち上がった一人の人物に協力することを決めた。しかしそれは並大抵のことではない、力のある賛同者が一人でも多く必要な局面なのです」
誠意から訴えるような言葉に、しだいに怒りや苛立ちが溶けていく。
ユーカは強ばらせていた表情を緩め、
「私を含め、公国と大公家に恩あるネルドベル家が、裏切り者に与してその傘下に入ることなどありえません」
落ち着いた声音で言うと、隣に座るクロムが視線を強め、腰を浮かせた。すかさず、ネディムがクロムを強く睨み、大きく首を横に振ってみせる。
ユーカはゆっくりと呼吸をして、
「ですが……事態を可能な限り穏便に治めることは、公国の存続に重要な事であることは認めます。そのために必要なことであれば、尽力を惜しみません――ひととき、大公殿下の件については忘れます」
ネディムは温かみのある微笑を浮かべ、
「感謝いたします、ネルドベル卿」
姿勢を正して辞儀をした。
*
石畳の路地に折り重なるように転がる死体のなかに、骨喰いの団員たちの姿が多く混じっている。
団長のボ・ゴは乱の鎮圧に向かう兵士の集団に混じりながら、強ばった顔で死体から目を背けた。
「ボ・ゴ、うちの連中が――」
部下に声を掛けられ、ボ・ゴは慌ててその口を平手で叩く。
「黙ってろッ、なにも言うんじゃねえ、他の奴らにも徹底させろ」
実質的な雇い主であるレフリ・プレーズの命令で、隠密行動を主とした繊細な作戦に参加するため、適材である人員を用意しなければならなかった。
自然、作戦に向いていない者を除外して残していくことになったのだが、その面々といえば、ティモを代表とする粗暴で短絡的な性格の連中ばかりである。
――たった一晩だッ。
心の中で叫んだ悔恨は、聞く者もなくむなしく響く。
灰と化した街並に、火付け道具を手にしながら野垂れ死にをしている団員たち。街に火を放ったのが誰か、なぜ死した団員たちが体中に無数の傷を負っているのか。いったい誰が大規模な領民たちの叛乱を煽ったのか。考えるだけで、責任の所在の重さに、胃の中が焼けただれそうになる。
――さっさと逃げねえと。
事が落ち着いたとき、ギルドの運営者であり、傭兵たちの長であるボ・ゴにその責を問う声があがるのは必至の状況である。
雇い主の姿もない今、ボ・ゴはひっそりと存在を消し、逃走の機会を伺っていた。
だがそんなとき、
「お前が傭兵どもの指揮官か」
低く粘り気のある声で問うたのはウィゼ・デュフォス。奪還作戦の目標とされていた人物であり、この国でも有数の権力者であるらしい。
ボ・ゴは無意識に顔を隠すように俯き、
「……へい、そうでございます」
馬上から見下ろすデュフォスはボ・ゴの頭を蹴り、
「私が声を掛けているのだ、顔をあげろ」
ボ・ゴはゆっくりと頭を上げ、デュフォスを見上げた。
みすぼらしく痩せ細った顔にも高貴な身分の者特有の上品さが残されている。目付きは鋭く、まるで無価値なゴミを見るような視線の強さは、対する者に恐怖心を抱かせる。
雇い主のプレーズなどは、生粋の貴族でありながら、まだ話がしやすい相手だったと気づかされる。
デュフォスは圧倒的に高い壁の上、完全なる上位の存在であり、本来口をきくこともないような人間であると、本能から感じさせられる。
「きさまは私の迎えに尽力をしたそうだな」
ボ・ゴはにたりと愛想笑いを浮かべ、
「それは、もう全力で……うちらの死者もそこそこにでてますんで……いえね、惜しいと言ってるんじゃねえんです、あなた様のようなお方のために働けて、連中も本望でしょう」
媚びて恩を売るように言ってみるが、デュフォスは見下したような態度を微塵も変えることなく、周囲に視線を這わせた。
「転がっている死者のなかに、明らかにきさまらの仲間と思しき者たちが含まれているな」
どきりと肩を揺らし、ボ・ゴはまた無意識に視線を地面に落とした。
「お、お、おそらく、お国の大事に対処するために命をなげうったんじゃねえかと」
デュフォスは口元に冷笑を浮かべ、
「だとすれば、殊勝な心がけだ」
ボ・ゴは必死に作り笑いを浮かべ、
「へい、そりゃあもう、うちの団員たちは、ほこりよりも命が軽いのが売りなもんですから、へへ……へへ……」
愛想笑いをしてみるが、デュフォスは少しも表情を緩めることなく、
「いくらで雇われたか知らないが、この事態の収束のためにさらに力を尽くしてもらうぞ。上手くやれば、私の差配で追加の報酬も検討しよう」
言ったデュフォスは周囲の者たちに向けて手でなにかしらの合図を送った。直後、騎乗した輝士たちが、ボ・ゴを中心とした骨喰いの傭兵たちの両翼にぴたりと位置を固定する。
ボ・ゴは血走った目で、左右後方から逃げ道が封じられたことを悟り、
「閣下の仰せのままに……」
媚びへつらうように両手を揉んだ。
*
馬と兵士が列を成し、深界と上層界の境界を跨いで、山中に伸びる街道を進んでいる。
それはほんの一瞬ではあるが、ディカの耳にたしかに届いた。
――鼻歌?
馬に乗り、併走するジェダから聞こえてきたのだ。
いつもひとを食ったような態度で、心ない笑みを浮かべている男が、まるで押さえようもない上機嫌さを漏らしてしまったかのように、一瞬だけかすかに鼻の奥から旋律を奏でた。
ジェダが提案した約束と、それを受けた祖母エゥーデ。その結果に命を奪われた者たちを目の当たりにして、ディカの心には暗い雲がかかっている。
「あの提案を後悔されてはいませんか」
ディカからの問いに、ジェダは頬を緩め、
「まさか、そんなわけがない。その顔を見るに、ディカ殿は乗り気ではなさそうだが」
「当然です。だって、これからあなたのやろうとしていることは……私はそこまでして、当主の座など欲しくはありません」
ジェダは視線を上げて笑み、
「領主の家に生まれたとは思えないほどお優しい。だが、その点では将軍はさすがによく理解されている。エゥーデ・ボウバイト亡きあと、その後継の座を敵対する一族に奪われれば、彼らは前当主の推していた候補者を放ってなどおかない。自らの直系によって家督を支配したいと望むのは、高貴な立場に立つ人間が必ず罹る宿痾のようなものだからね」
ディカは眉を顰め、
「それは、私の祖母のこともおっしゃっているのでしょうか」
ジェダはディカの不快感を軽く受け止め、
「必ず罹る、と言っただろう。僕の提案を受けられたのは、エゥーデ殿の愛情だ。悪いことはいわない、なにも考えずに、ただそれを甘受すればいい」
「大勢を無闇に殺すことと引き換えに受ける愛情など……」
「べつに、僕が殺さなくても、ひとはいずれ死を迎える。落石、落雷、病に火事――ひとが死ぬ理由は腐るほどあるのに、殺人にだけは過剰に反応する。だが、状況が整えば人々はその行為を許容する。戦争で敵を殺すこと、気まぐれに人を殺めること、この二つにいったいなんの違いがあるのか、僕にはとても理解し難い」
他者を殺める行為に対して、あまりにも躊躇の念を持たないジェダは、そのことを軽々と語りながら、まるで行楽にでも向かっているかのように軽やかに馬を駆る。
「これからのことが、不安ではありませんか」
ディカからの問いにジェダはちらと視線を向け、
「不安?」
「あの方が選ばれた道は公国全土を揺るがすほどの大罪です。それなのに、あなたはどこか、嬉しそうに見えるので」
ジェダは微笑みを強くし、
「僕としたことが、それほど無防備になっているとは――」
自虐するように言いながらも、ジェダは気分の良さを隠そうともせず、
「――嬉しいさ。一国の長い歴史で築かれてきた分厚い壁を一気に壊すことができるかもしれないんだ。大公を捕らえることになるなんて少しも思ってはいなかったが、そうなると一層わかりやすくていい。常道を破る者は常に世界の敵となる、力を手に入れるには、それを持つ者から奪い取るのが最も効率的だ。シュオウはよく決断してくれた」
――あの人が本当にそれを望んでいるの?
ジェダの言葉を耳に入れながら、そのことが強く疑念として頭に残る。
シュオウという人物は紛うことなき強者である。戦場での働きぶりとその常識外れな強さを目の当たりにし、一時はその姿が幻想の死神にも重なって見えていたが、側について観察していると、その人間性は実直で他者を思いやる優しさも持ち合わせている。
高い地位を得ながらも権力に固執する態度も見られず、ただ淡々と自分の役割をこなしていただけ。そんな人間が、簒奪のような行為をあえて行おうとするだろうか。
現在のディカの思うシュオウという人物の像からは、ジェダが言うようなことを進んでやるようなものと一致しないのだ。
――しかたなく、やったのでは。
だとすれば、きっと今頃は、その胸中に苦しみを抱えているはず。
それとは対照的に、初めて見るほど上機嫌なジェダに、推理する疑念をぶつけてみたいと思いながらも、ディカは言葉を飲み下した。
ジェダ・サーペンティアという人物には、明らかに他者に対する壁がある。普通に接しているようでも決して心は許されない。それは、戦争という旅路を経てきたいまとなっても感じる、見えていながらも、決して歩み寄ることのできない距離感だった。
ディカの葛藤をよそに、ジェダは上機嫌に口を開き、
「僕の気分が良いとすれば、もう一つの理由も思い至る」
ディカは、
「はい、それはなんでしょうか……?」
ジェダは絵のように張り付けた微笑をディカに向け、
「君たちを殺さずにすんだことさ」
ディカは目を見開き、
「え……?」
言葉を疑うように聞き返す。
「提案を将軍に拒否されていたら、という話だよ。当然、ボウバイトはターフェスタ大公を捕らえたシュオウを許すことなく、こちら側とは敵対関係となる。この状況で増援軍に対処できるほどの余裕はないから、もしそうなった場合には、僕一人でどうにか足止めをするつもりでいた」
「お一人で、ボウバイトの軍すべてを相手にされるつもりだったと?」
その言葉を是とするように、ジェダはただ黙って視線を寄越した。
自惚れている、とは言い切れない。その類い希な晶気を操る才能を、ディカは戦場で目の当たりにしてきたのだ。
ジェダは、
「流石に、一人きりで増援軍すべてを押さえ込めると自惚れてはいないさ。ただ、傷を負わせるくらいのことは僕にも出来る。指揮官である将軍を不意打ちで殺し、側近たちを始末して、混乱する軍を前面から削り取る。あとは体力が持つ限り、一人でも多く殺し、あわよくば撤退を検討させられないか、というところまでは考えていた」
「下手をすれば、あなたが惨い末路を迎えることもありえました」
「望むところだったさ。神という不確かな存在を信じる者たちをおかしいとも思っていたが、信じられる者があるというのが、これほど心地良いものとは思わなかった。僕は、僕の信じるもののためなら、命を失うことも厭わない。そのことで、できれば将軍にも言っておいてもらいたいんだが――」
ジェダは一度言葉を切り、微笑の温度を冷たく冷やした。
「――約束を違えば、ボウバイト家はそのすべての血筋を絶やすことになる、とね。そうなったとしても構いはしないが、約束を反故にしてどうにかなるような隙がないことだけは、知っておいてもらいたいんだ。どんなことがあろうと、裏切りには死を持って報いさせる。リシア教徒たちのいうところで、天に召されることのない方法でね」
ジェダの言う殺しの対象に、自分も含まれていることを、向けられる鋭利な視線が告げている。
ジェダの手法によって戦場で肉塊と化した者たちの末路を思い出し、思わず全身が強ばった。それを感じ取った馬が嘶きを上げて前足を上げた。
「ディカ様!」
すぐ後ろについていたアーカイドが慌てて駆け寄り、ディカの馬を宥めた。
「なにかありましたか?」
迫真で問われながらも、ディカは汗を拭いながら首を振り、
「いいえ、ただ、私の気持ちが、この子に伝わっただけ」
アーカイドは何事もなく前進を続けるジェダの背中を睨み、
「あの男になにか?」
ディカは汗を拭って、
「忠告されただけ」
アーカイドは露骨に顔を顰め、
「やはり、今からでもエゥーデ様に中止を説得するべきです。ディカ様にご協力いただけるのであれば、私が――」
ディカはアーカイドに向けて首を振り、
「だめ……もう、手遅れよ……」
突風が吹き、春の日の草原のように明るいジェダの黄緑色の髪を撫でる。
彫刻のように美しい容姿から、真横に引き上げられた笑みは、まるで研いだ歯を見せびらかす捕食者のように、見るものに恐怖を刻み込む。
――死神が、もう一人、いる。
心地よさそうに馬に揺られるジェダの背を見つめながら、ディカは頭のなかに思い描く画布に、彼の身に纏わり付く、粘性を帯びた暗い影を想像した。