殺戮 6
殺戮 6
錆び付いたバケツを蹴飛ばし、煤けた壁に打ち付ける。
朽ちた金属がたてる醜い騒音は、プレーズが奏でる苛立ちをそのままに表現していた。
馬にも乗らず、荒廃した街中を一人とぼとぼと歩く様は、昨夜まであった天井知らずの高揚感とは真逆に、出世の道に暗い霧が立ちこめていることを示唆している。
「くそ、なんでこんな下っ端の仕事を……」
ターフェスタ公国内で、重輝士の階級は決して低いものではない。そのうえ、プレーズの直属の上官は公国でも上位の存在である冬華六家の一人、エリス・テイファニーである。
文官としてエリスの補佐役の一人を務めながらも、本来の性質は武官としての色が強いプレーズであれば、現状のような乱に対応するために、その力を遺憾なく発揮することができるはず。
そうでありながら、プレーズはただの伝令役として、所在がはっきりとしないもう一人の冬華のもとへの使いを命じられたのだ。
「だれでもいいだろう、そんなものッ」
プレーズは独り言ち、再び地面に転がるゴミを蹴り飛ばした。
不当な扱いに対して、不服従を貫くこともできる。が、命令を言い渡した相手は、他でもない、あのウィゼ・デュフォスだ。
冬華を率いる長にして、大家の当主、ターフェスタ大公の側近中の側近であり、公国においては多大な実権を持つ人物だ。
――だからこそだ。
食い違う理想と現実を奥歯で噛みしめ、プレーズは口のなかに飛び込んできた灰を、唾と共に吐き捨てた。
プレーズはデュフォスの顔を思い浮かべながら、
「誰があんたを助け出したと思っている! 面倒で失敗の許されない崖っぷちの役柄を引き受け、成し遂げたのはこのレフリ・プレーズだ! その私をこんな扱いに――」
止まらない苛立ちのはけ口として、次々と地面に転がる物を蹴り飛ばす。
「デュフォス、カルセドニー、テイファニー、ダイトス、カデン、ネルドベルッ――」
もぬけの殻となった下街の一角で、冬華に連なる家々の名を叫び、
「――あんたらのような名家に生まれてさえいれば、こんな……こんな屈辱を味わわされることはッ」
幾度も顔を合わせているはずなのに、デュフォスからは名前すら認知されていない。それもすべては、生家の格が原因であるとプレーズは嘆く。
ひとしきり苛立ちを発散し、息を切らせて肩を揺らしながら、プレーズの心中には無意識のうちに悪心が湧き出していた。
――無視してやろうか。
思わず口元がにやけるが、プレーズは慌てて頭を振り、
「馬鹿かッ、そんなことをすればどうなると」
国の最上層に位置する人物から睨まれることの恐ろしさを、後ろ盾なく城勤めをする者たちはよく理解している。
プレーズは周囲を見渡し、地面に横たわる平民の死体に目を付けた。
上街に侵入した住民たちの数は尋常ではない。馬に跨がり、一目で輝士とわかる格好をしていれば、群れた暴徒たちに標的と定められることになる。
――下等な奴らに怯えるなど。
晶気を振るい、単騎で一点突破することも検討したが、先の状況もわからないまま、圧倒的な人数差のなかに飛び込むのは愚策である。
プレーズは結局、紛れ込む、という手法を選択した。
体格の合う死体を探し、身ぐるみをはがして、自身で着込む。自らの艶やかな輝士服は畳んで物影に隠し、焼け落ちた木材を握って、黒い煤で髪と顔を醜く汚した。
だるそうに背筋を曲げ、適当な棒きれを握れば、その様相はまさしく、叛乱に加担する下民そのものとなっていた。
プレーズは水たまりに自身の姿を映し、
「生涯の恥となるな……」
見るも無惨な己の姿に、ひっそりと嘆息を漏らした。
*
発狂した民衆の声が耳を突く。
打ち壊された建物の瓦礫が飛び交い、拳大の重い石が次々と投げ込まれる。
少ない手勢で守りを固めながら、兵士の築いた防壁の奥から叛乱を生で見るユーカは、眼前の光景に強い衝撃を受けていた。
武装した軍と輝士に向かって、民衆は明確な殺意と怒りを持って襲いかかっている。
老若男女の別もなく、そこにいるのは、ただ狂ったように怒る人々の群れだ。
清潔さと静寂のなかに在る上街の光景は一変し、そこはまるで、想像のなかでしか知ることのない、戦場そのものだった。
「暴徒の指揮官は見つからないのか?」
ユーカが問うと、傍らにいる熟練の兵士が頭を下げた。
「申し訳ありません、ネルドベル卿。混乱が酷くて話を聞く隙もなく、指揮を執っている様子の人間も見当たりません。攻勢にでることを検討しなければ、このままでは戦線を後退させるばかりです」
ユーカは戦場でしか聞かないような言葉に違和感を持ち、
「戦線って……」
ここに敵はおらず、いるのは自国の民ばかりだ。
彼らは国の礎であり、国そのものでもある。プラチナ・ワーベリアムならそう言うであろう言葉を思いながら、ユーカは次の一手に激しく迷いを感じていた。
武力行使をすれば、押し寄せる暴徒の群れを押しとどめることができるはず。しかし、その結果に待ち受けているのは、自国民同士の殺し合いだ。
決行すれば事態をさらに悪化させかねず、決行しなくても予測される結末に大差はない。
効果と責任が曖昧となるこの決断を負うには、ユーカは経験が不足していた。
「次の防衛線まで下がりましょう! このままでは突破されてしまいますッ」
警備隊の若い兵士がそう叫んだ。彼の声に同調するように、同僚たちが次々と首を縦に振り、後退を提案する。
一方で、貴族家出身の輝士たちは、消極的な一般兵たちに怒声を浴びせた。
「勝手に退却を口にするな! 持ち場を維持しろ、命令がありしだい、即刻敵に攻撃を仕掛ける!」
背に居住区を背負う輝士たちの目の色は、交戦を強く望んでいた。隙あらばちらとユーカに向けられる血走った視線は、今にも殺しの許可を求めて、涎を垂らしている猟犬そのものだ。
同じ持ち場にありながら、この現場にははっきりとわかる温度差が存在している。
「ネルドベル卿ッ、暴徒の一部が突破を試みています!」
報告を受けて視線を向けた先に、幾人もの屈強な男たちが、丸太を抱えて防壁を破るための支度を整えている。
兵士たち、そして輝士たち、それぞれが一斉にユーカを見つめ、
「ネルドベル卿、ご判断を――」
異口同音に声を上げた。
小柄な身体は、まるで戦場のように混沌とした場には不釣り合いだ。しかし、ユーカの双眸は静かな強さを湛え、そこに年齢を超越した落ち着きと叡智を輝かせる。
深く息を落とし、
――調節。
大きく息を吸い込み、
――加減。
前を見据えて、
――でも、強く。
全身で、晶気が生み出す幻想の風を引き寄せる。
一陣の突風が吹き荒れた直後、発光する風の渦を身に纏いながら、ユーカの身体は空中へと上昇する。
奇跡の技を前にして、群衆たちが驚きの表情でユーカを見上げた。
怒れる群衆は荒れ狂う暴力そのもの、それを鎮めるために、同等の力をぶつけて相殺する。しかし、多数の人間が各個の意志を持って動く争乱のなか、被害を抑えるための力加減など、上手くできるはずもない。
「バケモノめッ!」
群衆のなかから、突如その一言があがり、直後にユーカに向けて石が投げつけられた。一瞬動きを止めていた群衆が、釣られるようにユーカに敵意を向けていく。
ユーカは己の身を危険に晒しながら、自らの手で加減を加えつつ、この場を治めるための行動に打って出る。
「静まりなさい」
荒れ狂う人々にそっと呟き、掌握した風を晶気と化して撒き散らす。
本来その威力は上級の晶士を圧倒するほどの力を持ちながら、絶妙な加減を加えて、人体を傷つけない威力に留められている。
爪の先ほどの力のかけ方でも誤れば、大惨事が引き起こされる状況で、ユーカは全身に汗を滲ませ、一瞬のまばたきもせず、微細な晶気の扱いに注力した。
絶え間なく吹き荒れる風の圧は凄まじく、群衆は暴風に押され、少しずつ後退し始める。
「効いているぞ……ッ」
一般兵たちが希望を声に乗せ、敬意を込めた目でユーカを見上げた。
ほとんど地面が見えないほど押し寄せていた人波が、まばらに隙間を生じさせていく。
彼らの怒りと殺意が、恐怖に押されだしたそのとき、
「ぎゃ――」
ユーカの起こす暴風に煽られ、地面に落ちていた瓦礫や屑が、まるで矢のような勢いで人々の身体に打ち付けられていく。
ある者は顔面に木片が刺さり、ある者は石を頭部に受け、血を流しながら倒れていく。
次々とあがる悲鳴を聞きながら、ユーカは目を背けたくなる光景に顔を顰めた。
じわじわと後退していく人々のなか、しかし晶気の風を恐れず、集団のなかから一人だけ前に進み出てくる男がいる。
その男は左手を突き出しながら、暴風に抗い、じわじわと前進を続けながら、なにかを訴えるように手を振っている。勇敢にも見えるその行動に、ユーカはある推測を閃いた。
――暴徒たちの代表者?
あらかた、貴族の居住区に襲いかかっていた暴徒たちが退いたのを確認し、晶気の行使を止める。
圧のある風が徐々に止み、ユーカの身体は泡のようにゆっくりと地面に着地した。
直後に、
「う……」
全身を襲う倦怠感に、膝が崩れそうになる。
「ユーカ様ッ」
ユーカは駆け寄る兵士たちに手を出し、
「大丈夫……問題ない」
あえて威力を弱めた晶気を持続的に行使し続けるのは、必殺の一撃を繰り出すよりも疲労が強かった。
「止まれ!」
武器を構えた兵士たちが、前方に置かれた防壁の手前で強く叫んだ。
ユーカは慌てて、
「傷つけないで、そのひとは――」
この局面を解決するための重要な交渉相手となるかもしれない。その予測を胸に兵士を止めようとしたとき、
「冬華、ユーカ・ネルドベル卿にご面会の機会を賜りたい!」
張りのある通りの良い声で、男は叫んだ。
語調に下民の質を感じられず、ユーカは不思議に思い、ふらつく身体をおして男の下へ歩き出した。
男は古びた外套をまくって左手の甲を掲げ、
「冬華、エリス・テイファニー卿の部下、レフリ・プレーズ重輝士でありますッ」
「プレーズ……?」
ひと目見て、輝士とはわからない風貌ではあるが、記憶の端におかれていた顔相が、目の前の男との一致を匂わせている。
あらためて男の左手にある彩石を見て、
「――武器を下ろしなさい。彼はこちら側」
ユーカは兵士たちに向けて命令した。
プレーズはほっとしたように破顔して、
「ネルドベル卿に対し、冬華隊長デュフォス卿よりのお言葉を伝えるため、平民に化けて危険を冒してここまでまいりました」
ユーカは大きく瞳を見開き、
「デュフォス隊長が……お戻りに……?」
プレーズはにっこりと笑みを強め、
「このレフリ・プレーズの采配の下、デュフォス卿を無事、奪還いたしました。作戦の立案、実行者は私、レフリ・プレーズでありますッ」
何度も自分の名を告げながら、頭と顔についた煤や埃をばさばさとはたき落とす。
「そう……なの……」
現状の都内で自身が最上位の権限を持つ立場であると思っていた緊張感が、デュフォスの名を聞いた途端にほどけていく。
まるで温かい湯につかったときのように、ほっと肩の力を抜いたのは、重責を手放すことができる安心感と、晶気の行使による疲労、その両方が合わさってのことだった。
プレーズは膝をついて宮中の礼をとり、
「デュフォス卿からの言葉を伝えたいと存じますが」
ちらと、周囲を埋める兵士たちを見やる。
ユーカはプレーズの心中を察しつつ、暴徒たちが退却していった跡を見つめ、
「ここを継続して死守。建材を調達して、防壁の強化を――」
兵士たちに命令を告げてからプレーズに向け、
「――落ち着ける場所で聞く。司令部である当家の邸へ」
*
プレーズの強い要望で着替えを用意する。
「父のもので、合わないかも」
プレーズは歯をぎらつかせ、
「胸と腕が少々苦しくはありますが、体の線が強調されるものも私の好むところでありますので」
鍛え上げた肉体を見せびらかすように、幼いユーカの前で腕の筋肉をふくらませて見せる。
――無駄口の多い男。
心中で愚痴りながら、
「こちらへどうぞ」
ユーカは誰もいない司令部のなかにプレーズを招き入れた。
父アレクスは周辺の避難の指揮をとり、使用人の大半もそれに同行して出払っている。邸に残っている少数をさらに人払いをして、名前ばかりの司令部である応接室には、ユーカとプレーズの二人きりとなっていた。
「あなたが他の目を気にしていたから。やりすぎ?」
プレーズは静寂に包まれる室内を見渡し、
「いいえ、国の大事に関わることでありますから」
ユーカは当主の席に座り、
「デュフォス隊長はご無事なのですね」
聞いた直後、プレーズの腹がぐうと鈍い音を発した。
プレーズは胸の下を押さえ、
「ご無礼を――夜通しの奪還作戦を指揮して戻ったときには、街はこの有様。まともに休む暇もなかったもので」
同情を誘うように、辛そうな顔で言うプレーズに、催促されているように感じ、ユーカは鈴を鳴らして使用人を呼びつけた。
「軽食でかまわない、すぐに用意できるものを――」
食事を用意するように伝えると、その途端にプレーズはむくむくと元気を取り戻し、
「体を温めたいので、できれば葡萄酒などもいただければ――」
白い歯を見せて笑み、厚かましく酒の要求まで告げる。
使用人から確認するような視線を投げられ、ユーカは小さく頷き許可を与えた。
プレーズは満足そうに椅子の背にもたれかかり、
「お心遣いに、心より感謝を」
ユーカは眉を顰め、
「で?」
「賊に監禁されて痩せ細り、衰弱されている様子でしたが、健康に問題があるようには見えませんでした。デュフォス卿の発見には苦労いたしました。不躾ながら、上官であるテイファニー卿も手をこまねいていたところ、私レフリ・プレーズの采配によって、賊の拠点を発見するに至ったしだいであります」
聞いてもいないことまでべらべらと語るプレーズに不快感を覚えつつ、ユーカは早々に核心に迫る。
「隊長からのお言葉を聞かせて」
プレーズは意味深に間を開けて周囲にひとがいないことを確認し、卓の上に広げられていた地図を覗き込みながら、一点を指差した。
「デュフォス卿は現在、兵を伴いこちら側からの攻勢を掛けるために行動中です。上流でこの事態の指揮を執っているのがネルドベル卿であるとの推測を語られ、反対側から敵を挟み込み、協力して殲滅せよとのお達しです」
ユーカは強い言葉に息を飲み、
「殲滅……?」
プレーズは微笑を浮かべながら、
「はッ、一切の慈悲は無用、とも」
それはつまり、暴徒となって叛乱に加担する領民たちが虐殺されることを意味している。
「……彼らは一時の感情にかられて動いているだけ。時間が過ぎれば、少しずつでも話に耳を貸す気にもなるはず。デュフォス隊長には一時、攻撃を留まるように伝えて」
プレーズは口角を下げて首を傾け、
「それは、デュフォス卿のご命令に反する行いでありますな」
「その命令を実行すれば、どれだけの領民が死ぬことになるのか。民を失えば、国力も弱体するということを、デュフォス隊長もよくわかっておられるはず」
ユーカの言葉をプレーズは微かな嘲笑で迎え、
「連中の代わりなど、いくらでも用意可能でしょう。大公家の臣下に連なる各領地から移住者を集め、それでも足りなければ、他国との交渉も検討されるはず。ご心配は杞憂に終わるかと」
ユーカは気色ばみ、
「数の問題だけでは――」
そのとき、部屋の扉を叩く音が聞こえ、
「食事をお運びいたしました」
ユーカが返答をする前に、プレーズがそそくさと扉を開き、
「これはありがたい――」
盆に乗せられていた肉を乗せたパンを掴み、瓶詰めの葡萄酒をとって、その臭いを嗅ぎ始める。
「――さすがはネルドベル家、良い香りが封じられている逸品ですな」
プレーズが手にしたパンを口に運ぼうとしたその直後、後方から突如現れた謎の人物の手が、プレーズからパンと酒瓶を奪い取った。
「なにをするッ」
怒りの声をあげて振り返ったプレーズは、部屋の外を見てたじろいだ。
ユーカが不思議に思って、入り口のほうへ足を向けると、
「ネディム様……ッ」
敬愛する人物の姿を見つけ、ユーカは思わず顔を綻ばせた。
「このような状況ですが、許可なしの訪問となってしまったことをお詫びします。ひさしぶりですね、ユーカ殿」
頭を下げたネディムに、ユーカは慌てて駆け寄り、
「はいッ」
ネディムは室内に散らばる会議の名残を見やり、
「やはり、現状はあなたが指揮を?」
ユーカは神妙に頷き、
「はい、序列に鑑み、私がその任を……」
「それで、状況は?」
ユーカは地図を指し、
「都内上流に流れ込んだ領民たちを中心とする暴徒の集団により、上街一帯は実質的に占拠された状況となっています。一部は城に向かい、分裂した集団は貴族の居住区への侵入を試みている状況ですが、その対応に苦慮していたところです」
「ということは、未だ武力を用いた制圧活動を試みてはいない、と?」
不手際を叱られるような心地となり、ユーカは視線をさげて、頷いた。
「はい……重大事なので、慎重に、と……」
ネディムは腰を下げ、不安に思うユーカの顔を覗き込み、
「よく、耐えてくれましたね。この非常時に対応する指揮官があなたでなければ、今頃この国は目を覆いたくなるような惨事に見舞われていたはずです」
温かみのある声と気遣いに、思わずユーカの涙腺が熱を帯びる。
冬華という地位にありながら、ユーカにとって最も理知的で温かみを感じるネディムとのひさしぶりの再開は、非常時でありながら、荒んでいた心に癒やしを与えた。
しかし、旧交を温める間もなく、ネディムの背後に立つ一人の厄災が、場の空気をかき乱す。
ネディムと同行してきたと思しき男、ユーカも一時、共に仕事をこなしたネディムの弟、クロムである。
クロムは姿を見せるなり、プレーズのために用意された食事を奪い取り、許可もとらずに貪りはじめた。
「きさま、それは私のものだッ――」
プレーズがクロムの手から食料を奪還しようとするが、クロムはするりとその手を躱し、応接室の椅子にどかりと腰を落とした。
プレーズが顔に怒りの表情を浮かべてクロムに詰め寄るが、
「このクロムと取り合うつもりか?」
クロムは好戦的な目でプレーズを睨めつける。
プレーズはぴたりと手を止めて、ネディムとクロムを交互に見やり、
「クロム……? あの、クロム・カルセドニーか」
プレーズを睨んだまま、クロムは食べ物を口に運び、奪い取った葡萄酒を喉に流し込む。
ネディムがプレーズに向け、
「プレーズ重輝士、弟の無礼をお詫びします。しかし、あなたの顔をここで見ることになるとは」
プレーズは驚いた顔でネディムを見やり、
「カルセドニー卿が、私のような者をご存じであられるとは」
ネディムは微笑み、
「当然のことですよ。エリスの部下であるあなたは、同輩である私にとっても身内のようなものです」
プレーズは感激したように目を潤ませ、
「光栄です」
ユーカは咳払いをしてネディムの注意を引き、
「いましがた、プレーズ重輝士からデュフォス隊長の命令を受け取ったばかりなのです」
ネディムは眉をあげ、
「ほう、デュフォスが戻ったと?」
プレーズが再び声を上げ、
「はいッ、この私、レフリ・プレーズの采配により――」
ユーカは発言に割って入り、
「デュフォス隊長からの指示では、兵を率いて暴徒を武力で殲滅せよと」
ネディムは顎に指を当て、
「ふむ……」
確かめるようにプレーズを見た。
プレーズは、
「ネルドベル卿の仰るとおりです。デュフォス隊長の命令により、東西から反乱を起こした賊軍を挟み込み、一気に制圧するとのお考えで」
「なるほど。ユーカ、あなたはそれについてどのように?」
ユーカは慎重に言葉を選びつつ、
「輝士の力を用いれば、死者は無尽蔵に膨らみます。その結果、暴徒たちの恐怖ではなく、怒りをさらに駆り立ててしまった場合、捨て身で押し寄せてくる大群を相手に、押し切るだけの力がこちらにあるかはわかりません。双方の被害をもっとも少なく、事を納める方法を模索するべきです」
プレーズが声を荒げて、
「そんな悠長なことをいっている場合ではないッ」
唾を吐き飛ばした。
大声を受けて、ユーカは思わず肩を震わせた。
ネディムは穏やかな声音で、
「ネルドベル卿の考えは、この局面においては英明な判断といえるでしょう。上流へ攻め入る者たちは民であり、彼らが怒りに身を任せて行動している理由にも、察するべき事情は種々にある」
強い発言力を持つネディムの支持を得て、ユーカは顔の緊張をかすかにほぐした。
しかし、プレーズはネディムに詰め寄り、
「これは冬華の長たるデュフォス卿のご命令です。いかにお二方とはいえ、口を挟む資格は持ちえないはずッ」
ネディムは微笑を浮かべ、プレーズに手を差し出した。
プレーズは首を傾げて、
「この手はいったい?」
「デュフォスの命令が下されたのであれば、それを証明するものを持っているはず。差し支えなければ、それを見せていただきたいのですが」
プレーズは喉を詰まらせ、
「……この非常時です、命令は市街地を行進中、口頭で伝えられましたので」
ネディムは後ろ手を腰に回し、
「では、なにも証拠となるものが存在しない、ということで間違いありませんか」
プレーズは焦りを声に滲ませ、
「お、お戯れを。カルセドニー卿ほどのお方であれば、現状を鑑みたうえでご判断できるはず」
「デュフォスを奪還し、そのデュフォスが民の虐殺をすすめる策を進めようとしているという。しかし、それを証明できるものはなにも存在しない。そもそもデュフォス奪還が事実であるかどうか、それすらも確かなことではないのでは? あなたはここに一人で来た。それほど重要な任を帯びているのなら、普通はここへ到達するまで、護衛役を引き連れているはず」
ユーカの耳に、ネディムの言葉はもっともなこととして届いていた。だが、この場においては明らかに詭弁だ。プレーズのような中間に位置する輝士が、デュフォスの名を騙り、嘘を吐くだけの動機が、まるで理解に及ばない。
プレーズは目の下をひくつかせ、
「失礼ながら、お言葉は命懸けでここまでの伝令役を果たした私に対しての侮辱であります。デュフォス卿のお言葉に背くとなれば、この件、後々に尾を引く問題にもなりましょう。忠告として、大人しく命令を果たすよう具申いたします。すべてが片付いた後に大公殿下がこのことを知れば――」
大公、と聞きユーカは忘れていた一つの事に気がついた。
「そうだ、ネディム様がここにおられるということは、大公殿下は……?」
ユーカの言葉に、プレーズも気づいた様子でネディムを見やる。
ネディムは返答を渋った後、ゆっくりと部屋の入り口に向かい、扉を閉めた。
まるで入り口に封をするようにその場に立ってユーカに視線を送り、
「あなたに伝えておかなければならないことがあります――」
あらたまった口調と態度にユーカは首を傾げつつ、
「……はい、お聞かせください」
ネディムは真顔で目を細め、
「大公殿下はすでにこの中央都にご帰還を果たされ、現状を知り、ただちに叛乱に加担したすべての者たちの処分を命じられました。それをうけ、遠征隊指揮官に任じられていた准砂将シュオウ殿が、ドストフ様を拘束し、現状その身柄は我々の手中に置かれています」
プレーズがあっけにとられた様子で声を裏返し、
「……はあ?」
亀のように首を突き出した。
そのあまりに突飛な話の内容よりも、ユーカはネディムが言った一言が強く心に引っかかっていた。
「ネディム様はいま、我々と?」
ネディムは表情を緩め、
「なんと言えばいいのやら……この場合、こちら側の立場がはっきりとしないもので。ですが、まあ一味と呼んで頂くのが妥当でしょうか」
プレーズが声を震わせ、
「カルセドニー卿はいま、公国を、裏切った、と……?」
ネディムは悪びれる様子もなく首肯し、
「否定する余地は一切ありません。どうしますか、プレーズ殿? この話を聞いて、謀反人に剣を向けるか、それとも聞かなかったこととするか。いくらか選択の余地はありますが」
プレーズは一歩後ずさり、
「……じ、事実であれば、聞かなかったことに。当家のような弱小の立場で、そのような大事に、関わりたくはありません」
ネディムは鷹揚に首を振り、
「賢明な判断です――」
プレーズは壁際に背を預け、動揺したように顔を伏せて引き下がったように見えた。だが、背の低いユーカの位置からは、わずかに覗くプレーズの表情に、にやついた打算的な笑みが浮かんでいるのが見えた。
その直後、
「ご、あ……?!」
突如席を立ったクロムが、目にもとまらない素早い動作で、短剣でプレーズの喉を突き刺した。
プレーズは必死に喉を押さえ、周囲にある丁度品を引き倒しながら、膝から床に崩れ落ちる。
溢れ出す血を手で懸命に押さえるが、流血は無限に湧く泉のように溢れ出し、応接間に敷かれた高級な絨毯の端を、赤く、黒く染めていく。
「ご……ごば……ごが……」
喉から醜い音を漏らしながら痙攣を続け、プレーズは間もなく、絶命へと至った。
ネディムは、
「クロム……」
咎めるような声音で名を呼んだ。
クロムはあくびをしながら席に戻り、
「面倒になるまえに片付けておいたのだ」
ネディムは淡々と遺体に歩み寄り、
「やれやれ、もう少し様子を見てからでもよかっただろうに」
クロムは残ったパンを奥歯でかじりとりながら、
「この手の小物は初めから信じるに値しない、だから兄はだめなのだ」
ネディムは死を迎えたプレーズを見下ろした後、なにごともなかったかのように前にある椅子を引いた。
ネディム、その奥にいるクロムの両名に見つめられ、ユーカは呼吸浅く、硬直したまま体の芯を震わせる。
ネディムは、
「では――」
引いた椅子をユーカのほうへ向け、
「――今後についての相談をさせていただきたい、ユーカ・ネルドベル卿」
室内で起こった突然の凶行を目の当たりにしてから、呼吸を忘れていたユーカは、微笑みを浮かべるネディムと目を合わせたまま、爆ぜるように息を吸い込んだ。