殺戮 5
殺戮 5
暗雲が空を覆う。
森林に覆われた薄暗い街道に足止めをされたまま、遠征隊の兵士たちの間には、苛立ちと焦燥が燻っていた。
「いったいいつまでこうしていればいい……ッ」
隊のなかで、序列の上位に位置する一人の輝士が愚痴をこぼす。
帰還の最終地点である中央都を目前に控えながら、足止めをくらうという異例の事態に、時が経つほどに徐々に遠征隊の兵の間から、ざわつきが起こり始めていた。
外の寒さは苛烈を極める。
予定を大幅に短縮しての旅路が続き、遠征隊の面々は疲労を溜めている。ようやく落ち着ける故郷を前にして、吹きさらしの状態で、ただ停止を命じられたままでは、不満が募るのは当然の成り行きだった。
「――殿下が怪我をされたからといって、どうして我々が外に留め置かれなければならない」
「――その通りだ、せめていつまでか説明があるべきだろう」
「――いつになったら街に入れるんだ」
馬を風除けにしながら、佇む輝士たちが語り合う。
「――指揮官の命令だと言っていたが」
「――だいたい、大人しく従う理由などあるのか? 上官といえ、相手は平民出の余所者だぞ」
「――その平民出の余所者は、今や戦勝の英雄さまだ。殿下はいたくあの男を気に入っておられる。下手に逆らえば、殿下に目をつけられかねん。その覚悟があるなら止めるつもりはないが」
公国の絶対権力者から睨まれる面倒さをよく理解している貴族軍人たちは、皆が一斉に口をつぐんで目をそらした。そのなかから一人が馬にまたがり、出立の支度を整える。
「――本当に行くつもりか?」
「――大袈裟にいうな、向こうに確認に行くだけだ」
「――しかし、留まれと言われている。カルセドニー卿だって」
「――馬鹿馬鹿しい、ただの確認だ、どうしてそこまで怯えなければならない」
輝士たちは互いに顔を見合わせ、その言に納得したように首を縦に振り合った。
「直接状況を確かめてくる、すぐに戻るから――」
輝士が馬を進ませようとした直後、同僚の一人がその行く手を遮り、
「――待て」
隊の後方に向けてあごをしゃくる。
その先から、険しい表情で街道を上がってくる、遠征隊の現指揮官、シュオウが姿を現した。
*
自分に向けられる多くの視線を受け止めながら、シュオウはレオンを従えて、ゆるやかな坂道の途中で足を止めた。
先のほうで待機してたバレンとクモカリが心配そうに駆け寄ってくる。
隊列の奥には、突き抜けて背の高いシガの顔がはっきりと見える。その獣のように鋭い眼光が、機を窺うようにシュオウを捉えて離さない。
バレンは額に脂汗を滲ませていた。その表情は戦場に立つときよりも、遥かに緊張しているように見えた。
「シュオウ、どうするつもりなの……?」
胸の上で拳を握り、憂いを込めた目でクモカリが問う。
シュオウは一つ息を吐き、
「レオンの報告では、発生した叛乱はかなり大規模なものらしい」
バレンがすかさず、
「レオン――」
レオンが進み出て、
「平民労働者たちの大半が上流へ攻め上っているのをこの目で見ました。あの規模の蜂起となれば、国の根幹を揺るがすような一大事となるのは間違いないと思います。下層民の住居の大半が焼け落ち、怒れる民衆の動向を上は制御できていません。やはり、尋常ではない事態ですよ……」
後方から整然と並び、アマイを先頭とした数人のムラクモ王家親衛隊の輝士たちが合流する。
アマイはシュオウの前で馬を下り、
「圧倒的に人数不利な状況です、本当に始めるつもりなら、不意打ち以外に確実な勝利は得られそうもありません」
その言葉を聞き、クモカリが強く表情を湿らせた。
「不意打ちなんて……ッ」
こそこそと会話をしているシュオウたちの様子に、足止めをされている遠征隊の兵士たちが不審な目を向けだした。
彼らの一部は、すでにこの不自然な状況に勘づき、明らかな敵意を示している。
そのとき、遠征隊の兵士たちのざわめきがいっそう強さを増し始めた。
原因はすぐにわかった。街道の下方から、褐色肌の武人たちが、ぞろぞろと群れて向かって来るのだ。
先頭に立つロ・シェン、ビ・キョウの二人を見つけ、シュオウは僅かに手足に力を込めた。
彼らの行動、その選択を保証するものはなにもない。ここに現れた以上、ロ・シェンが逃亡という道を選択しなかったことだけはわかるが、その刃をシュオウへ向けてくる可能性は存在する。
睨みつけるシュオウの視線を受け、ロ・シェンはぶすりと視線を逸らし、ビ・キョウはにたりとユーギリで見たときと同じ、超然とした微笑みを浮かべた。
ざわめきが増していくこの場に、南方出身の武人たちが、左右両翼を囲むように散っていく。
ロ・シェンとビ・キョウの両名は、シュオウの前に立ち、武人の作法で辞儀をした。
「合図を待つ、いつでも」
ロ・シェンが短く言うと、シュオウは頷き、その視線を遠征隊の兵士たちへ戻した。
遠征隊を仕切る輝士たちが、隊列を離れて、
「どういうことだッ、なぜ捕虜たちが自由に出歩いている?!」
その手が次々と腰に差した得物を握る。
この期に及んで、気の利いた言い訳など浮かんでくるはずもない。微かに濁った山頂から降りる風を受けながら、直後に起こる惨状を覚悟する。
シュオウが腕に力を込めた直後、クモカリがシュオウの視線を遮るように前に立った。
「シュオウ、あの人たちにとってはここは故郷なのよ。みんな、上の街に家族だっているはず。そうしなければいけない事情があったとしても、本当に、最後の最後までよく考えて……」
バレンが一歩を踏み出し声を潜め、
「大公の遠征隊は小規模でありながら、統制された一個の軍です。機を逸すれば、我が方が甚大な被害を受けかねません。ターフェスタ大公を拘束した時点で、すでに選択肢は失われています。准砂が思われる民のため、そして我らの生存のために、この瞬間にどうかご決断を――」
相反する二つの言葉が、ほぼ同時に耳に届く。
どちらにも利があり、なにを選んでも欠損が生じるように感じられる。
一瞬の思考のうち、シュオウは二つの選択がそれぞれに辿る、その結末を頭のなかで思い描いた。
すでに嗅ぎ慣れてしまった血の臭いと、良好な関係とは言い難くとも、共に旅をしてきたこれまでの日々を思い起こす。
決断と命令を待つ仲間たち、不信と怒りを向ける者たち。それぞれの視線を一身に受けるこの瞬間、シュオウは一瞬、力を込めて振り上げかけていた右手の力を脱力させた。
肩の力を抜き、その視線をクモカリに向け、微かに頷く。
「全員、念のために備えておいてくれ――」
シュオウが言って足を前へ踏み出すと、
「どうされるおつもりですか」
硬い声で聞いたバレンに対して、
「――事情をすべて説明する」
シュオウは前を向いたまま、その言葉を残し、遠征隊の集団に向けて歩き出した。
ざわつく兵士たちを前に立ったシュオウに対して、控えめな罵声が浴びせられる。
補佐するように、シュオウの隣に立ったバレンが胸を張り、
「静粛にッ!」
新兵を震え上がらせるような顔と声で騒然とした場を一喝する。
迫力に気圧され、ざついていた兵士たちが一斉に口を閉ざした。
シュオウは視界のなかに映るすべての者たちをゆっくりと見渡した。
疑念と憤懣が入り交じる空間に向け、
「すべて説明する――」
その語りは饒舌とはいえなかった。辿々しく、シュオウは門をくぐってから見聞きした事を、一つずつ丁寧に説明していく。
その語りが大公を拘束した段階に至ると、
「――叛乱を起こした住民たちに対して、大公は武力での完全討伐を命じられた。俺がその命令を止め、大公を拘束した」
「いまなんと言った――」
「殿下が囚われに――」
怒りの声をあげたのは隊の先頭に陣取った輝士たちだった。その手が次々と剣を握り、躊躇いもなく抜き放たれる。片方の掌中は光を帯び、晶気の構築を始めていた。
後方に控えるシガが身構えて突進の態勢に入る。シュオウは視線を送り、シガに向けて首を振って、その動作を制した。
「危険です、お下がりくださいッ――」
下がらせようとするバレンに、シュオウは首を振ってその場に留まる。
今にも襲いかかってきそうな勢いの輝士たち向け、
「止めろ、大公の身柄はこっちの手のなかにある」
「殿下の身柄を人質として使うつもりか!」
罵声を浴びせられながら、シュオウは淡々と頷き、
「無駄な争いを避けられるなら、そうする」
輝士たちは一瞬たじろぎつつも、
「真に受けるな、殿下の身に万が一のことがあれば、手を失うのはそいつのほうだ。後手に回るより先に、ここで我らで決着を付けるのだッ。共に続け、高貴なるターフェスタの戦士たち!」
その言葉を合図として、敵対の意志を示す輝士たちの視線は定まった。
――だめか。
シュオウが足を擦り、後退の準備を始めたその直後、
「な、なにをする、きさまらッ?!」
従士として従軍していた平民階級の兵士たちが、一斉に輝士たちを取り囲んだ。
圧倒的な力量差がある輝士と従士の差を埋めるほどの人数差に、輝士たちはたじろぎ、威勢を失う。
双方が睨み合い、場が硬直したそのとき、輝士と睨み合う従士たちのなかから、統率者らしき男が進み出る。
男は年季の入った顔に皺を寄せ、
「いまの話は、本当なのですか……?」
不安げに瞳を揺らしながら問うた。
シュオウは首肯し、
「行けばすぐにわかる」
「下街地区には我々の家族や友がいる……話が本当なら……」
睨み合う輝士が男を睨み、
「我らに刃向かうことは、そのものが公国への反逆だ。今すぐ部下たちを下がらせろ、さもなければ――」
生じた火種から、いまにも争いが発生しそうな刹那に、シュオウは両者の間に進み出た。
「准砂ッ」
無防備に遠征隊のなかに入り込むシュオウに、バレンが慌てて追従する。
シュオウは睨み合う両者の間に立ち、
「血を流すために話をしたんじゃない」
輝士は鼻頭に皺を寄せ、
「ぬけぬけと、きさまがしでかしたことでこうなっているのだろう!」
シュオウは一つ、間を置いて、
「最初は話をするつもりはなかった。遠征隊を奇襲して力を奪うつもりだった」
語るシュオウの口調は、まるで日常のなかのように穏やかで、淡々としていた。
その気の抜けた態度に若干の影響を受けた様子で、輝士は怒気を萎めて疑念を口ずさむ。
「なぜ気が変わった……?」
シュオウはちらりとクモカリを見やり、
「遠征隊の多くはターフェスタの民たちだ。ここは全員にとって故郷で、そこには多くの家族や友人がいる。そのことを思い出させてくれた仲間がいた」
言うと、クモカリは目尻を下げて小さく頷き返す。
シュオウはその視線を街道の上層へ向け、
「放っておけば上で多くのひとが死ぬ。下街地区は焼け落ち、そこに領民たちの姿はなかった。あれだけの人間たちが上街に攻め入っているのなら、上流の人間たちも無事ではすまないかもしれない」
整然と語るシュオウに、怒りを露わにしていた輝士は徐々に気勢を落とし、
「……それほど、酷いのか?」
シュオウは頷き、
「大公が出そうとした命令をそのまま実行すれば、叛乱を起こした下街の住民たちが皆殺しにされる――そうはさせたくない」
遠征隊の輝士、そして睨み合う一般兵たち。それぞれが互いに顔を見合わせ、不安な予測を囁き合う。
自然、この場に生じていた火種は、いつのまにか音もなく消えていた。
一般兵をまとめる男がシュオウの前に立ち、
「できることがあるのなら、我々はあなたに協力する――いや、させてもらいたいッ」
その決断と言葉には、重い覚悟が秘められていた。恭順を示すように、兵士たちが一斉にシュオウに向けて敬礼をする。
シュオウは彼らに向け、
「ありがとう、助かる」
輝士たちは戸惑いつつ、敬礼する兵士たちを見つめる。
輝士を代表する男はシュオウに険しい視線を向け、
「いまのことを、カルセドニー卿はご存じなのか……?」
シュオウは首肯し、
「知ってる」
言うと、貴族軍人たちの間に小さなざわめきが起こった。
輝士は仲間たちと不安げに顔を見合わせた後、
「協力するつもりはない……と言えば、こちらに刃を向けるか?」
シュオウは即座に首を横に振り、
「そっちから仕掛けてこないかぎり、なにもしない。ここを離れたければ、行っていい」
その言葉に輝士は少しずつ肩の力を抜き、
「……実際に、この目で見てから決める。それでいいか?」
シュオウは微かに頬を上げ、
「わかった、全員で行こう」
殺気だっていた輝士たちが、静かに剣を鞘に収めていく。
冷や汗と共に状況を見守っていた仲間たちを安心させるように視線を送り、シュオウは街道の奥へ向け、確かに一歩を踏み出した。
*
「どうしてこんなことになる」
荒れ果てた下街区を馬で駆け抜けながら、ネディムは現状へ至るまでの道を想像し、首を捻った。
多少の火が出ることなど冬場にはありがちなことだが、それが下街区全域にまで及ぶとなると、明らかに人為的に起こされた凶行に違いない。
クロムは開けた通りで足を止め、下馬して地面に横たわる死体に手を伸ばした。
「そこら中に転がっているが、見覚えのない連中だぞ」
ネディムはクロムが仰向けに転がした死体を眺め、
「ユーギリでボウバイト将軍に処された混沌領域の戦士たちと同類のように見えるが、これほどの数を中央に残してきていたとは……」
クロムはごそごそと死体の外装を漁り、素早く火付けの道具らしきものを探り当て、同時に近くに転がる油を垂らしたツボを指差した。
ネディムはクロムが見つけ出した物を見つめ、
「彼らが街に火を放ち、それがきっかけとなり、燻っていた領民たちの怒りにも火を付けた、というところだろうか。しかし、どうしてそんな意味のないことを――」
考え込むネディムをクロムが冷笑し、
「理由などない、やりたいからやったのだろう」
その場の感情だけで生きる人間と、ネディムの性質は根本から真逆に位置している。どちらかといえば、前者の立ち位置に近いクロムの意見は、ネディムの疑念に確かな説得力を持って耳朶に快音を響かせた。
「なるほど、つまり推察するだけ無駄ということか」
クロムはにやりと頬を上げ、
「愚兄にしては達見ではないか――」
クロムは再び馬に跨がり、
「――もういいだろう。始まりがなんであるか知ったところで、今が変わることはないのだからな」
再出発を促した。
ネディムは頷き、クロムの後に続いて馬を進ませる。
焼け落ちた木片に崩れた瓦礫、転がる死体を避けながらの道中で、馬は全速力を出すことができなかった。
障害物を避けながらの道行の果てに、街の上流へ繋がる地点へ辿り着くと、そこから見える景色が突如として一変した。
奥から響く轟音と怒声。群れた人々が巻き上げる土埃が、景色の中に薄茶けた靄をかけている。
各々が武器を掲げ、口々に怒りの言葉を叫ぶ領民たち。日頃は貴族に従い、草食の家畜のように大人しく過ごす彼らが暴れ狂う様は、まさしく公国の退廃を象徴していた。
ネディムはその光景を前にして深く溜息を吐きだした。
憂いを込めたその顔を、クロムはちらりと横目で見つめ、
「悲しげではないか」
「……こうなる前に、止めるのが私の役目でもあった。だが、この身は一つしかなく、たとえお側にあったとしても、私の言葉はドストフ様の心に届かなかっただろう」
「あの愚物にだらだらと仕えた時間そのものが無駄だったのだよ。精々後悔するがいい」
冷ややかに言うクロムほどには、ネディムは改めて自らの目で見た現状を、軽く流すことはできなかった。
目の前で起こる事象は、ターフェスタが抱えていた病巣だ。それがあることをわかりながら処置も出来ず、放置した結果が今である。
「おやおや――」
クロムが声を低く漏らし、
「――反乱軍に見つかったようだぞ」
先に固まる領民の集団を指差した。
数にして十数人の人々が、武器を持ち明らかにネディムたちを標的として、なにかを叫んでいる。それを合図に次々と人が集まり、集団は駆け足で武器を手に、一心不乱にこちらに向けて駆けてくる。
傍目にもひと目で貴族だとわかるネディムとクロムに向けて、迷いなく武器を構えて向かってる。そのこと自体が異常だった。
クロムは素早く晶気の構築を始め、
「兄は下がっていろ、このクロムが目的地まで突破口を切り開く」
ネディムは馬上からクロムの外套を掴み、
「クロム、お前のご主君は彼らを救うために茨の道を選ばれた。シュオウ殿の配下を自称するお前が、率先して領民たちを傷つけることは、教義に反することに等しい」
クロムはたぎらせていた闘志をしゅんと沈ませ、
「……ならどうしろというのだ。ここにこれほどの反乱者たちが群れているのなら、他に行っても同じような状況だろう」
クロムの意見は真っ当なものだった。都内の主要な通りにこれほどの人間たちが押し寄せている状況下は、すなわち現状を国がまったく掌握できていないことを示しているからだ。
面会を目指しているユーカが無事であれば、その身はおそらく城かネルドベル家の本邸にあるはず。そのどちらも、怒れる群衆のなかを突っ切る必要が生じる。
ネディムは一瞬の思考を巡らせ、
「子どもの頃、家の者たちにバレないよう、上下街の移動に使った隠し通路があっただろう」
クロムは視線を空に上げ、
「あったな……だが当時も崩れかけていたようなものだったぞ」
ネディムは手綱を引いて馬を反転させ、
「行ってみよう、ここで手をこまねいているよりはましだ」
*
思い出のなかに閉ざされていた通路の入り口は、ほとんどが土に覆われて塞がれていた。
そこは役目を終えている古い排水用の水路だが、記憶のなかの印象とは異なる小さな通り口を見て、ネディムは首を捻った。
「こんなに狭かっただろうか、記憶ではもっと……」
ひさしぶりに見る秘密の通路は、想像よりもはるかに貧相だったのだ。
クロムは入り口を塞ぐ土を掴み、
「子どもの頃に見たものなど、こんなものだろう――この土、粘り気が強い、晶気で吹き飛ばしたほうが早いぞ」
ネディムはクロムに微笑み、
「頼んでも?」
クロムは顰めっ面で首を揺らし、
「どいていろ」
逆巻く風が起こり、固まった土を粉々に砕き、吹き飛ばした。クロムは手で飛び散った土を払い、
「言い出しっぺが先だ――」
這いつくばらなければ通れそうもない入り口を親指で指し示す。
ネディムはごわついた外套を脱いで小さくまとめ、
「勇敢な兄が先陣をきろう」
屈んでなかに入ると、そこには大人が通れるほどの空間が奥へと伸びていた。
雨水や雪解け水を流すためのそこは、街の上下の区別なく、上流から下流へ向けて造られている。
湿った土をべちょりと踏みしめながら、ネディムはクロムが追いつくのを待って、ゆるい傾斜が続く上流のほうへ歩を進めた。
「なぜ我が君の側につく気になった?」
歩き出して間もなく、クロムがネディムに疑念をぶつけた。
「賭けに負けた分の支払いだと言ったはずだが」
クロムは声を歪ませ、
「愚兄がそのくらいのことで家を売るはずがない。あの愚物に長々と頭を垂れていたというのに、突然気が変わったのはおかしい。本当のことを言え」
ネディムはクロムの疑いを軽やかに笑い、
「ご主君どのと離れた途端に冷静になるんだな。たしかに、私が大公家と天秤にかけて選んだのはシュオウ殿ではない、お前だ」
クロムはぱたりと足を止め、
「よくもそんな適当な嘘を言う」
ネディムは足を止めて振り返り、
「どうして嘘だと決め付ける」
「兄弟の約束を破り、愚物に仕える道を選んでおいて、あげくこのクロムにまで、あれに頭を下げろと強要したではないか」
過去に何度となく言い合いを続けてきた話題を蒸し返され、ネディムはうんざりと溜息を吐き、
「お前が出会った運命の主君への態度は度が過ぎていた。この兄の力を以てしても、いつまでもかばいきれるものではない。シュオウ殿が選んだ道は、後戻りが出来る類のものではない。愛する弟を守ろうとする兄としては、もはやお前と運命を共にする以外の選択肢はなくなっていた。いずれそうなるだろうとは思っていたが、まさかこんなに早くにそうなるとは。一つ伝えておくが、父上はもはやこのような事態も覚悟を決めておられた」
クロムは激しく訝り、
「あの、父が……?」
ネディムはゆったりと首肯し、
「お前が思う以上に、父上はお前の才を買っておられる――」
話をしながら、歩きを再開し、
「――カルセドニー家はお前と運命を共にする。それをどうして喜ばない?」
クロムはぶすりと後に続きながら、
「兄が、心から我が君にお仕えしていない、と感じるからだろうな」
「お前ほどではないにしろ、私なりにあの人物を買っているところはある。勇猛果敢にして並外れた武力を持ち、他者を惹きつける特異な魅力も持ち合わせている」
クロムが唐突にネディムの背中を撫で、
「もっと言うがいいッ」
嬉しそうに声をあげた。
「共に戦場に出て、将として戦場を導く才覚も感じた。目的のためだけに行動し、余計な欲に囚われる様子もなく、実直であり柔軟であり、風格も感じるが、今はただ、優れた資質を持つ個人でしかない。現状の成り行きは無計画であり、無謀でもある」
言った途端、クロムの手がすっと離れ、
「この場で我が君の悪口をのたまえば、無事にここを出られるか保証はしないぞ……」
「事実を言っているだけだ。お前の主君は傑出した人物ではあるが、時を得ているかどうかは疑問だ。ターフェスタの国主を捕らえるという行為がなにを意味するか――シュオウ殿はそのことを微塵にも考えていないようだが」
ネディムの胸中に、ある一人の人物の顔が思い浮かぶ。
――サーペンティアの若君。
シュオウの隣に立ち、側近中の側近として振る舞うジェダの、最後に見た嬉しそうな顔が忘れられず脳裏に焼き付く。
あの一時、シュオウがドストフの命令を止めるように指示を出した直後、ジェダはそうせざるをえなかったという態度で、伝令役の輝士たちを殺害した。
急なことでしかたがなかった、といえばそれまでだが、その行為が、どこか喜んでシュオウの退路を塞いだようにも感じられる。
晶気を操る者、という意味での輝士としてのジェダの才覚は、他者が震え上がるほどの領域に達している。それだけの人間を従えることの難しさを思わずにはいられない。
思考の途中、クロムがおもむろにネディムの隣に並び、
「時が我が君を選ぶのではない、我が君が時を掴みとるのだよ」
ネディムは僅かにも迷いなく言い放った弟を見て微笑み、
「ご主君が時を得るならば、その立ち上げに関わるカルセドニー家はこの先、いまより遥かに多くの力を得るだろう。大いに博打だが、一族の繁栄を願いつつ、これからの成り行きを見守ろう」
通路の先に、厳重に塞がれた上街の一角に通じる出口が見える。クロムは一点に鋭く、出口を塞ぐ瓦礫を睨み、
「結果がわかりきっていることが、博打でなどあるはずがない」
弓状に構えた風の晶気を撃ち放った。