殺戮 4
殺戮 4
不穏な気配が漂うターフェスタ城内で、アイセはジュナの私室に身を置きながら、険しい顔付きで事態の把握に努めていた。
食料庫の襲撃に、殺害された兵士たち、夜の闇を照らす市街地で起こる大規模な火災。短時間の間に、周辺の様相は一変している。
翌朝、ターフェスタ大公が遠征に出てから静まり返っていた城内は、物々しい騒音に包まれていた。
兵士たちが物々しく声を上げ四方へ行き交う。しかし、なにが起こっているのかを探ろうにも、誰もまともに取り合う者がいないのだ。
実質的な人質という立場もあって、慎重に動かざるをえず、ジュナの護衛のために待機しているアイセは、行動が制限されることにもどかしさも感じていた。
「お茶と軽食の支度ができました、アイセさんもどうぞご一緒に」
まるで何事もない日常のなかにいるような、おっとりとした声でジュナが休憩を呼びかける。
アイセは悟られぬように溜息を吐き、
「食事も結構ですが……ッ」
言いたい言葉を半端に切った語尾に、隠せぬ苛立ちが滲み出る。
ジュナは車椅子に座りながら微笑を浮かべ、
「なにもせずに待っているというのも寂しいでしょう? ただ立っていても、なにかを食べていても、世界はかまわず動き続けているものですから」
生い立ちを思えば、ジュナは不自然なほど達観し、落ち着いている。それはまるで、命懸けの修羅場を幾度となく潜り抜けてきた老練な人間であるかのようだった。
そのうえ、ジュナの側で給仕をする女たちも不自然なほど落ち着いている。ユギクとレキサ、二人は戦場の最前線にあったムラクモの拠点に勤めていた経験を考慮しても、若い娘たちとは思えないほど、態度や顔付きに怯えの色が見られない。
アイセはゆっくりと食卓の席につき、
「昨夜から不穏なことが立て続けに起こっています。それなのに、随分とあなたは、とても落ち着いているように見えます。なにか……ご存じなのではありませんか……?」
思うことを直接、ジュナに問うた。
ジュナの側に仕える二人の給仕の他に、三人目の謎の人物が存在する。こそこそと隠れて暗躍している様子からして、その存在は明らかに諜報や裏の活動に従事する者である。
問われたジュナは表情を変えず、微かに口を開いた――そのとき、どんと強く扉を叩く音が響き、アイセは思わず肩を震わせる。
腰を上げて扉のほうへ向かい、
「虚空の果てに――」
アイセは仲間内で定めていた合い言葉の一文を口ずさむ。
直後に扉の奥から、
「影の契り」
正解となる言葉が返ってきた。
扉を開けると、テッサが勢いよく部屋のなかに入ってきた。
「どうですか?」
問うたアイセにテッサは首を振ってみせ、
「見覚えのあるターフェスタ輝士のほとんどが城外に出払っていて、まともに話を聞けそうもないわ。ただ、聞こえてくる話から、どうもここが組織だった相手から攻め込まれているのは間違いなさそう」
話を聞いたアイセは血相を変え、
「攻め込まれているって、いったいどこの勢力から?」
テッサは眉間に皺を寄せ、
「まだわからない――」
言った後に部屋の奥に視線を向け、
「――ジュナ様は、怖がられてはいない?」
テッサの心配とはかけ離れた現状に、アイセは返事に窮しながら、
「ええ、まあ……それよりも、これからどうすれば」
もともと監視についていた輝士や兵士は、もはやその気配すら感じられなくなっている。皆がこの緊急事態に駆り出されているのだろうが、アイセたち人質組は、ほとんど放置されているといっていい状況だ。それは見方を変えれば、警護の責任を負う者が誰もいない、ということでもある。
テッサは顔を強ばらせ、
「逃走経路は確保済み……けれど、もし逃げるという選択をすれば、もう後戻りはできなくなる」
その言葉通り、城に居残るアイセたちは、外に出ているシュオウたちにとっての人質として機能している。だがそれと同時に、その逆の役割も担っている。城にいる居残り組が不用意な行動を起こせば、その影響が外にいるシュオウたちに及ぶ可能性があるのだ。
テッサは考え込んだ後に頷き、
「とにかく、準備だけはしておきましょう。荷物をまとめておいて、全員が一つの部屋に集まっておくように、あの子もここへ連れてきておいたほうがいいでしょう」
「それがいいと思います。私が行きますので、ここをお願いします」
シトリのことを指して言ったテッサに同意し、アイセは部屋を後にした。
ジュナの部屋を出て扉を閉めた直後、突然、背後から聞き覚えのある声に呼びかけられる。
「――アイセ殿」
耳元から聞こえたフクロウの声と、背後からの気配を同時に感じ、アイセは後ろを振り返る。
そこにはぶかぶかとした外套とフードを目深に被る、一人の男の姿があった。
「お前は……フクロウ、か」
フクロウは顔を隠したまま深く頷き、
「――外から暴徒と化した民衆の群れが押し寄せてきます。今すぐ、全員で避難してください」
目の前にいながら、耳の奥へ直接声が聞こえてくる不思議な感覚を受けつつ、アイセはその内容に驚いて後ずさった。
「民衆だと……領民たちが叛乱を起こしたということなのか?」
「――肯定。街が大火に飲まれた後、下街地区全域に及ぶ住民たちが、武装して上街へ攻め込みました」
しかし、アイセは当たり前の疑問を思い、
「軍は……? 輝士や兵が当たればすぐに押さえ込まれるはずだろう」
「――幾多の状況が重なり、現在の都内は人手と兵力を大きく欠いている状況。私が探ったかぎり、上街側はこの叛乱に対処しきれていない状況です。鎮圧がいつになるかは、まったく見通しがたちません」
「そんな……」
想像を絶するような内乱の様子を知り、アイセは思わず絶句する。
「――暴徒の集団の一部が、城門の寸前にまで迫っています。現状を鑑みれば、防ぎきれるとは思えません。お仲間と共にいますぐ避難を。私がご案内いたします」
「わかった、すぐに支度をする――と、その前に」
アイセはジュナの部屋に急いで戻り、現状をテッサに報告した。
*
自室に戻ったアイセの視界に飛び込んできたのは、寝台の上で思いきり寝息をたてるシトリのだらしない姿だった。
下着姿のまま、露わにしたふとももに枕を挟み込みながら、愛しい男の名を寝言でぶつぶつと呟いている。
その足腰の動きが不気味なほど艶めかしく動き出した瞬間、アイセは慌ててシトリの体を寝台の外へ強く押し出した。
「起きろばか! こんな状況でよく眠っていられるなッ」
シトリは口元から涎を垂れ下げたまま、
「ったぁい……」
じっとりと抗議の意志を込め、アイセを見つめた。
アイセはかまうことなく荷物入れを指差し、
「急いで着替えて荷物をまとめろ!」
シトリは不機嫌そうに頬を膨らませ、
「めんどくさ……やっとあのうるさいのがいなくなったのに……」
まるで指導教官のように厳しく接していたテッサのことを言いながら、シトリは一緒に床に落ちた枕を抱きかかえる。
「めんどうがどうとかの状況じゃなくなったんだ。とにかく準備をしろ。軍服に着替えて、外套も用意して――避難訓練を思い出せッ」
テッサの提案でここまでの期間に何度も繰り返していた避難訓練を語ると、途端にシトリは顔色を悪くして唸り声を漏らした。
「思い出したくない……」
常人の半分にも及ばない速さで、だるそうに動き出したシトリを放り出し、アイセは用意していた避難用の手荷物を、すばやく入り口へ運び出した。
*
「番号、確認!」
横一列に並ぶ面々を前に、テッサが威勢良く声を張り、言った自らが直後に一番目の数字を口にする。
次にアイセが続き、三番目にだるそうにシトリが番号を告げる。避難訓練時から取り入れられているこのやり取りに、訓練に参加していなかったジュナが、目を輝かせながら四番目の番号を自主的に口にした。それに倣い、ジュナの付き添いの女たちも、一人ずつ番号を口ずさむ。
テッサはアイセから他の全員を順番に指差し、
「服装、よしッ――」
次に足元に並べられた手荷物を指差し、
「――携帯食料よしッ、飲料水よしッ。着替え、寝具、その他の野営道具一式は」
アイセは背筋を伸ばしてテッサの言葉を継ぎ、
「すべて問題ありませんッ」
ムラクモ軍式の敬礼をした。
テッサは厳しい表情で頷き、その視線をシトリへ滑らせる。
シトリはじっとりと溜息を吐き、
「……もんだい、ありませぇん」
言葉とは裏腹に、顔面一杯に不満を張り付けながら報告をした。
テッサは強く頷き、
「すべての確認よしッ。これより戦略的避難行動を開始する、各自周囲の動向に注意を払い、指揮官である私、テッサ・アガサスの指示に従って行動すること。これより先、目標地点到達まで質問と私語を禁止する――」
軍隊式に指示を伝え、ジュナの前で膝を落とし、
「――ジュナ様を全力でお守りいたします、どうか我々を信じ、おまかせください」
ジュナはまるで少女のように無垢な笑みを浮かべ、
「はいッ」
と手を合わせて会釈を返す。
そのあまりに邪気や憂いのない笑みを見て、アイセは密かに唇を噛んだ。
ここへ来てから、初めて知るジュナ・サーペンティアという人物の性質に、強い違和感と居心地の悪さを感じ、その気持ちは晴れないままだ。
そこから感じられる独特な気配は、彼女の弟のジェダと似たものでありながらも、さらなる異質さも思わせる。
未だ違和感の正体を掴めぬまま、アイセは手荷物を抱え、先手を切って部屋を出た。
部屋の外で待機していたフクロウに頷き、
「すまない、待たせた」
フクロウは頷き、
「こちらへ、お急ぎを――」
これまでとは異なり、生の声でそう言った。
先導をするフクロウを見てテッサが、
「あのひとが?」
アイセは、
「はい、シュオウに紹介された協力者です」
各々が荷物を抱え、テッサがジュナの車椅子を押して、一行はフクロウの案内に従って場内を早足で進んでいく。
本来いるはずの監視の目はなく、進むほどに混乱の気配が濃厚になっていく。
途中、
「守りを固めろッ! 全兵力を城門へ集中! 集まれぇッ、移動しろぉ!」
狂ったように大声でがなりたてる輝士と遭遇するも、脱走を試みるアイセたちに目もくれず、城の奥へと走り去って行く。
フクロウは足を止めて、
「この先の通路を抜け、正門前まで向かいます。そこから中庭の地下貯蔵庫へ――」
アイセはフクロウに、
「正門に兵力を集中させると言っていたぞ、そんなところにいったら見つかってしまうんじゃないのか」
フクロウは首を振り、
「もはや、そのようなことを気にしている状況ではありません」
城の正面を堂々と通り抜け、中庭から城門の前が見える位置に着いたとき、アイセはフクロウの言葉の意味を正確に理解した。
城門を守る兵の姿はなかった。
堅牢な扉の奥から、ざわつく群衆の気配が伝わってくる。その大半は怒声であり、興奮したように開門を叫んでいた。
――これが。
話で聞いていても、アイセにとっては目の前の現実は、信じがたいものだった。
一瞬足を止め、その様子を呆然と見つめるアイセを見て、フクロウが慌てて呼び止める。
「止まらず、こちらへッ――」
目深にかぶせていたフードがはずれるのも厭わず、フクロウは手を伸ばしてアイセを中庭へと誘導する。
車椅子を押しながら先頭を行くテッサは、すでに中庭の貯蔵庫のなかに到達していた。
その時、城門の奥からドン、と鈍く重たい音が鳴り響く。
その不気味な音は、まるで深界で聞いた狂鬼の唸り声のように、耳の奥へ深く刺さった。
金属の軋む音、無数の叫び声に絶えることのない怒号。渦中におかれた一帯には、強烈な敵意と怒り、そして絶望の空気が、ひび割れのように伝っていく。
両手に荷物を抱えながら、アイセは目標地点まで必死に走った。
建物の前で先に到着したシトリが、向かえ入れるように手を伸ばす。
前を走っているフクロウが先になかに入ったのを見た直後、城門が破壊される轟音が鳴り響き、打ち壊された門が粉塵を撒き散らし、大穴を穿たれた。
いっそう強さを増した暴徒たちの声を背に受けながら、アイセは最後の一歩を強く踏み込み、建物のなかに飛び込んだ。
全員がなかに入ったのを確認し、フクロウが内側から扉を封鎖する。
「こちらへ」
暗い部屋の奥、その床の下からテッサの声に呼ばれ覗き込むと、そこには地下に通じる大きな穴が広がっていた。
*
そこは元々、上階に収まりきらない物資を保管しておくための予備の地下倉庫のようだった。
だが、なかは古びた埃が層を成して積もり、そこかしこに役目を終えた蜘蛛の巣の残骸が張り巡らされ、長い間使用されていなかったことが窺える。
地下に降りたフクロウは、下から上手に蓋をかぶせて入り口を隠し、ガラスで覆った灯火を手に、部屋の中を鈍く照らした。
「奥に長期で身を隠せる場所を用意してあります。ご案内いたします」
フクロウは地下室の壁に置かれた本棚をずらし、その奥に隠されていた狭い通路を露わにした。
「この広さでは、この椅子が通せませんね」
ジュナが言うと、フクロウが硬直し喉を詰まらせる。
「……申し訳ありません、気が回らず」
ジュナはゆったりと笑みを返し、
「責めてなどいません。ただ、ここに入るとなると皆さんのお手を煩わせてしまうことになりますが」
テッサが力強く、
「ご心配なく、私が背負ってお運びいたします」
数人の手を使ってジュナを隙間に入れ、奥に隠された古びた通路に侵入する。
あきらかに人為的に作られたと思しき通路に入り、
「まさか、このために掘ったんじゃないだろうな?」
アイセは試みで問うた。
フクロウは僅かに声を和らげ、
「もともとあったものです。ここには、いつ誰が作ったのかもわからない隧道が各所に存在しています。各所が格子で封鎖されていましたが、私はそれらを通れるように開いただけにすぎません」
「そのへんのことはムラクモと変わらないんだな」
アイセはしみじみと言いながら先頭を行くフクロウの後をついて進む。
狭い道を歩ききったその先で、突如周囲の雰囲気が変化する。古びた道が途切れ、その先に比較的近年に作られたように見える地下水道に行き着いた。
広く、長く奥へと続く天井から、点々と等間隔に外からの光が漏れ落ちている。
以前、シトリと共に逃亡生活を送った時のことを思い出しながら、アイセは薄暗い景色をじっと見つめた。
「こちらです」
フクロウは、一見してなにも存在しないような壁に手を当てる。そこは一瞬みたかぎりでは気づけない、押し引きで開く扉のようなものが取り付けられていた。
後付けの壁は周囲の様子に溶け込むように作られ、その扉の奥に家具を置いた部屋のような空間が現れる。
比較的清潔そうな絨毯に簡易の寝台、食堂として機能しそうな食台に椅子や書物、その他の生活雑貨まで備えられている。
想像していなかった光景にアイセが声を失っていると、
「これは……あなたが用意したの?」
テッサがフクロウに問いかけた。
「……緊急時に備えておりました」
「優秀ね」
テッサは感心した様子で心からの言葉を呟く。
アイセは釣られるように、
「本当に……よくここまで……」
周到に用意された備えをじっくりと眺める。
フクロウは僅かに俯き、フードの上からぼりぼりと頭を掻いた。
明らかに照れている様子をおかしく思ったのか、ジュナがくすくすと笑声を零す。
テッサに背負われていたジュナは寝台の上に下ろされ、その上で自らの動かない足を抱えて姿勢を整えた。
フクロウは荷物を片隅にまとめ、
「周囲の様子を探ってまいります。皆さま方はここでお休みを。容易く発見できるような造りにはなっておりませんが、念のため警戒を」
アイセはフクロウに向けて強く頷き、
「ありがとう」
人心地ついた途端、シトリは我先に寝台に荷物を広げ始める。同時にジュナに仕える二人の侍女が、甲斐甲斐しく主の世話を焼きはじめた。
テッサは物資の確認を始め、筆記道具を取り出し、几帳面に数量を記していく。
アイセは衣類鞄を取り出し、仕舞われていた各自用の着替えを食台の上に並べ始めた。
ふと、地鳴りのような音が周囲に木霊する。天井の遥か上のほうから、微かに大勢の人々が地面を踏み鳴らすような音が聞こえてきた。その音に混じり、周囲の状況に慣れつつあった耳が、人々の怒号も聞き取った。
ジュナは膝にかけられた毛布に触れながら天井を軽く見上げ、
「いつまで続くと思いますか?」
それにテッサが素早く応じ、
「外の叛乱が、でしょうか?」
ジュナは目を大きく見開き、
「ええ」
と頷いた。
テッサはあごに手を当てて思考した後、
「わかりませんが、これほどの事態にまで発展した場合、国が軍を投入して鎮圧を図ります。その手段によりますが、ほんの数日ほどではないかと」
「それは、すべてが順調に対処できる場合の話なのでは?」
ジュナに言われ、テッサは重く首肯した。
「仰るとおりです。城の内部にまで暴徒が侵入している状況を見れば、軍がこの叛乱に対処できていないことがわかります。おそらく今頃どこかで権限を持つ人物が、なんらかの対処を検討しているはずですが」
ジュナは微かに鼻息を漏らして、
「軍隊が本気で関わった場合、テッサさんはどうなると思われますか?」
テッサは一瞬言葉を淀ませ、
「統制された輝士や兵士が対処に回れば、叛乱に加担した者たちを武力で制圧することを試みます。いくらその数が多くとも、暴徒たちが訓練も受けていない住民たちである以上、一方的な結末を迎える可能性も……」
ジュナはテッサの語りに耳を傾け、
「たくさん、ひとが死ぬ……なら、上は当分の間、かなりの混乱が続くのでしょうね」
そう言って天井を見上げるジュナの顔に、アイセは手を止めて視線を釘付けにされていた。
ジュナ・サーペンティアの声は弾み、その顔は笑っていた。
ひと目見たかぎり、ジュナは普段通りの柔らかな微笑みを浮かべているだけにも見える。だが、アイセの目には、微かに上がった口角に、愉悦の角度を維持しているように見えたのだ。
それは彼女の双子の弟がそうであるように、サーペンティア家に連なる者が持つ特有の、他者を威圧するような捕食者の顔付きだ。
ジュナと面識を得てからこれまで、言い知れぬ不安感を抱いていたアイセは、突き動かされたかのように、不信感を言葉に含み、投げつけていた。
「なにが面白いのですか?」
硬い声を刺すように言い放ったアイセに、皆が手を止め視線を向けた。
ジュナはゆっくりと天井から視線を下ろし、
「なにが、とは?」
アイセはジュナに険しい顔で見つめ、
「脱出する時から――いや、その前からずっと、あなたはこの状況を楽しんでいませんか?」
ジュナは少女のように、きょとんとした顔で首を傾げ、
「ごめんなさい、おっしゃっていることの意味が、よくわからなくて」
アイセは僅かに視線を天井へ向け、
「上で起こっていることは祭や催し事の類じゃない。これから大勢のひとが死ぬことになるんです。誰かが親や兄弟を失い、子を失うことになる。それなのに、あなたはさっきから、いや、ずっと前から、この状況を愉しんでいるようにしか見えない。その態度を見ていると、言い表しがたい不安な気持ちになるんです」
直後にテッサが割って入り、
「アイセさん、やめなさい、いまの言葉は言いがかりにも程がある」
テッサはジュナをかばうように、その前に立ちはだかる。元々彼女が持つ威圧感のある顔から、よりいっそう鋭くたしなめるような視線がアイセに向けられた。
ジュナはテッサに向け、
「テッサさん、大丈夫です。アイセさんは、私に正直な気持ちを伝えてくださっただけですから。むしろ、距離が近づいたようでそれをとても嬉しく思います、ありがとうございます」
丁寧で謙遜したような言葉を選びながらも、ジュナは堂々と顔をあげ、その視線で僅かに揺らぐこともなくアイセを捉える。
「私は長らく、サーペンティア家に監禁され、監視下に置かれていました。幼い頃から閉じ込められ、その過程で足の自由まで失った。外で起こることはジェダから聞くことと、書物のなかに書かれていることを知るだけの日々。そんな私を、あの方が外の世界へ連れ出してくれました。そのおかげで、毎日見ること感じることは新鮮なものばかり。それが恥ずべきことであっても、世界で起こる様々な事に楽しさを感じてしまうことも、正直な気持ちとしてはあるのです。アイセさん、あなたは純血の貴族として生まれながら、平民という生まれにある人々に深い慈悲の気持ちを持たれている、希有な感性をお持ちのようです。そのようなひとはとても貴重です、きっとあなたのような方がシュオウ様に仕える人材として、とても重要な意味を持つのだと思います。でも――」
ジュナはふっと微笑みの強度を上げ、
「――一つの出来事に対してどう感じるかは個人によって差異がある。人を笑いながら殺せる人間がいる一方で、小さな虫を逃がしてやる人間もいる。それぞれに出来る事があり、出来ない事がある。だから、私やジェダのような人間も、これから先のシュオウ様にとっては重要な意味を持つのです。私たちは相容れぬ感性を持ちながら、互いに認め合い共存を模索していかなくてはいけない立場でもある、たとえそれが、痛みを伴うものであったとしても」
饒舌に語られる言葉に耳を傾けながら、その語りの真意には虫食いのように理解できぬ箇所がある。
ジュナは再び天井を見上げ、
「見方を変えてみてください。上で武器を取って立ち上がった人々は、その多くが命を失うことになるかもしれない。けれど、その過程で日常では起こりえない様々な乱れが生じるのです。そこには普段見えないもの、起こりえない事が起こる。それは得てして、常道を破ろうとする側の者にとっては、とても都合良く、綺麗な水を濁らせる嵐のように機能する」
アイセは声を潜め、
「乱れ……? この事態がシュオウにとって都合が良いと、そう言っているのですか」
ジュナは言葉を返さず、ただ微笑みながら頷いた。
アイセにとってジュナの言い様は、正気を疑うような考え方である。
当然のように話を聞いていたはずのテッサは、ジュナを守るように前に立ち、ジュナに仕える侍女たちも、アイセに敵意を含む視線を向けている。
シトリが寝台に寝そべったまま、薄目でジュナをじっと見つめた後、顔を背けて目を閉ざした。
アイセは居心地の悪さを感じ、背を向けて部屋の外へ足を向ける。
「待って、どこへ行くつもり?」
テッサに問われ、
「出口を探して、上の様子を見てきます。なにか出来る事があるかも――」
最後まで言い終える前に、
「行かないで」
ジュナが強い口調で言葉を挟む。
アイセは険しくジュナを見つめ、
「……あなたに指示される理由はありません」
ジュナは珍しく顔から微笑を消し、
「上の状況がどうなっているかわかりませんが、ここまで見聞きしたものから推測すると、とても危険な状況になっているはず。志があっても、力がなくてはなにも出来ません。我を忘れた暴徒たちの前に身をさらせば、あなたの身も危うくなる。現状の私たちは無事でいることに価値があります。もし、アイセさんになにかあれば、シュオウ様はきっと、ここに至るまでの自身の選択を悔いるはず。そのような姿を、私は見たくありません。だから、行かないでください」
直後にテッサが、
「この場の指揮官として、単独行動は許容できない。気になることもあるでしょうけど、今は無事に潜伏することに全力を注ぎましょう」
言い返す言葉も、理由も見つけられず、アイセは立ち尽くしたまま視線を泳がせた。
居心地の悪さが極地に達したその時、
「アイセ――」
シトリが声をあげ、自らが横たわる寝台の端をぽんと叩いた。
監視されているような複数の視線をくぐり、アイセはとぼとぼと招かれたシトリの寝台に腰を落とす。
口角を下げて俯いたアイセに、シトリが畳んだ毛布を差し出した。
気遣いを感じ、アイセはシトリへ、
「ありがと」
シトリは鼻まで毛布をかぶり、
「……あの女、嫌い」
微かな小声で、呟いた。