殺戮 1
殺戮 1
「全隊その場に待機! 停止しろッ」
ターフェスタ領内の森林地帯を鈍足で進む遠征隊の前に立ちはだかり、バレンは馬上から声を張り上げた。
先頭付近を監督していたターフェスタ輝士が、訝りながらバレンを見つめる。
「なぜ止める」
当然の疑念をぶつけられ、バレンは輝士を見つめ返す。
強面から放たれる視線には強烈な圧がある。バレンに見つめられる輝士は、一瞬怯えたように上半身を仰け反らせた。
「……大公殿下のご指示である」
重々しい声で告げるが、目の前の輝士は納得した様子もなく、思案するように視線を上げる。
「殿下の指示……なんのために?」
バレンは喉を詰まらせながら、
「……入門の直後に、殿下を乗せた馬に問題が起こった。よって、予定の進行に遅れがでている」
輝士は後ろへ振り返って他の者とひそひそと声を交わし、
「確認に行く」
一部の者たちに手招きをして、手綱を握る手に力を込めた。
「待て!」
常には落ち着いた態度を貫く老練の輝士であるバレンも、顔面に冷や汗を浮かべ、声を上擦らせた。
軍人として彼らの行動は正しい。階級では重輝士という地位にありながらも、バレンは完全に余所者だ。
バレンの制止に対して、輝士たちは不信感を露わに、
「確認に向かうだけだ、それを阻むというのなら――」
輝士がさりげなく剣に手を乗せる。
緊張と沈黙が漂うなか、道の先からシュオウが勢いをつけて駆け込んでくる。さらにその後ろから、ジェダが馬を走らせ、シュオウを追い抜き、走り去って行く。
バレンは現れたシュオウに向け、
「准砂――いま、大公殿下のご命令通りに全隊を停止させたところです。落馬した殿下のご様子はいかがでしょうか」
話の齟齬が発生しないよう情報を伝えると、それを察し、シュオウは輝士たちに向けて大きく声を張る。
「軽傷だが、念のため殿下は詰め所で治療を受けている。行進を再開するまでの間、全隊に待機を命じられた」
いま、まさにここを離れようとしていた輝士に対して、シュオウは説明するように語って睨みを効かせる。
輝士たちは不満げに、
「だとしたら、なぜあなたがここにいる」
「俺がこの遠征隊の指揮官だからだ。殿下からの指示を全隊に通達しろ、指示に逆らうなら、後でこのことを殿下に報告する。顔と名前を覚えられたいか?」
あからさまな脅しを受けた輝士は、敵意を剥き出しにしてシュオウを凝視した。
「どうして我々を行かせようとしない? ただ確認に向かうだけのことを……さっきからどうもおかしい、何かが変だ」
戦場で共に時間を過ごしたわけでもない遠征隊の輝士たちにとっては、シュオウは未だ敵国から渡ってきた異邦人であり、信用に値しない余所者でしかない。
ここで争いが起これば、ただ事ではすまなくなる。バレンは状況の悪さを感じ、緊張に固唾を飲み下す。
両者がしばらく視線を交わした後、その緊張を破る者が姿を見せた。
輝士たちは道の先から現れた人物を見て、
「カルセドニー卿……ッ」
慌てて馬を後退させ、敬礼をする。
ネディムは柔い声で、
「なにかありましたか? ただならぬ空気を感じますが」
輝士は前のめりに、
「殿下がお怪我を負われたというのは?」
打ち合わせをしていないはずのネディムは、一瞬シュオウと視線を合わせて首肯し、
「問題ありません。ただ、殿下も旅のご無理がたたってお疲れのご様子。領民にそのような姿は見せられないと、凱旋の行進を遅らせるとのご判断を下されました。あなたたちはまさか、大公令によって指名された指揮官の言葉を疑っていたのではないでしょうね」
ネディムが言うと、輝士たちは露骨に狼狽し始める。
「あ、いえ、その……」
「このことを殿下が知ればどう思われるか、この期に及んで指揮官に対して疑念を持つなど、それはすなわちターフェスタ大公殿下を疑うことと同じ――」
輝士たちは馬を下りて慌てふためき、
「ど、どうかお許しを……ッ」
ネディムは声を硬くし、
「謝罪の相手を間違えているのでは」
輝士たちはシュオウに向き直り、
「……指揮官、無礼な態度をお許しください」
シュオウは彼らに頷いて、
「指示通りにやればいい」
「はッ」
場が一時的に収まり、バレンはほっと胸をなで下ろす。
ネディムがシュオウに一礼し、
「当家の私兵をまとめます、ご自由にお使い下さい。できれば数人を護衛に連れて行きたいのですが」
「好きにしていい」
シュオウはネディムに許可を与えて、バレンを見やる。
バレンは頷き、
「必要なものたちに状況を伝えます」
「頼む、俺は捕虜のところに行く」
*
捕虜を護送する馬車は、荷台に簡易の座席をつけただけの粗末な造りである。そこに手足を鎖で繋がれた百刃門の武人たちが身を置いていた。
捕虜を監視する武装した兵士たちが、シュオウに気づいて敬礼をする。
シュオウは頷いた直後につまづいたふりをして、兵士の一人に体当たりをした。その一瞬の隙をつき、腰に下げられた鍵を抜き取る。
「悪かった」
「い、いえ、こちらこそ――」
シュオウは自らが地面に押し倒した兵士に手を差し伸べ、
「今後について、捕虜の代表者と話しておきたいことがある、少しいいか」
「はッ、どうぞ指揮官」
兵士は慌てて馬車にはしごを用意する。シュオウは礼を言って馬車によじ登った。
先頭の座席に座らされているロ・シェンとビ・キョウの二人とすぐに顔を合わせる。
ビ・キョウが身を乗り出し、
「なにかあったな?」
真剣な眼差しから、目敏く異変を察知している様子のビ・キョウへ、シュオウは静かに頷いた。
次の言葉を待つ二人に向け、シュオウは一瞬の間を置き、
「……ターフェスタ大公を拘束した」
周囲に立つ兵士たちに聞こえぬよう、小声で言った。
聞いた途端、二人は驚いた顔で視線を交わす。ロ・シェンは手足にぶらさがる鎖をじゃらりと鳴らしながら身を乗り出した。
「どうしてそうなるッ」
「上で住民たちが叛乱を起こした。その始末を指示した大公の命令を止めた、その後は成り行きで……」
ビ・キョウはくすりと笑い、ロ・シェンは力なく天を見上げた。
ビ・キョウは笑みを浮かべたまま、シュオウをじっと見つめる。
「それで、もしや我らに手を貸せというつもりか?」
シュオウは即答で首を振り、
「そうだ」
天を見上げていたロ・シェンが顔を降ろした。その眉間に深く皺を刻みながら、険しい表情でシュオウを睨む。
「こっちになんの得がある。今後の一門の自由のために甘んじて罰を受ける道を選んだのだ。謀反人に協力すれば、我らはここで野垂れ死にか、よくても各地で賞金をかけられる」
シュオウは淡々とロ・シェンの言葉を受け止め、
「そもそも、俺がいなければお前たちの安全を保証できる人間はいなくなる」
言って、拘束を解くための鍵を差し出した。
ロ・シェンは鍵を凝視し、ちらりとビ・キョウに視線を流した後に手を伸ばす。だが、鍵を取る寸前に空中でぴたりと手を止めた。
「……自由を手に入れた我らが、そのまま逃げるとは思わないのか」
シュオウは静かに視線を送り、
「したければそうしろ。でも、手伝ってくれるなら助かる。今は一人でも協力者が欲しい」
言って、受け取りを躊躇うロ・シェンの手に強引に鍵を押し込んだ。
素早く馬車から降りようとするシュオウに、ビ・キョウが身を乗り出して声を掛ける。
「もしも、シェンがいま言った道を我らが選んだら、どうする?」
シュオウは降りかけた体勢でビ・キョウを見上げ、
「わからない。でも、そのことはずっと覚えてる」
と、真顔で告げた。
足早に去って行くシュオウの背中を見送りながら、ビ・キョウはくすくすと笑声を零す。
「これのどこが面白い……」
険しい顔のロ・シェンに、ビ・キョウは涼しげな視線を送る。
「従えば一国を相手にした謀反に加担する者となり、逆らえばあれほどの強者から恨みを買うことになる。自信満々に外界に飛び出した我らが、今や子ネズミのように捕食者たちの視線を気にしているのだ、笑わずにいられるか」
ロ・シェンは苦々しく奥歯を噛みしめ、
「ちッ」
「どうするのだ? 私はお前の決定に従うぞ、大師範」
ロ・シェンは逡巡の後、周囲の様子を探ってから、受け取った鍵を拘束具に差し入れた。
「後悔するなよ」
ビ・キョウは柔く微笑を浮かべ、
「我らは武闘の道を極めんとする群れ、一戦でも多く戦いを求める生き様こそが相応しい。後悔などするものか――」
両手を持ち上げ、自身の拘束具を差し出した。
*
ロ・シェンと話を終えたシュオウは、坂道を上って集団の先頭を目指していた。
その途中、さりげなくシガが隣に並び、
「やるのか?」
シュオウは前を向いたまま、
「やる」
シガは鼻から息を吹き、
「またこれか」
言った声は、弾んでいるようにも聞こえる。
「クモカリは?」
「話を聞いてバレンのおっさんと一緒に上に行った。お前が下に行ってたのは――」
シュオウはそっと頷いて、
「ロ・シェンと話をしてきた」
「奴らを利用する気か?」
「わからない。鍵を渡して協力は求めた、どうするかまでは聞いてない」
シガは声を押し殺し、
「逃げるかも、とわかっててやってんだよな。下手すりゃあ国のほうにつかれるぞ」
「わかってる――その時は、頼む」
シュオウは短く答えて、拳でシガの太い腕をとんと叩いた。
シガは口元を緩ませ、
「いいぜ、高くつけとくがな」
その時、
「シュオウ君ッ!」
血相を変えたアマイがシュオウの元へ駆けつける。
シュオウは足を止めずにアマイを見やり、
「聞きましたか?」
「アガサス重輝士から……考え直すつもりは……?」
「ありません。いま止めたとしても、どっちみち命を狙われる」
即答したシュオウに、アマイは顔を引きつらせて追いすがる。
「無謀にもほどがあります、また同じようなことを繰り返すなんて……私を含め、あなたに同行を決めた親衛隊の輝士たちは、立場上あなたと運命を共にする以外の選択肢がないのですよッ」
諭すように言われながらも、シュオウはしたたかに声をかぶせ、
「だから、俺に手を貸してください」
アマイは一瞬絶句した後に、
「同行を決める前に、もっとよく考えるべきでしたね――」
諦めたように眉間の皺を緩め、
「――それで、どうすれば?」
「まず、この遠征隊の無力化を優先します」
アマイは歩調を緩め、武装した兵士たちが居並ぶ集団を俯瞰し、
「はあ……」
重く溜息を吐きだした。
*
かつての古びた坑道は仄暗く、酷く複雑に入り組んでいる。
隧道が蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下道の行き止まりにさしかかり、中央都への帰還を目指すデュフォスは苛立たしげに歯を食いしばった。
「またかッ」
怒りを声に乗せて吐き捨て、道案内をする捕虜の胸ぐらを掴み上げる。
「お、俺も、慣れてないもんで――」
デュフォスは側にいた兵士の腰から剣を抜き取り、案内役の男に突きつけた。
「お前で三人目だ、無駄に時間を使わせようと努めたところで、なんの意味もないとわからないのか」
全身に拷問の傷を負った男は、向けられた剣先を見つめて、怯えを隠せず汗を滲ませる。
デュフォスが剣を振りかぶったその時、
「やめろよ!」
背後から響く声に、デュフォスは剣を降ろして振り返る。
地下道を照らす夜光石の明かりに照らされ、影を帯びながら後ろ手を縛られたレイネが姿を見せた。
デュフォスはレイネをじっと睨み、
「なにをやめろと?」
レイネはデュフォスを睨み返し、
「みんな頻繁に出入りはしてなかったんだ、わざとじゃなくて、本当に間違えてるだけなんだッ」
地下道にレイネの叫びが反響する。
レイネは口角を曲げて、
「私が出口まで案内する……」
デュフォスは憎悪を込めて片目をひくつかせ、
「捕まえた者のなかでもっとも信用できないのがお前だ。口だけで案内すると言いながら、私を罠にはめるつもりに違いない。口先で私を操れると思っているのなら大間違いだぞッ」
感情を昂ぶらせたデュフォスは、剣を握ったままの拳をレイネに向けて振り上げた。その拳が振り下ろされる直前、その手を押さえ付けるように、暗がりから鋭く手が伸ばされる。
デュフォスは血走った目で振り返り、
「……なんの真似だ?」
デュフォスの手を押さえる、セレスを睨めつけた。
この場にいる誰よりも驚いた顔をしているのは、セレス本人だった。
セレスは慌てて手を引き、
「こ、これは……?!」
直後に、プレーズの拳がセレスの顔面を叩き付ける。
殴られた勢いで倒れ込むセレスを見下ろし、プレーズはセレスの胸を踏みつけた。
「きさま、この娘に肩入れをしているのか?」
プレーズの拳に晶気が帯びる。セレスが怯えたように手をかざした直後、
「やめろ」
デュフォスがプレーズの次の行動を制した。
プレーズはデュフォスを見やり、
「ですが、この男は……」
デュフォスは視線をレイネに向け、
「薄汚い野良犬でも毎日見ていれば情が湧いてしまうものだ。セレス・サガンは私を助けて敵拠点の壊滅に協力した、酌量の余地はある」
プレーズは踏みつけたセレスを一瞥し、靴の裏についた泥をこすりつけてから、ゆっくりと足を下に降ろした。
レイネが自分をかばって倒されたセレスへじっと視線を送っている。デュフォスはその視線を切るように前に立ち、
「次に一度でも行き止まりに案内すれば、お前たちを順番に切り刻む。昇天の資格を失ってまで、ただ無駄に時間を浪費させるか、お前に決めさせてやろう、レイネ」
剣先を突きつけ、デュフォスは最後の機会を通告した。
レイネは囚われた仲間たちを見回し、
「……案内する」
口元を歪め、頷いた。
*
小柄なレイネは、まるで自分の家の庭を歩くような足取りで地下道を進んでいく。
その手際の良さから、レイネが何度となくこの道を行き来していたことが窺えた。
セレスは苦しげな顔でその後をついて歩いていた。
前後にはデュフォスとプレーズ、二人の輝士に挟まれ、後方からはターフェスタ軍人と、雇われの傭兵たちが後に続く。
セレスがひび割れた道に足を取られてつまずくと、
「もたもたするなッ」
プレーズから厳しい叱責が飛び、強く背中を蹴られた。
見下すような視線と軽蔑の眼。それはセレスの来歴を知っている者から向けられる馴染みの感覚である。そして、相手から向けられるその態度に、黒い感情が沸き起こる、古びた感覚を思い出す。
全身に蛇毒が回り、それを中和するために使われた深界の毒の効能が未だに体の自由を侵していた。
全身、ところどころが石のように硬くなったまま、常人が歩く速度についていくだけでもやっとのことだ。
その苦しさを理解しようともせず、責めるように小突いてくるプレーズに苛立ちが募る。
「なにをしている、さっさと立ち上がれこの愚図が」
追い打ちをかけるように頭を蹴られ、苛立ちが頂点に達しようとしたその時、
「大丈夫か?」
優しい声で、デュフォスが手を差し伸べた。
プレーズは戸惑うように、
「デュフォス卿……?」
「長い捕虜暮らしがどれほど過酷なものだったか、きさまにはわからないだろう、プレーズ。この男は長期間に渡り肉体労働に従事させられていた、作業中に負傷もしたうえ、まだ病み上がりなのだ」
苦しみに理解を示すデュフォスの言葉が、セレスの昂ぶった心に癒やしを与える。
セレスはデュフォスを見上げて、差し伸べられた手を取り、立ち上がった。
「申し訳ありません……」
謝罪したセレスに対して、デュフォスは気難しそうな顔に糸で引っ張ったような笑みを浮かべ、気遣うように背中についた靴跡を払い落とした。
本来、雲の上にいる人物からの手厚い気遣いに、セレスは思わず頬を緩ませる。だが、その先で足を止めてじっとこちらを見つめているレイネと視線が合うと、逃れるように顔を落とした。
行進を再開する。
地下道では時間の流れが曖昧になり、降りてからどれほど時間がたったのか、もはやわからなくなっていた。
似たような道を右へ左へ、時には上下の移動も交えながら進んでいくうち、デュフォスがまた苛立ちを露わにし始めた。
「まだなのかッ、もし同じ場所をぐるぐると回っているだけなら――」
レイネは地下道の壁の色と同化したような蓋の前で足を止めた。
「ついたよ――」
蓋を横にずらすと、石造りの地下水道が現れる。そこはこれまで歩いてきた地下道よりも新しい造りだった。
ようやく市街地の気配を感じ、デュフォスが顔を綻ばせたのも束の間、
「この匂いはなんだ……」
デュフォスは顔を顰めて鼻を覆った。
意図して嗅ごうとせずとも、その匂いはすぐにわかった。
――焦げ臭い。
漂う、という程度の状態ではなく、空間を埋める空気のすべてが焼けたような強烈な異臭を帯びている。
この異変に顔を顰めるのは公国側の人間だけではなかった。レイネや他の捕虜たちもまた、匂いに不安げな表情を浮かべている。
外から光が漏れる出入り口に向け、デュフォスは誰よりも先に走り出した。その後に続き、セレスが外に出た瞬間、そこに広がる光景に絶句する。
出た先に広がる街の光景は凄惨だった。
火に飲まれたのか、建物の木造部分が黒く焼け落ち、そこら中に白い灰が舞い散っている。
ここがどこかもわからないほど、街の様子は一変している。
セレスと同様に、街中の様子を眺めるデュフォスは、立ち尽くして呆然とその光景を目に焼き付けている。
地下道への出入り口から離れ、大通りまで辿り着くが、荒廃した光景に変化はなく、むしろその惨状がさらに深度を増していく。
そこかしこに転がる死体。焼死体に紛れ、戦いの形跡を残した兵士たちの死体までもが、無惨な状態で点在している。その様相は、まるで敵国に攻め落とされた後のようだった。
「いったい、なにが……ッ?!」
その光景に驚きを隠せないプレーズに対して、デュフォスが突如その胸ぐらを強く掴み上げた。
「なんなのだこれはッ」
「わ、わかりません。御身の救出に出る前まではこんな――」
デュフォスは現状を飲み込めない様子で、
「城へ行くぞ……なにが……こんな……周囲を警戒しろ……ッ」
一行は動揺を隠せぬまま、都の上流へ向けて進んでいく。
惨状を前にしながら、セレスの視線は囚われたレイネの横顔に向けられていた。呼吸を浅くし、不安を隠せない表情からは、うっすらと滲む涙が窺える
しばらくの間、時間を共に過ごしてきたセレスは、レイネのその涙が、家族の身を案じてのことだと理解できる。
――レイネ。
今すぐに声をかけ、その背中に手を乗せてやりたい、という衝動に駆られる。
不意に、周囲を探るレイネの視線がセレスと交わった。
「ッ……」
その視線から逃れるように、セレスは顔を下げて視線を逸らす。
少しの間を置き、顔を上げた先に、まだレイネの視線がセレスを捉えたままだった。
その視線は山を下りる前とは違う。怒りや責めの色はなく、ただただ年相応の少女が、不安に恐怖を抱いているように見える。
長い時間を掛けて関わるうち、自身の内面をさらけ出し、心の内を知られたセレスと同様に、レイネもまた、彼女の心の内を日々のなかに打ち明けていた。
助けてやりたい、と強く思う。
だが、裏切りによって、すでにその資格は失している。
後悔と、もしもの未来に対する期待が入り交じるいま、相反する二つの感情に心を乱され、セレスは目眩を覚えながら背を曲げ、ぐらりと視線を下げた。