断雲 7
断雲 7
人力で荷車を押すには、載せているものが多すぎる。
大量の食料に死者の体。
食料の運び出しを企てたエヴァチの手は血にまみれていた。
突然の襲撃と、怯えた者たちによる城の兵士への暴力。警鐘が鳴り響く寸前に辿り着いた門の前は、暴行を受けた様子の番兵たちが倒れ、難なく城からの脱出に成功する。
だが、顔や服を血で汚し、大荷物を運ぶ集団は、どこからどう見ても不審だった。
「司祭、向こうにも警備隊が――」
ハースが必死な声でそう告げた。
警鐘の音は、静かな街中によく響く。
警備隊の兵士たちは上街の主要な道を塞ぐように展開し、警戒を強めていたが、幸いなことに彼らの人手は少ない。
警備隊を避け、エヴァチは細い道へ進路を変えて先導する。
建物の裏手を進んでいたとき、その先に急な傾斜が現れる。そこへ踏み込んだ直後、運ぶ荷車の一つが、狭い道の隙間に車輪を取られた。
ガゴ、と激しい音をたて動かなくなった荷車から、積んでいた遺体が放り出された。
同時に、荷車の運び手たちも足をとられ、その場にばたばたと倒れ込む。
混乱する場から、自然と騒音が上がる。
先頭を進んでいたエヴァチは慌てて足を止めた。だが、
「そこでなにをしているッ!!」
背後から声をかけられ、エヴァチは背筋を凍らせた。
振り返ると、そこには三人組の兵士たちがいた。薄手の防具をまとい、短槍を持ち、一部に赤色の装飾を身につけた警備隊員たちである。
平民出身の兵士である彼らは、まだ若く、大人と子供の間にあるような年齢の青年たちだ。彼らはエヴァチが率いる一団と、地面に転がる無数の遺体を前にして、一瞬にしてその異様さを察知した。
エヴァチは自然と首を横に振っていた。右へ揺らし、左へ揺らし、心の奥底で深く神に乞い願う。
「お願いだ……どうか我々を……」
最後まで言い切る前に、青年たちの一人が腰に下げた笛を取り、口元へ当てた。
エヴァチの手元から晶気が爆ぜるように解き放たれる。渦巻く水流は、太い槍のように伸び、笛を握った青年の胴をえぐり取るように貫いた。
青年は笛に空気を送り込む直前に倒れ込み、血だまりのなかで全身を細かく震わせる。
怯える残り二人の兵士は、怯えた様子でじりじりとその場から後ずさる。
エヴァチは血走った眼を見開き、
「すまない……本当に……」
「やめて――」
子供のように甲高い悲鳴をあげて背を向けた二人を、後ろから晶気の水柱が貫いた。
骨を砕き、血肉を抉りとった晶気は、渦を巻きながら彼らの血を周囲に激しく巻き散らかす。
地面に突っ伏して倒れ、指先を震わせながら、二人は間もなく、苦しげに息を引き取った。
「すまない……すまない……」
顔から滴り落ちるのは涙ではなく、油のように濁った汗だ。
エヴァチはその場で崩れ落ちるように膝をつく。
頭で思っていた事と現実は違う。
頭の中では、溢れんばかりの食料を持ち帰り、飢えた者たちの腹を満たす光景を想像していた。だが現実は、食料を運ぶはずだった荷車には仲間たちの遺体が積み上がり、目の前にはまだ未熟な若者たちの亡骸が転がっている。
理想は潰え、流血と死の連鎖が続く。
膝をつき、俯いて、漂う死の匂いを鼻から胸の奥へ、自らを罰するように出し入れを繰り返す。
「…………」
呆然としてただ地面だけを凝視していると、
「司祭、立ってください、行かなければ」
ハースの手が、エヴァチの肩にそっと手を当てて言葉をかけた。
エヴァチは肩に載せられたハースの手に触れ、恐る恐る視線を上げる。
ハースは、この案に初めから反対し続けていた。しかし、エヴァチを見つめる顔に、責めるような感情は窺えない。
振り返ると、皆が協力して荷車を戻し、落ちた遺体を一つずつ回収する作業に勤しんでいる。
エヴァチはハースを見ながら強く頷き、
「ああ……」
支えられながら、立ち上がる。
ハースの手を借り、死した青年たちの遺体を道の脇に移動させた。彼らを並べて横たえる。
――神よ。
ようやく、その言葉を思い出し心の中で呟いた。
「この者たち……この者……たちに……」
自らの手で殺めた者の冥福を祈る。世界がグラついてみえるほどの破滅的な背徳感に、吐き気を堪えながら三人の死者に背を向けた。
上街から真っ暗な街外れに向かう道を行き、遠回りを経て下街へ至る道に入る。
その瞬間、
「司祭、この匂いは……?」
焦げ臭い、焼けた匂いが鼻を突く。
暗闇に覆われる下街の風景に、奥を照らすように赤い光が立ち上る。その光は朝を告げる陽光などでは、決してなかった。
*
ターフェスタ市街地に置かれた警備隊は、その人員を多くを冬華付きの重輝士、レフリ・プレーズの任務にとられながら、残された少数の人員で職務に就いていた。
「隊長、下街の中央区から火がッ」
深刻な顔をした部下からの報告を受け、警備隊を仕切る初老の責任者が、素早く人員の派遣に指示を飛ばす。
「消火を支度し、火の元を確かめろ。近隣の住人を集めてすぐに消火作業にかかれ――」
「隊長……」
指示を飛ばしていた最中に、次の問題が飛び込んでくる。
隊員が運び込んできたのは、顔を布で覆われた三人分の遺体だった。
「上街商業区の片隅で発見されました……」
遺体にかけられた布をめくると、強烈な臭気が舞い上がる。遺体の腹に穴が空き、穴からどろりと臓器が零れ落ちていた。
防具を纏った体の上から、これほど鋭く大きな傷をつけられるものなど、一つしかない。
「晶気か……」
となれば、三人を殺害した者は彩石を持つ者ということになる。
未だ、鳴り止まない警鐘の音を背に負いながら、隊長は暗い街の景色を深刻な目付きで俯瞰した。
「いったいなにが起こっているんだ……」
「隊長! また火の手が、こんどは下街の南地区のほうから――」
「隊長ッ――」
「隊長に報告ッ――」
隊員たちから次々と報告があがる。
常日であれば、あくびがでるほど退屈な夜勤が、一夜のうちに非常事態を迎えている。
「どこからでもいい、できるかぎりの人手を集めろ。市街地の警鐘を鳴らせ、今すぐだ!」
隊長は叫ぶように言って、自らの足で現場に向けて駆けだした。
*
異常を知らせる激しい鐘の音が、街中に響き渡る。
「いいねえ、大事になってきたぜ」
痛み止めの酒を食らいながら、ティモは舌をだらりと垂れた。
火に炙られて家々が悲鳴をあげている。深夜の冷気を溶かすほどの熱が広がり、中から逃げ延びた人々が、逃げ遅れた家族の名を必死に叫んだ。
ここは中央都の下街、住民たちが多く暮らす区画は、密集して家が建ち並び、乾いた空気と油を染みこませた火種は、瞬く間に一帯を業火で覆い尽くした。
「ティモ、他のとこの奴らも火を付け始めた。それに、上流の店を襲いたいって言ってる連中もいるんだが」
「いいぜ、好きにさせなよ」
「でもさすがにここまでやるとよ、団長が……ボ・ゴが知ったら怒らねえか?」
ティモは腹の底から笑みを零し、
「怒るに決まってるじゃねえか?! でもよ、やっちゃったもんはどうしようもないだろ、ボ・ゴは怒るだろうけど、最後には許してくれるんだよ、いつもそうなんだからあッ」
酒と戦い、そして千切れた指先から脳天にまで響く痛みが原因で、興奮しきったティモの目は、完全に現を捉えていなかった。
「誰か、助けてくれッ――」
燃える家々から逃げ出してきた住民たちが、救いを求めて声をあげる。
「助けてなんてやるものか」
ティモは言って、薄ら笑いを浮かべながら、助けを求める住民の喉を掻ききった。
吹き出す血と、刃物から滴る血。火災から漏れる赤い光とは異なる赤い滴を見た者たちが、半狂乱で逃げ惑う。
「例の司祭のことを聞き出すんじゃなかったのか?」
仲間から問われたティモは、
「なんかもう、どうでもよくなっちゃった」
顔から笑みが零れ出す。
古い家が燃える匂い、人々の悲鳴、生き物が焼ける香り、暗闇を照らす赤い光。それらはまるで心地良い飲み屋通りを歩いているかのように、狂騒という名の音楽で彩られている。
ティモは怯えて腰を抜かした子供の髪を掴み上げ、
「俺、やっとこの街が好きになってきたよ」
震える体に、手にした短剣を突き刺した。
「お前たち、なにをやってるんだ?!」
だが突如、冷や水の如くその一言が掛けられた。
心地良い音楽は止まり、酔いが急速に冷めていく。
声を掛けてきたのは、街の治安を監督している警備隊の兵士たちだ。
側にいた仲間たちがばつが悪そうに頭を掻き、ティモは下唇を突き出して、無粋な声かけをしてきた者たちを睨めつける。
「ちょっと遊んでるだけだけど?」
短剣を刺されて狂ったように悲鳴をあげる子供の髪を掴んだまま、ティモは悪びれることもなくそう答える。
地面に横たわる無数の死体を前に、兵士たちは武器を構えて骨食いの団員たちに向ける。
ティモは首を傾げて、
「あーあ、やっぱそうなるんだ。じゃ、もういいや――」
掴んでいた子供の髪から手を離し、突き刺していた短剣を引き抜いて兵士に向かって襲いかかった。
それなりの装備に身を包む兵士たちも、日頃は平和な街勤めをしているだけの者たちに過ぎない。彼らは咄嗟の瞬間に応戦の支度を整えるが、それはあまりにも遅すぎた。
ティモは身を屈めて兵士の懐に入り込み、素早く背中に回って無防備な首に刃を突き立てる。
「お前は俺の獲物だ――」
耳元で囁き、何度も首筋に刃を突き立てる。
直後に、骨食いの団員たちが他の兵士たちを四方から取り囲んだ。
火に焼かれる家々の音に、人々の悲鳴、そこに戦士たちの怒号が加わり、場はさらなる混沌のなかに落ちていく。
*
「ああああああ――」
燃えさかる家の前に跪き、拳を握って地に伏せる一人の男がいた。
平民として生まれ、家族を持ち、子供を養い、平凡に生きていたその男の目の前に、焼死した子と、刺し殺された妻の体が横たわっている。
男は見た。焼ける家に取り残された子を探しに行っていた間に、妻がとある集団から無惨に殺される瞬間を。
一瞬にしてすべてを失った男の肩に、手を触れる者がいた。近所で顔なじみの、家族ぐるみで仲が良かった者である。
「あの余所者の傭兵たちが火をつけてまわっているのを見た奴がいる」
話を聞き、男は咽せるほどの咆哮をあげた。
「大公に雇われた連中だろう?! なぜ奴らが俺たちを――」
「絞るだけ絞って、とるもんがなくなったら殺そうってのか――」
「私たちがなにをしたっていうの――」
「大公はいかれちまってる――」
「貴族どもは、俺らがどうなろうとどうでもいいんだ――」
逃げ延びた者たちが、自然と一つ所に集まり、口々に呪いの言葉を吐き出した。
止めどなく溢れるそれらの言葉は次第に意味を持ち、一つの意志に束ねられる。
男は死した子と妻から目を離し、
「このままじゃ殺される、俺たち全員が意味もなく、ただ……全部奪われる……もう我慢の限界だ……どうせ死ぬなら……ッ」
そう言って、焼け落ちた木材の破片を手に取った。
*
家を焼かれた民衆は、無言で武器となり得る道具を手に持った。
人々は群れて塊となり、燃える街並に照らされながら、一つの生物のように一心に歩調を合わせて進んでいく。
道の中心に騒音を立てる集団がいた。
余所者の傭兵たちを中心に、その中に混じる警備隊の兵士たち。その区別なく、民衆は無言で集団に襲いかかった。
「お、おいッ、ティモ、やべえぞ!」
傭兵たちの中から緊迫した声があがった。
相手は武装し、戦い慣れた者たちばかり。しかし、群れた民衆の数は彼らを圧倒していた。
「なんなんだよ、てめえらッ?!」
ティモと呼ばれた女の傭兵が雄叫びを上げ、武器を振り上げた。しかし、直後に背後から木の杭を全身に打ち込まれる。
それはまるで、一枚の枯れ葉を濁流が押し流すかの如く、傭兵も国の兵士も関係なく、一方的な力が奮われる。
民衆に襲われた者たちが、次々に地に伏せていく。
「ちく……しょう……」
民衆の一人が、死にかけた女の傭兵の顔を汚れた靴で踏みつけた。
「やられる前にやってやる。いかれた大公に雇われた奴ら全員、その上にいる貴族どもも全員、俺たちの苦しみをわからせてやる!!」
どこからともなく、民衆の群れに人々が合流していった。
統率者もいないその群れは、遭遇するすべてのものに無差別に敵意を向けながら、街の上流に向けて侵攻を開始した。
*
「街外れのほうからも火が! 例の傭兵たちが街中に火を付けてまわってるって――」
部下たちから次々と運ばれてくる知らせは、そのどれもが緊急事態を告げている。その現実は、ヴィシャを大いに困惑させた。
火事は下街の商業区から始まり、すでに住民が暮らす居住区にまで及んでいる。
それは各方面から同時多発的に起こり、明らかに人為的に起こされていることを示唆していた。
「商店が襲われてる略奪が始まってる――」
「住民たちが殺されてるって、向こうには俺の家族も――」
「上の連中は俺たちを皆殺しにするつもりなのか――」
ヴィシャを中心として、その部下たち全員が激しい混乱の中にいた。なぜこうなったのか、まったく理解に及ばなかったからだ。
だが、きっかけは知っている。エヴァチ司祭が事を起こした夜、城から激しい警鐘が鳴り響いた。
エヴァチは、おそらくしくじったのだろうと踏んでいたが、その後に突如として街に火事が広まりだした。
集まってくる情報から、街に火を付けて回っているのは余所者の傭兵たちであるという。彼らは国に雇われている集団であり、その行動は上からの指示を受けてのことである、と考えるのが自然だ。
だが、ヴィシャはそこに違和感を覚える。
「なぜ上の連中が街を燃やそうとする」
これがエヴァチの起こした事に対する報復だとしても、国の働き手である住民たちを無差別に殺める方法をとるなど、まったく意味のない行いである。
――なにかおかしい。
事の始まりから現在の状況まで、一つとして納得できる事がない。
集う部下たちが大声をがなりたてながら言い合いをしているなか、ヴィシャは強く卓を叩いて注目を集めた。
「少ない手勢を分けて当たるには人が足りてねえ。何が起こってるのかをたしかめる、全員俺と来い――」
*
空が明けるより少し前。
微かに雪がちらつく空の下、ターフェスタ大公の遠征隊は、夜の深界を進み、現在は僅かな休憩時間を過ごしている最中である。
本来ならば、中央都へ戻る道行きの半分ほどを消化している頃合いに、遠征隊はすでに行程の大半を消化していた。
指揮官の意志を反映し、通常ではありえない速さで進行を続けた結果、遠征隊には、はっきりとわかるほど疲労の気配が滲んでいる。
そのような状況下、くたびれて愚痴をこぼす兵士たちの間を縫うように、冬華六家に属するエリス・テイファニーは馬を走らせ、ドストフが身を置く馬車の近くで馬を止めた。
だが、武器を構えた兵士たちが、エリスの前に立ち塞がる。
「そこをどきなさい」
ターフェスタ大公の親衛隊として、誰よりも側にいるはずのエリスは、苛立ちと憤りを声に混ぜ、兵士たちを睨めつけた。
兵士は怯えと戸惑いを滲ませつつ、
「も、申し訳ございません、ですが、大公殿下が許可なく通すな、と」
エリスは眉間に皺を寄せる。大公の馬車を見つめながら大きく息を吸い込んだ。しかし、
「大声をあげて殿下に呼びかける、というのは、やめておいたほうが無難ですよ」
ネディムが姿を見せ、釘を刺した。
「ネディム……彼らを下がらせて」
ネディムは表情を変えぬまま、
「かまいませんが、ドストフ様は未だ気分を回復されてはいないご様子、もう少し時間を置いてからのほうがいいのでは」
ネディムは余裕の態度で笑みすら浮かべているように見える。どのようなときであれ、彼は一歩身を引き、遠くから無難な言葉を振りまくだけだ。
まるで心が入っていないようなネディムのその態度が、公国や冬華、そして大公家を思うエリスにとっては、気に入らない。
「どういうつもりなの」
棘のある声を掛けられ、ネディムは首を傾げた。
「どういう、とは?」
「あなたがその気になれば、殿下との間を取り持つことなど簡単なことでしょう。私を罰しているつもり……?」
ネディムは指先で長衣の袖をたぐるような所作をして、
「同格であるあなたを罰する権限は私にはありませんし、そんなことに注力するほど暇人でもありません。ただまあ、身元を確かめていない者たちを遠征隊に加えた行いについては、浅はかであったと思ってはいますよ」
エリスは苦々しく足を踏み、
「しかたがなかったッ、急な状況で、殿下は遠征隊の体裁を整えるように命じられた。費用の都合もあったし、すべての条件を満たして雇える者たちは……」
ネディムは後ろ手を腰にまわし、
「そう、仕方がなかった。主君の命令には従うのが家臣の務めですからね。だがそれが明らかな間違いであるのなら、たしなめるのも重要な務めの一つのはず」
向けられる視線から逃れるように視線を下げた。言いなりとなり、諫めることができなかったのは事実だ。しかし、それを行えるほどの器量がないという自覚も、エリスはまた素直に持ち合わせてる。
ネディムはわざとらしく咳払いをして、
「ちなみに、殿下にお会いしてどうしたいと?」
エリスは唇を軽く噛む。心中には一つの大きな不安があった。
ユーギリ滞在中にボウバイト将軍の手によって処分された傭兵団、骨食いの兵士たちは、その多くを中央都にいる部下の一人、レフリ・プレーズの手元に残してきている。
彼らが問題行動を起こさず、大人しくプレーズの指示に従っていればいい、だがもしもの場合を思うと、全身から血の気が引いていく思いがする。
エリスは悟られないように固唾を飲み下し、
「隊の一部を連れて、先行して街に入る許可をいただこうかと……」
ネディムはしばらくの間口を閉ざし、
「……なるほど。できるかぎりの努力はしてみます、殿下に取り次ぎましょう」
エリスは顔をあげ、
「いいの?」
「ただし、あくまでも控えめに。その後のことも期待しないように。殿下は先のボウバイト将軍から叱責を受けた件について、あなたにその原因があると思われている。ほとぼりが冷めるまでは影に隠れて過ごすことを勧めますが、考え直すつもりは――」
エリスは、
「いいえ」
短く即答した。
ネディムは頷き、控えていた兵士たちを下がらせて、ドストフの馬車に向かっていく。
馬を預けてネディムの後に続きながら、ここ数日の間、暗くしてばかりだった顔に僅かに花を咲かせる。
「殿下、お休みのところ申し訳ありません」
ネディムの声かけの後、馬車の窓がゆっくりと開かれる。
顔を出したドストフの穏やかな表情を見て、エリスはほっと胸をなで下ろした。
「どうした」
「夜通しでの進行にお体のほうは問題ないでしょうか」
「大丈夫だ。むしろ、子供の頃の泊まりがけでいった狩りのことを思い出していた。まだ暗い時に山を歩き、鹿を仕留めたあの日が懐かしくてな」
東方との戦いで勝利を収めた後、ドストフはまるで別人のように心穏やかな様子をみせている。これがドストフという一人の人間の本来の姿なのかもしれないと思いつつ、エリスは自身から心離れていく主人の様子に、焦りに似た感情を抱いていた。
「殿下、エリスです」
ネディムが本題を切り出す前に、堪えきれずに呼びかける。途端、ドストフは強く顔をしかめた。
「しばらくその顔を見たくないと言ったはずだ」
エリスはドストフの馬車の前で膝を落とし、
「先の失態を改めてお詫びいたします……殿下、私に挽回の機会をお与えください」
「挽回だと……?」
「史書に記録される凱旋式には壮麗なものでなくてはなりません。取り仕切りをおまかせくださるのであれば、殿下が勝ち得た戦果にふさわしい式にしてみせます」
ドストフは逡巡し、
「ふむ……だが、凱旋式はネディムに執り行わせるつもりでいたが……」
気に掛けるようにちらと視線を向ける。
ネディムは一礼し、
「私のことはお気になさらずに、どうかドストフ様のご意志のままに」
援護を受け、エリスは顔を綻ばせる。そして、隠していた本題を切り出した。
「殿下、おまかせいただけるのであれば、先行して都に戻ることをお許しください」
だが、その一言が、穏やかだったドストフの目の色を一変させた。
「なに……?」
「壮大な式を執り行うためには相応の支度が必要となります。円滑に式を進めるためにも、少しでも早く着手したほうがよいと――」
ドストフは馬車の壁を強く叩き、
「お前は、凱旋の将と国主を差し置いて先に国へ戻らせろと言っているのか!」
突然の怒声を浴びて、エリスは激しく動揺し、
「で、殿下……決してそんなつもりは……」
立ち上がって弁明の声をあげようとするが、ネディムがドストフの前に立ち、そっと首を横に振った。
ドストフは苛立ちのまま声を荒げ、
「殊勝な態度だと一瞬気を許しそうになったが、お前の言動にはいちいち下心のようなものが混じっている。凱旋の主役はお前ではない、冬華であるエリス・テイファニーが一番に国に戻れば、民はその姿を目に焼き付ける。私の顔にこれ以上泥を塗りたくるつもりなのかッ」
エリスは蒼白となった顔で、
「殿下、違います……他意はございません……信じてくださいッ」
ドストフはいよいよ視線をはずし、
「エリス・テイファニーに命じる。深界に残り、後続のボウバイト将軍を出迎えよ」
おおよそ、高位につく者が受けるには屈辱的である命令を受け、エリスは強く憤った。
「殿下、冬華の身分である私にそのような……」
「ボウバイト将軍に不敬を働いたのはお前だ。お前の望む通りに挽回の機会を与えてやる。将軍を接待し、凱旋式までに機嫌を直させろ、これは勅令だ」
ドストフは怒鳴るように告げ、強く馬車の窓を閉め、姿を隠した。
「殿下ッ――」
追いすがろうとしたエリスの前に、ネディムが腕をあげて立ちはだかる。
「忠告はしましたよ」
冷たく言って、ネディムは手で衛兵を呼び寄せた。
「ネディム、お願い……」
目を潤ませて救いを願うエリスに対して、ネディムは常と変わらぬ態度を維持する。
「行動と選択には始まりと終わりがあり、選択を誤ったのなら、その責を問われることもある。心からあなたを思っての忠告をしておきましょう、今は愚直に殿下のご命令に従うのが得策です」
ネディムに呼ばれた衛兵が、
「テイファニー卿、どうか穏便に……」
閉ざされた窓と、立ちはだかる兵士を前に、エリスは強ばっていた全身の力を弛緩させた。
あわよくば、揉み消しを図ろうとしたエリスの思惑はここに潰える。
――デュフォスさえ戻れば。
プレーズに救出作戦を託してきた。
冬華の長であり、志を同じくするデュフォスが、元の場所に戻りさえすれば、すべての事態は好転するはず。
希望を胸に、エリスはドストフの乗る馬車を一瞥し、無言でそっと頭を下げた。
*
朝陽を浴びた山中に、白い靄が浮かび上がる。
山中の拠点を襲撃したプレーズの隊は、夜明けの直前にそのすべての目的を完了させていた。
主目的であるデュフォスの救出に拠点の制圧、捕獲した者から秘密の経路も聞き出し、要件のすべては片付いている。
両陣営に少なくない死傷者を出しながら、完勝を収めたデュフォスは、用意されていた輝士の軍服に着替え、指揮官として現場の指揮を執っていた。
「あの薄汚い連中をどこから連れてきた?」
デュフォスの問いに、プレーズはばつが悪そうに言葉を濁す。
「戦地に人手をとられ……その……現状では人手の確保が苦しく……」
プレーズの態度から、この作戦に参加している傭兵たちが堅気の者たちではないことは明白だった。
「まあいい、戻りしだい精査する」
現状を俯瞰し、デュフォスは改めて奥歯を噛みしめる。
奪還作戦の指揮をとっていたのは家名に力のないエリスの部下で、その男が引き連れていた隊は戦力として万全とはいえない人員しかいない。そのうえ、急な雇い入れで作戦に参加していた傭兵たちは、どこの出かもわからない無頼の輩たちだ。
明らかに、自分の存在が軽んじられている。現状から察することの出来る現実を目の当たりにして、デュフォスは噛んだ奥歯を苦々しく擦り合わせた。
――ドストフ様は私にお怒りなのか。
苛立ちと憤りのなかに、僅かに不安を滲ませながら、
――早く戻らなければ。
焦りにかられる。
「ここの連中は街との行き来を素早くこなしていた。同じ経路を使って街に戻る。捕虜をまとめろ、自らの足で歩けない者はこの場で処刑する。速やかに撤退をはじめろ」
「はッ」
プレーズは威勢良く敬礼し、場を仕切ってデュフォスの指示を実行していく。
縄で縛られ、数珠繋ぎで捕虜たちが連れて行かれる。そのなかに混じって、一人だけ場違いに幼い少女、レイネの姿があった。
デュフォスにとっては仇敵である。頭を下げろだの、礼を言えだのと、生まれの立場の差もなく躾けようとしてきた相手だ。
すぐにでも殺してしまいたい相手だったが、群れの頭目は未だ野放しだ。ここまでの恥辱を与えられた諸悪の根源を捕らえ、組織を一網打尽にしなければならない。レイネはそのための道具としての利用価値が残されている。
「…………」
傍らに、連れられていくレイネを見つめる者がいた。今回の作戦の結果的な功労者とも言えるセレス・サガンである。
セレスはレイネの背に視線を釘付けにされていた。口元を歪め、鼻先に皺を寄せる表情からは、苦しい心の内が伝わってくる。
その態度に苛立ちを覚えながらも、デュフォスは感情を隠してセレスの肩に手を置いた。
「まだ気に掛けているのか?」
セレスはびくりと体を震わせ、
「……いえ、私は、もう」
絶え絶えに言って俯いた。
「隠さなくてもいい、あの娘を気に掛けていただろう? だが、お前は私を選んだ。貴族としての矜持を守ったのだ、踏みとどまったことを誇りに思え」
俯き隠した口元から、セレスの歪んだ苦悩が滲み出る。
デュフォスはセレスの肩を強く掴み、
「遠征に出られた大公殿下が帰還の途についているとのことだ。私は殿下が戻られる前に件の組織を壊滅させ、その成果をお伝えしたい。手を貸せ、あの小娘を餌にして組織の長である父親を仕留める」
汗で湿った髪を垂らしながら、セレスは見目悪く背を丸めた。
「承知、いたしました……デュフォス卿……」
従順な態度を見せるセレスに対して、デュフォスはしたり顔で笑みを浮かべる。
「よし、それでいい。さあ帰るぞ、我が麗しの故郷、銀雪の舞う白妙の都へ――」