断雲 4
断雲 4
遠征隊の道のりは順調に進み、ターフェスタ中央都を間近に捉える位置にまでつけている。
道中、白道での休憩のため、クモカリが用意した簡易の食堂は、遠征隊の兵士たちに好評を博していた。
一般の兵士たちに混じり、シュオウはクロムを連れ、クモカリから受け取った食事を持って、天幕の下に用意された食卓についた。
立ったまま食事にありつくシガに気づき、目を合わせるが、シガは隣にいるクロムに気づくと口元を引きつらせて慌てて遠くへ離れていった。
代わりに、遠征隊に志願して同行しているシシジシ・アマイが、食事を手に持ちながら、シュオウの前に姿を現した。
「む――」
すかさず、クロムが険しい表情でアマイの前に立ちはだかり、
「――我が君、見覚えのない怪しい者が」
アマイはクロムを気にした様子もなく、
「少しよろしいですか」
疲労と衰弱を残した様子のアマイが、シュオウに同席を求めた。
「クロム、その人はいい」
シュオウに言われ、クロムはアマイをしっかり睨んだまま道を空ける。
クロムは手にしていた食事を食べることなく食卓に置き、シュオウのすぐ後ろで護衛をするように立ち姿勢で待機する。
シュオウはアマイに隣の席を示し、肩を並べて席に着いた。
アマイは湿っぽく咳をして、
「北方へ渡って早々、将として一軍を率いて、領地代官にまで上り詰めるとは。正直、君がここまで世渡りが上手だったとは、思いもしませんでしたよ」
一見褒めているようで、アマイの言葉にはささやかな棘がある。シュオウはそれを感じながら視線を受け流し、
「俺は、とくになにも変わってません」
淡々と食事を口に運んだ。
アマイは逡巡した後、顔を下げて頭を振り、
「すみません……納得したつもりでいても、どうしてもあなたを見ていると、裏切られた、という気持ちが湧いてしまいます」
「そう思われて、当然のことをしました」
アマイは溜息を落とし、
「輝士の生まれではなくとも、あなたにはムラクモ王国に約束された未来があった。親衛隊に入っていれば、いずれは高位の階級を得る可能性も十分にあり得たでしょう。王家の姫に想われ、巨大な権力を誇るアデュレリアの当主直々に目を掛けられていながら、それでもまだ、あなたには足りなかったのですね」
アマイの言葉から棘は消えている。そこから感じられるのは、責めるような気持ちではなく、過去を惜しむような枯れた感情だ。
感傷に浸るアマイの言葉に、思うところはある。だが、ムラクモ、王都、アデュレリア、すっかり耳に馴染んだそれらの言葉も、今では遠い過去のように感じられた。
アマイは食事に手を付けずに身を乗り出し、声を潜め、
「これから、ユウギリをどうするつもりです?」
シュオウは口に含んでいたものをゆっくり噛んで飲み下し、
「ユーギリです、大公令で名前が変わったので」
「そんなことを言っているのでは――」
その直後、控えていたクロムがアマイの肩を掴み、
「無闇に我が君に近寄るな」
声に威圧感を滲ませつつ、強引に席へと引き戻した。
アマイは小さく頭を下げ、
「失礼しました……」
シュオウは薄暗いアマイを見やり、
「ユーギリをどうするかは、俺には決められないが、中央都で凱旋式を終えたらあそこに戻るつもりでいます」
アマイは思い詰めたような顔で、
「現状の私の身分を思えば、このような願いは過分であるとわかってはいますが……お願いします、ユーギリへ帰還した後に、大規模なサーサリア様の捜索隊を組織し、あなたに指揮をとってもらいたい」
シュオウは無意識に来た道へ振り返る。朝起きて、夜寝るときまで、それを忘れたことはなかった。
シュオウがムラクモを出て間もなく、追うようにして姿を消してしまったサーサリアとシャラ、二人が本当に深界の森へ入ったのだとしたら、間違いなく壮絶な経験をしているはずだ。
深界は特殊な世界だ。そこで生き延びるには多くの知識と経験を必要とする。だが、あの二人はそのどちらも持ち合わせてはいなかった。
じっと返答を待つアマイの顔は真剣だ。縋るような気持ちで、彼もまたムラクモへ戻るという選択を捨てて、敵国のなかに身を投じている。
シュオウはおもむろに口を開き、
「灰色の森を歩ける人間は少ない、人を集めても無駄に死なせるだけだ。中央都で森を歩ける人材を集められないか、試してみるつもりです。数を集めて戻ってから、できるかぎりのことはやる」
目に薄らと涙を貯め、
「ありがとう、ございます。今はその言葉を聞けただけで、どれほど心が安まるか……」
アマイは押さえようのない感情を隠すように深く頭を下げた。
シュオウは手巾をアマイに手渡し、
「見つけます、必ず」
アマイは手巾を目に当てながら鼻をすすり、
「お恥ずかしい……監禁生活の間に、心も弱ってしまっているようで。王女が失踪したいま、王都はおそらくグエン・ヴラドウを主と仰ぐ者たちを中心として軍を展開しているはず。それに加えて、独立を窺うようなアデュレリアの動き、そしてユウギリの陥落。まるで世界の天地が逆さまになったような現実に、打ちのめされそうになります。私は友を失い、志を同じくしていた同志たちも、その多くを失ってしまった。情けないと思いながらも、あなたを頼る他に、どうすればいいのかわからない」
ひとしきり喋り、アマイは食事をそのままに立ち上がった。
「詮無い話ばかりをしてしまいました。あなたは今や、大公直々に本隊の指揮をまかされるほどの立場です。ほとんど捕虜に近い私の身分では、気軽に人前で声を掛けるのも憚れるもので、この機会を使わせていただきました。今聞いた話を他の者たちにも話してきます、きっと希望を持てるはずです。失礼します、准砂、お時間をいただけたことに感謝を――」
アマイはムラクモ式の敬礼をしてその場を離れた。そのすぐ後に、
「安請け合いをしたものだ」
ジェダが現れ、アマイが座っていた席にすっと腰を落とした。
「聞いてたのか」
ジェダは軽く微笑み、
「聞こえたんだ、風に乗って――」
ジェダはシュオウの隣に座った後、真顔でクロムをしばらく見つめ、物言いたげな視線をシュオウへ投げた。
シュオウはただ黙って頷き、ジェダの言いたい言葉を無言のまま受け止める。
ジェダはふっと息を吐き、
「今後は君を利用しようとする者たちも現れる。王女の失踪について君が負い目に思うことはなにもない、なによりも今優先すべきなのは、どこにいるのかもわからない生死不明の人間を探すことじゃなく、僕たちのこれからのことだろう」
シュオウは叱られた子供のような顔で視線を逸らし、
「片手間で出来る事をやるだけだ」
「片手間、ね……君が度々、ユーギリのほうへ振り返っていなければ、その言葉を信じられたんだが。たいして事情を知らぬ者でも、君が未練を残してきたのは一目でわかる」
シュオウはジェダを睨み、
「それが言いたかったのか?」
ジェダは首を振り、
「いいや、ボウバイトの動向が気になってね、その件について相談したかったんだ」
遠征隊には軍人ではない者たちが多く同伴している。大公を含め、彼らを適度に休ませるために頻繁な休憩を挟んでいるが、鍛えられた兵士だけで構成されている後続のボウバイト増援軍は、一向に追いついてくる気配がない。
「将軍は怒ってると思うか?」
シュオウの問いにジェダは首を捻り、
「さあ、怒っていたとしても今回の件に関しては、矛先はターフェスタ大公に対してだろう。かといって、戦勝の凱旋に向かうのに副司令を務めた将軍が単独行動をしているというのも見栄えが悪い。一応、機嫌を確認しておいたほうがいいんじゃないかと思っているんだが」
「……そうだな」
会話の途中に、隊列の先頭方向から兵士が現れ、シュオウの前で敬礼をした。
「准砂ッ」
シュオウの前で恭しく敬礼をした平民の兵士に、シュオウは頷いて、
「どうした」
「中央都より使者が来ております、通過の許可を求めていますが」
ジェダが立ち上がり、
「行き先を聞いたか?」
「はい、ボウバイト将軍に直接届ける書簡だとか」
シュオウとジェダは顔を見合わせた。
シュオウがジェダに頷くと、
「その使者をここへ」
ジェダが兵士に指示を告げる。
ジェダは外套のフードを頭にかけ、
「丁度良い、僕が一緒に行って将軍の様子を見てくるよ。かまわないだろう?」
シュオウは即答で頷き、
「合流する気があるなら、待っていると伝えてくれ」
*
ボウバイト家当主エゥーデ・ボウバイトの孫であるディカは、大公を届ける遠征隊の遥か後方から、増援軍と共に牛歩でその後を追っていた。
「これみよがしに距離をあけたままというのは、あまりに失礼ではありませんか……?」
言いにくそうに言ったディカに、休息地の茶店で茶をすするエゥーデは険のある視線を向ける。
「それは殿下に対してか? まさかあの糞虫に対してではないだろうな」
「両方です……こんな拗ねたような態度で……あの方の栄えある凱旋に泥を塗るようなことなさるのは、よくないのでは、と……」
エゥーデは口に入った茶柱を吐き、
「ほんの短期間、私の代行を務めたからと気を大きくしおって。言うに事欠いて、私に糞虫に気を遣えとまで言い出すか」
以前であれば、祖母の一喝にただただ怯えていたばかりだったディカは、臆することなく見つめ返し、
「ものには限度というものがあります」
エゥーデはしばらくの間、引かなかったディカと視線を合わせた後、満足げに微笑んで鼻から思いきり息を吐き出した。
「ふん、あの男がそんな細かいことを気にするような奴か」
ディカは反論しかけて勢いを殺し、
「それは……そうですね……」
「今は糞虫などどうでもいい、奴に当てつけているのではなく、遅々とした行軍は大公殿下に対しての抗議の意味を込めている」
「抗議、ですか。それはあの、混沌領域出の傭兵たちの件で?」
エゥーデは周囲に人気がないことを確認して、ディカを手招きした。
ディカが顔を寄せると、エゥーデは小声で、
「それは表向きのこと。腹は立ったが、あのゴミ屑どもの悲鳴と血を見れば怒りも収まったわ。ボウバイトへの非礼と侮辱に対して怒ってみせたのは建前だ、実際のところ、我が軍はこの戦ではっきりと主張できるほどの戦果をあげていない。あの男の手の平で転がされ、最後まで胸を張っていられるような手柄をあげる機会すら得られなかった」
ディカはきょとんと瞬きを繰り返し、
「それが気まずいから、わざと遅れてついて行っている、のですか……?」
要領を得ない様子のディカに、エゥーデは呆れ顔を向け、
「ばかめ、そんなことを理由にしているわけがない。この先、占領地が金になった時、取り分を主張する時がくる。その時のために、大公殿下に借りがあると思わせておいたほうが、後々都合が良いからだ」
ディカは顔を離し、
「では、お婆さまは、ユーギリから得られる利益の分け前を増やすために、怒っているふりをしている、と。それは、戦勝にはっきりと主張できるだけの功績がないから……?」
エゥーデはしたり顔で舌を出し、
「貰えるものは貰わなければな。こんなところまで軍を出し、兵を損耗してただ領地に戻るだけでは話にならん。かけた費用と苦労に見合うだけのものは、どんな手を使ってでも取りに行く」
ディカは肩の力を抜いて大きく口を開け、
「お見それいたしました」
エゥーデのたくましい商魂を賞賛した。
誇らしげに胸を張るエゥーデと、以前よりも祖母を近くに感じられるようになったディカは、互いに会話をすすめながら、穏やかな時を過ごしている。
その時、駆け足気味に、遠くからアーカイドが向かって来る姿が見えた。
現れたアーカイドは、
「エゥーデ様、来客が二名訪れております」
「客だと?」
「一人は遠征隊からジェダ・サーペンティアが。それに同行して、中央のボウバイト家を代表し、使者がまいっております……」
中央都に住み着くボウバイト家一族はエゥーデと対立関係にある。そこから送られた使者であれば、深く事情を知るアーカイドの声が曇るのは当然のことだった。
エゥーデは顔つき険しく殺気を滲ませ、
「蛇の子に、糞どもの使者か……」
「どちらを先に通しましょう」
エゥーデは強く鼻息を落とし、
「……面倒を省いてやる、両方通せ」
ディカは一気に暗くなった空気を察し、
「お婆さま、私は席をはずしておきます――」
腰を浮かせようとした直後、エゥーデがその手を掴み、座らせた。
「私の隣にいろ、それが当然だという顔でな」
間もなく、アーカイドの案内でジェダが姿を現した。そのすぐ後ろから、ボウバイト家の末端に位置する彩石を持つ男が現れる。
ジェダはディカに小さく頷いて見せた後、エゥーデの前で恭しく辞儀をした。
「目通りの許可に感謝を。ご機嫌はいかがでしょうか、将軍閣下」
「そんなくだらんことを聞くために、わざわざ顔を出したのか」
ジェダは微笑を浮かべ、
「行軍が遅れている理由を、准砂も気にしておられます。その確認ついでに、使者の案内役を買って出たという成り行きでしてね」
エゥーデはじろりとジェダを睨み、
「あの男が気にしているだと? どうせ貴様の考えなのだろう」
ジェダは否定せず、張り付けたような微笑みをそのままにした。
「いい、そっちは後回しだ……で?」
突如、エゥーデに睨まれた使者の男は、緊張した様子で咳払いをして、おずおずと前へ進み、ひざまずいて書簡を差し出した。
「エゥーデ様、こちらをお受け取りください」
エゥーデは嫌々といった態度で書簡を受け取り、中身に目を通す。その内容を読み、鼻で笑った直後、書簡をディカに渡した。
「見て見ろ、奴らは当主であるこの私の許可もなく、一族会議を開くそうだ。ぬけぬけと出席しろとぬかしている」
書簡にはエゥーデの言葉通りのことが書いてある。内容は丁寧な文言が使われていながらも、下部の者が、一族の長に送るものとしては酷く礼を失している。
ボウバイト一族でも本流からはずれた者たちが増長しだしたのは、ディカの母が死んでからのことである。エゥーデは他に子を持たず、次の後継者候補であったディカは若く、そして覇気がなかった。
その彼らに次の当主の座を、と夢を見させた一端は、自分の責任でもある。ディカは無礼を極めた一通の書簡から、これまで目をそらしてきた現実を目の当たりにした。
自然と、ディカの手は書簡を強く握りしめ、指先の形に痕を残していた。
エゥーデは強く声を張り、
「戦を終えた話を嗅ぎつけたな。こちらが領地に戻る前に、後継問題に決着をつけたいらしい。浅はかで愚かな者たちの一員として、きさまもさぞ誇らしいことであろう?」
重く粘り気のある声で嫌みを聞かされ、使者の男は感情を隠しきれず、むすっとして口角を下げた。
エゥーデはディカから書簡を取り上げ、使者の前で八つ裂きにして破り捨てた。
使者は慌てて、
「なんということを……ッ」
エゥーデは粉々にした紙を投げ捨て、
「早まるな、一族会議には出席してやる。戦場にも飽きていたところでな。馬鹿どもが何を言い出すか、暇つぶしには丁度いい。だが――」
エゥーデは使者の背後に控えるアーカイドに目配せをした。アーカイドが静々と使者に歩み寄ると、男は怯えた様子で身構える。
「待って下さい、私はただの使者でッ――」
「ただも糞もない、侯爵にして将軍であるこの私に、非礼極まる招待を渡したこと、看過しがたい愚行である。アーカイドッ」
「はッ」
「そいつを痛めつけて送り返せ。這って帰れる程度の余力は残してやってもかまわん」
使者の男は怯えきった様子で、
「や、やめてくださいッ、許されない、そんなこと――」
服の内に隠した短剣を抜き取り、晶気を使う構えをみせた。
エゥーデは嬉しそうに唇を舌でなぞり、
「子ネズミの分際で歯を剥いたぞ、勇敢なことだ」
我が身を守ろうとして、微かな戦意をにじませる男に、ディカは思わず腰を引く。
アーカイドが使者を取り押さえに掛かろうとした直後、
「僕が面倒を省いてさしあげますよ――」
側で静観していたジェダの掌中が、突如緑色の発光を帯びる。その刹那、使者の体は軽々と吹き飛ばされ、近くにあった大木と岩に衝突し、全身を強打した。
全身を打ち付け、腕があらぬ方向に折れ曲がった男は、一瞬で意識を落とし、ぴくりとも動かない。
あまりにも一瞬の出来事に、場の空気は時を止めたように硬直していた。
この状況を楽しんですらいた様子のエゥーデの顔に緊張の汗がにじみ出す。ジェダの繰り出す晶気の力は尋常の技ではない。晶気を使う瞬間まで、その気配すら感じさせず、力を行使した一瞬に、大人を紙くずのように吹き飛ばすほどの局所的な暴風を巻き起こす。一つずつを完璧に制御されたその力の使い方は、ディカの目からは芸術の域にすら達しているように見えた。
エゥーデも、ディカも、アーカイドも、その場に張り付いたように動けずにいた。それは、圧倒的な力、圧倒的な存在を前にして、緊張から全身が石のように固まってしまう、恐怖にも似た感覚が起こす金縛りのような状況である。
少しして正気を取り戻したエゥーデが、
「ジェダ・サーペンティア、きさま、次に許可なく我が前で晶気を振るえば、その顔面に水流で風穴を開けてくれる」
その声には、いつもほどには覇気がない。エゥーデは領主であり将軍である前に、晶気に関して豊富な経験を持つ熟練の輝士でもあるのだ。それ故に、この相手に勝ち目がないということをエゥーデはよく理解していた。
ジェダは淡々と辞儀をして、
「出過ぎた真似をお詫びします。てっきり、暴漢の制圧をお望みであるかと思ったもので。そちらの用件は済んだ様子ですので、こちらも用件を済ませたいと思います。准砂は行軍の遅れを案じておられる、現状をどのように報告すればいいか、閣下から直接お言葉をいただけるとありがたいのですがね」
エゥーデはジェダを睨み、
「……馬群の内に風邪が流行り、進行に遅れが出ているだけだ。折を見て合流を試みる、と上官に伝えるがいい」
ジェダはにやけ顔で頷いて、
「承知いたしました――」
そのまま視線を、自らが吹き飛ばした使者へ送り、
「――ご事情はお察しいたしますよ。僕の家にも、似たようなことはつきものでしたからね」
エゥーデはジェダの視線を追ってゆっくりと息を落とし、
「後継問題にわかりやすく燦光石という象徴が存在する家とはまた違う。当家の場合、ディカが次の当主として認められるには、一族の大多数から支持を集める必要がある。それが厄介でな……」
意気を失い、エゥーデは一瞬、隠しきれぬ不安を滲ませながら、ディカに視線を滑らせた。
ジェダはエゥーデを見やり、
「なにかお手伝いできることがあればいいのですが」
エゥーデはジェダの軽口を鼻で笑い、
「家を捨てたきさまなぞ、なんの役にもたつものか」
ジェダは罵りを笑って受け止め、
「仰るとおりです。では僕はこれで、いただいたお言葉を准砂に伝えます――」
ジェダが去った後、エゥーデは強ばらせていた全身の力を一気に弛緩させた。
「忌々しい……」
そう呟いた祖母の弱々しい一言に、ふと老いを感じてしまう。
ディカは気を失った使者を見つめ、
――私が。
現状を俯瞰しつつ、そこについてまわる、後継者という言葉を、胸の内に静かに沈めた。
*
街の各所からは悲鳴が聞こえ、ただでさえ少なかった通行人は、得体の知れない傭兵たちを恐れ、さらにその数を減らしている。
いつ頃からか、この街には濁り腐った空気が滞留していた。
――いや。
ヴィシャは思う。いつの間にか、などという言葉は適当ではない。この街が腐り始めたその日がいつか、はっきりと断言することができる。
――あの石が、消えてからだ。
ターフェスタの都から銀星石が消えた日。庶民のいる地上からは、決して見通すことのできない雲の上で、なにかが変わった。
王石などと、大層な名で呼ばれるその石の継承者は、地を這って生きる平民たちにとっては、神よりも遠い存在だ。が、その存在は確実にこのターフェスタという一国を守護する光であったのだと、荒んだ現状を前に思わずにはいられない。
大公が銀星石を遠ざけたのも、不仲が原因であるという。今さらその存在を望んだとしても、庶民にできることなど、なにもないのだ。
ヴィシャは広場に掲示された触れの文に目を落とす。
東方に仕掛けた戦争に勝利を収め、敵国の領地の一つを手に入れたのだという。
平時であれば狂気して喜んだ者も少なくなかっただろうが、国の戦勝を喜ぶ声は、どこからも聞こえてこない。
だが、ヴィシャはその勝利に僅かに期待も持っていた。戦勝は莫大な金を生む。略奪に賠償金、交渉で得られる利益を思えば、使い込まれた国庫も潤い、苛烈な徴税も和らぐかもしれない。
多くの犠牲のもとに、ようやく辿り着いた新たな光の気配を感じ、微かな希望に縋るような思いを抱く。
しかし、現実は希望よりも近く、常に側をついて離れることはない。
「親方……」
報告にきた部下の深刻な顔を見れば、それがよくない知らせだとすぐにわかる。
「教会か?」
「はい、人の出入りが増えてます、時が近いようで」
苦い薬を奥歯で何度も噛んでいるかのように、顔が苦々しく歪むのを止められない。
「のこのこと出向いて、城から食料を運び出せると本気で思ってるのか、あの馬鹿司祭は――」
飢えはひとを狂わせ、より動物としての本能を煽る。
教育を受け、彩石を持って生まれた一人の男に、無謀な計画をたてさせるほど、この街の現状は追い詰められているということなのだと、ヴィシャは自分を含め、人々を憐れまずにはいられなかった。
*
赤く染まった夕暮れを超えた先、夜の闇の中で、ぽつりと佇む教会のなかは、不思議なざわめきに満ちていた。
そこでなにかが蠢いている。その気配が霧のように滲む街路の陰のなか、教会の動向を監視するヴィシャの部下たちが闇の中に身を潜めていた。
「何人入った――」
「五十をこえて、まだ増え続けてる――」
食料配給もしていない、礼拝の時間でもない、そのような時にこれだけの人間が教会に入っていくのは異常事態に他ならない。
「ヴィシャさまを呼びにいく――」
「急げ、連中いつ動き出すかわからな――」
「なんだ――?!」
それは二人の会話の途中に起こった。闇の中のさらにその奥に潜んでいた者たちが、突如二人の頭を強打した。
闇の中フードで顔を隠した二人は、雇いの私兵たちが制圧した現場を、神妙な顔で眺めていた。
「この男たちには覚えがあります、たしか下街の親方衆のところの人間ですよ……まずい相手に手を出してしまったのでは……」
ダトー商会支部長の息子マーレンは、怯えた顔で父スクロームを見つめる。
スクロームは険しい顔を息子に返し、
「かまわん、この件を知られるわけにはいかないのだ。はやく済ませてこの場を去るぞ」
寒空の下で冷や汗を滲ませる二人の背後には、時間と手間をかけてこっそりと運び込んだ、複数の武器を積んだ荷馬車が置かれていた。
*
教会のなかは物々しい気配に包まれていた。
皆が黒い衣服を纏い、布で鼻から下を覆い隠しているのは、城に押し入る際に、参加する者たちが顔を見られぬようという細やかな努力である。
演壇の上に置かれた地図は、エヴァチが記憶から書き出した簡易の城内図が置かれている。
侵入から食料庫の開放、そこから物資の運搬と脱出の手順について、エヴァチを中心として参加者たちが真剣な様子で計画に耳を傾けている。
その時、教会の裏手からざわつく気配を感じ取り、助祭のハースは、裏口から外にでて様子を窺った。
「ん……?」
そこには、一目でわかる異変があった。
普段はなにも置かれていない敷地内の片隅に、大量の木箱が置かれて放置されている。
同じく、異変に気づいたエヴァチが現れ、
「なにがあった?」
ハースは荷台を指差し、
「司祭、こんなものが……」
エヴァチは途端に顔を顰め、
「なんだいったい……」
警戒心を露わに、荷台に置かれた木箱の様子を覗った。
上等な木箱だと一目でわかる。良質の木材が使用され、隙間を詰めるために打たれた釘は、まだ新しく作りも良い。
「忘れ物、なわけはありませんね」
ハースは言いかけて、それがあり得ないことだと思い直す。
大事を控えるこの時に、これ見よがしに置き去りにされた木箱の山。
エヴァチは道具を持ち出し、
「中身を確認する」
ハースと共に、エヴァチは慣れない手つきで釘をはずし、木箱の封を解いていく。重たい蓋を開けると、そこにはぎっしりと、未使用品らしき武器が敷き詰められていた。
エヴァチは青ざめた顔で退き、
「これは……?」
「武器です……それもこんな大量に、他の箱も全部そうなのでしょうか。これだけの量に質、すごい金額になりますよ」
若いハースは、武器を前に微かに目を輝かせる。だが、エヴァチはしばしの硬直の後、慌てて落とした蓋に手を伸ばした。
「だめだ、こんなもの、いったい誰が――」
だが、
「武器だ――」
「おい、みんな! 武器があるぞ――」
様子を見に来た者たちが、木箱の中身に気づき、大きな声を上げだした。武器、という言葉に呼応し、背後から続々と人々が押し寄せる。
「すごいぞ、司祭さまはこんなものまで用意してくださった――」
剣や槍、鋭い刃先が人々の視線を吸い寄せる。男や女、なかにはまだ若く幼い者たちまでが、止めどなく木箱に押し寄せ、その手に武器を握りしめる。
エヴァチは慌てて彼らに手を伸ばし、
「待て、こんな物、私は――」
エヴァチは彼らから武器を取り戻そうとして、その手を止めた。
人々の目は、暗い輝きに満ちている。
兵士たちに守られる城に押し入るという大事を前にして、彼らが抱えていた不安に霞をかけるほど、木箱に詰められた武器は魔力を秘めていた。
戦争に行くのではない。殺しにいくのでもない。ただ取りに行くだけであると言い聞かせてきたエヴァチも、武器を前に希望を抱く人々から、それを取り上げることはできなかった。
年内最後の投稿になります、2025年は1月10日からの投稿再開を予定しています。
1年間ありがとうございます、おつかれさまでした。
良いお年をお迎え下さい。