断雲 2
断雲 2
裸の枝が風を透かし、無言の山が雪に覆われた姿を晒している。
石のように硬い雪道を踏みながら、レイネは山中を駆け降りていた。
ターフェスタ中央都で商売を営む父、ヴィシャには裏の顔があった。表向きは飲み屋を経営しながら、その実、ヴィシャは一帯を牛耳る組織の長でもある。
そのヴィシャの指揮で、日当たりの良い山中の一角に用意された秘密の農場は、国が疲弊した今となっては、重要な拠点の一つとなっている。
支配者たちの目から逃れ、収穫を得ることができる農場と、同じ場所に重要な人質を監禁している施設も設けられているため、そこは絶対に存在を知られてはいけない重要な場所でもあった。
そのため、拠点と街の行き来は、面倒な遠回りを繰り返す手順が必要とされている。
レイネは周囲を見回し、誰もいないことを確認して、山中にある古い坑道の入り口を隠した板を横にずらした。深く底へと通じる穴の中ではしごに足をかけ、板を元の位置に戻して奥へと進む。
初めは怖かった坑道の中も、いまではすっかり慣れたものだった。
この坑道から曲がりくねった道を進み、さらに地下へともぐり、また長い距離を歩いた先に、ようやく街中にある地下水道へと辿り着く。
普通に歩けばかなりの時間を節約できる距離を、こうして手間暇をかけて念入りに痕跡を消している。それもすべては、拠点の場所を隠すために必要なことだった。
レイネは入り口を監視する一味の男に、
「パパは?」
問いかける。
「お嬢、おかえりなさい――親方なら店のほうに」
「ん」
聞いて行こうとしたレイネを、男は慌てて引き留めた。
「待って下さい、ひとを付けますんで」
「いいって、すぐそこなんだ」
「だめです、例の傭兵どもがうろついてる。お嬢を一人で歩かせたら俺が殺されちまう」
男は体格の良い男を二人呼び、一人を見張りに残し、自分ともう一人を連れてレイネに付き添った。
レイネは歩きながら周囲を見て、
「あの連中、うちらのシマにも入ってきてるの?」
「いいえ、今のところは。ここいらの店もほとんど閉まってますからね」
雑談を交わしている間に、レイネはヴィシャが経営する店に辿り着く。一時は賑わいのあったその店も、今はもう見る影もなく、静まり返っている。
閉ざされた店の中に入るなり、
「おねえちゃん!」
妹のユーニが飛びついてきた。
レイネはユーニを抱きしめて頭を撫で、
「パパは?」
ユーニが指さした方に向かうと、父であるヴィシャが、難しい顔で男たちと話し合いをしている最中だった。
隙間ごしに見るヴィシャの顔は、たっぷりとあるヒゲに隠されながらも、痩せ細っているのが見て取れる。
ヴィシャを中心として話し合われる内容も、大半は食料の確保についてだが、ここのところは街の治安についての相談も増えている。
「それじゃ――」
ヴィシャが会合を閉めると、場は一斉に解散の雰囲気となる。
レイネは部屋で一人居残るヴィシャに駆け寄り、
「戻ったよ」
そう言って、父の大きな体に身を寄せた。
ヴィシャは難しい顔で頷いた後、
「向こうはどうだ」
レイネは僅かに頬を膨らませ、
「ま……いちおう順調だよ、いつも通り。けど、ちょっと相談なんだけどさ……」
レイネは言いにくそうに言葉を濁す。
ヴィシャはレイネの顔を覗き、
「なんだ?」
「囚人の飯を少しだけましなのにしてやりたいんだ……その、一人だけ……かなり働かせてる、からさ……」
ヴィシャは途端に険しい顔になり、
「下のもんからも聞いてるぞ、お前、あの女殺しと近すぎるんじゃないのか」
レイネは口をとがらせ、
「女殺しじゃない、セレスだよ。パパが思ってるような奴じゃないんだって……」
ヴィシャは木の枝で這う毛虫のように眉をくねらせ、
「自分より弱いもんを意味もなく殺すようなやつはただの臆病なクズだ。お前が言うから管理をまかせてるが、肩入れしすぎるようなら他の奴に――」
レイネは慌ててヴィシャの腕を掴み、
「だめだって!」
無言で見下ろすヴィシャの視線から、心を見透かされたような居心地の悪さを感じ、レイネはゆっくりと掴んだ腕から手を離した。
ヴィシャは諭すように声音を落とし、
「あのクズを生かしているのはな、奴がこの国の上の連中にとって隠したい恥部だからだ。奴とあのお偉いさんを持ってるかぎり、上は俺たちの生業に手を出してはこない。ただの道具なんだ、解放すれば途端に処刑されるだけのもんに入れ込むんじゃない」
睨まれただけで縮み上がるようなヴィシャの説教にも、レイネは動じることなく睨み返す。
「あいつ、すごい強いんだよ。わたしはパパを見てきたから強い男がどんな奴かわかるんだ。あいつを仲間にしようよ、彩石を持ってる奴をうちらの手下にしたらさ――」
ヴィシャは拳を卓に叩き付け、ドンと大きな音を鳴らした。
レイネはびくりと震えながら、恐る恐るヴィシャの顔を見上げる。しかし、臆することなく、
「あのままにしとくのはもったいないよ」
そう言い切った。
ヴィシャは黙ってレイネを睨みつけていたが、やがて渋々と息を吐き、
「言い出したら引かないのは俺の血か?」
レイネはにやりと笑い、
「あたりまえだよ」
ヴィシャは虫を払うように手を振り、
「もういい、話は終わりだ。今はそれどころじゃねえ……」
悩みを抱えているときに見せるヴィシャの顔がそこにある。
レイネは首を傾げ、
「なにかあった? さっきの話し合いと関係ある?」
ヴィシャは首に手を当てて、
「察しがいいな。お前は年頃の娘たちよりも成長が早い。本当なら不安にさせるような事を聞かせたくはないんだが……」
「聞かせてよ、ちゃんとわかってたほうがパパの助けになれる」
ヴィシャは躊躇いを滲ませつつ、
「どうにもな、教区の辺りから変な噂が聞こえてくる」
「教区って、うちのシマの外だね」
ヴィシャは頷いて、
「あそこのぼろ教会の司祭が、信者を煽ってるってんだ」
「煽るって?」
「扇動ってやつでな、国の窮状を見るに見かねた司祭が、城に押し入って食料の強奪を企ててるって話だ」
話を聞いたレイネは目を見開き、
「いいじゃないかッ、どうせ上の連中は飢えないくらい食べ物を貯め込んでるんだろ。大公が外にいて城にいる兵士も減ってるだろうし、すごくいい考えだよ。そうだ、うちらが協力してやれば――」
ヴィシャは声を荒げ、
「馬鹿を言うなッ」
突然の怒鳴り声にレイネは驚いて、また肩を大きく震わせた。
ヴィシャはレイネの肩を掴み寄せ、顔の前に白濁した輝石を突きつけた。
「いいか、この石を持っている人間と、色のついた石を持って生まれた人間は別の種族も同然だ。地下水道をうろついてるネズミと深界の狂鬼ほどの違いがあるんだ。いくら城の警備がゆるくなってたとしても、そこには貴族の軍人が必ずいる。この国の中で、この街が一番貴族どもが群れてる場所なんだ。奴らを本気にさせたら平民がいくら群れようと太刀打ちなんてできやしねえ。まともに訓練もうけてない民衆をそんなところに連れ出せば皆殺しにされてしまいだ。いい考えなんかじゃないんだ、わかったな?」
レイネは止めどなく頷きを繰り返し、
「わかったよ……ごめん……」
ヴィシャは大きく膨らませた鼻の穴から重く息を吐き、レイネを離して、壁にかけてあった特大の外套を羽織った。
レイネは不安げにヴィシャを見上げ、
「どうするの?」
「考えているだけ無駄だ。司祭のところに、直接、話を聞きに行く――」
*
北風がうらぶれた街を撫で、凍えるような冷気が染み渡る。
繰り返される重税に苦しむ人々は、活気なくその日暮らしを続けている。多くの貧民が音もなく悲鳴をあげる下街の、その一角に佇む寂れた教会には、多くの住民たちが日々足を運んでいた。
重い扉を押し開けた先、教会の中に粗末な棺が複数並んでいる。
淡々と祈りを口にするエヴァチの目は、ただ一点、虚空を見つめて微動だにしていない。すすり泣く声もなく、集う住民たちもまた、感情を泥のように沈めている。
死者の大半は老人たちで、少ない財産も奪われ、糧を得るために無理に働くこともできない弱者たちが、止めどなく死にはじめている。
並ぶ棺のなかには、小さな子供のものも置かれていた。病を患った病弱な子供たちもまた、命を繋ぎ止めることが難しくなっている。
エヴァチが祈りを終えた時、黙して聞いていた民衆の中から、暗い顔をした一人の男が立ち上がった。
「司祭さま、俺たちはいつでもいい、こんな生活にゃもう耐えられねえ」
そうだ、と同意を口にして、次々と人々が立ち上がる。
悲しみよりも怒りが勝っている。飢えに苦しみ、耐え続けてきた者たちも、すでに死者を悼む余裕すら失われているようだった。
エヴァチは集う者たち全員を見回した。その中に、教会の壁際にぽつんと佇む、助祭のハースの姿がある。計画に強く反対している彼の視線には、強く責めるような色が含まれていた。
その時、どんと強く教会の扉が開かれた。音につられて皆の視線が後ろへ向く。
冷風を携えて現れたのは、巨体を誇る街の親方衆の一人、ヴィシャという名の男である。同行する強面の男たちが、見張るように教会の入り口に立ち、ヴィシャは一人なかに足を踏み入れ、皆の視線を集めながら演壇の前まで悠々と歩き進めた。
ヴィシャは演壇に立つエヴァチを睨み、
「あんたに話があるんだが」
言いながら、物々しい気配の民衆をちらりと眺めた。
エヴァチは深く頷いて、
「いいでしょう――」
代役を求めてハースに向けて手招きをした。
場所を教会の奥にある部屋に移してすぐ、
「あんた、俺のことは――」
ヴィシャがそう切り出した。
「存じております、ヴィシャ殿」
エヴァチは言って、ヴィシャに向けて品良く頭を下げた。
ヴィシャは鼻頭をかき、
「そう畏まられるようなもんでもないんだが。俺のことを知ってるなら、こっちがどういう商売をやってるかもわかってるな。あんたみたいな人間からすりゃあ、ろくでもないもんに見えるだろう」
エヴァチは若干頬を緩ませ、
「仰るとおり、あなたのことは初め、弱き者たちを食いものにする悪党の親玉のような人間だと思っていました。ですが、違った。あなたは人々が危機にたったとき、その身を犠牲にしてまで食料を配り続けている。それを知ったときには、ただただ頭が下がる思いでした。私は、あなたという人間を見くびっていたようだ」
「俺は聖人じゃねえ、必要なことをやっただけだ。それを言わせてもらいたいのはこっちのほうだ。司祭、あんたはリシアの人間だ、いつでもここから逃げられるってのに、どうしてこの街の貧民たちに肩入れする」
「神の御言葉を伝え、信徒を導くのが私の役目です。彼らが苦しんでいるのに、それを黙って見ていることなどできますか」
真顔で答えたエヴァチの言葉を、ヴィシャは鼻で笑った。
「そういう奴がほとんどだと思うがな? 語る言葉は綺麗だが、あんたら宗教家は結局のところ、地位や金目に近いところにいる。特にあんたみたいに石に色を持って生まれたのは、本来ならこんなボロい貧乏教会には居着かないだろう。見上げた心だが、行きすぎはなんでも毒になるぞ」
「……どういう意味でしょうか」
エヴァチは痩せ痩けた顔で、鋭くヴィシャを視線に捕らえた。
「俺のとこにはこの街の色んな話が入ってくる。くだらない噂から嘘、たまに真実も……そのなかに混じって妙な話が聞こえてきた、どうやら下街の司祭殿が無謀な計画を企ててるってな。その司祭殿は信徒を焚きつけて城に討ち入ろうとしてるってんだ。さすがにそんな馬鹿はしないだろうと思ったが、どうもあちこちから同じような話が漏れてくる」
エヴァチは石像のように固まった姿勢のまま、
「その話が、くだらない噂や嘘である、とは思われなかったのですか」
「その可能性もあるかもしれない、とは思ってた。ここに来るまではな」
「ほう……」
「俺の仕事は暴力と無縁じゃいられねえ。わかるんだ、命を賭ける覚悟を決めた連中の顔ってやつが。あんたも信徒たちの顔を見てるだろう? あれは不幸を悲しんでる顔じゃねえ、怒ってる顔だ。いつもは下だけ見て草を食んでる羊どもが、目をあげて狼みたいな面をしてやがる」
エヴァチは僅かに肩を下げて、
「……もしも、噂話が真実だとしたら? あなたはそれを確かめて、どうされるつもりでここへ足を運ばれたのでしょう」
「決まってる――」
ヴィシャはぐいとエヴァチに覆い被さるように顔を寄せ、
「――止めろ、と言うためだ」
エヴァチは少しも臆することなく、
「もはや、この街の現状は限界をとうに超えている。貧しく、弱い民人たちの多くは、残りの冬を越すだけの食料を得られなくなるでしょう。すべては意味のない戦争に国力の大半を費やしたがため。ここのところはその戦でも勝利が続き、あの蒙昧な大公はさらに増長するばかり。戦勝に浮かれて旅行のための費用を絞り取り、民を苦しめる異邦の傭兵たちという置き土産まで残していった。これ以上、皆が苦しむ様を黙って見ていることなどできません」
饒舌に語ったエヴァチに、ヴィシャは首を傾げ、
「……あっさり認めるんだな」
エヴァチは後ろ手を腰に回し、
「なにを言っても、見え透いているように思いましたので」
ヴィシャから距離を取った。
「エヴァチ司祭、あんたは慈悲深くて根性もある。口だけの連中とは違うのはよくわかった。だが、無謀な狩りに羊どもを駆り出すのはやめろ。あんたが思うほど、奴らは強くも賢くもねえ」
「狩りなどと、大袈裟に思わないでいただきたい。私はただ、あの城の中で余っているものを取りに行こうとしているだけです」
事もなげに淡々と言うエヴァチに、ヴィシャは渋面で睨みつけた。
「奴らの持ち物を盗みだそうってのに、なにを呑気に言ってやがる……」
エヴァチは遠くを見つめ、
「私はこの目で見たのです、城の倉庫に眠っている山のような食料を。あれだけのものがあれば、多くが命を繋ぎ止めることができる。働く者たちは老いた親を見捨てることもなく、病に冒された子供たちは春まで持ちこたえることができる。私財を売り払い、薪の一本を求めて、子供が街を彷徨う必要もなくなる……物がないわけではないのです、大勢が生きられるだけの食料は十分にある。そこに在る物を取りに行くだけのこと、それをなぜ必死に止めようとされるのでしょうか」
「司祭、自覚がないようだが、あんたおかしくなってるぞ。下にいる俺らが愚痴を吐くくらいは無視される。小石を投げりゃあ気分を害するだろうが、まあ許される。だが、奴らの持ち物に手を出せば怒らせるだけだ。それも大量の食料となりゃあ、連中を本気にさせることになる。あんたは狼どもに羊を虐殺させる理由をつくろうとしている、ここで止めておけ、足元をよく見ろ、あんたはまだ引き返せる所に立ってるんだ」
ヴィシャの必死の説得は、ここに至るまでの窮状を見てきたエヴァチの心に、小さな波紋も起こさなかった。
「我々はただ食料を取りに行くだけ。人死にを出すつもりもなく、共に行く者たちには顔を隠させます。運び出した食料を見つからずに保管できる場所の用意も済ませました。無事に片付いたあかつきには、あなたのところにもお分けするつもりでいます」
ヴィシャは声を荒げ、
「そんなことを言ってるんじゃねえッ」
エヴァチは小さく辞儀をして、
「お話は十分に窺いました、お引き取りを……」
部屋の扉へ手を差し伸べた。
「……よく考えろ、短気を起こすな。事を起こせば、問題はあんたらだけのもんじゃなくなる」
ヴィシャは言って、耳を閉ざしたエヴァチに背を向け、部屋を出た。
教会を出たヴィシャは、寒さの中、手下たちと合流する。少し歩いて後ろを振り返り、
「見張らせろ」
短く、そう告げた。
裏口から外に出て、エヴァチは物影のなかから、去って行くヴィシャの背中をじっと見つめる。
「司祭……」
背後から現れたハースに声をかけられ、エヴァチは前を向いたまま頷いた。
エヴァチは静かに息を吐き、
「人の口に戸は立てられないな、計画が漏れているようだ。ことを早めたほうがいいだろう」
ハースは真剣な眼差しで、
「私も行きます……ッ」
「反対していたのではないのか」
「しています、けれど、どうしても行かれるおつもりなら、私にも手伝わせてください」
「……気持ちだけで十分だ。お前には万が一に備えて、ここで待っていてほしい」
「でも――」
エヴァチは左手を上げてハースを制し、
「私がこの手で道を切り開く。石の力を使えば、そこから足が着く可能性は高い。万が一の時には、この身を差し出し、すべての罪を一身に引き受けるつもりでいる。そうなった時、お前には教区の信者たちを支える役を果たしてほしい、頼んだぞ」
ハースは苦しげ息を落とし、
「そんな……」
エヴァチは手下たちになにか話しかけるヴィシャを見つめ、
「あの男がここへ来たのは、急ぐようにとの神からの知らせだろう。横やりをいれられる前に事を成す」
*
朝方、ぐっすりと眠る妹を起こさないように、レイネは慎重に寝台から降りた。
ヴィシャは帰っていないのか、それとも早くに出たのか、家の中に姿は見当たらない。
レイネは食料庫の奥にしまわれた干し肉の塊を取り、それを懐に忍ばせ家を出た。
面倒な手順と時間をかけ、地下水道から山中の秘密の扉を抜ける。
白い息を吐きながら農場に辿り着き、食事の支度を済ませ、それを囚人たちのところへ運んだ。
湯気のたつ粗末な汁物を運ぶ先は、デュフォスという名の貴族である。大公に仕える家臣のなかでも筆頭の家柄だというが、レイネにとっては、ただやかましく文句を垂れるだけの、気取ったうるさい男でしかない。
デュフォスはレイネの指示を受けた男たちに痛めつけられ、顔中に浅い痣を残していた。精一杯の憎しみを込めた視線で睨まれながら、レイネはただ黙って房のなかに食事を置き、その場を離れた。
そのままセレスのところに食事を持って行くと、
「おはよう、レイネ」
セレスが柔く微笑み、朝の挨拶を口する。
「おはよ、お腹空いてる?」
セレスは真剣な顔で小刻みに頷いた。まるで乳を求める子犬のような反応に、レイネはおもわず吹き出しそうになる。
食事内容に文句しか言わないデュフォスとは違い、セレスはほとんど具がなく、ここのところは味すらまともについていない汁を美味そうに飲み干す。その後の幸せそうな顔を見ていると、言い表せぬ満足感のようなものが、レイネの感情を満たした。
いつものように、セレスを連れて農場へ向かう。だがその途中、レイネは物影に向かい、口元を指で塞ぎながら、懐から持ち込んだ干し肉の塊を取り出した。
「それは……」
驚いて肉を見つめるセレスに、レイネは口元を緩めて、
「家から持ってきたんだ。毎日働いてるのに、あんな食事じゃ体がもたないだろうと思ってさ」
「僕の、ために……?」
レイネは笑んで頷いた。
「待ってな、食べやすいように切ってやるから――」
腰に差した短い刃物をとって、肉に当てた。しかし、
「……ありがとう。だけど、僕はいい」
レイネは肉を切りかけていた手を止め、
「……腹減ってるだろ?」
セレスはへこんだ腹を押さえ、
「減ってるよ」
「じゃあ――」
セレスは首を振って拒絶を示し、
「街の状況を聞いたうえで、僕にそれを食べる資格はない」
レイネは口を尖らせ、
「あんたのために持ってきたんだよ」
「気持ちは嬉しいんだ、本当に。だけど、僕はいい。レイネ、君が食べてくれたほうが――」
レイネは怒りを露わに、手にしていた干し肉の塊をセレスに投げつけた。
「なんだよッ、喜ぶと思ったのに――」
言って、背を向けて大股で歩き出した。
「レイネ!」
セレスの呼びかけに振り返ることはせず、
「仕事があるんだ、さっさと来なよ」
刺々しい声でそう告げた。
この日、セレスに割り当てられた仕事は、農作業ではなく開墾だった。畑をさらに増やすための作業である。
複数人が傾斜を掘り、土を運ぶなか、セレスは重労働である岩の破壊と運び出しを担わされていた。
土に埋まった石の塊にツルハシを下ろしながら、セレスは側でむくれっ面で座るレイネに、ちらちらと視線を投げている。
セレスが一瞬手を止めて汗を拭うと、レイネは不機嫌な声で、
「さぼってんじゃないよ」
セレスはすぐに作業を再開し、
「……さっきはごめん。君の気持ちを受け取れなくて」
レイネは足元の土を掴んでセレスに投げ、
「変な言い方すんなッ」
セレスは不思議そうに視線を回し、
「……ああ、そういう意味か」
二人は黙して視線を交わした後、どちらからともなく吹き出して笑い出した。
笑いながらこぼれた涙を拭いながら、レイネは息を落ち着け、先日のことを語り出した。
「パパに言ったんだけどね、あんたを仲間にしようって――」
セレスは作業の手を再開しつつ、
「答えは聞かなくてもわかる」
「……もったいないよね。あんたは若くて体も強い、閉じ込めておいたり、農作業やらせたりってんじゃ、腐らせてるだけだよ」
「それでいいんだ。僕を受け入れるところなんて、どこにもない。僕はすべてを自分の手で捨てた。こうなってみて初めて気づいたんだ、色んなものを持っていたのに、ないものばかりを見て、ただ自分を哀れんでいた。その憂さ晴らしに僕がしたことは…………」
セレスは痛みを堪えるように顔を歪める。岩に降ろすツルハシが徐々に力が込められていくが、突如、強く振り下ろされたツルハシが音を立て、根元から激しく損傷してしまった。
レイネは慌てて駆け寄り、
「大丈夫かッ、怪我してない?」
セレスは歯を食いしばって、
「大丈夫……ちょっと痺れただけだから。それより、代わりの道具は――」
レイネは予備の物をとってくるよう、父の手下に命じようとして手を上げる。だが、途中で手を引っ込め、改めてセレスの左手をじっと見つめた。
セレスの左手には、彩石を持つ者が操る力を弱らせる手袋がはめられていた。一人ではとりはずせないよう、ごわついた手袋の下には、手首に頑丈な拘束具が取り付けられている。
レイネはじっとセレスを見つめ、
「あんたさ、晶気っていうやつが使えたら、ここに埋まってる岩や石を簡単に壊せるんじゃないの?」
セレスはきょとんとしながら、レイネが見つめる自身の左手を見つめ、
「……ああ、たしかに、できるとは思う」
レイネはしばらく間を置き、
「よし――」
セレスの手袋をめくって、手首の拘束具をはずしにかかった。
セレスは慌てて、
「待ってくれ、なにをするつもりだ……?!」
「はずしてやるから、ちゃっちゃと仕事を終わらせてよ。こんなの、これだけの人数でやってても、また次の冬になっちゃうだろ」
レイネの行動に気づいたヴィシャの手下が慌てて駆け寄り、
「お嬢さん、だめだそれをはずしちゃ!」
駆け寄ってくる男たちに向けてレイネは、
「黙って見てな!」
ヴィシャに負けず劣らずの迫力で、彼らを口だけで怯ませる。
レイネはセレスの拘束を解き、
「ほら、はずれたよ」
ゆっくりと手袋をはずした。
セレスは拘束で変色した手首を撫でながら、自分の左手をまじまじと見つめる。
「どんなかんじ?」
セレスはぽかんと口を開けたまま、
「……鼻づまりが、とれたような」
レイネは苦笑いを浮かべ、
「もっとましな言い方ないのか」
セレスが滑らせた視線の先にいたヴィシャの手下たちが、怯えた様子で腰を落とす。
セレスはそのままレイネに視線を滑らせ、視線を合わせた。レイネはそっとセレスに微笑みかけ、地面に埋まった石の塊を指差した。
セレスは頷いて、
「離れていてくれ」
石の塊に手の平を当てる。
セレスが集中して手を当てた先を凝視する。その直後、周囲を流れていた風の流れが変化し、まるで吸い込まれるようにセレスの手元へと流れ込んでいく。
コオオ、と風鳴り音が響いた刹那、頑丈な岩が大音をあげて大きく割れ、木片のように軽々と砕かれた。
飛び散った破片を浴びながら、レイネは大きく拍手をあげ、
「やったッ」
「おおお――」
周囲で見ていた者たちも、晶気を使った技を前に、恐怖を忘れて感嘆の声を上げた。
セレスは汗を拭って、
「終わったよ……もういいだろう、それを戻してくれ」
レイネが手に持つ封じの手袋を指さした。
レイネは笑みを消して、
「……いいの? その気になれば、その力でうちら全員を殺して逃げられるんだよ」
そう言った途端、周囲にいる者たちが再び緊張に顔を引きつらせる。
セレスは溜息をつき、
「僕を試さないでくれ」
大人しく左手を差し出した。
レイネが手袋を戻そうとしたその時、
「待ってくれ――」
さきほど止めに入ろうとした男が声を上げ、
「――もしやれるんなら、あそこのデカい岩を壊してもらえりゃ、作業が早く終わるんだが」
指し示した先には山の傾斜から突き出た巨大な岩がある。
レイネはセレスを見やり、
「だってよ、どうする?」
セレスは少し悩んだ末に、
「……わかった、やろう」
レイネとセレス、それに他の作業に従事する者たちも手を止め、皆が岩の前に集まった。さながら旅芸人の呼び込みでも見物するかのように、セレスは全員の好奇の視線を受けながら、岩の上に手を当てる。
「本当にあんなの一人で壊せるのかよ――」
疑わしげに言う者たちを前に、レイネは得意げな気持ちでつんと顎を高く上げる。
「こいつらあんたを疑ってるよ、良いとこみせてやりなよ」
囃し立てるように言うと、セレスは困り顔で顔を掻いた。
先ほどと同じように、集中したセレスの手元に風が吸い込まれていく。切るように冷たい空気が流れ込んだ直後、大岩がゴドンと重たい音を響かせ、人の手で運べる程度の複数の破片になるまで砕け散った。
「すげえ――」
一瞬の出来事に、感嘆の声をあげる者たちの反応を見て、レイネはまるで自分のことのように誇らしげな気持ちで胸を張る。
だが、その直後、
「……お、おい?!」
その声音に異常を感じ、レイネはセレスのほうへ視線を戻す。
大岩を破壊し、照れた顔をして立っていたセレスが、足首を押さえながら、地面に倒れ込んでいた。
「くう……ッ」
セレスの足元から、灰色の体に赤い頭を持つ一匹の蛇が、ぬるりと地面を這い、山中の奥へと逃げ去っていく。
レイネは爆ぜるようにセレスに駆け寄り、
「セレス?!」
だが、
「う……く……」
セレスは白くなった顔でただ苦しげに喚くのみである。
周囲の者たちが口々に、
「間違いねえ、あれはグロズスカヤだ――」
レイネは振り返り、
「なんだよそれ?!」
「毒蛇です、猛毒を持ってる……」
セレスが噛まれた傷口は、すでに赤黒く変色し、傷口が爛れたようになっている。
レイネは、
「そんな……どうすればいいんだよ……」
ヴィシャの手下が、
「薬がありゃあ……街に行けば、持ってる医者がいるかもしれませんが……間に合うかどうか」
聞いた瞬間に、レイネは思いきり走り出していた。
「お嬢さん、待って――」
「そいつの面倒を見てろ、絶対に死なせるんじゃないよ!」
そう叫んで言い残し、レイネは無心で山中を駆け下りる。
農場を抜け、木々の間を走り、その先にある秘密の通路の入り口の前で足を止める。
レイネは激しく息を荒げながら、
「だめだ、ここからじゃ間に合わない」
それは、秘密の拠点に出入りする時に決められた絶対の掟だった。ここへ出入りする者が特定されないように、そして、そもそもこの場所の存在すらを知られないように。ヴィシャが考え、取り決めた絶対に破っていけない決まりだった。
なにをおいても、必ず守らなければならない。その約束と掟を、レイネはこの瞬間、放棄する。
記憶に残る山道を駆け抜け、これまで行っていた面倒な手順をすべて省き、各所に残る雪を踏みしめ、くっきりと足跡を付けながら、一直線に山を下りる。
本来なら行き来にかかる時間を大幅に短縮しながら、レイネは門をくぐって街に入り、一心不乱にヴィシャのもとへと走り続けた。
*
監察隊、ノスリの憂鬱は、寂れた街の空気とよく馴染む。
もとより汚れ仕事を負わされる掃き溜めでしかなかった部隊の長は現在のところ、雲上の存在である冬華六家のエリス・テイファニーである。さらに実質的な指揮官はエリスの部下であるレフリ・プレーズ重輝士となり、そこに加えてまったく別の組織である警備隊までが加えられ、冬華の長ウィゼ・デュフォスを捜索する群れは、統率もなく混沌としている。
忌むべき存在として疎まれていようとも、かつての監察隊には有能な者たちが少なからず存在していた。統率力のある前隊長に、諜報や偵察に長けていたフクロウ、それに加えてカルセドニー家の次男である。
一癖ありながらも、三人はそれぞれに別の方向に向けて一流の技を持った者たちだったが、そうした柱を失ったいま、監察隊は分かりやすく弱体化し、ひと一人を見つけ出すことすらままならない。
プレーズの指示で捜索隊に加えられた警備隊はほとんど役立たずだった。彼らは監察隊からの指示を受け付けず、独自に捜査網を展開して手がかりを得ようとしているが、ノスリはそれが無駄であると知っている。
捜索の対象として念入りに、街の各所を調べてきた。目立つ存在である冬華の長を隠せる場所などそうあるものではない。多くはない人員を使ってできる限りの調査を進めたが、未だに監禁場所の気配すら掴むことができずにいる。
――街中ではないのなら。
あとは複雑に入り組んだ地下通路、もしくは街の外しか考えられない。
警備隊が街中を監視している現状、監察隊はこの機に乗じて、捜索の範囲を街の外へと移すことにした。
「だが、ある程度は探しただろ――」
城壁の外を共に歩く隊員がそう言うが、
「ある程度は、な。山は広大だ、一部の者たちしか知らない獣道や洞窟も無数に存在する」
ノスリは現実的な意見を口にした。
「だからってなぁ、無理だぞ? これだけの範囲を我々だけで捜索するなんて」
「もとより、我らは少数精鋭の部隊、地道に手がかりを探すしかない」
山中を歩き進めながら、ノスリはその道中に違和感を覚えて足を止めた。目をこらし、違和感の正体を探すと、小さいが確実にひとの足跡らしき窪みが、前方に点々と痕を残している。
「おい――」
ノスリは指さし、同行する隊員と目を合わせて同時に頷いた。
足跡は山の奥のほうから続き、街の方角へと繋がっている。
同行する隊員は屈みながら足跡を見つめ、
「こんな場所に……」
ノスリは周囲の雪を掴んで堅さを確かめる。靴跡の深さと大きさを指で測り、
「小さく体重も軽い、靴跡の主はまだ幼いな……もしかしたら……」
同行する隊員はノスリの顔を覗き込み、
「考えてることはわかるが奴らは慎重だ、こんなわかりやすい失態は犯さないぞ。まったくの無関係か、もしくは罠の可能性もある」
静寂の山中で、ノスリはじっくりと思考を巡らせ、
「大人はそうだとしても、子供なら?」
「……ふむ」
「無駄足でも罠でも、どのみちまともな手がかりもない。しくじればどのみち殺されるだけだ、行くぞ」
「お、おい――」
ノスリは山中の奥へ続く足跡を追った。
複雑で入り組んだ地形を進む。足跡は外からではわからないような狭い道を抜けていた。雪はしだいに硬くなり、足跡は徐々に気配を弱めていく。その先の、険しい崖のようになった地形の間に、奥へと通じる狭い隙間が現れた。
この辺りまでくると雪もなく、足跡は完全に消失していた。だが、ノスリは迷うことなく、奥へと進み続ける。
しばらく歩くと、枯れた森の奥に、大きく開けた場所へと辿り着く。
明らかに人の手で拓かれた様子のそこには、点々と小屋が建てられ、畑のようなものまで作られていた。
「なんだここは……?」
驚いた様子の隊員がきょろきょろと見回すなか、ノスリは大木の陰から慎重に様子を窺っていた。
なにやら慌ただしく人が行き来し、水や寝具を一つの小屋に運び込んでいる。
「なにかあったようだな……」
ノスリはそっと呟いた直後、行き来する者たちの中に、見覚えのある顔を見つけ、片目を大きく見開いた。
長い手足に頭に付けた傷痕からは、その部分だけが髪が生えていない。それは街中で見かけていた対象組織の一員である男だった。
「ここだ、見つけたぞ――」
ノスリは直感を受けて、大きく頬を緩ませた。