凱旋 2
凱旋 2
長距離を移動しても深界の景色に変化が起こるのは希なことだ。
どれほど進み、どこにいるのか、同じような景色と、どこまでも続く白い道が正常な感覚を酷く鈍らせる。
その深界に突如として変化が訪れる瞬間がある。それは、人の世界には存在していない異形の化け物、狂鬼である。
灰色の森がざわめいた。
音、微かな匂い、蠢く生物たちが息を潜める。
遠征隊の兵士たちが前触れを察知した瞬間、白道に四足の化け物が姿を現した。
灰色の体毛の中に鈍色に煌めく大きな輝石を置き、顔面には大きく長いクチバシがある。鳥獣が入り交じり、見上げるほどの巨体を誇るその狂鬼は、痩せ細り、体中に傷を負っていた。
「狂鬼……狂鬼だァ!」
誰かが発した大声の直後、全隊に警告を知らせる警鐘が鳴らされる。
遠征隊の指揮官であるエリスは、この事態に身を硬直させていた。
「狂鬼……?」
その姿を見たのもいつ以来か、思い出せないほど遠い過去のことである。
武器を持った人の群れに、躊躇なく敵意を向きだして睨みを効かせる。勇壮でありながら不気味で、絶対的な自信を持って人を狩る、人の世界の常識が通用しない、絶対的な捕食者だ。
開いた目と口を閉じることができず、エリスは全身が麻痺したように、一歩も動くことができなかった。
指示を出さなくてはならない、
――戦う、逃げる、死んだふり、狂鬼、狂鬼が、殺される。
混濁した思考が、恐怖という感情に塗りつぶされる。冷静さを欠き、エリスは震える手で、ただ馬の手綱を強く握りしめる。
「テイファニー卿、ご指示をッ」
部下から指示を求める声が飛び交う。
「このままでは殿下が――」
――殿下。
その言葉が、冬華という名の親衛隊としての本能を呼び起こす。
エリスは自らの頬を強く叩き、
「陣形を整え! 殿下の馬車を守りつつ、後退ッ、前に壁を!」
エリスの指示を受け、輝士たちがドストフを乗せた馬車の周囲に躍り出る。輝士たちは身構え、各々に晶壁を構築し始めた。
その瞬間、
「ゴオオ……」
狂鬼が低く唸り声を鳴らした。
闇夜の中で聞く鳥のようでもあり、肉食獣が威嚇するうめき声のようにも聞こえる。不思議な鳴き声に怯えた様子で、馬たちが首を振りながら、汗を浮かべて後ずさる。
馬たちは今にも少しでもこの場から離れようと、乗り手の意志を無視して後方へ方向を変えようとする。
「くッ、こら、言う事を聞けッ」
馬術に長けた輝士たちが、騎乗する愛馬の制御を失いつつあった。
エリスは声を振り絞り、
「持ち場の維持を、許可なく誰も動かないで――」
その時、突然に騎乗する馬が前足を大きく持ち上げた。その勢いのままに、エリスを白道の上に振り落とす。
「きゃあ――」
小さくあげた悲鳴の直後、
「ゴオッ――」
狂鬼が一層強く、威嚇の声を発する。
部下が狂鬼を指さし、
「襲ってくる、テイファニー卿ッ――」
兵士たちの怒号と悲鳴、馬たちの怯える息使いが聞こえてくる。
「どう、すれば……?」
冷たい白道の上に落とされた衝撃で、エリスは一瞬で平常心を失っていた。
――殿下、殿下を、守る、守る。
混乱するエリスの思考は短い言葉に埋め尽くされる。親衛隊である冬華としての役割、主君の剣となり盾となり、その命、その血を死守する。親衛隊としての自己を証明する、原初に位置する使命だ。
地面に落とされ、白道の上を這いながら、警護が不十分な馬車へ手を伸ばす。
ただそこにいるだけで武装した輝士と兵士の集団を恐怖に陥れる狂鬼が、ついにその一歩を前に進めた直後、
「――ッ?!」
風切り音を伴い、一瞬の閃光がほとばしった。
閃光は渦巻く風によって構成されている。放たれた晶気が狂鬼の前足をかすめ、深い傷を負わせた。
「――――ッ」
人間の耳では聞き取れないほどの甲高い悲鳴をあげ、狂鬼が白道に血を零しながら森の中へと逃げていく。
未だ騒然とする場のなかで、
「誰だ……どこから……?」
兵士たちが、狂鬼を追い払った晶気の使い手を探して視線を回した。
エリスは徐々に正気を取り戻し、
「殿下は……? 殿下のご無事を!」
馬車の窓が開き、ドストフがおずおずと顔をだし、
「ど、どうなっている……?」
無事な姿を確認して、エリスはほっと胸をなで下ろし、震える自身の足に力を込めて、ドストフの下へと駆け寄った。
「ご無事でしょうか」
ドストフは頷き、
「私はなんともない、狂鬼だったのか……?」
エリスは血の気の引いた顔で頷き、
「……はい、飢えた様子で、こちらを狙っておりました」
ドストフは食い入るように顔を寄せ、
「どんな姿だった……?」
エリスは震える手を胸の前で強く押さえ、
「とても、恐ろしい姿をしておりました……」
ドストフは周囲を見渡し、
「まだこちらを狙っているかもしれないな……?」
「こちら側から放たれた晶気によって手負いとなりました。出血も多く、深手を負ったはず、退けることに成功したものと、思いたいのですが」
ドストフは、
「よくやった。狂鬼に傷を与えた輝士をここへ、その者に感謝を伝えたい」
エリスは振り返り、混乱の余韻が残る一帯に視線を向ける。近くに居た部下に対して、
「さきほどの晶気を放ったのが誰か、わかりましたか?」
「それが……誰も名乗りでません」
「誰も晶気が放たれる瞬間を見ていないというの?」
部下は曖昧に頷いて、
「隊は混乱していましたので……」
話を聞いていたドストフは感心した様子で、
「おくゆかしい者だ。英雄的な行いをしておきながら名乗りでもしないか。いや、もしかしたら、これは神のご加護であったかもしれなんな」
馬車を降りて天を見上げるドストフに釣られて、エリスも視線を上へ向け、
「神の奇跡……ですか……」
「そうだ、ターフェスタは祝福を受けている。その加護によって遠征隊は守られているのだ。それはこのドストフ・ターフェスタの功績に対しての神の――」
ドストフは言いかけて言葉を止め、
「――いたあッ?!」
突然、痛みを訴えて後ろ頭を押さえながら後ろを振り返った。
「殿下?」
ドストフは必死に周囲を探り、
「だ、誰かに後ろから頭を叩かれたぞッ!!」
エリスと他の兵士たちが慌ててドストフの背後を探るが、そこには馬車があるけで、御者以外の姿はなにも見当たらない。
御者にしても手が届く距離にはおらず、そもそも命懸けで大公の頭をはたく、などという愚行に手を染めるはずがない。
首を傾げるエリスと同じく、ドストフも現状を不思議に思い、盛大に首を傾げ、
「おかしい……たしかに、叩かれたような、それもやたらに強く、未だに後頭部がひりひりとして……」
後ろ頭を撫でつつ、ドストフは訝りながら馬車へと戻る。エリスが締めかけた扉の隙間から、
「殿下、一度、拠点へ戻りましょう。安全を確保して再度出直すのが得策かと――」
ドストフは慌てて首を振り、
「それには及ばない。かまわないから、予定通りに遠征隊を進行させよ。今の私には神の加護がついている、不思議なほど、なにも怖くはないのだ」
「…………」
言いたいことは山ほどある。そもそも、この旅に反対していたエリスとしては、懸念していた危険を目の当たりにした現状、このまま引き返してターフェスタに帰還したい気分だった。
が、エリスはすべての不満を押し殺し、
「仰せのままにいたします」
辞儀をして、ドストフを乗せた馬車の扉を押し閉める。
狂鬼の残した血の痕を見つめ、エリスは隊列を整えるよう指示を飛ばす。不意の事故によって足を止めていた遠征隊は、少しの間を置いて、再び白道を行く旅路を再開した。
*
狂鬼を目の当たりにしたことで遠征隊の足は鈍った。
深界にそれがいることを理解しつつも、たっぷりと道幅が確保された白道の上で遭遇することは希なのだ。
下手をすれば命を失いかねなかった危機に遭遇しながらも、ドストフを乗せる馬車からは、ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。
遠征隊の指揮官としてターフェスタ大公の命を預かりながら、万全とはいえない警護で帯同するエリスは、気が気ではなかった。
遠征隊は恐る恐る行進を続け、さらに奥へと進んでいく。そこはすでに、本来のムラクモ王国の領域だった。
支配する国が変われど、灰色の森が続く景色に大差はない。が、そこに敷き詰められている白道には、大いに違いが見受けられる。
高純度の夜光石が職人技で美しく加工を施されている。隙間なく敷き詰められた白い道は、ほどよく交換がなされている様子で、ターフェスタ周辺に敷かれた白道よりも遥かに洗練されていた。
足元に広がる白道から国力の差を見せつけられる思いがするが、エリスが雑念に振り回されているうちに、遠征隊は四方に道が分かれる分岐点へと辿り着いていた。
そこには、一目でわかる大きな変化が広がっていた。
左右に綺麗に別れた黄色と赤色の兵士たちが並び、遠征隊を出迎える。居並ぶ彼らの中心に長々と敷かれた赤い絨毯が色を添え、ここが深界であることを忘れさせるほど、白道の上は式典会場のように飾り付けられていた。
馬車を降りて出迎えを受けるドストフの態度は、非常にわかりやすかった。
「おお……おお……ッ」
跡取りである太子が生まれたときでも、これほどの喜びようではなかったであろう。ドストフは目を潤ませ、ムツキでそうであったように、この光景に見惚れ、感動に打ち震えている。
黄色い軍服の集団から一人が歩み出し、
「カトレイ軍指揮官、ビュリヒ・マルケ将軍であります。ターフェスタ大公殿下、ご来訪を心よりお待ちしておりました」
ドストフは辞儀をするマルケに駆け寄り、
「おお、マルケ将軍、聞いているぞ、よく働いてくれたそうだな。疲れているだろうに、深界でこれほどの歓待を受けられるとは思ってもみなかった」
「英雄であられるターフェスタ大公殿下を最敬礼で迎えるようにとの、司令官からの命令を実行したまでのこと」
マルケの発言にドストフは気を良くして、
「そうだったのか……ッ、あの若さと生まれで、このようなことにまで気が利くとは思ってもいなかった。それにしても、私を英雄であると言ったのか、あの者は」
まるで酒にでも酔ったかのように上気した顔をとろけさせる。
喜ぶ主を横目に見つつ、エリスはマルケの態度に不快さを感じずにはいられない。
歓迎のために用意された設備、兵の配置や、飾られた花々に音楽。本来は流血よりも芸術を愛するドストフの好みの急所を完全に突いた歓待だ。
敵地制圧という最大限の功績をあげながら、なおドストフの機嫌をとろうとする周到さに、エリスの知る一人の人物の顔が思い浮かぶ。
――ネディムの手配ね。
浮かれきったドストフの下に、また一人の人物が歩み寄る。老いの滲む体で膝を折り、ドストフの前で伏礼をしたその男は、
「ターフェスタ大公に拝謁いたします」
ドストフは老人の顔を覗き込み、
「そなたは……」
「カトレイより派遣されております、主計役バーナ・クロンと申します。英傑であられる大公殿下にお目にかかる機会を得られたこと、このクロンにとって終生の誉れとなりましょう」
見え透いた世辞も、へりくだった態度も、ドストフの大好物である。大勢の兵士たちの目があるなか、褒め倒されたドストフは有頂天で鼻の穴を膨らませ、老人に手を差し出した。
「立たれよ、クロン殿。そなたは我が臣下にあらず、それほどかしまって頭を下げることもない」
クロンはドストフに手を引かれつつ立ち上がり、
「感謝いたします。殿下、開戦の当初、カトレイより派遣した軍の働きに不徳がありましたことを、改めてお詫びいたします」
「なに、すべては過去のこと。カトレイもまた反省を取り入れてこうして多大なる戦果をあげてくれた。総帥には満足していると伝えておいてもらいたい」
「なによりの御言葉でございます」
クロンは感謝を述べ、マルケと同時に深々と頭を下げた。
マルケは赤絨毯の先を指さし、
「殿下、この先に休憩所をご用意しております、ユウギリへ上がる前に、よろしければ共にお食事を、深界故に些末なものではありますが、腕に自信のある者が、心づくしで用意したものをご提供いたします」
「そうか、それはありがたい、ここに至るまでの話も聞かせてもらいながら腹を満たすとしよう」
赤絨毯を踏んで歩き出したドストフに、さっとクロンが並び、
「殿下、南西地方に派遣していた軍があり、こちらも勝利を収め、三年の任期を終えて帰途についております。もし増兵をお望みであればいかがでしょう、苛烈な紛争地で任務をこなしていた歴戦の戦士たちを要する精強な軍です、これより先の東方攻めにもお役にたてるかと存じますが――」
「おおそれは心強い、是非話を聞かせてもらおう――」
腰を低く、手を揉みながらちゃっかりと商談の売り込みを始めたクロンを見て、エリスは慌てて止めに入ろうと声をあげる。だが、
「エリス、馬と人を休ませておけ。私は食事をしながら話を聞くことにする、ご苦労だった」
伸ばした手も空しく、ドストフはマルケとクロンの腕を引きながら、機嫌よく奥へと歩き去る。
「もう……」
エリスは溜息を吐いて振り、部下たちに隊の待機を指示していく。
一通りの指示を通した後、エリスはドストフの馬車の側でしゃがむ、見慣れぬ大柄な男の姿を見つけた。
大男は体格に似合わず、品良く膝を畳んでしゃがみ込み、馬車の大きな車輪の奥へ食器皿を差し入れている。
「なにをしているのです」
エリスが声をかけると大男はぎょっとした様子で肩を竦め、
「あ……ええっと、おほほほ、なんだか猫ちゃんが入り込んでたみたいで、その……」
「猫……?」
馬車の下を覗き込むがそこにはなにもなく、ただ大男が置いた食事を載せた皿だけが置かれている。
「そんなもの、どこにも見えないようですけど、深界に猫なんて」
大男は汗を浮かべながら瞬きを繰り返し、
「どこかに行っちゃったみたいッ、そうだこうしちゃいられないわ、大公様にお出しするお茶の支度をはじめなくっちゃ――」
まるで淑女のような所作で慌てて走り去って行く。
「……猫」
エリスは首を傾げ、再び馬車の下を覗くと、ついさきほどまでそこに置かれていた皿の上の食事が、綺麗さっぱりと消えていた。
エリスは空になった皿をとって、
「本当に、猫……?」
きょとんとして、綺麗に舐め取られた皿をじっと見つめた。
*
遠征隊はユウギリを置く山中に足を踏み入れる。
その頃になると、緊張した面持ちで旅を続けていた兵士たちに、ようやく安堵の気配が漂いだしていた。
山中に生息する植物の雰囲気が微妙に異なっている。
薄気味悪い灰色の森を抜けた直後に見る景色は、冬枯れの様相ではあるが、土の匂いや木々の香りは、たしかに人の生活圏を漂わせていた。
「道に窪みがあります――」
最近大雨でもあったのか、ぬかるんだ道に、大きくへこみが生じている。そのへこみは長く続き、より深く沈み込んだ箇所は小さな泥沼のようになっていた。
「迂回できる箇所を探しましょう」
エリスが言うと、
「かまうな、そのまま進め」
ドストフが窓から顔を出して促した。
「殿下、ですが――」
躊躇うエリスに、ドストフは笑みを返し、
「今の私を阻めるものはなにもない、行くのだ」
前日にマルケ将軍から受けた接待の影響もあってか、過剰なほど自信をみなぎらせているドストフの命令で、エリスの指示を待たずに御者が馬の手綱を弾かせた。
車輪の半分近くを泥にひたしながら、ドストフを乗せた馬車が前進を続ける。ゆっくりではありながらも順調に進む最中、突如馬車の片側が深く沈み込んだ。
「ぐぱッ、ごぽッ――」
馬車の底から一瞬、妙な音が聞こえるが、それどころではないエリスは、慌てて馬車に駆け寄り扉を開ける。
「殿下、馬車が沈んでいます、今すぐそこから出て下さいッ」
警護の輝士たちが慌てて馬を下り、泥沼に突っ込んでドストフに手を差し伸べようとするが、思いのほか泥沼は深く、各々が足を取られ、それどころではなかった。
呆れたエリスが、
「なにをやって――」
苛立ちを口にしたその瞬間、
「はあッ」
強い掛け声と共に、豪速で馬を走らせる輝士たちが現れた。
黄色い軍服を纏ったカトレイ軍人と思しき輝士隊の先頭に、薄い褐色肌をした高位の軍人らしき女輝士の姿がある。
女輝士は馬ごと泥沼につっこみ、
「大公殿下、こちらへ――」
手際良くドストフを馬に乗せ、巧みな馬術で泥沼をするりと抜け出した。
女輝士はドストフを乗せたまま一人で馬を降り、他のカトレイ輝士たちも同様に、その場に跪いて馬上にいるドストフに頭を垂れる。
ドストフは額に浮かんだ大汗を拭いながら、
「お、おまえたちは……」
女輝士は顔を上げ、
「カトレイ軍指揮官リ・レノア重輝士であります。アリオト軍司令官の命令を受け、殿下をお迎えにあがりました」
ドストフは頬を緩ませ、
「おお、あの者が、また……」
レノアは泥にはまった馬車を見つめ、
「山中の街道がこのようになっていたこと、把握が遅れておりました、申し訳ありません」
機嫌の良いドストフは、
「いいのだ、たいしたことではない。しかし、馬車がこうなってはな」
片側が深く沈み込んだ馬車は、そう簡単に抜け出せそうにもない。
レノアは後方へ首を振り、
「馬車については、予備のものをご用意してございます」
エリスは訝りつつ、
「用意がいいことです」
レノアは一瞬、挑戦的な笑みをエリスへ返す。
レノアは視線をドストフへ向け、
「予備の馬車を運ぶように命じられたのも、道中に殿下の身に万が一があればとの司令官の心からのこと。ですが、同時に司令官からは戦馬も一頭預かっております」
レノアの言葉を合図に、奥から一頭の黒毛が連れられてくる。
体格が良く、精悍な顔つきに、戦用の馬具が装着され、首から大公家の紋章が刺繍された真紅の布がかけられている。
気味が悪いほどに出来すぎた演出を前に、ドストフはわかりやすく目を輝かせて戦馬を見つめた。
「良い馬だ……」
レノアは、
「殿下にその気がおありであれば、この戦馬に跨がりユウギリを訪問されるのはいかがでしょう。その勇壮なお姿は、新たにターフェスタの領民となる住民たちにも多いに大公殿下の威厳を示す結果にもなりましょう」
ドストフはレノアの馬からさっと降り、泥水が跳ねるのも厭わずに、爆ぜるように戦馬の下へ駆けつける。
カトレイの兵士たちの補助を受けつつ戦馬に跨がり、
「……気に入ったぞ、感謝するレノア重輝士」
エリスは慌てて、
「殿下、慣れない地で馬にお乗りになられるのは危険です。急ぎ天幕を張らせます、馬車の乗り換えを支度するまでお休みになられては」
「いや、これ以上時間を捨てるのも惜しい。ここからは馬で向かう、明るいうちに到着し、この目で彼の地を見たいのだ。行くぞ――」
ドストフは率先して馬に跨がり、輝士たちに進行再開を命じる。
はやる気持ちがそうさせるのか、ドストフは我先に馬を走らせる。未だ泥沼に足をとられている遠征隊の兵士たちを尻目に、
「殿下のことはおまかせを」
レノアは一方的に言ってエリスに一礼し、軽やかな跳躍で馬に跨がり、ドストフの後を追いかけた。
「ちょっと待ちなさ――」
置いて行かれたエリスは、
「――急いで殿下の付き添いを」
部下たちにそう命じた。
物資と人数を抱え込んだ遠征隊は、狭い山中の道中に釘付けとなったまま、エリスは彼らに向け、
「一旦馬車を放置し、物資や荷物も最低限だけを運びます。急ぎなさい」
そう命じた。
*
往々にして、クロムの精神力は身体的な制約を凌駕する。多くの者がこれ以上は進めない、と踏みとどまる一線を易々と超える事ができるのだ。
カルセドニー家の父兄は、クロムのそうした性質を天賦の才と見て喜んだ。が、一方で大半の他人は、狂人の資質と決め付ける。
どちらが正解か、クロム本人にとってはどうでもいい、些末なことでしかない。
時に狡猾に立ち回り、時に損得を無視して愚かな行為に走る。そんなクロムは現在もまた、狡猾に、そして愚かな振る舞いに終始していた。
クロムが遠征隊の馬車に潜り込むことを決めたのは、愚かさと狡猾さを合わせ持つ、クロムならではの発想だった。
その行く着く先に敬愛する運命の主君がいるはず。一念を元にして馬車の底に忍び込み、目的地まで便乗しようという考えである。
状況や体調が落ち着くのを待って、後から一人で馬で移動する、などという常識的な考えは一片でも思うことはなく、あるのはただ、主君に早く会いたいという気持ち、ただそれのみである。
道中、休憩のたびに周囲に悟られぬように食事を盗んで飢えを満たす。何人かの兵士と目が合ったような気もするが、そんなことはどうでもいい。
快適とは言えない馬車底にへばりつく旅も、主君の顔を思い出せば、まるで苦痛ではなかった。
旅の途中、周囲の騒がしさに気づいて様子を見ると、頭の悪そうな怪物が、今にも遠征隊に襲いかかろうとしていることに気づく。
本来は淘汰されて然るべき無能な君主と、それに付き従う馬鹿者たちがどうなろうとクロムの知ったことではなかったが、目的地に辿り着くまでは彼らのちっぽけな脳みそと貧弱な足を頼りにしなくてはならない。
クロムは仕方なしに晶気を繰り、一撃を放って頭の悪そうな怪物を追い払ってやることにした。
ひとに助けられておきながら勝手に神に守られているなどとのたまう馬鹿の頭を引っぱたき、また馬車の底へと戻って行く。
遠征隊が深界に展開された友軍と合流した際に、
「なに、してるの……?」
主君の友人であるというクモカリという男に声をかけられた。
クロムは驚愕し、
「なぜわかった?!」
「前から見てたら、足やらお尻やらが見えたのよ、もう動いても平気なの?」
その時、白道に敷かれた赤絨毯の先から、美味そうなシチューの匂いが漂ってくる。直後に、クロムの腹が低く唸り声をあげ、空腹を訴えた。
クモカリは笑って、
「なにしてるのかって聞きたいところだけど、待ってなさいね、今食べる物を用意してくるから――」
そして――
短い旅を終えて現在、クロムは、馬車が沈む泥沼から、ぼうっと顔を浮かび上がらせ、ぎろりと周囲の様子を覗った。
泥水まみれになった体でどうにか這いだし、
「ふう……はあ……」
全身から水を滴らせながら、荒く呼吸を繰り返した。
見覚えのない景色が広がっている。一帯には遠征隊が置き去りにした馬車や荷車が放置され、慌てて立ち去ったのが見て取れる。
上へと昇る坂道を見上げて、
「我が君が、ここに……急がねば……」
クロムは後方に捨て置かれた馬車へと足を向ける。が、その途中で、
「おっと……?」
突如視界がぐらつき、意志に反して膝ががくりと地面に落ちた。
「なにを、している、しっかりするのだ、クロムッ」
自分を鼓舞してぐらつく意識をどうにか保つが、一瞬、クロムは自分がどこでなにをしているか、わからなくなっていた。
全身が酷く熱を帯び、左右に分厚い壁を挟んだように、周囲の音が鈍くなる。
「……だめだ、このままでは」
風邪に冒された体のまま、ここまで体力を消耗し続けながら無理を通してきた。このうえ冷たい泥水に浸かり、全身を冷気に晒しているせいで、容態はさらに悪化していく。
歯を食いしばり、どうにか馬車の中に入り込んで、仕舞われていた衣類を探し当てた。
濡れた服を着替えて兵士に支給される粗末な外套に身を包む。次に食料を探そうと考えたその時、馬車の外から複数人の会話が聞こえてきた。
「――ひひ、あいつらほとんど置いていっちまったぜ」
「――これはいらねえってことだよな? もらっちまおう、持ってかえりゃあ商人どもがケツから血を吐くぜ」
「――探せ探せ、コウモリの糞みたいに金目のもんがあるはずだ」
遠征隊の末端に配置されていた人相の悪い兵士たちだ。会話のなかに独特な言い回しの汚い言葉を混ぜながら、放置された馬車の中を物色している様子である。
その一人がクロムの入った馬車を覗き込み、
「これだ、この馬車に印をつけといたんだ、高く売れそうな毛皮が中にたっぷり――」
中にいたクロムと目を合わせた。
「――くそがッ、残ってるやつがいやがったぞ!」
「――顔を見られたなら殺せ!」
兵士が胸元に下げた短剣を抜き放つ。
ぼうっとする頭で、クロムは本能的に敵意を感じ取り、
「それを抜く前に、相手を見るべきだった――」
クロムの手中が光を帯びる。ちらりと見える色のついた彩石と、構築された奇跡の力を前にして、兵士は血の気の失せた顔で短剣を後ろへ放り投げた。
「ま、まま待ってくれッ降参す――」
クロムはとろりと溶けた目で相手を見つめ、
「遅いのだよ」
そう言った次の瞬間、兵士の頭は血肉を撒き散らし、晶気の矢によって跡形もなく吹き飛ばされていた。
「――色付きだッ、逃げろ、逃げろ!」
聴覚が鈍っているが、外から聞こえたその言葉だけは、はっきりと聞き取っていた。
「ふう……はあ……ぜえ……」
晶気を使ったせいか、全身の怠さが頂点にまで達している。
ふらつく体を支えながら馬車の外を覗くと、仰向けに倒れた先ほどの兵士の遺体が転がっていた。
周囲にあった人の気配は完全に消えていた。
クロムは酷く鈍った思考を働かせ、
「始末、せねば……ぜえ……ぜえ……」
頭部の欠けた遺体を見て、目的や理由もなく、ただそう考えた。
よれよれと遺体の足を掴み、時間をかけて近辺の草むらへと引きずっていく。その手には兵士が投げ捨てた短剣が握られていた。
遺体を生い茂った草むらに運んだ直後、突如、クロムは全身の制御を失い、
「しまった――」
その場に倒れ込む。
晶気を使い、重たい遺体を引きずったことで最後の力を使い切ったのか、全身が弛緩し、手を握りしめることすらできなくなっている。
目の前にある首なしの遺体と並んで横たわりながら、クロムは欠けた遺体の頭部に、敬愛する主君の顔を思い浮かべた。
「わが……きみ……」
その言葉を最後に、冬枯れの山中に響く音は消え、完全なる静寂の下、クロムは深い眠りへと墜ちていった。