攪乱 5
攪乱 5
冷え込みが一段と増す一日の終わり頃、下街の一角に佇む教会に、民衆が静々と足を運んでいた。
突風に煽られながら外套を抱き寄せるように着込む痩せた人々が、次々と教会の中に入っていく。彼らの目的は、定期的に行われていた食料の配給だった。
いつもであれば暖気とスープの匂いが充満する教会の中は、この日は様子が異なっていた。長い卓の上に整然と置かれていた食料はなく、室内は外よりも冷たい冷気が淀んでいる。
徐々に人が増え、ざわめきが大きくなっていく教会の中で、奥から司祭であるパデル・エヴァチが姿を現した。
エヴァチは講壇の前に立って、
「皆に配れる食料は、もうない」
そう切り出した。
騒然とする民衆は、
「そんな……急に……?!」
困惑は次第に絶望へと変わり、
「なんでなんだ!? まさか独り占めしようってんじゃ――」
身勝手な怒りへと変貌していく。
エヴァチは彼らの反応に動じることなく、困惑と怒りを一身に受け止めた後、ゆっくりと手を上げて彼らを制した。
エヴァチは重く息を吐き、
「気持ちはよくわかる。明日をも知れぬ状況で、上に立つ者たちは、人々がどれほどの苦しみに耐えているのか理解せず、しようともしない……皆に話しておこう、ここのところ私が食料を調達できていたのは、城にいる、崇高な理念をお持ちであられる高貴なお方のおかげだった。そのお方は我が身の危険も顧みず、城内に保管された食料を外に送ってくださっていたのだ」
民衆から一人が声をあげ、
「それが、無理になったんですか……?」
エヴァチは頷き、
「そうだ。食料を外へ持ち出す手段が断たれてしまった。そのお方にも、もはやどうすることもできない」
「そんな……もう食い物なんてどこにもありゃあしません、ここだけが頼りだったのに……」
一人がそう言うと、
「別地区のほうでやってる配給に入れてもらえりゃあ――」
「無理に決まってる、いくらヴィシャの旦那だって、この辺全部の面倒なんて見きれねえよ」
「もう、おしまいだ……いっそ、捕まるのも覚悟でここから逃げるしか」
「深界なんて行ったことがねえ。素人にゃ無理だ、だいたい道中の食い物だってどうするんだよ――」
止めどなく、人々から不安が溢れ出す。口々に言い合う言葉は重なり合い、喧騒となって教会の中を埋め尽くした。
その時、バンと講壇を両手の平で叩きつける強い音が鳴った。
静まり返った民衆は、その音の出所であるエヴァチをじっと見つめ、次の反応に注意を向ける。
エヴァチは、
「まもなくドストフ・ターフェスタが遠征隊を率いて戦地に向かう。あの男がここを出ている間、兵の数が減り城内は手薄になる。城へ押し入り食料庫を襲うには、またとない好機だ」
民衆たちは顔を見合わせ、
「襲うって、言ったのか、あのエヴァチ様が……?」
エヴァチは人々へ、片側からゆっくりと視線を送り、
「人を集め、手薄になった城内に機を見て侵入し、一気に中の食料を運び出す。顔を隠し、運び出した食料は速やかに安全な隠し場所へ置く。食料庫に詰められているのは使われもしない余ったものばかりだ、私はこの目で見た、あの中には食べきれないほどの食料がある、この地区の者たちが冬を越せるほどの量が……もっとかもしれない」
激しい困惑の気が漂うなか、
「俺たちが死ぬほど我慢してるってのに、城には使いもしない食い物を置いてるってのか」
次第に、声が上がり出す。
「――捕まったらどうなると思ってる」
「――殺される、だけど」
「――どっちみち、このままじゃ、死ぬだけだ」
ぎらつく目で民衆を睨むように見つめ、エヴァチは左手の甲に光る彩石を見せつけた。
「我が身には、神の奇跡を執行する石がある。共に行く者たちを、命を賭けて守ると誓おう――奪うのではない、取り返すだけだ。生きるための行いであり、神はこれを咎めるようなことはなさらない」
「――取り返す」
「――取り返すんだ」
「――奪われたものを返してもらうぞ」
暗く窪んだ目の奥に、鈍く光る決意を温めながら、夢を見る者たちが、次々とエヴァチの元へ押し寄せる。
ある者はエヴァチの足元にひざまずきながら神に祈り、ある者はエヴァチの肩に手を乗せ、協力を誓う。
熱を帯びていく人々とは対照的に、教会の片隅に佇む助祭のハースは、物言いたげな視線を黙ってエヴァチに送っていた。
エヴァチは強硬に反対していたハースを一瞥し、人々の群れに視線を戻す。
「祈るのだ、行いの成就と、神の恩寵を賜るように――」
*
大公家の旗を掲げた従者たちが整列している。
長い隊列の両翼は武装した兵士で固められ、前列を占める輝士たちの跨がる馬は、金銀宝石をちりばめた豪華な馬具で装われ、後方には楽団に神官、果ては詩人たちまでもが隊列に加わっていた。
遠征隊はドストフ・ターフェスタ大公を長として、大々的な規模で組織され、城勤めの者たちから送られる万雷の拍手と共に送り出された。
「はぁくしょッ」
出発して早々、寒さに煽られたドストフが大きなくしゃみを漏らすと、帯同する冬華六家の一人、エリス・テイファニーが馬上から声を心配そうにかけた。
「殿下、馬車にお乗り下さい、このままではお体に障ります」
ドストフは鼻水をすすりあげ、
「いや、街を出るまでは馬でいい。軍を統率する勇ましい大公として、出立から入れ物に籠もる姿など、民に見せたくはない――ふん」
ドストフは理由を語った直後、突然胸を張った姿勢で、格好を付けたようにあごを上げた。その視線の先には、同行する絵描きの姿がある。
絵描きはうんうんとしきりに頷きを繰り返し、景色を目に焼き付けるように凝視しながら、なにも持っていない手元で、絵筆をなぞるような動作を繰り返していた。
栄華の記録に余念のないドストフに、多少呆れの心地も感じつつ、エリスは周囲の警戒に鋭く目を尖らせる。
ドストフは自身の見栄えを気にしていたが、皮肉なことに、遠征隊の見送りにでている市民など、その姿をほとんど見かけることがない。
上街の商人たちがまばらに道に出て頭を下げていた程度で、遠征隊が下街を通る頃になると、街中は閑散として、そこに暮らす人々の息吹が感じられなかった。
陽の下にありながら、街は死んだ様に呼吸を止めている。
――しかたがない。
厳しい取り立てを行った直後だ、彼らの気持ちを思えば、その発案者である大公に祝福を送る気持ちになど、当然なれはしないのだろう。
街と外を隔てる門にさしかかった頃、待ち構えていたように、現れたプレーズがエリスの前で一礼した。
エリスはプレーズを厳しく見つめ、
「きちんと責務をまっとうしなさい」
プレーズは胸に手を当て、
「おまかせを。あの約束についてはどうかお忘れなく」
寒そうに肩を縮めて馬に乗るドストフを見ながら言う。
エリスは鷹揚に頷いて、
「戻ってきたときにどうなっているのか、あなたの今後の人生はそこが大きな分岐点になる。大言を吐き、過大な見返りを望んだ覚悟を見せなさい」
プレーズは嫌みなほど整った笑みを返し、
「向こうに到着の折には、東方出身の英雄殿によろしくと」
エリスは不満げに唇を噛み、
「英雄だなんて――」
視線を切って、馬を走らせた。
「ヴぇぇええっくしょい――」
爆音でドストフがくしゃみを吐きだした。
プレーズは顎をしゃくり、
「殿下を馬車に誘導したほうがいいのでは」
エリスは刺々しく、
「わかっています」
門を通過した直後に馬を止め、エリスは素早くドストフを馬車のなかに押し込んだ。
*
ユウギリの中心部に仮置きで設置された本部には、大通りに面した広場を埋め尽くすほどの天幕が張り巡らされている。
領地を占領する異国の兵士たちに対して、注意を向ける町人たちは、もはや誰も居なくなっていた。
ターフェスタ軍の兵士が武力を用いたのは一部の残党のみ。彼らはムラクモの軍人ですらなく、数日のうちにターフェスタ軍にひと飲みに鎮圧されていた。
領内の平穏が確保された後、ターフェスタ軍が行っているのは治安の維持と領内の生産や人口の調査、地形の把握といった雑務である。
司令官の強い命令によって、品行方正に振る舞い、現地での食事や買い物には正当な報酬を支払うターフェスタ軍は、もはや現地住民たちにとって、行儀の良いただの良客のような存在となっていた。
占領から日が過ぎ、街と同化しつつあるターフェスタ軍の中を、一人の少女が活発にうろついていた。
「なにか足りないのはありませんか、怖いほどよく当たる占いもあります、なんにでも効く滋養の薬に運気上昇間違いなしの魔除けのツボも――」
天幕の下を行き交う軍人たちに次々と売り込みをかけるセナを見ながら、
「いいかげん、あれをどうにかしないか」
ジェダが呆れ顔でシュオウに視線を送った。
沸かした湯を溜めた茶器を運んできたネディムはからりと笑い、
「毎朝きちんと現れては商いに励んでいる。働き者で元気なお嬢さんで、いいではありませんか、あの声があると活気を感じます」
ジェダはむすっとネディムを睨む。
シュオウは微笑と共に、駆け回るセナを見やり、
「とくに困ることもないだろ、ここに馴染んでいるだけだ」
ジェダは溜息をつき、
「君にとっての功労者とはいっても所詮は部外者だ。それに、あれはもう馴染んでいるというより、取り憑いていると言ったほうが近いんじゃ……」
セナは占い道具を背負い、土産物や薬品を入れた袋を抱えながら、脇に店の宣伝紙を挟んでいる。物を売るだけに留まらず、占いから診療、さらに商売店の宣伝まで請け負い、商いの種類は日を追うごとに種類を増している。
軽食を持って席に着いたディカは優しく笑みを浮かべ、
「私は好きですよ、セナさん。体力の落ちていた馬の滋養になる果物に、良質の塩も調達してくれましたし、この街のことをよく知っているので助かっています、とても」
食卓の上に置かれた山盛りのパンを両手で取るシガは、
「あいつの紹介で行った食い物屋は全部美味かった」
その一言に、この場にいるアガサス親子たちも含め、ジェダ以外の全員が首を縦に振り下ろした。
ジェダは全員を冷めた目で眺め、
「どうやら、僕の味方はいないらしいな」
物言いたげな視線をシュオウに釘付けにしながら、席について注がれた茶を口に運んだ。
その時、ジェダとシュオウの間にするりとセナが姿を現した。
「おはようございます、お偉方の皆さま! とても良い朝にぴったりな逸品を見つけてきましたよ、ほらこれ不思議な天秤、同じ重さの物を左右に載せても、毎回違うほうに傾きます、面白いでしょう? お安くしておきますが、いかがですか」
饒舌に商品の売り込みをするセナを前に、茶をすすりながらのジェダの鋭い視線がシュオウを捉えて離さない。
シュオウはその視線から逃れるように商品に手を伸ばすと、それよりも早くネディムが身を乗り出して天秤を掴み寄せた。
「これは、東方の地特有の紋様が刻まれている、造りも良いので逸品かもしれませんね、この地を訪れた記念品として丁度いい、私が買い取りましょう」
セナは懐から振り鐘を取り出し、
「ネディム・カルセドニー様、お買い上げありがとうございます! お客様に良い一日が訪れますようにぃ!!」
気前よく掛け声を張り上げた。
大声で告げられたカルセドニーという名に、周囲の者たちが興味を示した。掛け声が呼び水となり、ネディムが買い取った物に、遠目から興味深そうに兵士たちの視線が寄せられる。
「おお、きたきた、絶好の売り時――」
セナは好機とみるや、彼らの元まで駆け寄り、袋に詰めた商品の宣伝をはじめていた。
騒々しさをまるごと背負って、セナが離れた途端、シュオウを中心とした軍の幹部たちが集まる食卓は、一気に静けさに包まれる。
一番に沈黙を破り、シュオウはバレンに声をかける。
「住民の様子はどうだ」
「治安に乱れはなく、住民たちは我々に協力的です。本当に静かなもので、こちらが侵略軍であることを忘れそうになるほどに。大半のことに問題はありませんが……」
バレンは言いにくそうに言葉を濁し、その視線がちらとディカに向けられる。
ディカは恐る恐る、
「あの……ボウバイトになにか不手際があったでしょうか……?」
バレンは視線を迷わせつつ、喉奥で唸った。
ジェダが口を挟み、
「はっきりと言えばいい、そのために朝食を共にしているんだ」
ジェダから視線を送られ、シュオウは頷いてバレンを見やる。
「話してくれ」
バレンは畏まって頭を下げ、
「は。増援軍の兵らがなにかと……禁止を伝えているにもかかわらず、昨夜は民家に押し入り家畜に手を出そうとする者がおりました。なにかにつけ、カトレイ兵とも衝突し、各所で揉め事が後を絶えません。管轄違いで、こちら側から強く制することもできず、諫めるのに手を焼いています」
ディカは慌てて立ち上がり、
「申し訳ありません……ッ、こちらの者がご迷惑を。すぐに言ってくだされば……」
バレンは恐縮した態度で無言で小さく頭を下げる。
ネディムが柔く笑み、
「身内とはいえ出所が違う、言いにくいものですよ。ターフェスタ軍の一つとはいえ、増援軍は実質ボウバイト家の自前の軍隊なのですから」
シュオウがディカに向け、
「住民の財産に手を出せば罰を与えると言った。やった奴を見つけて捕まえろ。ボウバイト将軍と話す必要があるのなら、そうする」
硬い声でそう告げた。
ディカは一瞬怯えた顔で唾を嚥下し、
「……いいえ、私が正式に副司令としての任を引き継ぎました。処罰に関してはおまかせください。できれば調査のために、アガサス重輝士にご協力をいただいてもよろしいでしょうか」
シュオウがバレンに視線を送ると、バレンは力強く頷き返した。
「わかった、頼む」
ディカは一礼して振り返り、
「アーカイド、馬をッ」
アガサス親子らと共に颯爽と司令部から去って行く。
誰もなにも言わず、ただ勢いよく去って行くディカたちを見送った。
ネディムは手にしていた茶器を上品に回しながら、天幕の隙間から見える空を見上げた。
「変更がなければ、大公殿下の出立は今日、時の頃合いを見ても、おそらく今頃には街を出ておられるはずです。順調な旅路になればよいのですが」
ジェダが懐から地図を取り出し、卓の上に敷いて指先でとんと叩いた。
「大公を連れながら無理な旅程は組んでいないだろう。おそらく途中に点在する町や村に立ち寄りながら、ゆとりのある行進になるはずだ。出迎えの支度を整えるための時間の余裕は十分にある」
ネディムは湯気のたつ茶を一口すすり、
「東方の領土征服はドストフ様の夢でもありました。それが叶った今、上機嫌での旅路となるはずです」
きっかけもなく、皆の視線がシュオウに寄せられた。
シュオウはジェダが手で押さえる深界の地図を見つめ、
「ターフェスタ大公がユウギリをどうするのかが、今はなにより気がかりだ」
ネディムは首肯し、
「現状は安寧のうちに治まっているこの地の処遇はドストフ様の意思を反映することとなります。今は平穏に過ごしている住民たちの運命は、未だ確定はしていません」
ジェダが鼻息を落とし、
「僕らの仕事は戦い、奪い取ったところまでで終わっている。その後の心配までする必要はないだろう」
シュオウはジェダを睨み、
「住民たちは俺を信じて門を開いてくれた、彼らを見捨てるつもりはない」
シュオウとジェダ、違う意見を交わして無言で視線を交わす両者の間に、ネディムが手を上げて注意を引き寄せた。
「准砂が心配されている通り、他国の支配下に置かれた敵国の領民たちの扱いは苛烈を極めます。財産の没収に土地を奪われ、果てには強制労働の毎日。この地の住民たちがリシア教徒ではないことも考えますと、深刻さはさらに増すでしょう」
シュオウが身を乗り出し、
「そうならないようにする。考えがあれば聞かせてくれ」
ネディムは手を組んで辞儀をし、
「かしこまりました。ドストフ様は頑固者としての一面がよく知られていますが、存外素直な性格をしておられる。今はなにより上機嫌でこちらに向かって来てる最中でしょうが、到着の後にはさらに機嫌を良くしていただき、ユウギリの民への温情を賜れるよう、強く願いましょう」
ジェダが呆れた様子で椅子にもたれ、
「結局、ご主人様のご機嫌伺いをするというだけのことか」
ネディムはジェダを見て眉を上げ、
「言うほど簡単なことでもありませんよ。機嫌をとるにしても相手を見て的確なつぼを突かなければ効果はありません。その点でいえば、長くドストフ様に仕えている私がこの場にいることは幸いでした」
シュオウは強く頷き、
「わかった、大公の機嫌をとってとって、とりまくる」
不承不承な雰囲気を滲ませつつも、ジェダは同意を示して頷き、
「君の決定なら、全力で従うよ」
ネディムは改めて辞儀をして、
「では、その件についてはおまかせ……くだ、さ……」
突如、喉奥に物を詰まらせたように言い淀み、ぴたりと動作を停止する。
ネディムの挙動に不審さを感じ、
「どうした?」
シュオウは顔を覗き込みながら問うた。
ネディムは常にないほど青白い顔で、
「旅の途中に、ドストフ様が機嫌を損ねるようなことが、なにもなければいい、と考えた途端に、大事なことを思い出しました……」
飄々としているネディムには珍しいほど狼狽えた声を聞き、卓を囲む者全員が息を飲む。
ネディムは恐る恐る目線を上げ、
「大公がここに到着するまでに通過する予定の深界の拠点ムツキに、クロムを置いてきたままです――」
その名があがった直後、全員が表情を固めて、息を飲んだ。
*
城塞ムツキに戦鼓の音が鳴り響く。
ドン、ドン、と規則的な音が響き、太鼓の音は徐々に勢いを増して小刻みに勇壮な音色を轟かせる。
複数の戦鼓の音が徐々に重なり合い、重音を奏でた後に最後の一音が、地鳴りのようにムツキに木霊した。
直後、寝台の上に縄で縛り付けられていたクロム・カルセドニーは、
「ワガ、キミぃ……」
深く閉ざしていた目を全開にして見開いて、その一言を呟いた。